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「三人姉妹」で、マーシャがどんな風に活かされるかと楽しみにしていた。三人の女性の中では、一番性格的に色彩が強い。その強さが内面的で、動作はごく簡単だがひどく意味深い。マーシャを演じる俳優は、少い台詞と台詞との間に、内へ内へと拡り燃え活動しているマーシャの魂全体を捕えていなければならない。人間として密度の細かい心の疲れる性質と思われる。
 芸術座の人々が、自分達の持って生れた言葉でやってさえ、なかなかうまく行かなかったのだそうだから、翻訳文の欠点が当然つきまとう外国語でして、いきなり本物になれないのは寧ろあたりまえであろう。然し、マーシャが自分にひどく物足りなかったのは、其理由だけではないようだ。――勿論マーシャの心持全部をそれだけで象徴しているあの、緑なす樫の詩句が、何処か我々に耳遠い「……ありき」と云う調子で第一に暗誦された為、マーシャが変にいやみに、思わせぶりになったと云うことも無くはないが――其那ことでも、慾を云えば、女優の技倆一つで苦にさせずにすむのではあるまいかとも思う。マーシャがプーシュキンの詩を、彼那に度々繰返さずにいられないのは何故か、其は単に彼女の文学的教養のさせる業でもなければ、感傷癖からでもない。彼女はこみあげて来る心に堪えかねて呻くのだ、その呻きとプーシュキンの詩句とがきっちり結びつけて離れない。そういうものだろうと思う。マーシャを演じた女優は、此点、掴みようが足りなく感じられた。そして、其が全般に及ぼしているらしく思われた。
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 検察官や夜の宿の時も強く感じたのだが、私共は、俳優諸君が劇中の人物として、何かしながら気軽に口笛を吹いたり、一寸巧者にピアノに触ろうとしたり、鼻歌でも唱おうとする時、何故とも知らず居心地わるい程、跋のわるさ、危ッかしさを感じるのはどうしたことだろう。すっかり劇中のヨーロッパ人になったつもりなのが、其場になると、何だか互に知り合った内気な日本人が舞台の上で覗き出すように思われるのだ。――可笑しい。早くなくなっては欲しいが、考えるとつい微笑する。
〔一九二五年六月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「文芸春秋」
   1925(大正14)年6月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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