一 講演

 作家で講演好きというたちの人は、どっちかといえば少なかろう。私には苦手である。テーブル・スピーチでも、時と場合とでは相当に閉口する。昔は、大勢のひとの前に自分一人立って物をいうなどということはとても出来なかった。体じゅう熱くなるばかりで、人の顔や声がぼーっと遠のいたようになるのであった。
 人前で物をいうようになったきっかけは、奇妙なことにモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)にいた時である。三月の或る記念日に、或るクラブへ行った。皆の腰かけている平土間の座席におられるものと思いこんで行ったら、その横を通りすぎて、計らずも数人の人の並んでいる演台の上へ案内されてしまった。裏のところで案内して来たひとに、私は何も話しに来たのではないんですからと再三たのむのだけれども、きっと日本の女を、皆の見えるところへ出したいと思ったのだろう。私は万策つきた形で、小高い台の上に並んでかけた。その時話していた人のその日の記念日のわけを説明する講演が終ったら、演台の下にひかえている音楽隊が高らかに、あっちの国歌になっている歌の一節を奏した。そしたら、司会者が、いきなり、今度は日本の女の人が皆に挨拶をするからといってしまった。
 私は通訳をしてくれる人もその席には持っていないのだから途方に暮れ、到頭立って、私はロシア語はまだ話せない、モスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)へ三月前に来たばっかりです、私のいうこと、分りますか? そういう調子で十言か二十言話した。出来ない言葉を対手に分らせようとする熱中から私は不思議にその時聴衆の顔がはっきり見えた。私が「分りますか」というと「分る、心配するな」といってくれる髯の爺さんの笑っている顔もはっきり、よろこびをもって認めることが出来た。
 これは小さい経験であるが私には教訓となった。自分に分って貰おうと思う誠意と話したいことがあり、聴衆を信ずれば、人前で話すことも恐くはない。そういうことが会得された。それ以来、必要な時には、私は聴衆がそこに来ている心持の或る面と自分の心持の或る面との接触を信じて講演をするようになった。
 窪川稲子と一緒にそういう場所に出ることが一度ならずあった。彼女も講演は苦手の方で、壇に上るまでも、上ってからもどこか困ったような風をしている。いよいよ自分の番が近づくと、「何だか寒いねえ、私、一寸おしっこに行って来る」暫くすると私も何だか落付かなくなって「本当に寒いんだね、今夜は」と出かける。しまいには、二人連立って「なんだろう、私たち! 本当に寒いのかしら」「怪しいね」等とハアハア笑いながら、やっぱりじき笑うのをやめ、生真面目な顔になってそれぞれドアの中に姿をかくすのであった。

        二 原稿紙

 このごろ油絵具が大層高価になった。もと、ルフランのを買っていたひとが、買えなくなる有様である。小説を書くひとは、絵具代がいらないから仕合せですね、絵描きはその点辛いです。そういう話がよく出る。それは物を書くひとは、ペンとインクと原稿紙があれば事が足りると、一応いえるであろう。もしそのペン、インクがなければ鉛筆一本で足りさせることが出来る。原稿紙がなければ普通のノートで間に合わせられる。ひどい時には一枚ずつ質も色も形もちがう紙の上にだって書ける。私はそういう小説の原稿を見たことがある。『女工と農婦』という女のための雑誌がレーニングラードで出ていて、そこの編輯所を訪問したら、主任の女のひとが自分のテーブルの抽斗ひきだしから、一束の黄色や白のバラバラの型の紙束に鉛筆で何か書いてあるものを見せてくれた。そして、「これが今、この雑誌で呼びものになっている長篇小説の原稿です。作者は四十五の女工ですよ」といった。
 私は十七、八の頃は、文房堂の原稿紙をつかった。それは二十四字詰かで、書いたものが印刷されるようになっても、普通二十字詰がつかわれることを知らずに、それをつかっていた。そしたら何かの折、誰かがそのことを教えてくれ、慾も出て、ずっと二十字詰を使うようになった。
 その時分から松屋のを使いはじめ、永年、そればかりをつかっていたら、二、三年前、体がひどく疲労したことがあって、その弱っている視力に松屋のダーク・ブルーの、どっちかというと堅い感じの枠が大変苦しく窮屈に感じられた。困った、といっていたら、友達が盛文堂という店の原稿紙を紹介してくれた。その中で、赤っぽいインクで刷ってある大判のが、枠の形も周囲の余白もたっぷりしていて、柔らかみもあり、気に入った。それを使って安心していたら、去年の煙草値上げ前後から紙質が急に悪くなった。元のと比べて見ると、枠の横もつまり、余白もせまくなり、判全体がほんのすこしずつ縮んでいる。私はいやな気がした。盛文堂では、この頃売込んだので質を悪くしたと思った。そのことを仲つぎしている若い人に話したら、その男も「ハア、そうですか。この分のは紙がわるくなっていると矢張りよそさんから苦情が出ております」と小頸を傾けた。二日ばかりして、また来ていうことには、「どうも弱りました。製紙会社が合同して王子へ独占になったような形なので、競争がなくなったもんですから、一般に紙質をわるくしてしまったんだそうです。同じ名や番号の紙でもやっぱり質は下って来ているんで、どうも……」と頸のうしろへ手を当てた。
 丸善の原稿紙は紙はよいが、型の小ささやインクの色などがアカデミックで、私たち向きの小説向きでない。きっと益々紙の質は、わるくなる世の中だろうと思っている。

        三 きのうの相場

 一月の中ごろに、引越しをして小さな家を持った。これまで家を持たなかったわけではないから、いろいろな世帯道具は大体古くからのがあったが、鍋や釜、火箸、金じゃくし、灰ふるい、五徳、やかんの類は、そう大していいものをつかっていた訳もないので、みんなどっかへとんでしまったり、悪くなったりしていて役に立たない。引越しの手伝いをしてくれた女のひとが、さし当りの入用品として、それらの品物を近所でそろえてくれた。かえって来て、釜、庖丁の類を私の前に並べ「マア、おっかないみたいなもんですよ。このお釜は、きのうの相場なんですって」といった。鉄類は一日一日、朝と夜とで相場が高くなって来ている。特別勉強してこの釜だけはきのうの相場で売って上げるというわけなのであった。このお釜は大きすぎるんじゃないのかしらといったら、その女のひとは真剣な目づかいで、だって、もしあなた、今に大きいのがいるったって、これから先どんなことになるか知れたもんじゃありませんから、これ位のがいいんですよ、というのであった。
 雪じるしのバタが半ポンドについて十銭あがりました。牛肉も相すみませんが今年から一斤について十銭あがります。パン値上げお知らせ。白菜は一株について四十銭ですよ。どうぞそのおつもりでお香物もあがって下さい。
 私が初めて世帯をもったのは、丁度ヨーロッパ大戦が終ってほどない時代であった。初めて女房の心持で、白砂糖を買ったら、何でも一斤五十銭の上した。私はおどろいて、一体どうして暮して行くのだろうかと考え考え、小っぽけな砂糖袋をもって、お七で有名な吉祥寺の前の春の通りを歩いて行ったことを覚えている。その頃は刺身が一人前五十銭であった。
 喫茶店をやっている人が来て、近々その店を閉めて、子供の予習所にするという話をした。砂糖その他が高くなって、今まで十銭のコーヒーであったのを十五銭にしなければ合わなくなった。喫茶店で出すマッチね、あれは紙なしで――表紙に貼ってあるペーパーなしで、千箱入三円三十銭だったのが四円になったんだから、参りますよ。煙草の増税で二千万円ばかり収入があったそうだが、七割はバットだってね。バットは一個について一銭だから、率は一等すけないみたいなんだが、何しろ皆が喫うもんだから。――考えたもんだね。といいながらそのひとは自分もバットの吸いがらを、唇をやきそうなところまで無理してふかしているのであった。
 去年の秋から暮にかけて、恋愛論が大分流行して、ものの分った女のひとたちが、それについて随分論じた。一方で、食うもの、住むもの、著るものが騰る、騰るといわれ、一方で恋愛論花咲き、私は何かそこに簡単にいい切れぬ苦しい感情を犇々ひしひしと抱くのであった。
〔一九三七年二月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「東京日日新聞」
   1937(昭和12)年2月9〜11日号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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