梅雨期にはいるちょっと前で、トランクを提げて歩いている尾田は、十分もたたぬ間にはやじっとり肌が汗ばんで来るのを覚えた。ずいぶん辺鄙な処なんだなあと思いながら、人気の無いのを幸い、今まで眼深にかぶっていた帽子をずり上げて、木立を透かして遠くを眺めた。見渡す限り青葉で覆われた武蔵野で、その中にぽつんぽつんと蹲っている藁屋根が何となく原始的な寂蓼を忍ばせていた。まだ蝉の声も聞こえぬ静まった中を、尾田はぽくぽくと歩きながら、これから後自分はいったいどうなって行くのであろうかと、不安でならなかった。真黒い渦巻の中へ、知らず識らず墜ち込んで行くのではあるまいか、今こうして黙々と病院へ向かって歩くのが、自分にとっていちばん適切な方法なのだろうか、それ以外に生きる道はないのであろうか、そういう考えが後から後からと突き上がって来て、彼はちょっと足を停めて林の梢を眺めた。やっぱり今死んだ方が良いのかもしれない。梢には傾き初めた太陽の光線が若葉の上を流れていた。明るい午後であった。
病気の宣告を受けてからもう半年を過ぎるのであるが、その間に、公園を歩いている時でも街路を歩いている時でも、樹木を見ると必ず枝ぶりを気にする習慣がついてしまった。その枝の高さや、太さなどを目算して、この枝は細すぎて自分の体重を支えきれないとか、この枝は高すぎて登るのに大変だなどという風に、時には我を忘れて考えるのだった。木の枝ばかりでなく、薬局の前を通れば幾つも睡眠剤の名前を想い出して、眠っているように安楽往生をしている自分の姿を思い描き、汽車電車を見るとその下で悲惨な死を遂げている自分を思い描くようになっていた。けれどこういう風に日夜死を考え、それがひどくなって行けば行くほど、ますます死にきれなくなって行く自分を発見するばかりだった。今も尾田は林の梢を見上げて枝の具合を眺めたのだったが、すぐ貌をしかめて黙々と歩き出した。いったい俺は死にたいのだろうか、生きたいのだろうか、俺に死ぬ気が本当にあるのだろうか、ないのだろうか、と自ら質してみるのだったが、結局どっちとも判断のつかないまま、ぐんぐん歩を早めていることだけが明瞭に判るのだった。死のうとしている自分の姿が、一度心の中にはいって来ると、どうしても死にきれない、人間はこういう宿命を有っているのだろうか。
二日前、病院へはいることが定まると、急にもう一度試してみたくなって江の島まで出かけて行った。今度死ねなければどんな処へでも行こう、そう決心すると、うまく死ねそうに思われて、いそいそと出かけて行ったのだったが、岩の上に群がっている小学生の姿や、茫漠と煙った海原に降り注いでいる太陽の明るさなどを見ていると、死などを考えている自分がひどく馬鹿げて来るのだった。これではいけないと思って、両眼を閉じ、なんにも見えない間に飛び込むのがいちばん良いと岩頭に立つと急に助けられそうに思われて仕様がないのだった。助けられたのでは何にもならない、けれど今の自分はとにかく飛び込むという事実がいちばん大切なのだ、と思い返して波の方へ体を曲げかけると、「今」俺は死ぬのだろうかと思い出した。「今」どうして俺は死なねばならんのだろう、「今」がどうして俺の死ぬ時なんだろう、すると「今」死ななくても良いような気がして来るのだった。そこで買って来たウイスキーを一本、やけにたいらげたが少しも酔いが廻って来ず、なんとなく滑稽な気がし出してからからと笑ったが、赤い蟹が足もとに這って来るのを滅茶に踏み殺すと急にどっと瞼が熱くなって来たのだった。非常に真剣な瞬間でありながら、油が水の中へはいったように、その真剣さと心が遊離してしまうのだった。そして東京に向かって電車が動き出すと、また絶望と自嘲が蘇えって来て、暗憺たる気持になったのであるが、もうすでに時は遅かった。どうしても死にきれない、この事実の前に彼は項垂れてしまうよりほかにないのだった。
一時も早く目的地に着いて自分を決定するほかに道はない。尾田はそう考えながら背の高い柊の垣根に沿って歩いて行った。正門まで出るにはこの垣をぐるりと一巡りしなければならなかった。彼はときどき立ち止まって、額を垣に押しつけて院内を覗いた。おそらくは患者たちの手で作られているのであろう、水々しい蔬菜類の青葉が眼の届かぬかなたまでも続いていた。患者の住んでいる家はどこに在るのかと注意して見たが、一軒も見当たらなかった。遠くまで続いたその菜園の果てに、森のように深い木立が見え、その木立の中に太い煙突が一本大空に向かって黒煙を吐き出していた。患者の生活もそのあたりにあるのであろう。煙突は一流の工場にでもあるような立派なもので、尾田は、病院にどうしてあんな巨きな煙突が必要なのか、怪しんだ。あるいは焼き場の煙突かもしれぬと思うと、これから行く先が地獄のように思われて来た。こういう大きな病院のことだから、毎日夥しい死人があるのであろう、それであんな煙突も必要なのに違いないと思うと、にわかに足の力が抜けて行った。だが歩くに連れて展開して行く院内の風景が、また徐々に彼の気持を明るくして行った。菜園と並んで、四角に区切られた苺畑が見え、その横には模型を見るように整然と組み合わされた葡萄棚が、梨の棚と向かい合って見事に立体的な調和を示していた。これも患者たちが作っているのであろうか、今まで濁ったような東京に住んでいた彼は、思わず素晴らしいものだと呟いて、これは意想外に院内は平和なのかもしれぬと思った。
道は垣根に沿って一間くらいの幅があり、垣根の反対側の雑木林の若葉が、暗いまでに被さっていた。彼が院内を覗きのぞきしながら、ちょうど梨畑の横まで来た時、おおかたこの近所の百姓とも思われる若い男が二人、こっちへ向いて歩いて来るのが見え出した。彼らは尾田と同じように院内を覗いては何か話し合っていた。尾田は嫌な処で人に会ってしまったと思いながら、ずり上げてあった帽子を再び深く被ると、下を向いて歩き出した。尾田は病気のために片方の眉毛がすっかり薄くなっており、代わりに眉墨が塗ってあった。彼らは近くまで来ると急に話をぱたりとやめ、トランクを提げた尾田の姿を、好奇心に充ちた眼差しで眺めて通り過ぎた。尾田は黙々と下を向いていたが、彼らの眼差しを明瞭に心に感じ、この近所の者であるなら、こうして入院する患者の姿をもう幾度も見ているに相違ないと思うと、屈辱にも似たものがひしひしと心に迫って来るのだった。
彼らの姿が見えなくなると、尾田はそこへトランクを置いて腰を下ろした。こんな病院へはいらなければ生を完うすることのできぬ惨めさに、彼の気持は再び曇った。眼を上げると首を吊すに適当な枝は幾本でも眼についた。この機会にやらなければいつになってもやれないに違いない、あたりを一わたり眺めて見たが、人の気配はなかった。彼は眸を鋭く光らせると、にやりと笑って、よし今だと呟いた。急に心が浮きうきして、こんな所で突然やれそうになって来たのを面白く思った。綱はバンドがあれば充分である。心臓の鼓動が高まって来るのを覚えながら、彼は立ち上がってバンドに手を掛けた。その時突然、激しい笑う声が院内から聞こえて来たので、ぎょっとして声の方を見ると、垣の内側を若い女が二人、何か楽しそうに話し合いながら葡萄棚の方へ行くのだった。見られたかな、と思ったが、始めて見る院内の女だったので、急に好奇心が出て来て、急いでトランクを提げると何喰わぬ顔で歩き出した。横目を使って覗いて見ると、二人とも同じ棒縞の筒袖を着、白い前掛が背後から見る尾田の眼にもひらひらと映った。貌形の見えぬことに、ちょっと失望したが、後ろ姿はなかなか立派なもので、頭髪も黒々と厚いのが無造作に束ねられてあった。無論患者に相違あるまいが、どこ一つとして患者らしい醜悪さがないのを見ると、何故ともなく尾田はほっと安心した。なお熱心に眺めていると、彼女らはずんずん進んで行って、ときどき棚に腕を伸ばし、房々と実ったころのことでも思っているのか、葡萄を採るような手付をしては、顔を見合わせてどっと笑うのだった。やがて葡萄畑を抜けると、彼女らは青々と繁った菜園の中へはいって行ったが、急に一人がさっと駈け出した。後の一人は腰を折って笑い、駈けて行く相手を見ていたが、これもまた後を追ってばたばたと駈け出した。鬼ごっこでもするように二人は、尾田の方へ横貌をちらちら見せながら、小さくなって行くと、やがて煙突の下の深まった木立の中へ消えて行った。尾田はほっと息を抜いて女の消えた一点から眼を外らすと、とにかく入院しようと決心した。
すべてが普通の病院と様子が異なっていた。受付で尾田が案内を請うと四十くらいの良く肥えた事務員が出て来て、
「君だな、尾田高雄は、ふうむ」
と言って尾田の貌を上から下から眺め廻すのであった。
「まあ懸命に治療するんだね」
無造作にそう言ってポケットから手帳を取り出し、警察でされるような厳密な身許調査を始めるのだった。そしてトランクの中の書籍の名前まで一つひとつ書き記されると、まだ二十三の尾田は、激しい屈辱を覚えるとともに、全然一般社会と切り離されているこの病院の内部にどんな意外なものが待ち設けているのかと不安でならなかった。それから事務所の横に建っている小さな家へ連れて行かれると、
「ここでしばらく待っていてください」
と言って引きあげてしまった。後になってこの小さな家が外来患者の診察室であると知った時尾田は喫驚したのであったが、そこには別段診察器具が置かれてある訳でもなく、田舎駅の待合室のように、汚れたベンチが一つ置かれてあるきりであった。窓から外を望むと松栗檜欅などが生え繁っており、それらを透して遠くに垣根が眺められた。尾田はしばらく腰を下ろして待っていたが、なんとなくじっとしていられない思いがし、いっそ今の間に逃げ出してしまおうかと幾度も腰を上げてみたりした。そこへ医者がぶらりとやって来ると、尾田に帽子を取らせ、ちょっと顔を覗いて、
「ははあん」
と一つ頷くと、もうそれで診察はお終いだった。もちろん尾田自身でも自ら癩に相違ないとは思っていたのであるが、
「お気の毒だったね」
癩に違いないという意を含めてそう言われた時には、さすがにがっかりして一度に全身の力が抜けて行った。そこへ看護手とも思われる白い上衣をつけた男がやって来ると、
「こちらへ来てください」
と言って先に立って歩き出した。男に従って尾田も歩き出したが、院外にいた時のどことなくニヒリスティクな気持が消えて行くとともに、徐々に地獄の中へでも堕ち込んで行くような恐怖と不安を覚え始めた。生涯取り返しのつかないことをやっているように思われてならないのだった。
「ずいぶん大きな病院ですね」
尾田はだんだん黙っていられない思いがしてきだしてそう訊ねると、
「十万坪」
ぽきっと木の枝を折ったように無愛想な答え方で、男はいっそう歩調を早めて歩くのだった。尾田は取りつく島を失った想いであったが、葉と葉の間に見えがくれする垣根を見ると、
「全治する人もあるのでしょうか」
と知らず識らずの中に哀願的にすらなって来るのを、腹立たしく思いながら、やはり訊かねばおれなかった。
「まあ一生懸命に治療してごらんなさい」
男はそう言ってにやりと笑うだけだった。あるいは好意を示した微笑であったかもしれなかったが、尾田には無気味なものに思われた。
二人が着いた所は、大きな病棟の裏側にある風呂場で、すでに若い看護婦が二人で尾田の来るのを待っていた。耳まで被さってしまうような大きなマスクを彼女らはかけていて、それを見ると同時に尾田は、思わず自分の病気を振り返って情けなさが突き上がって来た。
風呂場は病棟と廊下続きで、獣を思わせる嗄れ声やどすどすと歩く足音などが入り乱れて聞こえてきた。尾田がそこへトランクを置くと、彼女らはちらりと尾田の貌を見たが、すぐ視線を外らして、
「消毒しますから……」
とマスクの中で言った。一人が浴槽の蓋を取って片手を浸しながら、
「良いお湯ですわ」
はいれと言うのであろう、そう言ってちらと尾田の方を見た。尾田はあたりを見廻したが、脱衣籠もなく、ただ、片隅に薄汚ない蓙が一枚敷かれてあるきりで、
「この上に脱げと言うのですか」
と思わず口まで出かかるのをようやく押えたが、激しく胸が波立って来た。もはやどん底に一歩を踏み込んでいる自分の姿を、尾田は明瞭に心に描いたのであった。この汚れた蓙の上で、全身虱だらけの乞食や、浮浪患者が幾人も着物を脱いだのであろうと考え出すと、この看護婦たちの眼にも、もう自分はそれらの行路病者と同一の姿で映っているに違いないと思われて来て、怒りと悲しみが一度に頭に上るのを感じた。逡巡したが、しかしもうどうしようもない、半ば自棄気味で覚悟を定めると、彼は裸になり、湯ぶねの蓋を取った。
「何か薬品でもはいっているのですか」
片手を湯の中に入れながら、さっきの消毒という言葉がひどく気がかりだったので訊いてみた。
「いいえ、ただのお湯ですわ」
良く響く、明るい声であったが、彼女らの眼は、さすがに気の毒そうに尾田を見ていた。尾田はしゃがんでまず手桶に一杯を汲んだが、薄白く濁った湯を見るとまた嫌悪が突き出て来そうなので、彼は眼を閉じ、息をつめて一気にどぼんと飛び込んだ。底の見えない洞穴へでも墜落する思いであった。すると、
「あのう、消毒室へ送る用意をさせて戴きますから――」
と看護婦の一人が言うと、他の一人はもうトランクを開いて調べ出した。どうとも自由にしてくれ、裸になった尾田は、そう思うよりほかになかった。胸まで来る深い湯の中で彼は眼を閉じ、ひそひそと何か話し合いながらトランクを掻き廻している彼女らの声を聞いているだけだった。絶え間なく病棟から流れて来る雑音が、彼女らの声と入り乱れて、団塊になると、頭の上をくるくる廻った。その時ふと彼は故郷の蜜柑の木を思い出した。笠のように枝を厚ぼったく繁らせたその下でよく昼寝をしたことがあったが、その時の印象が、今こうして眼を閉じて物音を聞いている気持と一脈通ずるものがあるのかもしれなかった。また変な時に思い出したものだと思っていると、
「おあがりになったら、これ、着てください」
と看護婦が言って新しい着物を示した。垣根の外から見た女が着ていたのと同じ棒縞の着物であった。
小学生にでも着せるような袖の軽い着物を、風呂からあがって着け終わった時には、なんという見窄らしくも滑稽な姿になったものかと尾田は幾度も首を曲げて自分を見た。
「それではお荷物消毒室へ送りますから――。お金は拾壱円八十六銭ございました。二、三日の中に金券と換えて差し上げます」
金券、とは初めて聞いた言葉であったが、おそらくはこの病院のみで定められた特殊な金を使わされるのであろうと尾田はすぐ推察したが、初めて尾田の前に露呈した病院の組織の一端を摘み取ると同時に、監獄へ行く罪人のような戦慄を覚えた。だんだん身動きもできなくなるのではあるまいかと不安でならなくなり、親爪をもぎ取られた蟹のようになって行く自分のみじめさを知った。ただ地面をうろうろと這い廻ってばかりいる蟹を彼は思い浮かべて見るのであった。
その時廊下の向こうでどっと挙がる喚声が聞こえて来た。思わず肩を竦めていると、急にばたばたと駈け出す足音が響いて来た。とたんに風呂場の入口の硝子戸が開くと、腐った梨のような貌がにゅっと出て来た。尾田はあっと小さく叫んで一歩後ずさり、顔からさっと血の引くのを覚えた。奇怪な貌だった。泥のように色艶が全くなく、ちょっとつつけば膿汁が飛び出すかと思われるほどぶくぶくと脹らんで、その上に眉毛が一本も生えていないため怪しくも間の抜けたのっぺら棒であった。駈け出したためか昂奮した息をふうふう吐きながら、黄色く爛れた眼でじろじろと尾田を見るのであった。尾田はますます眉を窄めたが、初めてまざまざと見る同病者だったので、恐る恐るではあるが好奇心を動かせながら、幾度も横目で眺めた。どす黒く腐敗した瓜に鬘を被せるとこんな首になろうか、顎にも眉にも毛らしいものは見当たらないのに、頭髪だけは黒々と厚味をもったのが、毎日油をつけるのか、櫛目も正しく左右に分けられていた。顔面とあまり不調和なので、これはひょっとすると狂人かもしれぬと尾田が、無気味なものを覚えつつ注意していると、
「何を騒いでいたの」
と看護婦が訊いた。
「ふふふふふ」
と彼はただ気色の悪い笑い方をしていたが、不意にじろりと尾田を見ると、いきなりぴしゃりと硝子戸を閉めて駈けだしてしまった。
やがてその足音が廊下の果てに消えてしまうと、またこちらへ向かって来るらしい足音がこつこつと聞こえ出した。前のに比べてひどく静かな足音であった。
「佐柄木さんよ」
その音で解るのであろう。彼女らは貌を見合わせて頷き合う風であった。
「ちょっと急がしかったので、遅くなりました」
佐柄木は静かに硝子戸を開けてはいって来ると、まずそう言った。背の高い男で、片方の眼がばかに美しく光っていた。看護手のように白い上衣をつけていたが、一目で患者だと解るほど、病気は顔面を冒していて、眼も片方は濁っており、そのためか美しい方の眼がひどく不調和な感じを尾田に与えた。
「当直なの?」
看護婦が彼の貌を見上げながら訊くと、
「ああ、そう」
と簡単に応えて、
「お疲れになったでしょう」
と尾田の方を眺めた。貌形で年齢の判断は困難だったが、その言葉の中には若々しいものが満ちていて、横柄だと思えるほど自信ありげな物の言いぶりであった。
「どうでした、お湯熱くなかったですか」
初めて病院の着物を纏うた尾田のどことなくちぐはぐな様子を微笑して眺めていた。
「ちょうどよかったわね、尾田さん」
看護婦がそう引き取って尾田を見た。
「ええ」
「病室の方、用意できましたの?」
「ああ、すっかりできました」
と佐柄木が応えると、看護婦は尾田に、
「この方佐柄木さん、あなたがはいる病室の附添いさんですの。解らないことあったら、この方にお訊きなさいね」
と言って尾田の荷物をぶら提げ、
「では佐柄木さん、よろしくお願いしますわ」
と言い残して出て行ってしまった。
「僕尾田高雄です、よろしく――」
と挨拶すると、
「ええ、もう前から存じております。事務所の方から通知がありましたものですから」
そして、
「まだ大変お軽いようですね、なあに癩病恐れる必要ありませんよ。ははは、ではこちらへいらしてください」
と廊下の方へ歩き出した。
木立を透して寮舎や病棟の電燈が見えた。もう十時近い時刻であろう。尾田はさっきから松林の中に佇立してそれらの灯を眺めていた。悲しいのか不安なのか恐ろしいのか、彼自身でも識別できぬ異常な心の状態だった。佐柄木に連れられて初めてはいった重病室の光景がぐるぐると頭の中を廻転して、鼻の潰れた男や口の歪んだ女や骸骨のように目玉のない男などが眼先にちらついてならなかった。自分もやがてはああ成り果てて行くであろう、膿汁の悪臭にすっかり鈍くなった頭でそういうことを考えた。半ば信じられない、信じることの恐ろしい思いであった。――膿がしみ込んで黄色くなった繃帯やガーゼが散らばった中で黙々と重病人の世話をしている佐柄木の姿が浮かんで来ると、尾田は首を振って歩き出した。五年間もこの病院で暮らしたと尾田に語った彼は、いったい何を考えて生き続けているのであろう。
尾田を病室の寝台に就かせてからも、佐柄木は急がしく室内を行ったり来たりして立ち働いた。手足の不自由なものには繃帯を巻いてやり便をとってやり、食事の世話すらもしてやるのであった。けれどもその様子を静かに眺めていると、彼がそれらを真剣にやって病人たちをいたわっているのではないと察せられるふしが多かった。それかと言ってつらく当たっているとはもちろん思えないのであるが、何となく傲然としているように見受けられた。崩れかかった重病者の股間に首を突っ込んで絆創膏を貼っているような時でも、決していやな貌を見せない彼は、いやな貌になるのを忘れているらしいのであった。初めて見る尾田の眼に異常な姿として映っても、佐柄木にとっては、おそらくは日常事の小さな波の上下であろう。仕事が暇になると尾田の寝室へ来て話すのであったが、彼は決して尾田を慰めようとはしなかった。病院の制度や患者の日常生活について訊くと、静かな調子で説明した。一語も無駄を言うまいと気を配っているような説明の仕方だったが、そのまま文章に移して良いと思われるほど適切な表現で尾田は一つひとつ納得できた。しかし尾田の過去についても病気の具合についても、何一つとして尋ねなかった。また尾田の方から彼の過去を尋ねてみても、彼は笑うばかりで決して語ろうとはしなかった。それでも尾田が、発病するまで学校にいたことを話してからは、急に好意を深めて来たように見えた。
「今まで話相手が少なくて困っておりました」
と言った佐柄木の貌には明らかによろこびが見え、青年同志としての親しみが自ずと芽生えたのであった。だがそれと同時に、今こうして癩者佐柄木と親しくなって行く自分を思い浮かべると尾田は、いうべからざる嫌悪を覚えた。これではいけないと思いつつ本能的に嫌悪が突き上がって来てならないのであった。
佐柄木を思い病室を思い浮かべながら、尾田は暗い松林の中を歩き続けた。どこへ行こうという的がある訳ではなかった。眼をそ向ける場所すらない病室が耐えられなかったから飛び出して来たのだった。
林を抜けるとすぐ柊の垣にぶつかってしまった。ほとんど無意識的に垣根に縋ると、力を入れてゆすぶってみた。金を奪われてしまった今はもう逃走することすら許されていないのだった。しかし彼は注意深く垣を乗り越え始めた。どんなことがあってもこの院内から出なければならない。この院内で死んではならないと強く思われたのだった。外に出るとほっと安心し、あたりをいっそう注意しながら雑木林の中へはいって行くと、そろそろと帯を解いた。俺は自殺するのでは決してない。ただ、今死なねばならぬように決定されてしまったのだ、何者が決定したのかそれは知らぬ、がとにかくそうすべて定まってしまったのだと口走るように呟いて、頭上の栗の枝に帯をかけた。風呂場で貰った病院の帯は、繩のようによれよれとなっていて、じっくりと首が締まりそうであった。すると、病院で貰った帯で死ぬことがひどく情けなくなってき出した。しかし帯のことなどどうでも良いではないかと思いかえして、二、三度試みに引っ張ってみると、ぽってりと青葉を着けた枝がゆさゆさと涼しい音をたてた。まだ本気に死ぬ気ではなかったが、とにかく端を結わえてまず首を引っかけてみると、ちょうど具合良くしっくりと頸にかかって、今度は顎を動かせて枝を揺ってみた。枝がかなり太かったので顎ではなかなか揺れず、痛かった。もちろんこれでは低すぎるのであるが、それならどれくらいの高さが良かろうかと考えた。縊死体というのはたいてい一尺くらいも頸が長くなっているものだともう幾度も聞かされたことがあったので、嘘かほんとか解らなかったが、もう一つ上の枝に帯を掛ければ申し分はあるまいと考えた。しかし一尺も頸が長々と伸びてぶら下がっている自分の死状はずいぶん怪しげなものに違いないと思いだすと、浅ましいような気もして来た。どうせここは病院だから、そのうちに手ごろな薬品でもこっそり手に入れてそれからにした方がよほどよいような気がして来た。しかし、と首を掛けたまま、いつでもこういうつまらぬようなことを考え出しては、それに邪魔されて死ねなかったのだと思い、そのつまらぬことこそ自分をここまでずるずると引きずって来た正体なのだと気付いた。それでは――と帯に頸を載せたまま考え込んだ。
その時かさかさと落ち葉を踏んで歩く人の足音が聞こえて来た。これはいけないと頸を引っ込めようとしたとたんに、穿いていた下駄がひっくり返ってしまった。
「しまった」
さすがに仰天して小さく叫んだ。ぐぐッと帯が頸部に食い込んで来た。呼吸もできない。頭に血が上ってガーンと鳴り出した。
死ぬ、死ぬ。
無我夢中で足を藻掻いた。と、こつり下駄が足先に触れた。
「ああびっくりした」
ようやくゆるんだ帯から首をはずしてほっとしたが、腋の下や背筋には冷たい汗が出てどきんどきんと心臓が激しかった。いくら不覚のこととはいえ、自殺しようとしている者が、これくらいのことにどうしてびっくりするのだ、この絶好の機会に、と口惜しがりながら、しかしもう一度首を引っ掛けてみる気持は起こって来なかった。
再び垣を乗り越すと、彼は黙々と病棟へ向かって歩き出した。――心と肉体がどうしてこうも分裂するのだろう。だが、俺は、いったい何を考えていたのだろう。俺には心が二つあるのだろうか、俺の気付かないもう一つの心とはいったい何ものだ。二つの心は常に相反するものなのか、ああ、俺はもう永遠に死ねないのではあるまいか、何万年でも、俺は生きていなければならないのか、死というものは、俺には与えられていないのか、俺は、もうどうしたら良いんだ。
だが病棟の間近くまで来ると、悪夢のような室内の光景が蘇って自然と足が停ってしまった。激しい嫌悪が突き上がって来て、どうしても足を動かす気がしないのだった。仕方なく踵を返して歩き出したが、再び林の中へはいって行く気にはなれなかった。それでは昼間垣の外から見た果樹園の方へでも行ってみようと二、三歩足を動かせ始めたが、それもまたすぐいやになってしまった。やっぱり病室へ帰る方がいちばん良いように思われて来て、再び踵を返したのだったが、するともうむんむんと膿の臭いが鼻を圧して来て、そこへ立ち停るより仕方がなかった。さてどこへ行ったら良いものかと途方にくれ、とにかくどこかへ行かねばならぬのだが、と心が焦立って来た。あたりは暗く、すぐ近くの病棟の長い廊下の硝子戸が明るく浮き出ているのが見えた。彼はぼんやり佇立したまま森としたその明るさを眺めていたが、その明るさが妙に白々しく見え出して、だんだん背すじに水を注がれるような凄味を覚え始めた。これはどうしたことだろうと思って大きく眼を瞠って見たが、ぞくぞくと鬼気は迫って来るいっぽうだった。体が小刻みに顫え出して、全身が凍りついてしまうような寒気がしてき出した。じっとしていられなくなって急いでまた踵を返したが、はたと当惑してしまった。全体俺はどこへ行くつもりなんだ。どこへ行ったら良いんだ、林や果樹園や菜園が俺の行き場でないことだけは明瞭に判っている、そして必然どこかへ行かねばならぬ、それもまた明瞭に判っているのだ。それだのに、
「俺は、どこへ、行きたいんだ」
ただ、漠然とした焦慮に心が煎るるばかりであった。――行き場がないどこへも行き場がない。曠野に迷った旅人のように、孤独と不安が犇々と全身をつつんで来た。熱いものの塊がこみ上げて来て、ひくひくと胸が嗚咽し出したが、不思議に一滴の涙も出ないのだった。
「尾田さん」
不意に呼ぶ佐柄木の声に尾田はどきんと一つ大きな鼓動が打って、ふらふらッと眩暈がした。危うく転びそうになる体を、やっと支えたが、咽喉が枯れてしまったように声が出なかった。
「どうしたんですか」
笑っているらしい声で佐柄木は言いながら近寄って来ると、
「どうかしたのですか」
と訊いた。その声で尾田はようやく平常な気持を取り戻し、
「いえちょっとめまいがしまして」
しかし自分でもびっくりするほど、ひっつるように乾いた声だった。
「そうですか」
佐柄木は言葉を切り、何か考える様子だったが、
「とにかく、もう遅いですから、病室へ帰りましょう」
と言って歩きだした。佐柄木のしっかりした足どりに尾田も、何となく安心して従った。
駱駝の背中のように凹凸のひどい寝台で、その上に布団を敷いて患者たちは眠るのだった。尾田が与えられた寝台の端に腰をかけると、佐柄木も黙って尾田の横に腰を下ろした。病人たちはみな寝静まって、ときどき廊下を便所へ歩む人の足音が大きかった。ずらりと並んだ寝台に眠っている病人たちの状ざまな姿体を、尾田は眺める気力がなく、下を向いたまま、一時も早く布団の中にもぐり込んでしまいたい思いでいっぱいだった。どれもこれも癩れかかった人々ばかりで人間というよりは呼吸のある泥人形であった。頭や腕に巻いている繃帯も、電光のためか、黒黄色く膿汁がしみ出ているように見えた。佐柄木はあたりを一わたり見廻していたが、
「尾田さん、あなたはこの病人たちを見て、何か不思議な気がしませんか」
と訊くのであった。
「不思議って?」
と尾田は佐柄木の貌を見上げたが、瞬間、あっと叫ぶところであった。佐柄木の美しい方の眼がいつの間にか抜け去っていて、骸骨のようにそこがぺこんと凹んでいるのだった。あまり不意だったので言葉もなく尾田が混乱していると、
「つまりこの人たちも、そして僕自身をも含めて、生きているのです。このことを、あなたは不思議に思いませんか。奇怪な気がしませんか」
急に片目になった佐柄木の貌は、何か勝手の異なった感じがし、尾田は、錯覚しているのではないかと自分を疑いつつ、恐々であったが注意して佐柄木を見た。佐柄木は尾田の驚きを察したらしく、つと立ち上がって当直寝台――部屋の中央にあって当直の附添いが寝る寝台――へすたすたと歩いて行ったが、すぐ帰って来て、
「はははは。目玉を入れるのを忘れていました。驚いたですか。さっき洗ったものですから――」
そう言って尾田に掌手に載せた義眼を示した。
「面倒ですよ。目玉の洗濯までせねばならんのでね」
そして佐柄木はまた笑うのであったが、尾田は溜まった唾液を呑み込むばかりだった。義眼は二枚貝の片方と同じ恰好で、丸まった表面に眼の模様がはいっていた。
「この目玉はこれで三代目なんですよ。初代のやつも二代目も、大きな嚏をした時飛び出しましてね、運悪く石の上だったものですから割れちゃいました」
そんなことを言いながらそれを眼窩へあててもぐもぐとしていたが、
「どうです、生きてるようでしょう」
と言った時には、もうちゃんと元の位置に納まっていた。尾田は物凄い手品でも見ているような塩梅であっけに取られつつ、もう一度唾液を呑み込んで返事もできなかった。
「尾田さん」
ちょっとの間黙っていたが、今度は何か鋭いものを含めた調子で呼びかけ、
「こうなっても、まだ生きているのですからね、自分ながら、不思議な気がしますよ」
言い終わると急に調子をゆるめて微笑していたが、
「僕、失礼ですけれど、すっかり見ましたよ」と言った。
「ええ?」
瞬間解せぬという風に尾田が反問すると、
「さっきね。林の中でね」
相変わらず微笑して言うのであるが、尾田は、こいつ油断のならぬやつだと思った。
「じゃあすっかり?」
「ええ、すっかり拝見しました。やっぱり死にきれないらしいですね。ははは」
「………」
「十時が過ぎてもあなたの姿が見えないのでひょっとすると――と思いましたので出かけてみたのです。初めてこの病室へはいった人はたいていそういう気持になりますからね。もう幾人もそういう人にぶつかって来ましたが、まず大部分の人が失敗しますね。そのうちインテリ青年、と言いますか、そういう人は定まってやり損いますね。どういう訳かその説明は何とでもつきましょうが――。すると、林の中にあなたの姿が見えるのでしょう。もちろん大変暗くて良く見えませんでしたが。やっばりそうかと思って見ていますと、垣を越え出しましたね。さては院外でやりたいのだなと思ったのですが、やはり止める気がしませんのでじっと見ていました。もっとも他人がとめなければ死んでしまうような人は結局死んだ方がいちばん良いし、それに再び起ち上がるものを内部に蓄えているような人は、定まって失敗しますね。蓄えているものに邪魔されて死にきれないらしいのですね。僕思うんですが、意志の大いさは絶望の大いさに正比する、とね。意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ絶望の源泉だと常に思っているのです。しかし下駄がひっくり返ったのですか、あの時はちょっとびっくりしましたよ。あなたはどんな気持がしたですか」
尾田は真面目なのか笑いごとなのか判断がつきかねたが、その太ぶとしい言葉を聞いているうちに、だんだん激しい忿怒が湧き出て来て、
「うまく死ねるぞ、と思って安心しました」
と反撥してみたが、
「同時に心臓がどきどきしました」
と正直に白状してしまった。
「ふうむ」
と佐柄木は考え込んだ。
「尾田さん。死ねると安心する心と、心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んでいるとは思いませんか」
「まだ一度も探ってみません」
「そうですか」
そこで話を打ち切りにしようと思ったらしく佐柄木は立ち上がったが、また腰を下ろし、
「あなたと初めてお会いした今日、こんなこと言って大変失礼ですけれど」
と優しみを含めた声で前置きをすると、
「尾田さん、僕には、あなたの気持が良く解る気がします。昼間お話しましたが、僕がここへ来たのは五年前です。五年以前のその時の僕の気持を、いや、それ以上の苦悩を、あなたは今味わっていられるのです。ほんとにあなたの気持、良く、解ります。でも、尾田さんきっと生きられますよ。きっと生きる道はありますよ。どこまで行っても人生にはきっと抜け道があると思うのです。もっともっと自己に対して、自らの生命に対して謙虚になりましょう」
意外なことを言い出したので尾田はびっくりして佐柄木の顔を見上げた。半分潰れかかって、それがまたかたまったような佐柄木の顔は、話に力を入れるとひっつったように痙攣して、仄暗い電光を受けていっそう凹凸がひどく見えた。佐柄木はしばらく何ごとか深く考え耽っていたが、
「とにかく、癩病に成りきることが何より大切だと思います」
と言った。不敵な面魂が、その短い言葉に覗かれた。
「まだ入院されたばかりのあなたに大変無慈悲な言葉かもしれません。今の言葉。でも同情するよりは、同情のある慰めよりは、あなたにとっても良いと思うのです。実際、同情ほど愛情から遠いものはありませんからね。それに、こんな潰れかけた同病者の僕がいったいどう慰めたら良いのです。慰めのすぐそこから嘘がばれて行くに定まっているじゃありませんか」
「良く解りました、あなたのおっしゃること」
続けて尾田は言おうとしたが、その時、
「どうじょぐざん」
と嗄れた声が向こう端の寝台から聞こえて来たので口をつぐんだ。佐柄木はさっと立ち上がると、その男の方へ歩んだ。「当直さん」と佐柄木を呼んだのだと初めて尾田は解した。
「なんだい用は」
とぶっきら棒に佐柄木が言った。
「じょうべんがじたい」
「小便だなよしよし。便所へ行くか、シービンにするか、どっちが良いんだ」
「べんじょさいぐ」
佐柄木は馴れきった調子で男を背負い、廊下へ出て行った。背後から見ると、負われた男は二本とも足が無く、膝小僧のあたりに繃帯らしい白いものが覗いていた。
「なんというもの凄い世界だろう。この中で佐柄木は生きると言うのだ。だが、自分はどう生きる態度を定めたら良いのだろう」
発病以来、初めて尾田の心に来た疑問だった。尾田は、しみじみと自分の掌を見、足を見、そして胸に掌をあててまさぐってみるのだった。何もかも奪われてしまって、ただ一つ、生命だけが取り残されたのだった。今さらのようにあたりを眺めて見た。膿汁に煙った空間があり、ずらりと並んだベッドがある。死にかかった重症者がその上に横たわって、他は繃帯でありガーゼであり、義足であり松葉杖であった。山積するそれらの中に今自分は腰かけている。――じっとそれらを眺めているうちに、尾田は、ぬるぬると全身にまつわりついて来る生命を感じるのであった。逃れようとしても逃れられない、それは、鳥黐のようなねばり強さであった。
便所から帰って来た佐柄木は、男を以前のように寝かせてやり、
「ほかに何か用はないか」
と訊きながら布団をかけてやった。もう用はないと男が答えると、佐柄木はまた尾田の寝台に来て、
「ね、尾田さん。新しい出発をしましょう。それには、まず癩に成りきることが必要だと思います」
と言うのであった。便所へ連れて行ってやった男のことなど、もうすっかり忘れているらしく、それが強く尾田の心を打った。佐柄木の心には癩も病院も患者もないのであろう。この崩れかかった男の内部は、我々と全然異なった組織ででき上がっているのであろうか、尾田には少しずつ佐柄木の姿が大きく見え始めるのだった。
「死にきれない、という事実の前に、僕もだんだん屈伏して行きそうです」
と尾田が言うと、
「そうでしょう」
と佐柄木は尾田の顔を注意深く眺め、
「でもあなたは、まだ癩に屈伏していられないでしょう。まだ大変お軽いのですし、実際に言って、癩に屈伏するのは容易じゃありませんからねえ。けれど一度は屈伏して、しっかりと癩者の眼を持たねばならないと思います。そうでなかったら、新しい勝負は始まりませんからね」
「真剣勝負ですね」
「そうですとも、果し合いのようなものですよ」
月夜のように蒼白く透明である。けれどどこにも月は出ていない、夜なのか昼なのかそれすら解らぬ。ただ蒼白く透明な原野である。その中を尾田は逃げた、逃げた。胸が弾んで呼吸が困難である。だがへたばっては殺される。必死で逃げねばならぬのだ。追手はぐんぐん迫って来る。迫って来る。心臓の響きが頭にまで伝わって来る、足がもつれる。幾度も転びそうになるのだ。追手の鯨波はもう間近まで寄せて来た。早くどこかへ隠れてしまおう。前を見てあっと棒立ちに竦んでしまう。柊の垣があるのだ。進退全く谷まった、喚声はもう耳もとで聞こえる。ふと見ると小さな小川が足もとにある、水のない堀割りだ、夢中で飛び込むと足がずるずると吸い込まれる。しまったと足を抜こうとするとまたずるりと吸い入れられる。はや腰までは沼の中だ。藻掻く、引っ掻く、だが沼は腰から腹、腹から胸へと上って来る一方だ。底のない泥沼だ、身動きもできなくなる。しびれたように足が利かない。眼を白くろさせて喘ぐばかりだ。うわああと喚声が頭上でする。あの野郎死んでるくせに逃げ出しやがった。畜生もう逃さんぞ。逃すものか。火炙りだ。捕まえろ。捕まえろ。入り乱れて聞こえて来るのだ。どすどすと凄い足音が地鳴りのように響いて来る。ぞうんと身の毛がよだって脊髄までが凍ってしまうようである。――殺される、殺される。熱い塊が胸の中でごろごろ転がるが一滴の涙も枯れ果ててしまっている。ふと気付くと蜜柑の木の下に立っている。見覚えのある蜜柑の木だ。蕭条と[#「蕭条と」は底本では「粛条と」]雨の降る夕暮れである。いつの間にか菅笠を被っている。白い着物を着て脚絆をつけて草鞋を穿いているのだ。追っ手は遠くで鯨波をあげている。また近寄って来るらしいのだ。蜜柑の根もとに跼んで息を殺す、とたんに頭上でげらげらと笑う声がする。はっと見上げると佐柄木がいる。恐ろしく巨きな佐柄木だ。いつもの二倍もあるようだ。樹から見下している。癩病が治ってばかに美しい貌なのだ。二本の眉毛も逞しく濃い。尾田は思わず自分の眉毛に触ってはっとする。残っているはずの片方も今は無いのだ。驚いて幾度も撫でてみるがやっぱり無い。つるつるになっているのだ。どっと悲しみが突き出て来てぼろぼろと涙が出る。佐柄木はにたりにたりと笑っている。
「お前はまだ癩病だな」
樹上から彼は言うのだ。
「佐柄木さんは、もう癩病がお癒りになられたのですか」
恐る怖る聴いてみる。
「癒ったさ、癩病なんかいつでも癒るね」
「それでは私も癒りましょうか」
「癒らんね。君は。癒らんね。お気の毒じゃよ」
「どうしたら癒るのでしょうか。佐柄木さん。お願いですから、どうか教えてください」
太い眉毛をくねくねと歪めて佐柄木は笑う。
「ね、お願いです。どうか、教えてください。ほんとうにこのとおりです」
両掌を合わせ、腰を折り、お祈りのような文句を口の中で呟く。
「ふん、教えるもんか、教えるもんか。貴様はもう死んでしまったんだからな。死んでしまったんだからな」
そして佐柄木はにたりと笑い、突如、耳の裂けるような声で大喝した。
「まだ生きてやがるな、まだ、貴、貴様は生きてやがるな」
そしてぎろりと眼をむいた。恐ろしい眼だ。義眼よりも恐ろしいと尾田は思う。逃げようと身構えるがもう遅い。さっと佐柄木が樹上から飛びついて来た。巨人佐柄木に易々と小腋に抱えられてしまったのだ。手を振り足を振るが巨人は知らん顔をしている。
「さあ火炙りだ」
と歩き出す。すぐ眼前に物凄い火柱が立っているのだ。炎々たる焔の渦がごおうっと音をたてている。あの火の中へ投げ込まれる。身も世もあらぬ思いでもがく。が及ばない。どうしよう、どうしよう、灼熱した風が吹いて来て貌を撫でる。全身にだらだらと冷汗が流れ出る。佐柄木はゆったりと火柱に進んで行く。投げられまいと佐柄木の胴体にしがみつく。佐柄木は身構えて調子をとり、ゆさりゆさりと揺すぶる。体がゆらいで火炎に近づくたびに焼けた空気が貌を撫でるのだ。尾田は必死で叫ぶのだ。
「ころされるう。こ ろ さ れ る う。他人にころされるう――」
血の出るような声を搾り出すと、夢の中の尾田の声が、ベッドの上の尾田の耳へはっきり聞こえた。奇妙な瞬間だった。
「ああ夢だった」
全身に冷たい汗をぐっしょりかいて、胸の鼓動が激しかった。他人にころされるうーと叫んだ声がまだ耳殻にこびりついていた。心は脅えきっていて、布団の中に深く首を押し込んで眼を閉じたままでいると、火柱が眼先にちらついた。再び悪夢の中へ惹きずり込まれて行くような気がし出して眼を開いた。もう幾時ころであろう、病室内は依然として悪臭に満ち、空気はどろんと濁ったまま穴倉のように無気味な静けさであった。胸から股のあたりへかけて、汗がぬるぬるしてい、気色の悪いこと一とおりではなかったが、起き上がることができなかった。しばらく、彼は体をちぢめて蝦のようにじっとしていた。小便を催しているが、朝まで辛棒しようと思った。とどこからか歔欷きが聞こえて来るので、おやと耳を澄ませると、時に高まり、時に低まりして、袋の中からでも聞こえて来るような声で断続した。唸くようなせつなさで、締め殺されるような声であった。高まった時はすぐ枕もとで聞こえるようだったが、低まった時は隣室からでも聞こえるように遠のいた。尾田はそろそろ首をもち上げてみた。ちょっとの間はどこで泣いているのか判らなかったが、それは、彼の真向かいのベッドだった。頭からすっぽり布団を被って、それが幽かに揺れていた。泣き声を他人に聞かれまいとして、なお激しくしゃくり上げて来るらしかった。
「あっ、ちちちい」
泣き声ばかりではなく、何か激烈な痛みを訴える声が混じっているのに尾田は気付いた。さっきの夢にまだ心は慄のき続けていたが、泣き声があまりひどいので怪しみながら寝台の上に坐った。どうしたのか訊いてみようと思って立ち上がったが、当直の佐柄木もいるはずだと思いついたので、再び坐った。首をのばして当直寝台を見ると佐柄木は、腹ばって何か懸命に書き物をしているのだった。泣き声に気付かないのであろうか、尾田は一度声を掛けてみようかと思ったが、当直者が泣き声に気付かぬということはあるまいと思われるとともに、熱心に書いている邪魔をしては悪いとも思ったので、彼は黙って寝衣を更えた。寝衣はもちろん病院からくれたもので、経帷子とそっくりのものだった。
二列の寝台には見るに堪えない重症患者が、文字どおり気息奄々と眠っていた。誰も彼も大きく口を開いて眠っているのは、鼻を冒されて呼吸が困難なためであろう。尾田は心中に寒気を覚えながら、それでもここへ来て初めて彼らの姿を静かに眺めることができた。赤黒くなった坊主頭が弱い電光に鈍く光っていると、次にはてっぺんに大きな絆創膏を貼りつけているのだった。絆創膏の下には大きな穴でもあいているのだろう。そんな頭がずらりと並んでいる恰好は奇妙に滑稽な物凄さだった。尾田のすぐ左隣の男は、摺子木のように先の丸まった手をだらりと寝台から垂らしてい、その向かいは若い女で、仰向いている貌は無数の結節で荒れ果てていた。頭髪もほとんど抜け散って、後頭部にちょっとと、左右の側に毛虫でも這っている恰好でちょびちょびと生えているだけで、男なのか女なのか、なかなかに判断が困難だった。暑いのか彼女は足を布団の上にあげ、病的にむっちりと白い腕も袖がまくれて露わに布団の上に投げていた。惨たらしくも情慾的な姿だった。
そのうち尾田の注意を惹いたのは、泣いている男の隣で、眉毛と頭髪はついているが、顎はぐいとひん曲がって、仰向いているのに口だけは横向きで、閉じることもできぬのであろう、だらしなく涎が白い糸になって垂れているのだった。年は四十を越えているらしい。寝台の下には義足が二本転がっていた。義足と言ってもトタン板の筒っぽで、先が細まり端に小さな足型がくっついているだけで、玩具のようなものだった。がその次の男に眼を移した時には、さすがに貌を外向けねばいられなかった。頭から貌、手足、その他全身が繃帯でぐるぐる巻きにされ、むし暑いのか布団はすっかり踏み落とされて、かろうじて端がベッドにしがみついていた。尾田は息をつめて恐る怖る眼を移すのだったが、全身がぞっと冷たくなって来た。これでも人間と信じて良いのか、陰部まで電光の下にさらして、そこにまで無数の結節が、黒い虫のように点々とできているのだった。もちろん一本の陰毛すらも散り果てているのだ。あそこまで癩菌は容赦なく食い荒らして行くのかと、尾田は身顫いした。こうなってまで、死にきれないのか、と尾田は吐息を初めて抜き、生命の醜悪な根強さが呪わしく思われた。
生きることの恐ろしさを切々と覚えながら、寝台を下りると便所へ出かけた。どうして自分はさっき首を縊らなかったのか、どうして江ノ島で海へ飛び込んでしまわなかったのか――便所へはいり、強烈な消毒薬を嗅ぐと、ふらふらと目眩がした。危うく扉にしがみついた、間髪だった。
「たかを! 高雄」
と呼ぶ声がはっきり聞こえた。はっとあたりを見廻したがもちろん誰もいない。幼い時から聞き覚えのある、誰かの声に相違なかったが誰の声か解らなかった。何かの錯覚に違いないと、尾田は気を静めたが、再びその声が飛びついて来そうでならなかった。小便までが凍ってしまうようで、なかなか出ず、焦りながら用を足すと急いで廊下へ出た。と隣室から来る盲人にばったり出会い、繃帯を巻いた掌ですうっと貌を撫でられた。あっと叫ぶところをかろうじて呑み込んだが、生きた心地はなかった。
「こんばんは」
親しそうな声で盲人はそう言うと、また空間を探りながら便所の中へ消えて行った。
「今晩は」
と尾田も仕方なく挨拶したのだったが、声が顫えてならなかった。
「これこそまさしく化物屋敷だ」
と胸を沈めながら思った。
佐柄木は、まだ書きものに余念もない風であった。こんな真夜中に何を書いているのであろうと尾田は好奇心を興したが、声をかけるのもためらわれて、そのまま寝台に上った。すると、
「尾田さん」
と佐柄木が呼ぶのであった。
「はあ」
と尾田は返して、再びベッドを下りると佐柄木の方へ歩いて行った。
「眠られませんか」
「ええ、変な夢を見まして」
佐柄木の前には部厚なノォトが一冊置いてあり、それに今まで書いていたのであろう、かなり大きな文字であったが、ぎっしり書き込まれてあった。
「御勉強ですか」
「いえ、つまらないものなんですよ」
歔欷きは相変わらず、高まったり低まったりしながら、止むこともなく聞こえていた。
「あの方どうなさったのですか」
「神経痛なんです。そりゃあひどいですよ。大の男が一晩中泣き明かすのですからね」
「手当てはしないのですか」
「そうですねえ。手当てと言っても、まあ麻酔剤でも注射して一時をしのぐだけですよ。菌が神経に食い込んで炎症を起こすので、どうしようもないらしいんです。何しろ癩が今のところ不治ですからね」
そして、
「初めの間は薬も利きますが、ひどくなって来れば利きませんね。ナルコポンなんかやりますが、利いても二、三時間。そしてすぐ利かなくなりますので」
「黙って痛むのを見ているのですか」
「まあそうです。ほったらかして置けばそのうちにとまるだろう、それ以外にないのですよ。もっともモヒをやればもっと利きますが、この病院では許されていないのです」
尾田は黙って泣き声の方へ眼をやった。泣き声というよりは、もう唸り声にそれは近かった。
「当直をしていても、手の付けようがないのには、ほんとに困りますよ」
と佐柄木は言った。
「失礼します」
と尾田は言って佐柄木の横へ腰をかけた。
「ね尾田さん。どんなに痛んでも死なない、どんなに外面が崩れても死なない。癩の特徴ですね」
佐柄木はバットを取り出して尾田に奨めながら、
「あなたが見られた癩者の生活は、まだまだほんの表面なんですよ。この病院の内部には、一般社会の人の到底想像すらも及ばない異常な人間の姿が、生活が描かれ築かれているのですよ」
と言葉を切ると、佐柄木もバットを一本抜き火をつけるのだった。潰れた鼻の孔から、佐柄木はもくもくと煙を出しながら、
「あれをあなたはどう思いますか」
指さす方を眺めると同時に、はっと胸を打って来る何ものかを尾田は強く感じた。彼の気付かぬうちに右端に寝ていた男が起き上がって、じいっと端坐しているのだった。もちろん全身に繃帯を巻いているのだったが、どんよりと曇った室内に浮き出た姿は、何故とはなく心打つ厳粛さがあった。男はしばらく身動きもしなかったが、やがて静かにだがひどく嗄れた声で、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱えるのであった。
「あの人の咽喉をごらんなさい」
見ると、二、三歳の小児のような涎掛けが頸部にぶら下がって、男は片手をあげてそれを押えているのだった。
「あの人の咽喉には穴が空いているのですよ。その穴から呼吸をしているのです。喉頭癩と言いますか、あそこへ穴を空けて、それでもう五年も生き伸びているのです」
尾田はじっと眺めるのみだった。男はしばらく題目を唱えていたが、やがてそれをやめると、二つ三つその穴で吐息をするらしかったが、ぐったりと全身の力を抜いて、
「ああ、ああ、なんとかして死ねんものかいなあー」
すっかり嗄れた声でこの世の人とは思われず、それだけにまた真に迫る力がこもっていた。男は二十分ほども静かに坐っていたが、また以前のように横になった。
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」
佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて、黙って考えた。
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
尾田はますます佐柄木の心が解らず彼の貌を眺めると、
「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません」
佐柄木の思想の中核に近づいたためか、幾分の昂奮すらも浮かべて言うのだった。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」
だんだん激して来る佐柄木の言葉を、尾田は熱心に訊くのだったが、潰れかかった彼の貌が大きく眼に映って来ると、この男は狂っているのではないかと、言葉の強さに圧されながらも怪しむのだった。尾田に向かって説きつめているようでありながら、その実佐柄木自身が自分の心内に突き出して来る何ものかと激しく戦って血みどろとなっているように尾田には見え、それが我を忘れて聞こうとする尾田の心を乱しているように思われるのだった。とはたして佐柄木は急に弱々しく、
「僕に、もう少し文学的な才能があったら、と歯ぎしりするのですよ」
その声には、今まで見て来た佐柄木とも思われない、意外な苦悩の影がつきまとっていた。
「ね尾田さん、僕に天才があったら、この新しい人間を、今までかつて無かった人間像を築き上げるのですが――及びません」
そう言って枕もとのノォトを尾田に示すのであった。
「小説をお書きなんですか」
「書けないのです」
ノォトをばたんと閉じてまた言った。
「せめて自由な時間と、満足な眼があったらと思うのです。いつ盲目になるかわからない、この苦しさはあなたにはお解りにならないでしょう。御承知のように片方は義眼ですし、片方は近いうちに見えなくなるでしょう、それは自分でもわかりきったことなんです」
さっきまで緊張していたのが急にゆるんだためか、佐柄木の言葉は顛倒しきって、感傷的にすらなっているのだった。尾田は言うべき言葉もすぐには見つからず、佐柄木の眼を見上げて、初めてその眼が赤黒く充血しているのを知った。
「これでも、ここ二、三日は良い方なんです。悪い時にはほとんど見えないくらいです。考えてもみてください。絶え間なく眼の先に黒い粉が飛びまわる焦立たしさをね。あなたは水の中で眼を開いたことがありますか、悪い時の私の眼はその水中で眼を開けた時とほとんど同じなんです。何もかもぼうっと爛れて見えるのですよ。良い時でも砂煙の中に坐っているようなものです。物を書いていても、読書していても一度この砂煙が気になり出したら最後ほんとに、気が狂ってしまうようです」
ついさっき佐柄木が、尾田に向かって慰めようがないと言ったが、今は尾田にも慰めようがなかった。
「こんな暗いところでは――」
それでもようやくそう言いかけると、
「もちろん良くありません。それは僕にも解っているのですが、でも当直の夜にでも書かなければ、書く時がないのです。共同生活ですからねえ」
「でも、そんなにお焦りにならないで、治療をされてから――」
「焦らないではいられませんよ。良くならないのが解りきっているのですから。毎日毎日波のように上下しながら、それでも潮が満ちて来るように悪くなって行くんです。ほんとに不可抗力なんですよ」
尾田は黙った。佐柄木も黙った。歔欷きがまた聞こえて来た。
「ああ、もう夜が明けかけましたね」
外を見ながら[#「見ながら」は底本では「見なががら」]佐柄木が言った。黝ずんだ林のかなたが、白く明るんでいた。
「ここ二、三日調子が良くて、あの白さが見えますよ。珍しいことなんです」
「一緒に散歩でもしましょうか」
尾田が話題を更えて持ち出すと、
「そうしましょう」
とすぐ佐柄木は立ち上がった。
冷たい外気に触れると、二人は生き復ったように自ずと気持が若やいで来た。並んで歩きながら尾田は、ときどき背後を振り返って病棟を眺めずにはいられなかった。生涯忘れることのできない記憶となるであろう一夜を振り返る思いであった。
「盲目になるのはわかりきっていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めてください。癩者に成りきって、さらに進む道を発見してください。僕は書けなくなるまで努力します」
その言葉には、初めて会った時の不敵な佐柄木に復っていた。
「苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです」
そして佐柄木は一つ大きく呼吸すると、足どりまでも一歩一歩大地を踏みしめて行く、ゆるぎのない若々しさに満ちていた。
あたりの暗がりが徐々に大地にしみ込んで行くと、やがて燦然たる太陽が林のかなたに現われ、縞目を作って梢を流れて行く光線が、強靭な樹幹へもさし込み始めた。佐柄木の世界へ到達し得るかどうか、尾田にはまだ不安が色濃く残っていたが、やはり生きてみることだ、と強く思いながら、光の縞目を眺め続けた。
(昭和十一年『改造』二月号)