わが師という響のなかには敬愛の思いがこもっていて、私としては忘られない一つの俤がそこに繁っている。
 千葉安良先生は、今どこで、どのように生活していらっしゃるだろう。
 二十余年も前、お茶の水の女学校の先生をして居られた、この一人の女性の名を知っている人の範囲はごく限られているだろうと思う。同僚の間で先生がどう見られていたかということなどは知らない。けれども、私の生涯のあの時代に、千葉先生が居られたということは、今日も猶一種の感動なしに思い出せないことである。
 女学校の三年目という年は、どんな女の子にとっても何か早春の嵐めいた不安な時期だと思うが、私のこの時分は暗澹としていた。
 丁度父は四十歳のなかば、母はそれより八つほど若くて、生活力の旺であった両親の生活は、なかなか波も風も高い日々であった。親たちはどちらかというと自分たちの生活に没頭していて、そのむき出しな率直な大人の世界の幅ひろい濤裾へ、私たち子供の生活をもひっくるめて、朝から夜が運行していた。
 そういう熱っぽい空気の裡で、早熟な総領娘のうける刺戟は実に複雑であった。性格のひどく異った父と母との間には、夫婦としての愛着が純一であればあるほど、むきな衝突が頻々とあって、今思えばその原因はいろいろ伝統的な親族間の紛糾だの、姑とのいきさつだの、青春時代から母の精神に鬱積していた女性としての憤懣の時ならぬ爆発やらであったわけだが、その激情の渦巻は、決して娘をよけては通らなかった。つむじのように捲き上った感情の柱は、一旋回して方向をかえ、娘と母との間に雪崩れ落ちるのが常だったが、そういうとき母は、娘が女の子のくせに女親の味方にならないということを泣いておこった。そして父に向ってもって行った情熱のかえす怒濤で娘を洗うのであった。
 まるで孵りたての赤むけ鳩のように、感覚ばかりで激しく未熟な生の戦慄を感じ、粗野な智慧の目醒めにいる女学校三年の娘に、どうして母の女性としての成熟しつくした苦悩がわかろう。
 その時分、よく蒼い顔をして、痛い頭で学校へ行った。母は出産のむずかしいたちで、いつも産後は難儀した。赤坊の世話は自分で出来ないで看護婦がした。その看護婦は離れた室にいることだし、商売になれすぎてもいて、夜なかにし少し赤坊が泣くぐらいのことでは、なかなか目をさまさない。それが母の心配になるので、お前は目ざといから、と私が赤子と看護婦のわきに臥かされた。弱くて到頭育ちかねたその赤子は一夜のうちに幾度か泣いて、泣くと容易にしずまりかねた。三度に一度は、むし暑い蚊帳の中で泣きしきる赤坊を抱いて歩いているうちに、やがて朝になってしまうこともある。
 そういう夜なか、さては頭の痛い昼間、種々雑多な疑問が苦しく心にせめかけた。うちでも学校でも、大人の世界は奇妙で、そこにある眼はむこうからばかり都合のいいようにこちらに向けられているように感じられる。たとえば、どこの親でも何心なく云うように、母も何か訓戒めいた場合には、今日まで生んで育ててくれた親の恩ということについて云うのであったが、それは内心の問いかえしなしに娘にはきかれなかった。親たちとしてこちらに向う態度にかさなって、漠然としかし鋭く夫婦というものの理解しがたい営みが娘にはまざまざと迫っていて、そう云われるとき、きつくような切なさで毎晩自分が抱く赤子の誕生が考えられた。あんなに争い、そして、子供がうまれてゆく。恩とはどういうものなのだろうか。
 学校では三人仲よしがあったけれども、そんなことは迚も話しあえなかった。苦しいけれども悲しいのではないその気持。更につきつめればその苦しさにさえ云いあらわせない生の歓びが脈うって胸にこみあげて来るような息苦しい心持を、果してどうあらわしたらよかっただろう。
 女学校の学課はその混乱に対して全く何の力もなかった。大正初めのその頃文学好きな人は殆どみんな読んだワイルドの作品だのポウだの、武者小路実篤の書いたものを手に入る片はじから熱心に読み、自分から書くものはと云えば、手に負えない内心の有様とはかかわりない他愛のない物語だったことも、精神が不平均に芽立ちむらがったその年頃の自然だったのだと思われる。
 四年生になると女学校では西洋歴史を習う。初めての時間、西洋史の先生が教室に入って来られた時、三十二人だったかの全生徒の感情を、愕きと嬉しさとでうち靡かせるようなざわめきがあった。
 その女学校の女先生が制服のように着ていたくすんだ紫の羽織をつけただけは同じだが、その脊ののびのびと高い、やや浅黒い、額の心持よく緊張した顔立ちの若い先生は、第一瞥から暖い心情的な感じで若い生徒たちを魅した。多い髪がいくらか重そうにゆったりと結われているところも、胸元がゆったりとしているところも、動作の線がのびやかなのも、みんな生徒たちをよろこばせた。
 それが、千葉安良先生であった。学校の空気には、抑えても溢れる若さに共感をもつような要素にかけていた。情緒のうるおわされるものがなかった生徒たちは、おそらく一人のこらずと云っていいくらい、千葉先生には好意をもったと思う。千葉先生は毎朝の体操のときに水色メリンスのたすきをかけた。すると、級のなかに、同じようなメリンスのたすきをこしらえて、丁度千葉先生がそれを結んだように房さりと結んでかけていたひとがあった。何日か経ったら、級の担任の女先生から、生徒一同が叱られた。この頃、誰の真似だか知りませんが、変にずるずると髪をまいたり、大きいたすきをかけたりなさる方があるようですが、みっともないからおやめなさい。
 少くとも一つだけの愉しみは学校にも在るようになった。私は級で一番の前列だったから、まるで自分ひとりがそのめずらしい人間らしい心持のする先生とさし向いでいるような集注で、西洋史の時間をすごした。千葉先生の歴史は、歴史というものが複雑多岐なる人間交渉をめぐって展開されることを私たちに教え、一つの事件の結果は、結果そのものがもう次の出来ごとの原因となってゆくような、物事のいきさつを描き出して示した。そのことは、私に、いろいろな身のまわりの出来ごと、自分の心の中の出来ごとにも、やはり辿るべき原因やその結果があるのだということを明瞭にした。
 千葉先生には、何もわかっていなかっただろうが、私としては、この興味のふかい西洋史の時間のおかげで、自分の渾沌世界に、どうやら整理をつけるおぼろげな筋道を与えられたのであった。
 千葉先生が熱心に教えられるその眼を見ると、感動が心に湧いた。その眼は、私たち若いものの善意を信頼して真率な光にみちていた。詮策ぽく細められてもいないし、厳しく見据えられてもいない。それは本当に心の窓という風で、私はそこから偶然自分に向って注がれる視線にあうと、さあっと暖い血汐が体の中を流れるように感じた。そして、自分のもっているいい心を自分で信じて生きて行っていいのだということ、そのためには骨折りを惜しんではならないのだ、という真面目な鼓舞を感じるのであった。
 四年になってから、もう一人、やはり人間らしい真直な気持よい視線で生徒を見る先生が出来た。堺先生と云って国語の先生であった。この先生も、曇りない真実のある眼で、国語の時間は張合があった。何をどうとも云えないが、面白いという思いがその先生と自分との間を交流するようで、私はいつも謹んで一生懸命であった。
 五年生になって、千葉先生は教育をうけもたれ、心理学の講義がはじまった。ごく初歩の概論だったにちがいないけれども、この学課の興味は全く私を熱中させた。初めてここで、学校で学ぶことと自分の生活全体の関心とが相通じる一点を持ったようで、私の文学的読書も段々奥ゆきをもちはじめた。その頃はもう「白樺」の影響とトルストーイの作品が私の成長の糧で、千葉先生には、課外の読書のことで放課後、たまに三十分ぐらい話を伺うようになった。
 先生は、いろいろのことを考慮してであったろうが、余り私的なことや感情問題にはふれず、単純に本の話をされた。そして、その本の選択については、年だとか女生徒だとかいうことにかまわず、いきなりこちらの知識慾の理解力とにたよって、教えられた。一つの本からひき出された新しい興味によって、又その方へ読書をひろげてゆくという風で、小説のほかのいろんな啓蒙的な科学・哲学の本をよむことが出来た。
 今思えば、貴重なのは決して、そうやって読んだ何冊かの本の知識ではなかった。一人の人間の裡にある可能を十分にのばそうとする千葉先生の偏見のない若々しい誠意が、私のうちのまともなものを急速に、よろこび躍るように育てて行ったのだと思われる。
 それには千葉先生が担任でなくて、一定の距離と自由のある位置にいられたこともよかったのだろうし、また、若い娘の感情に通暁していて、常にある程度は整理した心持で、甘えず信頼することを学ぶようにされたことも、よかったのだろう。
 女学校の最後の一年は、女学生らしくなかったとしても、本質的には実に勤勉によく暮した。著しい成長の時期であった。
 女学校がすんで、目白の日本女子大の英文科の予科に一学期ほどいて、やめた後だったと思う。千葉先生と河崎なつ先生とが、桑田芳蔵博士の教室で心理学の勉強をされたとき私を仲間に加えて下すったことがあった。ヴントの本で、一寸した実験もやったりして、その本の終るまで通った。今日ありきたりの先生気質をいくらか知った上で考えれば、こういうことにしろ、決して誰でもが自分の生徒のために計ってやる態度でないことは明かである。
 当時、年のへだたりなどということが念頭に微塵も浮ばなかったほど、私にとって千葉先生は敬愛すべき方であった。だが、恐らくは、女高師を卒業して一年か二年という頃、先生のお年は二十五六から七八という時代ではなかったのだろうか。そして、思えば、先生がいつとはなしに私に及ぼしたああいう深い人間的な感銘と、よりよい人生への願いはとりも直さず、若かった先生が御自身の女性としての生涯にも衷心から求めていられたものではなかっただろうか。
 人及び女性としてのその真摯な希望は、強烈な何ものかを内部に蔵していたこの一人の私たちの尊敬すべき先輩の今日の上に、どんな花をさかせているのだろうか。
 大正の中頃からのちの激しい時代のうつりかわりと、その間に転変した女性一般の生活の大きな変化は、千葉先生と私との間をもいつとはなし吹きわけることとなった。どちらもそれぞれに結婚もした。先生はそれより前にどういう事情でか学校をやめられた。極めて自分だけのこととして結婚もされ、現在は、私のところまで御消息はつたわって来にくくなっている。そこに、何か私たち女の生活の推移を暗示する、無限の余韻を感じずにはいられない気がする。先生よ、幸にお健やかでしょうか。
 師といえば、私の作品を初めて紹介して下さった坪内逍遙先生のこともふれなければならないわけである。
 坪内先生とは余り年代がちがいすぎていた。それに私としての結ばれかたが他動的であったことなどから、外面には大きくかかわりながら、語るとなると消極なあらわれかたになる。流達聰明な先生の完成された老境というようなものと、私の女としての四苦八苦のばたばた暮しとは、我ながらいかにもかけちがった感じだった。
 その親にたのまれて一二回作品を見てやったというだけの若年の娘にも、先生はお目にかかるかぎり懇切丁寧で、ふさわしい親切をもって対して下すっていた。しかしながら、その豊富な経験のなかでは、自身創立された文芸協会で、抱月と松井須磨子の二つの命をやきつくしたようないきさつに接して居られる。また、一度はそこで女優になろうとして後作家となって盛名をうたわれ、幾何もなくアメリカに去った田村俊子氏の生活経緯を見て居られることもあって、女性と芸術生活との問題については、それが特に日本の社会での実際となった場合、進歩的な見解の半面にいつも一抹の疑念、不確実さを感じていられたのではなかったろうかと考えられる。
 二十一歳の私がアメリカあたりで噂によれば洗濯屋だったとか皿洗いだったとか云われている東洋学専攻の男と結婚したり、その生活に苦しんで何年間も作品らしいものも書けずにいたようなことも、先生の目には又もや女がそこで足をとられた姿として、いくらか薄ら苦く映ったのではなかったろうか。将来についても現実的に白紙の気持を抱かれたと思う。
 それはまことに尤もなのだし、本人として外側から及ぼすどんな力も願ってはいなかったのだけれども、それでも先生の聰明な如才なさのうちに閃くように自身の未来を空白ブランクとして感じとることは苦しかった。もしそれでいいのなら、こんなに※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36、654-1)もがきはしないのに。そう思えた。私は何とかして、一個の人間がそこに生きたという事実を自分としてうけがえる生活を、うち立てたかったのであった。
 近代日本文学の黎明とともに生い立ったような先生といて、私の側から感興のつきない話題がありよう筈もなかった。当時老博士はシェークスピア全集の翻訳に専念して居られた。したがって程よい時間が経つと、自然私がもうお暇しなくてはいけないのだな、とさとるような雰囲気が生み出されたのも肯けるが、そのときの私としては、そういう一通り整った儀礼のこちら側では何としても表現も出来ずうち破ることも出来ない何ものかが心にのたうっていた。それにもかかわらず、一定の時がたつと、季節のちがった気流がどこからか流れ込んで来るように、私の帰るべきことが知らされて、そして若い不器用な私は帰って来るのであった。
 こういう距離は何だったのだろう。
 追々明治初期の文学の歴史を知るようになって、二葉亭四迷のことを読んだとき、非常に印象ふかい数行があった。四迷が「浮雲」を書いたのは明治二十年のことで、二十七歳の坪内逍遙先生が「小説神髄」をあらわし、「当世書生気質」を発表して「恰も鬼ケ島の宝物を満載して帰る桃太郎の船」のように世間から歓迎された二年後のことであった。三つ年下だった二葉亭はその頃のしきたりで当時新しい文学の選手であった「春のやおぼろ」と合著という形で「浮雲」の上巻を出版した。ところが、二葉亭の「浮雲」を熟読して、春のやおぼろは自身の天質がこれからの小説を書いてゆくには適していないことを知って、遂に小説をやめたということが、先生自身の回想として書かれていた。
 この插話は、おどろくような自分を見る眼のあきらかさと同時に、聰明というものの限度の悲しさを私に感じさせる。人生には聰明の及び得るよりさきのものがある。

 私たちの生活の発育というようなものは、つまるところ、刻々の現実にかかわってゆく私たち自身の生きようとする意慾の角度の中から、可能も見出され、様々の予想しないきっかけがとらえられてもゆくものなのではないだろうか。
 男で科学の学問をするような人達はその学問としての道もあり、先輩もあり、従って師というもののありかたも明瞭になって来る。
 文学の上に、師というようなものが固定して考えられるだろうか。影響をうけ、それが大きく意味をもつということはある。しかし、文学を生もうと欲する思いの根柢には、つねに今まで在るものではないもっと切実な、もっと真実に迫った人間感動をつたえたい衝動があって、その地熱のようなものは、個々の人のあらゆる具体的な血管を通じてじかに歴史の鼓動とともに生きている。
 女の場合には男より一層それが社会の通念や常套と絡みあって来る。葛藤が女性を文学以前において消耗する力は、何とおそろしく執拗だろう。そのたたかいの間から漸々いくらかずつ自身の文学を成長させて来ている事実は、現在私たち同時代の婦人作家の殆ど総てが、女性として結婚生活の経験の上に何かの形でそれぞれの痕をもっていることからも考えられると思う。文学に向って何をか求めることは、とりも直さず生活の日々のなかに何かを求めることになる。この芸術本来のいきさつは、女性の場合特別に直接である。
 私として第一次欧州大戦が終った丁度そのときニューヨークに居合せたことは、稀有な歴史的情景とともに、どっさりのことを考えさせられる機会となった。
 武者小路さんが云っている愛というようなものに、疑いを抱いたのもこの時であった。もし人間に無条件に通じ合う愛というものがあり得るなら、こうやって初冬の晴れた大空をいて休戦を告げる数百千の汽笛が鳴り渡るとき、どうして人々は敗けて、而も愛するものを喪った人々の思いを察しようとしないのだろう。歓呼のうちに自分の声も合せながらもう決して還ることのない自分の良人、息子、さては兄弟たちへの思いが今こそまざまざと甦って計らずこぼされる涙の意味を、どうして考えようとしないのだろう。ブロード・ウェイが祝祭の人出と歌と酔っぱらいとで赤くそして青く茄り、顫えているような一九一八年十一月十一日の夜、そのどよめきに漂って微かな身ぶるいを感じながら、私は食べ足りた人々の正義とか人道とかいう言葉に深い深い疑問を感じた。
 その時から十年とすこし経った。
 私は云うに云えない感想をもって、ロンドンのセント・ポールの大寺院の前に佇んでいた。大戦のときの無名戦士の記念碑には、煤でうすよごれた鳩たちの糞がかかっている。見上げるセント・ポールの正面の大石段の日向には上から下まで、失業した男たちがびっしりつまって、或るものは腰かけ或るものは横になり、あたりに散っている新聞の切れはしと一緒になって、それはまるで巨大な生活の屑山のような有様である。
 公園の草原では、若い女たちが二人三人とあちこちにかたまって、靴をぬいで昼飯をぬいた失職の体を暖めている。イギリスの公園と云えば世界に有名だけれども、ロンドンの東部の公園では、遊んでいる子供も大人も顔色から言葉つきからその骨組の工合まで、西側の人々と異っているというのは何故だろう。
 巴里パリの凱旋門の下では、夜も昼も無名戦士の墓辺の焔がもやしつづけられていて、そこには劇的に兵士が立って火を守っていた。
 けれども、その犠牲の様式化され、装飾化されさえしたような美の形式にかかわらず、男一人に女五人の割というフランスで、夕方華やかな装いで街の女が歩きはじめる並木道の一重裏の通りを、黒い木綿の靴下をはいた勤労の女たちが、疲労の刻まれた顔で群をなしていそいで遠い家路に向っていた。木炭瓦斯で自殺したというものの名は、新聞の上で殆どいつも女であった。これは、花の巴里というところのどういう現実を語っているのであったろうか。
 あんなにどっさりの女性が大学程度の教育をうけているイギリスで、あんなに女と愛を理解し大切にすると云われているフランスで、女一人が完全な独立生活を営めるだけの条件はなかなかかち得られないでいることは、私にやっぱり旧い世界共通な自分たち女や子供の生活のありようというものを考えさせた。
 現実の不条理からひきはなして、たとえばフランスのように小さい銀貨の上へ、友愛だの信義だの自由だのという文字を鋳りつけることは、云って見れば何とたやすいことだろう。
 自分がほかならぬ一人の女として、この世代のうちに生きているということに、私は新たな情熱を覚えた。西洋のどこともちがっている日本。而もいとのように張られていつも敏感に震動数高く世界史とかかわりあわずにはいられない日本。いつも笑っていると云われるその日本の女の骨惜みしない心の顔は、自身の言葉として何をのぞみ何をもとめているだろう。私の命のなかにその声が響いていないと誰が云えよう。
 更に十年経って、今日の世界の現実は、窮極における人間の理性というものを益々信ずべきことを私たちに教えていると思う。重畳する波瀾をとおして、もし私たちが女としてただ一つの善意さえ現実に成り出させようと願うなら、いつの時代よりも世紀の紛乱におどろきひるまない判断と、沈着な意志とが求められていることは、明かではないだろうか。
 こうして私たちは少しずつ少しずつ、時にはのぼった山道をまた下るような足どりにも耐えて、自身の成長と歴史の成長とを学び、もたらして行くのだと思う。
〔一九四二年一月〕

底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「婦人公論」
   1942(昭和17)年1月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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