マルクス=エンゲルス全集については、またもう一面の苦労があった。それは、翻訳の文章がむずかしいことである。ドイツ語のよめる人はいつもドイツ語の原文はよくわかると云っていた。これまでの改造社版ができた頃の日本の解放運動のなかで、一つの癖のように使われたぎくしゃくした明晰を欠いた文章がひっかかりとなって、たださえむずかしい部分が、まるでむずかしかった。ほんとに頭が痛くなった。マルクス=エンゲルスの論理的な文章と日本語の構成的集約的でない言語の性格との間から、がたがたしたところができていたのだろう。
こんど新しくマルクス=レーニン主義研究所からもっとも信頼できる人々の手でマルクス=エンゲルス選集が出版されることを私はひじょうにたのしみに思い、よろこばしく思う。こういう本は、学問上の一定のむずかしさはさけがたいにしろ、こんなに急速に発展する人類の生きている古典として、だれにでも、その人の必要と理解力に応じて役に立てられてゆくものでなくてはならない。マルクス=エンゲルス全集というと、その書籍を飾っておくこともその一部分をよんだということも一つのこけおどしであった時代はとうにすぎ去っている。
私は「資本論」をよみとおすことはできなかったけれども、他の部分では、作家として、女として、多くのことを学ぶことができた。文学が、これからますます人民の歴史を語るものになろうとしているとき、文学者は既成の「文学」の枠内で、新らしい骨格を養うことは、ほとんど絶対に不可能である。文章の上からだけいっても社会科学の用語が、小説のなかの生きた言葉になりつつある。生活の現実と実感がそこまでひろがって来ている。
新版のマルクス=エンゲルス選集は、現代作家のだれだれのところに置かれるようになるだろうか。マルクス=エンゲルス全集、レーニン全集、スターリンの論文集と三つを眺めわたすと、その文体にまでも人民解放の歴史の足どり、社会主義の実現と発展のあゆみがてらし出されている。このことは私たちを感動させる事実である。
〔一九四九年十一月〕