みんなが歴史の中に生きている。けれども川の流れに浮んだ一本の藁しべのように、ただ押し流され、吹きよせられ、偶然つづきのうちに生涯を終ってしまいたいと思っている人が、ただの一人だってあるだろうか。
キュリー夫人やコルヴィッツは、ある時代の歴史の中で、特にきわだった個性である。然し、キュリー夫人の活動が可能となる様に、歴史の条件が備わって来る迄には長い人間業績の集積がなければならなかった。世界の物理学が原子の問題をとりあげ得る段階に迄到達していたからこそ、ポーランドの精励なる科学女学生の手はピエール・キュリーの創見と結び合わされ、彼女の手もラジウムの名誉ある火傷のあとをもつようになった。愛は架空にはない。原子が、人間の幸福のために支配されるまで、何万人の科学者たちが、その勤勉な真面目な生涯をこの科学の新分野の探求のために費しただろう。その科学者たちの忠実な妻。その科学研究室の薄給で酬われる名の名声もない、しかし決して彼女らなしに科学が前進しなかった多くの婦人助手たち。キュリー夫人に尊敬と愛とが向けられるのは、これらの婦人たちの一生から彼女が全くかけはなれた「天才」であるからではない。キュリー夫人は、何万人かの科学に献身した彼及び彼女の中のほんとうの一人の代表であるからこそ、彼等の辛苦の典型であるからこそ、彼女の存在には意味があるのである。
ケーテ・コルヴィッツの絵画の価値にしても、そうであると思う。彼女が、もしプレーゲル河の河港に働く正直な人々の生活に何の同感ももち得ない娘であったならば、どこに後年の親愛な畏敬すべきケーテが存在したろう。何の動機で、心のすがすがしい若い医師カール・コルヴィッツと結婚出来たろう。彼女は画家たる前に、先ず正直な勤労で社会に生きてゆく人々の群の一員であった。自分の手にはレース手套をはめて、通りがかる野暮なスカートの女の節高い指を軽蔑して眺めるたちの婦人ではなかった。そのことこそ、彼女の芸術上のいのちとなった。あんなに時代おくれの貴族生活の雰囲気の中で矛盾だらけの苦しみの中から生きようとしてもがき通した可憐なマリア・バシュキルツェフにしても、たった一枚彼女の生涯の記念としてのこされている「出あい」は、ほんのありふれた、どの街角にもある壊れた板塀や、その前で子供らしく円まっちくて曲った脚をして指をくわえている一年生たちの姿を生かしたものではないか。マリア・バシュキルツェフの日記の面白さは、一つの特徴ある個性が境遇の封鎖を破って、どうにかして人間らしく人間の中に生きようとした、その真摯な格闘にあるのである。
或る場合一冊の伝記は数冊の小説よりも人の心をうつ。それは何故であろうか。絶えず自分たちの人生について無感覚でいられないすべての人は、昨日という再びかえらない日をうしろにしながら、明日に向って生きている。その時間の道ゆきを、自分ではない人々はどんな力量をふるって内容づけて行ったか。そこに尽きない同感と批判とが誘い出されるのである。伝記は、自分と自分の生きている歴史の関係をよりはっきりと見出すためによまれる。明日の価値をうみ出すためによまれる。昨日のために読まれるものではない。少くとも、私はそう信じている。そして、又何かの機会に、もっといろいろの分野の、いろいろの活動をした世界の婦人たちの短かい物語を書いてみたいと思っている。
〔一九四六年十月〕