一 蜂

 私のうちの庭は、わりに背の高い目垣めがきで、東西の二つの部分に仕切られている。東側の方のは応接間と書斎とその上の二階の座敷に面している。反対の西側の方は子供部屋と自分の居間と隠居部屋とに三方を囲まれた中庭になっている。この中庭の方は、垣に接近して小さな花壇があるだけで、方三げんばかりの空地は子供の遊び場所にもなり、また夏の夜の涼み場にもなっている。
 この四つ目垣には野生の白薔薇をからませてあるが、夏が来ると、これに一面に朝顔や花豆をわせる。その上に自然に生える烏瓜からすうりからんで、ほとんど隙間のないくらいに色々の葉が密生する。朝戸をあけると赤、紺、水色、柿色さまざまの朝顔が咲き揃っているのはかなり美しい。夕方が来ると烏瓜の煙のような淡い花が繁みの中から覗いているのをがせせりに来る。薔薇の葉などは隠れて見えないくらいであるが、垣根の頂上からは幾本となく勢いの好い新芽を延ばして、これが眼に見えるように日々生長する。これにまた朝顔や豆の蔓がからみ付いてどこまでも空へ空へと競っているように見える。
 この盛んな勢いで生長している植物の葉の茂りの中に、枯れかかったような薔薇の小枝からすすけた色をした妙なものが一つぶら下がっている。それは蜂の巣である。
 私が始めてこの蜂の巣を見付けたのは、五月の末頃、垣の白薔薇が散ってしまって、朝顔や豆がやっと二葉の外の葉を出し始めた頃であったように記憶している。花の落ちた小枝をっているうちに気が付いて、よく見ると、大きさはやっと拇指おやゆびの頭くらいで、まだほんの造り始めのものであった。これにしっかりしがみ付いて、黄色い強そうな蜂が一匹働いていた。
 蜂を見付けると、私は中庭で遊んでいる子供達を呼んで見せてやった。都会で育った子供には、こんなものでも珍しかった。蜂の毒の恐ろしい事を学んだ長子等は何も知らない幼い子にいろんな事を云っていましめたりおどしたりした。自分は子供の時に蜂を怒らせて耳たぶを刺され、さんしちの葉をもんですりつけた事を想い出したりした。あの時分はアンモニア水を塗るというような事は誰も知らなかったのである。
 とにかくこんなところに蜂の巣があってはあぶないから、落してしまおうと思ったが、蜂の居ない時の方が安全だと思ってその日はそのままにしておいた。
 それから四、五日はまるで忘れていたが、ある朝子供等の学校へ行った留守に庭へ下りた何かのついでに、思い出してのぞいてみると、蜂は前日と同じように、からだ逆様さかさまに巣の下側に取り付いて仕事をしていた。二十くらいもあろうかと思う六角の蜂窩ほうかの一つの管に継ぎ足しをしている最中であった。六稜柱形ろくりょうちゅうけいの壁の端をあごでくわえて、ぐるぐる廻って行くと、壁は二ミリメートルくらい長く延びて行った。その新たに延びた部分だけが際立きわだって生々しく見え、上の方の煤けた色とは著しくちがっているのであった。
 一廻り壁が継ぎ足されたと思うと、蜂はさらにしっかりとからだの構えをなおして、そろそろと自分の頭を今造った穴の中へ挿し入れて行った。いかにも用心深く徐々そろそろと身体を曲げて頭の見えなくなるまで挿し入れた、と思うと間もなく引き出した。穴の大きさを確かめて始めて安心したといったように見えた。そしてすぐに隣の管に取りかかった。
 私はこの歳になるまで、蜂のこのような挙動を詳しく見た事がなかったので、強い好奇心に駆られて見ているうちに、この小さな昆虫の巧妙な仕事を無残に破壊しようという気にはどうしてもなれなくなってしまった。
 それからは時々、庭へ下りる度にわざわざ覗いてみたが、蜂の居ない時はむしろ稀であった。見る度に六稜柱の壁はだんだんに延びて行くようであった。
 ある時は顎の間に灰色の泡立った物質をいっぱい溜めている事が眼についた。そして壁を延ばす代りに穴の中へ頭を挿しこんで内部の仕事をやっている事もあった。しかしそれがどういう目的で何をしているのだか自分には分らなかった。
 そのうちに私は何かの仕事にまぎれて、しばらく蜂の事は忘れていた。たぶん半月ほど経ってからと思うが、ある日ふと想い出して覗いてみると蜂は見えなかった。のみならず巣の工事は前に見た時と比べてちっとも進んでいないようであった。なんだか予想が外れたというだけでなしに一種の――ごく軽い淋しさといったような心持を感じた。
 それから後はいつまで経っても、もう蜂の姿は再び見えなかった。私はどうしたのだろうと色々な事を想像してみた。往来で近所の子供にでも捕えられたか、それとも私の知らないような自然界の敵に殺されたのかとも考えてみた。しかしまたこの蜂が今現にどこか遠いところで知らぬ家の庭の木立に迷って、あてもなく飛んでいるような気もした。
 私は親しい友達などが死んだ後に、独りで街の中を歩いていると、ふとその友が現に同じ東京のどこかの町を歩いている姿をありあり想像して、云い知れぬ淋しさを感ずる事があるが、この蜂の場合にもこれとよく似た幻を頭に描いた。そして強い眩しい日光の中にキラキラして飛んでいる蜂の幻影が妙に淋しいものに思われて仕方がなかった。
 ある日何かの話のついでにSにこの話をしたら、Sは私とはまるでちがった解釈をした。蜂は場所が悪いから断念して外へ移転したのだろうというのである。そう云われてみればあるいはそうかもしれない。実際両側に広い空地を控えたこの垣根では嵐が吹き通したり、雨に洗われたり、人の接近する事が頻繁であったりするので蜂にとってはあまり都合のいい場所ではない。しかし果して蜂がその本能あるいは智慧で判断していったん選定した場所を、作業の途中で中止して他所よそへ移転するというような事があるものか、ないものか、これは専門の学者にでも聞いてみなければ判らない事である。
 もしSの判断が本当であったとしたら、つまり私は自分の想像の中で強いて憐れな蜂を殺してしまって、その死を題目にした小さな詩によって安直な感傷的の情緒を味わっていた事になるかもしれない。しかしいずれにしても私の幻想を無雑作に事務的に破ってしまったSに対して、軽い不平を抱かないではいられなかった。そしてこんな些細な事柄にもオプチミストとペシミストの差別は現われるものかと思ったりした。
 今日覗いてみると蜂の巣のすぐ上には棚蜘蛛たなぐもが網を張って、その上には枯葉や塵埃がいっぱいにきたなくたまっている。蜂の巣と云いながら、やはり住む人がなくて荒れ果てた廃屋のような気がする。この巣のすぐ向う側に真紅のカンナの花が咲き乱れているのがいっそう蜂の巣をみじめなものに見せるようであった。
 私はともかくこの巣を来年の夏までこのままそっとしておこうと思っている。来年になったらこの古い巣に、もしや何事か起りはしないかというような予感がある。

      二 乞食

 ある朝Qが訪ねて来た。
 この男は、私の宅へ来る時には、きっと何か一つ二つ皮肉なそして私を不愉快にするような暗示に富んだ言詞ことばを用意して来るように見える。そして話しているうちに適当あるいは不適当な機会を捕えてその言詞を吐き出してしまうまでは落ち付く事が出来ないように見える。ともかくもそれを云ってしまうと、それまでひどく緊張してきつい表情をしていた彼の顔が急に柔らかになってくる、そして平生気持の悪いような青黒い顔色には少し赤味さえさして来て、見るから快いような感じに変化するのである。
 私はこの男の癖をよく知っていて、かなり久しく馴らされているし、またそのような特殊な行為の動機も充分に諒解しているので、別に大して気にしないつもりではいるが、それでもこの男と話した後ではどこか平常とはちがった心持になっているものと思われる。そうだという事が、その後に自分の身辺に起る些細な事柄に対する自分の情緒の反応によって証明される場合があるように見える。
 この日Qが用意して来た材料は、私の病気に関した事であった。つまり私が、わざわざ自分の病気をわるくして長引かしては密かに喜んだりする一種の精神病者に似た心理状態にあるという事を巧みに暗示すると云うよりはむしろ露骨に押しつけようというのであった。自分はQに云われる前から自分の頭の奥底にどこかこのような不合理な心理状態が潜んでいるのではないかと疑ってみた事があっただけにこのQの暗示はかなりのききめがあった。
 Qが帰ってから昼飯を食った。それから子供部屋へ行ってオルガンをひいた。
 その日はよく晴れて暑い日であった。子供部屋の裏の縁先にある花壇には、強烈な正午過ぎの日光が眩しいように輝いて、草木の葉もうなだれているようであった。花豆の赤い花が火のように見えた。しかしこの部屋はいちばん風がよく吹き通すので、みんながここに集まっていた。子供等は寝転んで本を見ているのもあれば、絵具箱を出して絵を描いているのもあった。老人はふすまに背をもたせて御伽噺おとぎばなしの本を眼鏡でたどっていた。私は裏庭を左にした壁のオルガンの前に腰かけて、指の先の鍵盤から湧き上がる快い楽音の波に包まれて、しばらくは何事も思わなかった。
 涼しい風が、食事をして汗ばんだ顔をでて行くと同時に楽譜の頁を吹き乱した。そして頭の中のあらゆる濁ったものを吹き払うような気がした。
 手頃な短い曲をいくつか弾いてから、いつもよくやるペルゴレシの Quando corpus morietur というのをやり始めた。これは Stabat mater の一節だというから、いずれ十字架の下に立った聖母の悲痛を現わしたものであろう。私はこれをひいていると、歌の文句は何も知らないのにかかわらず、いつも名状の出来ないような敬虔と哀愁の心持が胸に充ちるのを覚える。
 この曲の終りに近づいた頃に、誰か裏木戸の方からはいって来て縁側に近よる気はいがした。振り向いてみると花壇の前の日向ひなたに妙な男が突っ立っていた。
 三十前後かと思われる背の低い男である。汚れた小倉こくら霜降しもふりの洋服を着て、脚にも泥だらけのゲートルをまき、草鞋わらじいている。頭髪は長くはないが踏み荒らされた草原のように乱れよごれ、あごには虎髯とらひげがもじゃもじゃ生えている。しかし顔にはむしろ柔和な、人の好さそうな表情があった。ただ額の真中に斜めに深く切り込んだような大きな創痕きずあとが、見るも恐ろしく気味悪く引き釣っていた。よく見ると右の腕はつけ元からなくて洋服の袖はむなしくだらりと下がっている。一足二足進み寄るのを見ると足も片方不随であるらしい。
 彼は私の顔を見て何遍となく頭を下げた。そしてしゃれた、胸につまったような声で、何事かしきりに云っているのであった。顔いっぱいに暑い日が当って汚れた額の創のまわりには玉のような汗が湧いていた。
 よく聞いてみるとある会社の職工であったが機械に喰い込まれて怪我をしたというのである。そして多くの物貰いに共通なように、国へ帰るには旅費がないというような事も訴えていた。
 幾度となくおじぎをしては私を見上げる彼の悲しげな眼を見ていた私は、立って居室の用箪笥ようだんすから小紙幣を一枚出して来て下女に渡した。下女は台所の方に呼んでそれをやった。
 私が再びオルガンの前に腰を掛けると彼はまた縁側へ廻って来て幾度となく礼を云った。そして「旦那様、どうぞ、御からだを御大事に」と云った。さらに老人や子供等にも一人一人丁寧ていねいに礼を云ってから、とぼとぼと片足を引きずりながら出て行くのであった。
「どうぞ、御からだを御大事に」と云ったこの男の一言が、不思議に私の心に強く滲み透るような気がした。これほど平凡な、あまりに常套であるがためにほとんど無意味になったような言葉が、どうしてこの時に限って自分の胸に喰い入ったのであろうか。乞食こじきの眼や声はかなり哀れっぽいものであったが、ただそれだけでこのような不思議な印象を与えたのだろうか。
 しゃがれた声に力を入れて、絞り出すように云った「どうぞ」という言葉が、彼の胸から直ちに自分の胸へ伝わるような気がすると同時に、私の心の片隅のどこかが急に柔らかくなるような気がした。そしてもう一度彼を呼び返して、何かもう少しくれてやりたいような気さえした。
 黙って乞食の挙動を見ていた子供等は、彼が帰ってしまうと、額のきずや、片手のない事などを小声でひそひそと話し合っていたが、間もなく、それぞれの仕事や遊びに気を奪われてしまったようである。子供等の受けた印象は知る事は出来ない。
 乞食は私の病気の事などはもとより知っているはずはなかった。おそらく彼は誰の前にも繰返すお定まりの言詞を繰返したに過ぎないだろう。ただそれがQの冷罵れいばとペルゴレシの音楽とのすぐ後に出くわしたばかりに、偶然自分の子供らしいイーゴチズムに迎合したのかもしれない。
 しかし私が彼の帰って行く後姿を見た時に突然ひらめいた感傷的な心持の中には、後から考えるとかなり色々なものが含まれていたようである。例えば自分があの乞食であって門から門へと貰って歩くとする。どこの玄関や勝手口でも疑いと軽侮の眼でにらまれ追われる。その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒だんらんがあって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはしないだろうか。少なくともこの時のこの男はそんな心持がしたのではないかという気がする。彼の顔の表情には私がこれまで見たあらゆる乞食に見られない柔らかく温かいある物があった。
 彼はそれきり来ない。もう一度来ないかしらとも思うが、やはりもう来てくれない方がいい。

      三 簑虫

 八月のある日、空は鼠色に曇って雨気を帯びた風の涼しい昼過ぎであった。私は二階の机にもたれてK君に端書はがきを書いていた。端書の面の五分の四くらいまで書くと、もう何も書く事がなくなったので、万年筆を握ったまま、しばらくぼんやり、縁側の手欄てすり越しに庭の楓樹かえでの梢を眺めていた。すると私のすぐ眼の前に突き出ている小枝に簑虫みのむしのぶら下がっているのが眼に付いた。それはこの虫としてはかなり大きいものであった。よく見ると簑は主に紅葉もみじの葉の切れはしや葉柄ようへいつづり集めたものらしかったが、その中に一本図抜けて長い小枝が交じっていて、その先の方は簑の尾の尖端から下へ一すんほども突き出て不恰好に反りかえっていた。それがこの奇妙な紡錘体の把柄とってとでも云いたいような恰好をしているのであった。枝に取り付いている上端は眼に見えないほど小さい糸になっているので、風の吹く度に簑はさまざまに複雑な振子運動をし、また垂直な軸のまわりに廻転もしていた。今にも落ちそうに見えるが実はなかなかしっかりしているのであった。簑虫自身は眠っているのか、あるいは死んでいるのか、ともかくもこのからびた簑を透して中に隠れた生命の断片を想像するのは困難なように思われた。それで私は今書きかけた端書のさきへこんな事を書き加えた。
「今僕の眼の前の紅葉の枝に簑虫が一匹いる。僕は蟻や蜂や毛虫や大概の虫についてその心持と云ったようなものを想像する事が出来ると思うが、この簑虫の心持だけはどうしても分らない。」
 これだけで端書の余白はもうなくなってしまったが、これが端緒になって私はこの虫について色々の事を考えたり想像したりした。
 昔の学者などの中にはほとんど年中、あるいは生涯貧しい薄暗い家の中に引き籠ったきりで深い思索や瞑想に耽っていたような人もあったらしい。こんな人達はすぐ隣に住んでいるゴシップ等の眼にはあるいはちょうどこの簑虫のように気の知れない、また存在の朧気おぼろげなものとしか見えなかったかもしれない。現世とはただわずかな糸でつながって、飄々ひょうひょうとして風に吹かれているような趣があったかもしれない。ただ簑虫とちがうのは、幾年かの後に思索研究の結果を発表して、急にあるいは徐々に世間を驚かした事である。しかし中にはまとまった結果を得なかったり、また得てもそれを発表しないで死んでしまった者も沢山あるかもしれない。そんな人は脇目にはこの簑虫と変ったところはなかったかもしれない。
 こんな空想にふけりながら見ていると、簑の上に隙間なく並んでいる葉柄の切片が、なんだかこの隠れた小哲学者の書棚に背皮を並べた書物ででもあるような気がした。
 この簑について思い出すのは、私が子供の時分に、母か誰かに教わったままに、簑虫の裸にしたのを細かに刻んだ色々の布片と一緒にマッチの空箱の中に入れて、五色の簑を作らせようとした事である。この試験の結果は熱心な期待を裏切って、虫は死んでしまった。それにもかかわらず、美しい五彩の簑を纏うた虫の心象イメージだけは今も頭の中に呼び出す事が出来る。ところが、つい近頃私の子供等がやはり祖母にこの話を聞いて私の失敗した経験を繰返していたようである。いったいこの話は事実であろうか。事実であるとしても稀有けうな事であるか、それとも普通な事であろうか。私の母自身にも実際自分で経験したのではないかもしれないが、つい今までそれを確かめてはみなかった。また別に今すぐ確かめようとも思っていない。そういう種類の事が容易たやすくたしかめられようとは思わないからである。
 こんな事からつぎつぎに空想をたどりながら、私は人間のあらゆる知識に関するいわゆるオーソリティというものの価値に考え及んだ。そして考えれば考えるほど、今まで安心だとばかり思っていた色々の知識の根柢が、脚元からぐらついて来るような気がした。しかしその時考えた事はここに書くにはあまりに複雑でそしてデリケートな、そして纏りのつきかねるものであった。
 このような事を考えた翌日の同じ時刻に私は例のように二階の机の前に坐った。そして昨日の簑虫はと思っておおよそこの辺かと思う見当を捜してみたが見付からない。そのうちにずっと高いところの大きな枝に何か動くものがあると思ってよく見ると、それが昨日のあの把柄のついた簑虫であった。ただ意外な事には、昨日生死も分らないように静まり返っていたあの小哲学者とは思われないように活動しているのであった。簑の上端から黒く光った頭が出ていた。それが波を打って動くにつれて紡錘体は一刻みずつ枝の下側に沿うて下りて行った。時々休んで何か捜すような様子をするかと思うとまた急いで下りて行く、とうとう枝の二叉ふたまたに別れたところまで来ると、そこから別の枝に移って今度は逆に上の方へ向いて彼の不細工な重そうな簑を引きずり引きずり這って行くのであった。把柄のような長い棒がいかにも邪魔そうに見えた。
 見ているうちにだんだん滑稽な感じがして来てつい笑わないではいられなくなった。そして昨日K君に書いた端書は訂正しなければならないと思った。昨日の哲学者も今日はやっぱり自分の家を荷厄介に引きずりながら、長過ぎて邪魔な把柄をもて扱いながら、あくせくと歩いていた。いったいどういう目的で歩いているのだろうと考えてみたが、たぶんやはり食うためだろうとしか思われなかった。
 その日の夕方思い付いて字引でみのむしというのを引いてみると、この虫の別名として「木螺ぼくら」というのがあった。なるほど這って行く様子はいかにも田螺たにしかあるいは寄居虫やどかりに似ている。それからまた「避債虫」という字もある。これもなかなか面白いと思った。それから手近な動物の事をかいた書物を捜したが、この虫の成虫であるべき蝶蛾がどんなものであるか分らなかった。英語では何というかと思って和英辞書を開けてみたが虫の一種とあるばかりで要領を得なかった。いったいこの虫が西洋にも居るだろうか。もし居れば、こんな面白い虫の事だから、ずいぶん色々な人が色々な事をこれについて書いたのがありそうなものだと考えたりした。昆虫学者に会ったら聞いてみたいものだと思っている。
「簑虫鳴く」という俳句の季題があるのを思い出したから、調べついでに歳時記をあけてみると清少納言の『枕草紙』からとして次のような話が引いてある。「簑虫の父親は鬼であった。親に似て恐ろしかろうといって、親のわるい着物を引きかぶせてやり、秋風が吹く頃になったら来るよとだまして逃げて行ったのを、そうとは知らず、秋風を音にきき知って、父よ父よと恋しがって鳴くのだ」というのである。どういうところから出た伝説だか、あるいは才女の空想から生み出された事だか、とにかく現代人の思いも付かないような事を考えたものである。しかしこの清少納言のオーソリティが九百年もそのままに保存されて来たとすると、自然界に対する日本人の知識がいかに長い間平和安穏であったかという事を物語っている。
 その後も二階へ上がる度に気をつけて見ると、簑虫の数は一つや二つではない。大小さまざまのが少なくも七つ八つは居るらしい。長い棒の付いたのはまだ外にも居た。中にはちょうど一本足の案山子かかしに似たのもある。あるいは二本の長い棒を横たえた武士のようなのも居る。皆大概はじっとしているが、午頃ひるごろには時々活動しているのを見受ける。彼等にも一定の労働時間や食事の時間があるのかと思ったりした。ある時大きなのがちょうど紅葉の葉を食っているところを見付けたが、頭をさしのべて高いところの葉を引き曲げかいこが桑を食うと同じようにして片はしから貪り食うていた。近辺の葉はもうだいぶ喰い荒されているのであった。こんなところを見ているうちに簑虫に対する自分の心持はだんだんに変って来た。そして虫の生活が次第に人間に近く見えて来ると同時に、色々の詩的な幻覚イリュージョンは片端から消えて行った。
 M君が来た時に、この話をしたら、M君は笑って、「だいぶ暇だと見えるね」と云った。しかし、M君自身もやはりだいぶ暇だと見えて、この間自分で蟻の巣を底まで掘り返してみた経験を話して聞かせた。

      四 新星

 毎年夏になってそろそろ夕方の風が恋しい頃になると、物置にしまってある竹製の涼み台が中庭へ持ち出される。これが持ち出される日は、私の単調な一年中の生活に一つの著しい区切りを付ける重要な日になっている。もう明日あたりは涼み台を出そうじゃないかという事が誰かの口から云い出される。しかしその翌日が雨であったり、そうでなくても色々の事に紛れたりしてつい一日二日と延びる。そのうちにいよいよ今日はという事になって朝のうちに物置の屋根裏から台が取り下ろされ、一年中の塵埃やかびが濡れ雑巾で丁寧に拭い清められ、それから裏庭の日蔭で乾かされる。そしていよいよ夕方になってから中庭に持ち出されると、それで始めて私の家に本当に夏が来たという心持になるのである。
 涼み台の外に折り畳み椅子が三つ同時に並べられて一同が中庭へ集まる。まだ明るい宵のうちには縄飛びをする者もあれば、写生帖を出しておばあさんの後姿をかいているのもある。明朝咲く朝顔のつぼみを数えて報告するのもある。幼い女児二人は縁側へいろいろなお花を並べて花屋さんごっこをする事もある。暗くなると花火をしたり、お伽噺をしたり、おばあさんに「お国の話」をさせたりしている。幼い子等には、まだ見たことのない父母の郷国が、お伽噺の中の妖精国のように不思議な幻像に満たされているように思われるらしい。例えば郷里の家の前の流れに家鴨あひるが沢山並んでいて、夕方になると上流の方の飼主が小船で連れに来るというような何でもない話でさえ、何かしら一種の夢のようなものを幼い頭の中に描かせると見える。それでいつも「おくにの話」をねだってはおしまいに「あたしもお国へ行きたいなあ」と一人が云うと、もう一人が同じ言葉を繰返すのである。子供等の亡祖父の若かった頃の昔話もしばしば出る。私自身が子供の時分に幾度も聞かされた話が、また同じ母の口から出るのを聞いていると、それがもう遠い遠い昔の出来事であって、数年前まで生きていた私の父に関する話とは思われないような気がする。まして祖父を見た事のない、あるいは朧気にしか覚えていない子供等には、会津戦争や西南戦争時代の昔話は書物で見る古い歴史の断片のようにしか響かないだろう。そしてそれだけにかえって祖父に対するなつかしみは浄化され純化されて子供等の頭の中の神殿に収められるだろうと思ったりする。
 今年の夏始めに、涼み台が持ち出されて間もなく、長男が宵のうちに南方の空に輝く大きな赤味がかった星を見付けてあれは何かと聞いた。見るとそれは黄道に近いところにあるし、チラチラ瞬きをしないからいずれ遊星にはちがいないと思った。そして近刊の天文の雑誌を調べてみるとそれが火星だという事がすぐに判った。星座図を出して来てあたってみるとそれは処女宮ヴィルゴの一等星スピカの少し東に居るという事がわかった。それでその図の上に鉛筆で現在の位置をしるし、その脇へ日附をかいておいて、この夏中のこの遊星の軋道を図の上で追跡してみようという事にした。
 それが動機になって子供は空のよくはれた晩には時々星座図を出して目立った星宿せいしゅくを見較べていた。その頃はまだ織女しょくじょ牽牛けんぎゅうは宵のうちにはかなりに東にあった。西の方の獅子宮には白く大きな木星が屋根越しに氷のような光を投げていた。
 星座図にある「変光星」というのは何かという疑問も出た、私は簡単な説明をしてやってちょうど見えていた「織女ヴェガ」のすぐ隣のベータ・ライラの面白い光度の変化を注意させた。それから夜ごとに気を付けて見ていると果して天文雑誌にある予報の通りに光が変るという事実が子供の頭にどういう風に感ぜられたか、それは私には分らなかった。
 空を眺めているうちに時々流星が飛んだ。私は流星の話をすると同時に、熱心な流星観測者が夜中空を見張っている話をして、それからいわゆる新星ノヴァの発見に関する話もして聞かせた。おもだった星座を暗記していれば素人しろうとでも新星を発見し得る機会チャンスはあるという事も話した。
 一秒時間に十八万六千マイルを走る光が一ヶ年かかって達する距離を単位にして測られるような莫大な距離をへだてて散布された天体の二つが偶然接近して新星の発現となる機会は、例えば釈迦の引いた譬喩ひゆ盲亀もうき百年に一度大海から首を出して孔のあいた浮木にぶつかる機会にも比べられるほど少なそうであるが、天体の数の莫大なために新星の出現はそれほど珍しいものではない。ただ光度の著しく強いのが割合に稀である。
 こんな話よりも子供を喜ばせたのは、新星の光が数十百年の過去のものだという事であった。わが家の先祖の誰かがどこかでどうかしていたと同じ時刻に、遠い遠い宇宙の片隅に突発した事変の報知が、やっと今の世にこの世界に届くという事である。
 しかしそう云えばいったいわれらが「現在」と名づけているものが、ただ永劫な時の道程の上に孤立した一点というようなものに過ぎないであろうか。よく考えてみるとそんなに切り離して存在するものとは思われない。つまりは遠い昔から近い過去までのあらゆる出来事にそれぞれの係数を乗じて積分インテグレートした総和が眼前に現われているに過ぎないのではあるまいか。
 こんな事を考えたりしながら、もう聞き古した母の昔話を今までとは別な新しい興味をもって聞く事もあった。
 八月になってから雨天や曇天がしばらく続いて涼み台も片隅の戸袋に立てかけられたままに幾日も経った。
 ある朝新聞を見ていると、今年卒業した理学士K氏が流星の観測中に白鳥星座に新星を発見したという記事が出ていた。その日の夕方になると涼み台へ出て子供と共にその新星を捜したらすぐ分った。しばらく見なかった間に季節が進んでいる事は織女牽牛が宵のうちに真上に来ているのでも知られた。そして新星はかなり天頂に近く白鳥座の一番大きな二等星と光を争うほどに輝きまたたいているのであった。
「しばらく怠けたので新星の発見をし損なったね」と云ったら、子供はどう思ったか顔を真赤にして、そしてさも面白そうに笑っていた。
 私は冗談のつもりで云ったのだが子供には私の意味がよく分るまいと思った。それで誤解をしないために次のような説明をしておかなければならなかった。
 新星の出現する機会チャンスはきわめて少ない。われわれ素人が星座の点検をする機会もまたはなはだ少ない。従って先ず新星が現われて、それからわれわれがそれを発見するという確率プロバビリティは、二つの小さな分数の相乗積であるから、つまりごく小さいもののまだ小さい分数に過ぎない。これに反して毎晩欠かさず空の見張りをしている専門家にとっては、「偶然」はむしろ主に星の出現という事のみにあって、われわれの場合のように星と人とに関する二重の「偶然」ではない。強いて云えば天気の晴曇や日常の支障というような偶然の出来事のために一日早く見付けるかどうかという事が問題になるだけであろう。
 この説明は子供には、よく分らないらしかった。
 そのうちにまた曇天が続いて朝晩はもう秋の心地がする。どうかすると夜風は涼し過ぎる。涼み台もつい忘れられがちになった。従って星の事ももう子供の頭からは消えてしまっているらしい。新星の今後の変化を研究すべき天文学者の仕事はこれから始まるので、学者達は毎晩曇った空を眺めては晴間を待ち明かしている事であろう。

      五 幼い Ennui

 夏休み中に一度は子供等を連れて近くの海岸へ日返りの旅をするのが近年の常例になっていた。その以前には一週間くらい泊りがけで出かける事にしていたが、そうするときっときまったように誰かが転地先で病気をした。ある年は母がひどい腸加答児カタルに罹って半年ほど後までも祟られた。またある年は父子三人とも熱が出たり腸を害したりして、不安心な怪しげな医者の手にかからねばならなかった。そのうちに知人のある者は保養地で疫痢えきりのために愛児を亡くしたりした。それでもう海水浴というものが恐ろしくなって、泊りがけに行く気にはなれなくなってしまった。それでも一度も行かないのは子供等に気の毒なような気がするので、日返り旅行という事を考えついてそれにきめていたのである。子供等はそれでも十分に満足していたようである。
 今年は自分が病気で行かれない事になった。のみならず二人の男の子も健康に故障があって旅行はあまり望ましくなかったので、とうとうどこへも行かない事にきめた。その代りに銘々めいめいに何か望みの本や玩具を買ってやる事にして、それで現代が生み出したこの一種の新しい父親の義務といったようなものをゆるしてもらう事にした。
 年とった方の子供等は書籍を買った。近頃絵が面白くなった末から二番目の八重子は水彩絵具と筆とを買って規定の金額は一度に使ってしまった。末の冬子は線香花火や千代紙やこまごました品を少しずつしか買わないので、配当されたわずかな金が割合に長く使いでがあるようであった。そういう事実は多少小さな姉や兄の注意をひいているらしかった。
 学校へ出ている子等は毎朝復習をしていた。まだ幼稚園の冬子はその時間中相手になってくれる人がないので、仲間はずれのわびしさといったようなものを感じているらしかった。それで自分も祖母の膝の前へ絵雑誌などをひろげてやはり一種の復習をしている事もあった。
 この四、五月頃から父親が毎日絵を描いていたのが子供等に影響して、みんなが熱心な自由画家になってしまった。誰の発案だか小さな「絵の雑誌」をこしらえた。五人の子供が銘々に隠しあって描いたのを長女が纏めて綴った後に発表する事にしていた。「みそさざい」という名前をつけて一週間に一回くらいずつ発行したのが存外持続して最近には第九号が刊行されたようである。表紙画は順番で受け持つ事になっているらしい。
 出品画を書いているうちは、ひどく人の見るのを厭がって、みんな方々の部屋の隅へ頭をつっこんで描いていた。時々兄さん達が無理に覗きに来ていけないという訴えが小さい子等から母や祖母の前に提出されているようであった。画家の中には未成品を人に見られる事を厭がる人がずいぶん多いようであるが、これには無論種々な複雑な実際的の理由もあるに相違ない、しかしその外にやはり子供の時から既にっている一種の妙な心理作用も手伝っている場合がありそうに思われた。
 五人の描く絵が五人ながら、それぞれの小さな個性を主張しているのがかなり目立って見えた。のみならず銘々にもう既にきまった一種の型のようなものが芽を出しかけているのであった。何と云ってもいちばん多くの独創的な点をもっているのはいちばん小さい冬子の自由画であったが、その面白い点が一度認められ賞められるとそれがもう十八番になって、例えば富士山が出だすとそれがいかなる絵にでも必ず現われるのであった。今度は趣向を変えて驚かしてやろうというような気はさすがにまだ無かった。
 そのうちにまた「みそさざい」文章号というのが発行された。私が読書している隣りの室で、八重子と宗二とがひそひそ話し合っては、宗二が何か半紙へ書いていると思ったら、それは八重子作の御伽噺を兄が筆記しているのであった。出来上がったのを見ると、ずいぶん色々の文章や歌があった。長男のは感想的のもので姉や弟の絵や文章の傾向が論じてあったりした。八重子の日記にはおやつおかずの事がだいぶ詳しくかいてあった。冬子の「ホシ」と題した歌のようなものがあったが、意味のどうしても分らない全く未来派のようなものであった。
 子供等がこんな事をして割合に仲よく面白く遊んでいるうちに夏休みは容赦もなく経って行った。もう幾つ寝ると学校や幼稚園が始まるかという事が幼い子等によって毎日繰返されるようになった。そう思って見るせいか、子供等の顔にはどこかに倦怠の影がうかがわれた。私は親類や知人の誰彼が避暑先からよこした絵葉書などを見る度に、なんだか子供等にまだなんらかの負債をしているような心持を打消す事が出来なかった。
 ある夕方一同が涼み台と縁側に集まっていろんな話をしている間に、去年みんなである夜銀座へ行ってアイスクリームを食った時の話が出た。それを聞くと八重子と冬子が今年も銀座へ連れて行ってくれと云い出した。実際昨年行ったきりでその後一度も行かなかったのである。
 翌日の夕方は空もよくはれ夕立のおそれも無さそうであるし、風も涼しくて漫歩には適当であったから、妻に五人の子供を連れさして銀座へ遊びにやった。末の二人はどんな好いところへ行くかと思われるように喜んで、そして自分等の好みで学校通いの洋服を着せてもらって、一時間も前から靴をはいて勇んで飛び廻っていた。私はこの二人のむしろ見すぼらしい形ばかりの洋服を見比べているうちに一種の佗しさを感じた。その佗しさはおそらく吾々階級の父親がこのような場合に感ずべき共通のものだろう。
 子供等が出て行った後で私は涼み台で母とただ二人で話していた。座敷の電気もおおかた消してしまったので庭は暗かった。家中が珍しくしんとして表庭の方で虫の音が高く聞えていた。
 十時頃に床へはいって本を読んでいると門の戸が開いて皆がどやどや帰って来た。どうしたのか冬子が泣きながらはいって来て、着物をきかえ床へはいってもまだしくしく泣いていた。どうしたかと聞いてみても何も云わないし、外のものにも何故だか分らなかった。
 銀座を歩いて夜店をひやかしているうちに冬子が「どうして早く銀座へ行かないの」と何遍も聞いたそうである。ここが銀座だと説明しても分らなかった。どうも銀座というのはアイスクリームのある家の事と思っていたらしいという事である。宅の門までは元気よく帰って来たのが、どうしたか門をはいると泣き出したそうである。
 私は「珍しく繁華な街へ行ったからかんでも起ったのだろう」と云った。私がこれを云うと同時に冬子は急に泣き止めた。そして何か考えてでもいるような風であったが間もなくすやすや寝入ってしまった。
(大正九年十一月『中央公論』)

底本:「寺田寅彦全集 第二巻」岩波書店
   1997(平成9)年1月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2005年2月20日作成
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