夏目夫人、――「改造」の正月号を読んで私が此一文を書かずには居れぬ理由は自然に明かになると思ひます、どうぞ終まで虚心坦懐に御読み下さい。
 漱石さんが東京帝国大学英文学の卒業生で私共の先輩であつたことは曰ふ迄もありません。『英国詩人の天地山川に対する観念』などを『哲学雑誌』で田舎書生が驚嘆の目に読んだのは三十余年の昔です。そして此渇仰の大家の風貌に初めて接したのは『塩釜街道に白菊植ゑて何を聞く聞く、ソリヤ便りきく』の名邑を去る一里余、あやめが浦の海水浴場地の一ホテルに於てでした。『夏目君が……館に来てゐる、先輩に対する礼としてでも往訪するんだが同伴しないか』と私を誘うて下すつたのは同じく英文科の先輩(目下二高の教頭)玉虫一郎一さんでした、同郷の秀才で後同じく英文科に学んだが惜いかな中途で斃れた秀才渡辺芳治君も亦同伴されたと記憶します。『天風海濤』と誰やらの書いた額のある室で、初めて受けた印象は寡言で厳粛な、奥深さうな学者と曰ふに過ぎません、何等の委細のお話を承る機会なしに直ぐ其ホテルをお去りになつたからであります。
 大学一年級の折、同じく、玉虫さん(三年級)に誘はれて本郷の或下宿に参上したことがあります、漱石さんは不在、『すぐお帰りになるでありませう』と宿の者が曰ふので、其室に通つて待つてゐる間、部屋一面の洋書の堆積に吃驚した田舎書生の自分の姿が今も眼中に浮びます。其後漱石さんは松江と熊本とに前後赴任されて次に英国留学生として出発される其送別会(一ツ橋の学士会)に私も列しました。其跡を逐うたといふ訳でも何でも無いのですが、明治三十四年六月同郷の志賀潔さん(当時すでに赤痢菌の発見者として学界を驚した大家)が北里研究所からの在欧研究者として出発されるので、父にせがんで共に常陸丸(後ち日露戦役に撃沈されたもの)の船客として印度洋通過で、英国に着いたのは八月中旬、ヴイクトリヤ停車場に漱石さんのお出迎を忝うし、その下宿――クラパム、コンモン附近のとある素人下宿に落ちつきました、純粋の赤ケツトが何かにつけ指導を被つたのは曰ふ迄もなく、今の追懐にも感謝せずには居れません。十月の末には都合上ロンドン北西部、翌卅五年三月には其近くのタフネル、パークに転居し、其後病気のため英国南岸ブライトン附近に仮寓したこともあります。
 九月上旬夏目さんをもとの下宿に訪問すると(其訪問は全く偶然であつたか、誰からか病気と聞いての上であつたか、忘却)驚くべき御様子――猛烈の神経衰弱、――大体に於て「改造」正月号第二十九ぺージにあなたが御述べになつてゐる通りの次第でした。
 但し同ぺージに『英文学の研究で留学を命ぜられて彼方へ行つてゐた某氏が落合つて様子を見ると、ただ事でない……三日ばかり其方が側についてゐて下すつたさうですが、見るほど益怪しい、そこへ文部省とかへ夏目がロンドンで発狂したといふ電報を打たれたといふことです』とありますが、此中の誤は正さねばなりません。私は文部省派遣の留学生では無く前述の如く、父にせがんでの全く私費生でした、其以前に一年有余二高の教授となつては居ましたが、当時は依願免官のあとで、文部省とは何等の関係のない一私人一浮浪人でありました。何等の関係のない一私人が文部省に対して『貴省の留学生夏目が発狂した……』と打電したなら其こそ本気の沙汰ではありますまい。文部省にせよ、何省にせよ、省の官命に因て派遣された者の行動に関し消息に関して督学官に非ず監督官にあらず一私人が本省に打電するといふべきことはあり得べきことでせうか、常識は之に対して否と答へることは明々白々と信じます。
 始めの二日は日通ひでお見舞しましたが下宿のリイル婆さん(老ミスの姉妹二人)が『心配だから一寸でも傍について見てくれ』と曰ひ、漱石さんも『君が居てくれると嬉しい』と曰はれるので、九月九日(重陽だから暗記し易い)朝まづ領事館に行つて住居変更を届け(翌十日公使館にも同様)五月十八日迄クラパムのチエーズ八十一に滞在しました、大した御役にも立たず、ろくなお世話も出来なかつたのですが、ともかく十日ばかり同宿したのであります(領事館或は公使館に明治三十五年の日本人住居録が若し保存されてあるなら以上の日附の誤ないことが証明されませう、どうでもよいことなのですが)
 其同宿の折であつたか後であつたか、故芳賀矢一先生が独乙留学の期が満ちて帰朝の途中ロンドンに来られました、それで二三の同志が落合つた折、自然話は夏目さんの病気に及びました。其頃ベルリン留学生の或る真面目な方が発狂して下宿屋に放火したといふ一珍談があつたので芳賀先生は『……どうも困つたな、夏目もろくに酒も飲まず、あまり真面目に勉強するから鬱屈して、さうなつたんだらう、もう留学も満期になる頃だが、それを早めて帰朝させたい、帰朝となると多少気がはれるだらう、文部省の当局に話さうか……』――正確には記憶しませんが以上の意味の言葉があつたやうです、(姉崎正治教授がその席にお出ででなかつたか、どうか、何しろ二十五六年前のことなので記憶は朦朧たらざるを得ません)
 あとに述べる通りそれから一ヶ月以内に私は全く英国を去つてしまつたので、くはしい其後の消息はわかりませんが、帰朝の期の早まつたことは良好の結果を来した云々とパリで所謂風の便りに聞いたやうです。多分芳賀先生が文部当局と相談なされての上で無かつたでせうか? 当時文部省には芳賀先生の親友上田萬年博士が専門局長であられたと記憶します、今日の学習院長福原さん、先頃まで大阪高等学校の野田義夫さんも同省に在官であられたでせう。ともかく此件に関しては漱石さんは感謝さるべきであると信じます。
『夏目と同じ英文学の研究者の所から、夏目が失脚すればその地位(!)が自然自分のところにまはつて来るといふので(!)たいした症状もないのにこんな奸策(!)をめぐらしたのだ(!)彼奴は(!)怪しからん奴だ(!)などゝ憤懣の口調を洩してゐたことがありました』『改造』正月号三十ぺージの一段は私にとり意外千万で、今日迄全く思ひもかけなかつた次第であります。
 所謂奸策とは『文部省とかへ打電云々』を指してるのはお言葉の前後から正当に推量されますが、驚き入つた次第です。一私人が文部省に打電云々は前述の如く私自身が発狂せぬ限はあり得ません。もし文部省へでは無い、一官人か一私人かに打電したとなら果して誰に対してですか。甚だケチなことを申すやうでお恥しい次第ですが、懐中乏しい当時の一私費生は(眼前フランス行を決定して居つて)当時ロンドンから日本へ『一文部省留学生が精神病にかゝつた』と発電する余裕は御座いませんでした。一日も早くと消息を聞きたがつてゐる父や母や妻にも『フランス着』の電報を発したのではありませんでした。
 九月十八日夏目さんの宿を辞した私は十月十一日全く英国を去り、ヴイクトリヤ停車場から、ニユーヘブン、デイプを経て武田五一さん(今日京都大学工学部教授)の親切にもルーアン迄の御出迎を受けて同日夕パリに着き、パンテオン附近、カーテルラタンのスーフロウ館、和田英作さん、中村不折さん、中川孝太郎さんの宿に落ちつきました。そして翌年(三十六年)三月頃から南欧の旅に立ち、イタリヤの南端シシリイ島を極として再び北に帰り、瑞西、独乙に各数月を過し、帰国準備のため、ロンドンに帰つたのは三十七年の秋、日露戦役の闌なりし頃、そして懐しい日東帝国に帰つたのは同年十一月です。
 夏目さんの失脚を覗つたなら英国で神妙に英語英文を研究して機会を待つたであらうとは常識にも考へられぬでせうか。
 帰国後、父の望なので東京には住せず、仙台に帰つてブラ/\して居ましたが卅八年四月二高の独語主任青木(昌吉)教授が『独乙語の教師に欠員があるから手伝はぬか』との好意と周旋とにより、甚だ覚束ない独乙語教師として二三年つとめ、続いて職員の都合がついて英語部へ移つて爾来二十余年、今日も猶ほ其運命を続けて居ります。非材の分止むを得ません。
 あなたが誤つて漱石さんのお言葉を伝へたとは到底思ひもよらぬ事ですが、其に因れば漱石さんは二重の誤解をなさいました。
(一)私が『夏目発狂』云々の打電をしたことのないのに打電したとの誤解。
(二)誰が発電したにせよ、せぬにせよ、発電があつたとすれば前後の事情より察しても分る通り其発電者は好意上よりなりしを悪意よりとの誤解。
 外ならぬあなたのお言葉ですから、到底之を否定する事は出来ませんが、実際夏目漱石先生がああいふ言葉を発せられ、ああいふ考を抱かれたとは、どうしても信じたくないのであります。
 帰朝以来千駄木町のお宅に参上したこともあります、蛟竜池底を出でて淵に躍る前後は度々賞讚と渇仰の言を呈したこともあります。漱石全集中の書翰部にある通り、漱石さんの自画像に懇篤の言を添へられたのを頂戴したこともあります。其の漱石さんが私を目して『我が失脚に乗ぜんとて奸策を弄したもの』と思はれ、又人に口外されたとは、どうしても論理に合はず、常識の所見にも合はぬ次第です。『怨をかくして友とするを左丘明は恥づ、丘も亦恥づ』と孔夫子が仰せられました。しかし何度申しても外ならぬあなたが『良人がかく曰つた』と公言される上は全く恐縮の外はありません。
 当時御発病の折、ロンドンに私が居りましたこと、私が当時十日余も同宿いたしました事、また英文科卒業生であること、以上が煩をしたので誠に遺憾に耐へません。
 弁明したくも漱石さんは、もはや此世におはさず、せめてあなたになりと此誤解を正したく此一文を草するのであります。
 作品に対する弁難攻撃には在来決して答へませんでした。帰朝匆々ある詩派『明星』といふ一雑誌が党同異閥の精神からか、露伴先生の『出廬』を攻撃した其翌月、私のやうなものにも喰つてかかり、謂れない悪罵を逞うした折も黙視して、たゞ在京の友へ『売りかねた喧嘩の花も江戸の春』と駄句つた位のものでした。
 しかし人格に対しての無実の誣言は断じて放置するわけには行きません、尊い古人の文句を引くのは憚る処ですが『正当の証拠によつてわが不法を証明せよ、上帝は爾と我との間を判ぜん』であります。
 此一文は遺言してまでも必ずわが拙い集の中へ是非とも編入させます。
 ルーソーの『告白』の序に『此一巻を携へて上帝の前に出でん……』云々とありますが私も此一文は死後九天の上九泉の下何処へなりと示すを憚りません。其ルーソーより聯想されますが、文芸上の天才には時として(敏感性の半面として)甚だしい猜疑の発作があります。万里の異郷の孤館の研学が度を過して多少精神に異状を来したといふことは、むしろ同情すべき事で決して不名誉とは思ひませんが、漱石さんが其事実をあとから否定されたとするのも、或は又帰朝の後にもかゝる発作の折にあゝいふ言を発せられたとするも、是は天才の痛はしい半面と見てたゞ嘆息すべきでありませう。
 今は世に無い御良人に対して辞句或は敬を失したかも知れませんが、漱石さんが深淵の学識と非凡の天才とを兼ねた文豪であり、明治大正に亘りて爛々の光彩を放つた偉大の作家であるといふ事実に対しては、深厚の敬意を払ひつゝある私であります。そして此一文を書いて寃を漉ぐ機会を偶然にも与へて下すつたあなたには一片感謝の念が無いではありません、決して皮肉にかく申すのではありません。

底本:「日本の名随筆 別巻31 留学」作品社
   1993(平成5)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「雨の降る日は天気が悪い」大雄閣
   1934(昭和9)年9月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2004年8月10日作成
2005年11月22日修正
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