田山花袋氏はセンティメンタリズムを説明して、センティメンタリズムといふのは、斯うありたい、あゝありたいと思ふ願ひを誇張して、理想的な心持から空想的な状態になつて行くものだ。と云つて居る。花袋氏の其の言葉の意味は、即ち、對象の實際持つて居ないものを、持つて居て貰ひたいと思ひ、又、持つて居るやうに感ずるのがセンティメンタリズムであると云ふ意味でもあるやうだ。
 そして花袋氏は此のセンティメンタリズムの分子を、ドストイェフスキイが澤山持つて居ると云つて居る。[#「居る。」は底本では「居る」]言葉が簡單なので、其の意味ははつきり分らないが、之れを同氏のセンティメンタリズムの解釋に依つて推測して見ると、即ちドストイェフスキイは、實際人間生活の内容に含まれて居ないものを、含まれて居ると思つて觀て居るとか、又た含まれて居れば好いと云ふ風に思つて空想して居ると云ふ意味だと思はれる。ドストイェフスキイの作品には非常に純粹な人道的の精神が強く含まれて居ると普通に言はれて居るから、花袋氏はその點からドストイェフスキイをセンティメンタルだと斷じたものであらう。即ち人間の實際はドストイェフスキイの考へて居るやうな、そんなものではない。ドストイェフスキイは勝手に人生を想像して書いて居ると云ふ風な意味かと思はれる。若しさう云ふ意味であるとすれば、人間の本性に對する花袋氏の解釋が、何う云ふ解釋かと云ふことが問題になる。花袋氏が云つて居るやうな斷片的な獨斷的な言ひ方だけでは批評することも出來ないけれども、平常花袋氏は、人間の心は恐ろしい、どんなことでも思ひ得ないことはないし、又成し得ないことはないと、能く言はれる。が、さう云ふ心持からドストイェフスキイの現はして居る人生が、非常に甘いお目出度い人生だと云ふ意味ならば、花袋氏のドストイェフスキイに對する考へ方は全く當つて居ない。と云ふよりも一層適切に言へば、人間の本性に對する解釋を誤つたものと言はねばならぬ。人間の心は恐ろしいものである、何處まで行くか分らないものであると云ふことは、必ずしも暗い方面にばかり當て篏まる事ではない。それは、人間の心と云ふものはどんな恐ろしい暗黒面へも限りなく深く入つて行くものであると同時に、ドストイェフスキイが描いた人間のやうに、どんなに苦しめられ、苛められ、虐げられても、人間自然の最も純粹な心を失はないで、素直な、何所までも自由に伸びて行く心持を傷付けられないと云ふ、さう云ふ方面の人間の本性にも限りはないものである。苦しめられゝば苦しめられる程、苛められゝば苛められる程、此の尊い本質は益々輝かしい光りを放つて、人間と云ふものが果して何の點まで堪へ忍ぶ力を持つて居るものか、殆んど定限はないのである。ドストイェフスキイの描いた人生は、さう云ふ方面の限りなく深い人生を現して居るのである。それをセンティメンタリズム、若しくは甘いと見るのは、この人間と云ふものを單に一方の立場からのみ見た偏した觀方であつて、一方のもう少し深い人間の本質を無視した批評であると言はねばならぬ。若し、最も嚴密に云ふならば、恐しい方面とか、暗い方面とか、其の方面の人間の本性は限りがないやうに考へられもするけれど、その方面の心持をだん/\押し詰めて行けば、結局死へ近づいて行く。最も恐しい暗黒と罪惡の人間の本質の窮極は、有ゆる方面の死が其の最後である。其の點に向つて人間の生命を縮めて行くのである。人間の恐ろしい方面の本質はさう云ふ傾向を持つて居るものだから、從つて何となく鼻柱を押へ付けられたやうな、行詰つた心持が伴つて來る。だから、人間の恐しい方の心には限りがないとはいふものゝ、窮極は限られて了ふ傾きを本來持つて居る。センティメンタリズムを非常に恐れ排斥する餘り、どんな恐しい人生にでもめげたり、感じ傷んだりしないで見ると云ふやうな、冷酷な、殘忍な方面の心を尊いものだと考へ過ぎて、同じく人間の本性にあるところの、自然な美しい性情を讃美する心持まで押へ付けて了ふやうなことがあれば、それこそ却つて別な方面に現はれたセンティメンタリズムである。一種の臆病からして、本當に廣く深く人間の本性を見る態度の缺乏に基づく誤謬である。
 人間のどんな恐ろしい方面をも、どんな暗い方面をも、少しも心を傷つけることなしに冷靜に見得ると云ふことは、非常に難かしい、困難なことに思はれ易く、又、それと反對に人間の最も輝いた光明的方面を觀ることは、何となく甘い、お目出度いことに思はれ易い。しかし、さう思はれ易い心持の中には、極く臆病な、卑怯な、感情が混つて居りはしないか。花袋氏がセンティメンタリズムを排斥されることは著しいことだが、極力排斥すればする程、何處か花袋氏の中にセンティメンタルな、臆病な點が未だ殘つて居ることが感じられる。花袋氏がセンティメンタリズムに反抗する心を忘れて了ふ程になつたら、其の時こそ初めて花袋氏の生活にも藝術にも一大飛躍の現はれる時であると思ふ。
 ドストイェフスキイを難じて、對象の持つて居ないものを持つて居ると思つたり、又、人間の本性の中にないものをあるやうに願つた人であると思ふのは誤りである。ドストイェフスキイの描いて居る人間は、どんなに苦しめられ、苛められ[#「苛められ」は底本では「荷められ」]踏付けられても、決して、僻んだり、捻くれたりしない。又、どんな恐ろしい罪人でも、又は白痴や、病人でも、生れた儘の本當に美しい純粹なところを持つて居る。泥の中に押し込まれても、陷れられても、決してその泥に染りもせねば汚されもせぬ。これは決してドストイェフスキイの空想でもなければ、想像でもない。我々人間が實際に持つて居るところの本性である。而してこれが人間の最も深い最も眞實な本性であつて、暗黒の方面に向ふ傾向は、人間の本性の異状を呈してゐる姿である。ドストイェフスキイは、此の本性を最も深く鋭く探り出して來て、彼れの作品に描いたのである。ドストイェフスキイの作には、どんな作にでも此の方面の人間がいろ/\な姿を以て必ず現はれて來る。若し人間に其の本質がないのにドストイェフスキイが之れを描いて居るのなら、それは確かにセンティメンタリズムだと言へる。しかし乍ら我々人間の本性は、極く不自然な不純な中にも、事實に於て微かながらもさう云ふ美しいものを持つて居る。けれども、普通の人々はそれに氣が付かないから、我々人間の本質がそれを持つて居ないやうに思つてゐる。人間の本性の中に斯ういふ美しいものがあると云ふと、之れを嘲笑つたり、冷笑したり、多少は皮肉を感ずるやうになつて居る。けれども、我々は我々の生活に對して非常に光輝を感じたり、幸福を感じたり、我々の生活を非常に深く感ずる時がある。其の時こそは即ち、常に我々自身の本性の底深く微かに潜んで居るところの、極めて純な、清らかな、輝いたものが、何時の間にか自然に溢れ出た時に外ならない。其の無意識の裡に自然と溢れ出た時に、本當に人間の本性の活躍がある。其の純な本性がだん/\豐富になり、力強くなつて來れば、從つてどんな恐ろしい人生でも恐れずめげない心を以て觀察することも出來るし、又、其の恐ろしい人生の中へ沒入して行つても粉碎されないやうになる。即ち眞の天才といふのは、此の本性の最も豐富なものであらねばならぬ。たとひ人生に於ける火の中へ飛び込んでも、其の火に燒かれる事はない。水の中に飛び込んでも、其の水に濡れ溺れない。泥の上に倒れても其の泥に汚れない。却つて其の度毎に彼れの純な本性は益々輝いて來る――さういふ人こそ眞の天才である。天才は一方に男性的に強いと共に、又一方に於ては何物に對しても抵抗もしなければ、反抗もせず、其のことに堪へ忍んで行くところの女性的な從順な力を持つて居るものだ。ドストイェフスキイの天才に於いて、殊に我々に暗示を與へてくれる點は、彼が非常に男性的に強かつたと共に、一面には女性的に純なところを持つて居た、それが作品に現はれて居る點であると思ふ。ドストイェフスキイは癲癇持ちで、病身で、神經過敏で、人と會つても自由に話の出來ないやうな、僻みの強い、そして極端に嫉妬の深いと同時にパッショネートで、交際社會などへは出られぬ人間であつたと云ふことが、ソーニヤ・コワレーフスキィ女史の自傳の中に書いてある。それでゐながら一面非常に人に懷しがられて、殊に子供を可愛がつたし、子供の方でもドストイェフスキイを愛し慕つた。彼れの『白痴』の中に、其の主人公がスヰッツルを旅行して、或る村で子供に取卷かれていろいろな話をしたりして子供を愛して、子供からも非常に懷かれる。其の爲めに村の小學校の教師が嫉妬を起す一節があるが、作者自身が實際にスヰッツルを旅行したことがあるところから見ると、さう云ふことは彼れの實際の經驗を書いたものと思はれる。又、國事犯の嫌疑の爲めに、探偵などが訪ねて來て彼れに會ふと、却つて彼と仲好くなつて打解けて一日も話し込んで行つて、警察の内幕や、罪人の話などを聞かしてくれた、そして、それ等の話が彼れの『罪と罰』のポルフヰーリーと云ふ探偵の話となつて現はれて居る。さう云ふ事實もあつて、必ずしも人好きのしないと云ふ人間ではなかつたのだ。
 一方に非常に僻みが強く、嫉妬深くて、人に恐れられるやうな人でありながら、一方に子供などに優しく、そして又、非常に人に親しまれる。それから、一方に身體が弱くて、常に癲癇の發作に苦み惱んで居たにも拘らず、彼は其の六十年の生涯に於て隨分大きな仕事を殘して居る。新聞や雜誌も經營したし、又、たとひ生活の爲めに餘儀なかつたとは言へ、あれだけ大部の作品を數多く殘して居る。弱いながらに非常に強いエナジイを持つて居た人に違ひない。或る人はドストイェフスキイを批評して、「彼は一方に病人で、又猫のやうに強い人だ。」と云つて居る。猫と云ふ獸は一寸見れば非常に弱さうだけれども、しかし、動物電氣なども強いし、それに柔軟な中に底強い力を持つて居るから、それで猫を強いとしてあるらしい。ドストイェフスキイは全く猫のやうな強さを持つて居た。一寸見れば弱く女性的であり乍ら、本當の力を持つて居る。けれども其の力は素直に伸び/\したのではない。非常に病所や缺陷を持つて居て、それで居て一方に何物にもめげないで受けこたへる恐ろしい力を持つて居たのである。確かブランデスであつたか、ドストイェフスキイにはトルストイのやうな廣さはないが、深い強さを持つて居ると云つて居るが、其の深い強さは即ち彼れが持つて居た猫のやうな生活力――病氣の爲めに一生を苦しみ惱んでもこれにめげないところの強い生活力から來た結果である。眞の生活力とは、どんな苦しみにも艱難にもめげて了はない剛健な力ではあるが、又、其の一方では、水のやうにどんなところをも潜り忍んで、而も自分を失はないで行くところの柔軟性を持つた力でなくてはならぬ。ドストイェフスキイは其の生活の力を持つて居た。即ち其の力の豐富なのが天才の特色である。大抵力といふことを考へると、多くの場合には男性的に表現された剛健な破壞的の力を想ふ。けれども眞の力はそれだけでは足りない。矢張り水の潜んで流れて行くやうな女性的の力といふものも、それは決して別の力ではなくて、本當の力の本質である。藝術的天才には男性的力よりも却つてこの女性的力の方が必要である。多くの場合には、此の女性的の力は力でないと思はれ易い。男性的と女性的の違ひはあつても、どんな場合にも其の本質を失はない純なものであることは同一である。其の生命の力と云ふか、又は人間の本性と云ふか、それを信ずるやうになれば我々の總ゆる方面の信念が打ち樹てられるに違ひない。(大正三年六月談話)

底本:「片上伸全集 第2巻」日本図書センター
   1997(平成9)年3月25日復刻発行
底本の親本:「片上伸全集 第二卷」砂子屋書房
   1939(昭和14)年4月1日発行
入力:高柳典子
校正:岩澤秀紀
2012年7月1日作成
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