一

 今年の春の花の頃に一日用があって上野の山内へ出かけて行った。用をすました帰りにぶらぶらたけだいを歩きながら全く予期しなかったお花見をした。花を見ながらふと気の付いたことは、若いときから上野の花を何度見たかしれない訳であるが、本当に桜の花を見て楽しむ意味での花見をすることが出来るようになったのはほんの近年のことらしい、ということである。それ以前には花を見るつもりで行っても花よりは花を見に来ている人間が気になって仕方がなかった。人にこだわりながら花見をして帰ると頭が疲れてがっかりしたものである。家族連れで出かけるとその上に家族にこだわるので疲れ方が一層はげしかった。それだのに、どうしたことか、近頃はそれほど人にこだわらないで花が見られるようになったらしい。これが全くこだわらなくなる頃にはもう花が見られなくなるかもしれない。

         二

 あらゆる花の中でも花の固有の色が単純で遠くから見てもその一色しか見えない花と、色の複雑な隈取くまどりがあって、少し離れて見ると何色ともはっきり分らないで色彩の揺曳ようえいとでも云ったようなものを感じる花とがある。朱色の罌粟けしや赤椿などは前者の例であり、紫色の金魚草やロベリアなどは後者の例である。一体に朱赤色や濃黄色といったような熱色の花には単調な色彩が多くて紫青色がかったものや紅でも紫がかったものにはこうした色のかがよいとでもいったものがあるらしい。柱作りに適するローヤル・スカーレットという薔薇がある。濃紅色の花を群生させるが、少しはなれた所から見ると臙脂色えんじいろの団塊の周囲に紫色の雰囲気のようなものが揺曳しかげろうているように見える。
 人間の色彩といったようなものにもやはりこうした二種類があるように思われる。少なくも芸術的作品はそうであるし、またことによると科学的な仕事にもいくらかそういう区別があるような気がする。物理学の方面だけで見ると一体にドイツ学派の仕事は単色で英国派の仕事には色彩の陽炎かげろうとでもいったものを伴ったものが多いような気がするが、それは唯そんな気がするだけで具体的の説明はむつかしい。

         三

 人間の個性の差別が実に些細なことにまで現われるという一つの実例をついこの頃見付け出した。ある研究所の廊下に所員の姓名を記した木の札が掛け並べてある。片側は墨で片側は朱で書いてあるのを、出勤したときは黒字の方を出し、帰るときは裏返して朱字の方を出しておくのである。粗末な白木の札であるから新入りでない人の札はみんな手垢で薄黒く汚れている。ところが、人によっては姓名の第一番の文字のところだけに真黒に指の跡を印している人があるかと思うと、また二番目の字を汚している人もある。そうかと思うとまた下の二字を一様に汚して上の二字は綺麗に保存しているのもある。一方ではまたちっともそうした汚点をつけていない人もある。こうした区別が何を意味するかはそう簡単な問題ではないであろう。しかし、ことによるとこの姓名札の汚し方の同じ型に属する人には自ずから共通な素質があるかもしれない。そうして、人間の性情の型を判断する場合にこの方がむしろ手相判断などよりも、もっと遥かに科学的な典拠資料になりはしないかと想像される。
 少なくも、真黒な指のあとをつけている人は、名札の汚れなどという事には全然無関心な人であるというくらいのことは云われそうである。わざわざ痕をつけて、それが日々黒くなるのを楽しみにする人はめったになさそうに思われる。
 気が付いてみると自分は一番上の字の真中を真黒にしている。同じ仲間が近所に二人はある。この二人と自分とだいぶ似たところがあるらしい。自分の場合では、掛けた札がちゃんと後ろの板に密着しないと気持が悪いから掛けたあとでぱちんと札を押しつける、それを押しつけるには釘に近い上の方を押すのが一番機械的に有効だからそうするらしい、勿論無意識にそうするのである。
 釘に引っかける札の穴の周囲をきずだらけにしている人と、そうでない人との区別もあるらしい。これと汚れ方との相関もあるらしいがまだよく調べてみない。
 ともかくも恐ろしいことである。「悪いことは出来ない」わけである。

         四

 ある家の告別式に参列して親類の列に伍して棺の片側に居並んでいた。参拝者の来るのが始めのうちは引切りなしに続いてくるが三十分もたつと一時まばらになりやがてちょっと途切れる。またひとしきりどかどかと続いて来るかと思うとまたぱったり途絶えるのである。それが何となく淋しいものである。
 しばらく人の途絶えたときに、仏になった老人の未亡人が椅子に腰かけて看護に疲れたからだを休めていた。その背後に立っていたのは、この未亡人の二人の娘で、とうに他家に嫁いで二人ともに数人の子供の母となっているのであるが、その二人が何か小声で話しながら前に腰かけている老母のびんの毛のほつれをかわるがわるとりあげてつくろってやっている。つい先刻までは悲しみと疲れとにやつれ果てていた老母の顔が、さも嬉しそうに、今まで見たことのないほど嬉しそうにかがやいて見えるのであった。
 なんだか非常に羨ましいような気がして同時に今まで出なかった涙が急に眼頭を熱くするのを感じた。

         五

 八十三で亡くなった母の葬儀も済んで後に母の居間の押入を片付けていたら、古いボールの菓子箱がいくつか積み重ねてあるのに気がついた。何だろうと思って明けてみると、箱の奥に少しずつ色々の菓子の欠けらが散らばっていた。それを見たときにはっと何かしら胸を突かれるような気がして、張りつめて来た心が一時にゆるみ、そうして止処とめどのない涙が流れ出るのであった。

         六

 ある食堂の隣室に自働電話の自働交換台がある。同じような筒形のものが整列し、それが数段に重なっている。食事をしながらぼんやり見ていると、ときどきあちこちに小さな豆電燈がついたり消えたりする。それらの灯のあるものはともったと思うとパチ/\/\とせわしなくまばたきをしてふっと消える。器械の機構を何も知らないものの眼で見ていると、その豆電燈の明滅が何を意味するのか全く見当がつかない。ただ全く偶然な蛍火ほたるびの明滅としか思われないであろう。しかし、この機構の背後には色々の人間がさまざまの用談をし取引を進行させており、あらゆる思惟と感情の流れが電流の複雑な交錯となってこの交換台に集散しているのである。
 現象を記載するだけが科学の仕事だというスローガンがしばしば勘違いに解釈されて、現象の背後に伏在する機構への探究を阻止しようとすることがあるような気がする。しかし、気をつけないと、自働交換台の豆電燈の瞬きを手帳に記録するだけで満足するようなことになる恐れがないとは云われない。

         七

 ドンキホーテの映画を見た。彼の誇大妄想狂の原因は彼の蒐集した書物にあるから、これを焼き捨てなければいけないというので大勢の役人達が大きな書物をかかえてはこび出す場面がある。この画面が進行していたとき、自分の前の座席にいた男の子が突然大きな声で「アー、大掃除だ」と云った。つい近頃五月の大掃除があったのを思い出したのであろう。あちらこちらの暗がりで笑声が聞えた。
 子供は子供の見方をするように人々はまた思い思いの見方をしているであろう。自分はこの映画を見ているうちに、何だか自分のことを諷刺ふうしされるような気のするところがあった。自分の能力を計らないで六かしい学問に志していっぱしの騎士になったつもりで武者修行に出かけて、そうしてつまらない問題ととっ組み合って怪物のつもりでただの羊を仕とめてみたり、風車に突きかかって空中に釣り上げられるような目に会ったことはなかったかどうか、そんなことを考えない訳にはゆかなかった。
 しかしまたこんなことも考えた。この映画に現われて来る登場人物のうちで誰が一番幸福な人間かと思って見ると、天晴あっぱれ衆人の嘲笑と愚弄の的になりながら死ぬまで騎士の夢をすてなかったドンキホーテと、その夢を信じて案山子かかしの殿様に忠誠を捧げ尽すことの出来たサンチョと、この二人にまさるものはないような気もするのであった。
 燃え尽した書物がフィルムの逆転によって焼灰やけばいからフェニックスのごとく甦って来る。巻き縮んだ黒焦くろこげの紙が一枚一枚するすると伸びて焼けない前のページに変る。その中からシャリアピンの悲しくも美しいバスのメロディーが溢れ出るのであった。
 歴史に名を止めたような、えらい武人や学者のどれだけのパーセントが一種のドンキホーテでなかったか。現在眼前に栄えているえらい人達のうちにも、もしかしたら立派なドンキホーテが一人や二人はいるのではないか。そんなことを考えながら帝劇の玄関を下りて、雨のない六月晴の堀端ほりばたの薫風に吹かれたのであった。

         八

 随筆は誰でも書けるが小説はなかなか誰にでも書けないとある有名な小説家が何かに書いていたが全くその通りだと思う。随筆は何でも本当のことを書けばよいのであるが、小説は嘘を書いてそうしてさも本当らしく読ませなければならないからである。もっとも、本当に本当のことを云うのも実はそうやさしくはないと思われるが、それでも本当に本当らしい嘘を云うことの六かしさに比べれば何でもないと思われる。実際、嘘を云って、そうして辻褄つじつまの合わなくなることを完全に無くするにはほとんど超人的な智恵の持主であることが必要と思われるからである。
 真実を記述するといっても、とにかく主観的の真実を書きさえすれば少なくも一つの随筆にはなる。客観的にはどんな間違ったことを書き連ねていても、その人がそういうことを信じているという事実が読者には面白い場合があり得るからである。しかし本来はやはり客観的の真実の何かしら多少でも目新しい一つの相を提供しなければ随筆という読物としての存在理由は稀薄になる、そうだとすると随筆なら誰でも書けるとも限らないかもしれない。
 前記の小説家もこんなことぐらいはもちろん承知の上でそれとは少し別の意味でそう云ったには相違ないが、しかし不用意に読み流した読者の中には著者の意味とちがった風に解釈して、それだから概括的に小説は高級なもので随筆は低級なものであるという風に呑み込んでいる人が案外多いということに近頃気がついて、そういう事実に興味を感じている。こんな風に、文字の表面の意味とよほどちがった意味を読者に暗示するような記述法が新聞記事の中などには沢山に見出されるようであるが、これらも巧妙な修辞法の一例と思われる。
 とにかく科学者には随筆は書けるが小説は容易に書けそうもない。
 昔ある国での話であるが、天文の学生が怠けて星の観測簿を偽造して先生に差出したらたちまち見破られてひどくお眼玉を頂戴した。実際一晩の観測簿を尤もらしく偽造するための労力は十晩百晩の観測の労力よりも大きいものだろうと想像されるのである。
(昭和九年八月『文学』)

底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
   1997(平成9)年3月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年6月15日作成
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