一

 わたしがかつて恋をしたことがあるかとおたずねになるのですか。あります。わたしの話はよほど変わっていて、しかも怖ろしい話です。わたしは六十六歳になりますが、いまだにその記憶の灰をかき乱したくないのです。
 わたしはごく若い少年の頃から、僧侶の務めを自分の天職のように思っていましたので、すべて私の勉強はその方面のことに向けていました。二十四のころまでのわたしの生活は、長い初学者としての生活でした。神学の課程をえますと、つづいてしゅじゅの雑務に従事しましたが、牧師長の人たちはわたしがまだ若いにもかかわらず、わたしを認めてくれまして、最後に聖職につくことを許してくれました。そうして、その僧職の授与式は復活祭の週間のうちに行なわれることに決まりました。
 わたしはその頃まで、世間に出たことがありませんでした。わたしの世界は、学校の壁と、神学校関係の社会だけに限られていました。それで、わたしは世間でいう女というものには、極めて漠然とした考えしか持っていませんでしたし、また、そんな問題において考えたりすることは決してありませんでしたので、全く無邪気のままに生活していたのでした。私は一年にたった二度、わたしの年老いた虚弱な母に逢いに行くばかりで、私とほかの世間とのかかり合いというものは、全くこれだけのことしかなかったのであります。
 わたしはこの生活になんの不足もありませんでした。わたしは自分が二度と替えられない終身の職に就いたことに対しては、なんの躊躇ためらいも感じていませんでした。私はただ心の喜びと、胸のおどりを感じていました。どんな婚約をした恋人でも、わたしほどの夢中の喜びをもって、ゆるやかな時刻の過ぎるのをかぞえたことはありますまい。わたしは寝る時には、聖餐式せいさんしきでわたしが説教する時のことを夢みながらとこにつくのです。わたしはこの世に、僧侶になるというほどの喜びは、他に何もないものだと信じていました。詩人になれても、帝王になれても、わたしはそれを断わりたいほどで、わたしの野心はもうこの僧侶以上に何も思っていませんでした。
 とうとう私にとって大事の日が参りました。私はまるで自分の肩にはねでも生えているように、浮きうきした心持ちで、教会の方へ軽く歩んでいました。まるで自分を天使エンジェルのように思うくらいでした。そうして、大勢おおぜいの友達のうちには暗いような物思わしげな顔をしている者があるのを、不思議に思うくらいでありました。わたしは祈祷きとうにその一夜を過ごして、まったく法悦ほうえつの状態にあったのです。慈愛ぶかい司教さまは永遠にいます父――神のごとくに見え、教会の円天井まるてんじょうのあなたに天国を見ていたのであります。
 この儀式をくわしくご存じでしょうが、まず浄祓式ベネゼクションがおこなわれ、それから、両種の聖餐拝受式コミュニオン、それから、てのひらに洗礼者の油を塗る抹油式まつゆしき、それが済んでから、司教と声をそろえて勤める神聖なる献身の式が終わるのであります。
 ああ、しかしヨブ(旧約ヨブ記の主人公)が、「眼をもて誓約せざるものは愚かなる人間なり」と言ったのは、よく真理を説いています。わたしがその時まで垂れていた頭を偶然にあげると、わたしの眼の前にまるでさわれるぐらいに近く思われて、実際は自分のところからかなり離れた聖壇の手すりのはしに、非常に美しい若い女が目ざむるばかりの高貴の服装をしているのを見ました。
 それはわたしの眼には、世界が変わったように思われました。私はまるで盲目の眼が再びあいたように感じたのです。つい今の瞬間までは栄光に輝いていた司教の姿はたちまちに消え去って、黄金の燭台に燃えていた蝋燭はあかつきの星のように薄らいで、一面の暗闇くらやみがお堂の内に拡がったように思われました。かの愛らしい女はその暗闇を背景にして、天使の出現のようにきわだって浮き出していたのです。彼女は輝いていました。実際、輝いて見えるというだけでなく、光りを放っていました。
 わたしは他のことに気をられてはならないと思って、二度と眼をあくまいと決心してまぶたを伏せました。なぜといって、わたしの煩悶はだんだんにこうじてきて、自分はいま何をしているか分からないくらいになったからでした。それにもかかわらず、次の瞬間にはまたもや眼をあげて、睫毛まつげのあいだから彼女を見ました。すると、誰しも太陽を見つめる時、むらさき色の半陰影が輪を描くように、彼女はすべて虹色にじいろにかがやいていました。
 ああ、なんという美しさであろう。偉大なる画家は、理想の美を天界に求めて、地上に聖女の真像を描きますが、今わたしの眼前にある自然のほんとうの美しさに近い描写はまだ見いだされません。いかなる詩句といえども、画像の絵具面パレットといえども、彼女の美を写してはいませんでした。彼女はやや脊丈せいの高い、女神のような形と態度とを有していました。やわらかい金色こんじきな髪をまん中で二つに分け、それが金の波を打つ二つの河になって両方の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに流れているところは、王冠をいただく女王のように見えました。ひたいは透き通った青みのある白さで、二つのアーチ形をした睫毛の上にのび、おのずからなる快活な輝きを持つ海緑色のひとみをたくみに際立きわだたしているのでした。ただ不思議に見えたのは、その眉がほとんど黒いことでした。それにしても、なんという眼でしょう。ただ一度のまたたきだけでも、一人の男の運命を決めることのできる眼です。今までわたしが人間に見たことのない、清く澄んだ、熱情のある、うるんだ光りを持つ、生きいきした眼でありました。
 二つの眼は矢のように光りを放ちました。それがわたしの心臓に透るのをはっきりと見たのです。わたしはその輝いている眼の火が、天国より来たものか、あるいは地獄から来たものかを知りませんが、いずれかから来ているに相違ありません。彼女は天使エンジェルか、悪魔デモンかでありました。おそらく両方であったろうと思います。たしかに彼女は普通の女から――すなわちイヴの腹から生まれたのではありませんでした。光沢つやのある真珠の歯は、愛らしい微笑のときに光りました。彼女が少しでも口唇くちびるを動かすときに、小さなえくぼが輝く薔薇ばら色の頬に現われました。優しい整った鼻は、高貴の生まれであることを物語っていました。
 半分ほどあらわに出したなめらかな光沢のある二つの肩には、瑪瑙めのうと大きい真珠の首飾りが首すじの色と同じ美しさで光っていて、それが胸の方に垂れていました。時どきに彼女があふれるばかりの笑いを帯びて、驚いた蛇か孔雀くじゃくのように顔を上げると、それらの宝石をつつんだ銀格子のような高貴な襞襟ひだえりが、それにつれて揺れるのでした。彼女は赤いオレンジ色のビロードのゆるやかな着物をつけていました。てんの皮でふちを取った広いそでからは、光りも透き通るほどのあけぼのの女神の指のような、まったく理想的に透明な、限りなく優しい貴族風の手を出していました。
 これらの細かいことは、その時わたしが非常に煩悶していたのにかかわらず、何ひとつがさずに、あたかもきのうのことのように明白に思い出します。あごのところと口唇の隅にあった極めてわずかな影、額の上のビロードのようなうぶ毛、頬にうつる睫毛のふるえた影、すべてのものが、驚くほどにはっきりと語ることができるのです。
 それを見つめていると、わたしは自分のうちに今までじられていた門がひらくのを感じました。長い間さえぎられていた口があいて、すべてのものが明らかになり、今まで知らなかった内部のものが見えるようになったのです。人生そのものがわたしに対して新奇な局面をひらきました。わたしは新しい別の世界、いっさいが変わっているところに生まれて来たと思ったのです。恐ろしい苦悩が赤くけたはさみをもって、わたしの心臓を苦しめ始めました。絶え間なく続いている時刻がただ一秒のあいだかと思われると、また一世紀のように長くも思われます。
 そのうちに儀式は進んでゆく。わたしはその時、山でも根こぎにするほどの強い意志の力を出して、わたしは僧侶などになりたくないと叫び出そうとしましたが、どうしてもそれが言えないのです。わたしは自分の舌が上顎うわあごに釘づけにでもなったくらいで、いやだというの字も言うことができなかったのです。それはちょうど夢におそわれた人が命がけのことのために、なんとかひと声叫ぼうとあせっても、それができ得ないのと同じことで、わたしは現在目ざめていながらも叫ぶことが出来なかったのです。
 彼女はわたしが殉道に身を投じてゆく破目はめになるのを知って、いかにも私に勇気づけるように、力強い頼みがいのある顔を見せました。その眼は詩のように、眼の動きは歌のように思われたのです。
 彼女はその眼でわたしに言いました。
「もしあなたがわたしのものになって下さるなら、神が天国にいますよりも、もっと幸福にしてあげます。天使たちがあなたに嫉妬を感じるほどにしてあげます。あなた自身を包もうとしている、あの喪服を引っぱがしておしまいなさい。わたしは美しいのです。わたしは若いのです。わたしには命があるのです。わたしのところへ来て下さい。お互いに愛します。エホバの神は何をあなたに上げるのでしょう。なんにもくれますまい。わたしたちのいのちは、ただ一度の接吻せっぷんのあいだに夢のように過ぎてしまいます。あの聖餐盃チャリースを投げ出しておしまいなさい。そうして、自由におなりなさい。わたしはあなたを遠い島へお連れ申します。あなたは、銀の屋根の建物の下で、大きい黄金おうごんの寝台の上で、わたしのふところで寝られます。わたしはあなたを愛しております。わたしはあなたを神様より奪ってしまいたいのです。これまでどれだけの尊い人たちが愛の血をそそいだかもしれませんが、誰も神様のそばにも近寄った者はないのではございませんか」
 これらの言葉が、無限の優しいリズムをもってわたしの耳に流れ込みました。彼女の顔はまったく歌のようで、その眼で物を言っています。そうして、それが本当のくちびるかられ出るようにわたしの胸の奥にひびくのでした。
 わたしはもう神様にむかって、僧侶となることを断わりたい心持ちが胸いっぱいでしたが、それでどういうものか、わたしの舌は儀式通りに言ってしまうのです。美しいひとは更にまた、わたしの胸を刺し通す鋭い白刃しらはのような絶望の顔や、歎願するような顔を見せるのです。それは「悲しみの聖母」のどれよりも、もっと強い刃でつらぬくような顔つきでありました。
 そのうちにすべての儀式はとどこおりなく終わって、わたしは一個の僧侶になったのであります。
 この時ほど、彼女の顔に深い苦悶くもんの色が描かれたのを見たことはありませんでした。婚約した愛人の死をのあたり見ている少女も、死んだ子を悲しんでからの乳母車をのぞき込んでいる母も、天界の楽園を追われてその門に立つイヴも、吝嗇りんしょくな男が自分の宝と置き換えられた石をながめている時でも、詩人がたましいをこめた、ただひとつの原稿を何かのために火にこうとしている時でも、この時における彼女ほどには、あきらめ切れないような絶望の顔を見せないであろうと思われました。彼女の愛らしい顔にすっかり血の色が失せて、大理石よりも白くなりました。美しい二つの腕は筋肉のゆるんだように、体の両方に力なく垂れてしまいました。柔順すなおな足も今は自由にならなくなって、彼女は何か力と頼むべき柱をさがしていました。
 わたしはといえば、これも死人のような青白い色をして、教会のドアの方へよろめいて行きましたが、あのクリストの磔刑はりつけの像よりも更に血の汗を浴びて、まるで首をめられている人のように感じました。円天井はわたしの肩の上へひら押しに落ちかかって来て、わたしの頭だけでこの円天井のすべての重みをささえているようでありました。
 ちょうど、わたしが教会のしきいをまたごうとする時でした。突然に一つの手がわたしの手を握ったのです。それは女の手です。わたしはこれまでに女の手などにふれたことはありませんでしたが、その時わたしに感じたのは蛇の肌にさわったような冷たい感じで、その時の感じはいまだにの上に、熱鉄の烙印やきいんを押したように残っています。それは彼女の手であったのです。
「不幸なかたね。ほんとうに不幸なかた……。どうしたということです」と、彼女は低い声を強めて言って、すぐに人込みのなかに消えて行ってしまいました。
 老年の司教がわたしのそばを通りかかりました。彼は何かわたしを冷笑するようなけわしい眼を向けて行きました。わたしはよほど取りみだした顔つきをしていたらしく、顔を赤くしたり、青くしたりして、まぶしい光りが眼の前にきらめくように感じました。そのうちに、一人の友達がわたしに同情して、わたしの腕をとって連れ出してくれました。わたしはもう誰かにたすけられないでは、学寮へ帰ることが出来ないくらいでした。
 町の角で、わたしの若い友達が何かよその方へ気をとられて振りむいている刹那せつなに、風変わりの服装をした黒人の召仕ページがわたしに近づいて来て、歩きながらに金色のふちの小さい手帳をそっと渡して、それをかくせという合図をして行きました。わたしはそれを袖のなかに入れて、わたしの居間でただひとりになるまで隠しておきました。
 ひとりになってから、その手帳の止めを外すと、中には一枚の紙がはいっていて、「コンティニ宮にて、……クラリモンド」と、わずかに書いてありました。[#「ありました。」は底本では「ありました」]

       二

 わたしはその当時、世間のことはなんにも知りませんでした。名高いクラリモンドのことなども知っていません。コンティニ宮がどこにあるかさえも、まったく見当けんとうがつきませんでした。わたしはいろいろに想像をたくましくしてみましたが、実のところ、もう一度逢うことが出来れば、彼女が高貴な女であろうと、または娼婦のたぐいであろうと、わたしはそんなことを気にかけてはいないのでした。
 わたしの恋はわずかいっときのあいだに生まれたのですが、もう打ち消すことの出来ないほどに根が深くなってゆきました。わたしはもう、まったく取りみだしてしまって、彼女が触れたわたしの手に接吻したり、幾時間ものあいだに繰り返して彼女の名を呼んだりしました。わたしは彼女の姿を目のあたりにはっきりと認めたいがために、眼をとじてみたりしました。
 わたしは教会の門のところで、わたしの耳にささやいた彼女の言葉を繰り返しました。「不幸なかたね。ほんとうに不幸なかた……どうしたということです」
 ――わたしはそうしているうちに、とうとう自分の地位の恐ろしさがわかるようになりました。暗いいまわしい束縛――その生活のうちに、自分がはいっていったということがわかるようになりました。
 僧侶の生活――それは純潔にして身を慎んでいること、恋をしてはならないこと、男女の性別や老若の区別をしてはならないこと、すべて美しいものから眼をそむけること、人間の眼を抜き取ること、一生のあいだ教会や僧房そうぼうの冷たい日影に身をかがめていること、死人の家以外を訪問してはならないこと、見知らない死骸のそばに番をしていること、いつも喪服にひとしい法衣ころもを自分ひとりで着て、最後にはその喪服がその人自身の棺のおおいになるということであります。
 もう一度クラリモンドに逢うには、どうしたらいいかと思いました。町には誰も知っている人がないので、学寮を出る口実がなかったのです。わたしはもうこんな所にいっときもじっとしてはいられないと思いました。そこにいたところが、ただわたしはこれから職に就く新しい任命を待っているばかりです。
 窓をあけようと思って、貫木かんぬきに手をかけましたが、それは地面から非常に高い所にありますので、別に梯子はしごを見つけない限りは、この方法で逃げ出すことは無駄であることが分かりました。その上に、どうしても夜ででもなければ、そこから降りられそうもないのです。それからまた、あの迷宮のように複雑な街の様子も分かりかねるのでありました。これらの困難は、他人にとってはさほどむずかしいとは思われないのでしょうが、わたしにとっては非常に困難の仕事であったのです。それというのは、わたしはつい前の日に、生まれて初めて恋に落ちたばかりの学徒で、経験もなければ金も持たない、衣服も持たない、あわれな身の上であったからです。
 わたしは盲目にひとしい自分にむかって、ひとりごとを言いました。
「ああ、もし自分が僧侶でなかったなら、毎日でもあのひとに逢うことも出来る。そうして、あの女の恋人となり、あの女の夫になっていられるのだが……。こんな陰気な喪服の代りに、絹やビロードの着物を身にまとって、金のくさりや剣をつけて、ほかの若い騎士たちのように美しい羽毛をつけていられるのに……。髪もこんなぶざまな剃髪トンシュアなどにしていないで、襟まで垂れている髪を波のようにちぢらせて、立派に伸びた頤鬚あごひげまでもたくわえて、優雅な風采でいられるのに……」
 しかも、かの聖壇の前における一時間、その時のわずかな明晰めいせきな言葉が、永久にわたしをこの世の人のかずから引き離してしまって、わたしは自分の手で自分の墓の石蓋いしぶたをとじ、自分の手で自分の牢獄の門をとじたのでありました。
 わたしはまた窓へ行って見ると、空はうららかに青く晴れて、すべての樹木はみな春のよそおいをして、自然は皮肉な歓楽の行進をつづけています。そこには、多くの人びとが往来して、姿のよい若い紳士や、美しい淑女たちが二人連れで、森や花園の方へそぞろ歩きをしています。元気のいい青年がおもしろそうに酔って歌っています。すべてが快活、生命、躍動の一幅の絵画で、わたしの悲哀と孤独とくらべると実にひどい対照をなしているのです。門の階段のところには、若い母が、自分の子供と遊んでいます。母はまだ乳のしずくの残っている可愛らしい薔薇ばら色の口に接吻をしたり、子供を喜ばせるためにいろいろあやしてみたり、母だけしか知らないような種じゅ様ざまな尊い仕科しぐさをしています。その子供の父は腕を組んでにこやかに微笑ほほえみながら、少し離れたところに立ってその可愛らしい仲間をながめています。
 わたしはもうこんな楽しい景色を見るにえられなくなって、手あらく窓をしめきって、急いで床のなかに飛び込んでしまいました。わたしのこころは、はげしい嫉妬と嫌悪けんおでいっぱいになって、十日も飢えている虎のように、わが指を噛みました。
 こうして私はいつまで寝台にいたか、自分でも覚えませんでしたが、床のなかで発作的に苦しみもだえている間に、突然この部屋のまんなかに僧院長のセラピオン師がまっすぐに突っ立って、注意ぶかくわたしを見つめているのに気がつきました。
 わたしは非常に恥かしくなって、おのずと胸の方へ首を垂れて、両手で顔を掩いかくしたのです。セラピオン師はしばらく無言で立っていましたが、やがて私に言いました。
「ロミュオー君。何か非常に変わったことがあなたの身の上に起こっているようですな。あなたの様子はどうも理解できない。あなたはいつも沈着で敬虔けいけん温順すなおな人物であるのに、どうしてそんなに、野獣などのように怒り狂っているのです。気をおつけなさい。悪魔の声に耳を傾けてはならない。恐れてはならない。勇気を失ってはなりませんぞ。そんな誘惑に出逢った場合には、何よりも確固たる信念と注意とに頼らなくてはいけません。さあ、しっかりしてよくお考えなさい。そうすれば悪魔の霊はきっとあなたから退散してしまいます」
 セラピオン師の言葉で、わたしは我れにかえって、いくぶんか心が落ちついて来ました。彼は更に言いました。
「あなたはCという所の司祭に就くことになったので、それを知らせに来たのです。そこの僧侶が死んだので、あなたがそこへ就職するように司教さまから命ぜられました。明日すぐに出発できるように用意してもらいたいのです」
 彼女に再び逢うことなしに、明日ここを離れて行き、今まで二人のあいだを隔てるさわりある上に、さらに二人の仲をさくべき関所を置くことになったら、奇蹟でもない限りは彼女に逢うことは永遠にできなくなるのです。手紙を書いてやることは所詮しょせんできないことです。誰にたのんでその手紙を渡していいか、それさえも分からない。僧職にある身が誰にこんなことを打ち明けていいか、誰を信じていいか。それが私にはまったくえられないほどの苦労でありました。
 翌あさ、セラピオン師はわたしを連れに来たのです。旅行用の貧しい手鞄などを乗せている二匹の騾馬らばが門前に待っていました。セラピオン師は一方の騾馬に乗り、わたしは型のごとくに他の騾馬に乗りました。
 町のみちみちを通るとき、わたしはもしやクラリモンドに逢いはしないかと、家いえの窓や露台に気をつけて見ました。朝が早かったので、まちもまだほとんど起きてはいませんでした。わたしは自分の通りかかった邸宅という邸宅の窓の鎧戸よろいどやカーテンを見透すように眼をくばりました。
 セラピオン師はわたしの態度を別に疑いもせず、ただ私がそれらの邸宅の建築を珍らしがっているのだと思って、わたしがなお十分に見ることが出来るように、わざと自分の馬の歩みをゆるやかにしてくれました。わたしたちはついに町の門を過ぎて、前方にある丘をのぼり始めました。その丘の頂上にのぼりつめた時、わたしはクラリモンドの住む町に最後の一瞥いちべつを送るために見返りました。
 町の上には、大きい雲の影がおおい拡がっておりました。その雲の青い色と赤い屋根との二つの異った色が一つの色にけ合って、新しく立ち昇るちまたの煙りが白い泡のように光りながら、あちらこちらにただよっています。ただ眼に見えるものは一つの大きい建物で、周囲の建物をしのいで高くそびえながら、水蒸気に包まれてあわく霞んでいましたが、その塔は高く清らかな日光を浴びて美しく輝いていました。それは三マイル以上も離れているのに、気のせいか、かなりに近く見えるのでした。ことにその建物は、塔といい、歩廊といい、窓の枠飾りといい、つばめの尾の形をした風見かざみにいたるまで、すべていちじるしい特長を示していました。
「あの日に照りかがやいている建物は、なんでございます」
 わたしはセラピオン師にたずねました。彼は手をかざして眼の上をおおいながら、わたしの指さす方を見て答えました。
「あれはコンティニ公が、娼婦のクラリモンドにあたえられた昔の宮殿です。あすこでは恐ろしいことが行なわれているのです」
 その瞬間でした。それはわたしの幻想であったか、それとも事実であったか分かりませんが、かの建物の敷石の上に、白い人の影のようなものがすべってゆくのを見たような気がしたのです。ほんのいっとき、光るように通り過ぎて、間もなく消えたのですが、それは確かにクラリモンドであったのです。
 ああ、実にそのとき、遠く離れたけわしい道の頂上――もう二度とここからは降りて来ないであろうと思われる所から、落ちつかない興奮した心持ちで彼女の住む宮殿の方へ眼をやりながら、雲のせいかその邸宅が間近く見えて、わたしをそこの王として住むように差し招いているかとも思う。――その時のわたしの心持ちを彼女は知っていたでしょうか。
 彼女は知っていたに違いないと思うのです。それはわたしと彼女とのこころは、わずかのすきもないほどに深く結ばれていて、その清い彼女の愛が――寝巻のままではありましたが――まだ朝露の冷たいなかをあの敷石の高いところに彼女を立たせたに相違ないのです。
 雲の影は宮殿をおおいました。いっさいの景色は家の屋根と破風はふうとの海のように見えて、そのなかに一つの山のような起伏がはっきりと現われていました。
 セラピオン師は騾馬を進めました。わたしも同じくらいの足どりで馬を進めて行くと、そのうちに道の急な曲がり角があって、とうとうSの町は、もうそこへ帰ることのできない運命とともに、永遠にわたしの眼から見えなくなってしまいました。
 田舎のうす暗い野原ばかりを過ぎて、三日間のみ疲れた旅行ののち、わたしが預かることになっている、牡鶏おんどりの飾りのついている教会の尖塔が樹樹きぎの間から見えました。それから、かやぶきの家と小さい庭のある曲がりくねった道を通ったのち、あまり立派でもない教会の玄関の前に着いたのです。
 入り口には、いくらかの彫刻が施してあるが、荒彫あらぼりの砂岩石の柱が二、三本と、またその柱と同じ石の控え壁をもっている瓦ぶきの屋根があるばかり、ただそれだけのことでした。左の方には墓所があって、雑草がいっぱいに生いしげり、まん中あたりに鉄の十字架が建っています。右の方に司祭館が立っていて、あたかも教会の蔭になっているのです。それがまた極端に単純素朴なもので、囲いのうちにはいってみると、二、三羽のとりがそこらに散らばっている穀物をついばんでいます。鶏は僧侶の陰気な習慣になれていると見えて、わたしたちが出て来ても別に逃げて行こうともしません。どこかでれたようなき声がきこえたかと思うと、老いさらばえた一匹の犬が近づいて来るのでした。
 それはぜんの司祭の犬で、ただれた眼、灰色の毛、これ以上の年をとった犬はあるまいと思われるほどの衰えを見せていました。わたしは犬を軽くたたいてやりますと、何か満足らしい様子で、すぐにわたしのそばを通って行ってしまいました。そのうちに前の司祭の時代からここの留守番であったというひどい婆さんが出て来ました。老婆はうしろの小さい客間へわたしたちを案内して、今後もやはり自分を置いてもらえるかということをたずねるのです。彼女も、犬も鶏も、前の司祭が残したものはなんでも皆そのままに世話をしてやると答えますと、彼女は非常に喜びました。セラピオン師はこれだけの小さい世帯を保ってゆくために、彼女の望むだけの金をすぐに出してやったのであります。
 さて、それからまる一年のあいだ、わたしは自分の職務について、十分に行き届いた忠実な勤めをいたしました。祈祷と精進はもちろん、病める者はわが身の痩せるような思いをしても救済し、その他の施しなどについても、わたし自身の生計くらしに困るほどまでに尽力しました。しかもわたしは自分のうちに、大きいたされないものがありました。神の恵みは、わたしには与えられないように思われました。この神聖な布教の職にあるものに湧きでるはずの幸福というものが、一向に分からなくなりました。わたしの心は遠い外に行っていたのです。クラリモンドの言葉が今もわたしの口唇くちびるに繰り返されていたのでした。
 ああ、皆さん。このことをよく考えてみて下さい。わたしがただの一度、眼をあげて一人の女人にょにんを見て、その後何年かのあいだ、最もみじめな苦悩をつづけて、わたしの一生の幸福が永遠に破壊されたことを考えてみてください。しかし私はこの敗北状態について、また霊的には勝利のごとく見えながら、更におそろしい破滅におちいったことについて、くどくどと申し上げますまい。それからすぐに事実のお話に移りたいと思います。

       三

 ある晩のことでした。わたしの司祭館のドアのベルが長くはげしく鳴りだしたのです。老婆が立ってドアをあけると、一つの男の影が立っていました。その男の顔色はまったく銅色あかがねいろをしておりまして、身には高価な外国の衣服をつけ、帯には短剣をびているのが、老婆のバルバラの提灯で見えました。老婆も一度は驚いて怖れましたが、男は彼女を押し鎮めて、わたしの神聖な仕事についてお願いに来たのであるから、わたしに会わせてもらいたいというのです。
 わたしが二階から降りようとした時に、老婆は彼を案内して来ました。この男はわたしに向かって、非常に高貴な彼の女主人が重病にかかっていて、臨終のきわに僧侶に逢いたがっていることを話したので、わたしはすぐに一緒に行くからと答えて、臨終塗油式に必要な聖具をたずさえて、大急ぎで二階を降りて行きました。
 夜の暗さと区別わかちがないほどに黒い二頭の馬が門外に待っていました。馬はあせってあがいていて、鼻から大きい息をすると、白い煙りのような水蒸気が胸のあたりをおおっていました。男はあぶみをとって、わたしをまず馬の上にのせてくれましたが、彼は鞍の上に手をかけたかと思うとたちまちほかの馬に乗り移って、膝で馬の両腹を押して手綱たづなをゆるめました。
 馬は勇んで、矢のように走り出しました。わたしの馬は、かの男が手綱を持っていてくれましたので、彼の馬と押し並んで駈けました。全くわたしたちはまっしぐらに駈けました。地面はまるで青黒い長い線としか見えないようにうしろへ流れて行き、わたしたちの駈け通る両側の黒い樹樹きぎの影は混乱した軍勢のようにざわめきます。真っ暗な森を駈け抜ける時などは、一種の迷信的の恐怖のために、総身そうみに寒さを覚えました。またある時は馬の鉄蹄てっていが石を蹴って、そこらにき散らす火花の光りが、あたかも火の路を作ったかと疑われました。
 誰でも、夜なかのこの時刻に、わたしたちふたりがこんなに疾駆しっくするのを見たらば、悪魔にった二つの妖怪と間違えたに相違ありますまい。時どきにわれわれの行く手には怪しい火がちらちらと飛びめぐり、遠い森には夜の鳥が人をおびやかすように叫び、また折りおりは燐光のような野猫の眼の輝くのを見ました。
 馬はたてがみをだんだんにかき乱して、脇腹には汗をしたたらせ、鼻息もひどくあらあらしくなってきます。それでも馬の走りがゆるやかになったりすると、案内者は一種奇怪な叫び声をあげて、またもや馬を激しくおどらせるのでした。
 旋風つむじかぜのような疾走がようやく終わると、多くの黒い人の群れがおびただしい灯に照らされながら、たちまち私たちの前に立ち現われて来ました。わたしたちは大きい木の吊り橋を音を立てて渡ったかと思うと、二つの巨大な塔のあいだに黒い大きい口をあいている、まる屋根ふうのおおいのある門のうちに乗り入れました。わたしたちがはいると、城のなかは急にどよめきました。松明たいまつをかかげた家来どもが各方面から出て来まして、その松明の火はあちらこちらに高く低く揺れています。わたしの眼はただこの広大な建物に戸惑とまどいしているばかりであります。幾多の円柱、歩廊、階段の交錯、その荘厳そうごんなる豪奢、その幻想的なる壮麗、すべてお伽噺とぎばなしにでもありそうな造りでした。
 そのうち黒ん坊の召仕ページ、いつかクラリモンドからの手紙をわたしに渡した召仕が眼に入りました。彼はわたしを馬から降ろそうとして近寄ると、くびに金のくさりをかけた黒いビロードの衣服をつけた執事らしい男が、象牙ぞうげの杖をついて私に挨拶するために出て来ました。見ると、涙が眼から頬を流れて、彼の白いひげをしめらせています。彼は行儀よくかしらをふりながら、悲しそうに叫びました。
「遅すぎました、神父さま。遅すぎましてございます。あなたが遅うございましたので、あなたに霊魂のお救いを願うことは出来ませんでした。せめてはあのお気の毒な御遺骸にお通夜を願います」
 かの老人はわたしの腕をとって、死骸の置いてあるへやへ案内しました。わたしは彼よりはげしく泣きました。死人というのは余人よじんでなく、わたしがこれほどに深く、また烈しく恋していたクラリモンドであったからです。
 寝台の下に祈祷台が設けられてありました。銅製の燭台に輝いている青白い火焔ほのおは、あるかなきかの薄い光りを暗い室内に投げて、その光りはあちらこちらに家具や蛇腹じゃばらの壁などを見せていました。
 机の上にある彫刻した壺の中には、あせた白薔薇ばらがただ一枚の葉を残しているだけで、花も葉もすべて香りのある涙のように花瓶の下に散っています。こわれた黒い仮面めんや扇、それからいろいろの変わった仮装服が腕椅子の上に置いたままになっているのを見ると、死がなんの知らせもなしに、突然にこの豪奢な住宅に入り込んで来たことを思わせました。
 わたしは寝台の上に眼をあげる勇気もなく、ひざまずいて亡き人の冥福を熱心に祈り始めました。神が彼女の霊と私とのあいだに墳墓を置いて、こののちわたしの祈祷のときに、死によって永遠にきよめられた彼女の名を自由に呼ぶことが出来るようにして下されたことについて、わたしはあつく感謝しました。
 しかし私のこの熱情はだんだんに弱くなって来て、いつの間にか空想にちていました。このへやには、すこしも死人の室とは思われないところがあったのです。私はこれまでに死人の通夜にしばしば出向きまして、その時にはいつも気が滅入めいるような匂いに慣れていたものですが、この室では――実はわたしは女のなまめかしい香りというものを知らないのですが――なんとなくなま温かい、東洋ふうな、だらけたような香りが柔らかくただよっているのです。それにあの青白い灯の光りは、もちろん歓楽のためにけられていたのでしょうが、死骸のかたわらに置かれる通夜の黄いろい蝋燭の代りをなしているだけに、そこには黄昏たそがれと思わせるような光りを投げているのです。
 クラリモンドが死んで、永遠にわたしから離れる間際まぎわになって、わたしが再び彼女に逢うことが出来たという不思議な運命について、わたしは考えました。そうして、苦しく愛惜の溜め息をつきました。すると、誰かわたしのうしろの方で、同じように溜め息をついているのを感じたのです。驚いて振り返って見ましたが、誰もいません。自分の溜め息の声が、そう思わせるように反響したのでした。わたしは見まいとして、その時までは心を押さえていたのですが、とうとう死の床の上に眼を落としてしまいました。ふちに大きい花模様があって、金糸銀糸のふさを垂れている真っ紅な緞子どんすの窓掛けをかかげて私は美しい死人をうかがうと、彼女は手を胸の上に組み合わせて、十分にからだを伸ばして寝ていました。
 彼女はきらきら光る白い麻布あさぬのでおおわれていましたが、それが壁掛けの濃い紫色とまことにいい対照をなして、その白麻は彼女の優美なからだの形をちっとも隠さずに見せている綺麗な地質の物でありました。彼女のからだのゆるやかな線は白鳥の首のようで、実に死といえどもその美を奪うことは出来ないのでした。彼女の寝ている姿は、巧みな彫刻家が女王の墓の上に置くために彫りあげた雪花石膏の像のようでもあり、または静かに降る雪に隈なくおおわれながら睡っている少女のようでもありました。
 わたしはもう祈祷いのりをささげに来た人としての謹慎の態度を持ちつづけていられなくなりました。床のあいだにある薔薇は半ばしぼんでいるのですが、その強烈な匂いはわたしの頭に沁み透って酔ったような心持ちになったので、何分なにぶんじっとしていられなくなって、室内をあちらこちらと歩きはじめました。そうして、行きかえりに寝台の前に立ちどまって、その屍衣しいを透して見える美しい死骸のことを考えているうちに、途方とほうもない空想が私の頭のなかに浮かんで来ました。
 ――彼女はほんとうに死んだのではないかもしれない。あるいは自分をこの城内に連れ出して、恋を打ち明ける目的のために、わざと死んだふりをしているのではないかとも思いました。またある時は、あの白いおおいの下で彼女が足を動かして、波打った長い敷布シーツのひだをかすかに崩したようにさえ思われました。
 わたしは自分自身にいたのです。
「これはほんとうにクラリモンドであろうか。これが彼女だという証拠はどこにある。あの黒ん坊の召仕ページは、あの時ほかの婦人の使いで通ったのではなかったか。実際、自分はひとりぎめで、こんな気違いじみた苦しみをしているのではあるまいか」
 それでも、わたしの胸は烈しい動悸をもって答えるのです。
「いや、これはやっぱり彼女だ。彼女に相違ない」
 わたしは再び寝台に近づいて、疑問の死骸に注意ぶかい眼をそそぎました。ああ、こうなったら正直に申さなければなりますまい。彼女の実によく整ったからだの形、それは死の影によって更にきよめられ、さらに神聖になっていたとはいえ、世に在りし時よりも更に肉感的になって、誰が見てもただ睡っているとしか思われないのでした。わたしはもう、葬式のためにここへ来たことを忘れてしまって、あたかも花婿が花嫁の室にはいって来て、花嫁ははずかしさのために顔をかくし、さらに自分全体を包み隠してくれるベールをさがしているというような場面を想像しました。
 わたしは悲歎に暮れていたとはいえ、なお一つの希望にかられて、悲しさと嬉しさとにふるえながら、彼女の上に身をかがめて、掩いのはしをそっとつかんで、彼女に眼を醒まさせないように息をつめてその掩いをはがしました。わたしは烈しい動悸を感じ、こめかみに血ののぼるのを覚え、重い大理石の板をもたげた時のように、ひたいに汗の流れるのを知りました。
 そこに横たわっているのは、まさしくクラリモンドでした。わたしが前にわたしの僧職授与式の日に教会で見た時と少しも違わない、愛すべき彼女でありました。死によって、彼女はさらに最後の魅力を示していました。青白い彼女の頬、やや光沢つやのあせた肉色のくちびる、下に垂れた長いまつげ、白い皮膚にきわだって見えるふさふさした金色の髪、それは静かな純潔と、精神の苦難とを示して、なんともいえない蠱惑こわくの一面を現わしています。彼女はたけ長いけた髪に小さい青白い花をさして、それを光りある枕の代りとし、豊かなき毛はさらにあらわなる肩を包んでいます。彼女の美しい二つの手は天使エンジェルの手よりも透き通って、敬虔けいけんな休息と静粛な祈りの姿を示していましたが、その手にはまだ真珠の腕環がそのままに残っていて、象牙のようななめらかな肌や、その美しい形の丸みは、死の後までも一種の妖艶をとどめていました。
 わたしはそれから言葉に尽くせない長い思索にふけりましたが、彼女の姿を見守っていればいるほど、どうしても彼女はこの美しいからだを永久に捨てたとは思えないのでした。見つめていると、それは気のせいか、それともランプの光りのせいかわかりませんが、血の気のない顔の色に血がめぐり始めたように思われました。わたしはそっと軽く彼女の腕に手をあてますと、冷たくは感じましたが、いつか教会の門でわたしの手にふれた時ほどには冷たくないような気がしました。わたしは再び元の位置にかえって、彼女の上に身をかがめましたが、わたしの熱い涙は彼女の頬をぬらしました。
 ああ、なんという絶望と無力の悲しさでありましょう。なんとも言いようのない苦しみを続けながら、わたしはいつまでも彼女を見つめていたことでしょう。わたしは自分の全生涯の生命をあつめて彼女にあたえたい。わたしの全身に燃えている火焔ほのおを彼女の冷たい亡骸なきがらにそそぎ入れたいと、無駄な願いを起こしたりしました。
 夜はけてゆきました。いよいよ彼女と永遠のわかれが近づいたと思った時、わたしはただひとりの恋人であった彼女に、最後の悲しい心をこめた、たった一度の接吻せっぷんをしないではいられませんでした――。
 おお、奇蹟です。熱烈に押しつけた私のくちびるに、わたしの息とまじって、かすかな息がクラリモンドの口から感じられたのです。彼女の眼があいて来ました。それは以前のような光りを持っていました。それから深い溜め息をついて、二つの腕をのばして、なんともいわれない喜びの顔色をみせながら私のくびを抱いたのです。
「ああ、あなたはロミュオーさま……」
 彼女は竪琴たてごとの消えるような優しい声で、ゆるやかにささやきました。
「どこかお悪かったのですか。わたしは長い間お待ち申していたのですが、あなたが来て下さらないので死にました。でも、もう今は結婚のお約束をしました。わたしはあなたに逢うことも出来ます。お訪ね申すことも出来ます。さようなら、ロミュオーさま、さようなら。私はあなたを愛しています。わたしが申し上げたかったのは、ただこれだけです。わたしは今あなたが接吻をして下すったからだを生かして、あなたにお戻し申します。わたしたちはすぐにまたお逢い申すことが出来ましょう」
 彼女のかしらはうしろに倒れましたが、その腕はまだわたしを引き止めるかのように巻きついていました。突然に烈しい旋風つむじかぜが窓のあたりに起こって、へやのなかへ吹き込んで来ました。
 白薔薇に残っていた、ただ一枚の葉はちっとの間、枝のさきでちょうのようにふるえていましたが、やがてその葉は枝から離れて、クラリモンドの霊を乗せて、窓から飛んで行ってしまいました。ランプの灯は消えました。私はおぼえず死骸の胸の上に俯伏うつぶしました。

       四

 わたしがわれに返った時、わたしは司祭館の小さな部屋のなかに寝ていました。前の司祭の時から飼ってあるかの犬が、掛け蒲団の外に垂れているわたしの手をなめていました。あとになって知ったのですが、わたしはそのままで三日も寝つづけていたので、その間に少しの呼吸いきもせず、生きている様子はちっともなかったそうです。老婆のバルバラの話によると、わたしが司祭館を出発した晩にたずねて来たかの銅色あかがねいろの男が、翌あさ無言でわたしをかついで来て、すぐに帰って行ったということです。しかし私がクラリモンドを再び見たかの城のことについて、この近所では誰もその話を知っている者はありませんでした。
 ある朝、セラピオン師はわたしの部屋へたずねて来ました。彼はわたしの健康のことを偽善的な優しい声できながら、しきりに獅子ライオンのような大きい黄いろい眼を据えて、測量鉛のように私のこころのうちへ探りを入れていましたが、突然に澄んだはっきりした声で話しました。それはわたしの耳には最後の審判の日の喇叭ラッパのようにひびいたのです。
「かの有名な娼婦のクラリモンドが、二、三日前に八日八夜もつづいた酒宴の果てに死にました。それは魔界ともいうべき大饗宴で、バルタザールやクレオパトラの饗宴をそのままの乱行が再びそこに繰り返されたのです。ああ、われわれはなんという時世に生まれ合わせたのでしょう。言葉は何を言っているのか分からないような黒ん坊の奴隷が客の給仕をしましたが、どうしても私にはこの世の悪魔としか見えませんでした。そのうちのある人びとの着ている晴れなどは、帝王の晴れ衣にも間に合いそうな立派なものでした。かのクラリモンドについては、いろいろの不思議な話が伝えられていますが、その愛人はみな怖ろしい悲惨な終わりを遂げているようです。世間ではあの女のことを発塚鬼グールだとか、女の吸血鬼ヴァンパイヤだとか言っているようですが、わたしはやはり悪魔であると思っています」
 セラピオン師はここで話をやめて、その話が私にどういう効果をあたえたかということを、以前よりもいっそう深く注意し始めました。わたしはクラリモンドの名を聞いて、驚かずにはいられませんでした。それは彼女が死んだという知らせの上に、さらに私を苦しめたのは、その事件がさきの夜に私が見た光景と寸分たがわない偶然の暗合であります。わたしはその煩悶はんもんや恐怖を出来るだけ平気によそおおうとしましたが、どうしても顔には現われずにはいませんでした。セラピオン師は不安らしいけわしい眼をして私を見つめていましたが、また、こう言いました。
「わたしはあなたに警告しますが、あなたは今や奈落ならくのふちに足をのせて立っているのです。悪魔の爪は長い。そうして、かれらの墓はほんとうの墓ではない場合があります。クラリモンドの墓石は三重にもふたをしておかなければなりません。なぜというに、もし世間の話が本当であるとすれば、彼女が死んだのは今度が初めてでないのです。ロミュオー君、どうかあなたの上に神様のお守りがあるように祈ります」
 こう言って、セラピオン師は静かに戸口の方へ出て行きました。間もなく彼はSの町へ帰りましたが、わたしはそれを見送りもしませんでした。
 わたしはそののち健康を回復して、型のごとくに職務を始めました。クラリモンドの記憶と、セラピオン師の言葉とは絶えず私の心に残っていたのですが、セラピオン師の言った不吉な予言が真実として現われるような、特別の事件も別に知らなかったのでした。そこでわたしは、セラピオン師やわたしの恐怖にはやはり誇張があったのだと思うようになりました。ところがある夜、不思議な夢を見たのです。
 わたしはその夜まだ本当に寝入らないとき、寝室のカーテンのあく音を聞きました。わたしはその環がカーテンの横棒の上を烈しくすべったのに気がついて、急いでひじで起き上がると、わたしの前に一人の女がまっすぐに立っているのを見たのです。
 彼女はその手に、墓場でよく見る小さいランプを持っていましたが、その指は薔薇色に透き通っていて、指さきから腕にかけてだんだんに暗くほの白く見えているのです。彼女の身につけているものは、ただ一つ、死の床に横たわっている時におおわれていた白い麻布でありました。彼女はそんな貧しいふうをしているのが恥かしそうに、胸のあたりを掩おうとしましたが、優しい手には充分にそれが出来ませんでした。ランプの青白い灯に照らされて、彼女のからだの色も、身にまとっているものも、すべて一つの真っ白な色に見えていましたが、一つの色に包まれているだけに、彼女のからだのすべての輪郭はよくあらわれて、生きている人というよりは、ゆあみしている昔の美女の大理石像を思わせました。
 死生を問わず、彫像であろうと、生きた女であろうと、彼女の美には変わりはありませんが、ただ多少その緑の眼に光りがないのと、かつては真紅しんくの色をなしていた口が、頬の色と同じように弱い薔薇色をしているだけの相違でありました。彼女はその髪に小さい青い花をさしていましたが、ほとんどその葉を振るい落として花も枯れしぼんでいました。しかし、それは少しも彼女の優しさをさまたげず、こんな冒険をあえてして、不思議な身装みなりでこの部屋にはいって来ても、ちっとも私を恐れさせないほどの美しい魅力をそなえているのでした。
 彼女はランプを机の上に置いて、わたしの寝台の下に坐って私の方へかしらを下げました。そうして、ほかの女からはまだ一度も聞いたことのないような愛らしい柔らかな、しかし時には銀のような冴えた声で言いました。
「ロミュオーさま。わたしは長い間あなたをお待ち申しておりました。あなたのほうでは、わたしがあなたをお忘れ申していたとでも、思っていらっしゃるに相違ないと思います。それでもわたしは、遠い、たいへんに遠い、誰も二度とは帰って来られないようなところから参ったのです。そこには太陽もなければ、月もないのです。そこにはただ空間と影とがあるばかりで、通り路もなく、地面もなく、羽で飛ぶ空気もない処です。それでも私は来たのでございます。愛は死よりも強いもので、しまいには死をも征服しなければならないものですから……。ああ、ここまで参るのにどんなに悲しい顔や、怖ろしいものに出逢ったか知れません。わたしの霊魂が、ただ意志の力だけでこの地上に帰って来て、わたしの元のからだを探し求めて、そのなかに帰るまでにはどんなに難儀をしたでしょう。わたしは自分の上に掩いかぶさっている重い石の蓋を引き上げるには、恐ろしいほどの努力を要しました。わたしのを見て下さい。こんなに傷だらけになってしまったのです。この上に接吻をして下さい。これがなおりますように……」
 彼女は冷たい手を交るがわるに私の口へあてたのです。わたしは全くいくたびも接吻しました。彼女はその間に、なんとも言われない愛情をもってわたしを見ていました。
 恥かしいことですが、わたしはセラピオン師の忠告も、また、わたしの神聖なる職業に任ぜられていることも、全く忘れていました。わたしは彼女が最初の来襲に対してなんの拒絶もなしに服従し、その誘惑をしりぞけるために僅かの努力さえもしませんでした。クラリモンドの皮膚の冷たさが沁み透って、わたしの全身はぞっとするようにふるえました。あわれなことには、わたしはその後にもいろいろのことを見ているにもかかわらず、いまだに彼女を悪魔だと信じることができません。すくなくとも彼女は悪魔らしい様子を持っていないばかりでなく、悪魔がそれほど巧妙にその爪や角を隠すことが出来るはずがないと思っていたからです。
 彼女はうしろの方に身を引くと、いかにもだるそうな魅惑を見せながら長椅子のはしに腰をおろしました。彼女はそれからだんだんに私の髪のなかへ小さい手を差し入れて、髪の毛をくねらしたりして、新しい型が私の顔に似合うかどうかを試みたりしました。
 わたしはこの罪深い歓楽に酔って彼女のなすがままにまかせていましたが、その間も彼女は何かと優しい子供らしい無駄話などをしていたのです。何より不思議なのは、こんな普通でないことをしていて、わたし自身が少しも驚かなかったことです。それはあたかも夢をみているとき、非常に幻想的な事柄がおこっても、それは当たり前のこととして別に不思議に思わないようなもので、今のすべての場合もわたし自身には全く自然なことのように思われたのです。
「ロミュオーさま。わたしはあなたをお見かけ申した前から愛していました。そうして、あなたを捜していたのです。あなたは私の夢にえがいていたかたです。教会のなかで、しかもあの運命的な瀬戸ぎわにあなたを初めてお見かけ申したのです。わたしはその時すぐに〈あの方だ〉と自分に言いました。わたしは今までに持っていたすべての愛、あなたのために持つ未来のすべての愛、それは司教の運命も変え、帝王もわたしの足もとにひざまずかせるほどの愛をこめてあなたを見つめたのです。それをあなたは、わたしには来て下さらないで、神様をお選びになったのです……。ああ、わたしは神様がねたましい。あなたは私よりも神様を愛していらっしゃるのです。考えると詰まりません、わたしは不幸な女です。わたしはあなたの心をわたし一人のものにすることが出来ないのです。あなたは一度の接吻でわたしをこの世によみがえらせて下さいました。この死んだクラリモンドを……。そのクラリモンドは今あなたのために墓の戸を打ち開いて来たのです。わたしはあなたに生の喜びを捧げたい、あなたを幸福にしてあげたいと思って来たのです」
 それらの熱情的の愛の言葉は、わたしの感情や理性を眩惑げんわくさせました。わたしは彼女を慰めるために、平気で彼女にむかって「神を愛するほどに愛する」などと、恐るべき不敬なことを言ってしまいました。
 彼女の眼はふたたび燃えはじめて、緑玉のように光りました。
「本当でございますか。神様を愛するほどにわたしを愛して下さるの」と、彼女は美しい手を私に巻きつけながら叫びました。「そんなら、わたしと来て下さるでしょう。わたしの行きたい所へ来て下さるでしょう。もういやな陰気な商売はやめておしまいなさい。あなたを騎士のうちでもいちばん偉い、みんなの羨望のまとになるような人にしてあげます。あなたは私の恋びとです。クラリモンドの気に入った恋びと――ローマ法王さえ撥ねつけたほどの私の恋びと――それなら男の誇りになるはずです。ああ、わたしの人……。わたしたちはなんともいえないほどに幸福しあわせです。これから美しい黄金生活をともにしましょう。わたしたちはいつ出発しましょうか」
「あした、あした……」と、わたしは夢中になって叫びました。
「あした……。では、そうしましょう。その間にわたしはお化粧する暇があります。このままではあまりお粗末で、旅行するには困ります。わたしはすぐにこれから行って、わたしが死んだと思って大変に悲しんでいるお友達に知らせてやります。お金も、着物も、馬車も、何もかも用意して、今夜とおなじ時間にまいります。さようなら」
 彼女は軽く私のひたいに接吻しました。それから彼女の持つランプが行ってしまうと、カーテンは元の通りにとじられて、あたりは真っ暗になりました。わたしは熟睡して、翌朝まで何も覚えませんでした。

       五

 わたしはいつもより遅く起きましたが、この不思議な出来事が思い出されて、わたしは終日悩みました。わたしは結局、ゆうべの出来事は自分の熱心なる想像から湧き出した空想に過ぎないと思ったのです。それにもかかわらず、そのときの感激があまりに生まなましいので、ゆうべのことがどうも空事そらごとではないようにも思われ、今度また何か起こって来るのではないかという予感を除くことが出来ないので、わたしは悪魔的の考えをいっさい追い出して下さることを神に祈って、寝床についたのであります。
 わたしはすぐに深い眠りに落ちました。するとまた、かの夢がつづきました。カーテンがふたたび開くと、クラリモンドが以前とは違って、屍衣しいに包まれて青白い色をしていたり、頬に死のむらさき色を現わしていたりすることなく、華やかな陽気な、快活な顔色をしてはいって来ました。彼女は金色こんじきのふちを取って絹の下袴の見えるほどにくくってある緑色のビロードの旅行服を着ていました。金色こんじきの髪はひろい黒色のフェルト帽の下に深ぶかとしたふさをみせ、その帽子の上には白い羽が物好きのようにいろいろの形に取り付けてありました。彼女は片手に金の笛をつけた小さい馬のむちを持っていましたが、その笛で軽くわたしを叩いて言いました。
「まあ、お寝坊さんね。これがあなたのご用意なのですか。もう起きて、着物をきていらっしゃると思っていましたのに……。早く起きて頂戴よ。もう時間がありませんわ」
 わたしはすぐ寝台から飛びあがりました。
「さあ、ご自分で着物をお着なさい。行きましょうよ」と、彼女は自分が持って来た小さい荷造りを見せながら言いました。「ぐずぐずしているから馬がじれて、戸をぼりぼりと噛みはじめましたわ。もう今までに三十マイルも遠く行けましたのに……」
 わたしは急いで服をつけにかかりますと、彼女は一つ一つに服を渡して、わたしの不器用な手つきを見ては笑いこけたり、わたしが間違うと、その着方を教えてくれたりしました。彼女はさらに私の髪を急いでととのえてくれて、ふところからふちに金銀線の細工がしてある、ヴェニスふうの小さい水晶の鏡を出して、芝居気たっぷりに、「お気に召しましたでしょうか。あなたの侍女こしもとにして下さりませ」などと訊いたりしました。
 わたしはもう以前と同じ人間ではなく、自分ではないくらいに変わり果てました。立派に出来あがった石像とただの石ころほどに変わってしまいました。わたしはまったく美男子になり済まして、なんだかくすぐったいような心持ちになりました。上品な服装、贅沢にふちを取った胸着は、まるでわたしを違った人間にしてしまい、縞柄のついた二、三ヤードの布でこしらえただけのものが、こんなにも人の姿を変えるものかと驚きました。衣服が変わると、わたしの皮膚の色まで変わって、わずか十分というあいだに相当の伊達者だてしゃのようになったのです。
 わたしはこの新しい服を着馴らすために室内を歩き廻りました。クラリモンドは母のような喜びをもって私をながめて、自分の仕事に満足したように見えました。
「さあ、このくらいにして出かけましょうよ。遠い所へ行かなければなりませんから……。さもないと時間通りに行き着きませんわ」
 彼女はわたしの手を取って出ました。すべてのドアは、彼女が手を触れると開きました。わたしたちは犬のそばを眼を醒まさせないで通りぬけたのです。門のところにマルグリトーヌが待っていました。さきに私を迎えに来た浅黒い男です。彼は三頭の馬の手綱をとっていましたが、馬はいずれもさきに城中へ行った時と同じ黒馬で、一頭はわたし、一頭は彼、他の一頭はクラリモンドが乗るためでした。それらの馬は西風によって牝馬めすうまから生まれたスペインの麝香猫じゃこうねこにちがいないと思うくらいに、風のようにはやく走りました。出発の時にちょうど昇ったばかりの月はわれわれのゆく手を照らして、戦車の片輪が車を離れた時のように大空をころがって行きました。われわれの右にはクラリモンドが飛ぶように馬を走らせ、わたしたちにおくれまいとして息が切れるほどに努力しているのを見ました。間もなくわれわれは平坦な野原に出ましたが、その立ち木の深いところに、四頭の大きい馬をつけた一台の馬車がわれわれを待っていました。
 わたしたちはその馬車に乗ると、馭者は馬を励まして狂奔させるのでした。わたしは一方の腕をクラリモンドの胸に廻しましたが、彼女もまた一方の腕をわたしに廻して、その頭をわたしの肩にもたせかけました。わたしは彼女の半ばあらわな胸が軽くわたしの腕を押し付けているのを感じました。わたしはこんな熱烈な幸福を覚えたことはありませんでした。わたしは一切のことを忘れました。母の胎内にいた時のことを忘れたように、自分が僧侶の身であることを忘れて、まったく悪魔にみいられるほどの恍惚たる心持ちになったのでした。
 その夜からわたしの性質はなんだか半分半分になったようで、わたしの内におたがいに知らない同士の二人の人間がいるように思われました。ある時は、自分は僧侶で紳士になっている夢を見ているようにも思われ、またある時は、自分は紳士で僧侶になっているような気もしたのです。わたしはもはや現実と夢との境を判別することが出来ず、どこからが事実で、どこで夢が終わったのか分からなくなって、高貴な若い貴族や放蕩者は僧侶をののしり、僧侶は若い貴族の放埒な生活をみ嫌いました。
 こういうわけで、わたしはこの二つの異った生活を認めていながら、あくまでも強烈にそれを持続していました。ただ自分にわからない不合理なことは、一つの同じ人間の意識が性格の相反した二つの人間のうちに存在していることでありました。わたしは小さいCの村の司祭であるか、またはクラリモンドの肩書つきの愛人ロミュオー君であるか、この変則がどうしても分かりませんでした。
 それはどうでもいいとして、とにかくに私はヴェニスで暮らしていました。少なくとも私はそう信じていました。わたしのこの幻想的な旅行は、どれだけが現実の世界で、どれだけが幻影であるか、確かには分かりかねますが、わたしたちふたりはカナレイオ河岸の大邸宅に住んでいました。邸内は壁画や彫像をもって満たされ、大家の名作のうちにはティチアーノ(十五世紀より十六世紀にわたるヴェニスの画家)の二つの作品もクラリモンドのへやに掛けてありました。そこは全く王宮とひとしき所でありました。ふたりともに、めいめいゴンドラをそなえていて、家風の定服を着た船頭が付いており、さらに音楽室もあり、特別にお抱えの詩人もありました。
 クラリモンドはいつも豪奢な生活をして自然にクレオパトラのふうがあり、わたしはまた公爵の子息を小姓にして、あたかも十二使徒のうちの一族であり、あるいはこの静かな共和国(ヴェニス)の四人の布教師の家族であるかのごとくに尊敬され、ヴェニスの総督といえども道をけるくらいでありました。実に悪魔サタンがこの世にくだって以来、わたしほど傲慢無礼の動物はありますまい。わたしは更にリドへ行って賭博を試みましたが、そこは全く阿修羅あしゅらちまたともいうべきものでした。わたしはあらゆる階級――零落した旧家の子弟、劇場の女たち、狡猾な悪漢、幇間、威張り散らす乱暴者のたぐいを招いて遊びました。
 こんな放蕩生活をしているにもかかわらず、わたしはクラリモンドに対しては忠実であり、また熱烈に彼女を愛していました。クラリモンドも大いに満足して愛のかわることはありませんでした。クラリモンドを持っていることは、二十人の女、いな、すべての女を持っているようなものでした。彼女は実に感じ易い性質といろいろの変わった風貌と、新しい生きいきとした魅力とをすべて身に備えて、かのカメレオンのごとき女でありました。人がもしほかの女の美に酔うて淫蕩の心を起こした場合には、彼女はただちにその美女の性格や魅力や容姿を完全に身にまとって、その人に同じ淫蕩の念を起こさせる女でありました。
 彼女はわたしの愛を百倍にして返してくれたのです。この地の若い貴公子や十法官からもはなばなしい結婚の申し込みがありましたが、それはみな失敗に終わりました。フォスカリ家(ヴェニスの総督たりしフォスカリ・フランセソの一家)の人からも申し込みがありましたが、彼女はそれをも拒絶しました。金は十分に持っているので、彼女は愛のほかには何物をも望んでいませんでした。ただこの愛――青春の愛、純真の愛、それは自分のこころから燃え出した愛、そうして、それが最初であり、また最後であるところの熱情のほかには、なんにも望んでいなかったのです。わたしは全く幸福であるといえたかもしれません。しかしただひとつの苦しみは、毎夜呪わしい夢魔におそわれることで、貧しい村の司祭として終日自分の乱行を懺悔ざんげし、また滅罪の苦行くぎょうをしている有様を夢みるのでした。
 いつも彼女と一緒にいるために安心して、わたしはクラリモンドの変わった様子について別に考えもしませんでしたが、セラピオン師が彼女について語った言葉は時どきにわたしの記憶をび起こして、不安な心持ちを去るというわけにはゆきませんでした。
 どうかすると、クラリモンドの健康が以前のようによくないことがありました。彼女の皮膚は日に日にあおざめて、呼ばれて来た医者たちにもその病症がわからず、どうにも療治のしようがないことがありました。医者たちはみなわけのわからない薬をくれましたが、どれも無効で二度と呼ばれた者はありませんでした。彼女の色の蒼さは眼に見えるほどにいや増して、からだはだんだんに冷たく、さきの夜、かの見知らぬ城の中にあったように、白く死んでゆくのでした。わたしはその枯れ死んでゆく姿を見て、言うに言われない苦悶を感じました。彼女はわたしの苦しみに感動して、死ななければならない人間の感ずるような、運命的な微笑を美しく、また悲しそうに浮かべていました。
 ある朝のことでした。わたしは彼女の寝台のそばの小さい食卓で朝食をすませた後、わずかの間も離れてはならないと彼女のそばに腰をかけていました。その時に果物の皮をむいていると、誤まって自分の指に深く切り込んだのです。小さい紫色の血がすぐにほとばしり出て、いくらかクラリモンドにもかかったかと思うと、その顔色は急に変わって、今までの彼女にかつて見たことのない野蛮な、残忍な喜びの表情を帯びて来ました。彼女は動物のような身軽さ――あたかも猿か猫のように軽く飛び降りて、わたしの傷口に飛びついて、いかにも嬉しそうな様子でその血を吸い始めたのです。
 彼女は小さい口いっぱいに――あたかも酒好きの人間がクセレスかシラクサの酒を味わっているように、ゆっくりと注意ぶかく飲むのでした。そのひとみはだんだんに半ばとじられて、緑色の眼のまる瞳孔ひとみが楕円形にかわって来ました。彼女は時どきにわたしの手に接物するために、血を吸うことをやめましたが、さらに赤い血のにじみ出るのを待って、傷に口唇くちびるを持っていくのでした。血がもう出ないのを知ると、彼女の眼はみずみずしく輝いて、五月の夜明けよりも薔薇色になってち上がりました。顔の色も生きいきとして、手にも温かいうるみが出て、今までよりもさらに美しく、まったく健康体のようになっているのです。
「わたしは死なないわ、死なないわ」と、彼女は半気ちがいのようになって、わたしのくびにかじりついて叫びました。
「わたしはまだ長い間あなたを愛することが出来るわ。わたしの生命いのちはあなたのものです。わたしのからだはすべてあなたから貰ったのです。あなたの尊い、高価な、この世界にあるどの霊薬よりも優れて高価な血のいく滴が、わたしの生命を元の通りにしてくれたのですわ」
 この光景は永く私をおびやかして、クラリモンドについては不思議な疑問を起こさせました。その夜、わたしが寝床にはいると、睡眠は私を誘い出して、むかしの司祭館に連れ戻しました。わたしはセラピオン師が今までよりもいっそう厳粛な不安らしい顔をしているのを見ました。彼は私をじっと見つめていましたが、やがて悲しそうに叫びました。
「あなたは魂を失うばかりではない、今はその身をも失おうとしている。堕落した若い人は、実に恐ろしいことになっている」
 その言葉の調子は私を強く動かしました。しかしその時の印象がまざまざとしていたにもかかわらず、それもすぐに私から消えていって、ほかのさまざまな考えも皆わたしの心から去ってしまいました。

       六

 とうとうある晩のことでした。わたしが鏡を見ていると、その鏡に彼女の姿が映っていることをさとらずに、クラリモンドはいつも二人の食卓のあとで使うことにしている、薬味やくみを入れた葡萄酒の盃のなかに、何かの粉を入れているのです。それが鏡に映ったので、わたしは盃を手にとって、口のところに持ってゆく真似をして、そばにある器物の上に置きました。彼女がうしろを向いたときに、私はその盃のものをテーブルの下にそっとこぼして、それから自分の部屋に帰って寝床についたのですが、今夜はけっして睡るまい、そうして、このすべての不思議なことについて何かの発見をしようと決心しました。
 間もなくクラリモンドは夜の服を着てはいって来ましたが、服をぬぐとわたしの寝台に這い上がって来て、私のそばに横になりました。彼女はわたしが寝ていることを確かめると、やがてわたしの腕をまくりました。そうして、髪から黄金のピンを抜き取ると、低い声で言いました。
「一滴……ほんの一滴よ。この針のさきへ紅玉ルビーほど……あなたがまだ愛して下さるなら、わたしは死んではならないわ。……ああ、悲しい恋……。あなたの美しい、紫色の輝いた血をわたしは飲まなければならない。おやすみなさい、わたしの貴い宝……。お寝みなさい、わたしの神様、わたしの坊ちゃん……。わたしはあなたに悪いことをするのではないのよ。わたしは永久にくならないように、あなたの生命いのちを吸わなければならないのよ。わたしはあなたをたいへんに愛していたので、ほかの恋びとの血を吸うことに決めていたの。しかし、あなたを知ってからは、ほかの人たちはいやになったわ……。ああ、綺麗な腕……。なんというまるい、なんという白い腕でしょう。どうしたらこんなに綺麗な青い血管が刺せるでしょう」
 彼女は独りごとを言いながらさめざめと泣くのです。わたしはその涙がわたしの腕を濡らすのを覚え、彼女がその手でしがみつくのを感じました。そのうちに彼女はとうとう決心して、ピンでわたしの腕を軽く刺して、そこからみ出る血を吸いはじめました。二、三滴しか飲まないのに、彼女はもうわたしが眼を醒ますのを怖れて、傷口をこすって膏薬を貼って、注意深くわたしの腕に小さい繃帯を巻きつけたので、その痛みはすぐに去りました。
 もう疑う余地はなくなりました。セラピオン師の言葉は間違ってはいませんでした。この明らかな事実を知ったにもかかわらず、わたしはまだクラリモンドを愛さずにはいられませんでした。私はみずから進んで、彼女の不自然な健康を保持させるために、欲しがるだけの生き血をあたえました。そうしてまた、彼女を恐れてもいませんでした。彼女も自分を吸血鬼ヴァンパイアと思ってくれるなと歎願するようでした。わたしも今まで見聞したところによって、さらにそれを疑いませんでしたので、一滴ずつの血をそれほどに惜しくも思いませんでした。私はむしろ自分から腕の血管をひらいて、「さあ、飲むがいい。わたしの愛がわたしの血と一緒におまえの血に沁み込んでゆけば何よりだ」と言ったのです。それでも私は、彼女に麻酔するほど飲ませたり、またはピンを刺させたりすることは、常に注意して避けていたので、二人はまったく調和した生活を保っていたのです。
 それでも僧侶として、わたしの良心の呵責かしゃくは今まで以上にわたしを苦しめ始めました。わたしはいかなる方法で自分の肉体を抑制し、浄化することが出来るかについて、まったく途方とほうに暮れたのです。かの多くの幻覚が無意識の間に起こったにもせよ、直接に私がそれを行なわなかったにもせよ、それが夢であるにせよ、事実であるにせよ、かくのごとき淫蕩によごれた心と汚れたる手をもって、クリストの身に触れることは出来ませんでした。
 わたしはこの不快な幻覚に誘われない手段として、睡眠におちいらないことに努めました。わたしは指で自分の眼瞼まぶたをおさえ、壁にまっすぐにりかかって何時間も立ちつづけ、出来る限り睡気ねむけと闘いました。しかし睡気は相変わらずわたしの眼を襲って来て我慢がつかず、絶望的な不快のうちに両腕はおのずとおろされて、睡りの波は再びわたしを不誠実の岸へ運んでゆくのでした。
 セラピオン師は最もはげしい訓告をあたえて、わたしの柔弱と、熱意の不足をきびしく責めました。ついにある日、わたしが例よりも更に悩んでいる時に、彼は言いました。
「あなたがこの絶えざる苦悩から逃がれ得るただひとつの道は、非常手段によらなければなりません。おおいなる病苦は大いなる療治を要する。わたしはクラリモンドが埋められている場所を知っている。わたしたちは彼女の亡骸なきがらを発掘して見る必要がある。そうして、あなたの愛人がどんな憐れな姿をしているかをご覧なさい。さすれば、あの虫ばんだ不浄の死体――土になるばかりになっている死体のために、あなたの魂を失うようなことはありますまい。かならずあなたを元へ引き戻すに相違ないと思います」
 わたしとしても、たとい一時いちじは満足したとはいえ、二重の生活にはもうあきました。自分は空想の犠牲になっている紳士であるか、または僧侶であるか、ということをはっきり確かめたいと思いました。わたしは自分のうちにあるこの二人に対して、どちらかを殺して他を生かすか、あるいは両方ともに殺すか、とても現在の恐ろしい状態には長く堪えられないと決心したのであります。
 セラピオン師は鶴嘴つるはしてこと、提灯とを用意して来ました。そうして夜なかに、わたしたちは――墓道を進みました。その付近や墓場の勝手を僧院長はよく心得ていました。たくさんの墓の碑銘をほの暗い提灯に照らし見た末に、二人は長い雑草にかくされて、こけがむして、寄生植物の生えている石板のあるところに行き着きました。碑銘の前文を判読すると、こうありました。
ここにクラリモンド埋めらる
在りし日に
最も美しき女として聞こえありし。
「ここに相違ない」と、セラピオン師はつぶやきながら提灯を地面におろしました。
 彼は梃を石板の端から下へ押し入れて、それをもたげ始めました。石があげられると、さらに鶴嘴で掘りました。夜よりも暗い沈黙のうちに、わたしは彼のなすがままに眺めていると、彼は暗い仕事の上に身をかがめて、汗を流して掘っています。彼は死に瀕した人のように、絶えだえの呼吸いきをはずませています。実に怪しい物すごい光景で、もし人にこれを見せたらば、確かに神に仕うる僧侶とは思われず、何かけがれたる悪漢わるものか、屍衣しい盗人ぬすびとと、思い違えられたであろうと察せられました。
 熱心なセラピオン師の厳峻と乱暴とは、使徒とか天使とかいうよりも、むしろ一種の悪魔のふうがありました。その鷲のような顔を始めとして、すべて厳酷な相貌そうぼうが灯のひかりにいっそう強められて、この場合における不愉快な想像力をいよいよ高めました。わたしの額には氷のような汗が大きいしずくとなって流れ、髪の毛は怖ろしさに逆立ちました。苛酷なセラピオン師は実ににくむべき涜神とくしんの行為を働いているように感じられ、われわれの上に重く渦巻いている黒雲のうちから雷火がひらめき来たって、彼を灰にしてしまえと、わたしは心ひそかに祈りました。
 糸杉サイプレスの梢に巣をくむふくろうは灯の光りにおどろいて飛び立ち、灰色のつばさを提灯のガラスに打ち当てながら悲しく叫びます。野狐も闇のなかに遠くいています。そのほかにも数知れない無気味な音がこの沈黙しじまのうちに響いて来ました。最後にセラピオン師の鶴嘴が棺を撃つと、棺は激しい音を立てました。彼はそれをねじ廻して、ふたを引きのけました。さてかのクラリモンドは――と見ると、彼女は大理石像のような青白い姿で、両手を組みあわせ、頭から足へかけて白い屍衣しい一枚をかけてあるだけでした。彼女の色もない口の片はしに、小さい真っ紅な一滴が露のように光っていました。セラピオン師はそれを見ると、大いに怒りを発しました。
「おお、悪魔がここにいる。けがれたる娼婦! 血と黄金こがねを吸うやつ!」
 それから彼は死骸と棺の上に聖水をふりかけて、その上に聖水の刷毛はけをもって十字を切りました。哀れなるクラリモンド――彼女は聖水のしぶきが振りかかるやいなや、美しい五体は土となって、ただの灰と、なかば石灰に化した骨と、ほとんど形もないようなかたまりになってしまいました。
 冷静なセラピオン師は、いたましい死灰を指さして叫びました。
「ロミュオー卿、あなたの情人をご覧なさい。こうなっても、あなたはまだこの美人とともに、リドの河畔やフュジナを散歩しますか」
 わたしは両手で顔をおおって、大いなる破滅の感に打たれました。わたしは司祭館に帰りました。
 クラリモンドの愛人として身分の高いロミュオー卿は、長いあいだ不思議な道連れであった僧侶の身から離れてしまったのです。しかもただ一度、それは前の墓ほり事件の翌晩でしたが、わたしはクラリモンドの姿を見ました。彼女は初めて教会の入り口でわたしに言ったと同じことを言いました。
「不幸なかた、ほんとうに不幸なかた……。どうしてあなたは、あんな馬鹿な坊さんの言うことをきなすったのです。あなたは不幸でありませんか。わたしのみじめな墓を侮辱されたり、うつろな物をさらけ出されたりするような悪いことを、わたしはあなたに仕向けたでしょうか。あなたとわたしとの間の霊魂や肉体の交通は、もう永遠に破壊されてしまいました。さようなら。あなたはきっと私のことを後悔なさるでしょう」
 彼女は煙りのように消えて、二度とその姿を見せませんでした。
 ああ、彼女の言葉は真実となりました。わたしは彼女のことをいくたびなげいたか分かりません。いまだに彼女のことを後悔しています。わたしの心はそのご落ちついて来ましたが、神様の愛も彼女の愛に換えるほどに大きくはありませんでした。

 皆さん。これはわたしの若い時の話です。けっして女を見るものではありません。戸外そとを歩く時は、いつでも地の上に眼をしっかりと据えて歩かなければなりません。どんなに清く注意ぶかく自分を保っていても、一瞬間のあやまちが永遠に取りかえしのつかないことになってしまうものです。

底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
   2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
※「吸血鬼(ヴァンパイヤ)」と「吸血鬼(ヴァンパイア)」の混在は底本通りにしました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
2005年11月7日修正
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