上

 この武蔵野は時代物語ゆえ、まだ例はないが、その中の人物の言葉をば一種の体で書いた。この風の言葉は慶長ごろの俗語に足利ごろの俗語とを交ぜたものゆえ大概その時代には相応しているだろう。

 ああ今の東京とうけい、昔の武蔵野むさしの。今はきりも立てられぬほどのにぎわしさ、昔は関も立てられぬほどの広さ。今なかちょう遊客うかれおにらみつけられるからすも昔は海辺うみばた四五町の漁師町でわずかに活計くらしを立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、ごく素寒貧すかんぴんであッた。実に今は住む百万の蒼生草あおひとぐさ,実に昔は生えていた億万の生草なまくさ。北は荒川から南は玉川まで、うそもない一面の青舞台で、草の楽屋に虫の下方したかた,尾花の招引まねぎにつれられて寄り来る客はきつねか、鹿しかか、またはうさぎか、野馬ばかり。このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、このころいくさがあッたと見え、そこここには腐れた、見るも情ない死骸しがいが数多く散ッているが、戦国の常習ならい、それを葬ッてやる和尚おしょうもなく、ただところどころにばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸のつかが出来ていて、それにはわずかに草や土やまたはやぶれて血だらけになッている陣幕などが掛かッている。そのほかはすべて雨ざらしで鳥や獣に食われるのだろう、手や足がちぎれていたり、また記標しるしに取られたか、首さえもないのが多い。本当にこれらの人々にもなつかしい親もあろう、可愛らしい妻子もあろう、親しい交わりの友もあろう、身を任せた主君もあろう、それであッてこのありさま,やいばくしにつんざかれ、矢玉の雨に砕かれて異域の鬼となッてしまッた口惜くちおしさはどれほどだろうか。死んでも誰にも祭られず……故郷では影膳かげぜんをすえて待ッている人もあろうに……「ふるさと今宵こよひばかりの命とも知らでや人のわれをまつらむ」……露の底の松虫もろともむなしくうらみにむせんでいる。それならそれが生きていた内は栄華をしていたか。なかなかそうばかりでもない世が戦国だものを。武士は例外だが。ただの百姓や商人あきゅうどなど鋤鍬すきくわや帳面のほかはあまり手に取ッたこともないものが「サア軍だ」とり集められては親兄弟には涙の水杯で暇乞いとまごい。「しかたがない。これ、せがれ。死人の首でも取ッてごまかして功名しろ」と腰に弓を張る親父おやじが水鼻をらして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」とかぶとの緒をめてくれる母親が涙をぜて忠告する。ても耳の底に残るようになつかしい声、目の奥にとどまるほどにしたしい顔をば「さようならば」の一言で聞き捨て、見捨て、さて陣鉦じんがねや太鼓にき立てられて修羅しゅらちまたへ出かければ、山奥の青苔あおごけしとねとなッたり、河岸かしの小砂利がふすまとなッたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右左に大将の下知が……そこで命がなくなッて、跡は野原でこのありさまだ。死ぬ時にはさぞ※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいたろう,さぞ死ぬまいと歯をくいしばッたろう。血は流れて草の色を変えている。魂もまた身体から居どころを変えている。切り裂かれた疵口きずぐちからは怨めしそうに臓腑ぞうふい出して、その上には敵の余類か、こがねづくり、薄金うすがねよろいをつけたはえ将軍が陣取ッている。はや乾いた眼の玉の池の中にはうじ大将が勢揃せいぞろえ。勢いよく吹くのは野分のわきの横風……変則のにおぶくろ……血腥ちなまぐさい。
 はや※(「日+甫」、第3水準1-85-29)ななつさがりだろう、日は函根はこねの山のに近寄ッて儀式とおり茜色あかねいろの光線を吐き始めると末野はすこしずつ薄樺うすかばくまを加えて、遠山も、毒でも飲んだかだんだんと紫になり、原の果てには夕暮の蒸発気がしきりに逃水をこしらえている。ころは秋。そこここわがままに生えていた木もすでに緑の上衣をがれて、寒いか、風にふるえていると、旅帰りの椋鳥むくどりは慰め顔にも澄ましきッてさえずッている。ところへ大層急ぎ足で西の方から歩行あるいて来るのはわずか二人の武者で、いずれも旅行のていだ。
 一人は五十前後だろう、鬼髯おにひげが徒党を組んで左右へ立ち別かれ、眼の玉が金壺かなつぼの内ぐるわに楯籠たてこもり、まゆが八文字に陣を取り、くちびる大土堤おおどてを厚く築いた体、それに身長みのたけやぐらの真似して、筋骨すじぼね暴馬あれうまから利足りそくを取ッているあんばい、どうしても時世に恰好かッこうの人物、自然淘汰とうたの網の目をば第一に脱けて生き残る逸物いちもつと見えた。その打扮いでたちはどんなだか。身に着いたのは浅紺に濃茶の入ッた具足でおどしもよほど古びて見えるが、ところどころに残ッている血のあとが持主の軍馴いくさなれたのを証拠立てている。兜はなくて乱髪がわらくくられ、大刀疵たちきずがいくらもある臘色ろいろ業物わざものが腰へり返ッている。手甲てこうは見馴れぬ手甲だが、実は濃菊じょうぎくが剥がれているのだ。この体で考えればどうしてもこの男は軍事に馴れた人に違いない。
 今一人は十八九の若武者と見えたけれど、鋼鉄はがねの厚兜が大概顔をかくしているので十分にはわからない。しかし色の浅黒いのと口に力身りきみのあるところでざッとすいして見ればこれもきッとした面体の者と思われる。身長みのたけはひどく大きくもないのに、具足が非常な太胴ゆえ、何となく身の横幅が釣合つりあいわるく太く見える。具足のおどし濃藍こいあいで、魚目うなめはいかにも堅そうだし、そして胴の上縁うわべりはな山路やまみちであッさり囲まれ、その中には根笹ねざさのくずしが打たれてある。腰の物は大小ともになかなか見事な製作つくりで、つばには、誰の作か、活き活きとしたはちが二ひきほど毛彫りになッている。古いながら具足も大刀もこのとおり上等なところで見るとこの人も雑兵ぞうひょうではないだろう。
 このごろのならいとてこの二人が歩行あるく内にもあたりへ心を配る様子はなかなか泰平の世に生まれた人に想像されないほどであッて、茅萱ちがやの音や狐の声に耳をそばたてるのは愚かなこと,すこしでも人が踏んだような痕の見える草の間などをば軽々かろがろしく歩行あるかない。生きた兎が飛び出せば伏勢でもあるかと刀に手が掛かり、死んだ兎がみちにあれば敵の謀計はかりごとでもあるかと腕がとりしばられる。そのころはまだ純粋の武蔵野で、奥州街道はわずかに隅田川すみだがわの辺を沿うてあッたので、なかなか通常の者でただいまの九段あたりの内地へ足を踏み込んだ人はなかッたが、そのすこし前の戦争の時にはこの高処たかみへも陣が張られたと見えて、今この二人がその辺へ来かかッて見回すとちぎれた幕や兵粮ひょうろうの包みが死骸とともに遠近あちこちに飛び散ッている。この体に旅人も首を傾けて見ていたが、やがて年を取ッた方がしずかに幕を取り上げて紋どころをよく見るとこれは実に間違いなく足利あしかがの物なので思わずも雀躍こおどりした,
「見なされ。これは足利の定紋じゃ。はて心地よいわ」と言われて若いのもうなずいて、
「そうじゃ。むごいありさまでおじゃるわ。あの先年の大合戦の跡でおじゃろうが、跡を取り収める人もなくて……」
女々めめしいこと。何でおじゃる。思い出しても二方(新田義宗にッたよしむね義興よしおき)の御手並み、さぞな高氏たかうじづらも身戦みぶるいをしたろうぞ。あの石浜で追い詰められた時いとう見苦しくあッてじゃ」
「ほほ御主おのし、その時のいくさに出なされたか。耳よりな……語りなされよ」
「かたり申そうぞ。ただし物語に紛れて遅れては面目なかろう。翌日あすごろはいずれもさだめて鎌倉へいでましなさろうに……おくれては……」
「それもそうじゃ,そうでおじゃる。さらば物語は後になされよ。とにかくこの敗軍の体を見ればいとど心も引き立つわ」
「引き立つわ、引き立つわ、糸のように引き立つわ。和主おのしもこれから見参して毎度手柄をあらわしなされよ」
「これからはまた新田の力で宮方も勢いを増すでおじゃろ。くすのき北畠きたばたけが絶えたは惜しいが、また二方が世にすぐれておじゃるから……」
うれしいぞや。早う高氏づらの首をりかけて世を元弘の昔にかえしたや」
「それは言わんでものこと。いかばかりぞその時の嬉しさは」
 これでわかッたこの二人は新田方だと。そして先年尊氏たかうじが石浜へ追い詰められたとも言い、また今日は早く鎌倉へこれら二人が向ッて行くと言うので見ると、二人とも間違いなく新田義興のの者だろう。応答の内にはいずれも武者気質かたぎ凜々りりしいところが見えていたが、比べ合わせて見るとどうしても若いのは年を取ッたのよりまだいくさにも馴れないので血腥気ちなまぐさげが薄いようだ。
 それから二人は今のうしふちあたりから半蔵のほりあたりを南に向ッて歩いて行ったが、そのころはまだ、この辺は一面の高台で、はるかに野原を見通せるところから二人の話も大抵四方よもの景色から起ッている。年を取ッた武者は北東に見えるかたそぎを指さして若いのに向い、
「誠に広いではおじゃらぬか。いずくを見ても原ばかりじゃ。和主おのしなどはまだ知りなさるまいが、それあすこのかたそぎ、のうあれが名に聞ゆる明神じゃ。その、また、北東には浜成たちの観世音があるが、ここからは草で見えぬわ」
浮評うわさに聞える御社みやしろはあのことでおじゃるか。見ればいとう小さなものじゃ」
「あのそばじゃ、おれが、誰やらんたくましき、敵の大将の手にき入ッて騎馬を三人打ち取ッたのは。その大将め、はるか対方むこう栗毛くりげの逸物にッてひかえてあったが、おれの働きを心にくく思いつろう、『あの武士さむらい、打ち取れ』と金切声立てておッた」
「はははは、さぞ御感ぎょかんに入りなされたろう、軍が終ッて。身に疵をば負いなされたか」
「四カ所負いたがいずれも薄手であッた。とてもあのような乱軍の中では無疵であろう者はおじゃらぬ。もちろん原で戦うのじゃから、敵も味方もその時は大抵騎馬であッた。が味方の手綱には大殿(義貞よしさだ)が仰せられたまま金鏈かなぐさりが縫い込まれてあッたので手綱を敵に切り離される掛念けねんはなかッた。その時の二の大将(義興)の打扮いでたち目覚めざましい物でおじゃッたぞ」
「一の大将(義宗)もおじゃッたろう」
「おじゃッた。このかたもおなじような打扮ではおじゃッたが、具足のおどしがちと濃かッたゆえ、二の大将ほど目立ちなさらなかッた」
 折から草木を烈しくッて野分の風が吹いて来た。野原の急な風……それはなかなか想像のほかで、見る間に草の茎や木の小枝が砂と一途いっしょにさながら鳥の飛ぶように幾万となく飛び立ッた。そこで話もたちまち途切とぎれた。途切れたか、途切れなかッたか、風の音にまれて、わからないが、まずは確かに途切れたらしい。この間の応答のありさまについてまたつらつら考えれば年を取ッた方はなかなか経験に誇る体があッて、若いのはすこし謹み深いように見えた。そうでしょう、読者諸君。
 その内に日は名残なごりなくほとんど暮れかかッて来て雲の色も薄暗く、野末もだんだんとかすんでしまうころ、変な雲が富士のすそへ腰を掛けて来た。原の広さ、そらの大きさ、風の強さ、草の高さ、いずれも恐ろしいほどにいかめしくて、人家はどこかすこしも見えず、時々ははるか対方むこうの方をせて行く馬の影がちらつくばかり、夕暮のさみしさはだんだんと脳を噛んで来る。「宿るところもおじゃらぬのう」「今宵は野宿するばかりじゃ」「急ごうぞ」「急ぎゃれ」これだけの応答が幾たびも試験を受けた。
「馬が走るわ。捕えてろうわ。和主おのしは好みなさらぬか」
「それ面白や。騎ろうぞや。すわやこなたへ近づくよ」
 二人は馬に騎ろうと思ッて、近づく群をよくればこれは野馬のむれではなくて、大変だ、敵、足利の騎馬武者だ。
「はッし、ぬかッた、気がつかなかッた。馬じゃ……敵じゃ……敵の馬じゃ」「敵は多勢じゃ、世良田せらだどの」「味方は無勢じゃ、秩父ちちぶどの」「さても……」「思わぬ……」敵はまぢかく近寄ッた。
「動くな、落武者。知らぬか、新田義興は昨日矢口で殺されてじゃ」
「なに、二の君が」
「今さら知ッたか、覚悟せよ」
 跡は降ッた、つるぎの雨が。草はもらッた、赤絵具を。さみしそうに生まれ出る新月の影。くやしそうに吹く野の夕風。

     中

「山里は冬ぞさみしさまさりける、人目も草もかれぬと思へば」秋の山里とてその通り、宵ながらすごいほどに淋しい。衣服きものを剥がれたので痩肱やせひじこぶを立てているかきこずえには冷笑あざわらい顔の月が掛かり、青白くえわたッた地面には小枝さえだの影が破隙われめを作る。はるかにおおかみが凄味の遠吠とおぼえを打ち込むと谷間の山彦がすかさずそれを送り返し,望むかぎりは狭霧さぎり朦朧もうろうと立ち込めてほんの特許に木下闇こしたやみから照射ともしの影を惜しそうにらし、そして山気は山颪やまおろしの合方となッて意地わるく人のはだを噛んでいる。さみしさ凄さはこればかりでもなくて、曲りくねッたさも悪徒らしい古木の洞穴うろにはふくろがあのこわらしい両眼で月をにらみながら宿鳥ねとりを引き裂いて生血なまちをぽたぽた……
 崖下がけしたにある一構えの第宅やしきは郷士の住処すみかと見え、よほど古びてはいるが、骨太く粧飾かざり少く、夕顔の干物ひもの衣物きものとした小柴垣こしばがきがその周囲まわりを取り巻いている。西向きの一室ひとま、その前は植込みで、いろいろな木がきまりなく、勝手に茂ッているが、その一室はここの家族が常にいるだろう、今もそこには二人の婦人が……
 けれどまず第一に人の眼にまるのは夜目にも鮮明あざやかに若やいで見える一人で、言わずと知れた妙齢としごろ処女おとめ燈火ともしびは下等の蜜蝋みつろうで作られた一里一寸の松明たいまつの小さいのだからあたりどころか、燈火を中心として半径が二尺ほどへだたッたところには一切闇が行きわたッているが、しかし容貌かおだちは水際だッているだけに十分若い人と見える。年ごろはたしかに知れないが眼鼻や口の権衡つりあいがまだよくしまッていないところで考えればひどくけてもいないだろう。そのくせにすわぜいはなかなかあッて、そして(少女おとめ手弱たよわに似ず)腕首が大層太く、その上に人を見る眼光めざしが……眼は脹目縁はれまぶちを持ッていながら……、難を言えば、凄い……でもない……やさしくない。ただ肉が肥えてあごにやわらかい段を立たせ、眉が美事みごとで自然に顔を引き立たせたのでやや見どころがあるように見える。そのすこし前までは白菊を摺箔すりはくにした上衣を着ていたが、今はそれを脱いでただがまの薄綿が透いて見えるくず衣物きものばかりでいる。
 これとむかい合ッているのは四十前後の老女で、これも着物は葛だが柿染めの古ぼけたので、どうしたのか砥粉とのこまみれている。顔形、それは老若の違いこそはあるが、ほとほと前の婦人と瓜二うりふたつで……ちと軽卒な判断だが、だからこの二人は多分母子おやこだろう。
 二人とも何やら浮かぬ顔色で今までの談話はなしが途切れたような体であッたが、しばらくして老女はきッと思いついた体で傍の匕首あいくちを手に取り上げ、
忍藻おしも和女おことの物思いも道理ことわりじゃが……この母とていとう心にはかかるが……さりとて、こやそのように、忍藻太息といきくようでは、太息のみ吐いておるようでは武士もののふ……まことよ、世良田三郎の刀禰とねの内君には……聞けよ、この母の言葉を,見よ、この母のきぬを。和女はよも忘れはせまい、和女にはまことの親、おれには実の夫のあの民部の刀禰がこたび二の君の軍に加わッて、あッぱれ世を元弘の昔にかえす忠義の中に入ろうとて、世良田の刀禰もろとも門出した時、おれは、こや忍藻、おれは何して何言うたぞ。おれが手ずから本磨ほんとぎに磨ぎ上げた南部鉄の矢の根を五十筋、おのおのへ二十五筋、のう門出の祝いと差し出して、忍藻聞けよ――『二方の中のどなたでも前櫓で敵を引き受けなさるならこの矢の根に鼻油引いて、兜の金具の目ぼしいを附けおるを打ち止めなされよ。また殿しんがりで敵に向いなさるなら、鹿毛かげか、葦毛あしげか、月毛か、栗毛か、馬の太くたくましきにった大将を打ち取りなされよ。婦人おなご甲斐かいなさ、それよ忠義の志ばかりでおじゃるわ』とこのまなこから張り切りょうずる涙を押えて……おおおれは今泣いてはいぬぞ、忍藻……おれも武士もののふの妻あだに夫を励まし、むこいたぞ。そを和女、忍藻も見ておじゃったろうぞのう。武士の妻のこころばえはかほどのうてはならぬわ。さればこそ今日までも休まず、夫と聟とは家にはおらぬが、おれが矢の根を日々磨ぎ澄まして、おなじ忠義の刀禰たちに与うるのじゃ。こうきぬは砥粉に塗れてもなかなかにうれしいぞイ、さすれば」
「まことよ。仰せは道理ことわりにおじゃる。わらわとてなど……」
「心からさならこの母もうれしいわ。見よ、のう、この匕首を。門出の時、世良田の刀禰が和女にこを残して再会の記念かたみとなされたろうよ。それを見たらよしない、女々しい心は、刀禰に対して出されまい。和女とて一わたりは武芸をも習うたのに、近くは伊賀局いがのつぼねなんどを亀鑑かがみとなされよ。人のうわさにはいろいろの詐偽いつわりもまじわるものじゃ。軽々しくければ後に悔ゆることもあろうぞ」
 言いきって母は返辞を待皃まちがおに忍藻の顔を見つめるので忍藻も仕方なさそうに、挨拶あいさつしたが、それもわずかに一言だ。
「さもそうず」
 母もおぼつかない挨拶だと思うような顔つきをしていたがさすがになおいてとも言いかね、やがてややかたぶいた月を見て、
「夜もけた。さらばおれはこれから看経かんきんしょうぞ。和女おことは思いのまにまにねよ」
 忍藻がうなずいて礼をしたので母もそれから座を立って縁側伝いに奥の一間へようよう行ッた。跡に忍藻はただ一人ッて行く母の後影をながめていたが、しばらくして、こらえこらえた溜息ためいきせきが一度に切れた。
 話の間だがちょッとここで忍藻の性質や身の上がやや詳細つまびらかに述べられなくてはならない。実に忍藻はこの老女の実子で、父親は秩父民部とて前回武蔵野を旅行していた旅人の中の年を取った方だ。そして旅人の若い方はすなわち世良田三郎で、母親の話でも大抵わかるが、忍藻にはすなわち夫だ。
 この三郎の父親は新田義貞の馬の口取りで藤島の合戦の時主君とともに戦死をしてしまい、跡にはその時二歳ふたつになる孤子みなしごの三郎が残っていたので民部もそれを見て不愍ふびんに思い、引き取って育てる内に二年の後忍藻が生まれた。ところが三郎は成長するに従って武術にもけて来て、なかなか見どころのある若者となったので養父母も大きによろこび、そこでそれをついに娘の聟にした。
 その時三郎は十九で忍藻は十七であった。今から見ればあまりな早婚だけれど、昔はそのようなことにはすこしも構わなかった。
 それで若夫婦は仲よく暮していたところが、ふと聞けば新田義興が足利から呼ばれて鎌倉へ入るとの噂があるので血気盛りの三郎は家へ引き籠もっていくさの話を素聞きにしていられず、しゅうとの民部も南朝へは心を傾けていることゆえ、難なく相談が整ってそれから二人は一途いッしょに義興の手に加わろうとて出立し、ついに武蔵野で不思議な危難にったのだ。その危難にあったことが精密ではないが、薄々は忍藻にも聞えたので、さアそれが忍藻の心配の種になり、母親をつかまえてふさぎ出すのでそこで前のとおり母親もそれをさとして励ましていた。
「門前の小僧は習わぬ経をむ」鍛冶屋の嫁は次第に鉄の産地を知る。三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見ているのみか、乱世の常とて大抵の者が武芸を収める常習ならわしになっているので忍藻も自然太刀や薙刀なぎなたのことに手を出して来ると、従って挙動も幾分か雄々しくなった。手首の太いのや眼光めざしのするどいのは全くそのためだろう。けれど今あからさまにその性質を言おうなら、なるほど忍藻はかなり武芸に達して、一度などは死にかかっているくまを生捕りにしたとて毎度自慢が出たから、心も十分猛々たけだけしいかと言うに全くそうでもない。その雄々しく見えるところはただ時々の身の挙動こなしと言葉のありさまにあったばかりで、その婦人に固有の性質は(ことに心の教育のない婦人に固有の性質は)跡を絶ってはいない,たしかになくなってはいない。
 母が立ち去った跡で忍藻は例の匕首あいくちを手に取り上げて抜き離し、しばらくは氷の光をみつめてきっとした風情であったが、またその下からすぐに溜息が出た,
「匕首、この匕首……さきにも母上が仰せられたごとくあの刀禰の記念かたみじゃが……さてもこれを見ればいとどなお……そも刀禰たちは鎌倉まで行き着かれたか、無難に。いとう武芸にけておじゃるから思いやるも女々しけれど……心にかかるは先ほどの人々の浮評うわさよ。狭い胸には持ちかねて母上に言い出づれば、あれほどに心強うおじゃるよ。看経も時によるわ、このきがたい最中もなかに、何事ぞ、心のどけく。そもこの身の夫のみのお身の上ではなくて現在母上の夫さえもおなじさまでおじゃるのに……さてもさても。武士もののふの妻はかほどのうてはと仰せられてもこの身にはいかでかいかでか。新田の君は足利に計られて矢口とやらんで殺されてその手の者は一人も残らず……ああ胸ぐるしい浮評じゃわ。三郎の刀禰は、そうよ、父上もそこを逃れなされたか。門出の時この匕首をこの身に下されて『のう、忍藻、おこととおれとは一方ならぬえにしで……やがておれが功名して帰ろう日はいつぞとはよう知れぬが、和女おことも並み並みの婦人おんなに立ちえて心ざまも女々しゅうおじゃらぬから由ない物思いをばなさるまい。その時までの記章かたみにはおれが秘蔵のこの匕首(これにはおれの精神たましいもこもるわ)匕首を残せば和女もこれで煩悩ぼんのうきずなをばのう……なみだは無益むやくぞ』と日ごろからこの身はわれながら雄々しくしているに、今日ばかりはいかにしてこう胸が立ち騒ぐか。別離わかれの時のお言葉は耳にとまって……抜き離せばこの凄いわざもの……発矢はっし、なみだの顔が映るわ。この涙、ああらこの身の心はまださほど弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜ゆうべ見た怖い夢は……ああ思い入ればいとどなお胸は……胸はつわ。矢口とや、矢口はいずくぞ。翼さえあらばかほどには……」
 思い入ってはこらえかねてそぞろに涙をもよおした。無論荒誕のことを信ずる世の人だから夢を気にかけるのも無理ではない。思えば思うほど考えは遠くへ走って、それでなくてもなかなか強い想像力がひとしお跋扈ばっこを極めて判断力をもいた。早くここでその熱度さえ低くされるなら別に何のこともないが、なかなか通常の人にはそのように自由なことはたやすく出来ない。不思議さ、忍藻の眼の中には三郎のおもかげが第一にあらわれて次に父親の姿があらわれて来る。青ざめた姿があらわれて来る。血、血に染みた姿があらわれて来る。垣根に吹き込む山おろし、それも三郎たちの声に聞える。ボーン悩と鳴る遠寺の鐘、それも無常のきざしかと思われる。
 人に見られて、物思いに沈んでいることを悟られまいと思って、それから忍藻は手近にある古今集を取っていい加減なところを開き、それへ向って字をば読まずに、いよいよ胸の中に物思いの虫をやしなった。
「『題知らず……躬恒みつね……貫之つらゆき……つかわしける……女のもとへ……天津あまつかりがね……』おおわれ知らず読んだか。それにつけても未練らしいかは知らぬが、門出なされた時から今日までははや七日じゃに、七日目にこう胸がさわぐとは……打ち出せば愚痴めいたと言われ……おおかりよ。雁を見てなげいたという話はまことに……雁、雁は翼あって……のう」
 だが身贔負みびいきで、なお幾分か、内心の内心には(このような独語の中でも)「まさか殺されはせまい」の推察が虫の息で活きている。それだのに涙腺るいせんは無理に門を開けさせられて熱い水のせきをかよわせた。
 このままでややしばらくの間忍藻は全く無言に支配されていたが、その内に破裂した、次の一声が。
「武芸はそのため」
 その途端に燈火ともしびはふっと消えて跡へは闇が行きわたり、燃えさした跡の火皿ひざらがしばらくは一人で晃々きらきら

     下

 夜は根城を明け渡した。竹藪たけやぶに伏勢を張ッている村雀むらすずめはあらたに軍議を開き初め、ねや隙間すきまからり込んで来る暁の光は次第にあたりの闇を追い退け、遠山の角にはあかねの幕がわたり、遠近おちこち渓間たにまからは朝雲の狼煙のろしが立ち昇る。「夜ははやあけたよ。忍藻はとくに起きつろうに、まだ声をもださぬは」いぶかりながら床をはなれて忍藻の母は身繕いし、手早く口をそそいて顔をあらい、黄楊つげ小櫛おぐしでしばらく髪をくしけずり、それから部屋の隅にかかッている竹筒の中から生蝋きろうを取り出して火にあぶり、しきりにそれを髪の毛に塗りながら。
「忍藻いざ早う来よ。蝋けたぞや。和女おことも塗らずか」
 けれど一言の返辞もない。
「忍藻よ、おしもよ、いぎたなや。秋の夜長に……こや忍藻」にっこりわらッて口のうち、「昨夜ゆうべいといくさのことに胸なやませていたていじゃに、さてもここぞまだ児女わらわじゃ。今はかほどまでに熟睡うまいして、さばれ、いざ呼び起そう」
 忍藻の部屋の襖を明けて母ははッとおどろいた。承塵なげしにあッた薙刀なぎなたも、床にあッた※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子くさりかたびらも、無論三郎がくれた匕首もあたりには影もない。「すわやおれがぬかッたよ。常より物に凝るならい……いかにも怪しい体であッたが、さてもおれは心つきながら心せなんだ愚かさよ。慰め言を聞かせたがなおもなおおもいわびてけ出でたよ。ああら由々しや、由々しいことじゃ」
 心の水はえ立ッた。それ朝餉あさがれいかまどを跡に見て跡を追いに出る庖廚くりや炊婢みずしめ。サア鋤を手に取ッたまま尋ねに飛び出す畑のしもべ。家の中は大騒動。見る間に不動明王の前に燈明あかしき、たちまち祈祷きとうの声が起る。おおしく見えたがさすがは婦人おんな,母は今さら途方にくれた。「なまじいに心せぬ体でなぐさめたのがおれの脱落ぬかりよ。さてもあのまま鎌倉までもしは追うていたか。いかに武芸をひとわたりは心得たとて……この血腥ちなまぐさい世の中に……ただの女の一人身で……ただの少女おとめの一人身で……夜をもいとわず一人身で……」
 思えば憎いようで、可哀そうなようで、また悲しいようで、くやしいようで、今日はまた母が昨夜ゆうべの忍藻になり、鳥の声も忍藻の声で誰の顔も忍藻の顔だ。忍藻の部屋へ入ッて見れば忍藻の身の香がするようだし、忍藻の手匣てばこへ眼をとめれば忍藻が側にいるようだ。「胸は騒ぐに何事ぞ。早く大聖威怒王だいしょういぬおうの御手にたよりて祈ろうに……発矢はッし、祈ろうと心をばすかしてもなおすかし甲斐もなく、心はいとど荒れに荒れて忍藻のことを思い出すよ」心は人の物でない。母の心は母のもの。それで制することが出来ない。目をねむッて気を落ちつけ、一心に陀羅尼経だらにきょうを読もうとしても(口の上にばかり声は出るが)、脳の中には感じがない。「にあらず。無にあらず、動にあらず、じょうにあらず、しゃくにあらず、びゃくにあらず……」その句も忍藻の身に似ている。
 人の顔さえ傍に見えれば母はそれと相談したくなる。それと相談したとて先方が神でもなければ陰陽師おんようしでもなく、つまり何もわからぬとは知ッていながらなおそれでもその人とひざを合わせてわが子の身の上を判断したくなる。それでまた例の身贔負,内心の内心の内心に「多分は無難であろうぞ」と思いながら変なもので、またそれを口には出さない。ただそこで先方の答えが自身の考えに似ていれば「実にそう」とは信じぬながら不完全にもそれでわずかに妄想もうぞうをすかしている。
 世にいじらしい物はいくらもあるが、愁歎しゅうたんの玉子ほどいじらしい物はない。すでに愁歎と事がきまればいくらか愁歎に区域が出来るが、まだ正真しょうじんの愁歎が立ち起らぬその前に、今にそれが起るだろうと想像するほどいやに胸ぐるしいものはない。このような時には涙などもあながち出るとも決ッていず、時には自身の想像でわざと涙をもよおしながら(決して心でそれを好むのではないが)なお涙が出ることを愁歎の種としていろいろに心をくるしめることがある。
 だから母は不動明王と睨めくらで、経文が一句、妄想が一段,経文と妄想とがミドローシァンを争ッている。ところへ外からおとずれたのは居残っていた(この母の言葉を借りて言えば)懶惰者なまけもの、不忠者の下男だ。
「誰やらん見知らぬ武士もののふが、ただ一人従者ずさをもつれず、この家に申すことあるとて来ておじゃる。いかに呼び入れそうろうか」
「武士とや。打揃いでたちは」
「道服に一腰ざし。むくつけい暴男あらおとこで……戦争いくさを経つろうを負うて……」
「聞くも忌まわしい。この最中もなかに何とて人に逢ういとまが……」
 一たびは言い放して見たが、思い直せば夫や聟の身の上も気にかかるのでふたたび言葉をあらためて、
「さばれ、否、呼び入れよ。すこしく問おうこともあれば」
 かしこまって下男しもべは起って行くと、入り代って入って来たのは三十前後の武士だ。
御目おんめにかかるは今がはじめて。これは大内平太へいだとて元は北畠の手の者じゃ。秩父刀禰とはかねてより陣中でしたしゅうした甲斐に、申し残されたことがあって……」
「申し残された」の一言が母の胸にはくぎであった。
「おおいかに新田の君はでとう鎌倉に入りなされたか」
「まだ、さては伝え聞きなさらぬか。堯寛たかひろにあざむかれなされて、あえなくも底の藻屑もくずと……矢口で」
「それ、さらばまことでおじゃるか。それ詐偽いつわりではおじゃらぬか」
「何を……など詐偽いつわりでおじゃろうぞ」
 よもやと思い固めたことが全く違ッてしまったことゆえ、今さら母も仰天したが、さすがにもはや新田のことよりは夫や聟の身の上が心配の種になッて来た。
「さてはその時に民部たちは」
「そのこと、まことそのことにおじゃるわ。おれがこれから鎌倉へ行こうぞと馳せ行いたみち、武蔵野の中ほどで見れば秩父の刀禰たち二方は……」
「さて秩父たち二人は」
「はしなくも……」
「もどかわしや。いざ、いざ、いざ」
「はしなくも敵に探られて、そうじゃ、そのままたおされて……」
「こわそぞろ、……斫り斃されて……発矢そのまま斫り斃されて……」
「その驚きは道理ことわりでおじゃる。おれも最初はじめはそうとも知らず『何やらん草中にうめいておる者のあるは熊に噛まれた鹿じゃろうか』と行いて見たら、おどろいたわ、それがかの二方でおじゃッたわ」
 母ははやその跡を聞いていられなくなッた。今まではしばらくこらえていたが、もはや包むに包みきれずたちまちそこへ泣きして、平太がいう物語を聞き入れる体もない。いかにも昨夜ゆうべ忍藻に教訓していたところなどはあっぱれ豪気なように見えたが、これとてその身は木でもなければ石でもない。今朝忍藻がいなくなッた心配の矢先へこの凶音きょういんが伝わッたのにはさすが心を乱されてしまッた。今はその口から愚痴ばかりが出立する。
「ちぇイぬしを……主たちを……ああ忍藻が心苦しめたも、虫…虫が知らせたか。大聖威怒王だいしょういぬおうも、ちぇイ日ごろの信心を……おのれ……こはこは平太の刀禰、などその時に馳せついて助…助太刀してはたもらんだぞ」
 怨みがましく言いながら、なおすぐにその言葉の下から、いじらしい、手でさしまねいで涙をすすり、
「聞きなされ。ああ何の不運ぞや。夫や聟は死に果てたに……こや平太の刀禰、聞きなされ、むす…むすめの忍藻もまた……忍藻もまた平太の刀禰……忍藻はまた出たばかり……昨夜……察しなされよ、平太の刀禰」
「昨夜、そもいかになされた」
 母は十分に口がけなくなッたので仕方なく手真似で仔細しさいを告げ知らせた。告げ知らせると平太の顔はたちまちに色が変わッた。
「さらばあの※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子くさりかたびらの……」
 言いかけたがはッと思ッて言葉をめた。けれどこなたは聞きとがめた。
和主おのしはそもいかにして忍藻の※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子を……」
※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子とは何でおじゃる」
「何でおじゃるとは平太の刀禰、むすめ、忍藻の打扮いでたちじゃ。今もその口から仰せられた」
 平太も今は包みかね、
「ああすべない。いたわしいけれど、さらば仔細を申そうぞ。なげきに枝を添うるがいたわしさに包もうとはつとめたれど……何をかくそう、姫御前ひめごぜ※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子を着けなされたまま、手に薙刀を持ちなされたまま……母御前かならず強く歎きなされな……獣に追われて殺されつろう、はぎのあたりを噛み切られて北の山間やまあいに斃れておじゃッた」
 母は眼を見張ッたままであッた。平太はふたたび言葉を継いだ。
「おれがここへ来る途じゃ、はからず今のを見留めたのは。思えば不思議な縁でおじゃるが、その時には姫御前とはつゆ知らず……いたわしいことにはなッたぞや、わずかの間に三人みたりまで」
 母はなお眼をみはッたままだ。唇は物言いたげに動いていたが、それから言葉は一ツも出ない。
 折からかどにはどやどやと人の音。
忍藻御おしもごは熊に食われてよ」

     ――――――――――――――

 ついでながらこのころ神田明神は芝崎村といッた村にあッてその村は今の駿河台するがだいの東の降口の辺であッた。それゆえ二人の武士が九段から眺めてもすぐにその社の頭が見えた。もしこの時その位置がただいまのようであッたなら決して見えるわけはない。

底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
   1970(昭和45)年7月5日初版発行
初出:「読売新聞」
   1887(明治20)年11〜12月
※白抜きの読点をコンマ「,」で代用しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。