三か年過ぎ去った。クリストフは十一歳になりかけている。彼はなおつづけて音楽の教育を受けている。フロリアン・ホルツェルについて和声を学んでいる。これはサン・マルタンのオルガニストで、祖父の友人であったが、いたって学者で、クリストフが最も好んでいる和音、やさしく耳と心とをなでてくれて、それを聞けばかすかな戦慄が背筋に走るのを禁じえない種々の和声は、いけないもので禁じられてるものだと教えてくれる。クリストフがその理由を尋ねると、規則で禁じられてるからという以外には、彼はなんとも答えない。クリストフは生来わがままな子だから、そういうものがなおさら好きになる。人に崇拝されてる大音楽家の作品中にその実例を見出すのを喜びとして、それを祖父か教師かのところへもってゆく。すると祖父は、大音楽家の作品中ではかえってりっぱになるのであって、ベートーヴェンやバッハなら何をしても構わないと答える。教師の方はそれほど妥協的でないから、機嫌を悪くして、それは彼らの作品のうちのいいものではないと苦々しく言う。
クリストフは音楽会や劇場にはいることができる。どの楽器でも鳴らすことを覚えている。すでにヴァイオリンにかけてはりっぱな腕前をもっている。父は管弦楽隊中の一席を彼に与えてもらおうと考えついた。クリストフはりっぱにその役目を勤めたので、数か月の見習の後、宮廷音楽団の第二ヴァイオリニストに公然と任命された。かくて彼は自活し始めてゆく。それも早過ぎるわけではない。なぜなら、家の事情はますます悪くなっているから。メルキオルの放縦はいっそうはなはだしくなっていたし、祖父は年をとっていた。
クリストフは悲しい情況をよく承知している。彼はもう大人じみた真面目な心配そうな様子をしている。彼は職務にほとんど興味を見出していないけれども、また晩には奏楽席で眠くなることもあるけれど、勇気を出してやってのけている。芝居からはもはや、昔の小さい時のような感興を与えられない。まだ小さかった時――四年以前――彼の最上の望みは、今のその席を占めることであった。ところが今では、ひかせられる音楽の大部分は嫌いである。まだそれらの音楽にたいする批評をまとめあげるほどではないが、しかし心の底では、馬鹿らしいものだと思っている。そして偶然りっぱなものが演奏される時には、人々の愚直な演奏に不満を覚ゆる。彼が最も好きな作品も、ついには管弦楽団の仲間の人たちに似寄ってくる。彼らは、幕が降りて、吹き立てたり引っかき回したりすることを終えると、一時間体操でもしたかのように、微笑しながら汗を拭いて、つまらないことを平然と語り合うのである。彼はまた、昔の恋人を、素足の金髪の歌女を、すぐ眼の前に見かける。幕間に食堂でしばしば出会う。彼女は以前彼から想われたことを知っていて、喜んで抱擁してくれる。けれど彼は少しも嬉しくない。その臙脂や、香りや、太い腕や、貪食やで、厭になっている。今ではたいへん嫌いになっている。
大公爵はその常任ピアニストを忘れてはいなかった。といって、この肩書にたいして与えられる僅少な給料が、正確に支払われたというのではない――毎度それを請求しなければならなかった――しかし、時々、宮邸に著名な賓客がある時や、また単に、大公爵夫妻が演奏を聞きたいと思いつく時に、クリストフは宮邸に伺候するようにとの命令を受けた。たいてい晩のことで、クリストフが一人きりでいたいと思う時刻だった。彼は万事を投げ出して大急ぎで行かなければならなかった。時とすると、晩餐がまだ済んでいないので、控室に待たされることもあった。従僕らは彼を見慣れていて、親しげに話しかけた。それから彼は、鏡と燈火がいっぱいの客間に案内された。そこで彼は、様子ぶった人々から、癪にさわるほどじろじろ眺められた。大公爵夫妻の手に接吻しに行くために、蝋引きしすぎたその室を横ぎらなければならなかった。彼は大きくなればなるほどますます無作法になっていた。なぜなら、自分が滑稽なような気がして、自尊心が傷つけられるのだったから。
それから彼はピアノについた。そして馬鹿者ども――そう彼は賓客らを判断していた――のために演奏しなければならなかった。そして時々、周囲の人々の無関心さに不快を感じて、楽曲の真中でぴたりとやめたいほどだった。まわりに空気が不足していた。窒息するかと思われた。演奏が済むと、うるさくお世辞を言われ、一人一人に紹介された。大公爵の動物園の中の珍しい動物のように人々から見做されてる、と彼は考え、賛辞は自分へよりもむしろ大公爵へ向けられてる、と考えていた。自分がいかにも卑しめられたような気がし、病的なほど邪推深くなって、それを態度に示し得ないだけになおさら苦しんだ。ちょっとした他人の挙動にも、侮辱を見てとった。客間の隅で笑ってる者があれば、自分についてだと考えた。そして嘲られてるのは、自分の様子か、服装か、顔付か、足か、手か、いずれともわからなかった。すべてが屈辱の種となった。話しかけられなくても、話しかけられても、子供みたいにボンボンをもらっても、みな屈辱を感じた。とくに、大公爵が大様な無頓着さで、彼の手に金貨を握らして帰してやる時に、彼はひどく屈辱を受けた。貧乏なのが、貧乏らしく取扱われるのが、悲しかった。ある晩、家へ帰る途中、もらって来た金を非常に重苦しく感じて、通りがかりにある穴倉の風窓へそれを投げ込んでしまった。けれどもすぐ後で、賤しい真似をしてそれをまた拾い取らなければならなかった。なぜなら、家では肉屋に数か月分の借りがあったから。
家の人々は彼のそういう自尊心の苦しみにほとんど気づかなかった。彼らは彼にたいする大公爵の愛顧に歎喜[#「歎喜」はママ]していた。人のいいルイザは、宮廷における貴顕社会の夜会に出ることが、息子にとってはこの上もなく晴れやかなことだと思っていた。メルキオルは、それを友人ら相手にたえず自慢話の種としていた。しかし最も嬉しがっているのは祖父だった。独立独歩と、不平家気質と、偉大にたいする軽蔑とを、彼はよく装っていたけれども、しかも富や、権勢や、名誉や、社会的優越にたいして、質朴な賛嘆の情をもっていた。彼が無類の誇りとなすところのものは、そういう優越を有してる人々に孫が近づくのを見ることだった。あたかもその光栄が自分の上にも光被してくるかのように楽しんでいた。そしていくら平然と構えていようとしても、顔が輝いていた。クリストフが宮邸へ行った晩には、いつもジャン・ミシェル老人は、なんらかの口実を設けてルイザのところに留っていた。子供らしくやきもきしながら、孫の帰りを待っていた。そしてクリストフがもどってくると、何気ないふうでまず彼に言葉をかけた。つまらない問いのこともあった。
「どうだい、今夜はうまくいったかい。」
あるいは、わざとらしい遠回しの言葉のこともあった。
「さあクリストフ坊やのお帰りだ、何か珍しいことを話してくれるだろう。」
あるいは、おだてるためのうまいお世辞のこともあった。
「家の若様、おめでとう!」
しかしクリストフは、むっとして苛立っていて、ごく冷やかに「今晩は!」と一言挨拶を返すばかりで、隅の方へ行って口をとがらすのであった。老人はしつこく言い寄って、いっそう明らさまな問いをかけたが、子供はただはいとかいいえとか答えるばかりだった。他の者もいっしょになって、種々こまかなことを尋ねだした。クリストフはますます顔をしかめた。むり強いに返事をさせなければならなかった。しまいには、ジャン・ミシェルはじれて腹をたてて、侮辱的な言葉を発した。クリストフはあまり敬意のこもらない言葉で言い返した。そしてついには露骨な反感となった。老人は扉をばたりとしめて帰って行った。かくてクリストフは、それらあわれな人々の喜びをそこなってしまうのだった。彼らには彼の不機嫌なわけが少しもわからなかった。彼らは従僕的な魂の者であるとはいえ、それは彼らの罪ではなかった。自分らと異なった気質の者もいるということを彼らは思いもつかなかった。
クリストフは自分自身のうちに沈潜していった。そして家の者らを批判しなくても、自分と彼らとを隔つる溝渠を感じていた。彼は確かにそれを誇張して見ていたであろう。たとい思想は異なっていても、彼がもしうち明けて話すことができたら、おそらく彼らから理解せられたかもしれない。しかしながら、親と子とが最もやさしい愛情をたがいにもってる時でさえも、両者の間の絶対の親和ほどむずかしいものはない。一方では、敬意があるので、心の中をうち明けようという勇気がくじかれる。他方では、年齢と経験とにおいて優ってるというしばしば誤った考えがあるので、大人の感情と時としては同じくらいに興味深くそしてたいていはより多く真摯である子供の感情を、十分の真面目さで見ないようになる。
クリストフが家で見かける来客や、耳にする会話などは、なおいっそう彼と家の者との間を遠ざけた。
メルキオルの友人らがよくやって来た。多くは管弦楽の楽員らで、酒飲みで独身者だった。悪い人々ではなかったが、野卑な人々だった。その笑声や足音で室が揺れるかと思われた。音楽を愛していたが、たまらないほどの愚昧さで音楽のことを語っていた。その感激の露骨な卑しさは、子供の感情の純潔さをひどく傷つけた。彼らがそうして彼の好きな作品をほめると、彼は自分が凌辱されたような気がした。彼は堅くなり、蒼くなり、冷酷な様子をし、音楽に興味をもたないふうを装った。できるならば音楽を嫌いたいほどだった。メルキオルは彼のことをいつもこういうふうに言っていた。
「此奴には心がない。何にも感じない。だれの気質を受けたのかな。」
時とすると彼らは、ドイツ歌謡をいっしょに歌い出した。四部合唱の――四脚の――唄で、彼らにそっくり似寄っていて、馬鹿げた崇厳さと平板な和声とをもって重々しく進んでいった。そういう時クリストフは、いちばん遠い室に逃げ込んで、壁に向かってののしっていた。
祖父もまた友人をもっていた。オルガニスト、家具商、時計商、バスひきなど、饒舌な老人たちで、いつも同じ冗談をくり返し、文芸や、政治や、あるいは土地の者の血統などについて、尽きることのない議論を戦わした――それも、話し合ってる話題の興味より、むしろしゃべることが嬉しく、話し相手を見出したことが嬉しくて。
ルイザの方は、ただ数人の近所の女たちに会うきりだった。彼女らは界隈の噂話をしていった。またまれには、ある「親切な奥様」に会うこともあった。その婦人は、彼女に同情してるという口実のもとに、次の晩餐会の手伝を約束しに来たり、子供らの宗教教育に勝手な干渉をしたりした。
すべての訪問客のうちで、テオドル伯父ほどクリストフに厭なものはなかった。それは祖父の義理の子で、ジャン・ミシェルの最初の妻であるクララという祖母が、初めの結婚に設けた子であった。彼はアフリカや極東と取引をしてる商館にはいっていた。新しいドイツ人の一つの型を具えていた。そういう型のドイツ人らは、民族性たる古い理想主義を嘲って、それを脱却するようなふうを装い、また戦勝に酔って、力と成功とにたいし、自分らがそれをもちつけないことを示す一種の崇拝心をいだいている。けれども、一国民の古来の性質を一挙に変化せしむることは困難であるから、押えつけられた理想主義は、言葉や、態度や、精神上の習慣や、家庭生活の些細な行為に引用せられるゲーテの言葉などのうちに、たえず現われ出していた。良心と功利との独得な混合であり、古いドイツ中流社会の主義の正直さと、新しい雇用店員階級の卑しさとを、たがいに一致させんための不思議な努力であった。この混合こそ、かなり嫌悪すべき偽善の匂いをもたざるをえないものであった――なぜなら、それはドイツの力と貪婪と利益とをもって、あらゆる権利と正義と真理との象徴だとするにいたったから。
クリストフの公正な心はそれに深く傷つけられた。伯父が正当であるかどうかを彼は判断することができなかったけれども、伯父を忌み嫌い、伯父のうちに敵があるのを感じていた。祖父もやはり伯父の意見を好まないで、それらの理論にたいして反感をいだいていた。しかし彼は議論になると、テオドルの快弁にすぐ言い伏せられた。老人の寛大な純朴さを嘲弄するのは、テオドルにとっては容易なことだった。ジャン・ミシェルもついには、自分の人の善さが恥ずかしくなった。そして人が考えてるほど時代おくれでないことを示すために、テオドルと同じようなしゃべり方をしようと努めた。けれども口の中でうまく調子がとれなくて、自分でも当惑していた。そのうえどういう考え方をしていても、いつもテオドルに威圧されていた。老人はたくみな処世術にたいして尊敬を感じていて、自分にまったくできないことだと知ってるだけに、いっそうそれを羨んでいた。孫のうち一人くらいはそういう地位に立たしてやりたいと夢想していた。メルキオルもまた、ロドルフをその伯父と同じ道に進ませるつもりだった。それで家じゅうの者は皆、種々な世話を期待して、その金持ちの親戚につとめて媚を呈していた。向うでは、自分がなくてならない者であることを見て取り、それに乗じて優者らしく振舞っていた。彼は万事に干渉し、万事におのれの意見をもち出して、芸術や芸術家にたいする頭ごなしの軽蔑を隠さなかった。否むしろそれを看板にして、この音楽家ばかりの親戚の一家を侮辱して喜んでいた。各人について悪い冗談ばかり言っていた。それをまた人々は卑屈にも笑い興じていた。
とくにクリストフは、伯父の嘲弄の的となっていた。そして彼は我慢強くなかった。厭な様子をして、黙って歯をくいしばった。伯父はそのむっと口をつぐんでるのを面白がった。ところがある日、食事の時テオドルから法外にいじめられると、クリストフは我を忘れて、彼の顔に唾を吐きかけた。それはたいへんなことだった。異常な侮辱だった。伯父は初めはっとして黙った。次に口を開いて悪罵を浴せかけた。クリストフは自分の仕業にぞっとして、椅子の上に堅くなり、雨と降ってくる拳固を受けても感じなかった。しかし伯父の前に引据えて跪かせようとされた時、彼は暴れだし、母をはねのけ、家の外に逃げ出した。息がつけなくなってからようやく野の中に立止った。遠くに自分を呼ぶ声が聞えていた。相手を河に投込むことができないとすれば、自分でそこに飛び込んだがましかもしれない、と彼は考えてみた。野の中で彼は夜を明した。黎明のころ、祖父の家へ行って戸をたたいた。老人はクリストフが見えなくなったことを非常に心配していたので――その夜一睡もしていなかった――彼を叱るだけの勇気もなかった。彼はクリストフを家に連れて行った。家の者もわざとなんとも言わなかった。彼がまだやはり激昂状態にあるのがわかったのである。そして彼を大目に見てやらなければならなかった。なぜなら彼は宮廷の晩の演奏に出ていてくれたから。しかしメルキオルは、皆の恥になるようなつまらない奴らにも、みごとな生活やりっぱな態度の見本を示してやろうと、いかに骨を折ってるかということを、ぐずぐず訴えて――それもとくにだれに向かって言うのでもないようなふうを装って――数週間の間、クリストフを厭がらした。そして伯父のテオドルは、往来でクリストフに出会うと顔をそむけ鼻をつまんで、深い嫌悪の情をありったけ見せつけた。
彼は家の者から同感されることが少なかったので、できるだけ家にじっとしていなかった。皆が自分に押しつけようとするたえざる拘束に苦しんでいた。その理由を議論することも許されないで、ただ尊敬しなければならないような、人間や事物があまりたくさんあった。しかもクリストフは尊敬心をもっていなかった。人々が彼を訓練してドイツの善良な市民に育てあげようとすればするほど、ますます彼は束縛を脱したがった。彼の楽しみとするところは、退屈な容態ぶった我慢できない音楽会を、劇場の奏楽席やまたは宮廷で過ごした後、子馬のように草の中に転がったり、新しいズボンのまま芝生の斜面を滑り降りたり、近所の悪戯児らと石合戦をしたりすることだった。けれどそうしばしばやるわけではなかった。それも叱られたり殴られたりするのが恐いから控えていたのではなくて、仲間がないからであった。彼は他の子供らと調子よく交わることができなかった。街頭の浮浪少年らさえ彼といっしょに遊ぶことを好まなかった。なぜなら彼は、遊びにも本気になりすぎて、あまりひどく打ち回ったからである。そして彼は同じ年ごろの子供たちから離れて、一人黙然としがちになっていた。彼は遊戯の下手なのが恥ずかしくて、皆の仲間にはいるだけの元気もなかった。そして面白くないようなふうを装いながらも、人から誘ってもらいたくてたまらなかった。しかしだれもなんとも言ってくれなかった。彼は憂鬱な気持になって、冷淡な様子で遠ざかっていた。
彼の慰安は、叔父のゴットフリートが土地にいる時、いっしょに歩き回ることだった。彼はますます叔父に接近していって、その何物にもとらわれない気質に同感していた。どこにもつなぎ止められないで勝手に放浪することのうちに、ゴットフリートが見出していた喜びを、今では彼もよく理解していた。しばしば彼らはいっしょに、夕方、野の中を、あてもなく、ただまっすぐに歩いて行った。そしてゴットフリートはいつも時間を忘れていたから、よく遅くもどって来ては叱られた。皆が眠ってる間に、夜分にそっとぬけ出すのも、また楽しみだった。ゴットフリートはそれを悪いと知っていたが、クリストフはむりに強請んだ。ゴットフリートもその楽しみを制することができなかった。夜半のころ、彼は家の前にやって来て、約束どおりの口笛を吹いた。クリストフは着物を着たまま寝ていた。寝床から滑りぬけ、靴を手に取った。息を凝らしながら、野蛮人のような狡猾さで四つ這いになって、往来に向かってる台所の窓のところまでやって行った。そこにあるテーブルの上に上った。向うからゴットフリートが、彼を肩に受け取った。そして二人は、小学校の子供のように喜びながら、出かけてゆくのだった。
時とすると彼らは、ゼレミーを捜しに行くこともあった。ゼレミーは漁夫で、ゴットフリートと仲良しだった。三人は月の光を頼りに、その小舟に乗って走った。櫂からしたたる水は、ささやかな琶音や半音階を奏した。乳色の靄が河の面に揺れていた。星がふるえていた。鶏が両岸で鳴きかわしていた。時とすると、月の光に欺かれて地から舞い上がった雲雀の顫律が、空の深みに聞えることもあった。皆黙っていた。やがてゴットフリートはある歌の節をごく低く歌った。ゼレミーは動物の生活の不思議な話をきかした。簡単な謎のような調子で言われるので、なおその話が不思議に思われた。月は森の後ろに隠れてしまった。一同は丘陵の仄暗い段々に沿って進んだ。空と水との闇が溶け合っていた。河には波の襞もなかった。あらゆる物音が消え去っていた。舟は夜の中を滑っていった。いや、滑っているのか、浮かんでいるのか、じっと動かないでいるのか?……葦は絹ずれのそよぎで開いていった。音もなく岸についた。地に降りて、歩いて帰った。夜明けにしかもどらないこともあった。いつも河の縁をたどった。麦穂のような緑色や宝石のような青色をした白銀魚の群が、黎明の光にうごめいていた。パンを投げてやると、むさぼるように飛びついてきて、メデューサの頭の蛇みたいに動き回った。パンが沈むに従って、そのまわりに降りていって、螺旋状に回り、次には、光線のようにすっと消えてしまった。河は薔薇色と葵色との反映に染められていた。小鳥は次から次へと眼をさましてきた。彼は急いで帰っていった。出かける時と同じように用心をして、空気の重苦しい室にもどり、寝床にはいった。クリストフは眠気がさして、野の匂いの沁みたさわやかな身体のまま、すぐに眠るのだった。
かくて万事うまくいった。だれにも少しも気づかれなかった。ところがある日、弟のエルンストが、クリストフの抜け出すことを言いつけてしまった。それ以来、抜け出すことを禁ぜられ、監視された。それでも彼はやはり抜け出していた。他のどんな連中よりも、小行商人とその友人らとの方が好きであった。家の者らは外聞にかかわると思った。メルキオルは彼に下賤な趣味があるのだと言っていた。ジャン・ミシェル老人は彼がゴットフリートを慕ってるのを妬んでいた。そして、優良な社会に接し高貴な方々に仕えるの名誉をもってるのに、そういう卑しい人々と交わって喜ぶほど身を落すのはよくないと、いろいろ説いてきかした。クリストフには気品がないのだと人々は思っていた。
メルキオルの放縦と遊惰とにつれて家計の困難はつのってきたけれど、ジャン・ミシェルがいる間は、どうかこうか生活してゆけた。ただ彼一人が、メルキオルに多少の威力をもっていて、ある程度までその堕落を引止めていた。また彼が受けてる世間の尊敬は、酔漢の不品行を他人に忘れさせるのに役だたないではなかった。また彼は一家の貧しい暮しを助けてくれた。彼は前音楽長として受けていたわずかな年金のほかに、なお音楽を教えたりピアノの調律をしたりして、いくらかの金額を手に入れていた。そしてその大部分を嫁のルイザに与えた。彼女は自分の困窮を、いくら彼の眼に入れまいとしても隠しきれなかった。老人が自分たちのために不自由をしてるかと思うと、彼女はやるせなかった。老人はいつも豊かな生活になれていて、欲望が強かっただけに、そう思われるのも無理はなかった。が時とすると、その犠牲の金でも十分でないことがあった。ジャン・ミシェルはさし迫った負債を払ってやるために、大事な道具や書物や記念品などを、秘密に売り払わなければならなかった。メルキオルは父がひそかにルイザへ補助を与えてるのに気づいていた。そしてしばしば、なんと拒まれてもそれに手をつけることが多かった。ところが老人はふとそれを知って――苦労をつつみ隠してるルイザの口からではなく、孫の一人の口から――聞き知って恐ろしく立腹した。そして二人の間には、ぞっとするような光景が演ぜられた。二人ともなみはずれて気荒かった。すぐにひどい言葉を言い合いおどし合った。今にも殴り合いが始まるかと思われた。しかし憤怒の最中にも、押うべからざる尊敬の念が常にメルキオルを制していた。そして酔っ払ってはいたが、父から浴せられる侮辱的なののしりや叱責のもとに、ついに頭を垂れてしまった。それでもやはり、またせしめてやろうと次の機会をねらうのであった。ジャン・ミシェルは将来のことを考えながら、きたるべき悲しいことどもをはっきりと感じた。
「かわいそうな子供たち、」と彼はルイザに言っていた、「もしわしがいなくなったら、皆どうなるだろう。……でも幸いとわしは、」とつけ加えながらクリストフの頭をなでた、「この子がどうにかやってくれるようになるまでは、まだ達者でおられるだろう。」
しかし彼は見当違いしていた。彼はもう生涯の終りに達していた。そしてまただれもそれに気づかなかった。彼は八十歳を過ぎてるのに、髪の毛もそろっており、まだ灰色の毛の交った白い頭髪はふさふさとして、濃い頤髯には真黒な毛筋も見えていた。歯は十枚ばかりしか残っていなかったが、それで強く噛みしめることができた。食卓についた様子を見ると心強かった。頑健な食欲をもっていた。メルキオルには飲酒を非難していたが、自分は盛んに飲んでいた。モーゼルの白葡萄酒をとくに好んでいた。そのうえ、葡萄酒も、ビールも、林檎酒も、すべて神の創り出した逸品ならなんでも、それを賞美する術を心得ていた。そして杯の中に理性を置き忘れるほど思慮に乏しくなかった。適度にとどめていた。とはいえその適度というのがまた多量で、もっと弱い理性ならその杯の中に溺れるだろうということも、真実だった。彼は足が丈夫で、眼がよく、疲労を知らない活動力を具えていた。六時にはもう起き上がって、細心に身仕舞をしていた。礼儀に注意し体面を重んじていたからである。家の中に一人で暮していて、みずから万事をやってのけ、嫁に手出しされることをも許さなかった。室をかたづけ、コーヒーの支度をし、ボタンをつけ直し、釘を打ち、糊張りをし、修繕をした。シャツ一枚になって、家の中を上下に往き来し、アリアに歌劇の身振りを伴わせて、響きわたる好きな低音で、しきりなしに歌っていた。――その後で、彼は出かけた、どんな天気にも。自分の用件を一つも忘れず果しに行った。しかし時間を守ることはいたって少なかった。知人と議論をしたり、顔を見覚えてる近所の女に冗談を言つたりしてるのが、街路の方々で見られる。愛くるしい若い女と古い友人とを、彼は好きだったのである。そういうふうにして道で手間取って、決して時間を頭においていなかった。けれども食事の時間を通り過すことはなかった。人の家に押しかけて行って、どこででも食事をした。自宅にもどるのは、長く孫たちの顔を眺めた後、晩に、夜になってからだった。寝床にはいると、眼を閉じる前に、古い聖書の一ページを寝ながら読んだ。そして夜中に――一、二時間以上は眠りつづけることができなくなっていたから――起き上がって、時おり買い求めた歴史や神学や文学や科学などの古本を、どれか一冊取上げた。そして手当たりしだいに、面白かろうと、退屈しようと、よくわからなかろうと構わずに、一語もぬかさず、いくページかを読むのであった……また眠気がさしてくるまでは。日曜日には、教会の礼拝式に行き、子供らと散歩をし、球遊びをした。――かつて病気にかかったことがなかった。ただ足指に少し神経痛の気味があって、聖書を読んでる最中に、夜を呪うことがあるばかりだった。その調子でゆくと、百年くらいは生き存えられそうに思われた。また彼自身も、百歳を越せないという理由を少しも認めていなかった。百歳で死ぬだろうと人に予言されると、天意による恩恵には制限を付すべきものではないと、世に名高いあの高齢者と同様なことを考えていた。彼が老いてゆくのを認められるのはただ、ますます涙もろくなることと、日に日に怒りっぽくなることばかりだった。ちょっとした我慢がしきれずに、狂気じみた憤怒の発作を起こした。その赭ら顔と短い頸とが真赤になった。恐ろしく口ごもって、息がつけないで言いやめなければならなかった。旧友でありまたかかりつけである医者が、自分で用心をするように彼に注意し、憤怒と食欲とをともに節するように注意を与えていた。しかし彼は老人の癖として頑固で、ますます不節制をして虚勢を張っていた。医学と医師とを嘲っていた。死をひどく軽蔑してるふうを装って、少しも死を恐れていないと言い切るためには、長々と弁じたててやめなかった。
ごく暑い夏のある日、たくさん酒を飲んでおまけに議論をした後、彼は家に帰って、庭で働きだした。彼は地を耕すのが好きだった。帽子もかぶらず、日の照る中で、まだ議論のために激昂したまま、疳癪まぎれに耘っていた。クリストフは書物を手にして、青葉棚の下にすわっていた。しかし彼はほとんど読んでいなかった。蟋蟀の眠くなるような鳴声に耳を貸しながら、夢想に耽っていた。そしてなんの気もなく、祖父の動作を見守っていた。老人はクリストフの方に背中を向けていた。背をかがめて、雑草を取っていた。すると突然、すっくと立上り、両腕を空に打振り、それから一塊の物質のように、地面へ俯向けにばたりと倒れたのが、クリストフの眼についた。クリストフはちょっと笑いたくなった。ところがなお見ると、老人は身動きもしなかった。彼は呼びかけ、そばに駆けつけ、力の限りゆすぶった。恐ろしくなった。そこにかがんで、地面にぴったりついてるその大きな頭を、両手でもち上げようとした。頭は非常に重かったし、彼はぶるぶる震えていたので、やっとのことで少し動かせるばかりだった。けれども、血のにじんだ真白な引きつけてる眼を見た時、彼は恐ろしさのあまりぞっと寒くなった。鋭い叫び声をたてて頭を取落した。駭然と立上がって、その場を逃げ、表に駆けだした。叫びまた泣いていた。往来を通りかかった一人の男が、彼を引止めた。彼は口もきけなかった。家の方を指し示した。男は家にはいっていった。彼もその後についていった。近所の人々も、彼の叫び声を聞いてやって来た。間もなく庭は人でいっぱいになった。彼らは花をふみにじり、老人のまわりに頭をつき出して、皆一度に口をきいていた。二、三の人々が老人を地面からもち上げた。クリストフは入口に立止り、壁の方を向き、両手で顔を隠していた。見るのが恐かった。しかし見ないでもおれなかった。人々の列がそばを通りかかった時、彼は指の間から、力なくぐったりしてる老人の大きな身体を見た。片方の腕が地面に引きずっていた。頭は運んでる人の膝にくっついて、一足ごとに揺れていた。顔はふくれあがり、泥まみれになり、血がにじんで、口を開き、恐ろしい眼をしていた。彼はふたたび喚きたて、逃げ出した。何かに追っかけられてるかのように、母の家まで一散に駆けていった。恐ろしい叫び声をあげて、台所に飛び込んだ。ルイザは野菜を清めていた。彼は彼女に飛びつき、自棄に抱きしめて、助けに来てくれるようにたのんだ。すすり泣きのために顔がひきつって、口もろくにきけなかった。しかし最初の一言で彼女は了解した。顔色を失い、手の物を取り落し、なんとも言わないで、家の外へ駆け出していった。
クリストフは一人残って、戸棚にとりすがっていた。彼はまだ泣きつづけていた。弟どもは遊びに耽っていた。彼にはどういうことが起こったのかはっきりわからなかった。祖父のことを考えてはいなかった。先刻見た恐ろしいありさまのことを考えていた。そしてまた無理やりに、それらのさまをふたたび見せられはすまいか、あの処へ連れもどされはすまいかと、びくびくしていた。
そして、夕方になって、他の子供たちが、家の中であらゆる悪戯をして倦いてしまい、退屈で腹がすいたと駄々をこねだしたころ、果して、ルイザはあわただしくもどって来、子供らの手を取り、祖父の家へ連れて行った。彼女はごく早く歩いた。エルンストとロドルフとは、いつもの癖でぐずぐず言おうとした。しかしルイザは黙ってるようにと言いつけた。その言葉の調子に、彼らは黙ってしまった。本能的に恐怖を感じた。家にはいりかけた時、彼らは泣き出した。まだすっかり夜にはなっていなかった。夕日の名残りの光が、扉の押ボタンや、鏡や、ほの暗い広間の壁にかかってるヴァイオリンなどに、異様な反映を見せて、家の中を照らしていた。しかし祖父の室には、蝋燭が一本ともしてあった。その揺めく炎は、消えかかった蒼白い明るみとぶつかって、室の重々しい薄闇をいっそう沈鬱になしていた。メルキオルが窓のそばにすわって、声をたてて泣いていた。医者が寝台の上に身をかがめていたから、そこに寝てる者の姿は見えなかった。クリストフの胸は張り裂けるばかりに動悸していた。ルイザは子供たちを、寝台の足下に跪かした。クリストフは思い切って覗いてみた。その午後の光景を見た後のこととて、いかにも恐ろしい何かを期待していたので、一目見ると、むしろ心が休まったほどだった。祖父はじっとしていて、眠ってるように思われた。クリストフはちょっと、祖父が回復したのだという気がした。しかしその押しつけられたような息遣いを聞いた時、なおよく眺めて、倒れた傷跡が大きな紫色の痣になってる脹れた顔を見た時、そこにいる人は死にかかってるのだとわかった時、彼はふるえだした。そして、祖父の回復を念ずるルイザの祈祷をいっしょにくり返しながら、彼は心の底で、もし祖父がなおらないものなら、もう死んでしまっていてくれるようにと祈った。これから起こるべき事柄を怖じ恐れていた。
老人は倒れた瞬間からすでにもはや意識を失っていた。ただ一時、ちょうど自分の容態がわかるだけの意識を回復した――それは痛ましいことだった。牧師が来ていて、彼のために最後の祈祷を誦していた。老人は枕の上に助け起こされた。重々しく眼を開いた。その眼ももはや意のままにならないらしかった。騒がしい呼吸をし、訳がわからずに人々の顔や燈火を眺めた。そして突然、口を開いた。名状しがたい恐怖の色が顔付に現われていた。
「それじゃ……」と彼は口ごもった、「それじゃ、わしは死ぬのか!」
その声の恐ろしい調子が、クリストフの心を貫いた。その声はもう永久に彼の記憶から消えないものとなったのである。老人はそれ以上口をきかなかった。幼児のように呻いていた。それからふたたび麻痺の状態に陥った。しかし呼吸はなおいっそう困難になっていた。彼はぶつぶつ言い、両手を動かし、死の眠りと争ってるようだった。半ば意識を失いながら、一度彼は呼んだ。
「お母さん!」
なんと悲痛な光景ぞ! クリストフのような子供ならいざ知らず、この老人が、臨終の苦しみにおいて自分の母を呼びかけるそのつぶやき――母、そのことを彼は日ごろかつて口にしたこともなかったのである。終焉の恐怖の中における窮極のしかも無益なる避難所!……彼は一瞬間落着いたように見えた。なお意識の閃きを示した。瞳があてもなく揺いでるように思われるその重い眼が、恐さにぞっとしてる子供に出会った。眼は輝いた。老人は微笑もうと努め、口をきこうと努めた。ルイザはクリストフを抱いて、寝台に近づけた。ジャン・ミシェルは唇を動かした。そしてクリストフの頭をなでようとした。しかしすぐにまた昏迷に陥った。それが最後であった。
人々は子供たちを次の室へ追いやった。しかしあまり用が多くて彼らに構っておれなかった。クリストフは恐さにひかれて、半開きの扉の入口から、老人の悲壮な顔を偸見ていた。枕の上に仰向に投げ出されて、首のまわりをしめつけてくる獰猛な圧縮に息をつまらしてる顔……刻々に落ちくぼんでゆく顔貌……ポンプにでも吸われるように、全存在が空虚のうちに沈み込んでゆく様……そして忌わしい臨終のあえぎ、水面で破ける泡にも似たその機械的な呼吸、魂がもはやなくなっても、なお頑固に生きんとつとめる肉体の最後の息吹き。――それから、頭は枕から滑り落ちた。そしてすべてがひっそりとなった。
数分の後、嗚咽と祈祷と死の混雑との中に、子供が真蒼な顔をし、口を引きつらし、眼を見張り、扉のハンドルを痙攣的に握りしめてるのを、ルイザは見つけた。彼女は走り寄った。彼はその腕の中で、神経の発作に襲われた。家に連れて行かれた。意識を失った。寝床の中で気がついた。ちょっとの間一人置きざりにされていたので、恐怖のあまり声をたてた。新たに発作が起こった。また気を失った。その夜と翌日いっぱいとは、熱に浮かされたまま過ごした。それから心が落着いて、二日目の夜は、深い眠りに落ち、次の日の昼ごろまで眠りつづけた。室の中をだれか歩いてるような気がし、母が寝床の上に身をかがめて自分を抱いてくれてるような気がした。遠い静かな鐘の音が聞えるように思った。しかし身を動かしたくなかった。夢の中にいるようだった。
彼が眼を開いた時、叔父のゴットフリートが寝台の足下に腰掛けていた。クリストフはぐったりしていて、何にも覚えていなかった。次に記憶が蘇ってきて、泣き始めた。ゴットフリートは立上がり、彼を抱擁した。
「どうした、坊や、どうした?」と彼はやさしく言っていた。
「ああ、叔父さん、叔父さん!」と子供は彼にすがりついて泣声でうなった。
「お泣きよ、」とゴットフリートは言った、「お泣きよ!」
彼も泣いていた。
クリストフは少し心が静まると、眼を拭いて、ゴットフリートを眺めた。ゴットフリートは彼が何か尋ねたがってるのを覚った。
「いや、」と彼は子供の口に指をあてながら言った、「口をきくもんじゃない。泣くのはいい、口をきくのはいけない。」
子供は承知しなかった。
「無駄だよ。」
「ただ一事、たった一つ……。」
「なんだい?」
クリストフは躊躇した。
「ああ、叔父さん、」と彼は尋ねた、「あの人は今どこにいるの?」
ゴットフリートは答えた。
「神様といっしょにおられるよ。」
しかしそれはクリストフが尋ねてることではなかった。
「いいえ、それじゃないよ。どこにいるのさ、あの人は?」
(肉体の意味であった。)
彼は震え声でつづけて言った。
「あの人はまだ家の中にいるの?」
「けさあの人を葬ったよ。」とゴットフリートは言った。「鐘の音を聞かなかったかい?」
クリストフは安堵した。が次に、あの大事な祖父にもう二度と会えないかと考えると、また切なげに涙を流した。
「かわいそうに!」とゴットフリートはくり返して言いながら、憐れ深く子供を眺めた。
クリストフはゴットフリートが慰めてくれるのを待っていた。しかしゴットフリートは無駄だと知って慰めようともしなかった。
「叔父さん、」と子供は尋ねた、「叔父さんは、あれが恐くはないのかい?」
(彼はどんなにか、ゴットフリートが恐がらないことを望んでいたろう、そしてその秘訣を教えてもらいたかったことだろう!)
しかしゴットフリートは気がかりな様子になった。
「しッ!」……と彼は声を変えて言った。
「どうして恐くないことがあるものか。」と彼はちょっとたって言った。「だが仕方はない。そうしたものだ。逆らってはいけない。」
クリストフは反抗的に頭を振った。
「逆らってはいけないのだ。」とゴットフリートはくり返した。「天できめられたことだ。その思召を大事にしなければいけない。」
「僕は大嫌いだ!」とクリストフは憎々しげに叫んで、天に拳をさし向けた。
ゴットフリートは狼狽して、彼を黙らした。クリストフ自身も、今自分の言ったことが恐ろしくなって、ゴットフリートといっしょに祈り始めた。しかし彼の心は沸きたっていた。そして卑下と忍従との言葉をくり返しながらも、一方心の底にあるものは、呪うべき事柄とそれを創り出した恐るべき「者」とにたいする、嫌悪と激しい反抗との感情のみであった。
新しく掘り返されて、底にはあわれなジャン・ミシェル老人が放置されてる土の上を、昼は過ぎ去り、雨夜は過ぎてゆく。その当座メルキオルは、いたく嘆き叫びすすり泣いた。しかし一週間も過ぎないうちに、彼の心からの大笑いをクリストフは耳にした。故人の名前を面前で言われると、彼の顔は伸びて悲しい様子になる。しかしすぐその後で、彼はまた活発に話しだし身振りをやりだす。彼はほんとうに心を痛めている、しかし悲しい感銘の中にとどまっていることができないのである。
消極的で忍従的なルイザは、何事をも受けいれると同様に、その不幸をも受けいれた。彼女は日ごとの祈祷に添えて、も一つ祈祷をしている。几帳面に墓地へ行き、あたかも家事の一部ででもあるかのように、墓の世話をしている。
ゴットフリートは、老人が眠ってる小さな四角な地面にたいして、非常にやさしい注意を向けている。その地へもどって来る時には、何か記念になる物や、自分の手でこしらえた十字架や、ジャン・ミシェルが好んでいた花などをもって来る。決してそれを欠かすことがなく、しかも人知れずするのである。
ルイザは時々、クリストフを墓参に連れてゆく。花や木の無気味な飾りに覆われてるその肥えた土地、さらさらした糸杉の香気に交って日向に漂ってる重々しい匂いが、クリストフはひどく嫌いである。しかしその嫌悪の情を口には出さない。卑怯のようでもあり不信のようでもあって、気がとがめるからである。彼はたいへん不幸である。祖父の死がたえずつきまとっている。彼はずっと以前から、死とはどんなものであるか知っていたし、それを考えては恐がっていた。しかしまだかつて実際に見たことはなかったのである。だれでも初めて死を見る者は、まだ死をも生をも、少しも知っていなかったことに気づく。すべては一挙に揺り動かされる。理性もなんの役にもたたない。生きてると信じていたのに、多少人生の経験があると信じていたのに、実は何にも知っていなかったことがわかり、何にも見ていなかったことがわかる。今まで幻のヴェールに、精神が織り出して眼を覆い、現実の恐ろしい相貌を見えなくする幻のヴェールに、すっかり包まれて生きていたのである。頭にもってた苦悩の観念と、実際血まみれになって苦しむ者との間には、なんらの連結もありはしない。死の考えと、もがき死んでゆく肉と霊との痙攣との間には、なんらの連結もありはしない。人間のあらゆる言葉、人間のあらゆる知恵は、ぎごちない自動人形の芝居にすぎない、現実の痛ましい感銘に比べては。――泥と血とで成った惨めな人間、いたずらな努力を尽して生命を取り止めようとしても、生命は刻々に腐爛してゆく。
クリストフはそのことを、夜昼となく考えていた。臨終の苦悶の記憶に追っかけられ通しだった。恐ろしい呼吸の音が耳には聞えていた。自然がすべて変わってしまった。氷のような靄が自然を覆ってるかと思われた。周囲いたるところに、どちらを向いても、盲目な「獣」の致命的な息を、顔の上に感じた。その破壊の「力」の拳の下にあって、どうにも仕方がないことが、わかっていた。しかしそういう考えは、彼を圧倒するどころか、かえって憤激と憎悪とに燃えたたした。彼は少しも諦め顔をしなかった。不可能に向かってまっしぐらに突進していった。額を傷つけようと、自分の方が弱いとわかろうと、さらに意に介しないで、苦悩にたいし反抗することを少しもやめなかった。それ以来彼の生涯は、許すべからざる「運命」の獰猛さにたいするたえざる争闘となった。
彼の心に纏綿してくる考えは、ちょうど生活の困苦のためにそらされた。ジャン・ミシェル一人で引止めていた一家の零落は、彼がいなくなるとすぐにさし迫ってきた。クラフト一家の者は、彼の死とともに、生活のたよりを大半失ってしまった。貧苦が家にはいってきた。
メルキオルがそれをなおひどくした。彼は縛られてた唯一の監督から解放されると、いっそうよく働くどころか、まったく不品行に身を任してしまった。ほとんど毎夜のように、酔っ払ってもどって来、稼いだものを少しももち帰らなかった。それに稽古口もおおかた失っていた。ある時、まったく泥酔の姿をある女弟子の家に現わした。その破廉恥な行ないの結果、どの家からも追い払われた。管弦楽団の間では、父親の追懐にたいする敬意からようやく許されていた。しかしルイザは、今にもふしだらをして免職になりはすまいかと、びくびくしていた。すでにもう彼は、芝居の終るころようやく奏楽席にやって来た晩なんかは、解職すると言っておどかされていた。二、三度は、やって来ることをまったく忘れたことさえあった。それからまた、無茶なことを言ったりしたりしたくてたまらなくなる馬鹿げた興奮の場合には、どんなことでもやりかねなかった。ある晩なんかは、ワルキューレのある幕の最中に、自分のヴァイオリン大協奏曲をひきたいと考えついた。それを止めさせるのに皆で大骨折をしたほどだった。また、開演中に、舞台の上や自分の頭の中に展開する面白い光景に魅せられて、突然大笑いをすることもあった。そして彼は一同の慰み物になっていた。そしてその滑稽のゆえに、多くのことを大目に見過ごしてもらっていた。しかしそう寛大に見られるのは、厳酷な取扱いを受けるのよりもなおいけないことだった。クリストフにはそれが恥しくてたまらなかった。
子供は今や管弦楽団の第一ヴァイオリニストとなっていた。メルキオルが浮々した気分でいる時には、それを監視したり、時によっては補助してやったり、あるいは無理に黙らしたりすることに、気を配っていた。それは楽なことではなかった。そしていちばんいいのは、まったく父に注意を向けないことだった。そうでないと、酔っ払いは自分が見られてるなと感ずるとすぐに、しかめ顔をしたり、あるいは話をやりだした。クリストフは、父が何かひどいことをやるのが見えやすまいかとびくびくしながら、眼をそらした。彼は自分の職務に我を忘れようとつとめた。しかしメルキオルの無駄口やその隣りの人々の笑い声やを、聞かないわけにはゆかなかった。眼には涙が出て来た。善良な楽手たちは、それに気づいて、彼を気の毒に思った。彼らは笑い声を押えた。クリストフに隠れて父親の噂をするようにした。しかしクリストフは彼らの憐れみを感知していた。自分が出て行くとすぐに嘲弄が始まるのを、メルキオルが町じゅうの笑草になってるのを、彼は知っていた。どうにもしようがなかった。それが苦しみの種であった。芝居がはねると、彼は父を家に連れて帰った。父に腕を貸し、その駄弁を聞いてやり、その危い足取りを人に知らせまいと努めた。しかし他人はだれが彼に欺かれる者があったろう? そしてまた、いかほど努力しても、首尾よくメルキオルを家まで連れてゆけることは滅多になかった。街路の曲り角まで来ると、メルキオルは友だちと急な面会の約束があると言いだした。なんと説いても、その約束をまげさせることはできなかった。それにまたクリストフは、ひどい親子争いをして、近所の人に窓から見られるようなことになりたくなかったので、用心してあまり言い張りもしなかった。
生活の金はすべてそちらに取られていた。メルキオルは自分で儲けただけを飲んでしまうのでは満足しなかった。妻や子が非常に骨折って得たものまで飲んでしまった。ルイザは泣いてばかりいた。家の中に彼女の物とては何にもないし、彼女は一文なしで結婚して来たのだと、昔のことを夫からきびしく言われてから、もう抵抗するだけの元気もなかった。クリストフは逆らってやった。するとメルキオルは彼を殴りつけ、悪戯っ児扱いにし、その手から金を奪い取った。子供はもう十二、三歳で、身体は頑丈で、折檻されると怒鳴り出した。けれどもまだ反抗するのが恐かった。取られるままになっていた。ルイザと彼と、二人の唯一の手段は、金を隠すことだった。しかしメルキオルは、二人が不在な時に、その隠し場所を見つけるのに不思議なほど巧みだった。
間もなく、彼はもうそれでもあきたらなくなった。彼は父から受け継いだ品物を売った。書物や、寝台や、家具や、音楽家の肖像などが、家から出てゆくのを、クリストフは悲しげに眺めた。彼はなんとも言うことができなかった。しかし、ある日メルキオルが、祖父の贈物の古ピアノにひどくつき当たり、膝をなでながら怒りに任してののしり、家の中が動けないほどいっぱいになってると言い、こんな古道具はすっかり厄介払をしてやると言った時、クリストフは高い叫び声をあげた。祖父の家を、クリストフが幼年時代の最も美しい時間を過ごしたその大事な家を、売り払ってしまうために、祖父の道具をすっかりもち込んで来てからは、どの室もいっぱいふさがってるというのは、ほんとうだった。またその古ピアノは、もうたいした価値もなくなっており、音は震えるようになっていて、久しい以前からクリストフはそれを捨て、大公爵から賜わった新しいりっぱなピアノをばかりひいているというのも、ほんとうだった。しかしその古ピアノは、いかに古くいかに不具であろうとも、クリストフにとっては最良の友であった。それは音楽の無辺際な世界を子供に開き示してくれた。その艶やかな黄色い鍵盤の上で、子供は音響の王国を発見した。それは祖父の手になったもので、祖父は孫のために数か月かかってそれを修理したのだった。それは聖い品であった。それゆえクリストフは、だれにもそれを売るの権利はないと抗弁した。メルキオルは黙れという命令を様子で知らした。クリストフは、そのピアノは自分のもので人に手を触れさせるものかと、ますます強く喚きたてた。彼はひどい折檻を受けることと期待していた。しかしメルキオルは、厭な笑顔で彼を眺め、そして口をつぐんだ。
翌日になると、クリストフはそのことを忘れていた。疲れてはいたがかなり上機嫌で家に帰って来た。ところが弟たちの狡猾な眼付に気をひかれた。二人とも書物を読み耽ってるふうを装っていた。彼の様子を見守り彼の一挙一動を窺いながらも、彼に見られるとまた書物に眼を伏せた。きっと何か悪戯をされたに違いないと彼は思った。しかしそんなことに慣れていた。悪戯を見つけたらいつものとおり殴りつけてやろうときめていたので、別に心を動かさなかった。それであえて穿鑿しようともしなかった。そして父と話しだした。父は暖炉の隅にすわっていて、柄にもなく興味あるふうを見せながら、その日のことを尋ねだした。彼は話してるうち、メルキオルが二人の子供とひそかに目配せしてるのを認めた。彼は心にはっとした。自分の室に駆け込んだ。……ピアノの場所が空になっていた。彼は悲しみの叫び声をあげた。向うの室に弟たちの忍び笑いが聞えた。顔にかっと血が上った。彼は彼らの方へ飛んでいった。そして叫んだ。
「僕のピアノを!」
メルキオルはのんきなしかもまごついた様子で顔を上げた。それで子供たちはどっと笑った。メルキオル自身も、クリストフのあわれな顔付を見ると、我慢ができないで、横を向いてふきだした。クリストフは自分が何をしてるかみずから知らなかった。狂人のように父に飛びかかった。メルキオルは肱掛椅子に反り返っていたので、身をかわす隙がなかった。子供はその喉元をつかんで叫んだ。
「泥坊!」
それはただ一瞬の間だった。メルキオルは身を揺って、猛然としがみついてたクリストフを、床の上に投げ飛ばした。子供の頭は暖炉の薪台にぶつかった。クリストフはまた膝頭で起き上がり、頭を振り立て、息づまった声でくり返し叫びつづけた。
「泥坊! お母さんやぼくのものを盗む泥坊め!……お祖父さんのものを売る泥坊め!」
メルキオルはつっ立って、クリストフの頭の上に拳をふり上げた。クリストフは憎悪の眼でいどみかかり、忿怒のあまり身を震わしていた。メルキオルもまた震えだした。それから腰を降ろして、両手に顔を隠した。二人の子供は、鋭い叫び声をたてて逃げてしまっていた。騒動につづいて沈黙が落ちてきた。メルキオルは訳のわからぬことをぶつぶつ言っていた。クリストフは壁にぴったり身を寄せ、歯をくいしばりながら、じっと父をにらみつけてやめなかった。メルキオルはみずから自分をとがめ始めた。
「俺は泥坊だ! 家の者から剥ぎ取る。子供たちからは軽蔑される。いっそ死んだ方がましだ。」
彼が愚痴を言い終えた時、クリストフは身動きもしないで、きびしい声で尋ねた。
「ピアノはどこにあるんだい?」
「ウォルムゼルのところだ。」とメルキオルは彼の方を見ることもできずに言った。
クリストフは一歩進んで言った。
「金は?」
メルキオルはすっかり気圧されて、ポケットから金を取出し、それを息子に渡した。クリストフは扉の方へ進んでいった。メルキオルは彼を呼んだ。
「クリストフ!」
クリストフは立止まった。メルキオルは震え声で言った。
「クリストフ……おれを蔑むなよ!」
クリストフは彼の首に飛びついて、すすり泣いた。
「お父さん、お父さん、蔑みはしません。ぼくは悲しいや!」
二人とも声高く泣いた。メルキオルは嘆いた。
「おれの罪じゃないんだ。これでもおれは悪人じゃない。そうだろう、クリストフ。ねえ、これでもおれは悪人じゃないんだ。」
彼はもう酒を飲まないと誓った。クリストフは疑わしい様子で頭を振った。するとメルキオルは、金が手にあると我慢ができないのだと自認した。クリストフは考えた、そして言った。
「そんなら、お父さん、こうしたら……。」
彼は言いよどんだ。
「どうするんだい?」
「気の毒で……。」
「だれに?」とメルキオルは質樸に尋ねた。
「お父さんに。」
メルキオルは顔をしかめた。そして言った。
「かまやしないよ。」
クリストフは説明してやった、家の金はことごとく、メルキオルの給料もみな、他人に委託しておいて、毎日かもしくは毎週かに、必要なだけをメルキオルに渡してもらうようにしたらいいだろうと。すると、メルキオルは卑下した気持になっていたので――彼は酒に飢えきってはいなかった――申出での条件をさらにひどくして、自分が受けてる給料を自分の代理としてクリストフに正規に支払ってもらうように、今ただちに大公爵へ手紙を書こうと言い出した。クリストフは父の屈辱が恥ずかしくてそれを拒んだ。しかしメルキオルは、犠牲になりたくてたまらないで、頑として手紙を書いてしまった。彼は自分の寛仁大度な行ないにみずから感動していた。クリストフは手紙を手に取ることを拒んだ。ルイザもちょうどもどって来て、事の様子を知り、夫にそんな侮辱を与えなければならないなら、むしろ乞食にでもなった方がいいと言い出した。彼に信頼してると言い添え、彼は皆を愛してるので、行ないを改めるに違いないと言い添えた。しまいには皆感動して抱き合った。そしてメルキオルの手紙は、テーブルの上に忘れられ、戸棚の下に落ち込んでいって、そのままだれの眼にもつかなかった。
しかし数日の後、ルイザは室を片づけながらその手紙を見つけた。ところがその時彼女は、メルキオルがまた不身持になってたので、非常に不仕合せだった。それで手紙を引裂かないで、取っておいた。それから数か月の間、苦しみを忍びながら、その手紙を使うという考えをいつも押えつけて、そのまま保存しておいた。けれどもある日、メルキオルがクリストフを殴ってその金を奪い取るところを、また見かけた時、もう我慢ができなかった。そして泣いてる子供といっしょに、手紙を取りに行き、それを子供に渡して言った。
「行っておいで!」
クリストフはまだ躊躇した。けれども、家に残ってるわずかなものまですっかり消費しつくされまいとすれば、もはや他に方法はないと覚った。彼は宮邸へ出かけた。二十分ほどの道を行くのに一時間近くかかった。自分のしてることが恥ずかしくてたまらなかった。この数年間の孤立のうちにつのっていた彼の高慢心は、父の不品行を公然と認定するという考えに、血をしぼるほど切なかった。妙なしかも自然な矛盾ではあったが、彼はその不品行がすべての人にわかってるということを知ってながら、しかも執拗にそうでないと信じたがり、何にも気づかないふうを装っていた。それを認めるよりもむしろ自分を粉微塵にされたかった。そして今や、自分から進んで!……彼は幾度となく引返そうとした。宮邸に着こうとするとまた足を返しながら、二三度町を歩き回った。しかし自分一人の問題ではなかった。母にも弟どもにも関係のあることだった。父が皆を見捨てた以上は、皆を助けてゆくのは長男たる彼の役目であった。もはや躊躇したり高ぶったりすべきではなかった。恥辱を飲み下さなければならなかった。彼は宮邸へはいった。階段の途中でまた逃げ出したくなった。踏段の上にかがんだ。それから上の板の間で、扉のボタンに手をかけて、しばらくじっとしていたが、だれかやって来たのではいらざるをえなかった。
事務所では皆彼を知っていた。彼は劇場監理官ハンメル・ランクバッハ男爵閣下に申上げたいことがあると言った。白チョッキをつけ赤い襟飾をした、若い、脂ぎった、頭の禿げた、つやつやした顔色の役人が、彼の手を親しく握りしめて、前日の歌劇のことを話しだした。クリストフは用件をくり返した。役人は答えて、閣下はただいま多忙であるが、クリストフが何か請願書を差出すのなら、ちょうど署名を願いにもってゆく他の書類といっしょに、それを渡してあげようと言った。クリストフは手紙を差出した。役人はそれを一覧して、驚きの声をたてた。
「ああ、なるほど!」と彼は快活に言った。「いい考えだ。もうとっくにこの考えを起こしてなけりゃいけなかったんだ。こんないいやり方は彼奴には初めてだ。ああ、あの年甲斐もない酔いどれに、どうしてこんな決心ができたのかな。」
彼はぴたりと言い止めた。クリストフが彼の手からその書面を引ったくったのである。クリストフは憤りに顔色を変えて叫んだ。
「許せない……僕を侮辱するのは許せない!」
役人は呆気にとられた。
「なあにクリストフさん、」と彼はつとめて言った、「だれがお前を侮辱しようと思うものかね。私は皆が考えてることを言ったばかりだ。お前さんだってそう考えてるだろう。」
「いいや!」とクリストフは腹だたしげに叫んだ。
「なに、お前さんはそう考えないって? 酒飲みだとは考えないって?」
「そんなことはない。」とクリストフは言った。
彼は足をふみ鳴らしていた。
役人は肩を聳かした。
「そんなら、どうしてこんな手紙を書いたんだい。」
「どうしてって……」とクリストフは言った――(もうどう言っていいかわからなかった)、「それは、僕が毎月、自分の給料を取りに来るから、いっしょにお父さんのももらっていかれる。二人ともやって来るのは無駄だ……お父さんはたいへん忙しいんだ。」
彼はその説明の馬鹿らしさにみずから顔を赤らめた。役人は皮肉と憐憫との交った様子で彼を眺めていた。クリストフは書面を手の中にもみくちゃにして、出て行こうとするふうをした。役人は立上がって、その腕をとらえた。
「ちょっとお待ち、」と彼は言った、「私が取計ってやるから。」
彼は長官の室へ通った。クリストフは他の役人らにじろじろ見られながら待っていた。どうしたらよいか、自分でもわからなかった。返辞を伝えられないうちに逃げ出そうかと考えた。そしていよいよそう心をきめかけたが、その時扉が開いた。
「閣下が御面会くださるよ。」とその世話好きな役人は彼に言った。
クリストフははいって行かなければならなかった。
ハンメル・ランクバック男爵閣下は、頬髯と口髭とをはやし、頤鬚を剃ってる、さっぱりとした小さな老人であった。クリストフがもじもじして礼をするのにうなずきの礼も返さず、書きつづけてる手をも休めないで、金縁の眼鏡越しに眺めた。
「では、」とちょっと間をおいて彼は言った、「君は願うんだね、クラフト君……。」
「閣下、」とクリストフはあわてて言った、「どうかご免ください。私はよく考えてみました。もう何にもお願いしません。」
老人はそのにわかの撤回について説明を求めようとはしなかった。彼はクリストフをさらに注意深く眺め、咳払いをし、そして言った。
「クラフト君、君が手にもってる手紙を、わしに渡してごらん。」
クリストフは、知らず知らず拳の中に握りつづけていた書面を、監理官がじっと見つめてるのに、気がついた。
「もうよろしいんです、閣下。」と彼はつぶやいた。「もうそれには及びません。」
「さあ渡してごらん。」と老人はその言葉を聞かなかったかのように平然と言った。
クリストフはなんの気もなく皺くちゃの手紙を渡した。しかしこんがらかった言葉をやたらに言いたてながら、手紙を返してもらおうとしてなお手を差出していた。閣下は丁寧に紙を広げ、それを読み、クリストフを眺め、やたらに弁解するままにさしておいたが、それから彼の言葉をさえぎり、意地悪そうな色をちらと眼に浮べて言った。
「よろしい、クラフト君。願いは聴き届けてやる。」
彼は片手で隙を命じて、また書き物にとりかかった。
クリストフは狼狽して出て行った。
「クリストフさん、気を悪くしてはいけないよ。」とふたたび彼が事務所を通りぬける時に役人が親しげに言った。クリストフは眼をあげる元気もなく、引止められて握手をされるままになっていた。
彼は宮邸の外に出た。恥ずかしさに縮み上がっていた。言われたことが残らず頭に浮かんできた。そして、自分を立ててくれ自分を気の毒に思ってくれる人々の憐憫の中に、侮辱的な皮肉が感ぜられるような気がした。彼は家に帰った。ルイザから問いかけられても、今なして来た事柄について彼女を恨んでるかのように、ただむっとした二三言でようやく答えるきりだった。父のことを考えると、後悔の念に胸が張りさけそうだった。すっかり父にうち明けて、その許しを乞いたかった。メルキオルはそこにいなかった。クリストフは眠りもしないで、真夜中まで彼を待っていた。父のことを考えれば考えるほど、ますます後悔の念は高まってきた。彼は父を理想化していた。家の者らに裏切られた、弱い、善良な、不幸な人間だと、頭に描いていた。父の足音が階段に聞こえると、出迎えてその両腕の中に身を投げ出すために、寝床から飛び起きて走っていった。しかしメルキオルはいかにも厭な泥酔の様子でもどって来たので、クリストフは近寄るだけの勇気もなかった。そして自分の空な考えを苦々しく嘲りながら、また寝に行った。
数日の後、その出来事を知ると、メルキオルは恐ろしい忿怒にとらわれた。そしていかにクリストフが願っても聞き入れないで、宮邸に怒鳴り込んでいった。しかしすっかりしょげきってもどって来、どういうことがあったか一言もいわなかった。彼はひどい取扱いを受けたのだった。どの口でそんなことが言えるか――息子の技倆を考えてやればこそ給料を元どおり与えてるのであって、将来わずかな不品行の噂でもあれば給料は全部取り上げてしまうと、言われたのだった。で彼はその日からただちに自分の地位を是認し、みずから進んで犠牲となってることを自慢にさえした。そういう父の様子を見て、クリストフはたいへん安堵した。
それにもかかわらずメルキオルは、妻や子供らのために剥ぎ取られてしまい、生涯彼らのために痩せ衰え、今や万事に不自由しても顧みられないなどと、よそへ行って嘆かずにはおかなかった。あるいはまたクリストフから金を引出そうとつとめて、あらゆる阿諛や策略を用いた。それを見るとクリストフは、心にもなく笑いだしたくなるほどだった。そしてクリストフがしっかりしてるので、メルキオルは言い張りはしなかった。自分を判断してるその十四歳の少年の厳格な眼の前に出ると、不思議に気圧されるのを感じた。悪い手段をめぐらしてひそかに意趣晴しをした。酒場へ行って飲んだり食ったりした。金は少しも払わないで、息子が借りをみな払ってくれるのだと言った。クリストフは世間の悪評をつのらしはすまいかと気遣って、別に抗議をもち出さなかった。そしてルイザとともに、財布の底をはたいてメルキオルの借りを払っていた。――ついにメルキオルは、給料を手にしなくなってからは、ヴァィオリニストの職務をますます等閑にするようになった。そして欠勤があまり激しくなったので、クリストフの懇願にもかかわらず、しまいには追い払われてしまった。それで子供は、父と弟どもなど全家を、一人で支持してゆかなければならなくなった。
かくてクリストフは、十四歳にして家長となった。
彼は決然としてその重い役目を引受けた。彼は自尊心から、他人の恵みに与ることを拒んだ。独力できりぬけてゆこうと決心した。母が恥ずかしい施与を受けたり求めたりしてるのを見て、彼は幼いころから非常に心を痛めていた。人のいい母が、保護者のもとから何かの恵みを受けて、得意然と家にもどって来ると、いつもそれが争論の種となった。彼女はそれを少しも悪いことだとは思わなかったし、またその金で、少しでもクリストフの骨折りを省くことができ、粗末な夕食に一皿多く加えることができるのを、喜びとしていた。しかしクリストフは顔を曇らした。その晩じゅう口をきかなかった。そういうふうにして得られた食物へは、理由も言わないで手をつけることを拒んだ。ルイザは気をもんだ。下手に息子を説きすすめて食べさせようとした。彼は強情を張った。彼女はついにいらだってきて、不愉快なことを口にのぼせた。彼もそれに言い返してやった。それから彼はナプキンを食卓の上に投げすてて出て行った。父は肩をそびやかして、彼を生意気な奴だと言った。弟らは彼を嘲って、彼の分をも食べてしまった。
それでもやはり生活の道を見つけなければならなかった。彼の管弦楽団員としての手当ではもう足りなくなった。彼は弟子を取った。彼の技倆、彼の好評、とくに大公爵の保護は、上流市民のうちに多くの得意を彼に得さした。毎朝九時から、彼は令嬢らにピアノを教えた。多くは彼よりも年上であって、その嬌態で彼を怯えさせ、その拙劣なひき方で彼を失望さした。彼女らは音楽においてはまったくの馬鹿であったが、その代わりに、滑稽なことにたいする敏感を皆多少なりと具えていた。その嘲笑的な眼は、クリストフの無作法を一つも見逃さなかった。彼にとってはそれが非常につらかった。彼女らのそばに、自分の椅子の縁に腰を掛け、赤い顔をして容態ぶり、憤りながら身動きもできず、馬鹿なことを言うまいと努力し、自分の声音を気遣い、厳格な様子をしようと努め、じろじろ横目で見られてるのを感じて、ついにすっかり平静さを取り失い、意見を述べてる最中にまごつき、おかしな様子をしはすまいかと心配し、おかしな様子を見せてしまい、すっかり腹をたてて激しく叱りつけた。しかし弟子たちにとっては、その仕返しをするのは訳もないことだった。そしてかならず仕返しをしないではおかなかった。一種妙な眼付で眺めて彼を困らした。ごく簡単な問いをかけて彼を眼の中まで真赤にならした。あるいはまたちょっとした用を――何かの上に置き忘れた物を取って来るというようなことを――彼に頼んだ。それは彼にとって最もつらいことだった。無器用な挙動を、へまな足付を、硬ばった腕を、当惑してしゃちこばった身体を、容赦もなく窺ってる意地悪い眼からじっと見られながら、室の中を歩いてゆかなければならなかった。
そういう稽古からつづいて、劇場の試演へかけつけなければならなかった。昼食をする隙がないこともしばしばだった。ポケットにパンと豚肉とを入れておいて、それを幕間に食べた。時には、音楽長トビアス・プァイフェルの代わりをした。音楽長は彼に目をつけていて、自分の代わりに時々管弦楽の下稽古の指揮をやらして練習さした。また彼は自分の腕をもみがきつづけてゆかなければならなかった。午後にはまた他にピアノを教えに行くところがあって、開演の時間までいっぱいだった。晩には幾度も、芝居が終ってから、宮邸で彼の音楽を聞きたいという仰せがあった。そこで彼は一、二時間演奏しなければならなかった。大公爵夫人は音楽通だと自称していた。彼女はいいのも悪いのもごっちゃにして、ただやたらに音楽が好きだった。即興的な愚作とりっぱな傑作とを並べ合したおかしな番組を、クリストフにひかせた。しかし彼女のいちばんの楽しみは、クリストフに即座に作曲させることだった。いつも厭味たらしい感傷的な主題を与えた。
クリストフは十二時ごろ宮邸を出た。疲れ果て、手はほてり、頭はのぼせ、腹は空いていた。汗まみれになっていた。外には雪が降っていたり、冷たい霧がかけていた。家へ着くまでには、町の半分以上も通らねばならなかった。歯をがたがた震わせながら、眠くてたまらなくなりながら、歩いて行った。それにまた、一着きりの夜会服を泥濘でよごさないように注意しなければならなかった。
彼は自分の寝室にもどっても、その室はいつも弟どもといっしょだった。そして、息づまるような匂いのするその屋根裏の室で、ようやく苦難の首枷をはずすことが許される瞬間ほど、彼はおのれの生活の嫌悪と絶望とに、孤独の感情に、ひどく圧倒されることはかつてなかった。服をぬぐだけの元気もあるかないくらいだった。ただ幸いにも、枕に頭をつけるが早いか、重い眠りに圧倒されて、自分の苦労を忘れるのだった。
けれども、夏は黎明のころから、冬はもっと前から、起き上がらなければならなかった。彼は自分のために勉強したかった。五時から八時までの間が、唯一の自由な時間だった。それでもなお、御用の仕事にその一部を費さねばならなかった。宮廷音楽員の肩書と大公爵の愛顧とは、宮廷の祝祭のための音楽を彼に作らせるのだった。
かくて、彼は生活の源泉まで毒されてしまった。夢想することさえも自由ではなかった。しかし普通の例にもれず、束縛はその夢想をいっそう強烈にした。何物も行動を妨げるものがない時には、魂はそれだけ活動の理由を失うものである。クリストフは、厄介事と平凡な職務との牢獄のうちに、しだいに狭く圧縮さるればさるるほど、ますます彼の反抗的な心はおのれの独立を感ずるのであった。なんら拘束のない生活をしていたら、彼はおそらくその時おりの成行きに身を任したであろう。日に一、二時間しか自由を得なかったので、彼の力はあたかも岩の間の急湍のように、それへ飛びかかっていった。厳密な範囲内に努力を集中することは、芸術にとってはいい規律である。この意味において、悲惨はただに思想の主人たるばかりではなく、形式の主人であるともいうことができる。悲惨は肉体へと同じく精神へも、節制を教える。時間が制限され言葉が限定されてる時には、人は余分のことを少しも言わず、物の精髄をしか考えない習慣になる。かくて、生きるための時間が少ないだけに、倍加した生き方をする。
そういうことがクリストフの上に起こった。彼は束縛のもとにあって、自由の価値を十分に知った。そして無益な行ないや言葉によって少しも貴重な時間を浪費しなかった。真面目ではあるがしかし無選択な思想のおもむくがままに、ごたごたと饒多に書きちらす癖のある、彼の生来の傾向は、なるべくわずかな時間になるべく多く仕上げるのを余儀なくされることに、その矯正物を見出した。何物も――教師の教えも傑作の模範も、それほど多くの影響を彼の芸術的精神的発達に及ぼしたものはなかった。彼はようやく性格の形造られる年ごろに、音楽は各音が一つの意味を有する精確な言語であると、考えるの習慣を得た。そして、ただ語るだけで何の意味をも言わない音楽家を忌み嫌った。
けれども、彼が書く音楽はまだ、彼自身を完全に表現するにはなかなかいたらなかった。なぜなら、彼はまだとうてい自己を完全に見出してはいなかったから。教育が第二の天性として子供に押しつける、覚ええた堆い感情を通して、彼は自己を捜し求めていた。あたかも雷電の一撃が覆いかぶさってる雲霧を払って空を清めるがように、個性をその借物の衣から脱却せしむるあの青春の熱情を、彼はまだ感じたことがなかったので、真の自己というものについては、ただいくらかの直覚を有するにすぎなかった。ほの暗いしかも力強い予感が、自己と関係のない旧物に、彼のうちで入り交じっていた。彼はそれらの旧物から脱しえなかった。そしてそれらの虚偽にいらだった。自分の書いてるものが、考えてることよりいかに劣ってるかを見て、憂苦に沈んだ。彼は苦々しくおのれを疑ってみた。しかしその愚かしい失敗で諦めることはできなかった。もっとよくやり、偉大なものを書こうと、奮激した。そしてやはり失敗した。ちょっと感興が起こった後に、書いてる間に、書いたものがまったく無価値なのに気づいた。彼はそれを引裂き、焼き捨てた。そしてさらに恥ずかしいことには、式典用の自分の公の曲が廃滅できずにそのまま残ってるのを、見なければならなかった。それは最も凡庸なものばかりで――大公爵の誕生日のために作った、大鷹という協奏曲、大公爵令嬢アデライドの結婚のおりに書いた、パラスの婚礼という交声曲――多くの費用をかけ豪華版として刊行され、彼の愚鈍さを長く後世に伝えるものだった。彼は後世を信じていたのである。彼はその恥辱に泣きたいほどだった。
熱烈なる年月! なんらの猶予もなく、なんらの怠慢もない。何物もその熱狂的な勉励をさえぎらない。遊戯もなく、友もない。どうして友と遊んでなどいられよう。午後、他の子供らが遊んでる時にも、少年クリストフは額に皺を寄せて注意を凝らしながら、埃深い薄暗い劇場の広間に、奏楽席の譜面台に向かってすわっている。晩、他の子供らが寝ている時にも、彼は椅子にがっくりとすわり、疲労に感覚を失いながら、なおそこに起きている。
彼は弟どもともなんらの親しみももたなかった。エルンストは十二歳になっていた。性の悪い厚かましい無頼な少年で、同じような不良の徒と終日遊び暮していた。そしてその仲間の、嘆かわしい様子にばかりでなく、恥ずべき習癖にも染んでいた。正直なクリストフは、ある日、思いも及ばない恥ずかしいことを彼がやってるのを見かけて、嫌悪の眉をひそめた。も一人の弟ロドルフは、テオドル伯父の気に入りで、商業をやることになっていた。彼は行ないもよく、静かだったが、陰険であった。クリストフよりずっとすぐれてると信じていた。クリストフが稼いだパンを食べるのは当然だと考えていながら、家におけるクリストフの権力を認めなかった。彼にたいするテオドルとメルキオルとの反感に味方して、二人が言うおかしな悪口をくり返し言っていた。二人の弟はどちらも音楽を好まなかった。ロドルフは模倣心から、伯父のように音楽を軽蔑するふうをしていた。家長の役目を真面目にやってるクリストフから、いつも監視され訓戒されるのに困って、二人の弟は反抗を試みることがあった。しかしクリストフはたくましい拳固を持っていたし、自分の権利を自覚していた。弟どもを服従さしてしまった。それでも彼らはやはり、彼に勝手なことをしてやめなかった。彼の信じやすい性質につけ込んで、罠を張ると、彼はきっとそれにかかった。彼らは金を欺き取り、厚かましい嘘をつき、そして陰では彼を嘲った。人のいいクリストフは、いつも陥れられてばかりいた。彼は人から愛されたい強い要求をもっていたので、一言やさしいことを言われると、もうすっかり恨みを忘れてしまった。わずかな愛情を得るためには、なんでも許してやったに違いない。しかしある時、彼らは虚偽の愛情で彼を抱擁し、涙を流すほど彼を感動さしておいて、それに乗じて、かねてほしがっていた大公爵からの贈物の金時計を奪い取ってしまい、その後で彼の馬鹿さ加減を笑ったが、彼はその笑声を聞いてから、信頼の念はひどく動揺した。彼は弟どもを軽蔑していたが、それでもやはり、人を信じ人を愛する不可抗な性癖から、つづいて欺かれてばかりいた。彼はみずからその性癖を知り、自分自身にたいして腹をたてていて、弟どもがまたも自分を玩具にしてるのを発見すると、ひどく殴り飛ばしてやった。けれどもその後で、彼らから面白がって釣針を投げられると、ふたたびそれにすぐ引っかかるのだった。
なおそれにもまさった苦しみが彼にはあった。父が自分のことを悪く言ってるのを、おせっかいな近所の人々から聞かされた。メルキオルは初め息子の成功に得意然としていたが、後には恥ずべき弱点を暴露して、それを嫉妬するようになった。彼は息子の成功をくじこうとした。それは嘆くも愚かなことだった。ただ軽侮の念から肩をそびやかすのほかはなかった。腹もたてられなかった。なぜならメルキオルは、自分のやってることに自覚がなかったし、失意のためにひねくれていたから。クリストフは黙っていた。もし口をきいたらあまりひどいことを言うようになるだろうと恐れていた。しかし心では恨めしくてたまらなかった。
悲しい寄合い、夕、ランプを取り囲み、汚点のついた布卓の上で、つまらない世間話や貪り食う頤の音の間でする、一家そろうての夕食! しかも彼はそれらの人々を、軽侮し憐れみながらも、やはり愛せずにはいられないのである。そして彼はただ、善良な母親とだけ、たがいの愛情の覊を感じていた。しかしルイザは、彼と同様にいつも疲れはてていた。晩には、もう気力もつきはてて、ほとんど口もきかず、食事を済すと、靴下を繕いながら、椅子にかけたまま居眠りをした。そのうえ彼女は、いかにも人がよくて、夫と三人の子供との間に、少しも愛情の差をおいていないらしかった。皆を一様に愛していた。クリストフは彼女を、自分が非常に求めてる腹心の人とするわけにゆかなかった。
彼はただ自分の心のうちに閉じこもった。いく日間も口をきかないで、黙々たる一種の憤激をもって、単調な骨の折れる務めを尽した。敏感な身体の組織が、あらゆる破壊的誘因に巻き込まれて、将来全生涯の間変形されやすい、危急な年齢にある少年にとっては、そういう生活法はいたって危険なものだった。クリストフの健康は、それにはなはだしく害された。彼は父祖から、堅固な骨格と、弱点のない健かな肉体とを、受け継いではいた。けれども、過度の疲労と早熟な憂慮とのために、苦痛のはいり込みうる割目をこしらえられると、その強健な身体も、苦痛に多くの糧を与えるのみであった。ごく早くから、神経の不調がきざしていた。まだ幼いころから、何かの障害を感ずると、気絶や痙攣や嘔吐を起こした。七、八歳のころ、ちょうど音楽会に出始めた時分には、睡眠が落着いて得られなかった。眠りながら、話したり叫んだり笑ったり泣いたりした。そういう病的な傾向は、強い懸念事があるごとにくり返された。やがては、激しい頭痛が起こって、あるいは頸窩や頭の両側がぴんぴん痛み、あるいは鉛の兜をかぶったような気持になった。よく眼をなやんだ。時には、針先を眼孔にさし込まれたような感じがした。また眼がちらついて書物を読めなくなり、幾分間も読みやめなければならなかった。不足なあるいは不健康な食物と、食事の不規則とは、頑健な胃をいためてしまった。内臓の痛みに悩まされ、身体を衰弱させる下痢に悩まされた。しかし彼を最も苦しめたのは、心臓であった。彼の心臓は狂ったように不整であった。あるいは、今にも張り裂けるかと思われるばかりに、胸の中で激しく躍った。あるいは、かろうじて鼓動してるだけで、今にも止まってしまうかと思われた。夜は、体温が恐ろしく上下した。高熱の状態と貧血の状態とが、急激に移り変わった。身体が焼けるようになり、寒さに震え、悶え苦しみ、喉がひきつり、首に塊りができて呼吸を妨げた。――もとより彼の想像はおびえた。彼は自分の感ずることをことごとく家の者に語りえなかった。しかし一人でたえずそれを分析し、それに注意して、苦悩をますます大きくなし、また新しく作りだしていた。自分の知ってるあらゆる病気を、次から次へとわが身にあてはめた。盲目になりかけてるのだとも思った。歩きながら時々眩暈に襲われたので、突然倒れて死ぬのではないかと恐れた。――中途にしてやむ、若くして夭折する、そういう恐ろしい心配が、いつも彼を悩まし、彼を圧迫し、彼につきまとっていた。ああ、どうせ死ななければならないものであるとしても、少なくとも、今はいやだ、勝利者とならないうちはいやだ!……
勝利……。みずからそれと知らずに、彼がたえず燃やしたてられてる、その固定観念! あらゆる嫌悪、あらゆる労苦、生活の腐爛せる沼沢の中において、彼を支持している、その固定観念! 将来いかなるものになるかという、すでにいかなるものになってるかという、おぼろなしかも力強い意識!……彼は現在なんであるか? 管弦楽においてヴァイオリンをひき、凡庸な協奏曲を書いている、病弱な神経質な一少年にすぎないのか?――否。そういう少年の域をはるかに脱しているのだ。それは表皮にすぎない、一時の顔貌にすぎない。それは彼の本体ではない。彼の深い本体と、彼の顔や思想の現形との間には、なんらの関係も存しない。彼自身よくそれを知っている。鏡で見る姿を、おのれだとは認めていない。大きな赤ら顔、つき出た眉、くぼんだ小さな眼、小鼻がふくれ先が太い短い鼻、重々しい頤、むっつりした口、そういう醜く賤しい面貌は、彼自身にとっては他人である。彼はまた自分の作品中にはなおさらおのれを認めていない。彼は自分を判断し、現在自分が作ってるものの無価値と、現在の自分の無価値とを、よく知っている。けれども彼は、将来いかなるものになるか、将来いかなるものを作るか、それに確信をもっている。彼は時おりその確信を、高慢から出る虚妄として、みずからとがめる。そしてみずから罰せんがために、苦々しくおのれを卑下しおのれを苛責して、喜びとする。しかし確信は存続し、何物からも動かされない。いかなることをなし、いかなることを考えようとも、そのいずれの思想も行為も作品も、完全におのれを含有しおのれを表現してはいない。彼はそれを知っている。彼は不思議な感情をいだいている。自分の最も多くは、現在あるがままの自分ではなくて、明日あるだろうところの自分であると。……きっとなってみせる!……彼はそういう信念に燃えたち、そういう光明に酔っている。ああ、今日によって中途に引止められさえしなければ! 今日によって足下にたえず張られてる陰険な罠へ陥って蹉跌することさえないならば!
かくて彼は、日々の波を分けておのれの小舟を進めながら、側目もふらず、じっと舵を握りしめ、目的の方へ眼を見据えている。饒舌な楽員らの中に交って管弦楽団の席にいる時にも、家の者にとり巻かれて食卓についている時にも、高貴な愚人たちの慰みのために楽曲のいかんに構わず演奏しながら宮邸にいる時にも、彼が生きているのは、このおぼつかなき未来の中にである、一原子のために永久に崩壊されるやもしれない――それは構うところでない――この未来の中に、そこにこそ彼は生きているのである。
彼は屋根裏の室で、ただ一人、自分の古いピアノに向かっている。夜になろうとしている。消えかかった昼の光が、楽譜帳の上に流れている。光の最後の一滴があるまでは、彼は眼を痛めながら読んでいる。消え去った偉大な心の愛が、黙々たるそれらのページから発散して、やさしく彼のうちに沁み通ってくる。彼の眼には涙があふれる。なつかしいだれかが後ろに立っていて、その息で頬をなでられ、今にも両腕で首を抱かれる、かと思われる。彼は身を震わしてふり返る。自分一人きりでないことを、感じまた知っている。愛し愛されてる一つの魂が、すぐそばにそこにいる。それをとらええないで、彼は嘆息する。それでも、その憂苦の影は、彼の恍惚たる情に交じって、ある秘めやかな快さをなおもっている。悲しみさえも今は晴れやかである。愛する楽匠らのことを、消え去った天才らのことを、彼は考える。彼らの魂は、それらの音楽の中にふたたび蘇ってくる。愛で心がいっぱいになりながら、彼は超人間的な幸福を夢みる。それはこの光栄に満ちた畏友らのもっていたものに違いない、彼らの幸福の一反映ですらなおかくも燃えたっているのを見れば。彼らのようになろうと彼は夢想し、そういう愛を放射しようと夢想する。その愛の数条のかすかな光は、聖き微笑みで彼の惨めさを照らしてくれる。こんどは自分が神となり、喜びの祠となり、生命の太陽となるのだ!……
ああ、もし彼が他日、愛するそれらの楽匠らと等しくなるならば、希求してるその輝く幸福に到達するならば、すべては幻にすぎなかったことがわかるであろう。
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二 オットー
ある日曜日に、クリストフは楽長から、小さな別荘で催される午餐へ招待を受けた。その別荘はトビアス・プァイフェルの所有で、町から一時間ばかりの距離にあった。クリストフはライン河の船に乗った。甲板で彼は、同じ年ごろの少年から慇懃に席を譲られて、そのそばに腰をおろした。彼は別にそれを気にも止めなかった。しかし間もなく、隣席の少年からたえず観察されてるのを感じて、彼も向うの顔を見てやった。薔薇色の豊頬をした金髪の少年で、頭髪を横の方できれいに分け、唇のあたりには産毛の影が見えていた。一個の紳士らしく見せかけようとつとめていたが、大きな坊ちゃんらしい誠実な顔付をしていた。とくに念を入れた服装をしていて、フランネルの服、派手な手袋、白の半靴、薄青の襟飾を結えていた。手には小さな鞭をもっていた。そして牝鶏のように首をつんとさして、ふり向きもせず横目で、クリストフをじろじろ眺めていた。やがてクリストフの方から眺められると、耳まで真赤になり、ポケットから新聞を引出し、もったいらしく読み耽ってるふりをした。しかし数分たつと、クリストフの帽子が落ちたのを、急いで拾い上げてやった。クリストフはあまり丁寧にされるのに驚いて、ふたたびその少年を眺めた。少年はまた真赤になった。クリストフは冷やかに礼を述べた。なぜなら彼は、そういうわざとらしい親切を好まなかったし、人からかまわれるのが嫌いだったから。けれども、内心嬉しくないでもなかった。
間もなく彼はそのことから心をそらした。注意は景色の方に奪われた。彼は長い間町から外へ出ることができないでいた。で彼は今、顔を吹く風や、船に当たる波の音や、広い水の面を、貪るように眺めた。また両岸の移り変わる光景を眺めた。灰色の平たい渚、半ば水に浸った柳の茂み、ゴチック式の塔や黒煙を吐く工場の煙筒などがそびえた都市、茶褐色の葡萄の蔓、伝説のある岩石。そして彼がだれはばからずうち喜んでいたので、隣席の少年は、声をつまらしながらおずおずと、うまく修復され蔦にからまれてる眼前の廃虚について、それぞれ歴史的の細かな事柄を説明しだした。その様子はあたかも自分自身に向かって述べてるかのようだった。クリストフは興味を覚えて、種々と尋ねた。少年は自分の知識を示すのが嬉しくて、急いで答えた。そして口をきくたびごとに、「宮廷ヴァイオリニストさん」とクリストフを呼びながら話しかけた。
「ではぼくをご存じですか。」とクリストフは尋ねた。
「ええ知ってますとも。」と少年は無邪気な感嘆の調子で言った。クリストフの虚栄心はそれにそそられた。
二人は話し合った。少年はしばしばクリストフを音楽会で見たことがあった。そして種々噂を聞いては心を動かしていた。彼はそれをクリストフには言わなかった。しかしクリストフはそれを感じて、快い驚きを覚えた。そういう感動した尊敬の調子で話しかけられるのに慣れていなかったのである。彼はなおつづけて、途中の土地の歴史について尋ねた。少年は覚えたてのあらゆる知識を述べたてた。クリストフはその知識に感心した。しかしそんなのはただ会話の口実にすぎなかった。二人がどちらも興味を覚えていたのは、たがいに知り合いになるということだった。彼らは率直にその問題に触れはしなかった。まず問いをかけては遠回しに探り合った。がついに彼らは心を決した。そしてクリストフは、この新しい友はオットー・ディーネルという名前で、町の豪商の息子であることを知った。もとより彼らは共通の知人をももっていた。そしてしだいに彼らの舌はほどけてきた。彼らは元気よく話しだした。そのうちに、船はクリストフが降りるべき町へ着いた。オットーもそこで降りた。その偶然の一致が彼らには不思議に思われた。午餐の時間が来るまでいっしょに少し歩こう、とクリストフは言い出した。彼らは野を横ぎって進んでいった。クリストフは幼い時からの知り合いででもあるかのように、親しくオットーの腕を取り、自分の将来の抱負を語った。彼は同じ年ごろの少年と交わることが非常に少なかったので、今、教育もあり育ちもりっぱで、自分に同情をもってる、その少年といっしょにいることに、言い知れぬ喜びを感じていた。
時間は過ぎていった。クリストフはそれに気づかなかった。ディーネルは若い音楽家から信頼の念を示されてるのに得意になって、彼の午餐の時間がすでに来てるのを注意しかねていた。がついにそれを思い出させなければならないと考えた。しかしちょうど林の中の坂道にさしかかっていた時で、まず頂まで行かなければいけないとクリストフは答えた。そして二人が頂までやってゆくと、クリストフは草の上にねそべって、そこに一日を過ごそうとでも思ってるようだった。十五、六分もたってからディーネルは、クリストフが身を動かそうともしそうにないのを見て、またおずおずと言ってみた。
「午餐は?」
クリストフは頭の下に両手をやり長々と寝転んだまま、平然と言った。
「いいさ!」
それから彼はオットーの方を眺め、そのびっくりした顔付を見、そして笑いだした。
「ここは実に気持がいい。」と彼は説明した。「僕は行かないよ。待ちぼうけさしてやるさ。」
彼は半ば身を起こした。
「君は急ぐのかい。そうじゃないだろう。どうだい、こうしようじゃないか。いっしょに食事をしよう。僕が料理屋を一軒知ってる。」
ディーネルは定めし異議をもち出したかったろう。だれかに待たれてるからではないが、不意の決心がつきにくかったからである。彼はいったい几帳面なたちで、前からちゃんと予定を作っておく方だった。しかしクリストフは、ほとんど拒むことを許さないような調子で尋ねたのだった。でディーネルはそれに引きずり込まれてしまった。二人はまた話しだした。
料理屋へはいると、彼らの熱情は消えた。どちらが昼食をおごるかという重大な問題に、二人とも気をもんだ。どちらも、自分が昼食をおごって体面を見せようと、ひそかに考えていた、ディーネルは金持ちだからという理由で、クリストフは貧乏だからという理由で。彼らはその考えを露わには示さなかった。しかしディーネルは献立を注文しながらわざと主人公らしい調子を使って、自分の権利を肯定しようとつとめた。クリストフはその心持を覚って、他のこった料理を注文しながら、上手に出た。彼はだれにも劣らず懐ぐあいのよいことを示そうとした。ディーネルはまた新たに策をめぐらして、葡萄酒を選む役目を受持とうとした。クリストフはそれをじろりとにらみつけて、その料理屋にある最も高価な地産葡萄酒を一瓶、もって来さした。
りっぱな食事に臨むと、彼らは気がひけた。もう話すこともなかった。窮屈そうなぎごちない様子で、こそこそ食べていた。するとにわかに、たがいに他人同士の間であることに気づいて、警戒し合った。会話を活気だたせようとつとめても、なんの甲斐もなく、じきに言葉が途絶えてしまった。初めの三十分ばかりは退屈でたまらなかった。が幸いにも、やがて食事の効果が現われてきた。二人の客はいくらか親しげに顔を見合わすようになった。とくにクリストフは、そういう御馳走に慣れていなかったので、妙に饒舌になった。彼は生活の困難を語った。オットーも心を開いて、自分もまた幸福ではないとうち明けた。彼は弱くて臆病で、友人らに乗ぜられがちだった。彼らは彼を嘲り、皆の共通な態度を難ずることを彼に許さず、意地悪く彼をからかってばかりいた。――クリストフは拳を握りしめて、自分の前で彼らがそんなことをしたら、思い知らしてやると言った。――オットーもまた家の者から理解されていなかった。クリストフもそういう不幸を知りつくしていた。そして二人はたがいの不運を憐れみ合った。ディーネルの両親は、彼を商人にして父の後を継がせるつもりだった。しかし彼は詩人になることを望んでいた。たといシルレルのように町から逃げ出して、困苦と戦わなければならないとしても、詩人になるつもりだった。(それにもとより、父の財産はすっかり彼のものとなるはずだったし、その財産も僅少なものではなかった。)彼は顔を赤らめながら、生の悲しみを歌った詩を書いたことがあると告白した。しかしクリストフがいかに願っても、それを誦する気にはなりかねた。けれどもついに、感動のあまりむちゃくちゃな口調でその二、三句を聞かした。クリストフはそれを崇高なものだと思った。彼らはたがいの計画を言いかわした。将来は正劇や歌曲集などを書くことにした。彼らはたがいに賛嘆しあった。クリストフの音楽上の名声、その他彼の力、彼のやり方の豪胆さなどを、オットーは感嘆した。そしてクリストフは、オットーの優美さ、その態度の上品さ――すべてがこの世においては相対的である――またその博識などを、深く感じた。その知識こそ、彼に欠けてるもので、彼が渇望してるものであった。
食事のためにぼんやりして、食卓に両肱をつき、しみじみとした眼をしながら、二人はたがいに語りまた聞いていた。午後は過ぎていった。出かけなければならなかった。オットーは最後にも一度勇気を出して、勘定書を取ろうとした。しかしクリストフから荒い一瞥を受けると、そのまますくんでしまって、我を通す望みも失った。クリストフはただ一つ心配なことがあった。持合せ以上の金額を請求されはすまいかということだった。もしそうなったら、オットーにうち明けるよりもむしろ、時計でも渡してしまうつもりだった。しかしそれまでにしないでもよかった。一月分の金を大方その食事に費やしてしまっただけで済んだ。
二人はまた丘を降りていった。夕の影が樅の林に広がり始めていた。林の梢はまだ薔薇色の光の中に浮出していて、津波のような音をたてながら厳かに波動していた。一面に散り敷いた菫色の針葉が、足音を和らげた。二人とも黙っていた。クリストフは不思議なやさしい悶えが心にしみ通るのを感じた。幸福であった。口をききたかった。悩みの情に胸苦しかった。彼はちょっと立止まった。オットーも同じく立止まった。すべてがひっそりしていた。蠅の群がごく高く光の中に飛び回っていた。枯枝が一本落ちた。クリストフはオットーの手を握り、震える声で尋ねた。
「僕の友だちになってくれない?」
オットーはつぶやいた。
「ああ。」
彼らはたがいに手を握りしめた。胸は動悸していた。顔を見合わすこともかろうじてであった。
やがて彼らはまた歩き出した。二、三歩離れて歩いた。林の縁まで一言ももう言わなかった。彼らは自分自身と自分の不思議な感動とを恐れていた。足を早め、立止まりもせず、ついに木立の影から出てしまった。そこで彼らはほっと安心して、また手を取り合った。朗らかな夕暮に眺め入って、切れ切れの言葉で話した。
船に乗ると、舳先の方に、明るい影の中にすわって、なんでもない事柄を話そうとつとめた。しかし口にする言葉を耳には聞いていなかった。快い懶さに浸されていた。話をする必要も、手を取り合う必要も、またたがいに見合わす必要さえも、感じなかった。たがいに接近していたのである。
船がつく間ぎわに、彼らは次の日曜にまた会おうと約束した。クリストフはオットーを門口まで送って行った。ガスの光で、たがいにおずおずと微笑んで、心をこめたさよならをつぶやき合った。別れるとほっとした。それほど彼らは、数時間の緊張した感情に、気疲れがしていたし、沈黙を破ろうとしてちょっとした言葉を発する骨折りに、気疲れがしていた。
クリストフは夜の中を一人でもどって行った。「一人の友をもってる、一人の友をもってる!」と彼の心は歌っていた。何にも眼にはいらなかった。何にも耳に聞えなかった。他のことは何にも考えていなかった。
家に帰るや否や、すぐに眠気がさしてきて、寝入ってしまった。しかしある固定観念に呼びさまされるかのように、夜中に二、三度眼をさました。そして「一人の友をもってる」とくり返しては、またすぐに眠りに入った。
朝になると、すべてが夢のように彼には思われた。それが現実のことであるとみずから確かめるために、前日のことをごく些細な点まで思い起こそうとした。音楽を教えてる間にも、なおその方にばかり気がひかれた。午後になってからも、管弦楽の試演の間非常にぼんやりしていたので、そこを出る時にはもう何をひいたのか覚えていなかった。
家に帰ってみると、手紙が待ちうけていた。どこから来た手紙なのか考える要はなかった。自分の室にかけ込み、そこにとじこもって手紙を読んだ。水色の紙に、見分けにくい長めの丹念な手跡で書かれて、ごく几帳面な署名がついていた。
親愛なるクリストフ君――わが畏敬せる友、と呼んでよろしいでしょうか。
ぼくは昨日の遊歩のことを非常に考えています。そしてぼくにたいする君の好意を、この上もなく感謝しています。君がされたすべてのことを、君の親切な言葉を、愉快な散歩を、りっぱな御馳走を、どんなにぼくはありがたく思っているでしょう! ただ、あの食事に君がたいへん金を費やされたことを、気にしているだけです。なんという素敵な一日だったでしょう! あの奇遇には何か天意がこもってはいなかったでしょうか。僕たちをいっしょに結びつけようと望んだのは、運命自身であるような気がします。日曜にまたお会いするのが、どんなにぼくは嬉しいでしょう! 宮廷音楽長の午餐に欠けられたについて、君にあまり不愉快なことが起こらないようにと、僕は希望しています。僕のために困るようなことになられたら、僕はどんなにか心苦しいでしょう!
親愛なるクリストフ君、僕は永遠に君の忠実なる僕にして友であります。
ぼくは昨日の遊歩のことを非常に考えています。そしてぼくにたいする君の好意を、この上もなく感謝しています。君がされたすべてのことを、君の親切な言葉を、愉快な散歩を、りっぱな御馳走を、どんなにぼくはありがたく思っているでしょう! ただ、あの食事に君がたいへん金を費やされたことを、気にしているだけです。なんという素敵な一日だったでしょう! あの奇遇には何か天意がこもってはいなかったでしょうか。僕たちをいっしょに結びつけようと望んだのは、運命自身であるような気がします。日曜にまたお会いするのが、どんなにぼくは嬉しいでしょう! 宮廷音楽長の午餐に欠けられたについて、君にあまり不愉快なことが起こらないようにと、僕は希望しています。僕のために困るようなことになられたら、僕はどんなにか心苦しいでしょう!
親愛なるクリストフ君、僕は永遠に君の忠実なる僕にして友であります。
オットー・ディーネル
二伸――日曜には、どうぞ僕の家へ誘いには来ないでください。もしおさしつかえなかったら、御殿の園でお会いできれば仕合せです。
クリストフは眼に涙を浮かべてその手紙を読んだ。彼は手紙に唇をあてた。大声に笑いだした。寝台の上に筋斗をした。それからテーブルに駆けつけ、ペンを取って、すぐに返事を書こうとした。一分も待っておれなかった。しかし彼は書き慣れていなかった。心に満ちあふれてることをどう書き現わしていいかわからなかった。ペンで紙を裂き、インキで指を真黒にした。じれて足を踏みならした。ついには、言葉をむりにしぼり出し、五、六枚下書きした後に、四方八方に曲りくねった無格好な字で、ひどい綴りの誤りをしながら、手紙を書くことができた。
わが魂よ! 僕が君を愛してるのに、どうして感謝などと言うのか? 君を知る前ぼくはどんなに悲しく一人ぽっちだったか、君に言ったじゃないか。君の友情はぼくの最大の幸福なんだ。昨日、ぼくは嬉しかった、ほんとに嬉しかった! 生まれて初めてのことだ。ぼくは君の手紙を読みながら、嬉し泣きに泣いた。そうだ、疑っちゃいけない、ぼくたちを近づけたのは運命だ。運命は大事をなしとげるために、ぼくたちが友だちになることを望んだのだ。友だち! なんという愉快な言葉だろう! とうとうぼくも一人の友をもつこととなったのか。ああ、君はもうぼくを捨てやしないだろうね。誠実でいてくれるだろうね。いつまでも、いつまでもだ!……いっしょに生長し、いっしょに勉強し、ぼくはぼくの音楽上の感興を、頭に浮かぶ奇怪な事柄を、君は君の知力と驚くべき知識を、二人で共有のものにするのは、どんなに愉快なことだろう! 君は実に種々なことを知ってる。ぼくは君のように頭のいい者を見たことがない。ぼくは時々心配になる。ぼくは君の友情を受くるに足りない者のような気がする。君はいかにも高尚で、ちゃんとでき上がっている。ぼくのような粗雑な者を愛してくれることを、ぼくはどんなに君に感謝してるだろう!……いやちがった。今言ったばかりだった。感謝なんてことを決して言ってはいけないんだ。友誼においては、恩を受くる者も施す者もないんだ。ぼくは恩なんか甘受しない! ぼくたちはたがいに愛してるから、同等の者なんだ。君に会うのが待ち遠しくてたまらない。ぼくは君の家に誘いには行くまい、君がそれを好まないから。――だが、ほんとうを言えば、そういう用心をするわけがぼくにはわからない。――しかし君はぼくより賢い。たしかに何か理由があるんだろう……。
ただ一言いっておくが、これからはもう金のことを言ってはいけない。ぼくは金が嫌いなんだ、言葉も実物も。ぼくは金持ちではないったって、友に御馳走をするのに困るほどじゃない。そして、自分の持ってるものをすっかり友のためにささげるのが、ぼくの楽しみなんだ。君もそうするだろう。もしぼくに必要があったら、君は君の財産全部をぼくにくれてしまうだろうね。――しかしそんなことには決してなるまい。ぼくは丈夫な拳固と強い頭とをもってる。食べるだけのパンは常に得られるだろう。――日曜日にね!――ああ、一週間会えないのか! そして二日前にはぼくは君を少しも知らなかったんだね。どうしてぼくはこんなに長く君なしに生きていられたんだろう?
楽長の奴、ぼくに苦情を言おうとしたよ。だが、ぼくはもちろんだが、君もそれを気にかけちゃいけない。ぼくにとって他人がなんだ! 他人がぼくのことをどう考えようと、将来どう考えることがあろうと、それをぼくは軽蔑しきってる。ぼくにとって大事なのは君ばかりだ。ぼくをよく愛してくれ、ぼくが君を愛するように君もぼくを愛してくれ! ぼくがどんなに君を愛してるか、言うこともできない。ぼくは爪先から眼の奥まで、すっかり君のものだ、君のもの、君のものだ。永久に君のものなんだ!
ただ一言いっておくが、これからはもう金のことを言ってはいけない。ぼくは金が嫌いなんだ、言葉も実物も。ぼくは金持ちではないったって、友に御馳走をするのに困るほどじゃない。そして、自分の持ってるものをすっかり友のためにささげるのが、ぼくの楽しみなんだ。君もそうするだろう。もしぼくに必要があったら、君は君の財産全部をぼくにくれてしまうだろうね。――しかしそんなことには決してなるまい。ぼくは丈夫な拳固と強い頭とをもってる。食べるだけのパンは常に得られるだろう。――日曜日にね!――ああ、一週間会えないのか! そして二日前にはぼくは君を少しも知らなかったんだね。どうしてぼくはこんなに長く君なしに生きていられたんだろう?
楽長の奴、ぼくに苦情を言おうとしたよ。だが、ぼくはもちろんだが、君もそれを気にかけちゃいけない。ぼくにとって他人がなんだ! 他人がぼくのことをどう考えようと、将来どう考えることがあろうと、それをぼくは軽蔑しきってる。ぼくにとって大事なのは君ばかりだ。ぼくをよく愛してくれ、ぼくが君を愛するように君もぼくを愛してくれ! ぼくがどんなに君を愛してるか、言うこともできない。ぼくは爪先から眼の奥まで、すっかり君のものだ、君のもの、君のものだ。永久に君のものなんだ!
クリストフ
クリストフはその週の間、待ち遠しさに苦しんだ。彼はいつもの道を通らないで、長い回り道をし、オットーの家のある方面を彷徨した――彼に会おうと考えてるのではなかったが、しかし彼の家が見えると、それでもう感動しきって蒼くなったり赤くなったりした。木曜日にはもうたまらなくなって、初めのよりもっと熱烈な第二の手紙を送った。オットーは感傷的な返事をよこした。ついに日曜日が来た。オットーは会合の時間を正確に守った。しかしクリストフは、一時間も前から遊歩場で待ちながら、いらいらしていた。オットーの姿が見えないので苦しみ始めた。病気ではあるまいかと気をもんだ。なぜなら、オットーが自分との約を違えようとは少しも思わなかったから。彼はごく低くくり返した、「ああどうか、彼が来るように!」そして彼は細杖で、道の小石をたたいた。三度たたいて当たらなかったらオットーは来ない、しかしうまく当たったらオットーがすぐに現われるのだ、と考えていた。そしてごく念を入れてやったにもかかわらず、また容易なことではあったけれども、三度ともはずしてしまった。ところがちょうどその時、オットーの姿が眼にはいった。オットーはいつもの静かな落着いた歩き方でやって来た。彼はごく感動してる時でも常にきちんとしていたのである。クリストフは彼のそばに駆け寄り、乾ききった喉で今日はと言った。オットーも今日はと答えた。それから、天気がたいへんいいこと、また時間はちょうど十時五、六分、さもなければ、御殿の時計はいつも後れているので、十時十分くらいだろうということ、そんなこと以外にはもう何も言うべきことが見当たらなかった。
彼らは停車場へ行き、町の人々の遠足地となってる次の停車場まで汽車に乗った。途中彼らは数言しか話ができなかった。能弁な眼付でそれを補おうとつとめたが、それもうまくゆかなかった。どんなに親しい友人同士であるかたがいに言いたく思いながら駄目だった。彼らの眼はまったく何にも語らなかった。たがいに喜劇を演じていた。クリストフはそれに気づくと恥しくなった。一時間前に心を満たしていたあらゆることを、言うこともできなければ感ずることさえできなくなったのは、どういう訳だかみずからわからなかった。オットーの方は、それほど生真面目になっていなかったし、またいっそうの自尊心をもって内省していたから、その間の悪さを同様にはっきりとは意識しなかったであろうが、しかし同じような失望を感じていた。事実をいえば、この二人の少年は、一週間前からたがいに相手のいないところで、感情を非常に高調していたので、現実のうちにそれを維持することができないで、たがいに顔を合わせると、最初の印象は必然に失望的なものとなってしまったのである。それを一掃しなければならなかった。しかし彼らはきっぱりとそう是認することができなかった。
彼らは重苦しい気づまりが覆いかぶさってくるのを払いのけることができないで、終日田舎を歩き回った。ちょうど祭りの日で、飲食店や林の中は散歩者でいっぱいだった――小市民の連中が、方々で騒いだり食べたりしていた。それを見て彼らの不機嫌さはなおつのった。そういううるさい連中のために、この前の散歩の時のように心を明け放しにすることができないのだと、彼らは考えていた。それでもたがいに話をした。話の種を見つけるのにたいへん苦しんだ。何にも話し合うことがないと気づくのを恐れていた。オットーは学校で得た知識を並べたてた。クリストフは音楽上の作品やヴァイオリンのひき方について、専門的な説明をやりだした。彼らはたがいに退屈し合っていた。たがいに話を聞きながら退屈しきっていた。そして話がとぎれるのを心配しながらやたらに話しつづけた。沈黙の淵が開けるとぞっとしたからである。オットーは泣きたかった。クリストフはオットーを置きざりにして逃げ出そうとまでした。それほど彼は恥ずかしかったし退屈だった。
ふたたび汽車に乗る一時間ばかり前に、ようやく彼らの心は解けたのだった。林の奥で犬が吠えていた。勝手に獲物を追いたてていた。クリストフはその通り道に隠れて追われてる獣を見ようと言い出した。二人は茂みの中に駆け込んだ。犬は遠のいたり近寄ったりした。二人は右へ行ったり、左へ行ったり、進んだり、後に引返したりした。吠声はますます激しくなった。犬はいらだちのあまり息もつまるばかりに、屠殺の叫び声をあげていた。犬は二人の方へ近寄ってきた。クリストフとオットーとは、小道の轍の中に、枯葉の上に身を伏せ、息をこらして待ち受けた。吠声は止んだ。犬は獲物の足跡を見失ったのである。遠くでも一度吠えるのが聞えた。それから林の中はひっそりとしてしまった。物音一つ聞えなかった。ただ、昆虫や青虫など、たえず森をかじって破壊する無数の生物の、神秘な蠢動の音が聞えるばかりだった――決してやむことのない規則正しい死の息吹きである。二人の少年は耳を傾けた、身動きもしなかった。ついにがっかりして起き上がりながら、「もうおしまいだ、来やすまい、」と言おうとした。がちょうどその時、一匹の小兎が茂みから飛び出して、彼らの方へまっすぐにやって来た。二人は同時にそれを見つけて、喜びの声をあげた。兎は飛び上がって、横の方へ躍り込んだ。立木の中にまっさかさまに飛び込んでゆくのが見えた。すれ合う木の葉の戦ぎが、水面の船跡のように消えていった。二人は声をたてたのを後悔したが、その出来事で心が愉快になった。兎のあわてた飛び方を考えながら、大笑いをした。クリストフはおかしな様子でその真似をした。オットーも同じくやった。それから二人は追っかけっこをした。オットーは兎になり、クリストフは犬になった。垣根をつきぬけたり溝を飛び越したりして、林や牧場を駆け降りた。麦畑の真中に飛び込んで、百姓に怒鳴りつけられた。二人はなおやめなかった。クリストフは実にうまく犬の嗄れた吠声を真似たので、オットーはおかしさのあまり涙を出して笑った。ついには、狂人のように叫びながら斜面を転げ降りた。もはや声も出なくなると、そこにすわって、笑ってる眼で顔を見合った。今はもうまったく幸福で、みずから満足しきっていた。もはやえらい友人のようなふうをしようとしなかったからである。あるがままの心を率直にさらけ出していた。二人の子供になりきっていた。
彼らは別に意味もない唄を歌いながら、腕を組み合わして帰って行った。けれども、町にもどりかけると、またそれぞれ様子ぶる方がいいように考えた。そして林の出はずれの木に、二人の頭字を組み合わして彫りつけた。しかしその感傷的な気分は、上機嫌な心にうち負けた。帰りの汽車の中では、顔を見合わすたびに大笑いをした。たがいに別れる時には、すばらしく愉快な一日を過ごしたと思い込んでいた。そして一人一人になるや否や、すぐにその確信は肯定された。
彼らは蜜蜂の仕事よりもさらに気長い巧妙な建設の仕事をふたたび始めた。というのは、平凡な回想のいくつかの断片で、彼ら自身と彼らの友情との霊妙な面影を作り上げることができたのである。一週間の間たがいに理想化した後で、日曜日に会っていた。そして事実と彼らの幻との間には不均衡があったにもかかわらず、彼らは少しもそれに気づかないようになった。
彼らは友だちであることを誇りとしていた。反対な性格のためにかえって近づけられていた。クリストフはオットーほど美しい者を知らなかった。その繊細な手、綺麗な髪、生々しい顔色、控目な言葉、丁寧な態度、細かく注意のゆき届いた服装、そういうものが彼の心を喜ばした。オットーはまた、クリストフの満ちあふれた力と独立的な気性とに、すっかり心服した。あらゆる権威にたいして敬虔な尊敬をささげる古来の因襲に染んでいた彼は、あらゆる既成の範例にたいして生まれつき敬意を欠いでいる友と交わるのに、恐れの念の交じった喜びを感じた。町じゅうのあらゆる名望家をけなしつけるのを聞き、無作法にも大公爵の真似をする言葉を聞くと、彼は快い恐れからかすかな戦慄を感じた。クリストフはそういうふうにして自分が友の上に及ぼしてる幻惑に気づいた。そして攻撃的な気分をさらに誇大してみせた。あたかも老革命家のように、社会の約束と国家の法則とをくつがえす言葉を発した。オットーは眉をしかめまた歓喜して、それに耳を傾けた。そして調子を合わせようとこわごわながらつとめた。しかし、だれかに聞かれやすまいかと用心深くあたりを見回すのであった。
二人でいっしょに散歩していると、クリストフは禁札を見るごとにかならずその畑の柵を飛び越してはいった。あるいは所有地の壁越しに果物をつみ取った。オットーは人に見つかりはすまいかと心配した。しかしそういう心遣いは彼にとって特別な喜びだった。夕方家に帰ると、自分が勇者であるような気がした。彼はこわごわクリストフを賛美していた。彼の服従的な本能は、他人の意思に従うのみである友情のうちに、自己満足を見出していた。クリストフはかつて彼に決心する骨折りをかけなかった。彼は自分で万事をきめ、一日をどうして暮すかを決定し、なお一生をどういうふうに使うかを決定し、あたかも自分の未来にたいするがようにオットーの未来にたいして、議論を許さない断然たる計画をたてた。オットーはいつも賛成していた。時には、クリストフが彼の財産を勝手に処置して、自分の発明になる劇場をやがて建てるのだと言うのを聞くと、多少の反発心が起こることもあった。しかし抗弁しなかった。友の圧倒的な調子に気圧されていたし、また、商業評議員オスカル・ディーネル氏が蓄積した金は、それ以上に高尚な使い道を見出すことはできないという友の確信に、説き伏せられてしまっていた。クリストフにはオットーの意思を虐げるつもりは少しもなかった。彼は本能的な専制者であって、友に自分と異なった考えがあろうとは想像だもしなかった。もしオットーが彼と違った志望を発表したら、彼は躊躇なく自分一己の嗜好は犠牲にして顧みなかったろう。それ以上の犠牲をも辞さなかったろう。彼はオットーのために身を投げ出したくてたまらなかった。自分の友情が試練に会うべき機会を非常に待ち望んでいた。散歩中に何か危険に出会って、その前に突進してゆくことをねがっていた。オットーのためになら喜んで死にたかった。けれどもまずそれまでは、気がかりな注意でオットーを守ってやり、歩きにくいところでは娘の子にでもするように手を貸してやり、疲れやしないかと気遣い、暑がってやしないかと気遣い、寒がってやしないかと気遣った。木影にすわる時には、自分の上着をぬいでその肩に着せてやった。歩く時にはそのマントを持ってやった。オットー自身をも負ってやりたかった。恋人のように彼の身を見守っていた。そして実際をいえば、クリストフは彼に恋していた。
恋とはいかなるものであるか彼はまだ知らなかったので、オットーに恋してることをみずから気づかなかった。しかし彼らは時々、いっしょにいると妙な不安の情にとらえられた――樅の林の中で初めて親しく交わったあの日、彼の胸をしめつけた感情と同じもの――激しい感動が顔に上ってきて、頬が真赤になった。彼は恐れた。二人の少年は、本能的に同じ思いをして、おずおずとたがいに避け合い、たがいに逃げ合い、後になり先になりして途中でぐずぐずした。藪の中に桑の実を捜してるようなふりをした。そして彼らは何が不安なのか知らなかった。
とくに手紙の中で、二人のそういう感情は高まっていた。手紙の中では事実から裏切られる恐れがなかった。何物も彼らの幻影をそこなうものはなかったし、彼らを気後れさせるものはなかった。今では一週に二、三度、熱烈な叙情味の文体で手紙を書き合っていた。現実の出来事を語ることはほとんどなかった。突然に感激と絶望との間を移り変わる黙示録的な調子で、重大な問題をこねまわしていた。彼らはたがいに、「わが幸福、わが希望、わが愛人、わが身自身、」などと呼んでいた。
「魂」という言葉を恐ろしく使いちらした。宿命の悲しさを悲壮な色でいろどっていた。友の生涯に運命の変転を投げ入れて心痛していた。
「わが愛よ、ぼくは君に心配をかけるのがつらい。」とクリストフは書き送った。「君が苦しむのはぼくにはたえられない。苦しんではいけない、ぼくはそれを欲しない。(彼は紙が破けるほどの太い傍線を右の言葉にほどこした。)君が苦しむなら、ぼくはどこに生きる力を見出せよう! ぼくの幸福は君のうちにしかない。どうか仕合せであってくれ! 苦しみは皆ぼくが喜んで荷ってやる。ぼくのことを考えてくれ。ぼくを愛してくれ。ぼくは愛してもらいたいんだ。ぼくを生かす熱は君の愛から来るんだ。ああ、ぼくがどんなに震えてるか君が知ってくれたら! ぼくの心の中は冬で、鋭い寒風が吹いている。ぼくは君の魂を抱きしめるのだ。」
「ぼくの考えは君の考えにくちづけしている。」とオットーは返事を書いた。
「ぼくは君の頭を両手に抱きしめている。」とクリストフは答えかえした。「ぼくが唇でしなかったことを、唇でしないだろうことを、ぼくは全身でする。かくも愛してると君を抱擁する。察してくれ。」
オットーは疑うようなふうを装った。
「ぼくが君を愛してるほど、君はぼくを深く愛してるかしら?」
「ああ!」とクリストフは叫んだ、「同じほどなもんか、十倍も、百倍も、千倍もだ! なに、君はそう感じないのか? ぼくはどんなことをしたら君の心を動かせるのか。」
「ぼくたちの友情はなんという美しいものだろう?」とオットーは感嘆した。「歴史のうちにもこれほどの友情があろうか? 夢のようにやさしく麗わしい。ただこれが過ぎ去ることのないように! もし君がぼくを愛しなくなるようなことがあったら!」
「わが愛人よ、なんと君は馬鹿だろう。」とクリストフは答えてやった。「いや許してくれ。しかし君の苦労性な弱気さにぼくは腹がたってくる。ぼくが君を愛しなくなったらなどと、どうして尋ねるんだ! ぼくにとっては、生きることがすなわち君を愛することなんだ。いや死でさえもぼくの愛をどうすることもできない。もし君自身、ぼくの愛を壊そうと思っても、どうにもできまい。君がぼくを裏切っても、ぼくの心を引裂いても、ぼくは君から鼓吹されるこの愛について、君を祝福しながら死んでゆくだろう。だからもうこれ限り、そんな弱々しい不安の念でみずから心配しまたぼくを苦しめることを、どうかやめてくれ!」
しかし一週間もたつと、彼の方からこんなことを書き送った。
「もうまる三日、君の口から出るなんらの言葉にも接しないでいる。ぼくはぞっとする。君はぼくのことを忘れてるんじゃないかしら? そう思うと全身の血が冷えきってしまう。……そうだ、それに違いない。先日もぼくは、ぼくにたいする君の冷淡さに気づいた。君はもうぼくを愛しないんだ! ぼくから離れようと考えてるんだ!……いいか、もし君がぼくを忘れたら、もしぼくを裏切るようなことがあったら、ぼくは君を犬のように打ち殺してしまってやる!」
「わが心よ、君はぼくを迫害するのか!」とオットーは悲嘆した。「君はぼくに涙を流させる。ぼくはこんな目に会う覚えは少しもない。しかしなんでも君の言うままになろう。君はぼくにたいしてあらゆる権利をもっている。もし君がぼくの魂を破壊するにしても、ぼくの魂の一片は、君を愛するために永く生きているだろう!」
「天の神よ!」とクリストフは叫んだ、「ぼくは友を泣かした!……ぼくをののしってくれ、ぼくを殴ってくれ、ぼくを踏みにじってくれ! ぼくは惨めな人間だ。ぼくは君の愛に価しない!」
二人は、なんでもない他人に書き送る手紙と自分たちの手紙とを区別するために、宛名の書き方に特別なくふうをこらしていたし、また切手をはるにも、封筒の下部の右の隅に、逆さに斜めにはりつけることにしていた。そういう子供らしい秘密は、彼らにとって、愛の楽しい神秘の魅力をそなえていた。
ある日出稽古からの帰り道に、クリストフはオットーが同じ年ごろの少年と連れだってるのを、次の街路に見かけた。彼らはいっしょに親しく談笑していた。クリストフは蒼くなって、彼らが街路の曲り角に見えなくなるまで、その後を見送った。彼らは少しもクリストフの姿に気づかなかった。クリストフは家に帰った。一片の雪が太陽の面をかすめたようなものだった。すべてが薄暗くなった。
次の日曜に会った時、クリストフは初めなんとも言わなかった。しかし三十分ばかり散歩した後に、彼はしぼるような声で言った。
「水曜日に、君をクロイツ街で見かけたよ。」
「そう!」とオットーは言った。
そして彼は赤くなった。
クリストフはつづけて言った。
「君は一人じゃなかったね。」
「ああ、」とオットーは言った、「いっしょだった。」
クリストフは唾をのみ込み、平気を装った調子で尋ねた。
「あれはだれだい?」
「従弟のフランツだ。」
「そうか。」とクリストフは言った。
それからちょっと後にまた言った。
「君は従弟のことをぼくに話したことがなかったね。」
「ラインバッハに住んでるんだ。」
「たびたび会うのかい。」
「時々こっちへやって来るよ。」
「そして君も、向うへ行くのかい。」
「時々だ。」
「そうか。」とクリストフはまた言った。
オットーは話題を変えてもかまわなかったので、嘴で木をつついてる一匹の小鳥をさし示した。二人は他のことを話した。十分ばかりしてから、クリストフはまた突然言い出した。
「君たちは気が合うのかい?」
「だれと?」とオットーは尋ねた。
(だれとだか彼にはよくわかっていた。)
「従弟とさ。」
「ああ合うよ。どうして?」
「いやなんでもないんだ。」
オットーはいつも悪い冗談でからかわれるので、従弟をあまり好まなかった。しかし妙な意地悪な本能から、やがてこうつけ加えて言った。
「たいへんやさしいよ。」
「だれが?」とクリストフは尋ねた。
(だれがだか彼にはよくわかっていた。)
「フランツさ。」
オットーはクリストフの言葉を待った。しかしクリストフは聞こえなかったようなふりをしていた。榛の枝を杖に切っていた。オットーはまた言った。
「面白い奴だよ。いつでもいろんな話を知ってるよ。」
クリストフは平然と口笛を吹いた。
オットーはますます言いつのった。
「そして実に頭がよくて……上品で……。」
クリストフは肩をそびやかした。こう言うがようだった。
「そんな奴がおれに何の関係があるんだ?」
そしてオットーが気を悪くして、なお言いつづけようとした時、クリストフは荒々しくその言葉をさえぎって、向うのある地点まで駆けっこを強いた。
彼らはその午後じゅう、もはやこの問題に触れなかった。しかし、二人の間には珍しいことであるが、とくにクリストフにおいては珍しいことであるが、馬鹿丁寧さを装って、冷やかに争っていた。クリストフの喉には言葉がまだつまっていた。ついに彼は我慢ができなくなって、五歩ばかり後からついてくるオットーの方へ、途中でふり向いて、激しく彼の手を取り、一度に言ってのけた。
「オットー、いいかね、ぼくは君がフランツとそんなに仲よくするのを好まないんだ。なぜって……それは、君がぼくの友だからだ。君がだれかをぼくよりいっそう愛するのを、ぼくは好まないんだ。ぼくは厭なんだ。ねえ、君はぼくのすべてなんだ。そんな……できないはずだ、いけないはずだ。もし君がぼくのものでなくなったら、ぼくはもう死ぬよりほかないだろう。ぼくはどんなことをするかわからない。自殺するかもしれない。君を殺すかもしれない。いや、勘弁してくれ!……」
彼の眼からは涙がほとばしっていた。
オットーは、その脅かすように唸ってる苦しみの真面目さに、感動しまた恐れて、急いで誓った、クリストフほど深くはだれも愛してはいないし、また将来決して愛しはしない、フランツは自分にとってなんでもない、もしクリストフがそう望むならもう決してフランツに会いもすまいと。クリストフはそれらの言葉を飲み込んで、心がまた生き返ってきた。笑みを浮べ、激しい息をついた。彼はオットーに真心から感謝した。自分の乱暴を恥じた。しかし非常に重苦しい胸は和らいだ。二人は向き合って、手を取り合いながらじっとつっ立って、たがいに顔を見合った。たいへん嬉しく、またたがいの身をはじらっていた。彼らは黙って帰りかけた。それからまた話しだして、ふたたび快活な気分になった。かつて知らなかったほどひしといっしょに結び合わされたのを感じていた。
しかしこの種のことは、それが最後のものではなかった。今やオットーはクリストフにたいする自分の力を感じたので、それをみだりに使おうとした。彼は急所を心得ていて、そこを突つきたくてたまらなかった。しかしそれは、クリストフの忿怒を面白がってるからではなかった。否反対に、彼はその忿怒を恐れていた。それでも彼はクリストフを苦しめて、自分の力を確かめるのだった。彼は意地悪くはなかったが、女の子のような心をもっていた。
で彼は約束にもかかわらず、フランツや他の友だちと腕を組合わしてるところを、なおつづいて見せつけた。彼らはいっしょに大騒ぎをし、彼はわざとらしく笑っていた。クリストフが苦情をもち出すと、彼はそれを嘲笑って、本気にとるような様子を見せなかった。そしてついに、クリストフが眼の色を変え、憤りに唇を震わすのを見ると、彼もまた調子を変え、心配そうな様子をし、もう二度としないと約束した。けれども翌日にはまたそれを始めた。クリストフは激しい手紙を書いて、彼にこう呼びかけた。
「下司野郎、もう貴様のことなんか聞くもんか。もう赤の他人だ。どっかへ行っちまえ、貴様のような犬どもは!」
しかし、オットーが涙っぽい一言を書き送るか、あるいは一度実際やったように、永久に変わらない心を象徴する一輪の花を送るかすれば、それだけでクリストフの心は後悔の念に解け、次のような手紙を書くのだった。
「わが天使よ、ぼくは狂人だ。ぼくの愚蒙を忘れてくれ。君は最もりっぱな人だ。君の小指一本だけでも、この馬鹿なクリストフ全体より優っている。君は賢いやさしい愛情の宝をもっている。ぼくは涙を浮べて君の花にくちづけする。花はここに、ぼくの心臓の上にある。ぼくはそれを、拳を固めて肌の中に押しこむのだ。それでぼくは自分の血を流したい、君の麗わしい温情とぼくの恥ずかしい愚かさとを、いっそう強く感ずるようにと!……」
けれども彼らはたがいに倦き始めていた。小さな諍いは友情を維持するものだというのは、誤りである。クリストフは非道な態度をとるようにオットーから仕向けられるのを恨んでいた。彼はよく反省しようとつとめ、自分の専横をみずからとがめた。彼の誠実な激越な性質は、初めて愛を味わうと、それに自分の全部を与えるとともに、また向うからも全部を与えてもらいたかった。彼は友情を分つことを許さなかった。友にすべてをささげるの覚悟でいた彼は、友の方でも自分にすべてをささげるのが、正当でまた必然のことでさえあると考えていた。しかし彼は、世の中は自分のような一徹な性質をもととして建てられてるものでないと感じ始め、事物にその与ええないものを要求してるのだと感じ始めた。そこで、彼はみずからに打ち勝とうとつとめた。彼はきびしくおのれをとがめ、みずから利己主義者であるとし、友の愛情を独占するの権利はない者であるとした。彼は真剣な努力をして、たとい自分はいかにつらかろうとも、友をまったく自由にさせようとした。謙譲な精神からわざとつとめて、フランツを疎んじないようにオットーに勧めた。オットーが自分より他の者と交わって喜んでるのを見るのが嬉しいと、思ってるらしい様子を装った。しかしオットーはそんなことに騙されはしなかったが、意地悪な心から彼の言葉どおりを行なった。すると彼は顔を曇らせないではおれなかった。そしてにわかにまた怒りたった。
厳密にいえば、もしオットーが彼より他の友だちの方を好むとしても、それを彼は許しえたであろう。しかし彼がオットーに見逃してやることのできなかったことは、その不真実であった。オットーは偽瞞家でも虚構家でもなかったが、あたかも吃者が言葉を発するのに困難を感ずるように、真実を言うのに天性的の困難を感じていた。彼が言うことは決して、全然ほんとうでもなければ全然偽りでもなかった。自分の感情をきまり悪がっていたのかあるいはよくわかっていなかったのか、とにかく彼は、まったくはっきりと口をきくことはまれであった。彼の答えはいつも曖昧だった。彼は何事についても、隠しだてをしたりごまかしたりして、クリストフを怒らせた。錯誤を指摘されると、彼はそれを自認するどころか、頑固に否定して、馬鹿げた作りごとばかり並べたてた。ある日クリストフは、むかっ腹をたてて彼の頬を殴りつけた。そして彼は、もうこれが二人の友情の終りであると思い、オットーは決して自分を許してくれないだろうと思った。しかしオットーは、しばらくむっつりしていた後に、何事も起こらなかったかのようにまた彼のもとにもどって来た。クリストフの乱暴を少しも恨んではいなかった。おそらくそれを面白がってるのかもしれなかった。そしてまた一方では、クリストフがいつも瞞されやすくて、どんな偽りの餌をも口いっぱいに飲み込んでしまうのを、好ましく思ってはいなかった。そのために多少クリストフを軽蔑して、自分の方がすぐれてると信じていた。クリストフの方では、オットーが少しの反抗もしないで自分の酷遇を受けるのに、不満を覚えていた。
彼らはもはや初めのころのような眼ではたがいに眺めなかった。二人のたがいの欠点が明るみにもち出されていた。オットーはクリストフの独立不覊を以前ほど面白く思わなかった。クリストフは散歩中厄介な道連れだった。彼は少しも世間体をはばからなかった。勝手な真似をして、上着をぬぎ、胴衣の胸をはだけ、襟を半ば開き、シャツの袖をまくり、杖の先に帽子をつっかけ、身体を風にさらした。歩きながら腕を打ち振り、口笛を吹き、大声に歌った。真赤な顔をし、汗を流し、埃にまみれていた。市場もどりの百姓のような様子だった。貴族的なオットーは、彼と連立ってるところを人に見られるのが、たまらなく恥ずかしかった。街道をやってくる馬車を見かけると、十歩ばかり彼の後におくれるようにして、一人で散歩してるふうを装った。
帰りに、料理屋か汽車の中などで、クリストフが話を始める時にも、オットーはやはり当惑するのだった。クリストフは騒々しく話しだし、頭に浮かぶことはなんでも言ってのけ、オットーを厭になるほどなれなれしく取扱った。だれでも知ってる名高い人々について、あるいは少ししか離れていない向うにすわってる人々の風采についてさえ、最も好意を欠いた意見を高言し、または自分の健康や家庭生活のごく内密な詳細にまで、話を進めていった。オットーがいくら眼配せをしたり、まごついた合図をしたりしても、甲斐がなかった。クリストフはそれに気づく様子もなく、一人でいるのと同じように、少しも遠慮をしなかった。オットーは近くの人々が顔に微笑を浮べてるのを見てとった。穴にでもはいりたいような気がした。彼はクリストフを粗野な男だと考えた。どうしてクリストフに心を奪われたのかみずからわからなかった。
最もひどいことは、クリストフが、あらゆる生籬や柵や塀や壁や通行止や罰金制札や各種の禁示など――すべて彼の自由を制限せんとし、彼の自由に対抗して神聖なる所有権を保証せんとするもの、そういう何物にたいしても、やはり同じようにはばかりなく振舞うことだった。オットーはたえずびくびくしていた。いくら注意しても役にたたなかった。クリストフはますます悪いことをしては威張ってた。
ある日クリストフは、オットーを後ろに従えて、ガラス瓶の破片を植えた壁をも乗り越して、あるいはそんな壁があるのでなおそうしたのかもしれないが、私有林の中にはいり込んだ。そしてわが家のように勝手に歩き回ってると、番人とばったり出会った。番人は二人をののしりちらし、訴えるぞと言ってしばらくおどかした後、最もひどい取扱いで外に追い出してしまった。オットーはその憂目に会ってる間しょげきっていた。すでに牢屋にはいってるような心地がし、涙ぐみながら、自分はただうっかりはいり込んだのであって、どこへ行くかも知らずにクリストフの後について来たばかりだと、愚痴っぽく言いたてていた。そしてついに助かったのを知ると、面白がるどころか、同伴者に向かって苦々しい非難を向けた。クリストフが自分を陥れたのだと不平を並べた。クリストフはそれをにらみつけて、「卑怯者」と呼んだ。彼らは激しい言葉を言い合った。オットーはもし一人で帰れたらクリストフと別れてしまったかもしれない。しかしクリストフの後について行かなければならなかった。それでも二人とも、いっしょに連立ってることを知らないふりをしていた。
雷雨になりかけていた。彼らは怒っていたので、雷雨の来るのが眼にはいらなかった。焼けるような野原は蟲の声に騒々しかった。と突然、すべてがひっそりとなった。彼らは数分たってからようやくその静寂に気づいた。鳴動が聞こえていた。彼らは見上げた。空はものすごかった。重々しい鉛色の大きな雲がいっぱいになっていた。雲は騎兵が駆けるようにして四方から集まっていた。ある深淵に吸い込まれるかのように、眼の見えない一点に向かって駆け寄ってるかと思われた。オットーは気をもんだが、あえてクリストフにその心配をうち明けなかった。クリストフは何にも気づかないふうをして、意地悪く面白がっていた。それでも二人は、無言のままたがいに近寄っていた。野の中には他にだれもいなかった。そよとの風もなかった。ただ熱っぽい戦ぎが、樹々の小さな葉を時々震わすばかりだった。するとにわかに一陣の旋風が埃を巻き上げ、樹木を吹きまげ、恐ろしく二人に吹きつけた。そしてまた、前よりもいっそう凄い静寂が落ちて来た。オットーは思い切って、震え声で口を切った。
「夕立だ。帰らなきゃいけない。」
クリストフは言った。
「帰ろう。」
しかしもう遅かった。眼が眩むような猛烈な一条の光がほとばしり、空が唸り、雲の丸天井がとどろいた。たちまちのうちに二人は、暴風雨にとりまかれ、電光におびえ、雷鳴に耳を聾し、全身ずぶ濡れになった。平坦な野のまんなかで、どちらの人家へも三十分以上の距離があった、水の渦巻きの中に、ほのかな明るみの中に、雷電の巨大な光が真赤にほとばしっていた。彼らは走りたかった。しかし雨のために服がこわばりついて、思うように歩くことさえできなかった。靴はぶくぶくしていた。全身に水が流れていた。息もつけないほどだった。オットーは歯をうち震わし、狂気のように猛りたっていた。彼はクリストフに気を悪くするようなことを言いたてた。立ち止まりたがった。歩くのは危険だと言い張った。道にすわってしまう、畑のまんなかに地面に寝転んでやる、などと言っておどかした。クリストフは返辞をしなかった。彼はなお歩きつづけながら、風と雨と電光とに眼も眩み、響きに驚き、やはり多少不安になっていたが、それをうち明けないで我慢していた。
そしてにわかにからりとなった。雷雨はやって来たのと同じようにふいに通り過ぎてしまった。しかし彼らは二人ともあわれな様子になっていた。実際をいえば、クリストフは平素からだらしなかったので、少し服装が乱れたとてほとんど様子が変わらなかった。しかしオットーは、いつも服装をきちんと整えていたしそれに気を配っていたので、ひどいありさまだった。着物のまま風呂から出て来たかのようだった。クリストフは彼の方をふり向いて、その様子を見ながら、笑いがこみ上げてくるのを押えることができなかった。オットーは腹をたてる力もないほどがっかりしていた。クリストフはそれがかわいそうになって、快活に話しかけた。オットーは恐ろしい一瞥でそれに答えた。クリストフは彼を一軒の百姓家に連れ込んだ。彼らは盛んな火の前で身を乾かし、熱い葡萄酒を飲んだ。クリストフはその出来事を面白がっていた。しかしそれはオットーの趣味には合わなかった。彼はふたたび野を歩いてる間、陰鬱に黙り込んでいた。二人は口をとがらしながら帰って行き、別れる時にもたがいに手を差出さなかった。
その暴挙の後、彼らは引きつづいて一週間以上会わなかった。彼らはたがいにきびしく批判し合った。しかし日曜の散歩を一度よして、みずからおのれを懲してしまうと、非常に退屈になって、恨みを忘れた。クリストフは例のとおり自分の方から申し出た。オットーはそれを承知してやった。そして彼らは仲直りをした。
二人は気が合わないにもかかわらず、たがいに捨て去ることができなかった。彼らは多くの欠点をもっていたし、二人とも利己主義だった。しかしその利己心は無邪気なものであって、それを厭なものたらしむる成年期の打算をもたなかった。それは自覚しない利己心だった。ほとんど愛すべきものであって、彼らが真面目に愛し合うことを妨げなかった。彼らは非常に愛と献身とを欲していた。少年オットーは、自分を主人公にしたおおげさな献身の物語を考えながら、枕の上で涙を流した。悲壮な出来事を想像し出して、その中で彼は、強い勇ましい大胆な者となり、想像的な敬慕の対象たるクリストフを保護してやった。クリストフの方では、麗わしいものや珍しいものを見聞きするたびごとに、「オットーがいたら!」と考えざるをえなかった。自分の全生活に友の面影を立ち交じらしていた。その面影は姿を変えて、非常なやさしみを帯びてき、彼はその実物を知ってるにもかかわらず、酔わされるような心地になった。オットーのある言葉をずっと後に思い出し、それを美化しては、情熱に駆られて身を震わした。二人はたがいに真似し合っていた。オットーは、クリストフの態度や身振りや手跡を真似た。クリストフは、影法師たる彼が、自分の言った一語一語をくり返し、自分の思想を新しい思想ででもあるかのようにもち出してくるのを、不快に思った。しかし彼は、自分もまたオットーの真似をしてることに気づかなかった。オットーの服の着方、歩き方、ある言葉の言い方、などを彼は見習った。それは一種の魅惑であった。二人はたがいに感染し合い、愛情に満ち満ちた心をいだいていた。その愛情は泉の水のように四方へあふれていた。友がその原因だと、彼らはおのおの想像していた。彼らはそれが青春期の覚醒であるとは知らなかった。
クリストフは人を疑えない性質だったので、物を書いた紙片をそのままにしておいた。けれども本能的な羞恥から、オットーに書き送る手紙の下書きとオットーからの返辞とは、ちゃんとしまっておいた。鍵はかけないで、楽譜帳の中にはさんでおいた。そうしておけばだれにも捜し出されはすまいと安心していた。彼は弟たちの意地悪を予期していなかった。
彼は少し前から、弟たちが彼の方を眺めながら笑ったりささやき合ったりしてるのを、よく見かけた。彼らは切れ切れの文句を耳にささやき合っては、身をねじっておかしがっていた。クリストフにはその言葉が聞きとれなかった。そのうえ、彼らにたいするいつもの策略から彼は、彼らが言ったりしたりすることにはまったくの無関心を装っていた。ところが二、三の言葉が彼の注意を呼び起こした。身に覚えのある言葉のようだった。やがて、弟たちに手紙を読まれたことがもう疑えなくなった。そしてエルンストとロドルフとが、真面目くさった道化た様子で、「わが親愛なる魂よ、」と呼び合ってるところを、詰問してみたが、何にも聞き出しえなかった。悪賢い子供たちは、なんのことだかわからないようなふうをして、勝手な呼び方をしてもかまうものかと言った。手紙はそっくり元の場所にあったので、クリストフはそのうえ追究しなかった。
それから少し後に、彼はエルンストが盗みをしてる現場を押えた。この小さな曲者は、ルイザが金をしまってる箪笥の抽出の中を捜していたのである。クリストフは彼をひどく突つきまわし、その機に乗じて、胸にあることをすっかり言ってやった。好意を欠いた言葉で、エルンストの悪事の数々を長たらしく並べたてた。エルンストはその訓誡を悪意にとった。クリストフから叱られる訳はないと傲然と答えかえした。そして兄とオットーとの友情を、それとなくほのめかしてやった。クリストフにはわからなかった。しかし争論の中にオットーの名前がもち出されるのを聞いた時、彼はエルンストにその説明を迫った。子供は冷笑した。それから、クリストフが真蒼になって怒るのを見ると、彼は恐がって、もう口をきこうともしなかった。クリストフはこういうふうでは何にも聞き出しえないのを覚った。彼は肩をそびやかしながらそこにすわり、深い軽蔑の様子を見せた。エルンストは気色を損じて、また鉄面皮な言葉を言い出した。彼は兄の心を傷つけてやろうとつとめ、ますます下賤なことを述べたてた。クリストフはたけりたつまいと一生懸命に我慢した。がついに悪口の意味がわかると、かっと逆せてしまった。椅子から飛び上がった。エルンストは声をたてる隙もなかった。クリストフは彼の上に飛びかかり、室のまんなかで彼と組打をし、床に彼の頭をたたきつけた。被害者の恐ろしい叫び声をきいて、ルイザも、メルキオルも、家じゅうの者が駆けつけて来た。ひどい目に会ってるエルンストを、皆で助け出した。クリストフは放そうとしなかった。放させるには殴りつけなければならなかった。皆は彼を野獣だと呼んだ。彼は実際野獣のような様子をしていた。眼をむき出し、歯ぎしりをし、ふたたびエルンストに飛びかかろうとばかり考えていた。どうしたのかと尋ねられると、彼の狂暴はますますつのった。エルンストを殺してやると怒鳴った。エルンストも訳を話すことを拒んだ。
クリストフは食べることも眠ることもできなかった。彼は寝床の中で震え泣いた。彼が苦しんでるのは、ただオットーのためばかりではなかった。彼のうちに一つの革命が起こっていた。エルンストには、兄に与えた苦悶がどんなものであるか、ほとんど思いもつかなかった。クリストフはまったく清教徒的な一徹の心をそなえていた。その心は人生の汚辱を許すことができなかったし、それをしだいに見出してゆくごとに恐怖していた。十五歳になりながら、自由な生活をし強い本能をもっていたにもかかわらず、彼はまだ不思議なほど無邪気だった。生来の純潔さと休みなき勤労とのために、庇護されていた。ところが弟の言葉は、彼に深淵を開いてみせた。彼は自分の身にそういう醜汚をかつて想像だもしなかった。そして今、その観念が心のうちにはいってくると、愛し愛される喜びがすべて害されてしまった。オットーにたいする自分の友情ばかりでなく、あらゆる友情が毒されてしまった。
さらにひどいことには、ある厭味なあてつけの言葉を聞いてからは、自分がこの小さな町の不健全な好奇心の的になってると、おそらく誤解ではあったろうが、彼は思い込んでしまった。とくに、それからしばらくたって、オットーとの散歩についてメルキオルから注意を受けた。おそらくメルキオルは、悪意に解釈していたのではなかったろう。しかしクリストフは、前からのことが頭にあったので、いかなる言葉のうちにも疑念がこめられてるのを認めた。そしてほとんど自分が悪いとさえ考えていた。オットーも、同時に、同じような危機を通っていた。
彼らはなお、人知れず逢っていた。しかし以前のような打ち解けた談話をすることはもうできなくなった。彼らの隔てない間柄は変わってしまった。二人の少年は、きわめてはばかりがちな愛情で愛し合っていたので、かつて親しい接吻を交わしたこともなく、たがいに会ったり夢想をわかち合ったりすることを、無上の幸福だと思っていたのであるが、今や不正直な人々の邪推によって身を汚されるのを感じた。そして最も潔白な行動のうちにも、眼付や握手のうちにも、罪悪を見出すようになった。彼らは顔を赤らめ、よからぬ考えをいだいた。彼らの関係はたえがたいものとなった。
あらわにそれと言わずに、彼らはしだいに会うことが少なくなった。彼らはつとめて手紙を書いた。しかし言葉の使い方に用心した。手紙は冷やかな無味なものになった。彼らはがっかりした。クリストフは仕事を口実にし、オットーは多忙を口実にして、音信をやめた。間もなく、オットーは大学にはいるために出発した。数か月間二人の生活を輝かした友情は、まったく暗闇になった。
そしてまた、この愛情が先触にすぎなかったも一つの新しい愛は、クリストフの心を奪い、そこにあるあらゆる他の光を薄らがせてしまった。
[#改ページ]
三 ミンナ
それらのことから四五か月前に、枢密顧問官シュテファン・フォン・ケリッヒの未亡人となって間もないヨゼファ・フォン・ケリッヒ夫人は、亡夫の職務のため今までとどまっていたベルリンを去って、生まれ故郷であるライン河畔の小さな町に、娘とともに移り住んだ。彼女は町に、古い伝来の家をもっていたが、その家についてる大きな庭は、ほとんど公園かと思われるほどで、丘に沿って低くなってゆき、クリストフの家から遠くないところで、ライン河まで達していた。クリストフが家の屋根裏の室から眺めると、壁の外に垂れてる重々しい木の枝や、苔生した瓦屋根の真赤な高い頂などが見えた。ほとんど人通りもない小さな坂道が、庭の右に沿って通じていた。そこの標石の上によじ上ると、壁越しに覗き込まれた。クリストフもそれをやってみないではおかなかった。覗いてみると、草の生え込んだ径や、荒れた牧場のような芝生や、乱雑にこんがらかってる木立や、いつも雨戸が閉め切ってある家の白い正面などが、見られた。年に一、二回、植木屋が見回りに来て、家に風を通した。しかしその後で庭はまた自然のままになって、すべてが静寂にとざされるのであった。
その静寂にクリストフは心打たれた。彼はしばしばその眺め場所に人知れず上った。大きくなるにしたがって、眼が、次には鼻が、次には口が、壁の頂までとどくようになった。今では、爪先で伸び上がると、両腕を壁越しに差出すことができた。そういう姿勢は楽ではなかったが、彼は長くそのままの姿で、壁に頤をのせ、じっと眺めまた聴いていた。夕の光は芝生の上に穏かな金色の波を注ぎかけ、その波は樅の木立の影では、青みがかった反映に輝いていた。彼は街路をやって来る人の足音が聞えるまで、われを忘れてそこにぼんやりしていた。夜分には、庭のまわりに種々な香りが漂っていた、春はリラの香り、夏はアカシアの香り、秋には枯葉の香りが。クリストフは晩に宮邸から帰ってくる時、どんなに疲れていても、かならずその門のそばに立ち止まって、その快い空気を吸った。そして息臭い自分の室にもどるのが厭になった。彼はまた幾度も、ケリッヒ家の表門の前の、舗石に草のはえてる小さな広場で、遊んだ――遊ぶ時には――ことがあった。門の左右には、マロニエの老樹が一本ずつ立っていた。祖父もその根本にやって来て、パイプを吹かしながらすわった。そして子供たちには、木の実が弾丸や玩具となった。
ある朝、彼はその路次を通りかかって、いつものとおり標石によじ上った。ぼんやり眺めた。そしてまた降りようとした時、何か事変わった感じを受けた。彼は家の方へ眼を向けた。窓は皆開かれていた。日の光が家の中までさし込んでいた。人の姿は見えなかったが、その古い住宅は十五年間の眠りから覚めて微笑んでるように思われた。クリストフは変な気持になりながら家に帰った。
食事の時に父は、近所の噂の種となってることを話した。驚くほどたくさんの荷物をもって、ケリッヒ夫人と娘とがやって来た、ということだった。あのマロニエのあたりは、馬車の荷降ろしを見に来た好奇者でいっぱいだったそうである。クリストフの限られた狭い生活のうちにあっては、その話は重大な出来事だったので、彼はそれがたいへん気にかかった。そして仕事に出かけながらも、父の例のおおげさな話に従って、その不思議な家の主人公たちを想像してみようとした。それから仕事に心を奪われて、すっかり忘れてしまった。けれどもその夕方、家にもどる間ぎわに、すべてのことがまた頭に浮かんだ。すると好奇心に駆られて、例の眺め場所に上り、壁の中がどういうふうになってるか覗いてみた。ところが眼にはいるものはただ、静かな庭径ばかりで、そこにはじっと動かない木立が、太陽の名残の光のうちに眠ってるがようだった。しばらくすると彼は、好奇心の的をすっかり忘れてしまって、しみじみとした静けさのうちに浸っていった。その妙な位置は――標石の頂上に不安定に身を保って立つのであるが――彼の夢想には上乗の場所であった。空気のよく通わない薄暗いきたない路次から出ると、その日向の庭は夢幻的な輝きを帯びてるようだった。彼の精神はそのなごやかな場所のうちに漂っていった。種々の音楽が歌っていた。彼はその音楽のうちにうとうととした……。
かくて彼は、眼も口も開きながら夢想していた。そしてどれくらいの間夢想してたかみずから知らなかった。なぜなら、何にも眼にはいらなかったから。と突然、彼は駭然とした。前方に、径の曲り角のところに、二人の女が立って、こちらを眺めていた。一人は――黒服の若い婦人で、ほっそりとした不揃いな顔立をし、灰色がかった金髪をもち、背が高く、優美で、取り澄さない自然の首つきをしていたが――親切そうな揶揄的な眼で彼を見守っていた。も一人の方は――十五歳ばかりの娘で、同じく喪服ずくめであったが――放笑したくてたまらながってるような子供らしい顔付をしていた。ふり返りもしないでただ黙ってるようにと合図をしてる母親の少し後ろの方で、両手のうちに口を隠して、笑いを押えるのに一生懸命骨折ってるがようだった。色白な桃色の丸い顔をした小娘だった。心持ち太い小さな鼻、心持太い小さな口、ふっくらした小さな頤、細やかな眉毛、清らかな眼、豊かな金髪。その髪は網代に編まれて、頭のまわりにくるりと巻きつけられ、丸い首筋と艶のいい白い額とを現わしていた。――クラナハの絵にあるようなかわいらしい顔だった。
クリストフはその出現にびっくりした。逃げ出すこともできずに、その場に釘付けになった。そして若い婦人が、そのやさしい揶揄うような微笑を浮べながら、二三歩進んでくるのを見た時、彼は初めて身を動かして、壁土をいっしょにはね落しながら、標石から飛び――転げ落ちた。「坊ちゃん」となれなれしく呼びかける親切な声と、小鳥の声のように晴々した澄みきった子供らしい笑い声とが、耳に聞えた。彼は四つ這いになって路次の中に身を潜めた。そして間もなく狼狽の情が和らぐと、あたかもだれかに追っかけられるのを恐がったかのように、足に任して逃げ出した。彼は恥ずかしかった。その恥ずかしさは、家に帰って自分の室で一人になると、また激しく彼を襲ってきた。それ以来彼は、だれかに待伏せされてはすまいかという妙な恐れを感じて、もうその路次が通れなくなった。その家のそばを通らなければならない時には、壁に身を寄せ、頭を下げ、ふり向きもしないでほとんど駆けぬけた。それと同時に、あのやさしい二つの顔のことを考えやめなかった。足音を聞かれないように靴をぬいで、屋根裏の室に上っていった。そして種々くふうをしてはその軒窓から、ケリッヒ家の家と庭との方を眺めた。そのくせ彼は、木立の梢と屋根の煙筒しか見えないことをよく知っていた。
それから一か月後に彼は、宮廷音楽団が毎週催す定期演奏会で自作のピアノ協奏曲を一つひいた。その曲の終楽章の中ほどまでひいた時、彼は偶然、前面の桟敷に、自分の方を眺めてるケリッヒ夫人と娘とを認めた。あまりに意外だったので、茫然としてしまって、管弦楽に調子を合わせることさえ忘れかけた。協奏曲の終りまで機械的にひきつづけた。演奏が終ると、彼はその方を見まいとはしていたが、ケリッヒ夫人と令嬢とが見てくれと言わんばかりにややおおげさに拍手してるのが、眼にはいった。彼は急いで舞台を離れた。劇場から出ようとする時、廊下で、立並んでる人々に隔てられて、自分が通るのを待ち受けてるらしいケリッヒ夫人の姿を、彼は認めた。彼は夫人を見ないわけにはいかなかった。けれども目につかないふうを装った。そして後に引返しながら劇場の通用門からあわてて出て行った。その後で、彼はそれをみずからとがめた。なぜなら、ケリッヒ夫人がなんらの悪意もいだいてないことをよく承知していたから。しかし、またそんな場合になったら、自分はやはり同じようなことをするだろうと、みずから知っていた。彼は往来で夫人に会うのを恐れた。夫人に似た姿を遠くに見かけると、彼は道をそらすのであった。
夫人の方から彼を追っかけて来た。
ある朝、彼が昼食のために家へ帰ると、ルイザは得意になって、仕着せをつけた従僕が彼あての手紙を届けてきたと話した。そして黒枠のついた大きな封筒を彼に渡した。裏にはケリッヒ家の紋章が印刻してあった。クリストフはそれを開いて、震えながら読んだ――まさしく次のとおりに。