あらすじ
芥川龍之介と谷崎潤一郎は、ある夏の午後、神田を散策に出かけます。谷崎氏は、赤い襟飾りが印象的な黒背広を身につけ、街行く人々の視線を一身に集めていました。芥川氏は、谷崎氏の襟飾りに象徴されるロマンティシズムを感じますが、谷崎氏はそれを認めようとしません。やがて二人は裏神保町の喫茶店で喉を潤します。そこに現れた女給は、谷崎氏の胸元を覗き込み、「好い色のネクタイをしていらつしやるわねえ」と声をかけます。芥川氏は、その言葉に秘められた深遠な意味を感じ、女給にチップを渡すのでした。「ありや君を見るんだよ。そんな道行きなんぞ着てゐるから。」
僕は成程夏外套の代りに親父の道行きを借用してゐた。が、道行きは茶の湯の師匠も菩提寺の和尚も着るものである。衆俗の目を駭かすことは到底一輪の紅薔薇に似た、非凡なる襟飾りに及ぶ筈はない。けれども谷崎氏は僕のやうにロヂックを尊敬しない詩人だから、僕も亦強ひてこの真理を呑みこませようとも思はなかつた。
その内に僕等は裏神保町の或カッフエへ腰を下した。何でも喉の渇いたため、炭酸水か何か飲みにはひつたのである。僕は飲みものを註文した後も、つらつら谷崎氏の喉もとに燃えたロマンティシズムの烽火を眺めてゐた。すると白粉の剥げた女給が一人、両手にコツプを持ちながら、僕等のテエブルへ近づいて来た。コツプは真理のやうに澄んだ水に細かい泡を躍らせてゐた。女給はそのコツプを一つづつ、僕等の前へ立て並べた。それから、――僕はまだ鮮かにあの女給の言葉を覚えてゐる! 女給は立ち去り難いやうにテエブルへ片手を残したなり、しけじけと谷崎氏の胸を覗きこんだ。
「まあ、好い色のネクタイをしていらつしやるわねえ。」
十分の後、僕はテエブルを離れる時に五十銭のティップを渡さうとした。谷崎氏はあらゆる東京人のやうに無用のティップをやることに軽蔑を感ずる一人である。この時も勿論五十銭のティップは谷崎氏の冷笑を免れなかつた。
「何にも君、世話にはならないぢやないか?」
僕はこの先輩の冷笑にも羞ぢず、皺だらけの札を女給へ渡した。女給は何も僕等の為に炭酸水を運んだばかりではない。又実に僕の為には赤い襟飾りに関する真理を天下に挙揚してくれたのである。僕はまだこの時の五十銭位誠意のあるティップをやつたことはない。
了
底本:「芥川龍之介全集 第十巻」岩波書店
1996(平成8)年8月8日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:松永正敏
2002年5月17日作成
2012年5月6日修正
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