伝統の否定と一口に言うけれども、伝統は全て否定しなければならぬというものではなくて、すでに実質を失いながら虚妄の空位を保って信仰的な存在をつゞけていることが反省され否定されなければならぬというだけだ。実質あるものは否定の要なく、又、伝統に限らず、全て、実質を失いながら虚妄の権威を保つものは、反省され、否定される必要があるだけだ。
 時代の流行というものは、常に多分に、伝統と同じぐらい空虚なものであり易い。それというのが流行を支える大多数の個人が決して誠実な省察を日常の友とはしていないからで、尚いけないことは、時代の指導的地位にある人々、ジャーナリスト、教授、執筆者、必ずしも誠意ある思索家、内省家ではない。
 例を私の身辺にとっても、大多数の人々は読みもせぬ小説を批評しているから、魔法使いのようなものだ。×なんて作家つまらんですな。君よんだのかい。いゝえ、みんなそう言ってますよ、とくる。肉体の門てしからんエロ芝居ですね。君見たのかい。いゝえ、エロだから見ないんです。私がこう書くと皆さんアハハと笑いだすかも知れないが、そういう方々の何割かが実は日常かゝる奇怪な論証法を友としておられる筈だ。
 これが一般読者ばかりではないのである。批評家が、そうだ。文士にも、そういう方がある。そして読みもせぬ半可通を堂々と発表する。
 バルザックとかモウパッサンとかいうと、常に歴史的に批評する。その全作品を読んで、時代的な意味を見る。ところが、同じ批評家が、現代に就ては、一ツ二ツの短篇を読んだだけで、作者全部のものをキメつけてかゝってくるから勇ましい。
 現代文学の貧困、などゝ近頃のハヤリ言葉であるが、こういうことを言う人は、すでに御当人が阿呆なのである。
 老人というものは、口を開けば、昔はよかった、昔の芸人は芸がたしかであった、今の芸人は見られないと言う。何千年前から、老人は常にそう言うキマリのものなのだ。それは彼らが時代というものに取り残されているからで、彼らの生活が、すでに終っているからだ。
 芸術というものは、その実際のハタラキは芸という魔法的なものではなくて、生活でなければならぬ。それが現実の喜怒哀楽にまことのイノチをこめてはたらくところに芸術の生命があるのであり、だから、その在り方は芸術というよりも生活的なものだ。
 昔はラモオだのバッハだのモオツァルトが日常生活の舞踏の友であった。元来は生活的なものだ。それが今日は生活を離れた典雅なものとなって、時に人々は、その典雅が芸術の本質だと思いがちだが、これが、つまり、老人のクリゴトと同じ性質のものだ。
 現代の若者たちは狂躁なジャズのリズムにのってカストリの濛気をフットウさせカンシャク玉がアバレルようなアンバイ式に一向に芸術的ならぬ現実的エロを味い、甚だもって高遠ならざる恋をさゝやく。
 この現代の狂躁のみをこめたようなジャズの悪音響も、やがては典雅となる筈である。現代そのものは常にまったく典雅ではない。現代は歴史ではなく、生活それ自体だからだ。生活自身は歴史的に観察整理され得ざるところに本領があり、どこの地獄へ流れつくのか見当のつかない曠野の遍歴と自らの何者たるかを知らないバカ者、つまり生活しつゝある人間一匹がいるのみなのである。
 歴史と現実をゴッチャにして、現代の貧困などゝ言う奴は、つまり研究室の骨董的老人で、時代に取り残された人、即ち自ら生活せざる愚人であるにすぎない。
 歴史的な観察法は現代には通用しないものだ。なぜなら、人間と一口に言うが、いわゆる人間一般と、自分という五十年しか生きられない人間とは違う。人間は永遠に在るが、自分は今だけしかない。そこに現代というものゝ特性があり、生活というものが歴史的な観方と別に現実だけのイノチによって支えられているヌキサシならぬ切実性があるのである。
 これを知れば、現代の貧困などゝいう言葉は在り得ない。現代は貧困でも豊富でもない。現代は常にたゞ現実の生活であり、ギリギリの物なのである。

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 日本の伝統が、主として偶像的虚妄の信仰であることゝ同様に、外国文学の公式的な移入にも、同様な偶像信仰がつきまとっているものだ。
 近ごろの日本文壇では、スタンダールと云えば、何かもう、絶対のように考えられているが、私はおかしくて仕方がない。織田作之助など、自分を二流と云い、スタンダールを一流と云い、二流の中には僕も含まれているらしいが、バカバカしい話である。
 私は自分を何流とも考えないが、スタンダールよりも下の作家だとは思っていない。スタンダールの作品は、人間が紋切型で、分りきっていて、退屈で、私はバカらしいと思う。スタンダール以前の「危険な関係」の方が、はるかに人間通であり、簡潔であり、新鮮である。
 生活する人間にとっては、スタンダールの文章など、読めないのが当然だと私は思う。学究とか隠者とか、生活から距てられた骨董的老人が、愛読し、そして現代をのゝしるヨスガとする性質の、それも亦骨董品の一つではないかと私は考えているのである。

底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新小説 第三巻第一号」
   1948(昭和23)年1月1日発行
初出:「新小説 第三巻第一号」
   1948(昭和23)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年2月15日作成
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