この著作を刊行するに当つてラクロは神経を使つたらしい。それで序文に、悪人の手管てくだを暴露することは良俗に貢献するであらうなどと効能を述べてゐるが、それでも尚、自信がなく、非難すべき根拠に就て自覚をいだいてゐたことは序文が語る通りである。
 そしてラクロがどのやうにこの一書の効能をのべたて、ひけらかしてみたところで、事実に於て「良俗」に反することを御当人が自覚しない筈はない。そのことは現在日本に於ける情痴作家坂口安吾とても同じことで、これは人間の書物である、とか、だから又モラルをとく書物であるとか述べてみたところで、最も単純直接の意味に於て極めて率直に「良俗」に反する悪徳の書であることは論をまたず、当人が自覚してゐるものである。
 千七百八十二年刊行の本書に著者はルソーの句をかりて「現代の世相を見て余はこの書簡集を公にした」といふ。その筆法では一九四七年の現代でも同じ文句で間に合ふ筈で、これは醇風良俗に進歩がなかつたせゐばかりでなく、最も決定的な理由は、この本が人間性の真相を道破してゐる、だから、どうにも仕方がない、といふ意味に於てだ。
 たいがい小説には多かれ少かれ作者の思想めくものが作中人物を思想的に動かしてゐるもので、さうすることによつて、さうしなかつたよりも曰くありげな面魂を作りだし、その作品の声価を高めたり低めたり、評者の評語を強いたりしてゐるものだ。又、それによつて、文学史上の位置を占めることにもなる。
 ところがラクロの「危険な関係」に至つては、作者の思想が作中人物に及ぶといふところが全くないに等しい、よつて又、文学史上の位置も有つて無きが如く、無くて有る如く、アイマイ、モコたるものでジッドの讃辞にも拘らず、ジッド宗徒のたむろする日本フランス文学者の間ですら、一向に声価は上らなかつた。
 ここには一つの「眼」があるけれども、思想がない。小林秀雄は兼好法師の眼に就て論ずるところがあつたけれども、兼好の眼とラクロの眼は大変違ふ。兼好の見た人間の実相とラクロの見た人間の実相は甚しく相違してゐるのである。
 思想によつて動くことのない眼だと小林が徒然草の作者に就て言ふ言葉はラクロに就ても言へるけれども、徒然草の作者が否定的に見てゐることをラクロは肯定的に見てをり、否定的態度といふものが実はそれ自体強力な思想でありモラルであるのに比べて、肯定的態度といふものは決して自ら思想を構成するものではない。ただ人間とその実相があるのみであり、それは即ち兼好は世捨人であつたに比して、ラクロは凡そ一つも世を捨てる片鱗もない生活人であつた。この二つの決定的な相違は、一つの眼の及ぶ視界にも決定的な相違を現はし、従つて、兼好の眼は思想によつて動くことのない眼などといふ冷厳なものではなくて、世捨人の思想によつて曲げられた通俗的なフシアナの眼であつたにすぎない。
 二十世紀の私はラクロの如くに私の作品に「反良俗の弁」を書くほどの含羞はすでに無い。それは恐らくラクロの方が私以上に「良俗」に就て侮蔑的であつたせゐだと私は思ふ。「現代の世相」と云ひ、良俗を時代的な意味に解したラクロに比べれば、私は人間性を無限なるものに解すると同様に、良俗をも無限なるものに解してゐる。
 人間性といふものが人間の現世に正しく復帰するといふことは恐らく永遠に有り得ないと私は思ふ。いつ如何なる現世に於ても、常に現世の良俗といふものが存在して、人間性をゆがめ、各自反逆し合ふタテマヘを免れ得ないに相違ない。
 社会的なる人間と個人的なる人間と、その二つが相反せざる唯一のものとなり得る時があるだらうか。思ふに現世の良俗は破れたふくろを縫ふやうな間に合せな稚拙なカリヌヒであるにしても、あらゆる現世に於て多かれ少かれカリヌヒであることはその宿命で、良俗に就てかかる絶望的な宿命を確認することは、良俗への侮蔑の念を失ふ根柢ともなるものである。良俗はタカの知れたものではあるが、それが永遠にかかるものでしか有り得ないと見るときには、タカの知れたものであるまま、その意味を認めて何等かの協力を致さざるを得なくなるであらう。
 それにも拘らず、人間性といふものは、その実相を率直に指し示すことによつて、良俗と相容れ協力する余地はない。その実相に於いて直接相反するものであることは如何ともなしがたいものである。
 然し、直接に不協力の意味に於て、人間性の冷酷な写実を悪徳と見るのは当らない。なぜなら、人間はかくの如きものであるのだ。あらゆる良俗に反するにしても、常に人間がかくの如きものであることに於いて変りはないから。

「危険な関係」が二百余年の時間の距りにも拘らず、最も近代を思はせるものは、それが思想によつて書かれずに、眼によつて、鬼の眼によつて、不動の眼によつて書かれてゐるからだと私は思ふ。伊勢物語や西鶴の作品に近代の感覚が漂ふのは、その思想によつてでなく、ラクロに近似したその眼によつてのことである。
 近くはレエモン・ラディゲがさうであり、人は彼が時間的に近代の人であるため、彼に時間的な近代を認めがちだが、単に昔ながらの文学の宿命的な近代、つまり人間を眼によつて描いてゐるにすぎないのである。
 そしてラディゲが、同じ一つの眼によるに拘らず、少年の作品であるとすれば、ラクロはより成熟した作品で、その意味に於ては、「ドルジェル伯の舞踏会」を昔に、「危険な関係」をより近代の作品に見たてても差支へがない程である。
 つまりラディゲの窓からは、まだ肉体の人間関係が閉ざされてをり、彼のエスプリ、彼の眼は、ただ思慕や姦淫の念とその裏側のカラクリをめぐる人間戯楽の図絵を突きとめ得たにすぎない。ラディゲにも Diable au corps といふ十何歳かの作品があるけれども、その魔の宿る肉体は幻想的な自涜的肉体であるにすぎず、肉体によつて始まる愛憎、精神、真にぬきさしならぬ人間関係は全く描かれてはゐない。そのやうな人間と人間関係を見る眼の成熟のためには、ラディゲの天才を以てしても、二十三歳の年齢では如何ともなしがたい性質のものなのである。
 ラクロやラディゲの人間は十八世紀でもなく二十世紀でもない。ギリシャの昔から、未来永劫に至る人間で、ラスコリニコフが十九世紀乃至二十世紀にしか生息し得ないであらうことに比べて、現世的な活力は謙虚であつても、その人間的実在は一つの絶対を道破してゐるものなのである。
 思想は、そして思想的人物は、その思想によつて最も強力な現世的実在でありうるけれども、又、思想の故によつて老い、亡びるものでもある。そこには現世の良俗と直接取引が行はれてゐるから。
 ラクロにはその序文に現れた処世の悩みにも拘らず、その作品には、現世の良俗と取引するところは一つだにない。然し、法院長夫人の悲劇はあらゆる時代に存し、侯爵夫人も子爵も我々の身辺に又我々自身に実在し、可憐なセシル・ボランヂュは常にかくの如く我々の身辺に成熟しつつあるではないか。
 我々の良俗の根拠が、この事実に眼を覆ふて、それが健全でありうるだらうか。
 禁忌による現実の畸型化は禁忌の解放によつて一応は整型しうる筈である。世のあらゆるセシル・ボランヂュも法院長夫人も、学窓の頃からその師と共にかかる一書をひもとかれるがよい。それによつて堕落するためではなく、それによつて自らその魂の純潔を深くせしめるために。なぜなら、良俗が如何に眼を覆ふにしても、それが人間の姿なのだから。それ故、それが又、あなた自身の姿でもあるのだから。
 この人間を直視するところから、我々の良俗を培ふことが必要なだけだ。

底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「世界文学 第一四号」
   1947(昭和22)年10月10日発行
初出:「世界文学 第一四号」
   1947(昭和22)年10月10日発行
入力:tatsuki
校正:oterudon
2007年7月15日作成
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