序記 国土成生の伝説

 大正十二年九月一日の大地震及び地震のために発したる大火災に遭遇して、吾吾日本人は世界の地震帯に縁取ふちどられ、その上火山系の上に眠っているわが国土の危険に想到して、今さらながら闇黒な未来に恐怖しているが、しかし考えてみれば、吾吾は小学校へ入った時から、わが国土が地震と火山とに終始していて、吾吾国民の上にはのがれることのできない宿命的な危険が口を開いて待っているということを教えられていたように思われる。それは日本歴史の初歩として学ぶ国作りの伝説である。
 国作りの伝説は、「古事記」や「日本書紀」によって伝えられたもので、荒唐無稽な神話のように思われるが、わが国土が地震帯に縁取られ火山脈の上にいるということから考え合わすと、決して仮作的な伝説でないということが判る。「日本書紀」には、「伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみこと、天の浮橋の上に立たして、共に計りて、底つ下に国や無からんとのり給ひて、すなはあめ瓊矛ぬぼこを指しおろして、滄海を探ぐりしかばここに獲き。その矛のさきよりしたたる潮りて一つの島と成れり。※(「石+殷」、第3水準1-89-11)馭盧おのころ島と曰ふ。二神是に彼の島に降居まして、夫婦して洲国を産まんとす。便ち※(「石+殷」、第3水準1-89-11)馭盧島をもて国の中の柱として、(略)産みます時になりて、先づ淡路洲を胞となす。(略)廼ち大日本豊秋津洲を生む。次に伊予の二名洲を生む。次に筑紫洲を生む。次に億岐おき洲と佐渡洲を双子に生む。(略)次に越洲を生む。次に大洲を生む。次に吉備子洲を生む。是に由りて大八洲国と曰ふ名は起れり。即ち対馬島、壱岐島及び処処の小島は皆潮沫の凝りて成れるなり。また水沫の凝りて成れりと曰ふ。次に海を生む。次に川を生む。次に山を生む。次に木祖句句廼馳を生む。次に草祖葺野姫を生む」としてあって、歴史家はこれを日本民族が日本島国発見の擬人化神話としているが、私はそれを地震と火山の活動による土地の隆起成生とするのである。
 今回の地震には、房総半島の南部から三浦半島、湘南沿岸、鎌倉から馬入ばにゅう川の間、伊豆の東部などは、土地が二尺乃至三四尺も隆起したということであるが、それはアメリカの西海岸からアラスカ群島、千島群島をかすめて、表日本の海岸に沿うて走っている世界最大の地球の亀裂線、専門家のいわゆる外測[#「外測」はママ]地震帯の陥没から起ったもので、元禄十六年の地震は、その地震帯の活動の結果であると言われている。要するにわが国は、こういうふうに外側地震帯及び日本海を走っている内側地震帯の幹線に地方的な小地震帯がたくさんの支線を結びつけているうえに、火山脈が網の目のようになっているから、その爆発に因る地震も非常に多く、従って土地の隆起陥没もまた多い。天武天皇の時大地震があって、一夜にして近江の地が陥没して琵琶湖が出来ると共に、駿河に富士山が湧出したという伝説も、その間の消息を語るものである。安永八年の桜島の爆裂には、その付近に数個の新島嶼とうしょを湧出した。「地理纂考」によると、「安永八年己亥十月朔日、桜島火を発し、地大に震ひ、黒烟天を覆ひ、たちまち暗夜の如し、五日経て後、烟消え天晴る、十四日一島湧出す、其翌年七月朔日水中に没す、是を一番島と言ふ、同十五日又一島湧出す、是を二番島と言ふ、俗に猪子島と称す、己亥十月化生の故なり、同十一月六日の夜、又一島湧出す、是を三番島と言ふ、同十二月九日夜、又一島湧出す、是を四番島と言ふ、三四の両島は硫黄の気あり、因て俗に硫黄島と称す、同九年庚子四月八日、二島相並び又湧出す、五月朔日に至つて自ら合して一島となる、是を五番島と言ふ、今俗に安永島と称す、同六月十一日又一島湧出す、是を六番島と言ふ、同九月二日又一島湧出す、是を七番島と言ふ、同十月十三日又一島湧出す、是を八番島と言ふ、後七八の両島合して一島となれり、因て併せ称して六番島と言ふ、(略)炎気稍退き、五島全く其形を成す、即ち其二番三番四番五番六番の五島、併せて新島と名づく、其中五番島最大にして其周廻二十町、高さ六丈なり、草木発生し、水泉迸出す、於是ここに寛政十二年閏四月、島(桜島)民六口を此島に移す」としてあって、大小こそあれ八島の湧出したことは、大八洲成生の伝説を髣髴ほうふつさすものではないか。
 こうしてシナ朝鮮の大陸を根の国として、遊ぶ魚の水の上に浮ける如きわが日本の国土は成生したのであるが、それと共にこうした伝説の下に成生した国土には、一番島と背中合せの運命を担っているという不安さを感ぜずにはいられない。天武天皇十二年、俗に白鳳の地震と言っている地震に、土佐の田苑五十万けいが陥没して海となったという伝説のあるなども、それを裏書してあまりあるように思われる。

     一 斉衡元暦の地震、安元の火事

 日本の地震で最初に文献にあらわれているのは、「日本書紀」の允恭天皇の五年七月、河内国の地震で、次が推古天皇の七年四月の大和国の地震である。西紀は河内の地震が四百十六年で、大和の地震が五百九十九年である。そのうちで大和の地震はかなり大きかったと見えて、「書紀」にも「七年夏四月乙未朔、辛酉、地動き、舎屋悉く破る、即ち四方に令し、地震の神を祭らしむ」と言ってある。
 日本の地震は允恭天皇の五年から今日に至るまで約千五百年間の歴史を有し、回数約千四百回をかぞえることができる。そのうちで上代の地震は、後鳥羽天皇の元暦文治のころにかけて三百七八十回の地震の記録があるが、その十分の九は山城地方、わけて京都がそれを占有している。それは文化の中心地として記録の筆が備わっていたためであろう。
 その京都の地震で天長四年七月に起った地震は、余震が翌年まで続いた。斉衡三年三月八日の大和地方もひどかったと見えて、「方丈記」にも「むかし斉衡の比かとよ、大地震おほなゐふりて、東大寺の仏のみぐし落ちなどして、いみじきことども侍りけれ」と奈良の大仏の頭の落ちたことを記載してある。貞観十年七月の地震は、京都というよりは山城一円と播磨とに跨っていた。元慶四年十月の地震は、京都と出雲が震い、同年十二月には、京都付近が震うた。仁和三年七月の地震は山城、摂津をはじめ五畿七道にわたった大地震で、海に近い所は海嘯つなみの難を被ったが、そのうちでも摂津の被害は最も甚だしかった。元慶元年四月の地震には、京中を垣墻悉く破壊し、宮中の内膳司屋顛倒して、圧死者を出した。陰陽寮で占わすと東西に兵乱の兆があると奏した。天慶は将門純友の東西に蜂起した年である。貞元元年六月の地震は、山城と近江がひどく、余震が九月まで続いた。延久二年十月の地震は、山城、大和の両国が強く、奈良では東大寺の巨鐘が落ちた。山城、大和の強震は、その後寛治五年にも永長元年にも治承元年にもあって、東大寺に災してまた巨鐘を落した。
 元暦二年七月の地震は「平家物語」に「せきけんの内、白川の辺、六せう寺皆破れくづる、九重の塔も、上六重を落し、得長寺院の三十三間の御堂も、十七間までゆり倒す、皇居をはじめて、在在所所の神社仏閣、あやしの民屋、さながら皆破れくづるる音はいかづちの如く、あがる塵は煙の如し、天暗くして日の光りも見えず、老少共に魂を失ひ、調咒ことごとく心をつくす」と言ってある。「大日本地震史料」にこれを文治元年七月九日と改めてある。この地震は九月まで余震が続いた。区域は、山城、近江、美濃、伯耆の諸国に跨っていた。これには宇治橋が墜落し、近江の琵琶湖では湖縁の土地が陥落し、湖の水が減じたらしい。
 近畿以外の地では、天武天皇の六年十二月に筑紫に大地震があって、大地が裂け、民舎が多く壊れた。同十二年十月には諸国に地震があって、土佐が激烈を極めた。これがいわゆる白鳳の地震で、土佐では黒田郡の一郡が陥没したと言い伝えられている。霊亀元年五月には、遠江国に大地震があって、山が崩れて※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)玉河を壅いだが、続いてそれが決潰したので、敷智、長下、石田の三郡の民家百七十余区を没した。天平六年四月には、畿内七道皆地震がし、同じく十七年四月には、美濃、摂津両国に地震があった。この両国の地震は美濃がひどく、多く人家を壊ったが、これは明治二十七年の濃尾の地震を思い合わせるものがある。天平宝字六年五月になって、また美濃をはじめ、飛騨、信濃の諸国に地震があった。天平神護二年六月には、大隅国神造新島、弘仁九年七月には、相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野の諸国、天長七年一月には、出羽に地震があった。その他、三河、丹波、伊豆、信濃、出羽、越中、越後、出雲にも大きな地震があったらしい。
 貞観六年七月には富士山の噴火に伴うて大地震があって、噴出した鑠石は本栖、※(「(戈/戈)+りっとう」、第3水準1-14-63)の両湖をはじめ、民家を埋没した。富士山は既に延暦二十年三月にも噴火し、その後長元五年にも噴火したが、この噴火とは比べものにならなかった。貞観六年十月には、肥後の阿蘇山が鳴動して、池の水が空中に沸きあがったが、その九年五月になって噴火した。豊後の鶴見山もその年の一月に噴火した。貞観は天変地異の多い年であった。十一年五月には、陸奥に地震があって海嘯が起り、無数の溺死人を出したが、これは明治二十九年の三陸海嘯の先駆をなす記録であろう。元慶二年九月に相模、武蔵をはじめ関東一円に地震があった。仁和二年五月二十四日の夜には、安房国の沖に黒雲が起って、雷鳴震動が徹宵止まなかったが、朝になってみると小石や泥土が野や山に二三寸の厚さに積んでいた。この現象は海中の噴火か、それとも三原山の噴火か、その原因は判らない。
 この不可思議にしてはかられざる自然の脅威に面して、王朝時代の人はいかに恐怖したことであろう。いかに無智の輩でも地震がどうして起るかぐらいのことを知らない者のない現代においてさえ、一朝今回のような大地震に遭遇すると、大半は周章狼狽すところを知らなかった。世の終りを思わすような激動が突如として起り、住屋を倒し、神社仏閣を破り、大地を裂き、その裂いた大地からは水を吹き、火を吐き、海辺の国には潮が怒って無数の人畜の生命を奪うのに対して、茫然自失、僅かに地震の神を祭ってその禍を免れようとしたのは無理もないことである。後世からは、和歌連歌に男女想思の情を通わして、日もこれ足りないように当時の文華に酔うていたと思われる王朝時代の人人も、そうした地震に脅かされる傍、火に脅かされ、風に脅かされた。「方丈記」にも、「去にし安元三年四月二十八日かとよ、風烈しく吹きて静かならざりし夜、亥の時ばかり、都の巽より火出で来りて、乾に至る。はては朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで移りて、一夜の程に塵灰となりにき。火本は樋口富小路とかや、病人を宿せる仮家より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き辺はひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたれば、火の光を映じて普く紅なる中に、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして、一二町を越えつつ移り行く、その中の人現心あらんや。或は烟にむせび倒れ伏し、或は焔にまかれて忽ちに死に、或は又僅かに身一つ辛くして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝、さながら灰燼となりにき」と書いてある。火は時時皇居も焼いた。その火は失火もあるが盗賊が掠奪のための放火もあった。その盗賊は綱紀の緩んだのに乗じて京都の内外に横行した。袴垂、鬼童、茨木、一条戻橋の鬼なども、その盗賊の一人であろう。

     二 地震海嘯の呪いある鎌倉

 地震の記録をあさってみると、地震は政権に従って移動しているような観がある。藤原氏の手から政権を収めていた平氏が破れて、源氏が鎌倉に拠ると、元暦元年十月を初発として鎌倉に地震が頻発した。それは王朝時代には僻遠の地として、武蔵、相模の名で大掴みに記されていたものが、文化の発生と共に細かなことまで記される余裕ができたためか、それとも武蔵、相模方面の活動期になっていたのに偶然に遭遇したためであるか。その鎌倉には幕政時代の終りごろまで百四五十回の地震があって、骨肉相食あいはんだ鎌倉史の背景となって、陰惨な色彩をいやがうえにも陰惨にして見せた。
 その鎌倉の地震のうちで大きかった地震は、建保元年五月の地震で、それには大地が裂け、舎屋が破壊した。この建保年間には、元年から二年三年と続けて十数回の強震があった。安貞元年三月にも大地震があって、地が裂け、所所の門扉築地ついじが倒れた。古老はこれを見て、去る建暦三年和田佐衛門尉義盛が叛逆を起したころにも、こんな大地震があったと噂しあったということである。仁治元年四月の地震には海嘯つなみがあって、由比ヶ浜の八幡宮の拝殿が流れた。建長二年七月の地震は余震が十六度に及んだ。
 正嘉元年八月の地震は、最もひどい地震で、関東の諸国にも影響を及ぼしている。それには神社仏閣、人家はもとより立っている建物の一軒もないように潰れ、山が崩れ、地が裂け、地の裂け目からは、泥水を吹き、青い火を吹いて、余震は月を越えた。そしてその翌年の八月に大風があり、三年に大飢饉があり、正元に入ってから二年続けて疫病があったので、日本全国の同胞は大半死につくしたように思われた。日蓮の立正安国論はこの際に出たものである。
 永仁元年四月の地震も、正嘉の地震に劣らない地震であった。そのころは怪しく空が曇っていて、陽の光も月の光もはっきり見えなかったが、その日は墨の色をした雲が覆いかかるようになっていた。そして榎島の方が時時震い、沖の方がひどく鳴りだした。これはただごとではない、また兵乱の前兆か、饑饉疫癘の凶相かと、人人が不思議がっていると、午の刻になって俄かに大地震となり、海嘯が起った。倒壊した主なものは政庁、鶴岡若宮、大慈寺、建長寺であったが、建長寺からは火が起った。その時の死者は二万三千余であったと言われている。王朝時代のことは判らないが、これによって見ても鎌倉は昔から地震の呪いのある土地であるらしい。

     三 天正の災変、慶長の地震

 鎌倉幕政時代の末期、即ち後醍醐天皇の即位の前後から吉野時代、室町時代、安土桃山時代にかけては、戦乱に次ぐに戦乱を以てして、日本全国戦争の惨禍に脅かされて、地震の記録も閑却せられていたかの観があるが、それでも慶長のはじめにかけて約六百回の地震の記録がある。
 正中二年十月と言えば、後醍醐天皇が、藤原資朝、藤原俊基等の近臣と王政の復古をはかって、そのはかりごとれたいわゆる正中の変の起った翌月のことであるが、その二十一日に、山城、近江の二箇国に強震があって、日吉八王子の神体が墜ち、竹生島が崩れた。そして元弘元年七月には、紀伊に大地震があって、千里浜の干潟が隆起して陸地となり、その七日には駿河に大地震があって、富士山の絶頂が数百丈崩れた。この七月は藤原俊基が関東を押送せられた月で、「参考太平記」には、「七月七日の酉の刻に地震有りて、富士の絶頂崩ること数百丈なり、卜部宿禰うらべのすくね大亀を焼いてうらなひ、陰陽博士占文を開いて見るに、国王位をへ、大臣災に遇ふとあり、勘文の面穏かならず、尤も御慎み有るべしと密奏す」とあって、地震にも心があるように見える。
 正平年間は非常に地震の多い年で、約百回も地震の記録があるが、そのうちで大きかったのは、五年五月の京都の地震で、祇園神社の石塔の九輪が墜ちて砕けた。十六年六月には山城をはじめ、摂津、大和、紀伊、阿波の諸国に大地震があって、摂津、阿波には海嘯つなみがあった。そして最後の二十四年七月にも京都に大地震があって、東寺の講堂が傾いた。それから応永年間も地震の多い年で、約八十回にわたる記録が見える。そのうちで七年十月には伊勢国に大地震があって、京都の地も震うた。三十二年十一月には京都ばかりの大地震があった。
 永享五年一月には、伊勢、近江、山城に、同年九月には相模、陸奥、甲斐に、宝徳元年四月には山城、大和に、文正元年四月には山城、大和に、明応三年五月にはやはり大和、山城に大地震があったが、明応三年五月の地震は大和が最も強く、奈良の東大寺、興福寺、薬師寺、法花寺、西大寺の諸寺に被害があった。同七年八月には、伊勢、遠江、駿河、甲斐、相模、伊豆の諸国に大地震があって、海に臨んだ国には海嘯があった。この海嘯には伊勢の大湊が潰れて千軒の人家を流し、五千の溺死人を出したが、鎌倉の由比ヶ浜にも二百人の犠牲者があった。また遠江の地が陥没して浜名湖が海と通じた。この月は京都にも奈良にも、陸奥にも会津にも強震があって、余震が月を重ねた。その明応には九年六月にも甲斐の大地震があった。文亀になってその元年十二月越後に、永正になってその七年八月に、摂津、河内、山城、大和に大地震があって、摂津には海嘯の難があった。
 大永五年八月には鎌倉に、弘治元年八月には会津に、天正六年十月には三河に、同十三年十一月には、山城、大和、和泉、河内、摂津、三河、伊勢、尾張、美濃、飛騨、近江、越前、加賀、讃岐の諸国に大地震があって、海に瀕した国には海嘯があった。
「豊鑑」には「天正十二年霜月廿九日子の刻ばかりにやおびただしくなゐふりけり、その様いはん限りなし、いにしへもたびたび大なゐふりけると記しをれども、眼あたりかかることなんめづらかなる。伊勢、尾張、美濃、近江、北陸、道分てありけりとなん、浦里などは、さながら海へゆり入り、犬※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)などの類まで跡なくなりし所所ありとなん、家などひしげし内にありながら、さすが死にもやらざりしに、火もえつきて焼死、さけぶこゑ哀など思ひやるさへたへがたくなん、此のわざはひにあひて、国国里里、命を失ふ者際限なかるべし、常のなゐなどのふる事、明る春二月まで、そのなごりたえざりけり」としてある。
 その天正十三年は秀吉が内大臣となった年で、国内の紛乱がやや収まって桃山時代の文化が生れたところであった。その十七年二月にも、駿河、遠江、三河にまた大地震があった。慶長に入るとその元年閏七月になって、二回の大地震が起った。はじめの地震は、豊後、薩摩の二箇国がひどく、豊後の府内の土地が陥没して海嘯が起った。その日は京都にも地震があった。「梅園拾遺」には、「ちかく慶長元年七月、大地震速見高崎山なども石崩れ落ち、火出たるよし、府内の記事に見えたり。この時かのあたり人七百余も損じたりとあり」と書いてある。つぎの地震は、山城、摂津、和泉の諸国の大地震で、伏見城の天守が崩壊して圧死者が多かった。この伏見の地震は、河竹黙阿弥の地震加藤の史劇で有名な地震で、石田三成等の纔者ざんしゃのためにしりぞけられて蟄居ちっきょしていた加藤清正は、地震と見るや足軽を伴れて伏見城にかけつけ、城の内外の警衛に当ったので、秀吉の勘気も解けたのであった。
 慶長も非常に地震の多い年であった。十九箇年間に約八十もあった。そのうちで大きかったのは元年の二回の地震の他に、九年十二月と十六年十月と十九年十月の大地震である。九年の地震は、薩摩、大隅、土佐、遠江、伊勢、紀伊、伊豆、上総、八丈島などで、海には海嘯つなみが吼えた。
「土佐国群書類従」に載せた「谷陵記」には、「崎浜談議所の住僧権大僧都阿闍利暁印が記録略に曰く、慶長九年災多し、先づ一に七月十三日大風洪水、二に八月四日大風洪水、三に閏八月二十八日又大洪水、四に十二月十六日夜地震、同夜半に大潮入つて、南向の国は尽く破損す、西北向の国は地震計りと言ふ、当所(崎浜)には五十人溺死、西寺東寺の麓には四百人、甲浦には三百五十余人、宍喰(阿波領)には三千八百六人溺死す、野根浦へは潮入らず、不思議と言ふべしと」。土佐の東部と阿波の一箇所の被害を記してあるが、関係諸国の溺死人は夥しい数にのぼったことであろう。十六年の地震は、三陸の地震で、仙台、南部、津軽及び松前の諸領にまで海嘯があった。十九年の地震は、越後、相模、紀伊、山城で、越後に海嘯があった。

     四 元禄大地震、振袖火事、安政大地震

 慶長五年の関ヶ原の役で、天下の権勢が徳川氏に帰すると共に、江戸時代三百年の平和期が来たが、その間慶長五年から慶応二年に至るまで、全国にわたって四百七八十回の大小の地震があり、地震に伴う海嘯があり、火事があって、市民にかなり深刻な脅威を刻みつけている。
 慶長年間の地震のことは既に言った。元和二年七月には、仙台に大地震があって城壁楼櫓が破損した。寛永七年六月には江戸に大きな地震があり、同十年一月には、江戸をはじめ、相模、駿河、伊豆に大地震があったが、わけて小田原は城が破損して、町は一里の間一軒の家もないように潰れてしまった。そして熱海に海嘯があった。その寛永には十六年十一月に越前にも大きな地震があった。
 正保元年三月には日光山、同年九月には羽後の本荘、同三年四月には陸前、磐城、武蔵、同四年五月には、また武蔵、相模に大きな地震があった。慶安には元年四月に相模、武蔵、山城、同二年二月に伊予、安芸、山城、その六月に武蔵、下野、この翌月に武蔵の大地震があったが、六月の地震には江戸城の石垣が崩れ、諸大名の屋敷町屋が潰れたので、江戸の人心に動揺の兆があった。由比正雪の隠謀の露われたのは、それから中一年を置いた四年の七月であった。
 万治二年二月には、岩代、下野、武蔵に大きな地震があった。寛文年間も大きな地震の多い年であった。元年十月には土佐、同二年三月には京都、江戸、同年五月には山城、大和、伊賀、伊勢、近江、摂津、和泉、丹波、丹後、若狭、美濃、信濃、肥前、同年九月には日向、大隅、同三年七月には胆振いぶり、同年十二月には山城、同四年六月には紀伊の新宮、京都、同五年五月には京都、同年十一月には越後、同八年七月には仙台、同十年六月には相模の大住、というように大きな地震があったが、そのうち日向、大隅の地震には海嘯があり、胆振の地震には有珠岳が噴火した。温泉岳も寛永三年に噴火し、阿蘇山は王朝時代から思いだしたように時時噴火している。
 延宝四年六月には石見、同五年三月には陸中の南部に地震と海嘯があった。元和三年五月には江戸と日光山、同年九月には日光山、貞保元年二月には伊豆の大島に地震があって、三原山が噴火した。貞保二年九月には周防、長門、同三年八月には遠江、三河、山城、元禄七年五月には羽後の能代、同十年十月には相模、武蔵に、それぞれ地震があった。そして元禄十六年十一月二十三日には、武蔵、相模、安房、上総に大地震があったが、その地震には江戸と小田原がひどく、江戸には火事があり、小田原、鎌倉、安房は長狭、朝夷の両郡、上総は夷隅郡に海嘯があった。新井白石もこの地震に逢ったので、「折り焼く柴の記」の中には、その夜の江戸の地震の光景を精細に叙述してある。この地震は安政の地震に匹敵する大地震で、その数日前即ち十一月十四日の外には、その前ぶれのように四谷塩町から出た火が、青山、赤坂、麻布、品川を焼いて、元禄の豪奢に酔うていた江戸市民に警告を与えたが、地震の後でもまた火事があって、怯えている市民の心をいやが上にも怯えさした。それは地震のあった月の二十九日で、本郷追分から出火して、谷中まで焼き、一方は小石川の水戸邸から出火して、上野湯島天神、聖堂筋違橋、向柳原、浅草茅町、南は神田から伝馬町、小舟町掘留、小網町、それから本所へ飛火して、回向院の辺、深川。そして永代橋の西半分を焼いて翌朝になって鎮まった。それには千三百の焼死者があった。
 江戸ではその火事を地震火事と言った。江戸の火事のことを言うと、その以前寛永十八年正月にも大火があり、明暦三年正月十八、十九の両日にも大火があった。わけて明暦の大火は江戸未曽有の大火であったから、市民は由比丸橋の残当の放火であろうと言って恐れおののいた。それは明暦三年正月十八日の未の刻で、本郷丸山の本妙寺の法華宗の寺から出火して、折りからの北風に幾派にも分れた火は、下谷の方は神田明神から駿河台へ飛火し、鷹匠町の辺、神田橋の内へ入って、神田橋、常盤橋、呉服橋などの橋も門も番所も焼き払い、西河岸から呉服町、南大工町、檜物町、上槇町、それから横に切れて大鋸町、本材木町へ移り、金六町、水谷町、紀国橋の辺から木挽町を焼き、芝の網場まで往った。下町の方は、須田町、鍛冶町、白銀町、石町、伝馬町、小田原町、小船町、伊勢町を焼き、川を越えて、茅場町、同心町、八丁堀に及んだ。その火が伝馬町に移った時、伝馬町の獄では囚徒を放った。その囚徒は東へ走って浅草門を出た。浅草門の門番は囚徒を逃がしてはならんと思って門を締めたので、火に追われて逃げて来た市民はそこで無数に焼け死んだ。東の方の火は、佐久間町から柳原を一嘗めにして、浜町、霊岸島、新堀から鉄砲洲てっぽうずに移って、百余艘の舟を焼いたがために、佃島、石川島に燃え移り、それから深川に移り、牛島、新田にまで往った。その火は翌日の辰の刻になって止んだが、その日の午の刻になって、昨日から吹き止まない大風に吹き煽られて小石川伝通院前の鷹匠町から発火した。そしてその火は北は駒込から南は外曲輪に及んだが、日暮ごろから風が変ったために曲輪内の諸大名の邸宅を焼き、数寄屋橋の内外、日本橋、京橋、新橋を焼いて鎮まった。しかしその一方、未の刻に麹町から出た火があって、雉子橋、一つ橋、神田橋に及び、また北風になった風に煽られて、八重洲河岸、大名小路を嘗め、西丸下桜田に至って二つに別れ、一方は通町に出で、一方は愛宕下から芝浦まで往った。この火に江戸城の本丸並びに二三の丸も焼けたので、将軍家綱は西の丸に避難した。この火には諸大名の邸宅五百軒、神社仏閣三百余、橋梁六十、坊街八百を焼失したが、市民の屋舎の焼失した数は判らない。その時の死人は、「本庄に二町四方の地を賜ひ、非人をして死骸を船にて運ばしめ、塚を築きて寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名づけしめ給ふ」と武江年表に書いてあるが、これが回向院の起りである。その明暦の大火は俗に振袖火事という名があって、奇怪な因縁話がまつわっている。
 寛永四年十月には、山城、大和、河内、摂津、紀伊、土佐、讃岐、伊予、阿波、伊勢、尾張、美濃、近江、遠江、三河、相模、駿河、甲斐、伊豆、豊後の諸国にわたって大地震があって、人畜の死傷するもの無数。そして土佐、阿波、摂津、伊豆、遠江、伊勢、長門、日向、豊後、紀伊などの海に面した国には海嘯があったが、そのうちでも土佐などは海岸の平地という平地は海水が溢れて被害が大きかった。「基※(「熈」の「ノ」の左側に「冫」、第3水準1-14-55)公記」などには、「四国土佐大震国中十に七つ破損、人民四十万人死」としてあるが、実際は二千人ぐらいであったらしい。その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相駿三箇国の田圃を埋めた。その宝永の五年十一月に浅間山が噴火し、享保二年一月三日には日向の鶴鳴山が噴火した。
 正徳元年二月には美作、因幡、伯耆、山城、同四年三月には信濃、享保三年七月には信濃、三河、遠江、山城、同年九月には信濃の飯山、同十年九月と十月には長崎、同十四年七月には能登、佐渡、同年九月には岩代の桑折こおり、宝暦元年四月には越後、同五年三月には日光、同十二年九月には佐渡、明和三年一月には陸奥の弘前、明和三年二月にも弘前、同六年七月には日向、豊後に大きな地震があり、安永七年七月には伊豆大島の三原山の噴火があった。安永八年十月には桜島の大噴火があって、山麓の村落に火石熱土を流して、死亡者一万六千余人、牛馬二千余頭をたおした。この噴火のために島の付近に新島嶼が湧出したことは序記に言ってある。
 天明二年七月には、相模、江戸に大きな地震があった。三年七月には、浅間山の大噴火があった。寛政四年一月には、肥前温泉岳の普智山の噴火があった。同十一年五月には、加賀の金沢に地震があって、宮城浦に海嘯。享和二年十一月には、佐渡に地震があって、小木湊に海嘯。文化元年六月には、羽前、羽後に地震があって象潟きさがたに海嘯。また文化九年十一月には、武蔵に地震があった。文政四年十一月には、岩代の地震。同五年閏一月には胆振いぶりにあって、それには有珠嶽が噴火した。文政にはまた十一年十一月に越後の地震があった。
 天保元年七月には、山城、摂津、丹波、丹後、近江、若狭、同二年十月には肥前、同四年十月には佐渡、同五年一月には石狩、同七年七月には仙台、同十年三月には釧路、同十二年には駿河、同十四年三月には釧路、根室、渡島、弘化四年三月には信濃、越後、嘉永六年二月には相模、駿河、伊豆、三河、遠江に大きな地震やそれに伴う海嘯があって、次に来る安政大変災の前駆をなしている。
 有名な安政の地震は、元年十一月四日と二年十一月二日の二回あって、江戸に大被害を蒙らしたのは二年の地震であった。安政には既に元年六月十五日になって、山城、大和、河内、和泉、摂津、近江、丹波、紀伊、尾張、伊賀、伊勢、越前の諸国にわたって大きな地震があった。
 十一月四日の地震は、その日に東海、東山の両道が震い、翌日になって、南海、西海、山陽、山陰の四道が震うたが、海に沿うた国には海嘯があった。この地震は豊後海峡の海底の破裂に原因があって、四国と九州が大災害を被っている。
 二年の地震は、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、豊前、豊後、筑前、筑後、壱岐、出雲、石見、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、摂津、河内、若狭、越前、近江、美濃、伊勢、尾張、伊豆一帯が震うて、摂津、紀伊、播磨、阿波、土佐、伊豆の諸国には海嘯があったが、この地震は江戸の地震と言われるだけに江戸が非常にひどかった。武江年表には「十二月細雨時時降る、夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の二点大地俄に震ふこと甚しく須臾にして大厦高牆を顛倒し倉廩を破壊せしめ、剰さへその頽れたる家家より火起り熾に燃えあがりて、黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却せり」と言って、地震と共に二十四箇所から火が起って惨害をほしいままにしたことを書いてある。その焼け跡は長さ二里十九町で幅が二町余であった。変死人は七千人。この地震に水戸の藤田東湖と戸田忠太夫の二名士が斃れた。
 火事は江戸の花と言われるくらい、江戸時代には地震以外にもたくさんの火事があった。享保五年三月にも同九年二月にも、寛政四年七月にも安永元年十二月にも、文化三年三月にも同十二年三月にも、天保九年四月にも弘化元年正月にも、同三年十二月にも慶応二年にも恐ろしい火事があった。

     五 維新以後の災変

 安政元年二月の大地震後、大きな地震はその年の十月と三年の十月に江戸にあった。そして安政三年七月には渡島、胆振にあって、それには海嘯つなみがあった。同四年閏五月に駿河、相模、武蔵、同年七月に伊予、同五年二月に越中、越前、同年三月に信濃、松代、同六年に武蔵の槻にあって、それが江戸時代のしんがりをしている。
 明治では五年二月に浜田、二十二年七月に熊本、二十四年十月に濃尾、二十七年六月に東京、同年十月に庄内、二十九年六月に三陸、同年八月に陸羽、三十九年三月に台湾の嘉義、四十二年八月江州に大地震があったが、その内で濃尾の地震には七千余人の死人を出し、三陸の海嘯には二万余の死人を出した。大正になって三年三月に秋田の仙北、それから今回の十二年九月一日の関東の大地震で、それには約十万の犠牲者と約五十万の家屋とを失った。允恭天皇以来平均三年半に一回の大地震に逢うことになっている地震国に、七千万の人間がいて年年人口の過剰に苦しんでいるとは嘘のようである。

底本:「貢太郎見聞録」中公文庫、中央公論社
   1982(昭和57)年6月10日発行
底本の親本:「貢太郎見聞録」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社
   1926(大正15年)12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:多羅尾伴内
2003年8月27日作成
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