天正十八年、真夏のひざかりであつた。小田原は北条征伐の最中で、秀吉二十六万の大軍が箱根足柄の山、相模の平野、海上一面に包囲陣をしいてゐる。その徳川陣屋で、家康と黒田如水が会談した。この二人が顔を合せたのはこの日が始まり。いはゞ豊臣家滅亡の楔が一本打たれたのだが、石垣山で淀君と遊んでゐた秀吉はそんなことゝは知らなかつた。
 秀吉が最も怖れた人物は言ふまでもなく家康だ。その貫禄は天下万人の認めるところ、天下万人以上に秀吉自身が認めてゐたが、その次に黒田如水を怖れてゐた。黒田のカサ頭(如水の頭一面に白雲のやうな頑疾があつた)は気が許せぬと秀吉は日頃放言したが、あのチンバ(如水は片足も悪かつた)何を企むか油断のならぬ奴だと思つてゐる。
 如水はひどく義理堅くて、主に対しては忠、臣節のためには強いて死地に赴くやうなことをやる。カサ頭ビッコになつたのもそのせゐで、彼がまだ小寺政職といふ中国の小豪族の家老のとき、小寺氏は織田と毛利の両雄にはさまれて去就に迷つてゐた。そのとき逸早いちはやく信長の天下を見抜いたのが官兵衛(如水)で、小寺家の大勢は毛利に就くことを自然としてゐたが、官兵衛は主人を説いて屈服させる。即座に自らは岐阜に赴き、木下藤吉郎を通して信長に謁見、中国征伐を要請して、小寺家がその先鋒たるべしと買つてでた。このとき官兵衛は二十を越して幾つでもない若さであつたが、一生の浮沈をこの日に賭け、いはゞ有金全部を信長にかけて賭博をはつた。持つて生れた雄弁で、中国の情勢、地理風俗にまでわたつて数万言、信長の大軍に出陣を乞ひ自ら手引して中国に攻め入るなら平定容易であると言つて快弁を弄する。頗る信長の御意にかなつた。
 ところが、秀吉が兵を率ゐて中国に来てみると、小寺政職は俄に変心して、毛利に就いてしまつた。官兵衛は自分の見透しに頼りすぎ、一身の賭博に思ひつめて、主家の思惑といふものを軽く見すぎたのだ。世の中は己れを心棒に廻転すると安易に思ひこんでゐるのが野心的な青年の常であるが、世間は左様に甘くない。この自信は必ず崩れ、又いくたびか崩れる性質のものであるが、崩れる自信と共に老いたる駄馬の如くに衰へるのは落第生で、自信の崩れるところから新らたに生ひ立ち独自の針路を築く者が優等生。官兵衛も足もとが崩れてきたから驚いたが、独特の方法によつて難関に対処した。
 官兵衛にはまだ父親が健在であつた。そこで一族郎党を父につけて、これを秀吉の陣に送り約をまもる。自分は単身小寺の城へ登城して、強いて臣節を全うした。殺されるかも知れぬ。それを覚悟で、敢て主人の城へ戻つた。いはゞ之もまた一身をはつた賭博であるが、かゝる賭博は野心児の特権であり、又、生命だ。そして賭博の勝者だけが、人生の勝者にもなる。
 官兵衛は単身主家の籠城に加入して臣節をつくした。世は青年の夢の如くに甘々と廻転してくれぬから、此奴裏切り者であると土牢の中にこめられる。一刀両断を免がれたのが彼の開運の元であつた。この開運は一命をはつて得たもの、生命をはる時ほど美しい人の姿はない。当然天の恩寵を受くべくして受けたけれども、悲しい哉、この賭博美を再び敢て行ふことが無かつたのだ。こゝに彼の悲劇があつた。
 この暗黒の入牢じゅろう中にカサ頭になり、ビッコになつた。滑稽なる姿を終生負はねばならなかつたが、又、雄渾なる記念碑を負ふ栄光をもつたのだ。かういふ義理堅いことをやる。
 主に対しては忠、命をすてゝ義をまもる。そのくせ、どうも油断がならぬ。戦争の巧いこと、戦略の狡猾なこと、外交かけひきの妙なこと、臨機応変、奇策縦横、行動の速力的なこと、見透しの的確なこと、話の外である。
 中国征伐の最中に本能寺の変が起つた。牢の中から助けだされた官兵衛は秀吉の帷幕いばくに加はり軍議に献策してゐたが、京から来た使者は先づ官兵衛の門を叩いて本能寺の変をつげ、取次をたのんだ。六月三日深夜のことで、使者はたつた一日半で七十里の道を飛んできた。官兵衛は使者に酒食を与へ、堅く口止めしておいて、直ちに秀吉にこの由を告げる。
 秀吉は茫然自失、うなだれたと思ふと、ギャッといふ声を立てゝ泣きだした、五分間ぐらゐ、天地を忘れて悲嘆にくれてゐる。いくらか涙のおさまつた頃を見はからひ、官兵衛は膝すりよせて、さゝやいた。天下はあなたの物です。使者が一日半で駈けつけたのは、正に天の使者。
 丁度その日の昼のこと、毛利と和睦ができてゐた。その翌日には毛利の人質がくる筈になつてゐたから、本能寺の変が伝はらぬうちと官兵衛は夜明けを待たず人質を受取りに行き、理窟をこねて手品の如くにまきあげやうとしたけれども、もう遅い。金井坊といふ山伏が之も亦風の如く駈けつけて敵に報告をもたらしてゐる。官兵衛はそこで度胸をきめた。敵方随一の智将、小早川隆景を訪ね、楽屋をぶちまけて談判に及んだ。
「あなたは毛利輝元と秀吉を比べて、どういふ風に判断しますか。輝元は可もなく不可もない平凡な旧家の坊ちやんで、せゐぜゐ親ゆづりの領地を守り、それもあなたのやうな智者のおかげで大過なしといふ人物です。天下を握る人物ではない。然るに、秀吉は当代の風雲児です。戦略家としても、政治家としても、外交家としても、信長公なき後は天下の唯一人者で、之に比肩し得る人物は先づゐない。たま/\本能寺の飛報が二日のうちにとゞいたのも秀吉の為には天の使者で、直ちにきびすをめぐらせて馳せ戻るなら光秀は虚をつかれ、天下は自ら秀吉の物です。柴田あり徳川ありとは云へ、秀吉を選び得る者のみが又選ばれたる者でせう。信長との和睦を秀吉との和睦にかへることです。損の賭のやうですが、この賭をやりうる人物はあなたの外には先づゐない。あなたにも之が賭博に見えますか。否々。これは自然天然の理といふものです。よろしいか。秀吉の出陣が早ければ、天下は秀吉の物になる。この幸運を秀吉に与へる力はあなたの掌中にあるのです。だが、あなた自身の幸運も、この中にある。毛利家の幸運も、天下の和平も、挙げてこの中にあり、ですな」
 隆景は温厚、然し明敏果断な政治家だから官兵衛の説くところは真実だと思つた。輝元では天下は取れぬ。所詮人の天下に生きることが毛利家の宿命だから、秀吉にはつてサイコロをふる。外れても、元金の損はない。そこで秀吉に人質をだして、赤心を示した。
 けれども、官兵衛は邪推深い。和睦もできた。いざ光秀征伐に廻れ右といふ時に、堤の水を切り落し、満目一面の湖水、毛利の追撃を不可能にして出発した。人は後悔するものだ。然して、特に、去る者の姿を見ると逃したことを悔ゆる心が騒ぎだす。
 官兵衛は堤を切り、満目の湖を見てふりむいた。それから馬を急がせて秀吉の馬に追ひつき、さゝやいた。毛利の人質を返してやりなさい。なぜ? 官兵衛はドングリ眼をギロリとむいて秀吉を見つめてゐる。なぜだ! 秀吉は癇癪を起して怒鳴つたが、官兵衛は知らぬ顔の官兵衛で、ハイ、ドウ/\、馬を走らせてゐるばかり。もとより秀吉は万人の心理を見ぬく天才だ。逃げる者の姿を見れば人は追ふ。光秀と苦戦をすれば、毛利の悔いはかきたてられ、燃えあがる。人質が燃えた火を消しとめる力になるか。燃えた火はもはや消されぬ。燃えぬ先、水をまけ。まだしも、いくらか脈はある。之も賭博だ。否々。光秀との一戦。天下浮沈の大賭博が今彼らの宿命そのものではないか。
 アッハッハ。人質か。よからう。返してやれ。秀吉は高らかに笑つた。だが、カサ頭は食へない奴だ。頭から爪先まで策略で出来た奴だ、と、要心の心が生れた。官兵衛は馬を並べて走り、高らかな哄笑、ヒヤリと妖気を覚えて、シマッタと思つた。
 山崎の合戦には秀吉も死を賭した。俺が死んだら、と言つて、楽天家も死後の指図を残したほど、思ひつめてもゐたし、張りきつてもゐたのだ。
 ところが兵庫へ到着し、愈々決戦近しといふので、山上へ馬を走らせ山下の軍容を一望に眺めてみると、奇妙である。先頭の陣に、毛利と浮田の旗が数十りゅう、風に吹き流れてゐるではないか。毛利と浮田はたつた今和睦してきたばかり、援兵を頼んだ覚えはないから、驚いて官兵衛をよんだ。
「お前か。援兵をつれてきたのは」
 官兵衛はニヤリともしない。ドングリ眼をむいて、大さうもなく愛嬌のない声ムニャ/\とかう返事をした。小早川隆景と和睦のときついでに毛利の旗を二十旒だけ借用に及んだのである。隆景は意中を察して笑ひだして、私の手兵もそつくりお借ししますから御遠慮なく、と言つたが、イエ、旗だけで結構です、軍兵の方は断つた。浮田の旗は十旒で、之も浮田の家老から借用に及んで来たものだ。光秀は沿道間者を出してゐるに相違ない。間者地帯へはいつてきたから、先頭の目につくところへ毛利と浮田の旗をだし、中国軍の反乱を待望してゐる光秀をガッカリさせるのだ、と言つた。
 秀吉は呆れ返つて、左右の侍臣をふりかへり、オイ、きいたか、戦争といふものは、第一が謀略だ。このチンバの奴、楠正成の次に戦争の上手な奴だ、と、唸つてしまつた。
 けれども、唸り終つて官兵衛をジロリと見た秀吉の目に敵意があつた。又、官兵衛はシマッタと思つた。

 中国征伐、山崎合戦、四国征伐、抜群の偉功があつた如水だが、貰つた恩賞はたつた三万石。小早川隆景が三十五万石。仙石権兵衛といふ無類のドングリが十二万石の大名に取りたてられたのに、割が合はぬ。秀吉は如水の策略を憎んだので故意に冷遇したが、如水の親友で、秀吉の智恵袋であつた竹中半兵衛に対しても同断であつた。半兵衛は秀吉の敵意を怖れて引退し、如水にも忠告して、秀吉に狎れるな、出すぎると、身を亡す、と言つた。如水は自らを称して賭博師と言つたが、機至る時には天下を的に一命をはる天来の性根が終生カサ頭にうづまいてゐる。尤も、この性根は戦国の諸豪に共通の肚の底だが、如水には薄気味の悪い実力がある。家康は実力第一の人ではあるが温和である。ところが黒田のカサ頭は常に心の許しがたい奴だ、と秀吉は人に洩した。如水は半兵衛の忠告を思ひ出して、ウッカリすると命が危い、といふことを忘れる日がなくなつた。
 九州征伐の時、如水と仙石権兵衛は軍監で、今日の参謀総長といふところ、戦後には九州一ヶ国の大名になる約束で数多あまたの武功をたてた。如水は城攻めの名人で、櫓をつくり、高所へ大砲をあげて城中へ落す、その頃の大砲は打つといふほど飛ばないのだから仕方がない、かういふ珍手もあみだした。事に当つて策略縦横、戦へば常に勝つたが、一方の仙石権兵衛は単純な腕力主義で、猪突一方、石川五右衛門をねぢふせるには向くけれども、参謀長は荷が重い。大敗北を蒙り、領地を召しあげられる始末であつた。けれども秀吉は毒気のない権兵衛が好きなので、後日再び然るべき大名に復活した。如水は大いに武功があつたが、一国を与へる約束が豊前のうち六郡、たつた十二万石。小早川隆景が七十万石、佐々成政が五十万石、いさゝか相違が甚しい。
 見透しは如水の特技であるから、之は引退の時だと決断した。伊達につけたるかカサ頭、宿昔青雲の志、小寺の城中へ乗りこんだ青年官兵衛は今いづこ。
 秀吉自身、智略にまかせて随分出すぎたことをやり、再三信長を怒らせたものだ。如水も一緒に怒られて、二人並べて首が飛びさうな時もあつた。中国征伐の時、秀吉と如水の一存で浮田と和平停戦した。之が信長の気に入らぬ。信長は浮田を亡して、領地を部将に与へるつもりでゐたのである。二人は危く首の飛ぶところであつたが、猿面冠者さるめんかじゃは悪びれぬ。シャア/\と再三やらかして平気なものだ。それだけ信長を頼りもし信じてもゐたのであるが如水は後悔警戒した。傾倒の度も不足であるが、自恃じじの念も弱いのだ。
 如水は律義であるけれども、天衣無縫の律義でなかつた。律義といふ天然の砦がなければ支へることの不可能な身に余る野望の化け者だ。彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆゑ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。
 ある日、近臣を集めて四方山話の果に、どうだな、俺の死後に天下をとる奴は誰だと思ふ、遠慮はいらぬ、腹蔵なく言ふがよい、と秀吉が言つた。徳川、前田、蒲生がもう、上杉、各人各説、色々と説のでるのを秀吉は笑つてきいてゐたが、よろし、先づそのへんが当つてもをる、当つてもをらぬ。然し、乃公だいこうの見るところは又違ふ。誰も名前をあげなかつたが、黒田のビッコが爆弾小僧といふ奴だ。俺の戦功はビッコの智略によるところが随分とあつて、俺が寝もやらず思案にくれて編みだした戦略をビッコの奴にそれとなく問ひかけてみると、言下にピタリと同じことを答へをる。分別の良いこと話の外だ。狡智無類、行動は天下一品速力的で、心の許されぬ曲者だ、と言つた。
 この話を山名禅高が如水に伝へたから、如水は引退の時だと思つた。家督をせがれ長政に譲りたいと請願に及んだが、秀吉は許さぬ。アッハッハ、ビッコ奴、要心深い奴だ、困らしてやれ。然し、又、実際秀吉は如水の智恵がまだ必要でもあつたのだ。四十の隠居奇ッ怪千万、秀吉はかうあしらひ、人を介して何回となく頼んでみたが秀吉は許してくれぬ。ところが、如水も執拗だ。倅の長政が人質の時、政所まんどころの愛顧を蒙つた、石田三成が淀君党で、之に対する政所派といふ大名があり、長政などは政所派の重鎮、さういふ深い縁があるから、政所の手を通して執念深く願ひでる。執念の根比べでは如水に勝つ者はめつたにゐない。秀吉も折れて、四十そこ/\の若さなのだから、隠居して楽をするつもりなら許してやらぬ、返事はどうぢや。申すまでもありませぬ。私が隠居致しますのは子を思ふ一念からで、隠居して身軽になれば日夜伺候し、益々御奉公の考へです。厭になるほど律義であるから、秀吉も苦笑して、その言葉を忘れるな、よし、許してやる。そこで黒田如水といふ初老の隠居が出来上つた。天正十七年、小田原攻めの前年で、如水は四十四であつた。
 ある日のこと、秀吉から茶の湯の招待を受けた。如水は野人気質であるから、茶の湯を甚だ嫌つてゐた。狭い席に無刀で坐るのは武人の心得でないなどゝ堅苦しいことを言つて軽蔑し、持つて廻つた礼式作法の阿呆らしさ、嘲笑して茶席に現れたことがない。
 秀吉の招待にウンザリした。又、いやがらせかな、と出掛けてみると、茶席の中には相客がをらぬ。秀吉がたつた一人。侍臣の影すらもない。差向ひだが、秀吉は茶をたてる様子もなかつた。
 秀吉のきりだした話は小田原征伐の軍略だ。小田原は早雲苦心の名城で、謙信、信玄両名の大戦術家が各一度は小田原城下へ攻めこみながら、結局失敗、敗戦してゐる。けれども、秀吉は自信満々、城攻めなどは苦にしてをらぬ。徴募の兵力、物資の輸送、数時間にわたつて軍議をとげたが、秀吉の心痛事は別のところにある。小田原へ攻めるためには尾張、三河、駿河を通つて行かねばならぬ。尾張は織田信雄のぶかつ、三河駿河遠江は家康の所領で、この両名は秀吉と干戈かんかを交へた敵手であり、現在は秀吉の麾下きかに属してゐるが、いつ異心を現すか、天下万人の風説であり、関心だ。家康の娘は北条氏直の奥方で、秀吉と対峙の時代、家康は保身のために北条の歓心をもとめて与国の如く頭を下げた。両家の関係はかく密接であるから、同盟して反旗をひるがへすといふ怖れがあり、家康が立てば、信雄がつく、信雄は信長の子供であるから、大義名分が敵方にあり諸将の動向分裂も必至だ。
 さて、チンバ。尾張と三河、この三河に古狸が住んでゐるて。お主は巧者だが、この古狸めを化かしおはして小田原へ行きつく手だてを訊きたいものだ。古狸の妖力を封じる手だてが小田原退治の勝負どころといふものだ。ワッハッハ。さうですな、如水はアッサリ言下に答へた。先づ家康と信雄を先発させて、小田原へ先着させることですな。之といふ奇策も外にはありますまい。先発の仲間に前田、上杉、などゝいふ古狸の煙たいところを御指名なさるのが一策でござらう。殿下はゆる/\と御出発、途中駿府の城などで数日のお泊りも一興でござらう。しくじる時はどう石橋を叩いてみてもしくじるものでござらうて。
 このチンバめ! と、秀吉は叫んだ。彼が寝もやらず思案にくれて編みだした策を、言下に如水が答へたからだ。お主は腹黒い奴ぢやのう。骨の髄まで策略だ。その手で天下がとりたからう。ワッハッハ。秀吉は頗るの御機嫌だ。
 ニヤリと如水の顔を見て、どうだな、チンバ、茶の湯の効能といふものが分らぬかな。お主はきつい茶の湯ぎらひといふことだが、ワッハッハ。お主も存外窮屈な男だ。俺とお主が他の席で密談する。人にも知れ、憶測がうるさからう。こゝが茶の湯の一徳といふものだ。なるほど、と、如水は思つた。茶の湯の一徳は屁理窟かも知れないが、自在奔放な生活をみんな自我流に組みたてゝゐる秀吉に比べると、なるほど俺は窮屈だ、と悟るところがあつた。
 ところが愈小田原包囲の陣となり、三ヶ月が空しくすぎて、夏のさかり、秀吉の命をうけて如水は家康を訪問した。このとき、はからざる大人物の存在を如水は見た。頭から爪先まで弓矢の金言で出来てゐるやうな男だと思ひ、秀吉が小牧山で敗戦したのも無理がない、あのとき俺がついてゐても戦さは負けたかも知れぬ、之は天下の曲者だ、と、ひそかに驚嘆の心がわいた。丁度小牧山合戦の時、折から毛利と浮田に境界争ひの乱戦が始まりさうになつたから、如水は秀吉の命を受け、紛争和解のため中国に出張して安国寺坊主と折衝中であつた。親父に代つて長政が小牧山に戦つたが、秀吉方無残の敗北、秀吉の一生に唯一の黒星を印した。なるほど、ふとりすぎたふきみたい、此奴は食へない化け者だ、と家康も亦律義なカサ頭ビッコの怪物を眺めて肚裡とりに呟いた。然し、くみし易いところがある、と判断した。

 温和な家康よりも黒田のカサ頭が心が許されぬ、と言ふのは、単なる放言で、秀吉が別格最大の敵手と見たのは言ふまでもなく家康だ。
 名をすてゝ実をとる、といふのが家康の持つて生れた根性で、ドングリ共が名誉だ意地だと騒いでゐるとき、土百姓の精神で悠々実質をかせいでゐた。変な例だが、愛妾に就て之を見ても、生活の全部に徹底した彼の根性はよく分る。秀吉はお嬢さん好き、名流好きで、淀君は信長の妹お市の方の長女であり、加賀局は前田利家の三女、松の丸殿は京極高吉の娘、三条局は蒲生氏郷うじさとの娘、三丸殿は信長の第五女、姫路殿は信長の弟信包のぶかねの娘、主筋の令嬢をズラリと妾に並べてゐる。たま/\千利休といふ町人の娘にふられた。
 ところが、家康ときた日には、阿茶局が遠州金谷の鍛冶屋の女房で前夫に二人の子供があり、阿亀の方が石清水八幡宮の修験者の娘、西郷局は戸塚某の女房で一男一女の子持ちの女、その他神尾某の子持ちの後家だの、甲州武士三井某の女房(之も子持ち)だの、阿松の方がたゞ一人武田信玄の一族で、之だけは素性がよかつた。妾の半数が子持ちの後家で、家康は素性など眼中にない。ジュリヤおたあといふ朝鮮人の侍女にも惚れたが、之は切支丹キリシタンで妾にならぬから、島流しにした。伊豆大島、波浮はぶの近くのオタイネ明神といふのがこの侍女の碑であると云ふ。徹底した実質主義者で、夢想児の甘さが微塵もない人であつた。
 秀吉は夢想家の甘さがあつたが、事に処しては唐突に一大飛躍、家康のお株を奪ふ地味な実質策をとる。家康は小牧山の合戦に勝つた、とたんに秀吉は織田信雄と単独和を結んで家康を孤立させ、結果として、秀吉が一足天下統一に近づいてゐる。降参して実利を占めた。
 和談の席で、秀吉は主人の息子に背かれ疑られ攻められて戦はねばならぬ苦衷を訴へて、手放しでワア/\と泣いた。長い戦乱のために人民は塗炭の苦に喘いでゐる。私闘はいかぬ。一日も早く天下の戦乱を根絶して平和な日本にしなければならぬ。秀吉は滂沱ぼうだたる涙の中で狂ふが如くに叫んだといふが、肚の中では大明遠征を考へてゐた。まんまと秀吉の涙に瞞着された信雄が家康を説いて、天下の平和のためです、秀吉の受売りをして、御子息於義丸を秀吉の養子にくれて和睦しては、と使者をやると、家康は考へもせず、アヽ、よからう、天下の為です。家康は子供の一人や二人、煮られても焼かれても平気であつた。秀吉は光秀を亡してゐるのだから、時世は秀吉のものだ。信雄は主人の息子、一緒なら秀吉と争ふことも出来るけれども、大義名分のない私闘を敢て求める家康ではない。あせることはない。人質ぐらゐ、何人でもくれてやる。
 秀吉は関白となり、日に増し盛運に乗じてゐた。諸国の豪族に上洛朝礼をうながし、応ぜぬ者を朝敵として打ち亡して、着々天下は統一に近づいてゐる。一方家康は真田昌幸に背かれて攻めあぐみ、三方ヶ原以来の敗戦をする。重臣石川数正が背いて秀吉に投じ、水野忠重、小笠原貞慶、彼を去り、秀吉についた。家康落目の時で、実質主義の大達人もこの時ばかりは青年の如くふてくされた。
 秀吉のうながす上洛に応ぜず、攻めるなら来い、蹴ちらしてやる、ヤケを起して目算も立てぬ、どうともなれ、と命をはつて、自負、血気、壮んなること甚だしい。連日野に山に狩りくらして秀吉の使者を迎へて野原のまんなかで応接、信長公存命のころ上洛して名所旧蹟みんな見たから都見物の慾もないね。於義丸は秀吉にくれた子だから対面したい気持もないヨ。秀吉が攻めてくるなら美濃路に待つてゐるぜ、と言つて追ひ返した。
 けれども、金持喧嘩せず、盛運に乗る秀吉は一向腹を立てない。この古狸が自分につけば天下の統一疑ひなし。大事な鴨で、この古狸が天下をしよつて美濃路にふてくされて、力んでゐる。秀吉は適当に食慾を制し、落付払ふこと、まことに天晴れな貫禄であつた。天下統一といふ事業のためなら、家康に頭を下げて頼むぐらゐ、お安いことだと考へてゐる。そこで家康の足もとをさらふ実質的な奇策を案出したのであるが、かういふ放れ業ができるのも、一面夢想家ゆゑの特技でもあり、秀吉は外交の天才であつた。
 先づ家康に自分の妹を与へてまげて女房にして貰ひ、その次に、自分の実母を人質に送り、まげて上洛してくれ、と頭を下げた。皆の者、よく聞くがよい、秀吉は群臣の前で又機嫌よく泣いてゐた。俺は今天下のため先例のないことを歴史に残してみようと思ふ。関白の母なる人を殺しても、天下の平和には代へられぬものだ。
 ふてくされてゐた家康も悟るところがあつた。秀吉は時代の寵児である。天の時には、我を通しても始らぬ。だまされて、殺されても、落目の命ならいらない。覚悟をきめて上洛した。
 家康は天の時を知る人だ。然し妥協の人ではない。この人ぐらゐ図太い肚、命をすてゝ乗りだしてくる人はすくない、彼は人生三十一、武田信玄に三方ヶ原で大敗北を喫した。当時の徳川氏は微々たるもの、海内かいだい随一の称を得た甲州の大軍をまともに受けて勝つ自信は鼻柱の強い三河武士にも全くない。家康の好戦的な家臣達に唯一人の主戦論者もなかつたのだ。たつた一人の主戦論者が家康であつた。
 彼は信長の同盟者だ。然し、同盟、必ずしも忠実に守るべき道義性のなかつたのが当時の例で、弱肉強食、一々が必死を賭けた保身だから、同盟もその裏切りも慾得づくと命がけで、生き延びた者が勝者である。信玄の目当の敵は信長で家康ではなかつたから、負けるときまつた戦争を敢て戦ふ必要はなかつたのだが、家康たゞ一人群臣をしりぞけて主戦論を主張、断行した。彼もこのとき賭博者だ。信長との同盟に忠実だつたわけではない。極めて少数の天才達には最後の勝負が彼らの不断の人生である。そこでは、理智の計算をはなれ、自分をつき放したところから、自分自身の運命を、否、自分自身の発見を、自分自身の創造を見出す以外に生存の原理がないといふことを彼らは知つてゐる。自己の発見、創造、之のみが天才の道だ。家康は同盟といふボロ縄で敢て己れを縛り、己れの理知を縛り、突き放されたところに自己の発見と創造を賭けた。之は常に天才のみが選び得る火花の道。さうして彼は見事に負けた。生きてゐたのが不思議であつた。
 大敗北、味方はバラバラに斬りくづされ、入り乱れ前後も分らぬ苦戦であるが、家康は阿修羅であつた。家康が危くなると家来が駈けつけて之を助け、家来の急を見ると、家康が血刀ふりかぶり助けるために一散に駈けた。夏目次郎左衛門が之を見て眼血走り歯がみをした。大将が雑兵を助けてどうなさる、目に涙をため、家康の馬のくつわを浜松の方にグイと向けて、槍の柄で力一杯馬の尻を殴りつけ、追ひせまる敵を突き落して討死をとげた。
 逃げる家康は総勢五騎であつた。敵が後にせまるたびに、自ら馬上にふりむいて、弓によつて打ち落した。顔も鎧も血で真ッ赤、やうやく浜松の城に辿りつき、門をしめるな、開け放しておけ、庭中にかがりをたけ、言ひすてゝ奥の間に入り、久野といふ女房に給仕をさせて茶漬を三杯、それから枕をもたせて、ゴロリとひつくり返つて前後不覚にねてしまつた。堂々たる敗北振りは日本戦史の圧巻で、家康は石橋を叩いて渡る男ではない。武将でもなければ、政治家でもない。蓋し稀有なる天才の一人であつた。天才とは何ぞや。自己を突き放すところに自己の創造と発見を賭るところの人である。
 秀吉の母を人質にとり、秀吉と対等の格で上洛した家康であつたが、太刀、馬、黄金を献じ、主君に対する臣家の礼をもつて畳に平伏、敬礼した。居並ぶ大小名、呆気にとられる。秀吉に至つては、仰天、狂喜して家康を徳としたが、秀吉を怒らせて一服もられては話にならぬ。まだ先に楽しみのある人生だから、家康は頭を畳にすりつけるぐらゐ、屁とも思つてゐなかつた。
 秀吉は別室で家康の手をとり、おしいたゞいて、家康殿、何事も天下の為ぢや。よくぞやつて下された。一生恩にきますぞ、と、感極まつて泣きだしてしまつたが、家康はその手をおしいたゞいて畳におかせて、殿下、御もつたいもない、家康は殿下のため犬馬の労を惜む者でございませぬ。ホロリともせずかう言つた。アッハッハ。たうとう三河の古狸めを退治てやつた、と、秀吉は寝室で二次会の酒宴をひらき、ポルトガルの船から買ひもとめた豪華なベッドの上にひつくり返つて、サア、日本がおさまると、今度は之だ、之だ、と、ベッドを叩いて、酔つ払つて、ねむつてしまつた。
 小田原の北条氏は全関東の統領、東国随一の豪族だが、すでに早雲の遺風なく、君臣共にドングリの背くらべ、家門を知つて天下を知らぬ平々凡々たる旧家であつた。時代に就て見識が欠けてゐたから、秀吉から上洛をうながされても、成上り者の関白などは、と相手にしない。秀吉は又辛抱した。この辛抱が三年間。この頃の秀吉はよく辛抱し、あせらず、怒らず、なるべく干戈を動かさず天下を統一の意向である。北条の旧領、沼田八万石を還してくれゝば朝礼する、と言つてきたので、真田昌幸に因果を含めて沼田城を還させたが、沼田城を貰つておいて、上洛しない。北条の思ひ上ること甚しく、成上りの関白が見事なぐらゐカラカハれた。我慢しかねて北条征伐となつたのだ。
 秀吉は予定の如く、家康、信雄、前田利家、上杉景勝らを先発着陣せしめ、自身は三月一日、参内して節刀を拝受、十七万の大軍を率ゐて出発した。駿府へ着いたのが十九日で、家康は長久保の陣から駈けつけて拝謁、秀吉を駿府城に泊らせて饗応至らざるところがない。本多重次がたまりかねて、秀吉の家臣の居ならぶ前で自分の主人家康を罵つた。これは又、あつぱれ不思議な振舞をなさるものですな。国を保つ者が、城を開け渡して人に貸すとは何事です。この様子では、女房を貸せと言はれても、さだめしお貸しのことでせうな、と青筋をたてゝ地団駄ふんだ。
 小田原へ着いた秀吉は石垣山に陣取り、一夜のうちに白紙を用ひて贋城をつくるといふ小細工を弄したが、ある日、家康を山上の楼に招き、関八州の大平野を遥か東方に指して言つた。といふのは昔の本にあるところだが、実際は箱根丹沢にさへぎられてさうは見晴らしがきかないのである。ごらんなさい。関八州は私の掌中にあるが、小田原平定後は之をそつくりあなたに進ぜよう。ところで、あなたは小田原を居城となさるつもりかな。左様、まづ、その考へです。いや/\と秀吉は制して、山を控へた小田原の地はもはや時世の城ではない。二十里東方に江戸といふ城下がある。海と河川を控へ、広大な沃野の中央に位して物資と交通の要地だから、こゝに居られる方がよい、と教へてくれた。さうですか。万事お言葉の通りに致しませう、と答へたが、今は秀吉の御意のまゝ、言ひなり放題に振舞ふ時と考へて、家康はこだはらぬ。秀吉の好機嫌の言葉には悪意がなく、好意と、聡明な判断に富んでゐることを家康は知つてもゐた。
 二十六万の陸軍、加藤、脇坂、九鬼等の水軍十重二十重に小田原城を包囲したが、小田原は早雲苦心の名城で、この時一人の名将もなしとは言へ、関東の豪族が手兵を率ゐてあらかた参集籠城したから、兵力は強大、簡単に陥す見込みはつかない。小早川隆景の献策を用ひて、持久策をとり、糧道を絶つことにした。
 秀吉自身は淀君をよびよせ、諸将各妻妾をよばせ、館をつくらせ、連日の酒宴、茶の湯、小田原城下は戦場変じて日本一の歓楽地帯だ。四方の往還は物資を運ぶ人馬の往来絶えることなく、商人は雲集して、小屋がけし、市をたて、海運も亦日に日に何百何千艘、物資の豊富なこと、諸国の名物はみんな集る、見世物がかゝる、遊女屋が八方に立ち、絹布を売る店、舶来の品々を売る店、戦争に無縁の品が羽が生えて売れて行く。大名達は豪華な居館をつくつて書院、数寄屋、庭に草花を植ゑ、招いたり招かれたり、宴会つゞきだ。
 この陣中の徒然つれづれに、如水が茶の湯をやりはじめた。ところが如水といふ人は気骨にまかせて茶の湯を嘲笑してゐたが、元来が洒落な男で、文事にもたけ、和歌なども巧みな人だ。彼が茶の湯をやりだしたのは保身のため、秀吉への迎合といふ意味があつたが、やりだしてみると、秀吉などとはケタ違ひに茶の湯が板につく男だ。小田原陣が終つて京都に帰つた頃はいつぱしの茶の湯好きで、利休や紹巴じょうはなどゝ往来し、その晩年は唯一の趣味の如き耽溺ぶりですらあつた。一つには彼の棲む博多の町に、宗室、宗湛、宗九などといふ朱印船貿易の気宇遠大な豪商がゐて茶の湯の友であつたからで、茶の湯を通じて豪商達と結ぶことが必要だつたせゐもある。
 如水は高山右近のすゝめで洗礼を受け切支丹であつたが、之も秀吉への迎合から、禁教令後は必ずしも切支丹に忠実ではなかつた。カトリックは天主以外の礼拝を禁じ、この掟は最も厳重に守るべきであつたが、如水は菅公廟を修理したり、箱崎、志賀両神社を再興し、又、春屋和尚について参禅し、その高弟雲英禅師を崇福寺に迎へて尊敬厚く、さりとて切支丹の信教も終生捨てゝはゐなかつた。彼の葬儀は切支丹教会と仏寺との両方で行はれたが、世子長政の意志のみではなく、彼自身の処世の跡の偽らざる表れでもあつた。
 元々切支丹の韜晦とうかいといふ世渡りの手段に始めた参禅だつたが、之が又、如水の性に合つてゐた。忠義に対する冷遇、出る杭は打たれ、一見豪放磊落らいらくでも天衣無縫に縁がなく、律義と反骨と、誠意と野心と、虚心と企みと背中合せの如水にとつて、禅のひねくれた虚心坦懐はウマが合つてゐたのである。彼の文事の教養は野性的洒脱といふ性格を彼に与へたが、茶の湯と禅はこの性格に適合し、特に文章をひねくる時には極めてイタについてゐた。青年の如水は何故に茶の湯を軽蔑したか。世紀の流行に対する反感だ。王侯貴人の業であつてもその流行を潔しとせぬ彼の反骨の表れである。反骨は尚腐血となつて彼の血管をめぐつてゐるが、稜々たる青春の気骨はすでにない。反骨と野望はすでに彼の老ひ腐つた血で、その悪霊にすぎなかつた。
 ある日、秀吉は石垣山の楼上から小田原包囲の軍兵二十六万の軍容を眺め下して至極好機嫌だつた。自讃は秀吉の天性で、侍臣を顧て大威張りした。どうだ者共。昔の話はいざ知らず、今の世に二十六万の大軍を操る者が俺の外に見当るかな。先づなからう、ワッハッハ。その傍に如水がドングリ眼をむいてゐる。之を見ると秀吉は俄に奇声を発して叫んだ。ワッハッハ。チンバ、そこにゐたか。なるほど、貴様は二十六万の大軍がさぞ操つてみたからう。チンバなら、さだめし、出来るであらう。者共きけ、チンバはこの世に俺を除いて二十六万の大軍を操るたつた一人の人物だ。
 如水はニコリともしない。彼は秀吉に怖れられ、然し、甘く見くびられてゐることを知つてゐた。如水は歯のない番犬だ。主人を噛む歯が抜けてゐる、と。
 だが、かういふ時に、なぜ、いつも、自分の名前がひきあひにでゝくるのだらう。二十六万の大軍を操る者は俺のみだと壮語して、それだけで済むことではないか。それは如水の名の裏に別の名前が隠されてゐるからである。歯のある番犬の名が隠されて、その不安が常に心中にあるからだ。それを如水は知つてゐた。その犬が家康であることも知つてゐた。その犬に会つてみたいといふ思ひが、肚底とていに逞しく育つてゐたのだ。

 小田原包囲百余日、管絃のざわめきの中にも造言の飛び交ふのはどこの戦場も変りがない。話題の主は家康と信雄で、北条と通謀して夜襲をかける、奥州からは伊達政宗が駈けつける手筈になつてゐるなどゝ、流言必ずしも根のないことではない。当の家康の家来共が流言の渦にむせびながら腕をし、いつ夜襲の主命下るか、猿めを退治て、あとはこつちの天下だと小狸共の胸算用で憶測最も逞しい。
 ところが、家康は温和であつた。之は秀吉の用ひた表現であるが、家康は温和な人だから宜しいが、黒田のカサ頭は油断のできない奴だ、といふことを言つてゐた。
 秀吉は山崎合戦で光秀を退治て天下を自分の物としたが、光秀退治が秀吉一人の手によらず織田遺臣聯合軍といふものによつて為されたならば、天下の順は秀吉のところへは廻つてこない。信長には子供もあるし、柴田といふ天下万人の許した重臣もあり、之を覆す大義名分がないからである。秀吉は柴田と丹羽にあやかりたいといふので羽柴といふ姓を名乗つた。然しながら、柴田といへども信長の家臣だ。ところが、家康は家臣ではない。駿遠三の領主で、小なりといへども一王国の主人、信長の同盟国で、同盟国も格が下なら家臣と似たやうなものではあるが、ともかく独自の外交策によつて信長と相結んだ立場であつた。
 信長と信玄の中間に介在して武田の西上を食ひとめ信長の天下を招来した縁の下の力持が家康で、専ら田舎廻りの奔走、頼まれゝば姉川へも駈けつけて急を救ふ、越後の米つき百姓の如き精神を一貫、行動した。下剋上は当時の自然で、保身、利得、立身のために同盟を裏切ることは天下公認の合理であつたが、家康の同盟二十年、全く裏切ることがなく、専ら利得のかんばしからぬ奔命に終始して、信長の長大をはかるために犬馬の労を致したのである。土百姓の律義であつた。素町人の貯金精神といふものだ。けれども一身一王国の存亡を賭けてニコ/\貯金に加入する、百姓商人に似て最も然からざるもの、天下に賭けて命をはつた賭博者は多いけれども、ニコ/\貯金に命をはつた家康は独特だつた。
 本能寺の変が起つたとき、家康は堺にゐた。武田勝頼退治の戦功で駿河を分けて貰つたから、その御礼挨拶のために穴山梅雪と上洛して、六月二日といふ日には堺に宿泊したのである。平時の旅行であるから近臣数十人をつれてゐるだけ、兵力がないから、本能寺の変と共に驚くべき速力をもつて堺を逃げだし、逃げ足の早いこと、あの道この道と逃げ方の巧妙なこと、さすが戦争の名人である。穴山梅雪は逃げる途中に捕はれて横死をとげたが、家康は無事岡崎に帰着して、軍兵を催し、イザ改めて出陣といふ時には、光秀退治に及び候といふ秀吉の使者が来たのである。家康は不運であつたが、然し、秀吉も家康も、四囲の情況によつて自然に天下を望む自分の姿を見出すまで、不当に天下を狙ひ、野望のために身が痩せるといふことがなかつた。木下藤吉郎は柴田と丹羽にあやかるために羽柴秀吉と改名したが、秀吉の御謙遜だといふのは後日の太閤で判断しての話で、改名の当時は全く額面通りの理由であつたに相違ない。彼の夢は地位の上昇と共に育ちはしたが、信長存命の限りは信長の臣、これが夢の限界で、信長第一の臣、それから信長の後継者、さういふ夢はあつたにしても、本能寺の変、光秀退治、自然の通路がひらかれるまで、それを狙ひはしなかつた。
 家康の夢は一さう地道だ。親代々の今川に見切をつけて信長と結んだ家康は、同盟二十年、約を守り義にたがはず、信長保険の利息だけで他意なく暮し、しかも零細な利息のために彼の為した辛労は甚大で、信玄との一戦に一身一国を賭して戦ふ。蟷螂とうろうの斧、このとき万一の僥倖ぎょうこうすらも考へられぬ戦争で、死屍累々、家康は朱にそまり、傲然斧をふりあげて竜車の横ッ面をひつかいたが、手の爪をはがした。目先の利かないこと夥しく、みすみす負ける戦争に命をかけ義をまもる、小利巧な奴に及びもつかぬ芸当で、時に際し、利害、打算を念頭になく一身の運命を賭けることを知らない奴にいはゞ『芸術的』な栄光は有り得ない。芸術的とは宇宙的、絶対の世界に於けるといふことである。
 信長の横死。天下が俺にくるかも知れぬ、と考へたのは家康も亦、このときだ。けれども天運に恵まれず、堺に旅行中であつたから這々ほうほうていで逃げて帰る、秀吉にしてやられて、天下は彼から遠退いた。けれども、織田信雄と結んで秀吉と戦ふことになつて、俄に情熱は爆発する、天下を想ふ亢奮は身のうちをたぎり狂つて、家康時に四十の青春、始めて天下の恋を知つた。
 破竹の秀吉を小牧山で叩きつけて、戦争に勝つたが、外交に負けた。上昇期の秀吉はまさに破竹であつた。滾々こんこん尽きず、善謀鬼略の打出の小槌に恵まれてゐたのだ。秀吉はアッサリ信雄に降伏して単独和議を結び、家康の戦争目的、大義名分といふものを失はせたから、負けて勝つた。家康も負けたやうな気がしない。秀吉信雄両名の和議成立に祝福の使者を送つて、小策我関せず、落付払つてゐたけれども、信濃あたりに反乱があつて田舎廻りの奔走にかけづらふうち、秀吉は着々天下統一の足場をかためて、二人の位の距りが誰の目にもハッキリしたから、家康も一代の焦りをみせた。四十の恋といふのがあるが、之も四十の初恋で、家康遂に青春を知り、千々に乱れ、ふてくされて、喧嘩を売らう、喧嘩を買はふ、規格に大小違ひはあつても恋の闇路に変りはない。
 けれども飜然として目覚めた。上洛に応じ、臣下の礼を以て秀吉の前に平伏したが、四十の初恋、このまぼろしを忘れ得るであらうか。けれども、ひとたび目覚めたとき、彼の肚裡を測りうる一人の人もゐなかつた。
 秀吉は彼に大納言を与へ、つゞいて内大臣を与へる。時人は彼を目して副将軍の如くに認めたが、その貫禄を与へることが彼を温和ならしめる手段であると秀吉は信じた。雄心未だ勃々たる秀吉は死後の社稷しゃしょくのことなどは霞をへだてた話であつたし、思ひのまゝに廻りはじめたパノラマのハンドルをまはす手加減に有頂天になつてゐた。家康といふ人はおだてゝおけば温和な人だ。俺の膝の上にのせてみせるから黙つて見てをれ、かう侍臣に言ふ秀吉だ。小田原陣でも、家康を陣屋に招いて群臣の居並ぶところでおだてあげて、大納言、貴公は海内一の弓取だから、この戦争では策戦万事御指南をたのむ、皆の者も戦略は徳川殿にきくがよい、臆面もなくわめきたてゝ好機嫌。ところが或日のことである。秀吉は列座の大名共に腹蔵なく威張りはじめてゐたのである。古に楠氏あり、当今は豊臣秀吉こゝにあり、日本一の兵法の達者とは俺のことだ。戦へば必ず勝つ。負けたためしは一度もない。古今東西天下無敵、ワッハッハ。すると家康が俄に気色けしきばみ、居ずまひを正して一膝のりだした。之は不思議、いさゝかお言葉が過ぎてござる。殿下は小牧山で拙者に負けたではござらぬか。余人は知らず、拙者の控える目の前で日本一の兵法家はやめにしていたゞきたい。開き直つて、かう言つた。膝元からいきなり袴に火がついたとはこのこと、秀吉満面に朱をそゝぎ、皺だらけの小さな顔に癇癪の青筋だらけ、喉がつまつて声が出ぬ。プイと立ち荒々しく奥へ消えた。この始末や如何に。暫時して、元の陽気な猿面郎、機嫌を直してニコニコ現れたのが秀吉で、イヤハヤ、大失敗、猿公木より墜落ぢや。小牧山で三河の狸に負けたことがあつたとは残念千万。
 大名共は呆れ返つた。自慢のし返し、子供みたいに臆面もなく開き直つて食つてかゝる、古狸の家康もとより酒席のざれ言の分らぬ男であらう筈はないのだから、開き直る方が結局秀吉を安心させるといふことを心得た上での芝居だらうと判断した。家康は老獪ろうかいだから、と言つて、侍臣達も家康の手のこんだ芝居を秀吉にほのめかしたが、秀吉は笑つて、お前たちはさう思ふか。一応は当つてゐるかも知れぬ。然し、家康は案外あれだけの気のよいところもある仁ぢや、お前たちにはまだ分らぬ、アッハッハ、と言つた。
 小田原包囲百日、流言などはどこ吹く風で、ある日、秀吉はたつた数人の侍臣をつれ、家康の陣へ遊びに行つた。井伊直政がにぢり寄つて、目の玉を怪しく光らせて、家康にさゝやいた。殿、猿めを殺すのは今でござる。夢をみて寝ぼけるな、隠し芸でも披露して関白を慰め申せ。家康とりあはぬ。
 秀吉は腹蔵なく酔つ払つた。梯子酒といふわけで、家康をうながし、連立つて信雄の陣へ押掛ける。小田原は箱根の山々がクッキリと、晴れた日は空気に靄が少くて、道はかゞやき、影黒し、非常に空の澄んだところだ。馬上から野良に働くひなには稀な娘を見つけて、オウイ、俺は関白秀吉だ、俺のウチへ遊びにこいよウ。待つてるゾウ。胸毛を風になぶらせて、怒鳴つてゐる。
 然しながら、秀吉は一人立ちのできない信雄を、一人立ちの出来ない故に、警戒した。彼の主人信長はその終生足利義昭になやまされた。この十五代将軍は一人立ちのできない策士の見本である。三好松永を覆滅して足利家再興のため、終生他力本願、専ら人の褌を当にして陰謀小策を終生の業としたのである。佐々木承禎にたより、武田にたより、朝倉に、上杉に、北条に、最後に信長にたよつて目的を達し、十五代将軍となることができた。そこで年下の信長を臆面もなく「父信長」などゝ尊敬して大いに徳としながら、さつそく裏では父信長を殺すことを考へて、本願寺に密使を送り、信玄と結び、朝倉、浅井、上杉、毛利、信長と兄弟分の徳川家康、手当り次第に密使を差向けて信長退治のふれを廻す。一応の大義名分のあるところ、本人自体が無力なほど始末が悪く、不断に陰謀の策源地である。信長の困却ぶりをウンザリするほど見てきた秀吉であるから、小田原陣が終り己れの足場が固定したのを見定めると、信雄の領地を没収して、秋田に配流、温和な狸の動きだす根を絶やしてしまつた。
 当時、中部日本、西日本は全く平定、帰順せぬのは関東の北条と奥州だつた。この奥州で、自ら奥州探題を以て任じ、井戸の中から北国の雪空を見上げて、力み返つてゐたのが伊達政宗といふ田舎豪傑である。この豪傑に片目の無いのは有名であるが、時に二十四才、ザンギリ髪といふ異形な姿を故意に愛用し、西に東に隣り近所の小豪族を攻めたてゝ領地をひろげ、北の片隅でまるで天下に怖るゝ者もない気になつてゐた。
 政宗は田舎者ではあるけれども野心と狡智にかけては黒田如水と好一対、前田利家や徳川家康から小田原陣に参加するやうにといふ秀吉の旨を受けた招請のくるのを口先だけで有耶無耶うやむやにして、この時とばかり近隣の豪族を攻め立て領地をひろげるに寧日ねいじつもない。家康が北条と通謀して秀吉を亡すだらうといふ流言をまともに受けて、そのドサクサに一気に京都へ攻めこんで天下を取る算段まで空想、むやみに亢奮して近隣をなぎ倒してゐた。
 ところへ家康から手紙が来た。待ちかねた手紙であるが、甚だ冷静なる文面、思ひもよらぬ手紙である。秀吉への帰順、小田原攻めの加勢をすゝめ、天下の赴く勢といふものを説き、遠からざる北条の滅亡を断じ、北の片隅の孤独な思索には測りきれぬ天下の大が妖怪の如く滲み出てをり、反乱どころの話ではない。百年このかた秀吉の番頭をつとめてゐるかのやうな家康の手紙であつた。政宗の背筋を俄に恐怖が走つた。野心と狡智の凝りかたまつた田舎豪傑、思ひもよらぬ天下の妖気を感得して、果もなく不安に沈み、混乱する。遠からずして北条が滅亡する、二十六万の大軍が余勢をかつて奥州へ攻めこんでは身も蓋もない。目先はくもらぬ男であるから、即刻小田原へ駈けつけて秀吉の機嫌をとりむすばぬと命が危いといふことを一途に思ひ当てゝゐた。
 火急の陣ぶれ、夜に日をつぎ、慌てふためいて箱根に到着、陳弁だら/\加勢を申出る。秀吉は石田三成を差向けて先づ存分に不信をなじらせたが、この三成が全身才智と胆力、冷水の如き観察力、批判力ではらわたにえぐりこむ言葉の鋭いこと、言訳、陳弁、三拝九拝、蒸気のカマの如き奥州弁で、豆の汗を流した。才能の限度に就て根柢から自信がぐらつき、秀吉の威力の前に身心のすくみ消える思ひである。
 その翌日が謁見の日で、登る石垣山一里の道、屠所にひかれる牛の心で、生きた心持もなく広間にへいつくばつてゐると、ガラリと襖があいて、秀吉が真夏のことゝは言ひながら素肌に陣羽織、前ぶれもなくチョロ/\現れてきた。ヤア、御苦労々々々、よくぞ来てくれたな。遠路大変だつたらう。何はおいても先づ一献ぢや。これよ、仕度を致せといふので、政宗の夢にも知らぬ珍味佳肴、豪華つくせる大宴会、之が野戦の陣地とは夢又夢の不思議である。石垣山の崖上へ政宗をつれだして小田原城包囲の陣形を指し、田舎の小競合こぜりあいが身上のお前にはこの大陣立の見当がつくまいな。それ、そこが早川口、伊豆の通路がこゝでふさがれてゐるから、こつちの浜辺を水軍でかためると伊豆からの連絡はもう出来ぬ、小田原の地形、関八州の交通網を指摘して二十六万の陣立を解説してきかせる。如何なる仕置かと思ひつめてきた二十四の田舎豪傑、ザンギリ頭の見栄などは忘れ果てゝたゞ/\茫然、素肌に陣羽織、猿芝居の猿のやうな小男が箱根の山よりも大きく見えてしまふのだつた。この人のためならば水火をいとはず、といふ感動の極に達した。
 とはいへ奥州探題を自任する政宗の威力必ずしも小ならず、彼を待望せる北条の失望落胆如何ばかり。之もひとへに家康の尽力である。
 家康は北条氏勝に使者をさしむけて氏政の陣から離脱させたり、小田原城内へ地下道を掘り之をくゞつて城内へ侵入、モグラ戦術によつて敵城の一角をくづしたり、神謀鬼策の一端を披露に及んで、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)群の一鶴、忠実無私の番頭ぶり、頼まれもせぬ米をついて大汗を流してゐる。

 早春はじめた包囲陣に真夏がきてもまだ落ちぬ。石田三成、羽柴雄利に命じて降伏を勧告させたが徒労に終つた。十万余の大軍をもち兵糧弾薬に不足を感ぜぬ籠城軍は四囲の情勢に不利を見ても籠城自体にさしたる不安がないのであつた。
 浮田秀家の陣所の前が北条十郎氏房の持口に当つてゐた。そこで秀家に命じ氏房を介して降伏を勧告させる。秀家から氏房の陣へ使者を送つて、長々の防戦御見事、軽少ながら籠城の積鬱を慰めていたゞきたいと云つて、南部酒と鮮鯛せんたいを持たせてやつた。氏房からは返礼に江川酒を送つてよこし、之を機会に交りの手蔓をつくつて、秀家氏房両名が各々の櫓へでゝ言葉を交すといふことにもなり、氏政父子に降伏をすゝめてくれぬか、武蔵、相模、伊豆三国の領有は認めるからと取次がせる。氏房自身に和睦の心が動いて、この旨を氏政父子に取次いだが、三国ぐらゐで猿の下風に立つなどゝは話の外だと受つけぬ。
 北条随一の重臣に松田憲秀といふ執権がをつた。松田家は早雲以来股肱閥閲ここうばつえつの名家で、枢機にあづかり勢威をふるつてゐたが、憲秀に三人の子供があつて、長男が新六郎、次男が左馬助、末男が弾三郎と云つた。古来、上は蘇我、藤原の大臣家から下は呉服屋の白鼠共に至るまで、股肱閥閲の名家に限つて子弟が自然主家を売るに至る、門閥政治のまぬがれ難い通弊であるが、新六郎は先に武田勝頼に通じて主家に弓をひき、討手に負けて降参、累代の名家であるからといふので命だけは助けられたといふ代者しろものであつた。父憲秀と相談して裏切の心をかため、秀吉方に密使を送つて、伊豆、相模の恩賞、子々孫々違背あるべからず、といふ証状を貰つた。六月十五日を期し、堀秀治の軍兵を城内へ引入れて、一挙に攻め落すといふ手筈をたてた。
 ところが次男の左馬助は容色美麗で年少の時から氏直の小姓にでゝ寵を蒙り日夜側近を離れず奉公励んでゐる。遇々たまたま父の館へ帰つてきて裏切の話を耳にとめ父兄を諫めたが容れられる段ではない。父を裏切り一門を亡す奸賊であるといふので父と兄が刀の柄に手をかけ青ざめて殺気立つから、私の間違ひでありました、父上、兄上の御決意でありますなら私も違背は致しませぬ、と言つて一時をごまかした。けれども必死の裏切であるから憲秀新六郎も油断はない。氏直に訴へられては破滅であるから、左馬助の寝室に見張の者を立てゝおいたが、左馬助は具足櫃ぐそくびつに身をひそめ、具足を本丸へとゞけるからと称して小姓に担ぎださせ、無事氏直の前に立戻ることができた。父兄の陰謀を訴へ、密告の恩賞には父兄の命を助けてくれと懇願する、憲秀新六郎は時を移さず捕はれて、左馬助の苦衷憐むべしといふので、首をはねず、牢舎にこめる、寸前のところで陰謀は泡と消えた。
 この裏切に最も喜んだのは秀吉で、大いに心を打込み、小田原落城眼前にありとホクソ笑んでゐたのであるが、案に相違の失敗、心憎い奴は左馬助といふ小僧であると怒髪天をついて歯がみをした。
 百計失敗に帰して暫時の空白状態、何がな工夫をめぐらして打開の方策を立てねばならぬ。秀吉はクスリと笑つて如水を召寄せた。如水は小田原陣の頃からめつきり差出口を控えてしまつたが、表向き隠居したせゐでもあり、同時に、秀吉の帷幕では石田三成が頭をもたげて一切の相談にあづかり、如水の影は薄くなつてゐたのである。三成の小僧の如き、如水は眼中に入れてゐないが、流れる時代、人才も亦常に流れ、澱みの中に川の姿はないのである。目の玉をむき、黙々天下を横睨みに控えてゐるが、如水はすでに川の澱みに落ちたことをさとらない。尚満々たる色気、万策つきたら俺にたのめ、といふ意気込の衰へることのない男、秀吉は苦笑して、これよ、即刻チンバ奴を連れて参れ、深夜であつた。
 改めて如水の方寸をたづね手段をもとめる。腹中常に策をひそめて怠りのない如水であるが、処女の含羞、少々は熟慮の風もして慎みのあるところを見せればいゝに、サラバと膝をのりだして、待つてゐました、と言下に答へる。
 徳川殿をわづらはす一手でござらう。あの仁以外に人はござらぬ。北条の縁者であるし、関東の事情に精通し、和談の使者のあらゆる条件を具備してござる。三成など青二才の差出る幕ではないのに、この人を差しおいて三成だ秀家だと手間のかゝつたこと、これぐらゐの道理がお分りにならぬか、といふ鼻息であつた。
 秀吉は心得てゐるから、好機嫌、よからう、万事まかせるから大納言の陣屋へ出向いて然るべく運んで参れ。万事まかせてしまへば何かしら手ミヤゲを持つて戻つてくる如水。
 その翌日は焼けるやうな炎天だつた。如水は徳川家康の陣屋へでかける。家康と如水、この日まで顔を見たことがない。顔ぐらゐは見たかも知れぬが、膝つき合せて語り合ふのは始めてゞ、温和な狸と律義な策師と暗々裡に相許したから、遠く関ヶ原へつゞく妖雲のひとひらがこのとき生れてしまつた。頭から爪先まで弓矢の金言で出来てゐる大将だと如水はたつた一日で最大級に家康を買ひかぶる。家康は四十の初恋、如水は四ツ年少の弟だつたが、この道にかけては日本一の苦労人、下世話に言ふ十五六から色気づくとは彼のこと、律義な顔はしてゐるが、仇姿ねたまも忘れ難し、思ふはたゞ一人の人、まさしくこの恋人はかけがへのない天下たゞ一人、いはゞ恋仇同志であるが、仕方がなければ百万石で間に合せるといふ手もあるし、恋仇同志は妙に親近感にひかれるもので、まして振られた同志ではあり、ふられた同志といふものは労はりあつた挙句の果に、結局実力の足りない方が恋の手引をするやうな妙な巡り合せになりがちなものだ。
 家康は如水の口上をきゝ終つて頷き、なるほど、御説の通り私の娘は氏直の女房で、私と北条は数年前まで同盟国、昵懇じっこんを重ねた間柄です。ところが、昵懇とか縁辺は平時のもので、いつたん敵味方に分れてしまふと、之が又、甚だ具合のよからぬものです。色々と含む気持が育つて、ない角もたち、和議の使者として之ぐらゐ不利な条件はないのですね、と言つて拒絶した。如水が家康を見込んで依頼した口上とあべこべの理窟で逆をつかれたのであるが、理窟をまくしたてると際限を知らぬ口達者の如水、ところが、この時に限つて、アッハッハ、左様ですか、とアッサリ呑みこんでしまつた。
 如水は家康に惚れたから、持前のツムジをまげることも省略して、呑込みよろしく引上げてきた。秀吉に対する忿懣の意識せざる噴出であつた。否、秀吉に対する秘密の宣戦布告であつた。如水は邪恋に憑かれた救はれ難い妄執の男、家康の四十の恋を目にとめたが、その実力秀吉に頡頏けっこうする大人物と評価して、俄に複雑な構想を得た。この人物に親睦すれば、再び天下は面白く廻りだしてくる時期があるかも知れぬ。天命は人事を以てはかり難し。天命果して徳川家康に幸するや否や。俄に眼前青空ひらけて、如水は思はず百尺の溜息を吹き、猿めの前には隠居したが、又、人生は蒔き直し。
 何食はぬ顔、秀吉の前に立戻り、徳川大納言の口上は之々、駄目でござつた。然し、ナニ、北条を手なづけるぐらゐ、人の力はいり申さぬ。拙者一人でたくさん、吉報お待ち下されい。屁でもない顔付、自らかう力んで大役を買つてでた。壮んな血気は持前の如水であつたが、人生蒔直しの構想を得た大亢奮に行きがゝりを忘れ、ムク/\と性根が動いて、大役を買つてしまつた。

 如水は城中へ矢文を送つて和睦をすゝめる第一段の工作にかゝり、ついで井上平兵衛を使者に立てゝ酒二樽、糟漬かすづけほう十尾を進物として籠城の積鬱を慰問せしめる。氏政からはこの返礼に鉛と火薬各十貫目を届けて城攻めの節の御用に、といふ挨拶。城中の弾薬貯蔵をほのめかす手段でもあつたが、実際、鉄砲弾薬の貯蔵は豊富であつた。之は先代氏康の用意で、彼は信玄、謙信と争ひ譲るところのなかつた良将であり、当代氏政は単に先代の豊富な遺産を受けついだといふだけだつた。
 そこで如水は更にこの答礼と称し、単身小田原城中へ乗りこんだ。肩衣に袴の軽装、身に寸鉄を帯びず、立ち姿は立派であるが、之がビッコをひいて、たつた一人グラリクラリと乗込んで行く。存分用意の名調子、熱演まさに二時間、説き去り説き来る。時機がよかつた。伊達政宗の敵陣参加で城中の意気に動揺のあつたところへ、松田憲秀の裏切発見、随一の重臣、執権の反逆であるから将兵に与へた打撃深刻を極めてゐる。氏政も和睦の心が動いてゐた。
 如水は四国中国九州の例をひき、長曾我部、毛利、島津等、和談に応じた者はいづれも家名を存してをる。師匠の信長は刃向ふ者は必ず子々孫々根絶せしめる政策の人であつたが、その後継者秀吉は和戦政策に限つて全くその為すところ逆である。武田勝頼が天目山に自刃のとき、秀吉は中国征伐の陣中でこの報告をきいたが、思はず長大息、あたら良将を殺したものよ、甲斐信濃二ヶ国を与へて北方探題、長く犬馬の労をつくさせるものを、と嘆いた。同じ陣中にゐた如水はまのあたりこの長大息を見て、秀吉の偽らぬ心事を知つたのである。これのみではない。秀吉と如水は二人合作の上で、浮田と和議をむすび、信長の怒りにあつて危く命を失ひかけたこともある。蓋し、信長はあくまで浮田を亡して、領地を部下の諸将に与へるつもり、然し、秀吉は木下藤吉郎の昔から和交を以て第一とすること誰よりも如水が良く知つてゐる。今や日本六十余州、庶民はもとより武将に至るまで長々の戦乱に倦み和平をもとめて自ら秀吉の天下を希んでゐる。之を天下の勢ひと言ふ。過去の盟約、累代の情義の如きも、この大勢の赴く前では水の泡に異ならぬ。しかも天下の大勢は益々滔々とうとうたる大流となつて秀吉の統一をのぞむ形勢にあるのだから、この大流に逆ふことや最も愚。秀吉の内意は和平降伏の賞与として、武蔵、相模、伊豆三国を存続せしめるといふのだから、和議に応じ、祖先の祭祀を絶さぬ分別が大切である。和平条約の実行については、万違背のないこと、自分が神明に誓ふから、と言つて、懇々説いた。
 如水の熱弁真情あふれ、和談の使者の口上を遠く外れて惻々そくそくたるものがあるから、かねて和平の心が動いてゐた氏政は思はず厚情にホロリとした。そこで日光一文字の銘刀と東鑑あずまかがみ一部を贈つて厚く労をねぎらひ、その日は即答をさけて、如水を帰した。この報告をうけた秀吉は大いに喜び、如水の言ふまゝに、武蔵、相模、伊豆三国の領有を許す旨を誓紙に書いて直判を捺した。
 如水は之をたづさへて小田原城中にとつて返し、重ねて氏政を説く。氏政の心も定まつて、家臣一同の助命を乞ふ、いはゞ無条件降伏である。和談は成立、如水の労を徳として、氏直からは時鳥ほととぎすの琵琶といふ宝物などが届けられたが、一族率ゐて軍門に降つたのが七月六日であつた。
 ところが、降伏に先立つて、松田憲秀をひきだして、首をはねた。之は一応尤もな人情。裏切りを憎むは兵家の常道で、落城、城を枕に、といふ時には、押込みの裏切者をひきだして首をはね、それから城に火をかけて自刃する。けれども、北条の場合は、城を枕にと話が違つて、降伏開城といふのである。しかも尚裏切者を血祭にあげる、人情まことに憐むべしであるけれども、いはゞ降伏に対する不満の意、不服従の表現と認められても仕方がない。北条方には智者がなく何事につけてもカドがとれぬ。かういふことに敏感で、特に根に持つ秀吉だから、関白を怖れぬ不届きな奴原やつばら、と腹をたてた。
 そこで秀吉は誓約を裏切り、武蔵、相模、伊豆三国を与へるどころか、領地は全部没収、氏政氏照に死を命じる。蓋し、織田信雄の存在が徳川家康の動きだす根に当るなら、北条氏の存在は火勢を煽る油のやうな危険物。特別秀吉の神経は鋭い。そこで誓約を無視して、北条氏を断絶せしめてしまつた。
 顔をつぶしたのは如水である。
 けれども、権謀術数は兵家の習。まして家康に火の油、明かに後日の禍根であるから、之を除いた秀吉の政策、上乗のものではなくても、下策ではない。権謀術数にかけては人に譲らぬ如水のことで、策の分らぬ男ではない。
 けれども、如水は大いにひがんだ。俺のとゝのへた和談だから、俺の顔をつぶしたのだ、と、事毎に自分の男のすたるやうに、自分の行く手のふさがるやうに仕向ける秀吉。凡愚にあらぬ如水であつたが、秀吉との行きがゝり、ひがむ心はどうにもならぬ。心中甚だひねくれて、ふくむところがあつた。
 秀吉は宏量大度の如くありながら、又、小さなことを根にもつて気根よく復讐をとげる男でもあつた。憲秀の裏切を次男左馬助の密告でしくじつた、この怒りが忘れられぬ。そこで如水をよびよせたが、選りに選つて如水をよぶとは、秀吉は無心であつたか知れないが、之はあくどいやり方だ。ハテ、何と言つたな、あの小僧め、憎むべき奴、首をはねて之へ持て。アヽ、あの小僧、左様ですか、承知致した。
 如水は引きさがつたが、父の憲秀、之は落城のとき北条の手で殺された。然し、長男の新六郎はまだ生きて、之は厚遇を受けてゐる。何食はぬ顔、新六郎を戸外へ呼びだして、だしぬけに一刀両断、万感交々こもごも到つて痛憤秀吉その人を切断寸断する心、如水は悪鬼の形相であつた。獅子心中の虫め。屍体を蹴つて首をひろひ、秀吉のもとへブラ下げて、戻つてきた。ハテナ、之は長男新六郎の首と違ふか? ハ、何事で? アッ、やつたな! チンバめ! 秀吉は膝を立てゝ、叫んだ。俺に忠義の新六郎を、貴様、ナゼ、殺した!
 之はしたり。左様でしたか。如水はいさゝかも動じなかつた。冷静水の如く秀吉の顔を見返して、軽く一礼。とんだ人違ひを致して相済まぬ仕儀でござつた。あの左馬助は父の悪逆に忠孝の岐路に立ち父兄の助命を恩賞に忠義の道を尽した健気な若者、年に似合はぬ天晴な男でござる。この新六郎めは父憲秀と謀り主家を売つた裏切者、かやうな奴が生き残つてお歴々との同席、本人の面汚しはさることながら、同席の武辺者がとんだ迷惑などゝ考へてをりましたもので、殿下のお言葉、よくも承りませず、新六郎とカン違ひを致した。イヤハヤ、年甲斐もない、とんだ粗相。また、とぼけをる! チンバめ! 秀吉は叫んだが、追求はしなかつた。
 チンバめ、顔をつぶして、ふてくされをる。持つて生れた狡智、戦略政策にかけて人並以上に暗からぬ奴、いさゝかの顔をつぶして、ひがむとは。秀吉は肚で笑つたが、如水は新六郎の首をはねて、いさゝか重なる鬱を散じた。家康にめぐる天運を頻りにのぞむ心が老いたる彼の悲願となつたが、その家康は、さすがに器量が大きかつた。
 氏政は切腹、世子氏直は高野へ追放、この氏直は家康の娘の聟だ。一家断絶、誓約無視は信長など濫用の手で先例にとぼしからぬことではあるが、見方によれば、家康の手をもぎ爪をはぐやり方、家康のカンにひゞかぬ筈はない。けれども、家康は平気であつた。
 秀吉が家康をよびよせて、北条断絶、氏直追放の旨を伝へ、氏直は貴殿の聟、まことにお気の毒だが、と言ふと、イヤイヤ、殿下、是非もないことでござる。思へば殿下のねんごろな招請三ヶ年、上洛に応ぜぬばかりか四隣に兵をさしむけて私利私闘にふける、遂に御成敗を蒙るは自業自得、誰を恨むところもござらぬ。一命生きながらへるは厚恩、まことに有難いことでござる、と言つて、敬々うやうやしく御礼に及んだものである。
 家康は人の褌を当にして相撲をとらぬ男であつた。利用し得るあらゆる物を利用する。然しそれに縋り、それに頼つて生きようといふ男ではない。松田憲秀の裏切露顕の報をきいて、家康は家臣達にかう諭した。小田原城に智将がをらぬものだから、秀吉勢も命拾ひをしたものだ。俺だつたら、裏切露顕を隠しておいて、何食はぬ顔、秀吉の軍兵を城中に引入れ、皆殺しにしてしまふ。秀吉方一万ぐらゐは失つてをる。裏切などは当にするな、と言つた。奇策縦横の男である故奇策にたよらぬ家康。彼は体当りの男である。氏直づれ、信雄づれの同盟がなくて生きられぬ俺ではない。家康は自信、覇気満々の男であつた。
 小田原落城、約束の如く家康は関八州を貰ふ。落城が七月六日、家康が家臣全員ひきつれて江戸に移住完了したのが九月であつた。その神速に、秀吉は度胆をぬかれた。移住完了の報をうけると、折から秀吉は食事中であつたが、箸をポロリと落すのはかういふ時の約束で、秀吉は暫し呆然、あの狸めのやることばかりは見当がつかぬ、思はず長大息に及んだといふ。
 如水には、ビタ一文恩賞の沙汰がなかつた。


 釜山郊外東莱とうらいの旅館で囲碁事件といふものが起つた。
 石田三成、増田長盛、大谷刑部の三奉行が秀吉の訓令を受けて京城を撤退してきて、報告のため黒田如水と浅野弾正をその宿舎に訪れた。ところが如水と弾正は碁を打つてゐる最中でふりむきもしない。三奉行はさうとは知らず暫時控えてゐたが、そのうちに、奥座敷で碁石の音がする。待つ人を眼中になく打ち興じる笑声まで洩れてきたから、無礼至極、立腹して戻つてしまつた。さつそくこの由を書きしたゝめて秀吉の本営に使者を送り、如水弾正の嬌慢を訴へる。
 秀吉は笑ひだして、イヤ、之は俺の大失敗だ。あのカサ頭の囲碁気違ひめ、俺もウッカリ奴めの囲碁好きのことを忘れて、陣中徒然、碁にふける折もあらうが、打ち興じて仕事を忘れるな、と釘をさすのを忘れたのだ、さつそく奴めしくじりをつたか。之は俺の迂闊であつた。まア、今回は俺にめんじて勘弁してくれ、と言つて三成らを慰めた。
 ところが如水は碁に耽つて仕事を忘れる男ではない。それほど碁好きの如水でもなかつた。野性の人だが耽溺派とは趣の違ふ現実家、却々なかなかもつて勝負事に打ち興じて我を忘れる人物ではない。このことは秀吉がよく知つてゐる。けれども斯う言つて如水のためにとりなしたのは、秀吉が朝鮮遠征軍の内情軋轢に就て良く知らぬ。遠征軍の戦果遅々、その醜態にいさゝか不満もあつたから、律儀で短気で好戦的な如水が三奉行に厭味を見せるのも頷ける。そこで如水のために弁護して、之は俺の大失敗だと言つて笑つてすました。
 たかゞ碁に打ち耽つて来客を待たしたといふ、よしんば厭味の表現にしても、子供の喧嘩のやうなたあいもない話であるから、自分が頭を掻いて笑つてしまへばそれで済むと秀吉は思つてゐた。
 ところが、さうは行かぬ。この小さな子供の喧嘩に朝鮮遠征それ自体の大きな矛盾が凝縮されてゐたのであつたが、秀吉は之に気付かぬ。秀吉はその死に至るまで朝鮮遠征の矛盾悲劇に就てその真相の片鱗すら知らなかつたのであるから、この囲碁事件を単なる頑固者と才子との性格的な摩擦だぐらゐに、軽く考へてしかゐなかつた。

 元来、如水が唐入(当時朝鮮遠征をかう言つた。大明進攻の意である)に受けた役目は軍監で、つまり参謀であるが、軍監は如水壮年時代から一枚看板、けれども煙たがられて隠居する、ちやうど之と入換りに秀吉帷幕の実権を握り、東奔西走、日本全土を睥睨へいげいして独特の奇才を現はしはじめてきたのが、石田三成であつた。
 如水はことさらに隠居したが、なほ満々たる色気は隠すべくもなく、三成づれに何ができるか、事務上の小才があつて多少儕輩せいはいにぬきんでゝゐるといふだけのこと。最後は俺の智恵をかりにくるばかりさ、と納まつてゐたが、世の中はさういふものではない。昨日までの青二才が穴をめ立派にやつて行くものだ。さうして、昨日の老練家は今日の日は門外漢となり、昨日の青二才が今日の老練家に変つてゐるのに気がつかない。
 如水は唐入の軍監となり、久方振りの表役、秀吉の名代、総参謀長のつもりで、軍略はみんな俺に相談しろ、俺の智嚢ちのうのある限り、大明の首都まで坦々たる無人の大道にすぎぬと気負ひ立つてゐた。
 けれども、総大将格の浮田秀家を始め、加藤も小西も、如水の軍略、否、存在すらも問題にせぬ。各々功を争ひ腕力にまかせて東西に攻めたてる。朝鮮軍が相手のうちは、これで文句なしに勝つてゐた。之は鉄砲のせゐである。朝鮮軍には鉄砲がない。鉄砲の存在すらも知らなかつた。彼らの主要武器たるゆみは両叉の鉄をつけた矢を用ひ、射勢はかなり猛烈だつたが、射程がない。城壁をグルリと囲んだ日本軍が鉄砲のツルベうち、百雷の音、濛々たる怪煙と異臭の間から見えざる物が飛び来つて味方がバタ/\と倒れて行く。魔法使を相手どつて戦争してゐる有様であるから、魂魄消え去り為す術を失ひ、日本軍が竹の梯子をよぢ登つて足もとへ首をだすのに茫然と見まもつてゐる。之では戦争にならない。京城まで一気に攻めこんでしまつた。
 そこへ明の援軍がやつてきた。明は西欧との通交も頻繁で、もとより鉄砲も整備してゐるから朝鮮を相手のやうには行かぬ。
 如水は明軍を侮りがたい強敵と見たから、京城を拠点に要所に城を築いて迎へ撃つ要塞戦法を主張、全軍に信頼を得てゐる長老小早川隆景が之に最も同意して、軍議は一決の如く思はれたのに、突然小西行長が立つて、一挙大明進攻を主張し、単独前進を宣言して譲らないから、軍議は滅茶々々になつてしまつた。結局行長は単独前進する、果して明軍は数も多く武器もあるから、大敗北を蒙り、全軍に統一ある軍略を失つてゐる日本軍、一角が崩れるとたあいもなくバタ/\と敗退して、甚大の難戦に落ちこんでしまつた。
 如水は立腹、それみたことかとふてくされた。病気を理由に帰国を願ひでる。帰朝して遠征軍の不統一を上申し、各人功を争ひ、自分勝手の戦争にふけつて統一がないのだから、整備した大敵を相手にすると全く勝ちめがない。総大将格の秀家に軍議統一の手腕がないのだから、と言つて、満々たる不平をぶちまけた。もとより秀吉は不平の根幹が奈辺にあるか見抜いてゐる。如水も老いた。若い者に疎略にされて色気満々のチンバ奴がいきり立つこと。秀吉は、まだそのころは聡明な判断を失はなかつた。
 遠征軍はともかく立直つて碧蹄館で大勝した。然し、明軍も亦立直つて周到な陣を構へ対峙するに至つて、戦局まつたく停頓し、秀吉はたまりかねて焦慮した。自ら渡韓、三軍の指揮を決意したが、遠征の諸将からは、まだ殿下御出馬の時ではないと言つて頻りにとめてくる。家康、利家、氏郷ら本営の重鎮に相談をかけると、殿下、思ひもよらぬことでござる、と言つて各々太閤を諫めた。
 当時日本国内は一応平定したけれども、之は表面だけのこと、謀反、反乱の流言は諸国に溢れてゐる。朝鮮遠征に心から賛成の大名などは一人もをらず、各人所領内に匪賊の横行、経済難、こうじ果てゝゐる。町人百姓に至つては、大明遠征の気宇の壮、さういふものへの同感は極めて僅少で、一身一家の安穏を望む心が主であるから、不平は自ら太閤の天下久しからず、謀反が起つてくつがへる、お寺の鐘が鳴らなくなつたから謀反の起る前兆だなどゝ取沙汰してゐる。
 家康が名護屋なごやに向つて江戸を立つとき、殿も御渡海遊ばすか、と家臣が問ひかけると、バカ、箱根を誰が守る、不機嫌極る声で怒鳴つた。まことに然り。謀反を起す者、家康如水の徒ならんや。広大なる関八州は家康わづかの手兵を率ゐて移住を完了したばかり、土着の者すべて之北条恩顧の徒ではないか。日本各地おしなべて同じ事情で、領主の武力がわづかに土賊の蜂起を押へてゐるばかり。家康が関東へ移住と共に、施政の第一に為したことが、領内鉄砲の私有厳禁といふことであつた。
 真実遠征に賛成の大名などは一人もをらぬ。伊達政宗は相も変らず領土慾、それとなく近隣へチョッカイをだして太閤の怒りにふれ謀反の嫌疑を受けた。大いに慌てゝこの釈明を実地の働きで表すために自ら遠征の一役を買つて出て、部将の端くれに連なり、頼まれぬ大汗を流してゐる。かういふ笑止な豪傑もゐたけれども、家康も利家も氏郷も遠征そのことの無理に就て見抜くところがあつたし、国内事情の危なさに就ても太閤の如くに楽天的では有り得ない自分の領地を背負つてゐた。秀吉が名護屋にゐるうちは睨みがきくが、渡韓する、戦果はあがらぬ、火の手が日本の諸方にあがつて自分のお蔵に火がついて手を焼くハメになるのが留守番たち、一文の得にもならぬ。
 家康、利家、氏郷、交々こもごも秀吉の渡韓を諫める。然し、秀吉は気負つてゐるし、家康らは又、異見の根柢が遠征そのことの無理に発してゐるのであるが、之を率直に表現できぬ距りがあり、ダラ/\と一は激し、一はなだめて、夜は深更に及んだけれども、キリがない。このときであつた。襖を距てた隣室から、破鐘われがねのやうな声できこえよがしの独りごとを叫びはじめた奴がある。如水であつた。
「ヤレヤレ。天下の太閤、大納言ともあらう御歴々が、夜更けに御大儀、鼠泣かせの話ぢや。御存知なしとあらば、遠征軍の醜状いさゝかお洩し申さうか。彼らは兵士にあらず、ぬすびと、匪賊でござる。日本軍の過ぐるところ、残虐きはまり、韓民悉く恐怖して山中に逃避し去り、占領地域に徴発すべき物資なく、使役すべき人夫なく、満目たゞ見る荒蕪こうぶの地、何の用にも立ち申さぬ。のみならず諸将功を争ふて抜け駈けの戦果をあさり、清正の定めた法令は行長之を破り、行長の定めた法令は清正之を妨げる。総大将の浮田殿、無能無策の大ドングリ、手を拱いでござるはまだしも、口を開けば、事毎に之失敗のもとへでござるよ。この将卒が唐入などゝは笑止千万、朝鮮の征伐だにも思ひも寄り申さぬ。この匪賊めらを統率して軍規に服せしめ戦果をあげるは天晴大将の大器のみ。大将の器は張子はりこでは間に合はぬ。日本広しといへども、江戸大納言、加賀宰相、然して、かく申す黒田如水、この三人をおいて天下にその人はござるまいて」
 破鐘の独りごと。
 如水は戦争マニヤであつた。なるほど戦争の術策に於て巧妙狡猾を極めてゐる。又、所領の統治者としても手腕凡ならず、百姓を泣かすな、ふとらせるな、といふのが彼の統治方針。百万石二百万石の領地でも大きすぎて困るといふ男ではない。けれども、所詮武将であり、武力あつての統治者だ。彼は切支丹で常に外人宣教師と接触する立場にありながら、海外問題に就て家康の如く真剣に懊悩推敲する識見眼界を持ち合せぬ。民治家としても三成の如く武力的制圧を放れ、改革的な行政を施すだけの手腕見識はなかつた。明国へ攻め入ればとて、この広大、且言語風俗を異にする無数の住民を擁する土地を永遠に占領統治し得べきものでもない。如水はかゝる戦争の裏側を考へてをらぬ。否、その考への浮かばぬ如水ではなかつたが、之を主要な問題とはせぬ如水であつた。
 四人は顔を見合せた。年甲斐もない血気自負、甚だ壮烈であるけれども、あまり距りのある如水の見識で、言葉もでない。秀吉まで毒気をぬかれて、渡韓は有耶無耶、流れてしまつた。
 秀吉は渡海を諦めたが、如水の壮語に心中頷くところがあつて、再び軍監として渡海せしめることにした。一応の任務を持たせて戦地に放つておく限り、功にはやり、智嚢をかたむけ、常に何がしかのミヤゲを持つて立ち戻る如水だからだ。それで旌旗せいきを授け、諸将にふれて従前以上の権力をもたせ、浅野弾正と共に渡海せしめた。そこで二人は釜山に到着、東莱の宿舎に落付く。囲碁事件の起つたのは、この時のことであつた。
 ちやうど、このとき、前線では和議が起つてゐた。秀吉を封じて大明国王にするといふ、こんな身勝手な条約に明軍が同意を示す筈は有り得ないのだから、諸将は誰あつて和議成立をまともに相手にしてはをらぬ。如水は特別好戦的な男だから和談派の軟弱才子を憎むや切、和談を嫌ふが故に、好戦的ですらあつた。
 朝鮮遠征の計画がすゝめられてゐるとき、石田三成は島左近を淀君のもとに遣して、淀君の力によつてこの外征を思ひとゞまるやう説得方を願はせた。小田原征伐が終り奥州も帰順して、ともかく六十余州平定、応仁以降うちつゞく戦乱にやうやく終止符らしきものが打たれたばかり。万民が秀吉の偉業を謳歌するのは彼によつて安穏和楽を信ずるからで、然る時に、息つくまもなく海外遠征、壮丁そうていは使丁にとられ、糧食は徴発、海辺の村々は船の製造、再び諸国は疲弊して、豊臣の名は万民怨嗟の的となる。明を征服したればとて、日本の諸侯をこゝに移して永住統治せしめることは不可能で、遠征の結果が単に国内の疲弊にとゞまり実質的にはさらに利得の薄いことを三成は憂へたから、淀君の力によつて思ひとゞまらせたいと計つた。
 とはいへ、三成は周到な男であるから、一方遠征に対して万全の用意を怠らず、密偵を朝鮮に派して地形道路軍備人情風俗に就て調査をすゝめる、輸送の軍船、糧食の補給、之に要する人夫と船の正確な数字をもとめて徴発の方途を講じてもゐた。
 如水は三成の苦心の存するところを知らぬ。淀君のもとに島左近を遣して外征の挙を阻止する策を講じたときいて、甚しく三成を蔑み、憎んだ。如水の倅長政は政所の寵を得て所謂政所派の重鎮であり、閨閥に於て淀君派に対立してゐるものだから、淀君派の策動は間諜の手で筒抜けだ。小姓あがりの軟弱才子め、戦争を怖れ、いたずらに平安をもとめて婦女子の裾に縋りつく。
 三成は如水隠退のあとを受けて秀吉の帷幕随一の策師となつた男であるから、尚満々たる血気横溢の如水にとつて、彼の成功は何よりも虫を騒がせる。三成は理知抜群の才子であるが、一面甚だ傲岸不屈、自恃の念が逞しい。如水の遺流の如きはもとより眼中になく、独特の我流によつて奇才を発揮してゐる。人づきの悪い男で、態度が不遜であるから、如水は特別不快であり、三成の名をきいたゞけでも心中すでに平でない。その才幹を一応納得せざるを得ないだけ憎しみと蔑みは骨髄に徹してゐた。たま/\淀君の裾に縋つて外征阻止をはかつたときいたから、如水の軽蔑は激発して、彼が不当に好戦意慾に憑かれたのもさういふところに原因のひとつがあつた。
 だが、この遠征には、秀吉も知らぬ、家康も知らぬ、如水はもとよりのこと、三成すらも気づかなかつた奇怪な陥穽があつたのである。

 信長は生来の性根が唯我独尊、もとより神仏を信ぜず、自分を常に他と対等の上に置く独裁型の君主であつたが、晩年は別して傲慢になつた。
 秀吉が信長の命を受けて中国征伐に出発のとき、中国平定後は之をお前にやるから、と言はれて、どう致しまして、中国などは他の諸将に分与の程を願ひませう。その代り、中国征伐のついでに九州も平らげてしまふから、九州の年貢の上りを一年分だけ褒美に頂戴致したい、之を腰にぶらさげて朝鮮と明を退治してきます、と言つて、信長を笑はせた。秀吉の出放題の壮語にも常に主人の気持をそらさぬ用意が秘められてをり、信長の意中を知る秀吉は巧みに之を利用して信長の哄笑を誘つたのだが、やがてそれが秀吉自身の心になつてしまふのだつた。
 秀吉は九州征伐の計画中には同時に朝鮮遠征の計画をも合せ含めて、対馬の領主宗義調そうよししげに徴状を発し、如水や安国寺恵瓊えけいに向つて、九州の次は朝鮮、その朝鮮を案内に立てゝ大明征伐が俺のスゴロクの上りだからお前達も用意しておけ、と言つて痩せた肩を怒らせてゐたといふ。
 ところが、九州が平定する。すると秀吉は忘れてゐない。さつそく宗義調に命じて、平和的に朝貢するやう朝鮮にかけあへ、と言つてきた。宗は秀吉の気まぐれで、九州征伐余勢の気焔だらうと考へ、本心だとは思ふことができないから、なんの朝鮮如き、殿下の御威光ならば平蜘蛛ひらぐもの如く足下にひれふすでございませう、と良い加減なお世辞を言つて秀吉を喜ばせておいた。
 だが、秀吉は人が無理だといふことを最もやる気になつてゐた。なぜなら、他人にはやれないことが自分にだけは出来るのだし、又、それを歴史上に残してみせるといふ増上慢にとり憑れてしまつたからだ。この増上慢の根柢には科学性が欠けてゐた。彼はさしたる用意もなく、日本平定の余勢だけで大明遠征にとりかゝつた。人には出来ぬ、然し俺には出来るといふ信念だけがその根柢であつたから、彼に向つて直接苦言を呈する手段がなかつたのである。
 まだ小田原征伐が残つてゐる、奥州も平定してゐないといふのに、秀吉は宗義智よしとしに督促を発して、まだ朝鮮が朝貢しないが、お前の掛合はどうしてゐる。直ちに朝貢しなければ、清正と行長を攻めこませるから、と厳命を達してきた。
 宗義智は驚いた。義智の妻は小西行長の妹で義の兄弟、この両名は朝鮮のことに就ては首尾一貫連絡をとつてゐる。行長の父は元来堺の薬屋で唐朝鮮を股にかけた商人、そこで行長も多少は朝鮮の事情を心得てゐたから、殿下が遠征の場合は拙者めに道案内を、と言つて、兼々かねがねうまく秀吉の機嫌をとりむすび、よからう、日本が平定すると唐入だから怠らず用意しておけ、その方と清正両名が先陣だ、かう言つて、清正と二人、肥後を半分づゝ分けて領地に貰ひ、その時から唐入の先陣は行長と清正、手筈はちやんときまつてゐた。
 秀吉の計画は唐入、即ち明征伐で、朝鮮などは問題にしてをらぬ。朝鮮づれは元々日本の領地であつた所であり、宗の掛合だけでたゞの一睨み、帰順朝貢するものだと思つてゐる。そこで朝鮮を道案内に立て明征伐の大軍を送る、之が秀吉のきめてかゝつたプラン、宗義智に命じて掛合はせたところも帰順朝貢、仮道入明、即ち明征伐の道案内といふことで、秀吉は簡単明快に考へてゐる。応じなければ即刻清正と行長を踏みこませるぞ、と言つて義智に命じた。
 然しながら朝鮮との交渉がしかく簡単に運ばぬことは、行長、義智、両名がよく心得てゐた。朝鮮は明国に帰属してゐたが、明は大国であり、之に比すれば日本は孤島の一帝国にすぎぬ。あまつさへ足利義満が国辱的な外交を行つて日本の威信を失墜してゐる。即ち彼は自ら明王の臣下となり、明王の名によつて日本国王に封ぜられ、勘合符の貿易許可を得たものだつた。だから朝鮮の目には、日本も自分と同じ明王の臣下、同僚としか映らず、同僚の国へ朝貢する、考へられぬ馬鹿なことだと思つてゐる。まして、その同僚のお先棒を担いで主人退治の道案内をつとめるなどゝは夢の中の話にしても阿呆らしい。
 行長と義智は這般しゃはんの事情を知悉ちしつしながら、之を率直に上申して秀吉の機嫌をそこねる勇気に欠けてゐたのである。真相を打開けて機嫌をそこねる勇気はない。然し、厳命であるから、ツヂツマは合せなければならぬ。
 そこで博多聖徳寺の学僧玄蘇を正使に立て、義智自身は副使になつて渡韓した。帰順朝貢などゝいふ要求は始めから持ちださない。けれどもシッポがばれては困るから秀吉の要求だけは相手に告げた上で、どうも成上り者の関白だから野心に際限がなく身の程を知らなくて自分らは無理難題に困つてゐる。貴国の方で帰順朝貢仮道入明などゝいふ馬鹿々々しいことは出来る筈でないけれども、自分が間にはさまつて困つてゐるから体よくツヂツマを合せてくれ。つまり交隣通信使をだしてくれぬか。交隣通信使は二ヶ国間の対等の公使であるが、之を帯同して秀吉の前だけは帰順朝貢と称して誤魔化してしまふ。その代り、御礼として、叛民の沙乙背同と俘虜の孔太夫を引渡すし、又、倭寇の親分の信三郎だの金十郎だの木工次郎といふてあひを引捕へて差上げるから、と言つて、三拝九拝懇願に及んだ。
 ともかく朝鮮側の承諾を得ることができて、交隣通信使たる黄充吉、副使の金誠一らを伴つて京都に上り、之を帰順朝貢と称して上申したのだが、朝鮮王からの公文書は途中で偽造してシッポのでないものに造り変へておいたのだ。
 この朝鮮使節が上洛したのは小田原征伐の最中だつたが、朝鮮などは元々日本の臣下ときめてかゝつた秀吉、あゝ、左様か、ヨシヨシ、待たしておけ、問題にしない。五ヶ月間、京都に待たせておいた。
 小田原遂に落城、秀吉は機嫌よく帰洛する、途中駿府まで来たとき、小西行長が駈けつけてきて拝謁し、改めて朝鮮使節の来朝に就て報告する。秀吉は満足して、アッハッハ、あつさり帰順朝貢しをつたか、さもあらう、それに相違あるまいな、と念を押したが、頭からきめてかゝつて疑ふ様子がないのだから、行長は圧倒されて、否定どころか、多少の修正をほどこすだけの勇気もない。そこで秀吉がたゝみかけて、然らば唐入の道案内も致すであらうな、と問ひたゞすと、それはもう、殿下の御命令に背く筈はございませぬ、かうハッキリと答へてしまつた。
 朝鮮使節の一行が交隣通信使にすぎぬなどゝは秀吉もとより夢にも思はず、行長と義智の外には日本に一人の知る者もない。三百名の供廻りをつれ、堂々たる使節の一行であるから、之が帰順朝貢とは殿下の御威光は大したもの、折から印度副王からの使節なども到着して京都は気色の変つた珍客万来、人々は秀吉の天下を謳歌したが、五ヶ月間の待ちぼうけ、この間の使節一行をなだめるために行長と義智は百方陳弁、御機嫌をとりむすぶのに連日連夜汗を流し痩せる思ひをしたのであつた。
 外交官といふものは人情に負けると失敗だ。本国と相手国の中間に於て、その両方の要求を過不足なく伝へるだけの単なる通話機械の如き無情冷淡を必要とする。要は之だけのものではあるが、考へるといふ働きあるために単なる機械に化することが至難事だ。本国の雰囲気にまきこまれても不可、相手国の雰囲気にまきこまれても不可、秀吉の怒りを怖れて相手国の情勢を率直に伝へる勇気がなくても不可であり、朝鮮側の意向を先廻りして帰順朝貢の筈がないときめてかゝる、之も亦不可。人情に負け、自分だけの思考によつて動きだすと失敗する。とはいへ、単なる通話機械と化するには一個の天才が必要だ。行長も義智も外交官の素質がなかつた。帳面づらと勘定を合せるだけの機智はあつたが、商人型の外交員にすぎなかつた。
 けれども、行長はむしろ正直な男であつた。秀吉の独断的な呑込み方に圧倒されて小細工を弄せざるを得ぬ立場になつたが、之はその人選に当を得ぬ秀吉自身の失敗。
 行長は切支丹であつたが如水も亦切支丹であつた。行長はその斬罪の最後の日に到るまで極めて誠実なる切支丹で、秀吉の禁教令後は追放のパードレを自領の天草に保護して布教に当らせ、秀吉と切支丹教徒の中間に立つて斡旋につとめ、自らの切支丹たることをついぞ韜晦とうかいしたことがなかつた。如水は然らず。彼はパードレに向つて、自分は切支丹であるために太閤の機嫌をそこね、昇進もおくれ禄高も少い、と言つて、暗に切支丹を韜晦する自分の立場を合理化し、一方に禅に帰依して太閤の前をつくろつてゐた。尤も之には両者の立場の相違もある。行長は太閤の寵を得てをり、如水はさらでも睨まれてゐる。切支丹を韜晦せずにはゐられない危険な立場にゐたのであつたが、行長とても、多少の寵は禁教令の前に必ずしも身の安全の保証にはならぬ。高山右近の例によつて之を知りうる。行長は如水に比すれば正直であり、又、ひたむきな情熱児であつた。
 駿府の城で行長の報告をきいた秀吉は大満足。その晩は大酒宴を催して、席上大明遠征軍の編成を書きたてゝ打興じ、遠征の金に不自由なら貸してやるから心配致すな、ソレ者共、といふので、三百枚の黄金を広間にまきちらす馬鹿騒ぎ。
 京都へ帰着。日本国関白殿下の大貫禄をもつて天晴れ朝鮮使節を聚楽第じゅらくだいに引見する。
 秀吉はしゃの冠に黒袍束帯、左右にズラリと列坐の公卿が居流れる。物々しい儀礼のうちに国書と進物を受けたけれども、酒宴が始まると、もう、ダラシがない。朝鮮音楽の奏楽が始まると、鶴松(当時二歳)をだいて現れて、之をあやしながら縁側を行つたり来たり、コレ/\泣くな、ホレ、朝鮮の音楽ぢや、と余念がない。すると鶴松が小便をたれた。秀吉アッと気付いて、ヤア小便だ/\。時ならぬ猿猴えんこうの叫び声。「容貌矮陋わいろう、面色黎黒れいこく」下賤無礼、話の外の無頼漢だ、と朝鮮使節はプン/\怒つて帰国の途についた。
 さうとは知らぬ秀吉、名護屋に本営を築城して、大明遠征にとりかゝる。行長と義智は困惑した。遠征軍が平和進駐のつもりで釜山に上陸すると、忽ちカラクリがばれてしまふ。どうしても一足先に赴いて何とか弥縫びほうの必要があるから、ひそかに秀吉に願ひでた。即ち、朝鮮使節はあゝ言つて帰つたけれども、彼等は元来表裏常ならぬ国柄であるから、果して本心から道案内に立つかどうか分らない。日本軍が上陸してから俄に違約を蒙つて齟齬そごを来しては重大だから、彼らの本心を見究めるため、自分らを先発させて欲しい。朝鮮の真意が分り次第報告するが、ともかく三月一杯は全軍の出陣を見合せるやう訓令を発していたゞきたい、と願ひでゝ、許可を得た。
 行長と義智は直ちに手兵を率ゐて先発する。彼らは必死であつた。釜山に上陸、直ちに交渉を開始して、清正の軍勢は目と鼻の先の島まで来てゐるし、後詰の大軍はすでに対馬に勢揃ひを完了してゐる。十数万の精鋭であるから、今、太閤を怒らせると、朝鮮はてもなく足下に蹂躙されるのが運命である。かくなる以上は遠征の道案内に立つ方が身の為だ、と言つて、彼らも死物狂ひ、なかば脅迫の言辞を弄して迫つたけれども、朝鮮の態度は傲慢で、下賤の猿面郎が大明遠征などゝは蜂が亀の甲を刺すやうなものだ、といふ頭から軽蔑しきつた文書によつて返答してきた始末であつた。
 宗義智はこの数年間屡次るじにわたつて朝鮮側と屈辱的な折衝を重ね、太閤の意志とうらはらな返翰へんかんを得て、之を中途で握りつぶしてゐたのであるから、露顕の恐怖に血迷つた。行長と打合せる余裕すらも失ひ、単独鄭揆に交渉したが、軽蔑しきつて返事もくれぬ。義智はすでに逆上した。進め、殺せ、狂乱叱咤、釜山城へ殺到して、占領する。然し、血の悪夢からさめた時には、単なる一小城の蹂躙と殺戮が自分を救ふ何の役にも立たないことを見出したばかりであつた。彼は絶望を抑へるために亢奮し、ゴロゴロした屍体の中を歩き廻つて血刀をふりあげながら絶えず号令を叫んでゐた。東莱の府使へ急使を派して、仮道入明に応じなければ釜山同様即刻武力をもつて蹂躙すると脅迫したが、使者のもたらした返事は簡単な拒絶の数言にすぎなかつた。義智はその言葉がよく聞きとれなかつたやうな変な顔でボンヤリしてゐたが、みんな殺すのだと呟いた。急に名状し難い勢ひで崩れた塀の上へ駈け上ると進軍の命令を下してゐた。殺到して東莱城を占領する。つゞいて、水営。つゞいて、梁山。義智の絶望と混乱のうちに飛火のやうに血煙がたち、戦争はまつたく偶発してしまつたのである。
 かくなれば、是非もない。道は一つ。行長は決意した。他の誰よりも真ッ先に京城に乗込み、朝鮮王と直談判して仮道入明を強要し、ツヂツマを合せなければならぬ。京城へ。京城へ。行長は走つた。
 清正をはじめ待機の諸将はさうとは知らない。行長が功をあせつて彼等をだしぬいたとしか思はなかつた。激怒して上陸、京城めがけて殺到する。統一も連絡もなく各々の道を走つたが、鉄砲を知らぬ朝鮮軍は単に屍体を飛び越すだけの邪魔となつたにすぎなかつた。日本軍は一挙に京城を占領し、朝鮮王は逃亡した。
 京城の一番乗は言ふまでもなく行長だつたが、一日遅れた清正は狡猾な策をめぐらし、自分の京城入城を知らせる使者を誰よりも早く名護屋本営へ走らせた。この報告には一番乗とは書き得ないので、たゞ今入城、と書いておいたが、一番早く入城の報告を行ふことによつて太閤に一番乗を思ひこませるためであつた。清正は行長にだしぬかれた怒りと一番乗が最大関心の大事であつたが、行長は一番乗の報告などにかけづらつてはゐられなかつた。
 京城に到着、行長は直に密使を朝鮮軍の本営に送つて、仮道入明、否々々、彼は太閤の訓令も待たず、直に明との和平交渉にとりかゝつた。即ち、明との和平を斡旋せよ、単刀直入、朝鮮軍にきりだした。彼は破れかぶれであつた。毒食はゞ皿まで、彼はもう弥縫のための暗躍に厭気がさして、卑屈な自分を呪つたが、所詮弥縫暗躍がまぬがれがたい立場なら、いつそ全てを自分一存のカラクリで仕上げてやれといふ自暴自棄の結論に達してゐた。朝鮮の説得だの、朝鮮風情を相手に小さなツヂツマを合せてゐるのは、もう厭だ。どうせ死ぬ命が一つなら、大明を直接相手に大芝居、即刻媾和こうわを結んでしまふ。どんな国辱的な条件でも、秀吉が気付かなければいゝではないか。自分が中間に立つて誤魔化してしまふ。一文の利得もなく一条の道義もないよしなき戦争、徒なる流血の惨事ではないか。間違へば自分の命はなくなるが、無辜むこの億万人が救はれる。日本六十余州にも平和がくる。明も、朝鮮も、無意味な流血から救はれるのだ。
 そこで朝鮮本営へ密使を送つて明への和平斡旋方を切りだしたが、根が正直な男であるから自分一個の思ひつめた決意だけしか分らない。外交の掛引だの、朝鮮方の心理などには頓着なく、お互に無役な血を流すのは馬鹿々々しいことではないか、我々日本の将兵は数千里の遠征などは欲してゐないし、朝鮮も明も恐らく同じことだらう。要するに戦争の結果が単に三国の疲弊を招くだけのことにすぎないのだから、どつちの顔も立つやうにして、こんな戦争は一日も早く止す方がいゝ。さうではないか。即刻明へ和平斡旋に出向いてくれ。和平の条件などは自分と明とで了解し合へばそれでいゝので、どんな条件でも構はぬ。自分が途中でスリ変へて本国へ報告してシッポがでなければ、それでいゝ、之が人道、正義と云ふものではないか、と言つて、洗ひざらひ楽屋を打開けて、単刀直入切りだした。
 楽屋を打開けたものだから、朝鮮軍は軽蔑した。彼らは日本軍に文句なしの敗戦を喫したけれども、明軍を当にしてゐる彼等、自分一個の実力評価の規準がない。自分は負けたが明軍がくれば日本などは問題外だときめてゐる。その明軍の到着がすでに近づいてゐることが分つてゐたから、至極鼻息が荒くなつてゐるところへ、行長が楽屋を打開けたから、日本軍はもはや戦意を失つてゐる、明の援軍近しときいてすでに浮足立つてゐるのだと判断した。こういふ有様の日本軍なら明の援軍を待つまでもない、俺の力でも間に合ふだらう、と唐突に気が強くなり頭からめてきた。そこで行長の交渉に返答すらも与へず、返事の代りに突然全軍逆襲した。行長は不意をつかれて一度は崩れたが、何がさて相手は鉄砲もない朝鮮軍のことで、行長を甘く見たから一時鼻息を荒くしたといふだけのこと、坡州から援兵が駈けつけて日本軍の腰がすはると、もう駄目だ。元の木阿弥、てもなく撃退されてしまつた。
 明の大軍が愈々近づく。之ぞ目指す大敵、将星一堂に会して軍略会議がひらかれる。このときだ、隠居はしても如水は常に一言居士、京城に主力を集中、その一日行程の要地に堅陣を構へ、守つて明軍を撃破すべしと主張する。大敵を迎へて主力の一大会戦であるから理の当然、もとより全軍異議なく、軍議一決の如く思はれたとき、小西行長が立つて奇怪な異見を立てはじめた。
 行長の意見は傍若無人、軍略の提案ではなく自分一個の独立行動の宣言にすぎないのだつた。諸氏、明軍来るときいて憶したりや、行長の調子はかくの如きものだつた。源平の昔から勝機は常に先制攻撃のたまもの、之が戦争の唯一の鍵といふものだ。自分の兵法に守勢はない、よつて自分は即刻平壌に向つて前進出撃するが、否、平壌のみにとゞまらぬ。独力鴨緑江を越えて明国の首府に攻め入ることも辞さぬであらう。傲然として、四囲の諸将を睥睨した。
 然り。行長は平壌まで前進しなければならないのだ。他の誰よりも先頭に立たねばならぬ必要があるからである。朝鮮が和平斡旋を拒絶したから、道は一つ、全軍の先頭にでゝ、直接明の大将と談判しなければならないのだ。
 諸将はこのことを知らぬから、行長の決然たる壮語、叱咤、万億の火筒の林も指先でくじくが如き壮烈無比なる見幕に驚いた。怒り心頭に発したのは如水。豎子じゅし策戦を知らず、徒に壮語を弄して一時の快を何とかなす、然し、つとめて声を和げ、余勢をかつての前進は常に最も容易であるが、遠く敵地に侵入して戦線をひろげ兵力を分散して有力な敵の主力をむかへることは不利である。諺に「用心は臆病にせよ」とはこのことだ、と説いたけれども、もとより戦略などが問題ではない行長、焦熱地獄も足下にふんまいて進みに進む見幕は微塵も動かぬ。ボンクラ諸将は俄に心中動揺して、成程なるほど守る戦争は卑怯だなどゝ行長の尻馬に乗る。大将格の浮田秀家自体がこの動揺に襲はれてしまつたから、軍議は蜂の巣をつゝいた如く湧きかへつて、結局、行長の前進を認めてしまつた。
 行長は平壌へ前進する。ほつとくわけにも行かぬから、平壌から京城にかけて俄ごしらへの陣立をつくり諸将が分担布陣したが、延びすぎた戦線、統一を欠く陣構へ。すでに戦争は負である。
 如水は全くふてくさつた。怒気満々、病気と称して帰国を願ひでる。許可を得て本国へ引上げたが、今に見よ、行長め、負けてしまへ。果して行長は敗北する、全軍大混乱。ザマを見よ、如水は胸をはらした。大政所の葬儀に列し、京大坂で茶の湯をたのしみ、暫しは戦地を忘れて閑日月かんじつげつ。然し、一足名護屋へ立戻ると、こゝは戦況日夜到り、苦戦悲報、かうなると忽ちムズムズ気負ひ立たずにはゐられぬ如水。去年の憂さがもう分らぬ。たうとう襖越しに色気満々の独言となり、再び軍監を拝命渡韓するに至つたが、之は後の話。
 行長の平壌前進のおかげで全軍敗退、一時は大混乱となつたが、ともかく立直つて碧蹄館に勝つことができた。小早川隆景、立花宗茂、毛利秀包ひでかねらの戦功であつた。明軍も日本の侮り難い戦力を知つて慎重布陣、両軍相対峙してみだりに進攻を急ぐことがなくなつたから、戦局全く停頓した。行長はぬからず使者を差向けて和議につとめる。日本の実力が分つてみると、明軍とても戦意はない。明の朝廷は元々和談を欲してゐた。
 日本軍の朝鮮侵入、飛報に接した明の朝廷はとりあへず李如松に五万の兵を附して救援に差向け、之にて大事なしといふ考へであつたが、朝鮮軍は風にまかれる木の葉の如く首府京城まで一気に追ひまくられてしまふ。自力で立てない朝鮮軍は明の兵力を過信して安心しきつてゐるけれども、自分の力量の限界に目安のついてゐる明国では、日本軍の意想外な進出ぶりに少からず狼狽した。属領の如くに見てゐる日本と争ひ苦戦してともかく追払つても元々だ。否、苦戦したゞけ損だといふ勘定が分つてゐる。莫大な戦費を浪費して遊ぶ金に事欠いては無意味だといふ計算は行届いてゐるから、和談でケリがつくなら戦争などはやらぬがよい。日本の軍隊が強いのは一時的な現象だから、いづれ日本も落目にならう、そのとき叩きつければよい。敵勢が勢ひに乗るときは下手から誤魔化すに限る、といふ大司馬石星の意見で、沈惟敬といふ誤魔クラガシの天才を選びだし、口先一つで日本軍をだまして返せ、彼を和議使節として特派した。沈惟敬は元来市井の無頼漢で、才幹を見込まれて立身した特異の怪物であつた。
 沈惟敬は朝鮮軍の情報から判断して、日本は明との貿易復活を欲してゐるのが本心で、侵略は本意でないといふ見透しを得た。そこで和議の可能、それも自国に有利な和議の可能に満々たる自信をいだいてをつた。救援軍の大将李如松は和議などは不要、ただの一撃、叩きつぶしてしまふと息まいてゐるが、之を制して、五十日間の休戦を約束させ、単独鴨緑江を渡つて平壌の行長と交渉を始めてゐた。
 行長は根が正直者、国を裏切り暗躍に狂奔してゐるが、陰謀はその本性ではない。よしなき戦争は罪悪だといふ単純な立前で、三国いづれの立場からもこの戦争で利得を受ける者はないのだから、いづれの思ひも同じこと、如何なる陰謀悪徳を重ねても和議には代へられぬ筈ときめてゐる。自分の一存で如何なる条約を結んでも構はぬ。本国への報告は両軍の大将が相談づくで誤魔化す限りシッポはでないし、シッポが出たら俺が死ぬ。それだけのこと。かういふ度胸をきめ、楽屋のうちをさらけだして談判にかゝつてきた。外交に異例の尻まくりの戦術、否、戦術ですらもない、全く殺気をこめ、眼は陰々とすはつて一点を動かずといふ身構へで、死者しにものぐるひにかゝつてくる。
 沈惟敬は筋の正しい国政などゝは縁のない市井の怪物、元来がギャングの親方であるから、人生の裏道で陰謀に半生の命をはりつゞけて生きてきたこの道の大先輩、行長の覚悟、尻まくり戦術は自らのふるさとで、話をすれば、行長の決意裏も表もよく分る。この男はすべてをさらけだして、全く命をはつてゐるのだと見極めをつけた。談判破裂となれば死者ぐるひで襲ひかゝるに相違ない殺気であるから、こゝは悪どく小策を弄せず、この男の苦心通りに和議をとゝのへてやる方が簡単にして上策だといふ判定を得た。それにつけても、行長が条約に譲歩の意をほのめかしてゐるのだから、徹底的に明国に有利な条約まで持つて行かうといふのが沈惟敬の肚だつた。けれども条約を結ぶに就ては日本軍は先づ釜山まで撤退すべしといふこと、並びに捕虜の朝鮮二王子を返還すべしといふこと、之は行長の一存のみでは決しかねる問題だ。朝鮮の二王子を捕へたのは清正で、事は大きくないけれども、清正の意中が難物である。
 この二ヶ条は一時的な面子めんつの問題、和議のとゝのつた後では軍兵の撤退も王子の返還も面倒のいらぬことだから、急ぐことはない。つまらぬことに拘泥せず実質的な媾和条約をかせぐ方が利巧だといふ惟敬の考へ、戻つてきて、この二ヶ条は今は無理だと朝鮮側を説いたけれども、宋応昌はきゝ容れるどころか、激怒した。日本軍の釜山撤退、二王子の返還、朝鮮側では譲歩のできぬ必死の瀬戸際の大問題。オレに任せておけなどゝ大きなことを言つて出掛けて、撤退もさせぬ二王子も返還させぬ、それで媾和とは開いた口がふさがらぬ。明国の威信を汚す食はせ者だ、といふので、李如松が朝鮮側に輪をかけて立腹、刀に手をかける。沈惟敬はむくれてしまつた。喧嘩だ、刃物だと言つて、身の程も知らぬ奴に限つて鼻息の荒いこと。朝鮮軍など戦争らしい戦争もせず一気に追ひまくられて首府まですてゝ逃げだしたくせに、今更虫のよすぎる要求だ。明軍とて日本軍を釜山まで押し戻せるものなら押し返してみるがいゝ。今に吠え面かゝぬやうにせよと言つて、切るなり突くなり勝手にするがいゝや、ヨタモノの本領、ドッカとあぐら、はどうだか、支那式によろしくあぐらに及んで首すぢのあたりを揉みほぐしたりなぞしてゐる。
 媾和などゝは余計なことだと、そこで李如松は平壌の行長へ使者をたてゝ沈惟敬が和議を結びにきたからと誘ひださせて、突然之を包囲した。日本軍は大敗北、行長はからくも脱出、散々の総崩れである。
 けれども日本は応仁以降打ちつゞく戦乱、いづれも歴戦の精兵だから、立直ると、一筋縄では始末のつかぬ曲者である。図に乗つた明軍も碧蹄館で大敗を喫し、両軍相対峙して戦局は停頓する。李如松も日本軍侮り難しと悟つたから、和談の交渉は本格的となり、惟敬の再登場、公然たる交渉が行はれ始めた。
 日本には有勢な海軍がなかつた。応仁以降の戦乱はすべて陸戦。野戦に於ては異常なる進歩を示してゐるが、海軍は幼稚だ。海賊は大いに発達して遠く外洋まで荒してをりこの海賊が同時に日本の海軍でもあつたけれども、軍隊としては組織も訓練も経験も欠けてゐる。近代化された装備もない。秀吉も之を知つてポルトガルの軍艦購入をもくろんでゐたが、コエリヨが有耶無耶な言辞を弄して之を拒絶したから、秀吉は激怒して耶蘇ヤソ禁教令を発令する結末に及んでしまつた。
 然るに、朝鮮側には亀甲船があり、之を率ゆるに名提督李舜臣がある。竜骨をもたない日本船は亀甲船の衝突戦法に破り去られて無残な大敗北。制海権を失つたから、日本の海上連絡は釜山航路一つしかない。京城への海路補給が出来ないから、釜山へ荷上げして陸路運送しなければならぬ。占領地帯は満目荒凉、徴発すべき人夫もなければ物資もない。補給難、折から寒気は加はり、食糧は欠乏する、二重の大敵身にせまつて戦さに勝てど窮状は加はるばかり、和議を欲し即刻本国へ撤退を希ふ思ひは全軍心底の叫び、清正すらも一時撤退の余儀なきことを思ふに到つてゐたのであつた。
 そこで秀吉も訓令をだして一応軍兵を釜山へ撤退せしめる、二王子を返してやれ、本格的に和談の交渉をすゝめよとあつて、三成らが訓令をたづさへ兵をまとめて撤退せしめる、例の囲碁事件が起つたのはこの時の話。如水の好戦意慾などには縁のない暗澹たる前線の雰囲気であつた。
 明からも形式的な和平使節が日本へ遣はされることになる、このとき秀吉から日本側の要求七ヶ条といふものをだした。
一、明の王女を皇妃に差出す
一、勘合符貿易を復活する
一、両国の大臣が誓紙を交換する
一、朝鮮へは北部四道を還し南部四道は日本が領有する
一、朝鮮から王子一人と家老を人質にだす
一、生擒いけどりの二王子は沈惟敬に添へて返す
一、朝鮮の家老から永代相違あるまじき誓紙を日本へ差出す
 といふのだ。
 王女を皇妃に入れるとか人質をだすのは日本の休戦条約の当然な形式で、秀吉は当り前だと思つてゐるが、負けた覚えのない明国が承諾する筈がない、南部四道も多すぎる、といふので、行長は勝手に全羅道と銀二万両といふ要求に作り変へて交渉したが、一寸の土地もやらぬ、一文も出さぬ、と宋応昌に蹴られてしまつた。明側で要求に応じる旨を示したのは貿易復活といふ一条だけだ。
 クサることはないですよ、と沈惟敬は行長にさゝやいた。彼はもう外交などゝいふ国際間の交渉が凡そ現状の実際を離れて威儀のみ張つてゐるのにウンザリして、大官だの軍人だの政治家などゝいふ連中の顔は見るのも厭だ、まだしも行長にだけは最も個人的な好意をいだいてゐた。貿易さへ復活すればいゝではないですか、全羅道だの銀二万両などにこだはらなくとも、貿易さへ復活すれば儲けは何倍もある、太閤の最も欲してゐることも貿易復活の一点に相違ないのだから之さへシッカリ握つてをけばあとの条件などはどうならうと構はない、実際問題として之が日本の最大の実利なのだ。あとのことはあなたと私が途中でごまかしてシッポがでたら、私も命はすてる、地獄まであなたにつきあふよ、と言つて、行長を励ました。
 そこで内藤如安(小西の一族で狂信的な耶蘇教徒だ)を媾和使節として北京に送る、明国からは更に条件をだして貿易を復活するに就ては、足利義満の前例のやうに、明王の名によつて秀吉を日本国王に封ずる、それに就ては秀吉から明へ朝貢して冊封さくほうを請願して許可を受ける、要するに秀吉が降伏して明の臣下となつて日本国王にして貰ふ、といふ意味だ、かういふ条件をだしてきた。この難題にさすが行長も思案にくれてゐると、行長さん、いゝぢやないか、惟敬は首をスポンと手で斬つて、これ、ネ、私もあなたにつきあふよ、ネ。こゝまで来たら、最後の覚悟は一つ、ネ、行長も頷いた。
 そこで行長と惟敬が合作して秀吉の降表を偽造したが「万暦二十三年十二月二十一日、日本関白臣平秀吉誠惶誠恐、稽首頓首、上言請告」と冒頭して、小西如安を差出して赤心を陳布するから日本国王に封じて下さい、と書いてある。
 明側は大満足、日本へ冊封使を送る。この結果が秀吉の激怒となつて再征の役が始まつたが、秀吉が突立ち上つて冠をカナグリすて国書を引裂いたといふ劇的場面は誰でも知つてゐる。尤も引裂かれた筈の国書は引裂かれた跡もなく今日現存してゐるのである。伝説概ねかくの如し。

 秀吉はもうろくした。朝鮮遠征がすでにもうろくの始まりだつた。
 鶴松(当時三才)が死ぬ。秀吉は気絶し、食事は喉を通らず、茶碗の上へ泣き伏して顔中飯粒だらけ、汁や佳肴をかきわけて泳ぐやうに泣きたおれてゐる。その翌日の通夜の席では狂へる如くにもとどりを切つて霊前へさゝげた。すると秀吉につゞいて焼香に立つたのが家康で、おもむろに小束をぬき大きな手で頭をかゝへて髻をヂョリヂョリ糞落付きに霊前へならべる。目を見合せた満座の公卿諸侯、これより心中に覚悟をかためて焼香に立ち頭をかゝへてヂョリヂョリやる。葬儀の日に至つて小倅の霊前に日本中の大名共の髻が山を築くに至つたといふ。秀吉は息も絶えだえだつた。思ひだすたび邸内の諸方に於てギャアと一声泣きふして悶絶する、たまりかねて有馬の温泉へ保養に行つたが、居ること三週間、帰京する、即日朝鮮遠征のふれをだした。悲しみの余り気が違つて朝鮮征伐を始めたといふ当時一般の取沙汰であつた。
 捨松(後の秀頼)が生れた。彼のもうろくはこの時から凡愚をめざして急速度の落下を始める。秀吉はすでに子供の愛に盲ひた疑り深い執念の老爺にすぎなかつた。秀頼の未来の幸を思ふたびに人の心が信用されず、不安と猜疑の虫に憑かれた老いぼれだつた。生れたばかりの秀頼を秀次の娘(これも生れたばかり)にめあはせる約束を結んだのも秀次の関白を穏便に秀頼に譲らせたい苦心の果だが、秀吉の猜疑と不安は無限の憎悪に変形し、秀次を殺し、三十余名の妻妾子供の首をはねる。息つくひまもなかつた。秀次を殺してみれば、秀次などの比較にならぬ大きな敵がゐるではないか。家康だつた。秀吉は貫禄に就て考へる。自分自身の天下の貫禄に就て考へ貫禄はその自体に存するよりも、時代の流行の中に存し、一つ一つは虫けらの如くにしか思はなかつた民衆たちのその虫けらのやうな無批判の信仰故にくずれもせずに支持されてきた砂の三角の頂点の座席にすぎないことを悟つてゐた。その座席を支へるものは彼自身の力でなしに、無数の砂粒の民衆であることを見つめ、無限の恐怖を見るのであつた。愚かな、そして真に怖るべき砂粒、それのみが真実の実在なのだ。この世の真実の土であり、命であり、力であつた。天下の太閤も虚妄の影にすぎない。彼の姿はその砂粒の無限の形の一つの頂点であるにすぎず、砂粒が四角になればすでに消えてしまふのだつた。
 そして又秀吉は家康の貫禄に就て考へる。その家康は砂粒のない地平線に坐りながら、その高さが彼といくらも違はぬくらゐ逞しかつた。けれども砂粒は同時に底なしに従順暗愚無批判であり、秀吉がその頂点にある限り、家康は一分一厘の位の低さをどうすることもできない。秀吉は家康を憫笑する。ともかく生きてゐなければ。家康よりも、一日も長く。長生きだけが、秀吉の勝ちうる手段であつた。家康に対しても、又、砂粒に対しても。死と砂粒は唯一の宇宙の実在であり、ともかく生きることによつて、秀吉はそれを制し得、そして家康の道をはゞみ得るだけだつた。
 けれども秀吉は病み衰へた。食慾なく、肉は乾き、皮はちゞみ、骨は痩せ、気力は枯れて病床に伏し、鬱々として終夜眠り得ず、めぐる執念たゞ秀頼のことばかり。五大老五奉行から誓紙をとり、永世秀頼への忠勤、神明に誓つて違背あるまじく、血判の血しぶきは全紙にとびしたゝりそれを我が棺に抱いて無限地底にねむるつもり。地底や無限なりや一年にして肉は蛆虫これを食ひ血は枯れ紙また塵となり残るものは白骨ばかり。不安と猜疑と執念の休みうる一もとの木蔭もなかつた。前田利家の手をとり、おしいたゞいて、頼みまするぞ、大納言、頼みまするぞ。乾きはて枯れはてた骨と皮との間から奇妙や涙は生あたゝかく流れでるものであつた。哀れ執念の盲鬼と化し、そして秀吉は死んだ。


 秀吉の死去と同時に戦争を待ち構へた二人の戦争狂がゐた。一人が如水であることは語らずしてすでに明らかなところであるが、も一人を直江山城守といひ上杉百二十万石の番頭で、番頭ながら三十万石といふ天下の諸侯に例の少い大給料を貰つてゐる。如水はねたまも天下を忘れることができず、秀吉の威風、家康の貫禄を身にしみて犇々ひしひしと味ひながら、その泥の重さをはねのけたけのこの如き本能をもつて盲目的に小さな頭をだしてくる。人一倍義理人情の皮をつけた理窟屋の道学先生、その正体は天下のドサクサを狙ひ、ドサクサまぎれの火事場稼ぎを当にしてゐる淪落の野心児であり、自信のない自惚児だつた。
 けれども直江山城守は心事甚だ清風明快であつた。彼は浮世の義理を愛し、浮世の戦争を愛してゐる。この論理は明快であるが、奇怪でもあり、要するに、豊臣の天下に横から手をだす家康は怪しからぬといふ結論だが、なぜ豊臣の天下が正義なりや、天下は廻り持ち、豊臣とても廻り持ちの一つにすぎず、その万代を正義化し得る何のいはれも有りはせぬ。けれども、さういふ考察は、この男には問題ではなかつた。彼は理知的であつたから、感覚で動く男であつた。はつきり言ふと、この男はたゞ家康が嫌ひなのだ。昔から嫌ひであつた。それも骨の髄から嫌ひだといふ深刻な性質のものではなく、なんとなく嫌ひで時々からかつてみたくなる性質の――彼は第一骨の髄まで人を憎む男ではなく、風流人で、通人で、その上に戦争狂であつたわけだ。だから、家康が天下をとるなら、俺がひとつ横からとびだしてピンタをくらはせてやらうと大いに張切つて内心の愉悦をおさへきれず、あれこれ用意をとゝのへて時の到るのを待つてゐる。彼の心事明快で、家康をやりこめて代りに自分の主人を天下の覇者にしてやらうなどゝいふケチな考へは毛頭いだいてゐなかつた。
 この男を育て仕込んでくれた上杉謙信といふ半坊主の悟りすました戦争狂がそれに似た思想と性癖をもつてゐた。謙信も大いに大義名分だとか勤王などと言ひふらすが全然嘘で、実際はたゞ「気持良く」戦ふことが好きなだけだ。正義めく理窟があれば気持が良いといふだけで、つまらぬ領地問題だの子分の頼みだの引受けて屁理窟を看板に切つた張つた何十年あきもせず信玄相手の田舎戦争に憂身をやつしてゐる。義理人情の長脇差、いはゞ越後高田城持ちのバクチ打ちにすぎないので、信玄を好敵手とみて、大いに見込んで、塩をくれたり、そしてたゞ戦争をたのしんでゐる。信玄には天下といふ目当てがあつた。彼は田舎戦争などやりたくないが、謙信といふ長脇差は思ひつめた戦争遊びに全身打ちこみ、執念深く、おまけに無性に戦争が巧い。どうにも軽くあしらふといふわけには行かず、信玄も天下を横に睨みながら手を放すといふわけに参らず大汗だくで弱つたものだ。勤王だの大義名分は謙信の趣味で、戦争といふ本膳の酒の肴のやうなもの。直江山城はその一番の高弟で、先生よりも理知的な近代化された都会的感覚をもつてゐた。それだけに戦争をたのしむ度合ひは一さう高くなつてゐる。真田幸村といふ田舎小僧があつたが、彼は又、直江山城の高弟であつた。少年期から青年期へかけ上杉家へ人質にとられ、山城の思想を存分に仕込まれて育つた。いづれも正義を酒の肴の骨の髄まで戦争狂、当時最も純潔な戦争デカダン派であつたのである。彼等には私慾はない。強ひて言へば、すこしばかり家康が嫌ひなだけで、その家康の横ッ面をひつぱたくのを満身の快とするだけだつた。
 直江山城は会津バンダイ山湖水を渡る吹雪の下に、如水は九州中津の南国の青空の下に、二人の戦争狂はそれ/″\田舎の逞しい空気を吸ひあげて野性満々天下の動乱を待ち構へてゐたが、当の動乱の本人の三成と家康は、当の本人である為に、岡目八目の戦争狂どもの達見ほど、彼等自らの前途の星のめぐり合はせを的確に見定め嗅ぎ当てる手筋を失つてゐた。特に三成は四面見渡す敵にかこまれ、日夜の苦悶懊悩、そして、彼の思考も行動も日々夜々ただ混乱を極めてゐた。
 秀吉が死ぬ。遺骸は即日阿弥陀峯へ密葬して喪の発表は当分見合せとかたく言ひ渡した三成、特に浅野長政とはかつて家康に魚をとゞけて何食はぬ顔。その翌日、家康何も知らず登城の行列をねつてくると、道に待受けたのは三成の家老島左近、実は登城に及び申さぬ、太閤はすでにおかくれ、三成より特に内々の指図でござつた、と打開ける、前田利家にも同様打開けた。家康は三成の好意を喜び、とつて帰すと、その翌日はすでに息子秀忠は京都を出発走るが如く江戸に向ふ、父子東西に分れて天下の異変にそなへる家康例の神速の巻、浅野長政は家康の縁者で、喪を告げぬとは不埒な奴と家康の怒りを買ふ、だまされたか三成めと長政は怒つたが、長政をだしぬくなどの量見は三成にはない。彼はたゞ必死であつた。自信もなければ、見透しも計画もなく、無策の中から一日ごとの体当り。鍵はかゝつて家康と利家両名の動きの果にかゝつてゐることが分るだけ。その両名に秘密をつげて、天下の成行をひきだすことと、そのハンドルを自分が握らねばならないことが分つてゐるだけであつた。
 先づ家康が誰よりも先に覚悟をきめた。家康はびつくりすると忽ち面色変り声が喉につかへて出なくなるほどの小心者で、それが五十の年になつてもどうにもならない度胸のない性質だつたが、落付をとりもどして度胸をきめ直すと、今度は最後の生死を賭けて動きだすことのできる金鉄決意の男と成りうるのであつた。年歯三十、彼は命をはつて信玄に負けた、四十にしてふてくされ小牧山で秀吉を破つたが外交の策略に負け、その時より幾星霜、他意のない秀吉の番頭、穏健着実、顔色を変へねばならぬ立場などからフッツリ縁を切つてゐる。その穏健な影をめぐつて秀吉のひとり妄執果もない断末魔の足掻あがき。機会は自らその窓をひらき、そして家康をよんでゐた。家康は先づ時に乗り、そして生死の覚悟をきめた。
 彼はたゞ、生死の覚悟をかためることが大事であり、その一線を越したが最後鼻唄まじりで地獄の道をのし歩く頭ぬけて太々ふてぶてしい男であつた。
 彼は先づ誓約を無視して諸大名と私婚をはかり、勢力拡張にのりだす。あつちこつちの娘どもを駆り集めて養女とし、これを諸侯にめあはせる算段で、如水の息子の黒田長政の如きはかねての女房(蜂須賀の娘)を離縁して家康の養女を貰ふといふ御念の入つた昵懇ぶり、これも如水の指金さしがねだ。もとより四方に反撥は起り、これは家康覚悟の前。それは直ちに天下二分、大戦乱の危険をはらんでゐるのであつたが、家康は屁でもないやうな空とぼけた顔、おや/\さうかね、成行きの勝手放題の曲折にまかせ流れの上にねころんで最後の時をはかつてゐる。
 前田利家は怒つた。そして家康と戦ふ覚悟をきめた。彼は秀吉と足軽時代からの親友で、共々に助け合つて立身出世、秀吉の遺言を受けて秀頼の天下安穏、命にかけても友情をまもりぬかうと覚悟をかためてゐる。彼の目安は友情であり、その保守的な平和愛好癖であり、必ずしも真実の正義派ではなかつた。彼は理知家ではなく、常識家で、豊臣の天下といふたゞ現実の現象を守らうといふ穏健な保守派。これを天下の正義でござると押つけられては家康も迷惑だつたが、利家はその常識と刺違へて死ぬだけの覚悟をもつた男であつた。利家は秀頼の幼小が家康の野心のつけこむ禍根であると思つてゐたが、実際は、豊臣家の世襲支配を自然の流れとするだけの国内制度、社会組織が完備せられてゐなかつたのだ。秀吉は朝鮮遠征などといふ下らぬことにかけづらひ国力を消耗し、豊臣家の世襲支配を可能にする国内整備の完成を放擲してゐた。秀吉は破綻なく手をひろげる手腕はあつたが、まとめあげる完成力、理知と計算に欠けてゐた。家康には秀吉に欠けた手腕があり、そして時代そのものが、その経営の手腕を期待してゐた。時代は戦乱に倦み、諸侯は自らの権謀術数に疲れ、義理と法令の小さな約束に縛られて安眠したい大きな気風をつくつてゐる。それにも拘らず天下自然の窓がなほ家康の野心のためにひらかれ、天下は自ら二分して戦乱の風をはらんでゐる。それは豊臣家の世襲支配の準備不足のためであり、いはゞ秀吉の落度であつた。その秀吉の失敗の跡を、家康は身にみて学び、否、遠く信長の失敗の跡から彼はすでに己れの道をつかみだしてゐた。彼は時代の子であつた。彼が自ら定めた道が時代の意志の結び目に当つてゐた。彼はためらはず時代をつかんだ。彼は命をはつたのだ。彼に課せられた仕上げの仕事が国内の整備経営といふ地味な道であつたから、彼は保身の老獪児であるかのやうに見られてゐるが、さにあらず、彼はイノチを賭けてゐた。秀吉よりも、信長よりも太々しく、イノチを賭けて乗りだしてゐた。
 利家は不安であつた。彼の穏健な常識がその奇妙な不安になやんでゐた。彼は家康の威風に圧倒されて正義をすて戦意を失ふ自分の卑劣な心を信じることができなかつたし、事実彼は勇気に欠けた卑怯な人ではなかつたから、その不安がなぜであるか理解ができず、彼はたゞ家康の野望を憎む心に妙な空間がひろがりだしてゐることを知るのであつた。彼は穏健常識の人であるから時代といふ巨大な意志から絶縁されてをらず、彼はいはゞたしかに時代を感じてゐた。それが彼に不安を与へ、心に空間を植えるのだつたが、友情といふ正義への愛情に執着固定しすぎてゐるので、その正体が理解できず、むしろ家康と会見し、一思ひに刺違へて死にたいなどゝ思ふのだつた。その彼は、すでに一間の空間を飛び相手に迫つて刺違へる体力すらも失つてゐた。
 家康は利家の小さな正義をあはれんだ。彼は利家を見下してゐた。利家の会見に応じ、刺違へて殺されないあらゆる用意をとゝのへて、懇願をきゝ、慰め、いたはり、慇懃であつたが、すでにイノチを賭けてゐる家康は二十の青年自体であつた。その青年の精神が傲然として利家の愚痴を見つめてゐた。利家の正義は愚痴であつた。利家は老い、考へ深く、平和を祈り、そしてたゞそれだけの愚痴の虫にすぎなかつた。
 その答礼に利家の屋敷を訪れた家康は、その夜三成一派から宿所を襲撃されるところであつたが、万善の用意は家康の本領、はつたイノチを最後の瀬戸際まで粗末に扱ふ男ではない。身辺の護衛はもとより、ハダシに一目散、なりふり構はず水火かきわけて逃げだす用意のある男。その用心に三成は夜襲をあきらめ、島左近は地団太ふんで、大事去れり、あゝ天下もはや松永弾正、明智光秀なし、と叫んだが、要するに島左近は松永明智の旧時代の男であつた。家康は本能寺の信長ではない。信長の失ふところを全て見つめて、光秀の存在を忘れることのない細心さ、匙を投げた三成は家康を知つてゐた。
 まるで家康の訪れを死の使者の訪れのやうに、利家は死んだ。その枕頭に日夜看病につとめてゐた三成の落胆。だが、三成も胆略すぐれた男であつた。彼は利家あるゆゑにそれに頼つて独自の道を失つてすらゐたのであるが、それ故むしろ利家の死に彼自らの本領をとりもどしてゐた。天才達は常に失ふところから出発する。彼等が彼自体の本領を発揮し独自の光彩を放つのはその最悪の事態に処した時であり、そのとき自我の発見が奇蹟の如くに行はれる。幸ひにして三成は落胆にふける時間もなかつた。
 利家が死ぬ、その夜であつた。黒田長政、加藤清正ら朝鮮以来三成に遺恨を含む武将たちが、時至れりと三成を襲撃する。三成は女の乗物で逃げだして宇喜多秀家の屋敷へはいり、更にそこを脱けだして、伏見の家康の門をたゝき、窮余の策、家康のふところへ逃げこんだ。
 なぜ三成が利家に頼つてゐたか。なぜ三成に自信がなかつたか。彼には敵が多すぎた。その敵を敵と見定める心がなくて、味方にしうるものならばといふ慾があり不安があつた。今はもう明かな敵だつた。彼は敵と、そして、自分をとりもどした。三成は家康を知つてゐた。彼は常に正面をきる正攻法の男、奇襲を好まぬ男であつた。
 追つかけてきた武骨の荒武者ども家康の玄関先でわい/\騒いでゐる。家康はこれをなだめて太閤の薨去日も尚浅いのに私事からの争ひなどゝは如何いかがなものと渋面ひとつ、あなた方の顔も立つやうにはからふから私にまかせなさい、と引きとらせた。そこで三成には公職引退を約束させ佐和山へ引退させる。尚その道で荒くれ共が現れてはと堀尾吉晴、結城秀康の両名に軍兵つけて守らせる。三成をこゝで殺しては身も蓋もない。たゞ一粒の三成を殺すだけ。生かしておけば多くの実を結び、天下二分の争ひとなり、厭でも天下がふところにころがりこもうといふ算段だ。家康は一晩じつくり考へた。同じ思ひの本多正信が一粒の三成もし死なずばといふ金言を家康に内申しようと思ひたち、夜更けに参上してみると、家康は風気味で寝所にこもつてをり、小姓が薬を煎じてゐる。襖の外から、殿はまだお目覚めでござるか。何事ぢや。石田治部のこといかゞ思召おぼしめすか。さればさ、俺も今それを考へてゐるところぢや。左様ですか、御思案とならば、私めから申上げることもござりますまい、と正信は呑込みよろしく退出したといふのだが、もとより例の「話」にすぎない。家康は自信があつた。僥倖にたよる必要がなかつたのである。
 三成は裸一貫ともかく命を拾つて佐和山へ引退したが、彼は始めて独自の自我をとりもどしてゐた。彼は敵を怖れる必要がなくなり、そして、彼も亦己れのイノチを賭けてゐた。
 直江山城といふ楽天的な戦争マニヤが時節到来を嗅ぎ当てたのはこの時であつた。彼は三成に密使を送り、東西呼応して挙兵の手筈をさゝやく。誰はゞからず会津周辺に土木を起し、旧領越後の浪人どもをたきつけて一揆を起させ戦争火つけにとりかゝつたが、家康きたれと勇みたつて喜んでゐる。
 けれども三成は直江山城の如く楽天的ではあり得なかつた。彼は死んではならなかつた。是が非でも勝たねばならぬ。彼は味方が必要だつた。利家に代るロボットの総大将に毛利を口説き、吉川、小早川、宇喜多、大谷、島津、ゆかりあつての口説であるがその向背は最後の時まで分りかねる曲芸。その条件は家康とても同じこと、のるかそるか、千番に一番のかねあひ。三成は常に家康の大きな性格を感じてゐた。その性格は戦争といふ曲芸師の第一等の条件であつた。自ら人望が集るといふ通俗的な型で、自ら利用せられることによつて利用してゐる長者の風格であつた。三成はそれに対比する自分自身の影に、孤独、自我、そして自立を読みだしてゐる、孤独と自我と自立には常に純粋といふオマジナヒのやうな矜恃きょうじがつきまとふこと、陋巷に孤高を持す芸術家と異るところはなかつたが、三成は己れを屈して衆に媚びる必要もあつたので、彼は家康の通俗の型に敗北を感じてゐた。その通俗の魂を軽蔑し、それをとりまく凡くら諸侯の軽薄な人気をあはれんだが、通俗のもつ現世的な生活力の逞しさに圧迫され、孤高だの純粋だの才能などの現世的な無力さに自ら絶望を深めずにゐられなかつた。
 三成には皆目自らの辿る行先が分らなかつた。彼はたゞ行ふことによつて発見し、体当りによつて新たな通路がひらかれてゐた。それは自ら純粋な、そして至高の芸術家の道であつたが、彼はその道を余儀なくせられ、そして目算の立ち得ぬ苦悩があつた。家康には目算があつた。その小説の最後の行に至るまで構想がねられ、修正を加へたり、数行を加へてみたり減らしてみたり愉しんで書きつゞければよかつたのだ。家康は通俗小説にイノチを賭けてゐたのである。三成の苦心孤高の芸術性は家康のその太々しい通俗性に敗北を感じつゞけてゐたのだ。
 直江山城は無邪気で、そして痛快だつた。彼は楽天的なエゴイストで、時代や流行から超然とした耽溺派であつた。この男は時代や流行に投じる媚がなかつたが、時代の流れから投影される理想もなかつた。彼は通俗の型を決定的に軽蔑し、通俗を怖れる理由を持たない代りに、ひとりよがりで、三成すらも自分の趣味の道具のひとつに考へてゐるばかりであつた。家康も直江山城を怖れなかつた。怖れる理由を知らなかつた。山城は家康を嫌つてゐたが、それはちよつと嫌ひなだけで、実は好きなのかも知れなかつた。反撥とは往々さういふもので、そして家康は山城に横ッ面をひつぱたかれて腹を立てたが、憎む気持もなかつたのである。

 如水雌伏二十数年、乗りだす時がきた。如水自らかく観じ、青春の如く亢奮すらもしたのであつたが、時代は彼を残してとつくに通りすぎてゐることを悟らないのだ。
 家康も三成も山城も彼等の真実の魂は孤立し、死の崖に立ち、そして彼等は各々の流義で大きなロマンの波の上を流れてゐたが、その心の崖、それは最悪絶対の孤独をみつめ命を賭けた断崖であつた。この涯は何物をも頼らず何物とも妥協しない詩人の魂であり、陋巷に窮死するまでひとり我唄を唄ふあの純粋な魂であつた。
 如水には心の崖がすでになかつた。彼も昔は詩人であつた。年歯二十余、義理と野心を一身に負ひ死を賭けて単身小寺の城中に乗りこんだ如水ではなかつたか。そして土牢にこめられ執拗なる皮膚病とチンバをみやげに生きて返つた彼ではないか。その皮膚病とチンバは今も彼の身にその青春の日の栄光をきざみ残してゐるのであるが、彼の心は昔日の殻を負ふてゐるだけだ。
 彼は二十の若者の如き情熱亢奮をもつて我が時は来れりと乗りだしたが、彼の心に崖はなく、絶対の孤独をみつめてイノチを賭ける詩人の魂はなかつた。彼はたゞ時代に稀な達見と分別により、家康の天下を見ぬいてゐた。家康が負けないことも、そして自分が死なないことも知りぬいてゐた。己れの才と策を自負し、必ず儲る賭博であるのを見ぬいてゐた。彼は疑らず、ためらはなかつた。すべてを家康にはり、倅長政の女房を離縁させて家康の養女を貰ふ全身素ッ裸の賭事。彼は自ら評して常に己れを賭博師といふ。然り、彼は賭博師で、芸術家ではなかつたのだ。彼は見通しをたてゝ身体をはつたが、芸術家は賭の果に自我の閃光とその発見を賭けるものだ。
 彼は悠々と上洛した。彼の胸には家康によせる溢れるばかりの友情があつた。小田原にあひ見てこのかたこの日に至つて頂点に達した秘められた友愛。彼はそれを最も親身に、又、義理厚く表現したが、その友愛はたゞ自我自らを愛する影にすぎないことを家康は見ぬいてゐた。如水の全身はたゞ我執だけ。それを秀吉に圧しつぶされて、そのはけ口が家康に投じられてゐるだけのこと。友愛は野心と策略の階段にすぎないのだ。
 だが、如水はたゞもう友愛の深みに自らを投げこんで、悪女の深情けとはこのこと、日夜の献策忠言、頼まれもせぬに長政を護衛につけたり、家康の伏見の上屋敷は石田長束増田らの邸宅に近く不意の襲撃を受け易いと向島の下屋敷へ引越させたのも如水であつた。その頃はまだ前田利家が生きてゐた。如水は細川忠興に入智恵して利家を訪ねさせ、家康利家の離間を狙ふは三成の計で、彼はかくして家康をたおし、おもむろに残つた利家を片づけて天下を我物にするつもり、とさゝやかせる。加藤清正、福島正則ら三成を憎みながらも家康を信用しない荒武者どもを勧誘して家康に加担せしめたのも如水であつた。
 だが関ヶ原の一戦、その勝敗を決したものは金吾中納言秀秋の裏切であるが、この裏切を楽屋裏で仕上げた者も如水であつた。元来秀秋は秀吉の甥で秀吉の養子となつたものである。秀吉は秀次以上に寵愛して育てたが、先づ秀次関白となり、ついで実子も生れたので、然るべき大々名へ養子にやりたいと考へてゐる。この気持を見抜いたのが如水で、ちやうど毛利に継嗣がないところから分家の小早川隆景を訪れ、秀秋を毛利の養子にしてはと持ちかける。隆景が弱つたのは秀秋は暗愚であり、又毛利家は他の血統を入れないことにしてゐるので、隆景はことはるわけに行かず、覚悟をかため、自分の後継者の筈であつた末弟を毛利家へ入れ、秀吉に乞ふて秀秋を自分の養子とした。如水は毛利の為を考へ太閤の子を養子にすれば行末良ろしからうと計つたわけだが、隆景は実は大いに困つたので、如水の世間師的性格がこゝに現れてゐるのである。かういふ因縁があるところへ、朝鮮後役では秀秋は太閤の名代として出陣し如水はその後見として渡海した。帰朝後秀秋はその失策により太閤の激怒を買ひ筑前五十余万石から越前十五万石へ移されたが、移るに先立つて太閤が死んだので、家康のはからひでそのまゝもとの筑前を領してゐる。
 関ヶ原の役となり元々豊臣の血統の秀秋は三成の招に応じて出陣したが、このとき如水は小倉へ走り、例の熱弁、秀秋の裏切りを約束させた。秀秋の家老平岡石見、稲葉佐渡両名も同意し、秀秋が馬関海峡を渡るに先立ちすでに関ヶ原の運命は定まつたもので、如水は直ちに家人神吉清兵衛を関東へ走らせて金吾秀秋の内通を報告させた。如水黒幕の暗躍により関ヶ原の大事はほゞ決したのだが、これは後日の話。
 さて三成は佐和山へ引退する。大乱これより起るべし。如水は忽ちかく観じて、長政に全軍をさづけ、大事起らばためらうことなく家康に附して存分の働きを怠るなと言ひ含め、お膳立はできたと九州中津へ引上げる。けれども秘密の早船を仕立て、大坂、備後びんごとも周防すおうかみせきの三ヶ所に備へを設け、京坂の風雲は三日の後に如水の耳にとゞく仕組み。用意はできた。かくて彼は中津に於て、碁を打ち、茶をたて、歌をよみ、悠々大乱起るの日を待つてゐる。

 そのとき如水は城下の商人伊予屋弥右衛門の家へ遊びにでかけ御馳走になつてゐた。そこへ大坂留守居栗山四郎右衛門からの密使野間源兵衛が駈けつけて封書を手渡す。三成、行長、恵瓊の三名主謀して毛利浮田島津らを語らひ家康討伐の準備とゝのへる趣き、上方の人心ために恟々きょうきょうたり、とある。如水は一読、面色にはかに凜然、左右をかへりみて高らかに叫ぶ。天下分け目の合戦できたり、急ぎ出陣用意。身をひるがへして帰城する、即刻諸老臣の総出仕を命じたが、如水まさに二十の血気、胸はふくらみ、情火はめぐり、落付きもなければ辛抱もない。
 並居る老臣に封書を披露し、説き起し説き去る天下の形勢、説き終つて大声一番、者共、いざ出陣の用意、と怒鳴つたといふ、血気横溢、呆気にとられたのは老臣どもで、皆々黙して一語を答へる者もない。やゝあつて井上九郎衛門がすゝみでゝ、君侯のお言葉は壮快ですが、さきに領内の精鋭は長政公に附し挙げて遠く東国に出陣せられてをります。中津に残る小勢では籠城が勢一杯で、と言ふと、如水はカラカラと笑つて、貴様も久しく俺に仕へながら俺の力がまだ分らぬか。上方の風雲をよそに連日の茶の湯、囲碁、連歌の会、俺は毎日遊んでゐたがさ、この日この時の策はかねて上方を立つ日から胸に刻んである。家康と三成が百日戦ふ間に、九州は一なめ、中国を平げて播磨でとまる。播磨は俺のふるさとで、こゝまでは俺の領分さ、と吹きまくる大法螺ぼら、蓋し如水三十年間抑へに抑へた胸のうち、その播磨で、切りしたがへた九州中国の総兵力を指揮して家康と天下分け目の決戦、そこまで言ひたい如水であるが、言ひきる勇気がさすがにない。彼の当にしてゐるのは彼自らの力ではなく、たゞ天下のドサクサで、家康三成の乱闘が百日あればと如水は言つたが、千日あればその時は、といふ儚い一場の夢。然し如水はその悪夢に骨の髄まで憑かれ、あゝ三十年見果てぬ夢、見あきぬ夢、たゞ他愛もなく亢奮してゐる。
 領内へふれて十五六から隠居の者に至るまで、浪人もとより、町人百姓職人この一戦に手柄を立て名を立て家を興さん者は集れ、手柄に応じ恩賞望み次第とあり、如水自ら庭前へでゝ集る者に金銀を与へ、一人一人にニコポンをやる、一同二回三回行列して金銀の二重三重とり、如水はわざと知らないふりをしてゐる。
 九月九日に準備とゝのひ出陣、井上九郎衛門、母里太兵衛が諫めて、家康がまだ江戸を動いた知らせもないのに出陣はいかゞ、上方に両軍開戦の知らせを待つて九州の三成党を平定するのが穏当でござらうと言つたが、なに三成の陰謀は隠れもないこと、早いに限る、とそこは如水さすがに神速、戦争は巧者であつた。
 翌れば十日豊後ぶんごに進入、総勢九千余の小勢ながら如水全能を傾け渾身の情熱又鬼策、十五日には大友義統を生捕り豊後平定。だが、あはれや、その同じ日の九月十五日、関ヶ原に於て、戦争はたゞ一日に片付いてゐた。百日間、如水は叫んだが、心中二百日千日を欲し祈り期してゐた。たゞの一日とは! 如水の落胆。然し、何食はぬ顔。家康の懐刀ふところがたな藤堂高虎に書簡を送り、九州の三成党を独力攻め亡してみせるから、攻め亡したぶんは自分の領地にさせてくれ、倅は家康に附し上国に働いてゐるから、倅は倅で別の働き、九州は俺の働きだから恩賞は別々によろしく取りなしをたのむ、といふ文面。
 かくて如水は筑前に攻めこみ、久留米、柳川を降参させる、別勢は日向ひゅうが豊前ぶぜんに、更に薩摩に九州一円平定したのが十一月十八日。
 悪夢三十年の余憤、悪夢くづれて尚さめやらず、一生のみれんをこめて藤堂高虎に恩賞のぞみの書面を送らざるを得なかつた如水、日は流れ、立ちかへる五十の分別、彼は元々策と野心然し頭ぬけて分別の男であつた。悪夢つひにくづる。春夢終れりと見た如水、茫々五十年、たゞ一瞬ひるがへる虚しき最後の焔。一生の遺恨をこめた二ヶ月の戦野も夢はめぐる枯野のごとく、今はたゞ冷かに見る如水であつた。
 独力九州の三成党を切りしたがへた如水隠居の意外きはまる大活躍は、人々に驚異と賞讃をまき起してゐた。たゞそれを冷かに眺める人は、家康と、そして本人の如水であつた。家康は長政に厚く恩賞を与へたが、如水には一文の沙汰もない。高虎がいさゝか見かねて、如水の偉功抜群、隠居とは申せなにがしの沙汰があつてはと上申すると、家康クスリと笑つて、なに、あの策師がかへ、九州の働きとな、ふッふッふ、誰のための働きだといふのだへ、と呟いたゞけであつた。
 けれども家康にソツはない。彼は幾夜も考へる。如水に就て、気根よく考へた。使者を遥々はるばるつかはして如水を敬々うやうやしく大坂に迎へ、膝もと近く引き寄せて九州の働きを逐一きく、あの時は又この時はと家康のきゝ上手、如水も我を忘れて熱演、はてさて、その戦功は前代未聞でござるのと家康は嘆声をもらすのであつた。思へば当今の天下統一万民和楽もひとへにあなたの武略のたまものです。なにがさて遠国のことゝて御礼の沙汰もおくれて申訳もない、さつそく朝廷に申上げて位をすゝめ、又、上方に領地も差上げねばなりますまい。今後は特別天下の政治に御指南をたのみます、と、言ひも言つたり憎らしいほどのお世辞、政治の御指南、朝廷の位、耳には快いが実は無い。如水は敬々しく辞退して、かたじけな御諚ごじょうですが、すでに年老ひ又生来の多病でこの先の御役に立たない私です。別してこのたびは愚息に莫大な恩賞をいたゞいてをりますので、私の恩賞などゝはひらに御許しにあづかりたい、とコチコチになつて拝辞する。秀忠がその淡泊に驚いて、あゝ漢の張良とはこの人のことよと嘆声をもらして群臣におしへたといふが、それが徳川の如水に与へた奇妙な恩賞であつた。如水は家康めにしてやられたわいとかねて覚悟の上のこと、バクチが外れたときは仕方がないさ、とうそぶいてゐる。応仁以降うちつゞいた天下のどさくさは終つた、俺のでる幕はすんだといふ如水の胸は淡泊にはれてゐた。どさくさはすんだ。どさくさと共にその一生もすんだといふ茶番のやうな儚さを彼は考へてゐなかつた。

底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「二流の人」中篇小説新書、九州書房
   1947(昭和22)年1月30日発行
初出:「二流の人」中篇小説新書、九州書房
   1947(昭和22)年1月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年1月5日作成
2012年9月13日作成
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