千九百――年。それは六月三日のことだった。一人の旅客が――ルイ・カラタール氏という仏蘭西名の紳士――リヴァプール港にある倫敦西海岸線中央停車場の駅長ジェームス・ブランド氏に面会を求めた。旅客は小柄な中年の紳士で、その妙に猫脊のところが、見るからに脊髄骨の不具であることを物語っていた。その紳士にはひとりの連れがあった。それは骨組のがっしりした堂々たる男だった。が、その男のいかにも恭しげな態度と、絶えずあたりに眼をくばっている様子とで、彼が紳士の従者であることが読まれた。こころもち黒みがかった皮膚の色合では、おそらくスペイン人か南アメリカ人だろうと想像された。見れば、そこには一つの不思議なことがあった。小型の黒革製の文書袋をこの男が左手に携えていたのだ、そして、それは居合せた一人の事務員の鋭い観察眼によると、革紐で自分の手頸にしっかりと結びつけられてあったのだ。この事実は、その時には決して重大なことには見えなかった。が、やがて展開されるべき未曾有の出来事は、その中にきわめて深長な意義を持っていたのであった。カラタール氏は駅長室に案内された。その間この供の男は室の外に待っていた。
カラタール氏は今日の午後、中部亜米利加から入港したばかりであるが、緊急な事件が突発したため、一分も猶予することなく至急巴里まで帰らなければならなくなった。ところが彼は倫敦行の急行に乗遅れてしまったのだ。そこで臨時急行列車を仕立てさせて飛んで行くほかはない。金は問題ではない、時間こそ凡てである――と云った。
駅長のブランド氏は電鈴を押して運輸課長のポッター・フード氏を呼んだ。そして五分間内に手筈をことごとく整えさせた。別仕立の列車は四十五分以内に出発させることが出来る。前路の障害なきを期するため、それだけの時間は絶対的に必要なのだ。二輌の客車が、後部に車掌乗用車を添えて、強力な機関車に牽引されることになった。第一の客車は、単に振動を少なくする目的のために着けられた。第二の客車は、例によって、一等室と一等喫煙室、二等室と二等喫煙室という四室に区劃られていた。その機関車に近い方の第一室が、二人の旅客のために用意された客車で、他の三室は空だった。車掌としてジェームス・マックファースンが、火夫としてはウィリアム・スミスがそれぞれ乗込むことになった。
カラタール氏は、一哩について五志という規定の特別乗車賃の割合で、総額五十磅五志を支払うが早いか、あくあくしながら、例の連れの男を促して、まだ三十分はたっぷり間があろうというに、はや仕立てられた客車に乗込んで定めの室に席を占めた。
ところがカラタール氏が駅長室から出て行ったのと、ほとんど入替に、ホレース・ムーアと名のる一見軍人風の紳士が慌ててそこへ入って来た。彼は倫敦にいる自分の妻が危篤のために、上京するべく今は一瞬間も失ってはならないというのだ。奇妙な偶然である。真に偶然である。その紳士の心配そうな顔を見ては、駅長も心から出来るだけの便宜をはかってやりたいと思った。といって、更に第二の特別列車を仕立ることは、もちろん問題にならなかった。そこには、しかし、ただ一つの択ぶべき方法がある。カラタール氏の乗車賃を分担して、その臨時列車の空いた室を譲ってもらうことである――カラタール氏さえ承諾してくれるなら。
が、そのような申出に対して不服を言う人はまず無いだろう。けれども、カラタール氏はそうではなかった。彼は何故か絶対的に相客のあることを拒んだ。一たん買切った以上は、列車は自分の専用であると素気なく刎ねつけたのである。
ホレース・ムーアは、自分の採るべき唯一の方法が、夕方の六時にリヴァプール発の普通列車に乗るより外にないことを知って、極度の困惑の色を面に表わしながら停車場を出て行った。停車場の時計でまさに午後四時三十一分、臨時列車は、佝僂のカラタール氏と巨人のような従者とを載せ、白い湯気を吐いてリヴァプール駅を発車した。マンチェスター駅まではひた走りに走ることが出来るはずだった。六時前に早くもその大停車場に到着する予定をもって。
午後六時を過ぎること十五分。リヴァプール駅の事務員達は、マンチェスター駅から、臨時急行列車が今もって到着しないが、という電信を受取って非常に驚いてしまった。とりあえず、マンチェスター駅よりは三分の一ほど手前のセント・ヘレンス駅へ問合せの電信をうってみると、次のような返電があった――
『臨列、五時五分当駅通過――アールスタウン。』
『臨列、五時十分当駅通過――ニュートン。』
『臨列、五時二十分当駅通過――ケニヨン。』
『臨列、当駅通過せず――バートン・モス。』
『僕は三十年も鉄道に勤めてるが、こんな狐に憑ままれたような事件は初めてだ。』と駅長が言った。
『ほんとうに開通以来未曾有の出来事です。ケニヨンとバートン・モスの間で何か椿事が起ったのですな。』
『だが僕の記憶にして誤なければ、両駅間には支線は一本も無いはずだ。どうしても、本線を走って行ったものとしか思われんがな――』
『といって、その短距離列車が同じ本線の上を………?』
『フード君、けれども外に考えようが無いではないか。本線を進行したものとしか考えられんではないか。たぶんその短距離列車は、何等かの手掛りになるような事実を見たろうと思う。よし、もう一度マンチェスターへ打電してみよう、それからケニヨンへも打電して至急バートン・モスまでの線路を取調べるように請求してみよう。』
マンチェスターからの返電は三分と経たないうちに来た。
『こりゃ驚くべき発狂だ、フード君!』と彼は叫んだ。『この昼日中、この英国で、列車が空中に消えて無くなろうとは! 実に辻褄の合わない話ではないか。一台の機関車と、二輌の客車と、一輌の車掌車と、五人の人間とが、一直線の線路の上で消えて無くなろうとは! そうだ、もう一時間経っても確とした報知がないなら、僕はコリンス方面監察といっしょに現場へ急行しなければならないだろう。』
けれども遂に、ケニヨンからの次のような今一通の電報という形をとって、駅長のいわゆる「確としたこと」の一端が洩れて来た。
『両駅間の軌道沿線には、炭坑の散在するあり。それらの内、あるものは活坑なれどもその他は廃坑なり。しかして右の内、本線より私設線を炭坑の入口まで引込みおるもの七ヶ所あり。いずれも長さは二三哩に過ぎず。七ヶ所の内、レッド・ガウントレット、ヘロー、デスポンドのスラウ、及びハートシーズの四炭坑へ通ずる四つの引込線は本線に合する部分の軌道が取除かれおるをもって、本職はこれが探査を省けり。(右のうち、ハートシーズ坑は十年以前まで当地方主要炭坑の一として有名なりしもの)残るは他の三線すなわち、
(二)ビッグ・ベン炭坑引込線
(三)パーシヴィアランス炭坑引込線
『機関手のジョン・スレーターに関しては、彼の負傷の模様を検査するも何等の手掛りを引出し得ず、ただ本職は、本職の推定し得る限りにおいて、機関車よりの墜落が彼の死因なることを確言し得るのみ、何故彼が墜落せしか、また彼の墜落後機関車がいかになりしかについては全然推測の限りにあらざる次第なり云々。』
それから一月が経った。会社も警察も、絶えず捜索を続行はしていたけれど、毛筋ほどの手掛りさえ見出すことが出来なかった。懸賞金が提出されたりした。人々は「今日こそは」という期待をもって毎日の新聞を取上げた、けれども週また週が、この奇怪な秘密の幕を切って落すことなしに空しく過ぎて行った。六月の午後の真昼間だというに、そして所はといえば、英国きっての人口の稠密な地方だというに一列車が乗客を載せたまま、熟練な化学実験の大家が空々たる瓦斯にでも変化してしまったかのように、影も形も見えなくなったのだ。
実際、当時の諸新聞に掲げられた種々様々な推測の中には、この事件の背後には、何か理外の理ともいうべき超自然的な魔力が働いたのだと論ずるものすらあったほどだ。けれども、「タイムス」紙上に掲げられた、当時かなりに有名な寄稿家として知られていたある論客の署名の下に論ぜられた一文は、読者の注意を惹くに充分だった。それは批評的な半ば科学的な方法で事件を論じようと試みたものだった。記者は下にその主要部分を抄出してみたい。
『………該列車がケニヨン駅を通過したることは確かなる事実なり。しかしてまた、バートン・モスに到着せざりしことも確かなる事実なり。列車が七個所の引込線中の一に進入したるやも知れずとの考えは、おそらく最高の程度において事実らしからぬことなり。されども、それにもかかわらず、可能なることなり。列車が軌道なき土地を進行するは明らかに不可能なり。従て吾人は、この「事実らしからぬこと」を次の三引込線に帰せんとするものなり。すなわち、カーンストック引込線、ビッグ・ベン引込線、パーシヴィアランス引込線の三を「可能なる」ものと認むるものなり。思えらく、右諸炭坑には、一種の秘密結社の如きものあって、列車をも乗客をも闇の中に葬り去るべき奇怪なる能力あるにや? こは事実らしからぬことに見えて、実は決して事実らしからぬことにあらず……………吾人はここに確信をもって会社に忠告し、もって、会社が該引込線と、その終点に働く労働者等につき、全力を傾注して探査せんことを希望するものなり云々。』
この推測は、さすがにこうした事件に関して定評のある権威の説だけに、かなりの興味を惹起したのは無理もない。しかし、またこの説に対して反駁を試みる者は、論者は善良な人々に対して不自然な誹譏を予想するものであるといって攻撃の矢をむくいたりした。ある者はまた次のように論じた。『列車は過って軌道を滑り出した後、数百ヤードの間軌道に沿うて流れておるランカシアー運河の中へ陥没してしまったものだろう』と。けれどもこの臆説は不幸にしてたちまち却下された。運河の水深が発表された結果、そうした巨大な物体を水底に匿し横たえておるべく余りに浅いことがわかったのである。その外にも、いろいろ勝手な臆説、仮説を立てるものもあった。が、その時に当って、突如として全く思いがけない一つの挿話が湧上った。
というのは、例の失踪列車の車掌だったジェームス・マックファースンの妻が、夫マックファースンから一通の手紙を受取ったということなのだ。手紙は、その年の七月五日付で、米国の紐育から投函されたもので、彼女の手に渡ったのは七月十四日の事だった。それは、彼女の証言によれば、紛うべくもない本人の筆蹟で、殊に中には、米国の五弗紙幣で百弗の大金が封入してあったのだ。手紙には宿所が記入してなかったが、文言は次のようだった――
かくして、カラタール氏等を載せた臨時列車の紛失事件が未解決のままに、今年まで徒らに八年の歳月が流れた。ただ、不幸な二人の旅客の来歴を精しく探査するにつれて、カラタール氏なる人が中央亜米利加における財政家で、政治的代表者であったこと、彼が欧洲への航海中、居ても立ってもおられないほど巴里へ早く足を入れたがっていたという事実だけが解ったのであった。それからあの連れの男というのは、船客名簿にはエドゥアルド・ゴメズと記入されたが、この男こそは稀代の兇賊として、また暴漢として中央亜米利加を震駭させた危険人物だということも解って来た。けれども、ゴメズがカラタール氏に心服して仕えていたことは疑いのない事実だった。カラタール氏は、前にも言ったように、小兵な体躯なので、護衛者としてゴメズを傭っていたのだ。
が、そのカラタール氏が大急行で巴里まで行こうとしたその目的は一体何であろう――それについては、巴里方面からは何等の報道も来なかった。しかし、列車事件にからんだ凡ての事実は、この一事の中にこそ一切の秘密を集めているのではないか、この一事さえはっきりと解るならば………
そこへ、あのマルセイユの方の諸新聞に一せいに掲げられたヘルバート・ドゥ・レルナークの告白とはなったのだ。ヘルバート、それはボンヴァローという一人の実業家の殺人犯人として死刑の宣告を受けて、現にマルセイユの監獄に繋がれている男なのだ。記者は次にその告白の全文を文字通りに訳出してみたいと思う――
『自分がこの告白の公表を敢てするのは、決して単なる誇慢の心からではない。もしそれが目的ならば、自分は自分の美談として世に残るべきほどの行為を十ほども数え挙げることが出来るものだから。そんなことではない、カラタール氏の運命についてここに語ることの出来る自分が、同時にまたあの事件を何人の利益のために、何人に依頼されて実行したかをあばくことの出来る人間であるということを、現在巴里に時めく若干かの紳士等に思い知らせるためである。もしその紳士等が余の死刑執行に対して猶予の方法を一日も速かに講じようと欲しない限りは。閣下等よ、警戒したまえ、臍を噛むとも間に合わぬような失態を演じないうちに!閣下等はこのヘルバート・ドゥ・レルナークをよく御存じのはずだ、そしてレルナークの行為は語のように速かであることをお忘れではないはずだ。今は一日を惜む。でないと、閣下等の万事は休するのだ!
『なるほど現在では、自分も口をつぐんで閣下等の尊名をあばくことをすまい。しかし、自分がかつて自分の抱え主等に対して忠実を誓ったように、彼等は現在の余に対して忠実であるだろうことを自分は信じたい。自分はかく希望する、そしてもし自分が、不幸にして彼等が遂に自分を裏切ったという確信を得るに至るであろうならば、それらの姓名を天下に公表するべく自分は一時も躊躇しないであろう――おそらくそれらの罪の名は全欧洲を震駭するでもあろうが。
『一口にいえば、当時――千九百――年――巴里には、政治経済界に勃発した奇々怪々な疑獄事件に関連して有名な恐慌がやって来たのだ。仏蘭西を代表する幾多の巨頭の名誉と経歴とは全く危機に瀕していた。そこへもし大西洋の彼方から、あのカラタール氏が爆弾のように飛込んで来ようものなら、彼等巨頭連の存在は一たまりもなく将棊倒しにされてしまうのだ。しかもその爆弾は今まさに南亜米利加から、巴里の空目蒐けて飛翔の準備中であるという警鐘は乱打されているのだ。そこで、どうしてもカラタール氏をして仏蘭西の地を踏ませない策略を講じなければならないこととなった。そこで彼等は組合をつくって危急に当ろうと決心した。組合は無限の金力を動かすことが出来た。この巨大な金力を自由にふるって、カラタール氏の入国を絶対にはばむことの出来る人物を彼等は求め始めた。人物、それは独創力に富んだ、果断な、そして眼から鼻へ抜けるような男――百万人中の一人でなければならなかった。彼等はこのヘルバート・ドゥ・レルナークを択んだのだ。その点で自分は彼等の、否閣下等の明を正しいと言っておく。
『自分の義務は、多くの輩下を探し出し、金力を自由に駆使して、カラタール氏の入国入市を妨害することだった。命令一下、自分は非凡な精力を傾けて、すでに一時間の後には義務を遂行すべく秘密の活躍を開始していた。
『自分は自分の片腕と頼む男を南亜米利加に急行させてカラタール氏と同船させることにした。もしこの男の着米が今一歩早かったならば、船は決してリヴァプールの港を見ることが出来なかっただろうに。けれども、船は既に出航した後だったのだ、あらゆる偉大な策略家がそうであるように。しかし、自分は失敗に対する第二策第三策をちゃんと準備していたのだ。で、この場合、我々は単にカラタール氏の命を奪えばいいのではない、カラタール氏の携えている書類をも、そして彼の従者等の命をも、もしカラタール氏が彼等に秘密を打明けておると信ずべき理由があるなら、奪わなければならないのだ。
『大西洋の彼方で長蛇を逸した以上、英国こそ今は我々一味の活躍すべき舞台である。それも、彼がやがてリヴァプールの埠頭に姿を現わすであろう、その刹那から、倫敦で下車する瞬間までの間においてである。倫敦へ到着するやいなや、彼はかなりの人数の護衛者を身辺に附する約束をしたと信ずべき理由が我々の方にはあったのだから。我々は六通りの計画を立てていた。そのいずれをとることになるだろうかは、一々彼の行動次第で定まるはずだ。もし彼が普通列車の便をとるなら、それもよかろう。急行列車へ投ずるなら、それもよし、臨時急行列車を仕立てようとならば仕立ててもよい。
『だがすべてそれ等の配慮を余が自分自らすることは力の及ばないことだ。仏蘭西人たる自分が英国の鉄道について、どうして精密な知識を持合せていよう? が、そこは金の力である、自分は全英国中で最も鋭敏な頭脳の所有者の一人を一味として頼むことが出来たのだ。彼の倫敦西海岸線に関する知識は驚くべきほど完全精密をきわめたものであり、彼の配下には、頭がよくて信用するに足る職工の一団がひかえているのだ。それだから、我々が手を下すに至った荒療治の計画の大部分は彼の頭の産み出したものであり、自分はただ局部的に意見を与えたに過ぎないのだ。我々は何人かの鉄道勤務員の買収もした。その中での親玉は例のジェームス・マックファースンである。我々の眼は、九分九厘までこの男が、カラタール氏によって請求されるであろう、別仕立列車の車掌に択ばれるに相違ないことを見抜いていたのだ。それから機関手のジョン・スレーター、この男にも当ってみたけれど、しかしなかなか骨ッぽい、警戒すべき奴だということを発見した。止むを得ず買収は中止した。我々は、カラタール氏が確かに臨時列車を仕立てさせるに相違ないとまでは信じてなかった、けれどもそれは十中八九まで起り得べきことだと考えたのだ。緊急な重大事をひかえて、一刻も猶予することなく巴里へはいりたがっていることを知っているので。
『我々は、カラタール氏がリヴァプールに上陸した時、彼が、危険を予知して、身辺近く護衛者を伴なって来たことをすぐさま知った。護衛者、しかもそれはゴメズというはなはだ危険な奴である。常に兇器を携えいざといえば、それを振廻す男である。ゴメズはまた、カラタール氏の証書類を携える役目を自身で引受け、片時たりとも注意おさおさ怠りないのだ。我々の睨んだところでは、主人は彼を自分の顧問として何ごとも相談しているらしく見えた。であるからカラタール氏一人を片づけたところで、このゴメズを片づけない限り、それは全くの徒労というものだ。我々にとっては、彼等を同じ運命の坑に放り込んでしまうことが必要なのだ。そしてその目的に対する我々の計画は、彼等が果して別仕立列車を請求することになったので、非常に好都合に捗ったのだ。列車に乗込むべき三名の乗務員のうち、二名まで我々の買収した一味の仲間なのだから。生涯を安楽に暮せるだけの大金を握らせて。
『自分が絶好の英国人を一味に加えたことは前にも言った通りだ。彼は赫々たる未来ある有為の人物だったが、その後咽喉病に犯されたために夭死した。その男がリヴァプール駅で一切の手筈をやった。余は一足先にケニヨンまで行っていて、駅前の旅店に根拠を構え、暗号の飛来してくるのを待っていた。列車の配車が出来ると同時に、彼は余の手許へ打電して、すぐに手抜かりなく準備をととのえろと知らせて来た。彼は自ら、ホレース・ムーアという偽名をなのって、駅長に、至急倫敦行きの別仕立列車を仕立ててもらいたいと申出でた。それは表向きで、心中ではカラタール氏と同車が出来るだろうと期待していたのだ。そうなれば、何かにつけて便利だろうと考えたから――例えばもし、我々の大隠謀が失敗に帰した場合彼等両名を射殺した上、書類を奪い取るのが彼の役になっていたのだから。カラタール氏は、しかし、決して気をゆるさなかった。そして他の旅客を相客に持つことを絶対に拒絶した。そこで我が腹心は停車場を去った――というのは実は見せかけで、あらためて他の入口から歩廊に忍び入り、歩廊から一番遠くの方に位置していた車掌乗用車の中に姿を匿した、そして車掌のマックファースンと同乗して出発したのだ。
『その間にこの自分がどんな行動をとっただろうか、それは諸君の知りたく思うところであろう。しかし、万事はもうすでに二三日前から着々準備されていたのだ、ただ最後の仕上げを要するばかりになっていたのだ、我々が択んだ引込線は、以前はもちろん本線に聯結していたのだが、その後引離されたままの状態になっていた。我々はただ二三本の軌条を当てがって結び付けさえすればよかったのだ。工事は出来るだけ人目につかないように忍んでやった。それも、単に本線との連結点の軌条を布設し、そこに以前のように転轍器を装置しさせすればすんだのだ。枕木は昔ながらに埋設されていた。軌条と挟接鉄板と目釘とはすべて用意した、それらは皆その引込線の側線から取って来たものである。自分は、小人数の、しかしそれだけで充分な工夫等を督して、列車の疾走して来ない間に、凡ての準備をととのえておいた。遂に列車が進行して来た。列車は何の故障もなく安々と支線へ滑り込んだ。そのため、転轍器の動揺も二人の乗客には少しも気づかれないですんだようだった。
『かねて我々の計画では、火夫のスミスが例の手硬い機関手のジョン・スレーターをコロロホルム薬で麻酔させる手筈になっていた。けれども、この点においてはただこの点のみにおいては、我々の計画は失敗に帰した。なぜといって、火夫のスミスはその仕事を恐ろしく不手際にやったため、スレーターは取組合の最中に、機関車から墜落したのだから。そして、たとえ幸運が我々の側を見すてずに、スレーターが頸骨を挫折して即死してしまったとはいえ、この一事あるがため、もしさもなければ犯罪上の最大な傑作として、人々を言葉もないほど嗟嘆させたでもあろうほどの玉に、一つの瑕をつけてしまったのである。
『しかし今や我々は、首尾よく列車を二キロメートルまでも、すなわち一哩以上も、支線の中へ引込んだ。この線は、ハートシーズの廃坑へ、以前英国の炭坑として最も大きなものの一つだったその場所へ通じているのだ、正確にいえば、通じていたのだ。が、諸君は、しかしこの廃線へ列車が進入して行ったことを一人も見たものがないとはおかしいという疑問を必ず発するだろう。自分はそれに対して次のように答える。この引込線は全線に亙って深い切通しの底を走っているのだ。そして何人かが切通しの縁に立っていない限りは列車の姿の眼に留まるはずがないからだと。いや、そこには実際一個の人間が立っていたのだ。それはかくいう自分である。自分がそこで何を見たか、それを諸君に語るであろう。
『これより先き、一人の我が助手は、例の列車が果して首尾よく引込線の方へ転轍されて行くかどうかを監視するため、転轍器の側に待っていたのだ。彼は四人の武装した仲間を引連れていた。それは、万一列車が本線を直進してしまうような惧れがあっても――我々はそれをことによると有り得べきことだと思ったからだ、転轍器が非常に錆び切っていたので――直ちに応急手段にうったえることが出来ようためだった。しかし、列車は故障なく引込線へ進入した。彼は自身の責任を余の手に移した。自分は炭坑の入口を見下ろすことの出来る位置に待っていた。自分自身も、仲間と同じように武装をこらして。何でも来いという調子だった、自分にはいつでも用意が出来ていたのだ。
『列車は首尾よく引込線へ滑り込んだ。と、その時、火夫のスミスは機関車の速力をちょっと緩めた。が、今度は更に最大速力で突進するように機械を廻しておいて、彼と車掌のマックファースンと例の英国人とは、時機を失わない内に車上から身を躍らして飛び下りた。最初にわかに速力を緩めた時それはさすがに二人の乗客の不審を買わないはずがなかった。けれども驚いて彼等が開かれた窓口へ頭を出した時には、列車はすでに疾風のように突進し始めていた。その時彼等二人がいかに乱心しただろうか、自分は考えるだに胸がすくような気がする。諸君自身も二人のその時の気持になってみるがよい――驚きの余り贅沢な客車の窓から外を覗くと、自分の列車は幾年雨風にたたかれて真赤に錆び蝕った廃線の上を死物狂いに突進している! 車輪は錆びた鉄路の上で物すごい叫び声を発して行く!
『その時カラタール氏は夢中に神に祈っていた、と自分は考える――彼の片手からは珠数のようなものがぶら下っていたのを自分は見たから。ゴメズは屠牛所の血の匂いを嗅ぎつけた牡牛のように咆え続けた。彼は我々が線路の側に立っているのを見た。そして狂人のように我々に向って手振りをしてみせた。が、やがて彼は自分の手頸に掴みかかって、我々の方角目蒐けて大切な文書袋を投げつけた。もちろん、その意味は明瞭である。サア自分等はこの証拠を渡す、もし命を助けてくれるなら、何ごとも沈黙を守るという誓いの証拠品を渡す………という意味に相違ないのだ。しかし、仕事は仕事である。第一、列車はもはや我々の力でどうにもならぬではないか。
『ゴメズが咆え立てるのを止めた時には、すでに列車は激しいきしり音を立てながらカーヴを曲っていた。主従は彼等の面前に竪坑の真黒な入口が巨大な顎を開いて待っているのを見た。我々は真四角な入口の板蓋いを取り除いておいたのだ。軌条は既に、石炭の積載に便利なように坑のほとんど入口まで引込んであった、それだから坑のすぐ縁まで線路を導くためには、我々は二三本の軌条を継ぎ足しさえすれば事が足りたようなわけである。我々は客車の窓に二つの首を見た、カラタール氏が下に、ゴメズが上に、しかし二人は目前に見たもののために、叫声ももはや凍ってしまったようだ。しかもなお、彼等は首を引込めようとはしなかった。おそらく眼の前の光景が彼等の総身を麻痺させてしまったのだろう。
『遂に最後の瞬間が来た、機関車は轟然たる大音響と共に坑の向う側に突撃した。煙筒は断ちきれて空中に飛上った。客車と車掌乗用車とは粉砕されてごちゃまぜになり、機関車の残骸と共に、一二分の間坑口を一ぱいに塞いだ。やがてミシミシという音響を発して真ン中の部分がまず頽れ始め、続いて、緑色の鉄と、煙を吐きつつある石炭と、真鍮製附属品と、車輪と木片と長腰掛とが、奈落の底をめがけて、滝つ瀬のようにくだけ落ちて行った。我々はそれらの砕片が竪坑の岩壁に衝突するガラガラ………ガラガラという凄い反響を耳にした。そしてそれから全く長い間を隔てて、最後にドドーンというような深い地響きが脚下に轟いた。汽缶が爆発したらしい。なぜなれば、その地響きに引続いて、鋭いがちゃがちゃいう音が聞え、まもなく湯気と煙の渦巻が闇黒の深淵から巻上った。みるみるそれは夏の日光の中に溶かされて行き、やがて全く消えてなくなった。凡てはふたたびハートシーズの廃坑の静けさに帰った。
『かくていまや多大の成功をもって計画をなし遂げた我々には、犯罪の証跡を残さないための努力だけがただ一つ残された。しかし分岐点にとどまっていた少数の工夫等は、すでに一たん仮設した軌条を剥がしてもはや元の状態に復帰させただろう。が、こちらは坑口を元通りに始末しなければならないのだ。煙突やその他の砕片やはすべて坑の中へ投込んだ。坑口は、再び覆いの板を持ち運んで元の通りに始末した。継ぎ足しの軌条は剥取って遠くへ運び去った。そこで一同はどさくさせぬように、しかし一刻の猶予もなく、国外へ逃げ延びる仕度をした。大部分は巴里を指して、例の英国人はマンチェスターへ、そしてマックファースンは[#「マックファースンは」は底本では「マックファーンは」]サザムプトンへ、そこから亜米利加へ移住するために。
『諸君は、ゴメズが窓の外へ書類袋を投げ出したというあの一事を覚えておるだろう。自分がそれを拾って巴里の巨頭等の手に渡したことはもちろんの話だ。
『けれども我が閣下等よ、閣下等は余があの袋の中から一二枚の小形の書類を、あの事件の記念として抜取っておいたことを知るならば、いかなる感じを起すだろうか。自分は元よりそれらの書類を公表するつもりはない。しかし、そこが問題である、現在我が友の助けを求めつつ自分のために、我が友が敢てその挙に出でない場合、自分は公表の外にいかなる手段に出ることが出来るだろう? 閣下等よ、閣下等はこのヘルバート・ドゥ・レルナークが、味方として頼むべく、敵として恐るべき男子であることを信じてもよいはずだ。閣下等自身のため、たとえそれがこの自分のためでなくとも、一時をも失わぬように、――閣下よ、そして――大将よ、そして――男爵よ。(閣下等は上のブランクを自らうずめるがよい)