一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干と云います。これは月と太陽との引力のために起るもので、月や太陽が絶えず東から西へ廻るにつれて地球上の海面の高く膨れた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた大体において東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、色々に変った事が起ります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸が沢山あって、いくつもの灘に分れているところでは、潮の満干もなかなか込み入って来てこれを詳しく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などでは沢山な費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京辺と四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻は大変に違って、ところによっては六時間も違い一方の満潮の時に他の方は干潮になる事もあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このようにあるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れが狭い海峡を入るために後れ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。
このような訳ですから広い灘と灘を連絡する海峡の両側の海面の高さが時刻によって著しく違うようなところも出来ます。そうすると水面の高い方から低い方へ海の水が盛んに流れ込むので強い潮の流れが出来ます。瀬戸内海にはこのような場所が沢山にあります。中でも早吸の瀬戸などは神武天皇が東征の時に御通りになったというので、歴史で名高くその名も潮流の早い事を示していて大変に面白い名でありますが、今ではただ豊後海峡と呼ばれています。伊予の西の端に指のように突き出た佐田岬半島と豊後の佐賀の関半島とは、大昔には四国から九州につながった一つの山脈であったのが、海峡の辺の大地が落ち込んだためにあのような半島とこの豊後海峡が出来たという事です。今でもこの海峡には海の底に狭い敷居のような浅いところが連なってその両側はそれより百尋以上も深く掘れ窪んでいます。この海峡は大洋から瀬戸内海に通ずる入口の中で一番広いから内海に出入りする海水も主にここから出入りするので、潮流もなかなか早く通例一時間三、四海里くらいの速度であります。このような流れが海の底の敷居を越える時には、丁度橋杙などの下流が掘れくぼむと同じような訳で、敷居の下流のところがだんだんに深くなったのであろうという説があります。
このほか名高い瀬戸や普通の人の知らぬ瀬戸で潮流の早いところは沢山ありますが、しかし、何といっても阿波と淡路の間の鳴門が一番著しいものでしょう。この海峡は幅がわずか十五町くらいで、しかもその内に浅瀬の部分があるので深いところは幅五町くらいなものです。この瀬戸の両側では潮の満干が丁度反対になるので、両側の海面が一番喰い違う時は高さが五尺ほど違います。
ここに出した地図で左側の陸地が阿波、右側の陸地が淡路です。Aの辺は深さが四、五十尋ですが、Bの辺は浅くて十尋以下です。海の底の泥などは潮流に洗い流されて岩があらわれています。図は上げ潮の時の有様ですから、潮流はDの方からABを通ってCの方へ流れて行きます。ABとCの間に波形の模様を描いたのは流れの早い部分の有様を示したものです。ABの辺では流れの早さは最も盛んな時で一時間十海里くらい、Cの辺でもあまりこれに劣りません。しかし上流のDの辺では一時間二、三海里くらいのものです。流れの最も強い下流の方には方々直径七、八間ほどの漏斗形の大渦巻が出来ます。漁船などこれに巻込まれたら容易に出られなくなるそうです。汽船などでも流れの急でない時を見計らってでなければ通りません。図は前にも云った通り上げ潮の時の有様ですが、下げ潮の時には反対に図の下側の方へ同じような流れと渦巻が出来ます。
これからだんだん暑くなりますから、田圃の小流れのようなところで、板片などで水を堰き止めて早吸の瀬戸や鳴門の模様をこしらえてみるのも面白かろうと思います。
(大正七年五月『ローマ字少年』)