Alas, then, is man's civilisation on'y a wrappage, through which the savage nature of him can still burst, infernal as ever? Nature still makes him: and has an Infernal in her as well as a Celestial.
―― Carlyle
      一

 イル・ド・ラ・シテ(町の島)はパリ発祥の地で、俗に「パリの目」とも呼ばれるが、文化史的に見ると、それは同時に「フランスの目」でもあった。その位置をパリの地図についていうと、セーヌ河が右下(南東)から中央に山形を描いて左下(南西)の方へ流れている。その山形の右寄りの肩のあたりで、セーヌは幅広くなって、二つの島を浮かべている。右がイル・サン・ルイ(サンルイ島〉で、左がイル・ド・ラ・シテである。
 イル・ド・ラ・シテは今から二千年前、ユリウス・ケーサルが今のフランスの地に侵入していたゴート人を撃退した頃は、ラテン名でルテティアと呼ばれ、セーヌはセクアナと呼ばれていた。ルテティアはその後ローマ帝国の支配の下に次第に繁栄し、村から町となり、しばしばローマ皇帝の行在所となり、重要な都市的機構を持つようになり、サンドゥニ、聖ジュヌヴィエヴなどの時代を経て、シャールマーニュ帝の頃また大いに発展し、くだってカペ朝のフィリプ・オーギュストはパリを拡張し、聖ルイ(ルイ九世)は更に輝かしい功績をパリの歴史に加え、近代のパリ繁栄の基礎を作り上げた。
 イル・ド・ラ・シテは長い間パリの中心であっただけに、今でも主要な建物がいろいろ遺っている。ノートル・ダーム、サント・シャペル、パレー・ド・ジュスティス等がその顕著なものである。ノートル・ダームの大寺はローマ時代にはユピテルの神殿のあった位置で、イル・ド・ラ・シテが「パリの目」なら、ノートル・ダームはその「瞳」だといってもよい。ここに寺の建てられたのは四世紀の半ば過ぎで、初めは聖エティエンヌと呼ばれていた。それを聖母(ノートル・ダーム)に捧げる寺にしたのはいつ頃からかよくわからないが、ヴィクトル・ユーゴーに拠れば、シャールマーニュ帝が最初の礎石を置いたというから、そうすると八世紀の末か九世紀の初めであっただろう。今の建物は十二世紀の後半から十四世紀の初期までかかって完成されたもので、荘厳無比のそのゴティク様式は、ランス、アミアン、シャルトル等の大寺と共にフランスの誇りであり、書けばそれだけでも一冊の本になるほどの資料がある。
 サント・シャペルは昔の王宮の礼拝堂で、サンルイが第七・第八十字軍遠征から持って帰った遺物(今はノートル・ダームの宝蔵にある)を納めて礼拝するために建てたもので、フランス建築史の上では最も重要な建物の一つである。私たちを案内した吉川君が一番にここを見せてくれたのもその意味からであった。この礼拝堂がパレー・ド・ジュスティス(裁判所)の一角にくっ付いてるのは、ちょっと見ると、異様にも見えるが、パレー・ド・ジュスティスはパレー(宮殿)の言葉が示す如く、もともとフランスの王宮として建てられたもので、十五世紀以来法廷として使用されるようになったのであるが、それ以前においても聖ルイはその一部を議会パールマン(即ち最高立法部)に提供していた歴史がある。私たちはパリ滞在中にこの裁判所の前庭で、ラシーヌの唯一の喜劇『レ・プレーデュール』(訴訟きちがい)がコメディ・フランセエズの俳優たちに依って慈善興行として演じられるのを見に行ったことがある。裁判所で裁判を揶揄した芝居をやらせるのも愉快だが、使われたのは五月庭と呼ばれる広い前庭とその大きな階段(その上が舞台になる)だけではなく、正面の建物(ガレリ・マルシャンド)と左手の建物(ガレリ・ド・ラ・サント・シャペル)も背景として利用されたのだから愉快である。――そんな風だからフランスはあんな負け方をしたのだという人があるかも知れないが、それは直接の原因でない一つの出来事を簡単に一つの結果に結びつけようとする粗雑な考え方で、正当な判断であるかどうかは問題である。私が愉快だといったのは、それに依って示されたフランス人の芸術に対する理解が低級でないことについての印象である。フランスを打ち負かしたドイツ人といえども、芸術に対する理解は低級ではない筈だと思う。戦争の直前ハイデルベルヒに行ったら、あの美しい城内の広場でシェイクスピアの『夏至げしの宵祭の夢』を野外劇として演じ、特にイギリス・アメリカの訪問者を歓迎するというびらを撒いていた。

      二

 ここで紹介しようと思うパリの地下牢なるものは、その裁判所の地下室のことで、呼び名はコンシエルジュリ(守衛所)で通っている。というのは、昔議会がここで開かれていた頃、その地下室は守衛コンシエルジュの宿泊所になっていたからの来歴だそうである。それがロンドン塔と並んで有名になったのは、革命の時、牢獄として使用され、殊にルイ十六世の王妃マリ・アントワネットが幽閉されて以来のことである。パリの町には到る所に革命の記念物があるが、この地下牢とコンコルド広場ほど傷ましいものはない。コンコルド広場は今は繁華の中心地となって、ルクソル(エジプト)から運んで来たラメセス二世の方尖柱オベリスクが聳え、私たちが歩きまわっていた頃はその周りを昼も夜も忙しそうな平和の車の奔流が渦巻いていたが、革命の時はまだ方尖柱オベリスクは立ってなく、その代りに恐ろしいギヨティーヌ(断頭台)が立っていて、名前も革命広場と呼ばれ、ある日には王の首が断たれ、別の日には王妃の首が断たれ、また別の日にはロベスピエールの首が断たれ、その他、貴族・公吏・ジロンド党員等、無量二千の首が刈り取られた。実際少しでもフランスの歴史を知ってる者にはその頃の恐怖を回想することなしにはパリの町は歩けない。
 私たちはコンシエルジュリを見て置いたために、またヴェルサイユの宮殿やテュイルリの宮殿をのぞいて置いたために、また革命博物館やカルナヴァレ博物館を一巡して置いたために、七月十四日の革命記念祭――しかもその年(一九三八年)は革命百五十年祭――の日に、昼間はシャンゼリゼの大通りを練って行くフランス陸軍(それにイギリスの軍隊も参加して)の大行進を見、夜はバスティーユ広場の記念塔の上でさながら一七八九年七月十二日の夜の光景の如く、天を焦がす赤い火が燃やされ、花火が打ち揚げられるのを見ても、さまざまの当時の歴史的事件が、概念としてでなく事実として実感され、日ごろはよくわからなかったフランス人の国民性の隠れた一面がはっきりと現前して来るようにさえ思われた。フランス人と限定しないで、ヨーロッパ人といった方がよいかも知れない。否、人類すべてに適用して考えても見てもよいかも知れない。世界の文化の裏に執拗に潜在している人類の蛮性というものを私たちは大事件が突発する度に見せられる。フランスの革命は確かにその一適例である。当時パリの市街は凄惨な火と血と叫喚の焦熱地獄と化していた。しかし私たちの今見ようとしてる[#「してる」は底本では「して」]コンシエルジュリは、反対に、凍結と冷血の恐るべき別世界で、地獄の中でも紅蓮大紅蓮と形容される寒烈の奈落の底のようなものだったに相違ない。
 其処へ入って行くのに私たちはまずまごついた。毎週木曜日でないと公開しないというので、午後早めにルーヴルの何回目かの見学を切り上げて駈けつけたが、入口がわからないので、初めは裁判所のサール・デ・パ・ペルデュという大部屋にまぐれ込み、受付に聞いたら、時計台の角を廻って河岸へ出ると入口があると教えられ、階段を下って時計河岸を尋ねまわり、セザル塔の下にやっと入口を発見した。尤も、此の入口は近年できたもので、革命当時は、五月庭に面する私たちのまぐれ込んだ所から囚人は運び込まれたり運び出されたりしたものだそうだ。
 入口をはいると、小さい四角の空地があって、右手にまたドアがある。その中は薄暗い守衛室で、ベンチが列べてあり、其処で順番の来るまで待つようになっている。隅の方には絵ハガキや小冊子を売る店がある。十人とか十五人とか見物人がまとまると案内人が奥の方へつれて行く。私たちの待っているうちに、見物をすました一組が暗い入ロから戻って来たが、めいめい案内人の手の平に銀貨を載せてやると、案内人はメルシ・メルシと会釈していた。此の部屋は古い寺院建築のクリプトを思い出させるような円柱と円天井で構成され、さむざむとした、だだっ広い石造の広間で、十三世紀の建造がそのままに保存されてあるので、建築史研究者には興味の多いものらしい。
 やがていいかげん見物人の頭数が揃うと、案内人は奧の方へ引率して行った。いやに薄暗い長い通路を通った。ルー・ド・パリ(パリどおり)というのだそうだ。誰が付けた名前だか知らないが、しゃれた付け方をしたものだ。一七九二ー三年の囚人たちには、此処はパリの外の世界だっただろうから、花やかなパリがなつかしまれたものだろう。その突きあたりに、狭い石畳の廊下があって、その先に地下牢の鉄の格子の扉がある。しかし、今は締め切って其処からは通さない。革命の時の囚人は大がいその格子の扉からぶち込まれたのだというが、われわれはフランスの貴族でもなければ、ジロンダンでもないから、通さないのだろう。
 それから右へ廻ったのだったか左へ廻ったのだったか覚えないが、クール・デ・ファム(女の中庭)というのに出た。地下牢の中での名所の一つで、四辺の建物に囲まれた谷底のような中庭になって居り、片隅に噴水があり、洗盤がある。革命裁判の犠牲となってぶち込まれた貴婦人たちは此の小さい中庭を散歩することを許されていたが、中には洗盤で洗濯をした者もあったという。その婦人たちの中には、王妹マダム・エリザベト、ノアイユ公爵夫人、マダム・ローラン、セシル・ルノー、マダム・ドュ・バリ、等、等、いずれも昨日まではテュイルリの花の前に、ヴェルサイユの月の下に金髪を揺るがし、綾羅の裳裾を翻えして踊り戯れていた美人たちであったが、狂暴なフーキエ・タンヴィルの判決を言い渡されて、次々にコンコルド広場のギヨティーヌへと運ばれた。ギヨティーヌは気ちがいのように活動して一分に一つの割合でさまざまの首を断ち落した。宮廷婦人たちがその美しい姿態をクール・ド・ファムの噴水のほとりに見せていたのもまことに日蔭待つ間の牽牛花の運命に過ぎなかった。
 婦人たちが次次に殺されたのは、バスティーユの牢獄に革命の火の手が挙って五年目、一七九三年の夏から秋へかけてのことであったが、その前年の秋にはこの中庭で今一つの恐るべき事件が起った。「九月の虐殺」と世に言われる事件で、フランス国内は鼎の沸くが如くに乱れていた時、外からドイツ軍・オーストリア軍が迫って来たのは、貴族・僧侶が誘導したのだという宜伝に煽られて、地方でもパリでも到る所に虐殺が行われた。虐殺された者の数は一万二千人とも報告され、また千八十九人であったとも報告されている。昔のバルテルミの虐殺、アルマニャクの虐殺、シチリアの虐殺と共に、世界文化史上で最も恥ずべき人類理性の喪失を物語るペイジである。その時逆上したパリの暴徒はこのコンシエルジュリの門を破壊して闖入し、収容されていた囚人を悉くこの中庭で殺した。われわれの住んでる世界はサタンの世界ではないけれども、サタンはその中にもぐり込んでいて、機会のあるごとに活躍する。カーライルはそう批判した。人間を造る自然の中には、天国的な方面もあれば地獄的な方面もある。十八世紀末のフランス革命ほど地獄的活動の顕著であった実例は容易に見つからない。

      三

 最後に私たちはマリ・アントワネットの部屋を訪問した。小さい長方形の暗い部屋で、高い所に小窓が一つ付いている。今は隣りの部屋とつづいているが、その頃は壁で仕切られて、広さも今の半分ぐらいで、今よりも遥かに暗かったのだそうだ。壁も天井も石で、石は薄黒くなってい、床には煉瓦が網代形に敷いてある。天井から三本の鉄の鎖で吊された一つの鉄のランプは、ゲテ物として見ればしゃれた形ではあるけれども、フランスの王妃の姿を照らすにはあまりに粗末な荒物である。
 マリ・アントワネットは一七九三年八月二日の未明に、市役所の馬車に乗せられて、タンプル塔の幽閉所からコンシエルジュリへ運ばれ、初めはほかの部屋に入れられたが、謂わゆるカーネイション陰謀の事件があって後、九月の初め頃、この部屋に移され、十月十六日の明け方までいた。ルイ十六世は、その年の一月二十一日に「庶人ルイ・カペ」となってコンコルド広場の露と消え、それ以来、マリ・アントワネットは「未亡人カペ」として待遇されていたが、それでも、彼女の此の地下牢で掛けていた肱掛椅子を見ると、赤紫のびろうどを張った牢獄にはふさわしくないもので、それが今はその部屋から二つ目の礼拝堂に、彼女の用いていた小さい十字架やその他の遺品と共に、ガラス・ケイスの中に保存されてある。礼拝堂はマリ・アントワネット小博物館といったようなものになっている。
 その礼拝堂兼小博物館になっている稍※(二の字点、1-2-22)広い部屋はジロンダンの部屋と呼ばれ、前国民議会議長ヴェルニョー以下二十二名、嘗つては革命に狂奔した連中も、時非にして革命裁判に掛けられ、此処とリュクサンブールの牢獄に分けて収容された。その連中がぶち込まれた時は、婦人たちとはちがって喧喧囂囂の声が絶えなかったという。その部屋とマリ・アントワネットの部屋の間の小部屋には、革命の闘士ロベスピエールが処刑前に二十四時間入れられていたので有名である。……
 しかし、マリ・アントワネットのことをもっと考えて見よう。
 礼拝堂の壁に懸かってる画の中にマリ・アントワネットに関するものが二つある。一つは彼女がタンプル塔からコンシエルジュリに移される時子供たちと別れる場面、今一つはコンシエルジュリの地下牢で聖餐式を受けてる場面。いずれも感傷的な情景で、それをヴェルサイユ宮殿のガレリ・バスに陳列されてる花やかな画(マリ・アントワネットの肖像、彼女が王子・王女たちと並んだ肖像)と較べて見ると、何という哀れな対照だろう! ヴェルサイユの宮殿は二階正面のガラスの大広間から西へ廻って二つ目に王妃の部屋があって、グリザイユの天井とゴブランの壁掛タペストリで装飾され、其処にも誇らしげに胸を張った彼女の肖像画を見た。それに続く王妃の小部屋カビネが二つ三つ、思いきって小さい部屋ながら心にくい装飾を凝らし、書斎もあれば、浴室も付いていて、小さいサロンには其処にも美しい彼女の胸像があった。
 彼女は美貌でもあったが、非常なおしゃれで、取りわけ衣裳道楽とカルタ遊びには目がなかった。尤も、母親マリア・テレザの目のヴィーンから光っていた間は、それでも遠慮がちであったが、マリア・テレザが死んで後は、世界に怖い者がなくなり、天下晴れて大っぴらの道楽者になった。しかし十四の時にオーストリアから輿入をして、華やかな贅沢なフランス宮廷の生活に慣れていたので、趣味だけはよく磨かれたと見え、ヴェルサイユ宮殿の後苑プティ・トリアノン(ルイ十五世がマダム・バリのために造った後苑)を殊に好み、そこにルイ十六世は彼女のためにイギリス風の設計をしてやり、日本の茶室を思わせるような小村を造り、珍らしい東洋の花木を植え、宮廷婦人たちがルッソーの『村の占卜者うらないしゃ』の影響を受けて貴族的牧歌趣味をひけらかしていた仲間に加わったりもしていたといわれる。私はそこを訪問した時、小さい流れには水車が廻っていて、池のほとりに菖蒲が咲いていたり、柴垣が繞らされてあったりする庭のたたずまいを眺めて、日本に帰ったような気がしたが、マリ・アントワネット[#「マリ・アントワネット」は底本では「アリ・アントワネット」]を中心とする宮廷婦人の一群がその中を動きまわっていた昔を想像して、贅沢の限りを尽したものだと感じた印象を忘れない。
 それは一七八二年頃までの彼女の生活だったといわれるが、十年後には世界がひっくら返って、豪華なヴェルサイユ宮殿の女主人公は、見るもあわれな冷たいコンシエルジュリの石牢に押し込められていたのである。夫君は処刑され、子供たちとは引き裂かれ、石牢二箇月半の生活は、彼女にとってやるせないものであったに相違ないけれども、持って生れた尊大の気性と贅沢の習慣は、牢の中でも一日平均十五リブラの食料を消費していたと伝えられる。
 その頃全パリは暴動化して、市民はすべて気ちがいの如く、悪魔の如くなっていたけれども、個人的には多少の例外もなくはなかった。彼女の付添役を命じられていた守衛コンシエルジュのリシャールの如きは規則の許す限りの同情を彼女に寄せていた。ある日、彼女は新鮮な果物を欲しがった。リシャールはひそかに外へ出て、河岸で果物売の女を見つけ、一番良いメロンを買おうとした。果物売の女は守衛の擦りきれた服を見て、そんなにおえらい方の召し上り物ですかと皮肉に聞いた。そうだ。今までは一番えらい方だったが、今ではそうでもない。王妃さまの召し上り物だ。そう答えると、果物売の女はびっくりして、メロンを皆ぶちまけてしまい、お気の毒な方だ。金はいらない。これを皆上げて下さい。といった。
 またコンシエルジュリの憲兵の一人は監視中いつも安煙草を吹かす癖があって、一晩中吹かしつづけ、換気のわるい石牢に煙がこもって、マリ・アントワネットが翌る朝青白い顔をしてるのを見ると、すまないことをしたと気づき、パイプを叩きこわしてそれっきり禁煙を誓った。
 しかし、そんなことは彼女にとってどうでもよかった。彼女は石牢の中では王妃の尊厳を踏みにじられたことの憤激と子供たちを思ういたいたしい気持の間をいつもさまよっていた。たまに革命政府の許可を得て王妃に会見を求める者があると、付添のリシャールはいつも、どんなことを話してもよいが、お子さんのことだけには触れてはいけない。と忠告したそうだ。処刑される前に革命裁判の法廷に呼び出されて審問を受けた時、証人エベールという男は、革命裁判の意を迎えるためか、彼女にとって最も不利となるべき破廉恥事件を立証した。マリ・アントワネットは昂然として突っ立ったまま、それを無視した。陪審員の一人が、彼女の弁解しないことを指摘した。その時、彼女は最も軽蔑した態度で答えた。苟くも母たる者に対する斯くの如き侮辱に答えることは、天も共に拒むものである。自分のこの法廷に集まっているすべての母親にそれを訴える。此の矜持に充ちた答弁は、それを伝え聞いたロベスピエールをさえ感激せしめ、エベールの陋劣を憎ましめた。
 彼女は若い時はたしかに聡明でなかった。ルイ十六世をも、フランスをも、不幸に導いたほどのまずいことを数数演じた。けれども私行については神の前にも恥ずべき点がなかったといわれる。母親ゆずりの政略的性行と世間を無視した思い上った行動が、彼女を誤らしめ、国民の反感を買わしめたのである。彼女の尊大は断頭台の上に立つまで失われなかったが、さすがに獄内の孤独は彼女をあわれな女の心に立ち戻らせたこともあったと見え、やるせない思いをピンの尖で紙に穴をあけて書き綴った辞句が、今も礼拝堂博物館のガラス・ケイスの中に保存されてある。
Je suis gard※(アキュートアクセント付きE小文字) ※(グレーブアクセント付きA小文字) vue
Je ne parle ※(グレーブアクセント付きA小文字) personne
Je me fie ※(グレーブアクセント付きA小文字) je viendrai ……
 明けても暮れても見張られて居り、語る者とては一人もない。そうした悲しい昼と夜が五十三日続いた。そうして遂に彼女は呼び出された。

      四

 呼び出されたのは同じ構内の今の民事第一法廷で、当時はそこで革命裁判が開かれ、冷酷なフーキエ・タンヴィルがてきぱきと矢継早やに判決を下していた。マリ・アントワネットは十月十四日そこに「未亡人カペ」として召喚され、二日二夜に亘る辛辣な審問の前に、臆するところもなく立ちつづけ、簡明直截な答え方をしたり、或いは答えることを見合せたりした。その態度のひどく威厳を具えて立派であったことは多くの史家の等しく賞讃するところで、若かった頃の、国民に眉をひそめしめた頃の彼女とは別人の如くであった。その時彼女は三十八歳、革命の動乱が彼女の性格を鍛え上げ、天晴れの女丈夫に仕上げたのであった。
 十月十六日未明、怪奇を極めた審問が終ると、フーキエ・タンヴィルは、何か言うことがあるかと聞いた。マリ・アントワネットは首を振った。陰惨な法廷の燭火は燃え尽して消えようとしていた。彼女の生命も消えようとしていた、彼女は予定の如く死刑を宣告された。彼女は無言のまま法廷を出た。
 午前十一時、彼女は白布の囚人服のままで手を縛られて馬車に乗せられ、コンコルド広場へと運ばれた。パリの町町には太鼓が鳴り響き、街上には武装した三万の兵士が警戒していた。
 彼女が十四歳の春ヴィーンからはるばるの旅路を辿ってパリに乗り込んだ時のきらびやかな楽しかった行列に引きかえて、これはまたなんという傷心な行列だろう! 馬車には一人の憲法司祭が付き添ってるきりで、前後は警固の騎馬に護られていた。けれども熱狂した群集は彼女を売国奴と思い込み、痛罵と叫喚を投げかけるのみだった。馬車がコンコルド広場に近づくと、サン・ロシュの群集の中から一人の女が現れて、マリ・アントワネットに唾を吐きかけた。唾は彼女の手をよごした。今まではさしもの喚声も聞こえぬように胸を張っていた彼女も、さすがに一瞬間色をなして、此の穢らわしい暴徒が! と叫んで、その方に背中を向けた。
 やがて広場に着き、最後の祈がすむと、ギヨティーヌの上に導かれた。その足どりも甚だ確かなもので従容自若としていたとはいわれる。十二時十五分、ギヨティーヌの大きな斧刀は鋭く落ちて、美しい首を美しい身体から断ち放した。ルイ十六世の場合と同じく、ヴィーヴ・ラ・レピュブリクの喚声が広場の空気を震わせた。
 革命裁判の狂暴とギヨティーヌの運転はその後も止む時なくつづいた。ジロンド党員が殺され、貴婦人たちが殺された。パリはまだしばらく血に飽きることを知らなかった。その間にもサンキュロトの共和政府は混乱を重ねて殆んど収容しきれない状態に立ち至った。けれどもナポレオンの打ち出した砲弾が遂にすべてを解決した。
 マリ・アントワネットについての最後のあわれは、その屍体と首が近くのマドレーヌの墓地に葬られた時、霊柩を提供する者がなかったので、寺男は自分の財布から七フランを払って「未亡人カペ」のために形ばかりの葬りをしたということが、その寺の帳簿に書き遺されてある。

底本:「世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2[#「2」はローマ数字、1-13-22]」修道社
   1959(昭和34)年2月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2006年7月26日作成
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