今日(四月七日)どこかの新聞にボクが東大神経科の三階から飛降り自殺をしたという記事が出た由、朝来各社の記者と写真班がつめかけて、撃退に往生したという千谷先生(ボクの主治医)の話であった。
 東大の神経科は一階しかない。それも半地下室のようなところでさのみ気のききそうもないノラネコが平気で窓へ飛上ってくるところだから、飛降り自殺はできない。第一神経科の格子のはまった窓から飛び降りられるかどうか忍術使いじゃあるまいし、そんな便利なことができるものなら、こゝの患者は全部逃げだしていますよ。
 四、五日前にも警視庁の麻薬係という三人組が現われて、坂口は麻薬中毒だろう、嘘をつくな、と、千谷先生、係りの看護婦、付添いを散々なやました由であるが、こういうデマがどこから出てくるのかボクには理解に苦しむばかりである。
 だいたい去年の夏ごろから、神経衰弱の気味であった。今から考えると、そうである。ボクはそれを蓄膿症のせいかしらんと思っていた。しきりにハナがでて、吐気を催し、ふせばノドに流れこみ、起きてる時はハナをかみつゞけなければならない。いきおい思考がまとまらず、注意を集中し、それを持続することが不可能になった。
 私が捨身になって三千枚ほどの長編小説に没頭しようと覚悟したのも、一つは、この肉体の悪条件を克服したい、してみせる、という意志によってゞあった。
 この努力がムリであったらしい。まだしも三百枚、五百枚というならともかく、三千枚ほどの作品が一朝一夕に書けるものではない。すくなくとも、肉体的に、一そう消耗せざるを得なくなるのは当然であった。
 しかし、ボクはガムシャラに仕事と闘った。サンマンとなり、衰えはてゝ行く注意力を集中するために、覚せい剤を多量に用いて、ムリに机に向い続けなければならなかった。すると、今度は、ねむるためには、もう酒だけではダメになり、催眠薬を用いざるを得なかった。ボクの用いた催眠薬は、定量の十倍ぐらいであった。そうしないと、もう、ねむれなかったのである。
 一切の面会をことわったが注意力は衰え、肉体的条件は悪化するばかりであった。それを踏越して仕事を続けるためにボクの用いた方法は旅行であった。熱海へは、よく行ったが、行きつけの旅館はボクが静かに仕事ができるようにと隣りの別荘へ泊めてくれたが、そこは松井石根大将の別荘であり、ボクが机に向う部屋はその書斎であった。ボクがこの部屋で仕事をムリにつゞけている時、ちょうど松井大将絞首刑の判決があったがよい気持ではなかった。
 ボクはしかし熱海よりも諏訪の方をより好んだ。ボクの若い友人が富士見高原に病を養っているのでその見舞がてら、仕事に行くのであるが、これがまたボクの体力を消耗させたようだ。あの混雑した七時間余りの汽車旅行はもうムリであり、物資不足の土地に病む友へたずさえて行く滋養品の運搬がムリであった。駅からちょっとしかないサナトリウムまで何べんとなく荷物を地に下して休息しなければ歩行がつゞかず、卒倒しそうになることがあった。ボクが弱り果てた姿を見せるのは病人に悪いので、虚勢をはって見せていながら、時々地の底へひきこまれるような幻覚に襲われて、しばし何もわからなくなる時があった。
 ボクが入院したのは神経衰弱とそれに催眠剤の中毒があるが、これが、麻薬中毒と間違われたのかも知れない。ボクはもう治っている。去年の今ごろと同じように元気で、毎日後楽園で野球を見ているが、ボクはさらに、廿年前の若いころの健康をとりもどすためにもうちょっと入院するつもりでいる。秋までには長編小説を書き終り、それがすんだら縦横無尽に書きまくるつもりである。

底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二五九六六号」
   1949(昭和24)年4月11日
初出:「読売新聞 第二五九六六号」
   1949(昭和24)年4月11日
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年3月4日作成
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