深夜の宴


       一

「ア。記代子さん」
 熱海駅の改札口をでようとする人波にもまれながら、放二はすれちがう人々の中に記代子の姿をみとめて、小さな叫び声をのんだ。
 記代子は、彼がみとめる先に、彼に気付いていたようだ。
 けれども、視線がふれると、記代子は目を白くして、ふりむいた。そして人ごみの流れに没してしまった。
 放二は深くこだわらなかった。記代子が熱海に来ていたことに不思議はない。これから彼が訪ねようとする大庭長平を、彼女も訪ねてきたのだ。なぜなら、長平は記代子の叔父だから。
 長平の常宿は幻水荘である。彼は京都から上京のたびに、まず熱海に二三泊する。戦争中の将軍連が戦線から帰還参内するときのオキマリに似ているから、文士仲間や雑誌記者は、彼の上京を大庭将軍参内と称している。その熱海着の報告をうけとるのは放二のつとめる雑誌社だ。長平のキモイリでできた雑誌社である。放二は長平係りの記者で、上京中の日程をくみ、雑用をたすのである。
 しかし、長平の口添えで、姪の記代子が入社してからは、上京中の長平のうしろに、男女二名のカバン持ちが、影のように添うことになった。
「いま記代子が帰ったところだよ」
「ええ。駅で、お見かけしました」
「どうして一しょに来なかったの?」
「ちょッとほかへ回る用がありましたので」
 と、放二はさりげなく答えた。長平の問いかけに深い意味があろうとは思わなかったからである。長平は人のことにはセンサクしない男である。ところが、ちょッと、目が光った。
「記代子は、君が来ないうちに帰るのだと言って、いそいでいたぜ」
「ハア」
「何かあったのかい?」
 放二は口をつぐんだ。そして、考えた。思い当ることはあったが、意外でもあった。
 昨夜、社がひけて、二人は一しょに家路についた。新宿は二人が別々の方向へわかれる地点だ。そこで下車してお茶をのんだが、記代子は放二のアパートまで送って行くと言いだした。
 放二はその場では逆らわなかったが、駅の地下道へくると、
「ぼく、あなたをお送りします。ぼくが送っていただくなんて、アベコベですから」
 放二は他意のない微笑をうかべ、記代子のプラットフォームの方へ進もうとすると、
「いいの!」
 記代子がカン高い声でさえぎった。おしとめるように立ちはだかったが、顔の血の気がひいている。ひきつッている。
「さよなら」
 と言いすてると、ふりむいて、去ってしまった。
 そんな出来事が昨夜あった。しかし、それぐらいのことで今日もまだ腹を立てているとは思われない。一しょに熱海へ来る筈だったが、三時間待っても記代子がこない。急用ができたのだろうと放二は思った。そして、熱海駅ですれちがった時にも、何か都合があるのだろうと思い、汽車の時間があるので急いで行ってしまったのだろうと、なんのコダワリもなく考えていた。

       二

「一しょに熱海へくるはずでしたけど、東京駅でお会いできなかったのです。ぼくが時刻をまちがえてお待ちしていたのでしょう。三時間待って、熱海へついたら、帰られる記代子さんとすれちがったのです」
 こだわるイワレがあろうとは思われないから、放二は思った通りのことを言った。
 しかし長平は意外に冷めたく、とりあわなかった。
「記代子は君に会いたくないと言っていたのだよ」
「ハア」
「君たち二人の私事に強いてふれたいとも思わないが、同じ社の仲間同士反目しても、つまらん話さ。とりわけぼくに親しい御両氏が睨み合ってたんじゃ、ぼくも助からんからな」
「ええ」
 たかが放二をアパートまで送ってくれるというのを拒絶したぐらいのことで、記代子がそんなに腹を立てゝいるというのは意外である。しかし、今までのことを思うと、思い当ることもあった。
 記代子は放二のアパートを見たがっていたが、放二はいつも言を左右にして、近寄らせないようにしていた。見せて悪い秘密でもないが、見せない方が無難に相違ない。軽いイワレがあってのことだ。
 いつか二人そろって鎌倉の作家のところへ原稿をもらいに行って、御馳走になったことがある。のめない酒をすすめられて、二人はかなり酔った。わりと早くイトマを告げたのだが、鎌倉のことで、新宿へついた時には、記代子の市電がなくなっていた。
「放二さんに泊めていただくわ」
 記代子は安心しきっていた。
「ええ」
 放二はさからわなかったが、中央線には乗らなかった。記代子を散歩にさそって、夜の明けるまで、神宮外苑をグルグル歩きまわっていたのである。始電がうごきだして、新宿駅で別れたとき、疲れきって、物を言う力もなかった。
 そのときも、記代子は怒った。数日間、放二に話しかけなかった。
 深夜から夜の明けるまで外苑を歩かされたのだから、怒るのもムリがないと思っていた。しかし昨夜はそれほどのことではない。けれども、怒っているとすれば、アパートを見せないせいだ。
 そんなことで怒られるとは、放二は悲しいことだった。
「君は奥さんがあるのかい」
「は?」
 放二はビックリして顔をあげたが、
「いいえ」
 長平を見つめて、答えた。
 澄んだ目だ。弱々しい目だが、正しい心と、よく躾けられた情操がみなぎっている。こんな澄みきった目の青年を疑るなんて、オレもどうかしているなと長平は内々苦笑した。
「記代子がそんなことを疑っているらしいのでね」
 長平は笑った。
「どうも、娘がさ。人に女房があるかないか気に病むなんて、しからん話だがね」

       三

 しかし長平は笑ってすますワケにもいかなかった。
「君は御両親がなかったのだね」
「ええ。一人ぼっちです。ぼくは棄て子なんです。ぼくの名も、拾って育ててくれた人がつけてくれたのです。養父母は三月十日の空襲で死にました」
 その来歴はかねて長平もきき知っていた。しかし、何度きいても、解せないのだ。放二は心も情操も正しいように、容貌風姿も貴公子であった。拾われて育てられた棄て子が、そして、終戦後は孤児となり苦学して私大の文科をでたという荒波にもまれ通した子供が、なんのヒネクレた翳もなく、若年にして長者の温容を宿しているというのがわからない。
 記代子も戦災で父母を失っていた。それ以後は叔父の長平がひきとって、親代りに育てたのである。
 記代子を勤めにだしたとき、放二と愛し合うようになっても悪くはない、むしろ期待するような気持があった。それぐらい放二の人柄を愛していた。
 しかし記代子の観察も、女らしくて面白い。放二は人の着古したものを貰いうけて身につけていたが、それを整然と着こなして、人に不快を与えない。天性の礼節が一挙一動に行きとどいているせいでもある。けれどもシサイに見ると、いかがわしいところがあった。
 今もって、すりへってイビツな軍靴をはいている。何十ぺんツギをあてたか分らぬような、雑巾のような靴下をはいている。
 はじめて見た人は、当節の貴公子はタケノコだから、と、かえって痛々しく思うかも知れないが、毎日見なれている者には気にかかることであった。
 放二の慎み深い気質では、自分の破れ靴下が気にかかるのは当然で、訪問先で坐り様がいかにも窮屈そうなのは、靴下を隠すようにしているせいだ。
 放二の給料は年齢のわりに多かったし、長平から貰う手当もあるので、靴や靴下が買えないほど窮迫するイワレがなかった。
 誰も見てやる人のない孤児のせいだ、と記代子は考える。これは温い見方であった。
 しかし、腹が立つと、冷めたくアベコベに考える。孤児で独身の放二は誰の生活を見てやる必要もないのである。青年たちはお酒で貧乏しているが、放二はお酒も好きではない。それだのに、靴や靴下を買うお金まで何に使っているのだろう?
 そこで記代子は結論する。女がいるのだ、と。悪い女と秘密の家庭を持っているのだ。何年間もドタ靴や破れ靴下をはかせておくような悪い女と。
 長平は記代子の見方にも道理があると考えた。彼が与える手当だけでも世間並の生活はできるはずだ。タシナミのよい放二が、なぜドタ靴や破れ靴下を新調することができないのだろう。
「娘の感覚は特殊なものがあるよ。ねえ、北川君。何かしら嗅ぎつけたことがなければ、君に細君があるなんて疑ぐりやしないぜ。奴め、何を嗅ぎつけたのだろう?」
「はア」
 放二はみんな長平に語ろうと思った。記代子にもれるかも知れないが、知られて困るようなことでもないのだ。

       四

「べつに秘密にしていたワケじゃないのです。男の友達はみんな知ってることなんですが、女の方には、知られていけなくはありませんが、柄のよいことではありませんから」
「なんだい、それは?」
「ときどき、女たちが遊びにくるのです」
 放二は微笑している。長平はそれを素直にうけとった。女たち。放二は「たち」と云ったはずだ。なにか意味があるに相違ない。
「女たち、ね」
「ええ。泊りにくるのです」
「女たちがかい」
「ええ。パンパンです」
 長平もちょっと二の句がつげない。この青年からパンパンという言葉をきいても、全然不釣合いで、架空の話をきかされているようである。パンパンが遊びにくる。泊って行く。アベコベだ。しかし、戦後派の神話的な現実が実存しているかも知れないので、長平も思い余った。
「君、パンパンと同棲しているのかい」
「いいえ。ときどき泊りにくるのです。あの子たちは自分の住居がありませんから。間借りしている子もいますが、宿なしの子もいるんです。お客があるときは一しょにホテルへ泊りますが、アブレると眠る家がないのです」
「どうして君のところへ泊りにくるの」
「マーケットで、自然、知りあったのです。ぼくのアパートはマーケットの真裏ですから」
「日本も変ったもんだね」
「ハア」
 長平の無量の感慨は放二には通じなかった。この青年にはその現実があるだけだ。素直に、そして、たぶんマジメに、彼は生きているだけだろう。
「君、地回りかい」
 放二はクスリと笑っただけである。
「地回りに、なぐられないかい」
「まだそんな経験はありません」
 二人の会話は重点がずれているようだ。放二にとっては、なんでもない平凡な生活のようであった。
「先生。いちど遊びにいらして下さい。パンパンたち、御紹介します」
「変った子がいるの?」
「べつに変ってもいませんけど、簡単にイレズミを落すクスリができたら、喜ぶでしょうね。はやまって彫って、新しい恋人ができるたびに後悔してるんです」
「君も恋人かい」
「いいえ」
 放二はアッサリ否定して、話をつづけた。
「一人だけ、先生が興味をお持ちになるかも知れません。この子のことで、男が三人死んでます。外国人も。殺したのも、殺されたのも、自殺したのもいますが、みんな、ピストル。そして、三ツの場合ともこの子の目の前で行われたのです」
「妖婦なのかい」
「いいえ。無邪気な子です。まだ十九、可愛い顔をしています」
 放二の言葉は淡々として、つかみどころがない。きいただけでは、父兄がわが子を語っているようで、長平はくすぐったいような変な気持だ。すると、放二の言葉がつづいて、
「いちど見てごらんになりませんか。美しいとお思いになるかも知れません」

       五

 数日後、二人は中央線の某駅で降りた。零時ごろである。銀座と新宿の梯子酒のあとだ。のめない放二は二三杯のビールで耳まで真ッ赤であった。
 マーケットで、放二は一軒のオデン屋をのぞいた。四十がらみのオヤジが帰り支度をしていた。
「オジサン。おしまいですか」
「ヤア。いいゴキゲンですね。オデンにしますか」
「ええ。お酒と。持って帰りたいのです。お客様がありますから。こちら、大庭先生です」
「ヤ。それは、それは。お噂は毎日北川さんからうかがっております」
 オヤジは表へ出て挨拶した。
「オジサンも、いっしょに、いかが」
「そうですか。じゃ、そうさせていただきましょう」
 オヤジは戸締りをして、酒ビンや売れ残りの食べ物類を包んだ大きな荷物を両手にぶらさげて出てきた。
 放二のアパートはマーケットの隣であった。暗い入口でガヤガヤやっていると、管理室の扉があいて、やせた男が現れた。
「北川さん。こまるよ。あんたは承知で、自分の部屋をパンパン宿にさせておくのかね」
「ハ。すみません。ヤエちゃんが気分が悪いそうですから、苦しかったら、やすんでいるようにと、カギを渡しといたんです」
「気分が悪いッて? 笑わしちゃア、いけないよ。あんたの留守に、お客をくわえこんで商売してるじゃないか」
 さすがに意外だったらしく、放二は声をのんで、うなだれた。
「私ゃ、あんたに部屋をかしてるが、パンパンにかしてるんじゃないんだ。パンパン宿にかすんなら、貸し様があらアね」
「北川さんは神様みたいな人ですよ。悪気があってじゃないんだから、カンニンしてあげて下さいな」
 と、オデン屋のオヤジがとりなした。
 放二の連れが、いつもの若い連中でなく、年配の長平たちだから、管理人も意外だったらしい。ジロジロと三人を眺めまわしたあげく、だまったまま、ふりむいて、ひッこんでしまった。
「あんなに言うことないね。このアパートにゃ、パンパンもいるんだ。みんな店をひらいてらアな」
「ぼくの部屋代が滞りがちだからです」
 と、放二は苦笑してオヤジにだけ聞えるように言ったが、耳の鋭い長平は、状況判断を加算して、ききとることができた。
 世間の激浪に損われた跡がミジンも見えない貴公子のようなこの青年に、彼の過去がすべてそうであったように、現在も冷酷無情な現実がヒシヒシとりまいていることを、はじめて長平は知ることができた。それを在るがまま受けいれて、彼の毅然たる魂は損われたことがないようだ。青年の後姿から光がさすようなのを長平は感じた。
 階段を上がると、女が一人、たたずんでいた。放二はそれを認めると、微笑して、
「ア。カズちゃん。ぼくの部屋に、ヤエちゃんのお客がいるの?」
「いいえ。とっくに、帰させました。兄さん。すみません」
 女は泣いているようだった。

       六

 部屋には二人の娘がいた。眼を泣きはらしている方がヤエ子である。壁にもたれて本を読んでいるのがルミ子。三人の男をピストルで死なせたのが、この子であった。
 一同が部屋へはいると、ヤエ子は顔をそむけた。ルミ子は一同をチラと一ベツしただけで、本を読みつゞけた。
 二人よりも、年長らしいカズ子は、荒々しい声で、
「ヤエちゃん。なんとか、おッしゃいよ。私たちがそんな女だと思われていいの」
 ヤエ子はそむけた顔をうごかさなかった。
「いいんだよ。すんじゃったことだから」
 と、放二がなだめると、カズ子は一そう不キゲンになった。
「私がヤエちゃんに代って兄さんにあやまってあげなければならないと思っていたのに、私がヤエちゃんを叱って、兄さんになだめられる始末じゃないの。変な風にさせるわね、あんたは」
「もう、いいよ」
「よかないわ。二度と再びいたしません、ぐらいのことは云ってもらいたいわね」
 ヤエ子はようやく正面を向いて、うつむいて、つぶやいた。
「魔がさしたのよ」
「あんた。自分のことを、そんな風に言うの?」
「ホテルへさそったけど、ショートタイムだからって、言うんです。私、お金がほしかったんです。部屋のない女だと思われたくなかったから」
 それまで人々に無関心のルミ子が、ようやく本から目を放して、つぶやいた。
「そんな時が、あるもんだわね。みすぼらしく思われたくない時がね。ヤエちゃん、一目でその人が好きだったのよ。わかるわね」
 かすかに笑って、又、本を読みはじめた。
 ヤエ子は坐りなおして、手をついて、
「兄さん。すみません」
 すぐ立ちあがって、部屋の外へ駈けだそうとした。
 戸口で、待ちかまえたように抱きとめたのは、オデン屋のオヤジである。
「よし、よし。それで、すんだんだ。すみません、と一言いいさえすれば、水に流そうと思って、みなさん待ちかねていたのさ。誰だって、魔がさすことがあらアな」
 そしてヤエ子の背をさすりながら、部屋の中央へ押しだすようにしながら、
「むつかしい本を読んでるなア。女子大学生のアルバイトじやないかって、男に言われなかったかい。二三日中にこのドアを叩くね。北川さんが顔をだすと、アレ、部屋がちがった。失礼ですが、アルバイトの女子大生はどの部屋でしょう」
「オジさん。お酒の支度しましょう」
「アッ。そう、そう」
 オヤジは酒肴の支度をはじめる。カズ子はヤエ子をうながして手伝ったが、ルミ子は本から目を放そうともしなかった。
「こちらは大庭先生です」
 と放二が一同に披露すると、ルミ子は目をあげて、ニッコリした。
「当ったわ。そうだろうと思っていたわ」
「本から目も放さずにかい」
 オデン屋のオヤジがひやかすと、
「そこが職業の手練なのよ」
 とルミ子はカラカラ笑った。

       七

 酒宴はそう長くはつづかなかった。女たちは食べるだけで、酒をのまなかったし、男たちは量をすごして、開宴前から疲れていたから。
「もう、かえろうッと。ごちそうさま」
 ルミ子が立ちかけた。彼女だけが、このアパートに自分の一室をもっていた。ルミ子が立ちかけたので、オデン屋のオヤジも腰をうかして、
「オヤ。二時ちかいね。私も帰らなきゃ」
「お疲れでしょう。ザコネなさらない」
 と、放二がさそったが、
「カアチャンが心配するからね」
 立ちあがって帰りかけたルミ子は、オデン屋が腰をうかしての会話に、ふと気がついたらしく、
「オジサン。私んとこへ泊ってかない。安くまけとくわ」
「商売熱心な子だね。親類筋を口説いちゃいけないよ。これだからマーケットは物騒だって、ウチのカアチャンが心配するはずだ」
 ルミ子はものうそうに笑った。深く澄んだ目だ。こんどは長平をジッと見つめて、
「じゃア、先生、泊って下さらない」
 澄んではいるが、瞳の奥に濃色のカーテンが垂れているように思われた。そして両手を後背にくみ、首をまげて、背延びをした。長平が冗談のツモリでいると、放二が言葉を添えて、
「先生。ルミちゃんの部屋へお泊りになってはいかがですか。ここは、ぼくたち、ザコネですから。ルミちゃんがお茶をひいてて、ちょうどよい都合でした」
 彼らにとっては、なんでもない事らしかった。
 長平もこだわらぬ方がいいと思ったから、彼もさりげなく、言った。
「そうだね。それじゃ、ルミちゃんとこへ泊ることにしよう」
「うれしい」
 ルミ子は長平の頭上からおいかぶさって接吻した。そんなことも何でもないことらしく、誰もなんとも言わなかった。
「お部屋があるって、いいわねえ。こんなとこでも、お客ひろえるんだもの」
「すみません。でも、これがはじめてね。兄さんのお友達、お金もってたこと一度もないわ。あべこべにタバコまきあげるわね」
「貯金通帳見せろ、おごれよ、なんてね。兄さんのお友達、哀れだわよ」
「若いのは、ダメだ。お金もってるの泥棒だけ」
 ルミ子は笑った。彼女は現実からつかんだものをソックリ身につけて、それ以外のことに関心がないようだった。
「先生は疲れてらッしゃるから、お部屋の用意してあげたら」
 と放二にうながされて、
「アッ、そう。大事なお客様だ。めぐりあいが変テコだから、カッコウがつかないや」
 ルミ子は自分の部屋へ急ごうとして、笑いながらふりむいて、
「オジサンに、兄さんに、先生か。男がみんな居るみたいだ」
「弟も、オトウサンもあるわよ」
「そんなの、男じゃないや」
 と呟きながら立ち去った。

       八

 ルミ子の部屋にはチャブダイが一つあるだけで、ほかに家具も、目ぼしい品物もなかった。部屋の隅に日記帳が一冊ころがっていた。
「いくらだい。宿泊料は」
「半額にまけとくわ。千円」
 長平はポケットからむきだしの札束をつかみだして、二千円やった。
「さすがに先生はお金持ね。あの子たちにも、いくらか、あげてよ」
 長平はもう二千円やった。
 ルミ子はそれをつかんで部屋を去ったが、まもなく二人の女が一しょにきて礼を言った。
「おかげで明日は支那ソバたべて、映画が見られるわ」
 カズ子が言った。年のせいもあるが、この子は世帯じみていた。そして、
「お部屋があると、もっと稼げるんだけど。アア、自分の部屋がほしい」
 と云って立ち去った。
 二人の友達が去ると、ルミ子はようやく自分の時間がもどってきたように、くつろいで、
「自分の部屋が、アア欲しい、なんて、インチキ云うわね、カズちゃん」
「どうして?」
「その気になれば持てるにきまってるわ、お部屋ぐらいはね。その気持がないのよ」
「宿なしの方が気楽というわけだな」
「兄さんにもたれて、あまえてるのよ」
「北川にかい」
「ええ。今夜は二人しかいなかったけど、ほんとは五人いるの。アブレると、五人泊りこんじゃうわよ」
「なるほど。貧乏するわけだな、五人も面倒みてやるんじゃ」
「そうよ。ほんとはね、カズちゃんたち、時々アブレたって、兄さんの給料の倍ぐらい、稼いでるわね。みんなムダづかいしちゃうから、ダメね。兄さんをあてにして、その日の食費もつかっちゃったりしてね。でも、仕方がないわね。甘える人が欲しいんだから。誰だってね」
 この娘は、自分だけのモノサシでハッキリと人生の構図をつくっている。自分の体験をモノサシにして。めざましいほど断定的な直線で構図されているのである。まるで八十の隠者のように。
 その構図は、肯定的で、楽天的であった。しかし彼女は自分が隠者に似ていることを自覚してはいないだろう。
「兄さんのドタ靴、ひどいわね。雑巾のような靴下。買ってあげるわけにもいかないし」
「どうして?」
「カズちゃんたちだって、買ってあげたいと思ってるのよ。でも、してあげてはいけないの。誰がきめたわけでもないけどね。この集団の本能的な嗅覚なのよ。誰かが禁を犯すでしょう。この集団はメチャ/\。最後の日だわ。兄さんは誰のものでもいけないのよ」
 数え年十九の隠者は、ここで又カラカラと笑って、
「これは、しかし、集団人の節度によるんじゃなくて、大半は兄さんの気質の産物よ」
 あどけなくて、明るい顔だ。ルミ子はホッと息をして、微笑した。
「でもね、先生。私たちのせいで、兄さんがドタ靴はかされてるんじゃないわ。元兇がいるのよ。凄い女ギャングが」

       九

「ドタ靴の元兇がね?」
「ええ。先生、知らない? その人」
「女ギャングをね。知らないな」
「婦人記者よ」
 長平の胸は騒いだ。まさか記代子ではないだろう、と思い直したが、人生ばかりは、どこで何がどうモツレているか、見当がつかないものだ。
「なんて名の人だい」
「姓名は何てッたッけな。私、いちど、見かけただけ。三十一の大年増よ。背が高くって、姿はすばらしいわ。立派な服装してるわ」
「わかった。梶せつ子という人だろう」
「そう、そう。それ」
 梶せつ子なら原稿依頼に来たことがある。はじめての時は、たしかに放二がつれてきたのである。つれてくる先に、放二の口添えがあって、恩人の娘だというようなことを言っていた。せつ子は「放二さん」となれなれしく呼んで、いかにも幼い時からの知りあいという風であったが、長平は人の私事をセンサクしないタチだから、そこまでしか知らなかった。
 せつ子は家庭雑誌の記者で、長平の書く雑誌と性質がちがっていたから、一度は義理で書いたが、その後はことわることにしたため、自然せつ子の訪れも絶えていた。
「梶せつ子がドタ靴の元兇だってのは、どういうワケだい」
「お金つぎこんでるから」
「どうして?」
「十年前から兄さんが思いつめた人ですって」
「北川がそう言ったのかい」
「いいえ。兄さんのお友達の人。でも、公然たる事実よ。兄さんの顔に書いてあるわ」
「知らなかったな。そんなことが、あるのかなア」
「若い者ッて、年長の人に心の悩みを打ちあけないもんよ」
 と、数え年十九の隠者は体験をヒレキして、夢見るような、あどけない目をした。
「アベコベねえ。リュウとした凄いようなミナリの女が、ドタ靴の男のなけなしの給料を貢がせるんだから」
 そして、又、こうつけたした。
「そんなものだわ、人生は。妙なものなのね。私たちだって、男を喜ばすために稼ぐ気持になることもあるわ。好きになッちゃったら、ハタからはミジメなものね」
「君も経験があるのかい」
「私は、ないわ。でもね。男の人をダメにしたことがあったわ。私はね、なんでもないと思ってるうち、そんな風になったの」
 この子のために三人の男が死んでるという、それを長平は思いだしたが、ルミ子の澄んだ目になんのカゲリも見えなかった。
 長平は朝早く目をさました。ルミ子はよく眠っている。目をさます気配もなかった。
 部屋の片隅にころがっているルミ子の日記帳をとりあげて、ひらいてみると、誰々にタテカエいくら、誰々からカリ、誰々から返金。日記の文章はどこにもなくて毎日の記事は貸借のメモだけだった。
 その日のひるには、長平自身の女のことで、ヤッカイな会見があるのである。放二のような無垢な青年に女出入りの交渉などさせたくないので、不便を忍んで長平ひとりで捌いてきたが、今日からは放二にも手伝ってもらうことにしようかと長平は考えた。


     恋にあらず


       一

 正午ごろ、長平は放二をつれて、銀座の中華料理店へ行った。
 すこしおくれて、青木音次郎がきた。若いのに一クセありそうなカバン持ちをつれている。
「この選挙に立たされそうでね。郷里の有志にしつこく推されてるんだ。青年層の七割まで棄権するそうでね。ぼくがでると、その半分ぼくに入れる、まア、棄権防止さ」
 いきなり、こう云って、高笑いした。
 長平は呆れて旧友をうちながめた。おろしたてのギャバジンの背広をきている。当節、新調の背広は目立つものだ。彼のは二十代がきるような明るい紺の、ピンとはった肩には仕掛けがありそうな、ショオウインドウの洋服と向い合っているようだった。
 終戦まで私大の教師をしていたころは、書斎の虫のようにジミな男であったが、そのころの面影はどこにもない。
「君」
 と、青木は連れの青年に、
「それから、君も」
 と、放二にもよびかけてカラカラ笑って、
「銘々のカバン持ちには、中座してもらいましょう。話のすむまで。御馳走には手をつけないから、安心したまえ」
 長平はムラムラと不快がこみあげた。
「ぼくにはカバン持ちはいないよ。この北川君とぼくの間には秘密がないのだ。小説を書くこと以外は北川君にやってもらうのだから。北川君にきかれてこまる話なら、ぼくも聞くのはオコトワリだ」
「まあ、君。そういったもんじゃないさ。ねえ」
 長平の鋭い語気も、青木には、扱いなれている、というようだった。ちょッとひるんだようだが、すぐカラカラと放二の方に笑いかけて、
「誰にだってナイショ話はあるものさ。ねえ、北川君。オトッツァンのナイショ話なんてものは、せがれはききたくないやね。倅にしたって、自分のナイショ話はオヤジにきかせたくないだろうしさ。ねえ」
 放二はそれには答えなかったが、椅子から立って、長平に、
「ぼく、別室へ参ります」
「いけないな。ここに居たまえ」
 長平は制した。
「中座してもらうぐらいなら、君をここへ連れてきやしないさ。話をみんなきいてもらって、君の判断をきいてみたいと思ったからさ。坐りなさい」
 青木はあきらめた。そして自分のカバン持ちだけ立ち去らせた。
「君もガンコな人だね。ナイショ話なんてものも風流じゃないか。え?」
「君の態度を軽薄だと思わないのかい? 立候補なんてこと考えるようになると、そんな風になるもんかねえ。今日の話は、君にとっては重大なことのはずだが、君がそんな態度なら、ぼくはオツキアイはおことわりだ」
 長平は我慢できなくなって、吐きだした。それだけのワケがあってのことだ。
 青木はにわかにおし黙って考えこんだ。静かに手をのばして、ビールをぬいて、みんなのコップについで、
「乾杯」
 呟いて、グッと飲みほした。
「いや、どうも。ぼくもね。苦しかった。しかし、それもすんで、バカになったのさ」
 青白く冴えた顔に苦笑がうかんだ。

       二

「礼子がお訪ねしたそうだけど、お会いできなかったって残念がっていたよ」
 青木はさりげなく切りだした。落ちつきをとりもどしてガサツなところはなくなっていたが、昔のなんの衒いもなかった書斎人の青木の面影とはどこかしら違ったものだ。
 しかし、長平は、自分の受け取り方がヒネクレているせいかも知れないと自戒した。
 第一、青木の言葉をどう受けとっていいのか、どんな返答をしていいのか、と迷っているのだ。礼子は京都の長平を三度訪ねてきたが、いつも居留守を使って会わなかった。そんなことも、どこまで答えていいか分らない。自分に後暗いところがあるからではなく、青木の心中がはかりかねたからである。
 礼子は青木の細君だった。今は鎌倉の実家に別居しているが、別居だか、離婚だか、そのへんのところも分らない。
 終戦後二年ほどして、長平は礼子から美文の甘ったるい手紙をもらった。三度四度と重なったが、もともと小説家志望だった礼子が、終戦後の全国的に発情期的な雰囲気に、年にもめげず宿念の志望を煽られての筆のすさびだろうと、軽く考えて返事もせず打ちすてていた。
 同じころ、良人の青木は書斎をでて事業にのりだし、鉱山開発だの、当時流行の出版だのと手広くやりだし、出版のことでは時々長平を京都まで訪ねていた。
 青木は長平と会うたび、礼子から呉々くれぐれもよろしくとのことだったよ、とか、上京の節はぜひ泊りにきてくれと頼まれたよ、などと付け加えるのが例であったが、あるとき、
「礼子の奴、君に手紙をさしあげたのに返事がないと云って不思議がってるんだ。君の手もとに届かないんじゃないかなんて心配してたぜ」
「いや、もらってる。だがね。文筆商売の人間は筆不精で、実用記事以外書けないから、時候見舞の返事は書けないのだよ」
 と答えておいた。
 それから半月もたたないうちに、礼子から激情のこもった手紙がきて、今までの手紙は奥さんが握りつぶしてお手許に届かなかったと思っていたが、読んでいて返事をくれないのはひどい。十年ほど前、自分たちの新婚のころ、新居見舞にいらして、はじめてお会いした時から、あなたの存在が私にとっては秘密な尊いものであったし、私の存在があなたにとって同じものであったはずだ、というようなことが書いてあった。
 意外千万な手紙で、長平は相手にしなかった。彼は文面の裏側に、青木夫妻のちょッとした不和を読み、ヒステリーのひとつの仕業と解釈した。
 ところが、一夜、酔っ払った青木が長平を訪ねてきた。ちょうど長平は上京のため出発のところで、玄関でカチ合ったのだ。
 青木はひどく酔っていて、
「君には時間がないし、ぼくは酔っ払ってるし、残念ながら、今夜は話ができない。ぼくの一生の大事なんだが、一日上京を延ばさないか」
 と、クドクドとからみついたが、長平はとりあわずに上京した。
 それから半月とたたないうちだ。
 礼子から、青木と別れて実家へ帰った。自分の思いはあなたでイッパイだという意味の長々しい美文の手紙が長平にとどいた。
 一日おくれて、青木から、事業のヤリクリがつかなくなったから、五十万円貸してくれ、自殺一歩手前で歯をくいしばってる云々、という走り書がまいこんだ。

       三

 長平は礼子の恋文と、青木の借金状と、二通ならべて、異様な思いに悩んだものだ。
 二つの手紙が時を同うして舞いこんだのは、偶然だろうか、夫婦談合の手筋の狂いからだろうか、と。ナレアイの離婚というのは悪意に解しすぎるようだが、根の深い別居だとも思われない。ちょッとした不和のハズミだろうと考えた。仲のよい夫婦だったのだ。
 しかし、二人の別居と、借金の申込みと、無関係なのだろうか。どう考えても、この結論がつかない。ともかく、愉快ならざることではあった。
 礼子はその後十通ほどの一通は一通ごとに露骨な恋文を長平に送ったが、返事がないので、三度、京都まで訪ねてきた。長平は居留守をつかって会わなかった。真にうけかねて、バカらしくもあったし、恋を語るような甘い気持が一切なかったからである。
 礼子の弟という若い中学教師がわざわざ京都の長平を訪れたこともある。この時は上京中で会えなかったが、あとで手紙で、姉の気持が哀れだから何とかしてくれないか、何とかすべきだ、と、当然その義務があるような叱るような文面だった。姉を一方的に信じている実の弟だからムリもなかろう、と、長平は気にしなかった。
 ところが、青木夫妻の親友で、長平にも旧友の海野という史学者が、上洛のついでに長平を訪ねて、
「青木夫人礼子さんが別居して鎌倉の実家にいるが、ぼくも鎌倉だから時々会うが、金に困って、気の毒な状態だね。君から、なんとかしてやれないだろうか」
「なんとかッて、どんなことを。そして、何かしなければならないワケが、ぼくにあるのかい」
 海野はムッとした様子だが、親友のために私憤を殺しているらしく、にわかに物分りのよい顔をして、
「実は青木が、これは又、猛烈な四苦八苦なんだよ。あらゆる事業がおもわしくない」
「手広くやりすぎたのだよ。戦後のバカ景気がいつまで続くわけがないということを、ずいぶん云ったんだが、うけつけようともしないのだから」
「それで、君から、百万ぐらい都合してやれないかね」
 長平は呆れて旧友をうちながめた。海野に悪意はないのである。彼は書斎人の一徹で、何か一方的に思いこんでいるのである。
 一日か二日がかりで言葉をつくして説明すれば、半分ぐらい説得できるかも知れないが、そうまでして、この単純に思いこんだ書斎人を説得する根気もなかった。
「その話なら、うちきりにしよう。君は事情を知らないのだし、ぼくも君のために事情を説明したいとは思わない。第三者が介入すべきことではないよ。話があれば、青木とぼくが直接するにかぎるのだから」
 と、それ以上、ふれさせなかった。
 しかし、それがキッカケとなって、この上京中に、青木と会うことになったのである。
 長平の気持は複雑であった。しかし、青木はそれ以上にも複雑で、悲しさに打ちひしがれているのかも知れない。ただ虚勢だけで持ちこたえているのかも知れなかった。
 長平はその青木をいたわるべきだと思いながら、なんとなく不快であり、万事につけて腑に落ちなかった。

       四

 青木と礼子の別居が、どの程度のものだか、それすらも見当がつかなかった。現に二人はその後も会っているに相違ない。なぜなら、礼子は長平を訪ねたが会えなくて残念がっていた、と青木が云っているのだから。
「そう。そんなことがあったね。せっかく京都まで訪ねて来られたそうだが、あいにく上京中で会えなかったよ」
 長平は、こう答えるまでに甚しく迷ったのである。礼子が三度訪れたこと、居留守をつかって会わなかったこと、それをハッキリ云うべきではないかと迷った。自分の態度をハッキリ示すことは、相手のハッキリした態度を要求することでもあるからだ。
 しかし、青木夫妻の別居が決定的なものだとすると、いかにも礼子が哀れであるし、二人を突き放している自分が、思いあがったようで、イヤでもあった。
「一度、礼子に会ってやってくれないか」
 青木の言葉は静かであった。それを受けとる長平の気持は複雑だ。
「君からそんなことを頼まれると、ぼくは、迷いもするし、ヒガミもする。また、疑いもするし、怒りたくもなるよ。そう思わないかい? 君は?」
 長平は返答を待ったが、答えがなかった。そこで、言葉をつづけて、
「ぼくは礼子さんに一度だけ返事を書いたことがあったよ。別居したという手紙をもらった時だね。こんな返事だ。夫婦喧嘩だけでは足らないのですか。ぼくはあなた方二人が誰よりも愛し合った夫婦だったことを知っています。一度そうであった者は、それ以上のものを探す必要はありません。どこにもそれ以上のものはないから。あなた方お二方の生活がつまらなければ、そのほかの誰の生活もつまらないのです。みんな諦めているだけです。元の枝へ急がれんことを。ザッとこんな手紙だったね。しかし、この手紙は出さなかったよ。なぜなら、まだ出さないうちに、君からの借金の手紙が来たからだ。ぼくはインネンをつけられているような気がした。そして君たちのことは二度と考えてみるのもイヤになったのさ」
 ツツモタセのインネンを、と云わんばかりであったが、青木はそれが気にならないのか、まるで念頭にかからぬ様子で、
「あのときは取り乱して、失礼したね。金詰りで、四苦八苦の時だから。みすみすモウケが分っているのに、それが出来ないのさ。鉱石を駅まで十里の山径やまみちを運びださなきゃならないのさ。その運賃で赤字なのだ。鉱石をきりだしてるのは海岸なんだぜ。港をつくりゃ、もうかるのさ。大きな港じゃないんだ。百トン積みの小船を横づけにするだけでタクサンなんだからね。いくらでもない工費なんだが、その工面がつかないのさ。ぼくの数年はその苦闘史さ。こんど立候補するのも、そうする以外に築港を完成する手がないからだよ」
 青木は再びカラカラと高笑いした。まるで立候補の抱負と高笑いをきかせるために会見しているかのように、その時だけは生き生きと見えるのだった。
 また長平はちょッとむかついて、
「話の本筋にふれないかね」
「まアさ。ぼくの夢だって、きいてくれよ。数年の苦闘史をね。受難史だよ。仕事は外れる。女房は逃げる。来る時には一とまとめに来やがるからなア。なんど首をくくりたくなったか知れないよ」
 青木はまたカラカラと笑った。そして、
「ナア。長平さん。ビールをのもうよ」
 にわかにグニャ/\と構えをくずして、なれなれしくビールをさした。

       五

 長平はなるべく腹を立てないようにと、自制するのに努力した。
「受難史はいずれ承ることにして、別居のテンマツをきかせたまえ。もっとも、君が語りたくなければ、ぼくの方はこれ幸いで、ききたいと思ってるわけではないがね」
「まアさ。長さんは相変らず堅苦しいね。それで女にもてるんだから。アッハッハッ」
 ひとしきり笑いたてて、真顔にかえった。
「だからさ。礼子に会ってやってくれよ」
「なぜ」
「礼子がそれを語る適任者だからさ。ぼくなどの出る幕じゃないよ。礼子が君に語るであろう切々たる胸のうちが、全てを語って余すところなしさ」
 思いがけない言葉だから、まさか本心ではなかろうと疑った。
 しかし苦笑のひいた青木の顔は、打ちひしがれたように蒼ざめている。いったい本気なのか、と長平は呆れた。
「実は、礼子がくることになってるのだがね」
「ここへかい」
「いや、喫茶店で待ってる。もう来てるだろうよ。会ってやってくれよ」
「どうして君は会わせたがるんだい」
「ジャケンなことを言う人だねえ。会ってやったって、いゝじゃないか」
 カンジンなところへくると、青木は返答の急所をはずす。彼の気の弱さだと長平は考えるが、策謀と受けとれぬこともない。
 嫌いでもない女房に逃げられたという。逃げた原因はほかの男に気が移ったせいだと女房自身言明している。
 当の男が、逃げられた亭主の前に現にいるのだ。そして、一方的に気が移ったからと云って、離婚の責任を男に押しつけられては困るし、それぐらいの常識は誰しも持つのが当然だが、この御夫婦に限って妙に押しつけがましいのが腑に落ちない、と男が亭主にきいているのだ。
 ところが亭主はまるで謎々をたのしむように、わざと正体をぼかして、じらしているのである。
 長平は不愉快だったが、しかし自分のことが原因で夫婦別れをしたと云う以上は、一方的に押しつけられたものでも、オレの知ったことかと突き放すこともできない。
「君。もっと素直に話せないのか」
 と、長平が態度に窮して、つい懇願的になると、青木もこたえたらしく、
「すまん。実に、バカなんだ。ぼくは、ね。女房のことでも悩んだが、しかし、金の悩みにくらべれば、微々たるものさ。女のことで死ぬなんて、まだ花ある人生ですよ。ぼくみたいに、金々々、金ゆえに首くくりを何年何ヶ月思いつめた人間というものは、これはもう首をくくる先に骨の皮の餓鬼なんだ。逆さにふっても鼻血もでないなんて、昔の奴は、無慙なことを、いとカンタンに云いやがるよ」
「書斎へ戻るのが賢明だと思うがな。昔のようにさ。たった五年前の昔だ。礼子さんも事業家からは逃げだしたが、書斎の君のところへは戻るだろうと、ぼくは思うよ」
「まアさ。小人には君子の道を説いても、ムダなものだよ」
 青木はわざとらしく爽やかに高笑いして、
「ぼくじゃなくて、女の小人に道を説いてやってくれ。彼女は救われるかも知れないからさ。なぜなら、汚れが少いから。ぼくは今もなお最も多く彼女を尊敬しているよ」

       六

 青木に別れて、二人は銀座裏のバーへ行った。長平の二十年来の行きつけの店だ。二階になじみのバーテンが寝泊りしていて二人を迎えてくれたが、営業は夜だけだから、昼は人のくる気づかいがない。
 薄暗いなかでジンヒーズをつくってもらって飲んでいると、ノックの音がした。
 放二が錠を外して扉をあけると、青木が礼子を案内してきて、じゃア、また六時に、と、自分はそそくさ姿を消した。
 この会見のあとで、長平はもう一度青木に会わなければならないのである。宵の六時にもう一度と青木はきかないのである。
「ここで、みんな話をすますわけにはいかないのかい」
 長平は面倒がってたのんだのだが、
「いちど、その前に、礼子に会ってやってくれよ。それからぼくは君に会って、胸の中をきいてもらいたいのだ」
 青木はそう頼んで、きかなかった。そして六時の会見は、長平のきゝなれない、豪勢らしい料亭が指定されていた。
 礼子は一別以来の尋常な挨拶を終ると、放二の方にチラと目をやって、
「こちら、北川さん?」
「そうです。在京中は形影相伴う血族ですから、お心置きなく」
 青木が放二のことを説明しておいたのだろうと思うから、長平は気にとめず、答えたが、実際は、意外千万な意味があった。しかし、そのときは、わからなかった。
 営業前の薄暗い酒場というものは、坐り場所に窮するような落付かないものだが、礼子はむしろそうでもなく悠々と見まわして、
「ここ、カフェーというんでしょうか? バーですか。キャバレーですか」
「バーというんでしょうね。定義は知りませんが、洋酒を最も安直にのませるところです」
「女給さんは?」
「おります」
 一方的に思いつめて、そのために離婚までして、手紙では事足らず、遠く京都まで三度もムダ足を運んでひるまない礼子。ひたむきに思いまどって何の余裕もないかと思えば、長平よりも落ちつきはらって、静かに四囲を見まわしている。そして、究理の学徒がするような冷静な態度でくだらぬ質問をしている。礼義とか外交手腕じゃないようだ。余裕がありすぎるから、余裕のない世界を弄び、たのしんでいるのじゃないか、と長平は疑りたくなるのであった。
 礼子の知識慾はまだつゞいて、
「バーの繁昌はお酒の良し悪しですか、女給さんの良し悪しですか」
「そうですね。お酒の良し悪しと答えると女給は怒るだろうな。しかし、女給の良し悪しと答えてもバーテンは腹を立てないだろう。してみると、女給のせいだ。なア、エーさん」
「ヘッ。お酒と女の良し悪しのため。こう言ってくれなきゃ、アタシといえども怒りますよ」
 バーテンは口をへの字に曲げてニヤリとして、
「酒道地におちたり。バーもカフェーも知らないどこかの貴夫人とさ。バーに於てランデブーとは、乱世さ。ギョッですよ。先生」
 気がよくて一徹のバーテンは礼子が気に入らないらしく、皮肉った。下賤のものには手をふれたことのないような礼子の態度は、この社会から異端視されるに相違ない。

       七

「あなた方の離婚のテンマツについては、青木君が語ってくれませんから分りませんが、お二方を知るぼくが公平に判断して、青木君は書斎へ戻り、礼子さんは書斎の青木君のもとへ戻るべきではないでしょうか」
 礼子に一方的に心境を語られ迫られてはたまらないから、長平の方から、こう切りだした。礼子の一方的な情熱を拒否する意味も含まれている。
 極度に私事にわたる会見に放二を同席させて非礼をかえりみないのも、そのためだ。差向いで一方的な情熱を押しつけられては捌きに窮する。非礼も承知、身勝手も承知であるが、礼義にかなって、ぬきさしならぬハメになるには及ぶまい。
 礼子に会うのは五年ぶりだが、童女のような面影が今も残って、三十四という年には見えない。美人というほどでもないが、清楚で、みずみずしい肉感もある。懐剣を胸にひめた古武士の娘の格と色気がしのばれる。
 こうして警戒に警戒を重ねたアゲクの会見でも、会えば目を惹かれるものがあるのだ。してみると、そんな警戒もなく会っていたころは、見る目に礼賛の翳がかくれもなかったかも知れず、別して青木のもとで酔っ払ったりしたときには、目尻を下げて、礼子の気持に訴えるような卑しい色ごのみを露出したに相違ない。
 痩せて小さなからだをキッと身がまえて、いつもリンリンと気魄をはりつめているようだが、どこかに、何かが抜けたような、けだるさがひそんでいる。それがないと、気位のバカ高い奥方の典型で、可愛げなどの感じられないリリしさだが、童女めく痴呆さが色気をつくっている。しかし総じて悪童には煙たいような奥方だ。
 長平は自分の話し方が軽薄だったので、礼子が敵意を見せたのかと思った。なぜなら彼には答えずに、チラと目を光らせて、放二に向って話しかけたからである。
「北川さんとおッしゃいますわね」
「ええ」
「北川……放二さん?」
「そうです」
 放二もいぶかしそうであったが次の問いは唐突だった。しかし礼子の声は静かで、
「梶せつ子さん。御遠縁とか、そうでしたわね」
「ええ。血のツナガリはありませんが、親同志が親しかったのです。同窓ですか」
「私の?」
「ええ」
「同級生?」
「え? 同窓ですか」
「フフ」
 放二は他意なく応答しているが、見ている長平はイライラした。奥歯にもののはさまった、じらされる不快さだ。青木もそうだったがと考え、夫婦は悪い癖が似るものだ、別居なんて、たいがいに、止すがいゝや、と思うのだ。
「同じ学校の卒業生ですか」
 長平がたまりかねて放二にかわって大声できくと、
「あら。大庭さんまで。同級ときいては下さらないわね。私、そんな婆さんかしら。あの方は、おいくつ?」
「満ですと、二十九です」
 礼子は素直にうなずいて、
「女の五ツは男の十以上に当るらしいわ」
 と、つぶやいたが、それにつけたして、事もなげに言った。
「梶せつ子さんは、青木の新しい恋人なんです」

       八

 長平は事の意外に驚いたが、青木や礼子には同情がもてず、放二の気持が切なかろうと、気の毒に思った。しかし放二の表情から感情の変化はよみとれなかった。
 長平は放二への同情を礼子への攻撃にかえて、
「すると、青木君に新しい恋人ができたので、あなた方は別居されたんですね」
「あら。そんな。青木の恋愛は最近のことですわ。私たちが別居したのは、昨年の早春でしたわ」
 じゃア、よけいなことは言わないことさ、と長平は顔にそう語らせて、
「早晩そんなことも起るでしょうよ。別居しているうちには、ね。しかし、北川君も知らないことを知ってるようじゃ、あなたも青木君が気がかりなんでしょう。元の枝へ急ぐべし。しかし、その恋愛を北川君が知らないようじゃ、あなたの思いすごしでしょう」
「あら。私、よろこんでるんです。青木に新しい恋人ができて」
「青木君からそんな報告がきたんですか。新しい恋人ができたから喜んでくれッて」
「まさか」
「じゃア、大きなお世話じゃありませんか。人の色話はよしましょうよ。もっとも、口惜しい、というのなら、ま、ごもっとも、合槌ぐらいうつ気持にはなれますがね」
「私、ホッとしましたのよ。どなたか見てあげなければ、青木は淋しくって、やってけない人なんです」
 礼子は言いはった。強情なところはなくて、素直でシミジミした述懐のようだった。
 別れた妻としてはそうあるべきかも知れないが、長平の気持には、ひッかかった。要するに言わない方がよい性質のキザな文句だ。
 礼子は長平のヒガミ根性にはとりあわず、放二に向って、
「梶せつ子さんて、どんな方? 物ごとをテキパキ手際よく処理なさる方? そして、それが容姿にあらわれて、スラリと、小牛ぐらいも大きくてユッタリとしたペルシャ犬のような方かしら」
「そうかも知れません。ペルシャ犬は知りませんが」
「義理人情に負けない方。しかし、どっちかと云えば、あたたかい感じ。表面はね。姐御肌、いえ、女社長タイプというのね。あわれみ深いんだわ。恋人をあわれむけど、愛せない方。恋人は愛犬。そして、本物の犬はお嫌いでしょう、その方」
「そうでもありません。ぼくには弱々しい人に見えます。仕事に身を託して、孤独と悲哀をようやくせきとめておられるようです」
「そうでしょうか」
 礼子はクスクス笑って、
「知らない方のことを、私がなんですけど、三十女はそんなに詩的じゃありませんわ」
 皮肉なところはミジンもなかった。むしろ親愛の情とイタワリをこめて、礼子はこう言っているのだ。
 してみると、梶せつ子と放二の特別な関係を知らないのかな、と長平は思った。少年期からただ一人のせつ子を思いつめて成人した孤児の放二。それを知ってる礼子なら、皮肉の色は隠せなかろう。
 礼子の洞察によると、放二の立場も青木同様、スラリと小牛ほどもユッタリした女の愛犬というわけだ。どうやらこの観察は当っているな、と長平は思った。

       九

「梶せつ子のことが御心配なら、それを北川君に問いただすのは筋違いですよ。センサクの鋭鋒はあげて夫君に向けらるべきものですよ。青木君も、あなたを忘れかねているのですよ。今もって最も尊敬していると云いましたね。亭主と女房の関係においてはメッタに使わぬ言葉ですが、十年もつれそって、別居して、いまだに最も等敬してるというんですから、おだやかならん表現ですね。なにをか云わんや」
 礼子はそれに答えずに、考えこんだ。
 顔をあげて、長平の目を見つめたが、
「私、どうすれば、よろしいのでしょう」
 ジッと見つめて、視線は放れない。屁理窟ではごまかされませんと、礼子の気魄が語っている。しかし、こんな気魄というものは、いわば非常時的なもので、平時の心がこれをマトモに相手にすると、無用な傷もつくらねばならない。一方的な気魄よりは、空論の方が、まだマシだ。長平は空々しく、
「御自分で、おきめなさい」
 いと簡単に突ッぱねる。
 そんな言葉は相手にしません、と礼子の全身の気魄も語っている。
 一段と、たたみこんで、
「私が無用な存在だとおッしゃって下されば、私は死にます」
 視線は益々放れない。
 しかし、長平も、たじろがなかった。
「会話というものは、急所にピンとふれていなくては、こまるものです。ぼくたちの場合、急所がどこにあるか、先ずそれを考えようではありませんか。急所はずれのキワドイ文句を述べ合ったんじゃ、カケアイ漫才じゃありませんか」
 まさしく茶番にほかならない。かほどの茶番を自覚しない礼子のリリしさ、高慢さが、長平をいらだたせた。
「あなたとぼくのオツキアイの上で、ぼくの一存で、あなたの生死が左右できるようなイワレがあったでしょうか。かりにも一人の生死にかかわることであれば、ぼくも責任をもちたいとは思いますが、イワレなく責任をもつわけにはいきません。あなたは健全な常識を身につけた方でしたが、かりに立場をかえて、あなたがよその男から、同じことを持ちかけられた場合を考えていただきたいと思います」
「非常識は承知いたしております。ですが、ただ御返事をいただくだけでよろしいのですが、それも御迷惑でしょうか」
「それがですよ。返事の仕様のない場合も、あるものですよ。一方の感情がたかぶりすぎて、非常事態宣言の線を突破しているときには、平時の安眠にふける庶民の魂は、ついて行けないのが自然です。たとえば、です。夜道にオイハギにやられつつある男が、たまたま通りかかった人に、助けをよびかけます。これに対して、よびかけられた方は返事の仕様がありませんよ。余は武術のタシナミもなく、非力であるから、助けたい気持もあるが、兇器をもてるオイハギに立ちむかって汝を助ける力量はないと自覚している。余としては、侠気と生命慾との差引勘定にしたがって、余の行動を決せざるを得ない。よって余は汝を見すてて逃げ去るであろうが、汝これを諒せよ。こう事をわけて返答してもいられませんよ。あなたの場合も、これに類する場合です」
 こんな屁理窟を言いながら、礼子の言い方があんまり身勝手で非常識だから、イライラしながら、妙にさしせまった色気にもむせたりした。

       十

 礼子はながく無言である。
 別居のイキサツはまだ何一ツきいていないが、きいたところで、どうなろう。もう会見は終るべきだ、と長平は思った。
「ぼくの年齢になると――あながち年齢のせいではないかも知れませんが、恋愛なんて、もう面倒くさくてダメなんです。浮気の虫は衰えを見せませんが、恋に生きぬくなんて気持はもはや毛頭ありません」
 長平は一方的に心境を語りはじめた。礼子の一方的な愛情の押しつけに対するシメククリの返答としてであった。
「女房に満足してる亭主はいないものですよ。世界中の女をテストして女房を選ぶわけじゃなし、かりに偶然世界一の女房に当った男がいても、よその花に憧れるのは自然の情ですから。そこで、正直によりよき恋人をもとめると、次々と、棺桶にねむるまでキリがありません。おまけに人間の愛慕の激情というものは、いくつの年齢になっても、初恋と同じだけ逆上的なもので、この感情に身をまかせると、仙人でもそうなる。そのくせ、短時間で例外なくさめます。又、新しくやらねばならぬ。精神病の発作と同じものですよ」
 無礼、軽薄な言辞だと長平は自ら思った。人の目にさぞイヤらしく見えるだろうと思ったが、気にしなかった。一時も早くこの茶番を終らねばならぬ。その思いだけだった。
「恋に生き、恋に死ぬのも立派かも知れません。しかし、ケチンボーが食う物も食わず、お金をためて、貯金通帳をだきしめながら、栄養失調で生涯の幕をとじる。バカさ加減も、立派さも、恋の勇士と同じことですよ。要するに、思想と実践の問題かな。しかしですね。万事面倒くさくって、やる気がないというのも、結局同じようなものです。これを不純だの堕落だのというべきではありません。面倒くさいということも、一つの思想であり、よって何もしないということも実践であり、バカさ加減も同じなら、立派さも同じことさ。ただ、否定的だというだけのことで」
 否定的なものを肯定的なものと同列におくのも身勝手な話だが、長平は気にかけない。
 目的のために手段をえらばず。格言は便利なものだ。使い用でどうにでもなり、格言を楯に使うと、あらゆる矛盾をしのぐことができる。
 茶番の幕をおろせばいいのだ。
「あなたと青木君はむつまじい一対でしたよ。どんな似合いの一対もあれが限度で、あれ以上ではありません。あなたが今後いかほど探しても、所詮、青い鳥ですよ。最初に捨てたものが最高のものであったと悟るだけです。万人がそうだというのではありません。初恋、必ずしも、真の恋ならず。初恋の一対でも、ずいぶん離婚して然るべきようなのがあるものですが、あなた方の場合はそうではないのです。最初のものが最高のものでしたよ。あなたが今後恋愛遍歴をしてみると、この真実が分るのですが、そのためにムダな遍歴をなさることもないでしょう。ぼくのバカな一生が、そう教えてくれるのです。バカの代表が身をもって証した事実を利用するのが、利巧者の生き方ですよ」
 長平がこう結んで、幕をおろしたツモリになりかけると、無言をやぶって、礼子がきいた。
「私が押しつけがましく甘えたりして、あなたに御迷惑をおかけしなかった場合、それでも青木と私が幸福な一対とおッしゃったでしょうか」

       十一

「それはもう、ぼくの立場がどうあろうとも、あなた方が幸福な一対であったという判断には、変りがありません。難を云えば、平凡だったかも知れません。けれども、これは当事者の心事に同情しすぎての判断で、第三者の公平な目でみると、夫婦生活の平凡さは賀すべく珍重すべきことかも知れず、概して幸福な一対というものはその一生が平凡な性質のものでしょうよ」
 長平は、又、つけたして、
「幸いにして、今回は、一挙に平凡をくつがえす大地震があったじゃありませんか。もとの平凡へ戻るための調節作用だったと解釈するのが賢明でしょうよ。今度は耐震耐火建築にしろという暗示でもあります。夫婦生活の自壊調節作用はどこの家庭にもあることで、この程度の大地震も、そう珍しいものじゃありません。幸福な一対に限って、時に大紛争を起しがちなものです。ここに哀れをとどめたのはぼくで、御二方が元の平穏へ戻るための地ならし道具に使われたようなものですが、あなた方が元々通りの幸福におちついて下されば、ぼくも道具のお役にたって満足、けっしてインネンはつけません」
 長平がバカのように高笑いをしたので、礼子もその場に見切りをつけた。
 思いきりよく立ち上って、
「おいそがしくてらッしゃるのに、時間をさいていただいて、ありがとうございました。私、青木と会う約束がございますので、失礼させていただきますが、今夕、青木とお会いなさるんでしょうか」
「ええ。その約束はしております」
「でしたら、そのあとでゝも、も一度、お目にかからせていたゞきたいと思いますけど」
「もうお話することもないようですが」
 礼子はクスリと笑って、
「ムリですわ。そんな。男と女の話ですもの、差向いて、きいて下さらなくちゃ」
 全身に媚がこもった。
 長平の方が思わず目をそらして、
「じゃア、青木君と三人で」
「ええ、青木となら、かまいません」
「じゃア、ぼくたちの話が終るころ、七時ごろにでも、いらして下さい」
 礼子は去った。
 去る前にもらした礼子の媚が、長平の頭のシンにからみついて放れない。毒にあてられたようだ。長平の血に浮気の虫が多すぎるせいだが、浮気の血が騒ぎたっても陽気になれない時もある。長平の心はふさぎ、にがりきるばかりであった。
「君、ぼくに代って青木夫妻に会ってくれ」
 と、彼は放二にたのんだ。
「ぼくの気持は、きいての通り、あれで全部だよ。君の一存で、自由に捌いてきてくれたまえ」
「お気持だけはお伝えしてきます。ですが、一存で捌きはつけかねますが」
「今夜一夜の間に合せの捌きだよ。あとは、どうなろうと、かまやしないさ。こんなバカバカしい話はもうタクサン」
 長平はふと梶せつ子に思いつき、放二をやるのは、いけないかな、と考えたが、放二の澄んだ落付きを思うと、自分以上の老成した大人が感じられ、すべての不安は無用に見えた。
「ギョですよ。先生。ギョギョッ」
 バーテンは腹をかかえて大笑い。
「ビール二本のみますよ。罰金。冗談じゃないよ。銀座の女給だって、あんなハデな口説かれ方はしないね。バカバカしい」


     金の泥沼


       一

 青木は放二の話をきき終り、長平が来ないことをたしかめると、うなだれて、蒼ざめた。ぶちのめされて、ゆがんだ顔からは、あえぐようにしか声がでないらしく、
「わがこと、終れり」
 よくききとれない声であった。しかし、努力して顔をやわらげ、
「ぼくの顔に書いてあるだろ。お金を借りたかったんだ。百万ほど」
 フッと溜息をもらして、
「ここの勘定も、実は長平さんを当てにしていたのさ。こうなると、お酒もノドを通らないね」
「ここの勘定ぐらいでしたら、ぼく、おたてかえ致しておきます」
「え? 君、そんなお金持かい」
「大庭先生からお預りしたお金ですけど、事情を申上げれば了解して下さると思います」
「君、どれぐらい、預ってる?」
 青木は卑しげな顔色を隠さなかった。もう、泥沼へおちたんだ。藁一本、にがすものか。ノドからでも手をだしてみせる、という毒々しい決意が露骨であった。
 しかしそれを見つめる放二の目はむしろいたわりの翳がさした。
「ここの勘定だけになさっては」
 放二は言葉を探していたが、
「ちょッとの水で旱魃はどうしようもありません。生活原理を変えなければ。ぼく自身、旱魃のさなかで考えついたことなんですけど」
 青木は驚いて青年を見つめた。
 青年は目をふせて、一語ずつ探すように、静かに語っている。あらゆるものに未知な、あらゆる汚れに未知な青年の口から、大らかな言葉が高鳴りひびくのがフシギである。
「君、お金に困ったことなんか、ないだろう」
「そうでもありません」
 放二の返事にはこだわりがない。しかし青木はそれを素直にうけとりかねて、
「君、ぼくを嘲笑っているのだろう。金の泥沼に落ちこんだ餓鬼をね」
「そんなことはありません」
「旱魃はちょッとの水じゃ救われないッて、それが、なにさ。金の泥沼は、そんなものじゃないんだよ。金の世界は、その日ぐらしのものさ。一日の当てがありゃ、又、なんとかなる。攻略し、退却し、又、攻略し、まさに絶えざる戦場だよ。まだ、あんたには分らない。分らなくて、しあわせなのさ」
 しかし、この青年に敵意はもてなかった。
「君はやさしい心をもってるんだ。そして、ぼくをいたわってくれたんだ。な、そうだろう。ついでに、甘えさせてくれよ」
 青木は泣きたいような気持だった。
「長平さんはオレに百万かさないかな。君、たのんでくれよ。二百万でも、三百万でも、五百万でも、多いほど。なア、君。ぼくのノドからは手がでているんだよ」
 冗談めかしても、気持は必死になる。それが顔をゆがめた。
「君がもうけさせてくれゝば割り前をだす。もうけの半分君にやる。百万なら五十万。二百万なら百万。なア、君。半分だぜ。こんな割前をだしてもとは、金欲しやの一念きわまれり。鬼の心境さ」
 襖が静かに開いた。姿を現したのは礼子であった。
 顔の冷めたさは、すべてをきいたと語っていた。

       二

 青木は礼子のひややかな顔にもおじけなかった。
「ま、お坐りなさい。ぼくの昔の奥さん」
 彼はかえってふてぶてしく笑って、
「あんたも、ぼくも、見事にふられたよ。長平さんに。彼氏は来てくれないッてさ」
 悪党じみて見せるほかに手がなかった。
「ま、一献いきましょう。なに、お会計は心配しなさんな。北川さんが、ひきうけてくれるとさ。こちらの奥さん、ぼくのフトコロにコーヒーをのむ金もないの御存知なのさ。奥さんだって、帰りの電車賃しかないんだからね。ぼくの方じゃ、車代も長平さんからタカルつもりだったんだが、身代りだから、北川さん、覚悟してくれよ」
「大庭さんはお見えにならないんですか」
「あんたほどの麗人の口説も空しく終りけりというわけさ」
 青木の意志ではなかったのに、目に憎しみがこもる。心の窓はかくしきれない。それをまぎらして笑ってみても、悲しさがしみのこるばかりである。
「なア、北川さん。人間は一手狂うと妙なことをやるものさ。この奥さんが大庭君を思いつめて離婚すると云いだす。折しもぼくは八方金づまりで大庭君に救援をもとめようという時さ。二つは別個の行きがかりだが、これが重なると変な話さ。ぼくも考えて、変だと思いましたよ。まるで女房売るから金よこせみたいじゃないか。けれども、そう思いつくと、妙なものさ。変なグアイだから、やりぬけ、やりぬけ、とね。なんとなく悪党らしい血もたかぶるし、負けじ魂もたかぶるしね。いつのまにやら、女房の代金をとる計算にきめているのだ。今だって、そうだぜ。女房はごらんの通りふられてくるし、大庭君は買わないつもりらしいが、ぼくは今でも売りつけるハラさ。是が非でも取引しようというわけさ」
「悪党ぶるのは、よして。私まで気が変になりそうよ。お金の必要なのは分っていますが、誤解をうけるような言い方は慎しむ方がよろしいのです」
「誰が誤解するだろう? どう誤解したって、ぼくの本心より汚く考えようはないじゃないか。ぼくは金の餓鬼なんだ。これが人間のギリ/\の最低線さ。借りられるものは、みんな借りまくッてやる。なに、ひッたくるんだ。かたるんだよ。かたるだけ、かたりつくして、残ったのが、大庭君だけさ」
「私も大庭さんにあなたの窮状を訴えてさしあげたいと思っております」
「奥さんや。ぼくたちの心の持ち方は、どうも、変だ。不自然ですよ。本心にピッタリしないところがあると思うな。ぼくたちは味方ぶりすぎやしないか。不当に憐れみたがってるよ。ねえ、奥さんや。ぼくは君を売る。君もぼくを売りたまえ。めいめいが自分だけの血路をひらいて逃げ落ちようや」
 しかし青木は目に憐れみをこめて、
「なア、奥さんや。あんたは大庭君にふられちゃこまるじゃないか。しッかりやッとくれよ。君自身の血路のためにさ」
 すると礼子に生き生きと色気がこもった。
「大庭さんは私を愛しています。盲目的に。あの方は私のトリコなのよ」
 あんまり自信に溢れているので、放二は目を疑ったが、青木は多くの物思いに混乱した。礼子はさらに生き生きと断言した。
「大庭さんは、もう、私から逃げることはできないのよ。クモの巣にかかったのです」

       三

「あなたの梶せつ子さんは、どう? うまく、いってますか」
 礼子が、かわって、青木を見下していた。青木が威勢を見せたときは、ありあり虚勢が見えすいていたが、礼子には、それがなかった。心底から落ちつきはらっているようである。
「そう。実は、そのことでね」
 青木は素直にうけて、
「長平さんから百万ふんだくってやろうというのも、そのことなんだ。築港の金もいる。選挙費もいる。鉱山の経費もいる。これは開店休業中だがね。金のいることばッかりさ。とても一とまとめには出来ッこないから、まず金のなる木を植えようというわけさ。梶せつ子と共同事業をやる手筈なのだ。銀座裏にかりる店の交渉もついてる。階下が小さなバアで、二階が事務室さ。事務室では、出版とアチラ製品のヤミ売買などやる予定でね。実は、長平さんには、本の出版もさせてもらいたいと思ってるのさ。夜はバーテンもやりますよ。そのために、是が非でも金がいる」
 礼子は放二に向って、
「梶さんから、それらしい話おききですか」
「ぼく三週間ほどお目にかかっていませんので、何もおききしておりません」
 放二は青木の存在すら初耳だから、まったく知らなかった。
「ですが、あすお会いする約束ですので、そのお話をうけたまわるかも知れません」
「え? 君が、あす、梶さんに会うって?」
 青木はおどろいて、顔色を改めて、
「君は、どうして、あの人と……」
「北川さんと梶さんは、親同志親戚以上に親しくしていらした方」
 礼子の言葉は信じられないという青木の顔色であった。
「君、いつ、その約束したの」
 詰問はするどい。放二の静かな態度はいさゝかも乱れなかった。
「速達をいただいたのです」
「いつ?」
「昨日の午前中でした」
「発信は、どこ?」
「そこまで調べませんでした」
「その速達、見せてくれない?」
「いま持っておりません」
 放二は静かに答えたが、実は胸のポケットに在るのである。
 青木は解せないらしく、思い沈んでいたが、
「社用で大阪へ行ってるはずだ。五日前にたったんだが、まだ二三日は戻らぬ予定ときいていたが」
「たぶん旅先からだろうと思います」
「あす、どこで会うの」
「ぼくの社へ来て下さるのです。いつとは云えないが、夕方までに必ず行くから、外出中は行先を書残して出るように、と。そんな文面からも、旅先からの便りのような気がします」
 みんな放二のデマカセであったが、誰がこの高潔な、気品あふるる青年が嘘をつくと信じられよう。
 ところが、青木は疑った。
「君はぼくを警戒してるね」
「なぜでしょうか」
「君はぼくの信じていたことを信じさせるように努力してるじゃないか。余はナレをスパイと見たり」
 こう叫んで、カラカラ笑った。冷めたい汗がしたたるような蒼ざめた顔で。
「君は梶さんのチゴサンかい」
 青木のカンは鋭い。

       四

「じゃア、明日一日中、ぼくを君の社へ詰めさせてくれよ。梶さんの訪れを待つために」
「ええ。どうぞ」
 梶せつ子は放二の社へは訪ねて来ない。別の所で会う約束だから、放二はこだわらなかった。
「それから、大庭君にも会わせてもらいたいのだ。是が非でも、たのむよ。拝みます。この通り」
「お気持はおつたえしますが、先生の御返事はぼくには分りかねます」
「大庭君はいつまで東京にいるの」
「あと三四日で、お帰りです」
「なア、北川さん。ぼくは、もう、今夜は君のソバから離れないぜ。君のうちへ泊めてくれたまえ。それがいけなかったら、ぼくの宿へ泊ってくれたまえ。もう、こうなったら、はなすものか。君こそは、わがイノチの綱ですよ。君またワレに憐れみを寄せたまえ」
 青木は必死であった。
 放二はうなずいて、
「ぼくのアパートでよろしかったら。おかまいはできませんが」
「ありがたい。実に、君は心のやさしい人ですよ。君の善良な魂すらも疑るような、ぼくの泥まみれの根性をあわれんでくれたまえ。ぼくは容赦なく君にあまえるよ。君あるによって今夕の勘定を救われ、君あるによって明日に希望を託し得。いつもギリギリの戦場、最後の線に立てられてさ。敗残兵の自覚がもてないところが哀れでもあり、ミソでもあるというわけらしいな」
 青木は安心したらしく、酒をたてつづけに呷りだした。
「北川さん。ちょッと」
 礼子は放二を廊下へよびだして、
「大庭さんのお宿は、どこ」
 きびしくせまる態度である。
「定宿はありますけれど、そこへお泊りとは限りません」
「定宿はどこですか」
「ぼくの一存で申上げるわけにいかないのです。先生のお仕事をまもるのが、ぼくの任務ですから」
 礼子の全身に媚があふれたち、そして、礼子はとりすまして笑った。
「私は、何者? あなたは、ご存じ? あまりに激しすぎる愛は否定的に現れます。なぜなら、罪の意識をともなうから。大庭さんは十年間、私を思いつづけていらしたのです。そして、あまりにも激しすぎた愛でした」
 勝利に酔った人のようだ。同じ人が、同じ日のうちに、うちひしがれた姿で長平に向い、生死をきめる返答を与えよと叫んでいたとは、あまり距りすぎた現実である。
 この女は、何者? 言われなくとも、この場の当然な疑問であった。狂人? 色情狂かな、と思わざるを得なかったほどである。
「私は十年間、大庭さんにとっては、心の太陽でした。しかし、罪の意識は太陽に叛かせもするのです。その歪みをただすためには、私が身を落してさしあげなければなりません。使徒は受難しなければならないのです。福音と真理のために」
 大袈裟すぎるので、放二はふきだすところであった。
「大庭さんのお宿おッしゃい!」
「それも受難の宿命かと思いますが」
 と、放二は思わずクスリと笑って答えると、礼子は澄んだ静かな声で、
「私というものを失っては、大庭さんがお気の毒とは思いませんか」
 その自信は、使徒の安定を示しているようにも思われた。

       五

 放二は廊下で礼子に別れて部屋へ戻った。青木はそれと察したらしく、
「あの奥さんは?」
「いまお帰りになりました」
「君をよびだしたのは、お金を貸してくれというのだろう」
「いゝえ、そんな話はありませんでした」
「え? ほんとかい?」
 青木は慌てて立ち上って、
「君、すまないが、千円かしてくれ。あの奥さんはお金を持っちゃいないんだ。鎌倉へ帰るぐらいの電車賃はあるらしいが、明日のお小遣いも、生活費だって、持っちゃいないんだから。君、助けてやってくれよ。たのむ」
 青木は放二から千円札をうけとると、酔顔をいかめしくこわばらして、足もとをふみしめながら、急ぎ去った。
 異様な関係にある夫婦らしいが、前後を通算して、放二は悪い感情をうけなかった。
 青木の別れた妻によせるいたわりは、目を覆いたいほど、いたましい。金の泥沼に落ちこめば、誰しも餓鬼であり、憑かれた妄者になるものだ。そのような妄者にとっては、夫婦関係も、愛情も、支離メツレツになるだろう。泥沼のフチに立ちかけて踏みとどまっている放二には、その切なさが他人のものではなかった。
 それにしても、得体の知れないのは、大庭に対する礼子の感情であった。どこまでが本当だか見当のつけようがなかった。
 虚栄、又は、うぬぼれというのだろうか。それとも本心からの信念だろうか。
「私というものを失って、大庭さんがお気の毒とは思いませんか」
 と、心安らかに言い放った礼子は、天使のように邪念ないものに見えたのである。
 しかし放二の責任感はそれ以上に安定しており、礼子の数々の執拗な努力も、長平の宿をききだすことは不可能であった。
 礼子はついにあきらめると、
「いまにお分りになってよ」
 ニッコリ笑って言いすて、いとアッサリと立ち去ってしまった。去るにのぞんで、にわかに風に舞い去る花びらのように軽かったので、放二はわが目をいぶかる思いにうたれもしたが、そこから解答をひき出すことは不可能であった。
 青木は二十分ちかい時間をかけて戻ってきて、
「駅の近くまで追っかけて、それでも姿をつかまえることができたよ。今夜はしみるように酒が恋しい。もう三十分ほど、つきあってくれたまえ」
 と、残った酒を独酌で呷った。やがてポケットから包みをとりだして、
「奥さん、お金をうけとらないんだ。無理にすすめたら、君に差上げてくれといって、これを買ってしまったんだよ。ネクタイと靴下だがね。奥さん、一文の収入もないくせに。お金に詰っていることでは、ぼくと変りがないはずなんだ。それでも虚勢をはるという根拠が分らないな。金銭は恋の比にあらず」
 青木は考えこんだが、
「君をよびだして何をたのんだの? 長平さんに会わせてくれろッて?」
「宿をおききでした。お教えできませんでしたけど」
 青木は思いあまった様子で、呟いた。
「女は現実派でありすぎるから、きわどい時ほど夢を弄ぶことができるのさ。オレだったら、恋人に云うよ。金をくれッて。金で買ってくれッて。ぼくは決意をかため、覚悟して、そう切りだすんだ。女ときたら、決意しなくともそれが本心だから、ギリギリのとき、夢みたいなこと、やらかすんだよ。女は全然嘘つきなのさ」

       六

 放二のアパートでは、ヤエ子が熱をだして寝こんでいた。
 ゆうべの酒の残りをとりだして青木にのませていると、昨夜のカズ子に代って、フジ子という娘が顔をだして、
「こんばんは。兄さん、泊めてね。私だけ、アブレちゃッたのよ」
「私もさ」
 そう云って、その後から姿を現したのは、ルミ子であった。
「嘘つきね。いま、お客を送りだしたとこなのよ。ほら、なアさんという人」
「アッ。あの人、まだきてるの?」
 それまで無言で寝たままのヤエ子がモックリ首をもたげて、
「すごいわねえ。ルミちゃん。あんた、また、殺しちゃうのね。ああ、四人目だ」
「人ぎきの悪いこと言うわね。熱病やみの幻覚だ」
 ルミ子は面白くもなさそうに薄笑いした。
「だって、あの人、死んだ人の片割れじゃないの。あんなことのあとで、また来るなんて、死神がついてるわよ。ヤミ屋も食えなくなったし、強盗でもやってんだろ」
「幻想がよくつづくわねえ」
「ピストルぶッ放すんなら、私の居ない日にしておくれ」
 ヤエ子は叫んで、にわかにフトンをひッかぶったが、ルミ子は薄笑いをうかべながらフトンをまくってのぞきこみ、
「アドルム、おのみ」
「うるさいッ」
 フトンをひッたくって、もぐりこんでしまった。
 青木はここへくる道々、放二から彼のアパートのあらましのことをきいてきたので、彼女らの素姓については察しがついたが、放二とのツナガリについては、雲をつかむようである。したたか酔ってもいた。
「君の奥さんは、どの人なんだい」
 青木の声が高かったので、ヤエ子が再びモックリとフトンから首を起して、
「あの人よ」
 ルミ子を指して、イライラと叫んだ。
「怒るわよ」
 ルミ子はちょッと鋭い目でにらんだ。
 放二は頃合と察して、
「ルミちゃん。今夜、この方を泊めてあげられる?」
「ええ。どうぞ」
 ルミ子は苦笑して、
「昨日も、今日も、か。なんだか、変ね。フジちゃんに悪くないの」
「アタイは浮浪者だもん」
 フジ子はアッサリ辞退した。
 放二が二千円さしだすと、ルミ子はためらって、
「あら。兄さんからなの」
「この方のお金、お預りしてるんです」
「そう」
「君の奥さんじゃないんだね」
 と、青木は念を押して、
「不倫も怖るるところにあらずだがね。ルミちゃんか。よろしく、たのむ。可愛がっておくれ。オレにも死神がついてるのかも知れねえや。しかし、君は美人だなア、ほんとに、奥さんじゃないんだね」
「アイ・アム・パンパン」
「メルベエイヤン!」
 青木はフラフラ立上って、オイデ、オイデをしているルミ子を追いながら、
「北川さんや。梶せつ子女史にナイショ、ナイショだよ。そうでもないか。地獄の門は、とッくに通りこしていたんだっけな。こんどくぐる門、どこの門」
 ルミ子の目が光った。

       七

「あんた、梶せつ子さんの旦那さんなの」
 まずルミ子は問いただした。
 男を送りだしたままのフトンが敷きっ放してある。青木は服のままその上へひッくりかえって、頭をかかえて、
「え? なに? 君、異様な質問を発したようだね。なんだって?」
「アンタノオクサン、カジ・セツコ!」
 ルミ子は節をつけた。
「君よ知るや梶せつ子」
 青木も唄の文句で起き上って、
「え? なぜ知ってるの。梶せつ子を」
「あんたの方が変だわね。梶せつ子にナイショ、ナイショって、なんのことなの。それがハッキリしなければ、この門は通行止め」
「ハッハ。はからざりけり。とんだシャレだったね。しかし、ぼくはシャレたわけじゃなかったのさ。ぼくのくぐったのは、地獄の門。こんどくぐる門、どこの門。地獄の次の門てのがあるのだろうかと悲しくって呟いたんだが、地獄の次の門てのは、ここのうちに在ったのかね」
「ここすぎて悲しみの門か」
「え? 君はダンテを読んだの」
「喫茶店の広告文さ。門という店のね」
「なるほど。君には人のイノチをとるものが、そなわっているのかも知れないな」
 青木はしみじみ呟いた。
「仲よくしようよ。オレもイノチをすてる時は、ここへくるかも知れないぜ。そのときは、どこの門もふさがってるんだ。ここの門だけ開いてるような気がするな」
 礼子の門も、梶せつ子の門も、みんな閉じているだろう。地獄の門も、悲しみの門も、とじている。ここは何で門だろう?
 死の門? イノチの門? イヤ、もっと茫漠としたものだ。雑沓の跫音あしおとだけのような、いつもザワザワと跫音だけがくぐる門。無関心、無の門。
 せつない思いがこみあげた。
「オレが何者かッてことを、君がきくことはないだろうがね。君だけが、誰より知ってるはずじゃないか、オレが誰かということをさ。跫音にすぎないですよ。ザワザワと群れて通りすぎて行くその一つの跫音にすぎんじゃないですか」
 ルミ子は青木のニヒリズムの相手にはならず、ネマキに着代えながら、詩集を朗読するように、
「跫音に戸籍を問えば、跫音の答えて曰く……それから?」
「ここだけは戸籍のいらないところだろう」
「ここで死んでごらん。警察が私にきくのは、跫音の戸籍だけ。ほかのことは何もきかない」
「なるほどね。わかった。君こそは、全世界の、全人類の、検視人かね。戸籍の総元締めというわけかい」
「エンマ様の出店らしいわね」
「跫音の答えて曰く、か」
 青木は、また、ねころんで頭をかかえた。
「梶せつ子女史は、ぼくと共同事業の相棒さ。ぼくと共に出資者の一人でもあり、事業経営の最高首脳者でもあるわけさ。ところがね。ぼくの集金がうまくいかないのでね、ぼくはクビになりそうなんだ。すッぽかして行方をくらまし、ぼくに会ってくれなかったり」
 青木は切なくなって言葉をきったが、気持をとりなおして、
「さ。跫音の戸籍はすんだよ。なぜ君が梶せつ子を知ってるのか、それを答えてくれる番だぜ」

       八

「あんた、兄さんのお友だち? でも、なさそうね。会社の人? 社長さん? 文士? 画家? お医者さん? 悲劇俳優?」
 矢つぎばやに列挙して、ルミ子は苦笑をもらした。
「みんな当らなかったようだわね。あんた、なんなのよ」
「さッき申上げた通りの者さ」
「兄さんの、なんなのよ」
「今日はじめて会った親友さ。梶せつ子に会えるように手引きをたのんだ次第でね」
「どこで会ったの? 飲み屋?」
「街頭でタバコの火をかりて、モシモシあなた梶せつ子さん知ってますか、なんてことはないでしょう」
「じゃア、飲み屋で、酔っ払って、泣いてたのね。あんたぐらいの年配の人、酔っ払うと、ムヤミに大きなことを言ってバカ笑いするもんね。あんたみたいに、メソメソするのは例外よ」
「葬式の跫音なんだな」
 ルミ子はタバコを一本ぬいて火をつけた。
「なんだい。煙を吹いてるんじゃないか。すうもんだぜ、タバコは」
「すうのはキライ。むせるから。ぼんやり考えごとをするとき、タバコふかすのよ」
「一本おくれ」
「あんた、立派なミナリしてるけど、お金ないのね。さっきの二千円も、あんたのお金じゃないでしょう」
「御説の通りさ。礼装乞食というんだな。電車賃まで北川君にオンブしているのさ」
「酔ッ払い!」
 ルミ子は小さく吐きすてるように叫んだが、顔にはなんの表情もなく、悠々とタバコをふかしていたが、
「梶せつ子って、兄さんの世界中でたッた一人の女なのよ。十年昔から、思いつめて成人したのよ。凄腕の大姐御らしいけどね。兄さんには、小鳩か天使のようにしか見えないらしいわね」
 しばらく無心に煙の行方を見つめてから、
「毛皮やウールの最高級の流行服を身につけてね。首輪、耳輪、腕輪もつけてるのよ。四、五十万のものを身につけてるらしいわね。それでいて兄さんの乏しいサラリーからお小遣いたかるのよ。兄さんのドタ靴とボロボロの靴下見たでしょう。姐御にたかられてしまうから、靴下一足買うことができないのよ。あんたも、似てるわよ。どうも、ミナリのパリッとしたのは、変な世渡りしてるらしいわね」
 こう言ったが、咎める表情が浮かんだ様子も見えない。のんびり、チビチビとタバコをふかしている。
「君たちにとって、兄さんはなんに当る人なんだい」
「私たちは人間の屑というのかも知れないな。でも、あんたたちほど変な世渡りしていないよ。兄さんにタカルような根性だけはないわね。すがっているのよ。屑だもの。すがらずに生きられないわ。兄さんは私たちの大きな大きなママ。心のふるさとよ」
 なんの変った様子もなく、静かに立ち上って、二千円をぶら下げて、
「ひとりで、おやすみ。泊めてあげるから。兄さんのお金じゃ、私たちのからだは買えなくッてよ」
 立ち去ろうとするのを、青木はよびかけて、
「許してくれ。兄さんにも、あやまってくれよ。一晩ほッといてもらうと、ぼくも助かるよ。泣いて、泣きあかしたいのだ」
「例外中の例外」
 ルミ子は軽くギョという顔をして、扉の外へ消えた。


     記念日


       一

 午後二時半。小田原から、東京行急行にのりこむ。
 熱海、湯河原、小田原のあたりは、温泉へ執筆旅行の文士と、それを追っかける編集者がきりもなく往復しているところで、危険地帯であった。
 文士も編集者もたいがい秘密のアイビキぐらいやってる人種であるから、平気のようなものであるが、見られた者だけが噂にのぼるから、見られるとバカをみる。だからアベックで出かけるようなことはなく、別の汽車で出て、別々に帰るというやり方である。
 せつ子もその手を用いて大過なくやってきたが、今度だけは勝手がちがう。
 宇賀神うがじん芳則は右翼団体の顧問格の策士で、陰謀にかけては天才的な男であるが、一面、大変な露出狂で、どんな秘密も洗いざらいペラペラ喋りまくっているように見える。
 実際は、喋りまくっているのは、どうでもいいようなことで、大事の陰謀は決して喋っていないのである。小事について露出狂的であるところが、大事な秘密をさとられない秘訣であるのかも知れない。
 宇賀神のところへは各党の政治家が出入りしてゴキゲンをとりむすび、金をもらっている。彼の手からバラまかれる金は、門外漢には想像もつかないほどの巨額であるが、どんな方法で、どれくらいの収入があるのだか、誰も見当がつかないのである。いろんな臆測はとんでいるが、正体をつかんだものはいない。
 せつ子は宇賀神の寵を得て、これが二度目のアイビキだから、時日も浅いが、その収入の内幕については、てんで見当がつかなかった。しかし変に気を回すと、彼の鋭い直感にふれて、せっかくの寵を失うから、その方面には風馬牛にもしているのである。
 ところが、情事のこととなると、全然露出狂である。人前でも戯れかねない有様であるから、別々にアイビキの地へ赴くような配慮などは念頭においたこともない。
 せつ子もこれには困ったが、この金の蔓は放せない。是が非でもと今生の決意をかためて乗りだした仕事だから、今までの名が醜聞によって汚されるのを怖れてはいられなかった。
 それでも一応の配慮はこらして、長崎始発の東京行急行を選んだ。
 湘南電車というのができて、新装置の二等車がつき、同時に二等運賃も安くなったから、文士はみんなこれにのる。編集者も過労を怖れてこの二等を利用するものが少くないから、二等車も安心はできない。
 しかし長崎始発の急行といえば、東海道の急行の中ではローカルに属するもので、温泉帰りの利用すべき性質のものではなかろう。こう考えて選んだのである。
 せっかくの胸算用は大当外れ、大失敗に終ってしまった。
 小田原で二等車にのりこむ。ヨウ、と立ち上った男が酔顔を真ッ赤にそめて近づいて、
「おせッちゃん。箱根に雲隠れの巻か。ヤ、これは失礼」
 ペコンと宇賀神に挨拶して、ひッこんだ。せつ子の雑誌の編集次長の河内であった。宇賀神のもとへ一しょに訪問記事をとりにでかけた男で、ソモソモのナレソメを一挙に見ぬく唯一の人物だから始末がわるい。悪い車に乗りあわしたと後姿を目で追うと、ヤ、居る、居る。
 女流作家の呉竹しのぶ。このお喋りにかかっては、一夜のうちにジャーナリズムへ筒抜けとなろう。も一人は放二の雑誌の編集長の穂積であった。悪いのばかりが乗り合わせていた。

       二

「え? そうか。あんときの、あんたの同僚かア。覚えてる」
 宇賀神は河内を思い出して、膝をうって、
「退屈しのぎに、いいなあ。よんでこいよ」
「ダメ。ジャーナリストはうるさいから。すぐ評判がたってしまうわ」
「オ。やってる。オバアチャンも飲んでるわ。オ。キュッと一息にやりおったなア。ワア、酔っ払ってる。面白れえな。あのオバアチャンは、どなたかいな」
「呉竹しのぶ」
「ワア、面白れえ。よんでこいよ。あッちへ行こうか」
「いけません。私は面白くないんです。文士だのジャーナリストって、酔っ払うとダラシがなくッて、礼義知らずなのよ」
「オレとおんなじだなア」
「ダメですよ。こちら側へお座んなさいね。ききわけがなくッちゃ、いけないのよ。私のお酌で、お酒めしあがれ」
 箱根まで迎えにきたカバン持ちが気をきかせて、ウイスキーをとりだす。
 宇賀神は素直に座席をかえて、キゲンよくウイスキーをなめている。気まぐれな思いつきを言いたてるが、実際は言いたてるのが面白いだけで、やる気はない。神経は鋭利で、見かけと反対に、こまかく気のまわる男だから、無意味なツキアイは神経が疲れるばかりで、退屈しのぎにはならないのである。
 宇賀神はウイスキーはちょッとでやめて、すぐ居眠りをはじめた。
 午後四時に東京駅へつく。宇賀神は迎えの車でいずれへか立ち去り、せつ子も車をひろって、銀座の社へ六日ぶりに戻った。
 せつ子が箱根へ行ったのと前後して、大庭長平が上京している。長平の出版は某社に独占されているが、せつ子は新しく自分がやるはずの出版社で、この出版権をそッくり握ってしまいたいのである。
 速達で云ってあるから、せつ子の社で放二が待っているはずだ。先に河内が帰っているから、社内にはすでに噂がとんでるだろうが、せつ子はハラをきめたから、平静を失わなかった。
 何も怖れることはない。むしろ晴れがましいガイセンだった。銀座がせつ子を迎えている。
 せつ子のカバンの中には、現金と小切手とで五百万円はいっているのだ。数日中に、もう五百万円もらえることになっていた。思いがけない大成功であった。にわかに全てがトントン拍子に、思いのまま自由自在に延びて行くような気持がする。
 せつ子が編集室へ戻ると、もう、室内には殆ど居残った人影がない。酔っ払って寄り道してるのか、河内の姿も見えなかった。
 見廻したが、放二の姿が見当らない。フシギだ。彼女の命令を忘れることはないはずなのだ。
 自分のデスクの前へくると、ゴチャ/\つみあげた本の陰から、明るい笑顔の娘がスッと立って、
「梶さんでいらッしゃいますか」
「ええ。そう。あなたは?」
「私、北川放二さんの代りに、お待ちしていました。大庭記代子でございます」
「ア。あなたなの。大庭先生の姪御さんは」
「ええ。この御手紙に用件が書いてあるそうです。御返事をいたゞいてくるように仰有ってましたの」
 と、手紙を渡した。

       三

 放二からの手紙は、青木のことであった。せつ子が来るものと思って、朝からズッと放二の社に詰めきっていることが書かれていた。
 せつ子は忘れていた男のことを思いだして、ちょッと不快を覚えたが、気にかけるほどのことではない。
 せつ子はこれまでに青木から八十万円ほど出させている。自分で二百万都合するから、青木には三百万都合して、と頼んだ。五百万耳がそろわなくとも仕事に着手できるが、八十万じゃ、着手どころか、事務室もかりられない。
 宇賀神の方がトントン拍子にいってるから、青木はもう用のない存在であった。ただ苛立たしいのは、忘れた男、用のない男が、なんの因果か、放二と仲よくしていることだ。
 せつ子は手紙をよみおえて、
「青木さんには私が帰京したことナイショにしてほしいわ。二三日帰京がおくれるッて電話があったことにして」
「小ッちゃな雑誌社でしょう。応接室も社長室もないんですの。編集も業務も小ッちゃな一室にゴチャまぜ。青木さんの目の前に電話があるんですから、こんな電話がありましたッて、ちょッと云いかねると思います」
 なかなか、こまかく気がつくな、と、記代子を見るせつ子の目に微笑がこもった。
 いかにも当りまえなお嬢さんタイプの娘である。難もないが、目を惹く特長もない。社会見学に働いてみるのも悪くはないが、当りまえの奥さんに落ちつく以外に手のなさそうな娘である。
 さッきから、せつ子の頭にひらめいているのは、記代子を放二のお嫁さんに、ということだった。悪くない方法だ。
 出版事業をやることになれば、放二にはイの一番に手伝ってもらう必要があるが、すると、宇賀神のことも当然放二に知れてしまう。知られて困ることもないのだが、放二に家庭のある方が無難には相違ない。
「じゃア、あなたが社へ戻って十分ぐらいすぎたころ、誰かに電話かけさせましょうね。旅先から知らせがきて、放二さんに伝言があったから、と、そう云ってもらったら、よろしいでしょう」
「ええ。じゃア、五時か、五時ちょッとすぎたころ」
「ええ。それでね、青木さんをまいちゃッて、あなたと放二さんとお二人で、マルセイユへきてちょうだい。スペシャルのフランス料理ごちそうするわ」
 せつ子は一目で、記代子が自分に好感をいだいたことを見ぬいていた。万事都合よくいっているのだ。
「今日は私の記念日なのよ。とても嬉しいことがあったのよ。たぶん、私の生涯の記念日になると思うわ。第一回の記念日に、あなた方と祝杯をあげるのは、因縁ね。きっと、重大な意味があるのよ。お食事のとき、記念日のわけ、話しましょうね。飛びきりのフランス料理たべながら」
「まあ、素敵ね」
「青木さんは、うまくまいてちょうだいね。そんなこと、できそう?」
「ええ、カンタンよ。私たちアベックで散歩したいんですからと云ったら、その場で退散しちゃうでしょう」
 記代子はクスクス笑って、あからんだ。
 せつ子は記代子を送りだして、あれでも女は女なんだと、バカバカしい気持になるのであった。

       四

 記代子はかなり巧みに芝居を演じた。小娘としては出来すぎたほど過不足なくやったつもりであったが、青木の鋭いカンをごまかすことは不可能であった。
 青木は記代子の想定どおり、アベック戦法に撃退されて二人に別れを告げたが、ただちに尾行をはじめた。
 青木のカンは鋭かったが、しかしカン違いもやっていた。せつ子の帰京がおくれたことは真にうけたのである。
「この娘は長平さんの姪だというからな」
 と、彼は内心せせら笑った。
「オレをまいて、長平さんと会いに行こうという寸法か。笑わせちゃアいけないよ。オレの目の黒いうちは、どんなに落ちぶれても、お前さん方若い者に」
 二人がマルセイユへはいったのを見とどけると、青木は三十分、店の傍に見張っていた。大庭長平が先にきているはずはない。おくれて来ると見てとって、待ちかまえていたのである。これが失敗のもと。二人のあとからすぐはいれば、せつ子の姿を認めることができたかも知れなかった。
 三十分待ってもこないので、扉を排して、はいる。敬々うやうやしく近づくボーイに目もくれず、まずサロンをゆっくり見廻したが、二人の姿も、長平の姿も見えない。スペシャル・ルームにひッこんでいるのだ。
「小説家の大庭長平さんのお部屋へ案内していただきたい」
「大庭さんとおッしゃる方ですか」
「そう。五十がらみのデップリした西郷さんのような大男だよ」
「ちょッと分りかねますが」
「三人づれだよ。はじめ西郷さんが待ってるところへ、美青年と美少女がアベックで訪ねてきたはずさ。しらべてみたまえ」
 ボーイは他の数人の同僚たちに訊いてまわったのち、
「大庭さんとおッしゃるお客様は本日はお見えになっておりません」
 インギン丁重である。さてはボーイにいたるまで堅く口どめに及んでいるのかと、青木は察しがよすぎて、
「ヤ。失敬。デップリした洋服の西郷さんに、よろしく」
 と、ひきさがった。こう警戒厳重では、単身では手が廻らない。明日はカバン持ちの戸田を助手に使って、放二の社に張りこませてやろう。放二のアパートも分っているのだし、今、あせることはない。
 青木は自分の宿屋へ戻ってきた。戸田は彼の指令をうけて別方面の金策にとび廻ったはずだが、その戦果はどうだろうかと、部屋へはいると、待っていたのは、戸田ではなくて、礼子であった。
「やア。あなたか。戸田君は?」
 礼子は答えずに、チラと目を部屋の隅の机の方へやった。青木がそこを目で追うと、彼のカバンにいれておく書類が、机の上につみあげてある。戸田がそれを掻きまわす必要はなかったはずだが、と、近よって見ると、鉛筆で走り書の紙片がのっかっていた。
 青木はそれを執りあげた。
「しばらく月給もいただきませんので、代りにいただいて行きます」
 しらべて見ると、カバンと、身の廻りのものがなくなっていた。いまや、着のみ着のままだ。急場をしのぐものと云えば、腕にまいたロンジンぐらいのものであった。

       五

 青木は泣き顔をかみほぐすのに長い手間はかからなかった。貧乏もここまでくると、気も強くなる。不意打ちの意外さをのぞけば、さしたる被害でもなかった。
「刀おれ矢つきたり、かね。しかしゲンコと竹槍はあるらしいや。今や追いつめられたる日本軍ですよ。しかし、原子バクダンにしては、小さすぎたな」
 と、せせら笑った。
「でも、こまるでしょう」
「こまっているのは、いつもの話さ。今さら、こまることはないやね」
「いいえ。こまる、とおッしゃい」
「ハッハ。あなたも貧乏人だから、この心境はわかるはずだがなア。焼石に水ッて云うでしょうがね。アレですよ。今のぼくには、十円から百万円までは同じゼロですよ。貧乏人にとっては、必要とする金額まではゼロなんだね。お金持みたいに、借金を貯金するわけにはいかないらしいよ」
「でも、あるものが、なくなれば、こまるでしょう」
「焼石に水はマイナスの場合にも当てはまるらしいね」
「こまるとおッしゃい。おッしゃらなければダメなんです」
 礼子の顔は怒りにひきしまった。
「あなたは虚勢のために自滅しているのよ。虚勢のために、真実を見ることができないのです」
「ハッハ。それは、あなたも同じことでしょう」
 青木はくすぐったそうに笑って、
「あなたは貧乏すらも自覚しようとしないようだね。それは、そもそも虚勢以外の何ものですか」
 礼子はあきらめた。そして、涙がにじんだ。憎しみがあふれて、たえがたくなった涙であった。
 礼子のハンドバッグには九万五千円ほどの金があった。持ち物の殆ど全部を売り払って得た金である。どう使うという目的は定まっていないが、最後の軍資金である。戦うための金だ。そして、これを使い果しても戦果がなければ、最後の覚悟を定める時であった。
 礼子は青木の不在の部屋を訪れて、戸田の置き残した手紙をよみ、青木のあまりの窮状に、自分の窮状を忘れた。彼を窮地から救うために、最後の軍資金の半分をさいてやろうと考えていたのである。
 その思いが切なすぎて、礼子の怒りがかりたてられた。
「北川さんから千円おかりしなかったのが虚勢だとおッしゃるのですか。虚勢ではありません。覚悟です。覚悟があるからです。でも、どんな覚悟だか、私も知らないのですけど、ね。誰だって、本当に覚悟をきめたときは、どんな覚悟だか知らないものなのよ。あなたには覚悟の切なさもお分りでないのよ」
 礼子はハンドバッグをかかえて立ちあがった。
 青木はその激しさに見とれていたが、
「それはいけないよ。覚悟ほど人生をあやまらしめるものはないからな」
「あやまるのが人生なのです」
 礼子は言いすてて、立ち去った。
 しばらくして、青木は後を追うために、フッと立ちかけたが、ためらって、坐りこんだ。しばしボンヤリしていたが、
「その覚悟なら、オレの無二の友だちなのさ。お前さんも、とうとう、そうなのかな」
 彼は顔をおうて、泣いていた。

       六

 せつ子は放二と記代子に新しくおこすはずの出版事業の抱負をきかせた。
 宇賀神の噂は明日にも二人の耳にとどくだろうが、わざとそれを隠して、
「金主のことではいろいろのデマがとぶでしょうけど、デマを利用する方が賢明なのよ。あなた方も、当分はデマを信用してちょうだい。ただね、私には数千万円うごかす力があるのよ。これだけは、真実。ひょッとすると、一億ぐらいまで、ジャン/\資金がおろせるのよ。すばらしい記念日でしょう」
 これだけはカケネなしの本音であった。全身から歓喜があふれでるほど、快感がたかまっているのだ。
「さア、のんで。放二さん。記代子さんもよ。なんとか祝辞おッしゃいよ。あなた方」
 せつ子の浮きたつ様を放二はまぶしそうにうけとめて笑った。
「あんまり幸福そうですから、不安になるんです」
「幸福すぎちゃアいけないの?」
「それに越したことはないのですけど、マサカの時を考えて、程々にしておくことが大切だろうと思うのです」
「ずいぶんジミだわね。あなた、いくつになったの」
「ぼくは無邪気になれないのです」
「からかわれてるみたいね。坊やにませたことを云われるのは、変なものだわよ」
 目で同意をもとめると、記代子も笑って、こたえた。そのキッカケを捉えて、せつ子は話題を変えて、
「わが社の出版計画の一つに大庭先生の全集を考えてるのですけど、どうかしら。放二さんが引きうけて下さるなら、出版部長におむかえしたいのよ。記代子さんにもよ。お力添え、おたのみするわ。お二人をわが社の幹部社員におむかえするつもりよ」
 放二はしばらく返事につまっていたが、
「先生と出版書肆とのツナガリには古い来歴があるらしくて、ぼくなどにはその片鱗も分っておりません。ぼくの力では、先生に原稿をお依頼するのも容易ではないのですから、全集出版のことなどは、とても力が及びかねると思います」
 すると記代子がさえぎって、
「でも私たちから、お願いしてみることはできてよ。お願いもしないうちから、そうときめてしまうのは、弱気すぎやしないこと。私、断然、お願いしてあげるわ」
「素敵だこと。放二さんには、あなたのような明朗なリーダアが必要なのね。さもないとハムレットになりかねないわ。記代子さんが現れて下さったから、大安心よ」
 放二は深く澄んだ目で、せつ子を見つめていたが、
「ぼくたちには本当のことを教えて下さい。青木さんも金主の一人ではないのでしょうか。共同経営のようにうかがってましたが」
「ちがいます」
 せつ子はきびしく否定して、
「あの方の話は止しましょう。私がまちがっていたのです。あの方の境遇に同情したことが。事業に同情は禁物なの。心を鬼にしなければいけないのね。忘れたいことを思いださせてはいけませんよ」
「そのために青木さんは自殺なさるかも知れません」
「事業に同情は禁物なのです」
 せつ子の目に断乎たる命令の火焔がもえ狂った。放二はそれを正視して、素直にうなずいた。

       七

 せつ子はただちに反省した。放二に威圧を加える様を記代子に見せるのは得策ではない。心のひろいオ姉サンぶりを見せて、小娘の信頼をかちうることが大切である。
 せつ子はニッコリ笑って、
「私はね。この事業にイノチをうちこむのよ。私はそんなふうに生れついた女ですから。記代子さんは良妻賢母に生れついた方。結婚までの社会見学に働いてみる程度の軽い気持でなければいけないのよ。人はそれぞれの持ち前によって生き方を変えなければならないのね。私のように、世間並の奥さんにおさまるには、鼻ッ柱が強すぎるし、芸術家の素質はなし、中途半端なのよ。女としては、中途半端はこまるものだわね。女らしさを殺さなければ、生きぬけないらしいからよ」
 実際はその反対だ。男に伍して生きぬくためには、最大限に女の素質を生かすことが必要なものだ。
 男というものは、自分の生活の足場のために必要なものであるから、己れは常に男たちには魅惑的な存在でなければならず、秘密のヴェールにつつまれていなければならぬ。
 己れに近づく男は、己れの主人の如くであるか、己れが主人の如くであるか、そのいずれかで、対等のものは近づくことを許されない。
 それがせつ子の生き方であった。恋愛というムダで病的な感傷を自分の人生から切りすてていた。女の魅力というものは、恋愛のような初歩的なものではないし、女の生きがいも、そのように初歩的なものではない。
 せつ子は二人の小鹿に、慈母のようなやさしい眼差しをおくって、
「私はね。たとえば、大庭長平全集を計画するでしょう。こうときめたら、コンリンザイ、しりぞかないわ。賭というものはね、たいがい損するときまったものですよ。でも、誰かしら、賭に勝ってる人がいるのよ。きわめて限られた少数の人だけがね。算数的には、やらない方が無難なものよ。無難といえば、サラリーマンの生活にかぎるわね。事業というものは、賭なんです。こうときめたら、おりてはダメよ。算数的には不可能きわまるものなんです。それを承知でやりぬくのが、賭というものです。一か八かじゃないのね。いつも、一。最後の時まで、一にはったら、一だけ」
 大庭長平全集ぐらい、あなた方がダメだと思っても、私はやってみせる。恋愛はふられた以上ひきさがらなくてはならないが、事業にふられることはない。こっちが、おりさえしなければ。土足にかけられ、ふみにじられても、最後にモノにすれば勝つのである。
 せつ子の慈母の眼差しには、そんな決意は毛筋ほどもうかがえなかった。
「大庭長平全集にはった以上は、おりませんからね」
 と、せつ子はニッコリして、
「私、出版社長の肩書で、あなた方の次には大庭先生を御招待したいと思うのよ。その機会をつくってちょうだいね。功を急いでるわけではないのです。私は何年間でもおりないから。ただ記念日の第二日目の宴会までにね」
 せつ子の慈母の眼差しに変化はなかったが、二人に拒絶を許さなかった。
「ねえ。大庭先生の滞在日程をのばしても、私の宴会に出席して下さるようにお願いして下さいね」
 二人は、あかるく、うなずいた。


     第二の宴


       一

 翌朝、放二と記代子は新宿駅で待ち合せて、社へでる前に、長平の宿を訪ねた。せつ子の依頼を果すためであった。
「梶女史、数千万円を握るに至ったかね」
 長平は自分でも意外なほどの好奇心を起した。
 昨夜、長平のもとへ、呉竹しのぶと穂積らが遊びにきたのである。彼らは東海道の汽事の中から、ひきつゞいて酔っ払っていた。そして、車中で見かけた宇賀神とせつ子の話をきかせた。
 それをきいた時には、なんだ、そんな女なのか、と、長平は梶せつ子を軽く見くびっただけであった。まだしも、宇賀神という人物の方に興をかられたほどである。戦争という御時世中にも金に縁のなかった右翼策師が、敗戦後に至って巨億の富をにぎり、民主政府の裏側に君臨しているというのが皮肉である。
 しかし、放二の話から、思い合してみると、宇賀神のフトコロからなら数千万円はでるかも知れぬ。まんざら架空の駄ボラではないようだから、長平は数千万円という金額の大きさに驚いて、せつ子を見直した。
 むらむらと好奇心が頭をもたげたが、
「青木がにわかに数千万もうけたわけじゃアなかろうね」
 わざと、こう、きいてみる。
「ええ。青木さんではないそうです」
「すると、青木の立場はどうなるのだろう」
「たぶんクビだろうと、御自身が仰有ってました」
「御自身て、青木がかい」
「そうです」
「クビになる金主もあるのかね」
 金主の男は電車賃にも事欠いてドタ靴の若者にたかっているというのに、被護者の女は他の男からやすやすと数千万せしめるに至ったという。是非善悪はとにかくとして、ちょッと痛快なエネルギーを感じさせられる。
 長平はせつ子に会ってみたいと思った。そこで、
「よろしい。梶さんの招待にはよろこんで応じましょう。しかし、ひとつ注文があるのだが、君たちは遠慮してくれないかな。ぼく一人だけの招待にしてもらいたいのさ。人前ではきけないような質問もするだろうから」
 放二はうなずいて、
「梶さんも先生だけの招待をむしろ喜ばれるだろうと思います。ですが」
 放二は長平を正視して、
「先生。先入主をおもちになっては、いけないと思います」
「先入主って? どんな?」
「たとえば、梶さんが、俗で、世間師で、性格の強い人だというような」
「むろん、会ってみなければ、わからないさ。正体が知りたいから、会ってみたいのさ」
 放二は目に肯定をあらわしたが、まだそれだけでは充分でないというように、
「青木さんは梶さんに見すてられると自殺なさるかと思われます。そんな予感がするのです。それを梶さんに伝えましたら、事業に同情は禁物だと仰有ったのです」
 澄みきった少年の目が冷たく生死を語っているので妙だった。
「青木さんは、まだ、なにか、甘えてるんじゃないでしょうか。梶さんは、甘えることも、甘やかすことも、できない人です。最も弱い動物は他の動物を信じることができません。自分を信じることもできませんが、しかし、自殺もできません。ただ、生きるだけで必死だろうと思います」
 長平は、もう分ったと手をふる代りに、鉛色の目玉をむいて、ソッポをむいた。

       二

 長平がせつ子の招待を承諾したので、二人は安心して辞去した。記代子はそこから出勤し、放二は報告のために、せつ子の社へ立ちよった。
 もしや青木が待ち伏せていてはと、放二はビルの裏口からはいった。そんな配慮を忘れなかったが、放二は裏をかかれたことを知らなかった。
 青木は戦後の出版景気に当てこんで、最近まで雑誌社もやってきたので、編集者の生態については知るところがあった。彼らは社へでる前に作家を廻って用をたし午すぎるころ顔をだす。一二時間ブラブラして、又、原稿の依頼や催促にでかけてしもう。それは朝寝と早びけの言訳にも便利である。
 放二は要心しているし、口が堅いから、彼をつかまえて、たのんでみても、長平の宿を教えてくれる見込みはない。
 そこで早朝から放二のアパートの陰に身を隠して待ちぶせた。出勤前に長平を訪ねて用をたす公算大なりと見たからである。
 果して放二は新宿で記代子と待ち合して、社へは行かずに、とある屋敷の門をくぐった。旅館ではない。ちょッとした閑静な小庭があって、妾宅か、隠居家のような構えだ。
 これを長平の住居と見てとったから、しばらくたって放二と記代子が立ち帰るのには目もくれず、やりすごして、門をくぐった。
「大庭長平先生にお目にかかりたいのですが」
 と当てずッぽうに言ってみると、
「大庭さんは茶室におすまいですよ。庭から廻って下さい」
 やっぱり、そうだ。青木はホッと、目がくらんだが、こうまでして、なんのための努力だか、わけが分らない。長平が金を貸してくれるとは思っていないのだ。ただ、意地だ。なんの意地だか、それも分らない。長平は自分にからかわれていると思うかも知れないが、オレがオレをからかっているだけなのさ。待望の隠れ家をつきとめて、こみあげてくるのは絶望だけである。
 しかし、青木は威勢よく庭をまわって、わざと窓から首を突ッこんで、
「ヤ。いる、いる。こんちは。長平さん」
「ヤ。君か」
「不意打ち、御容赦。天をかけ、地をくぐり、習い覚えた忍術が種切れになるところで、ようやく、つきとめました、ハイ」
「ま、あがりたまえ」
「なんでもないような顔をして、こまった人だね。歓迎はしていないかも知れないが、イマイマしいというお顔には見えないのだからな。意地のわるい人さ」
 青木は部屋へあがって、しきりに汗をふきながら、
「初夏の汗だか、冷汗だか、分らないやね。ときに、ここが、東京の別荘ですか」
「なんでも、いいや」
「妾宅かな」
「君にききたいと思っていたが」と、長平は好奇心にはずんだ顔で青木を見つめた。
「君と梶せつ子との関係は、金銭上のものだけかい。それとも、男女の関係もあるのかい?」
 青木はせせら笑って、
「曰くあるらしき質問だね。聞き捨てならぬ語気ありと見ましたが、いかが?」
 言葉はふざけているが、青木の目に真剣なものがこもった。

       三

「君の神経は何製てんだろう。鉄筋コンクリート製かも知れないな。ねえ、長平さん。そうだろう。それで小説も書くんだからな。まんざらコンクリート出来でもないらしき、センサイなる悲劇をね」
 青木は苦笑して、喋りづづけた。
「梶せつ子とオレの関係がどうだって? あんた、他の中へ石を投げて遊んでいるんじゃあるまいね。オレの身にもなってくれよ。石が当りゃ他の蛙は気絶ぐらいしまさあね。イヤ、そうでもないらしいぞ。あんた、薪割りで蛙をザックと斬ろうッてのか。ザックと」
 青木の目が光った。しかし、やがて悲しげに目をふせて、苦笑をうかべて、
「イヤ、よそう。コンクリートを押してみたって、はじまらねえや。ときに、長平さん。池の蛙に二百万両かさねえかな」
 青木はヤケ気味に、相手を小馬鹿にした風であった。長平は返事をしなかった。
「そうだろうな。蛙の顔には小便ときまってらア。小判を投げちゃアくれねえな」
 青木は茶室の隅に水道の蛇口のあるのを認めて、ウガイをして顔を洗った。
「失恋? ふざけちゃ、いけませんや。女房に逃げられたって? チェッ。埒もない。お金か! 笑わせるよ。まったく。梶せつ子がオレの何者だって? 知ったことか! ねえ。そうだろう。お金も、女も、つまらないね。ツラツラ観ずれば、そうなんだ。わきまえてるんだよ。わたしは」
 しかし顔色をひきしめて、
「だが、長平さんや。さッきのセリフにはたしかに、曰くがあるね。そうだろう。それを聞かせてもらいましょう。蛙の横ッ面に石が当ったんだとさ。白いアゴをつきだして、ひっくりかえるだけが能じゃないんだってさ。池の蛙でもさ。さ、おききしましょう」
 ひらき直った凄味はなかった。言葉のとぎれ目から、身のこなしの節々から、内心の苦悩が、傷口からの血のように、ふきでている。
 長平は無関心に、
「ぼくはね。今夜、梶せつ子に会うよ。まったく、池の中へ石を投げているのだろうよ」
「フン。どこの池にでも石を投げてくる人だよ。ルミ子さんの池にも石を投げてきたんだってね」
「君は素人の山登りなんだな。天候を見て、下山することを忘れているんだ。アッサリ遭難しちゃア、つまらない話だな」
「往生際はわるいらしいがね」
 青木は帽子をつかんで立ち上った。
「可愛い、虫も殺さぬ面相をしてさ。食えないねえ、ちかごろの子供は。あの北川少年のことさ。梶せつ子が帰京してるなんて、の毛ほども覗かせやしねえや。お仕込みがよろしいからな」
 苦笑して、ふりむいて、
「じゃア、失敬。今日は退散するが、又、会うぜ。往生際がわるいんだから。京都で、門前払いは罪でしょう。ねえ、長平さん」
 長平は答えなかった。青木が靴をはき終るころ、
「梶せつ子に会っても、ムダだな」
「え? なぜ?」
「ふ。そうかい。是が非でもかい」
 長平はにわかに肚をきめたらしく、
「よろしい。梶せつ子に会えるようにしてあげよう」
「え? なんだって?」
 長平は委細かまわず居室へもどって、名刺に書いた。
 ――名刺持参の者に御引見の栄をたまわりたし。梶せつ子様。
「利くか、どうか。関所のニセ手形だよ」
 と、青木に渡した。

       四

 せつ子は応接室へ現れて、青木を認めると目を光らしたが、すぐふりむいて、受付の小女をよんで、
「この名刺の人は、どの方?」
 応接室には幾組もの人々が立錐の余地もないほどつめこんで、モウモウたる紫煙をふいている。受付の少女が指したのは、意外にも、青木その人であった。
 せつ子はすぐさま肚をきめて、驚いた風もなかった。
「出ましょう」
 青木を外へ連れだした。
「大阪旅行が、とても、うまくいったのよ。後援して下さる方が現れてね。独立できることになったの。その代り、大阪へ移住することになるらしいのよ。関西の実業家は太ッ腹で、話がわかって、たのもしいわ。でもね。個人的な後援者がハッキリしてるんじゃなくって、ある事業団体が後楯というわけなのよ。青木さんにはお気の毒ですけど、相手が事業団体でしょう。行きがかりがどうあろうとも、他人の共同出資を認めてはくれないのね」
 せつ子はデタラメをまくしたてた。無感情に。そして青木を刺し殺すように言葉をきった。
 青木などは頭になかった。この名刺持参の者、と、わざと無記名の紹介状を青木に持たしてよこした大庭長平が憎いのである。御引見の栄をたまわりたし、と皮肉な敬語の裏に、おごりたかぶったキザなウヌボレが見えすいている。長平への戦闘意識で、頭の中はモウモウといっぱいだった。
「成功すれば後援者から独立できるのよ。きっと、成功するわ。なぜって、莫大な援助なのよ。事業の成功率なんて、出だしの資金次第だと思うの。事業の実質的な主権を私が握れたらね。それは夢じゃないでしょう。いいえ、必ず実現してみせる。それも、遠くないうちに。そしたら、あなたにも、どんな約束だって、果してあげられるわ。あなたが私のためにして下さった何十倍の物もね」
 思いやりを含めたような言い方をしながら、侮蔑、嘲笑が露骨であった。
 青木の癇は鋭どすぎて、弱すぎる。関所のニセ手形がゲキリンにふれるのも仕方がないな、と、あきらめて、
「大阪の事業団体て、だれ?」
「極秘よ。まだ、いえない。御想像にまかせるわ。銀行屋さんでも、紙屋さんでも、印刷屋さんでも、高利貸でも」
「すると、その中のどれでもないわけだ」
 青木のそんな利いた風な言い方ぐらい、厭気ざしたら、我慢のならぬものはない。
「どこかで、休もうよ」
 と、青木が云うのに耳もかさず、颯々さっさっと歩きつづけて、
「大阪と東京を股にかけて、女手ひとつでしょう。身体をもたせるのが、たいへん。でも、死ぬまで、やるの。ほら、ごらんなさい。毎日、ブドウ糖を」
 腕の静脈をだして見せた。青木は物欲しさをそそられる代りに、苦笑を返して、
「今からそれじゃア、大成おぼつかないぜ」
「私の雑誌はね。創刊号に七十万刷ります。三号には、百万にして見せるわ。私の欲しいのは、時間だけ。ただ、忙しいの。十分間が一日の休養の全部だわ。これじゃア、大成おぼつかないわね。じやア、失礼させていただくわ。いずれ、又、ゆっくりね」
 せつ子は自動車をとめた。そして、悠々とのりこんだ。他の誰とも人種の違う人のように。

       五

「ちょっとドライヴしてちょうだい。そう。海の香のするあたり。聖路加病院の河岸がいいわ」
 そう運転手に命じて、せつ子はクッションにもたれた。長平の名刺をとりだして見た。名刺持参の者に御引見の栄をたまわりたし。見れば見るほど、底意地のわるさが伝わってくる。破り捨てようとしかけたが、大切に、ハンドバッグへしまいこんだ。名刺を破りすてるぐらい、いつでも、誰でもできることだ。小さな腹いせは、その小さな満足によって、敗北のシルシにすぎない。そして名刺をしまいこむと、いつからか、あるいは、たぶん昨日からかも知れないが、雄大な新たな自己が生れつゝあることを知って、満足した。
「山手を走って。議事堂へんね」
 そして放二の社へ辿りついたときには、晴れ晴れとした自分を見出すことができた。
「御招待の席を変えたのよ」
 せつ子は放二にささやいた。
「築地の疑雨亭という料亭。待合かしら。古風で、渋くッて、それで堂々としていてね。大庭先生がお好きになりそうなウチなのよ。そこへお連れしてちょうだいな。ここに地図があります」
「ハア」
「大庭先生は、どんな芸者が、お好き」
「わかりません」
「美人で、娼婦型で、虫も殺さぬ顔で悪いことをしているような人?」
「どうでしょうか」
「案外、あたりまえの、つまらない美人がお好きなのね」
「さア。見当がつかないのです」
「芸者遊びはなさらないの」
「なさるでしょうが、ぼくはその方面の先生の生活にタッチしたことはありません」
「放二さんはオバカサンね。先輩に接触したら、裏面の生活を見る方が勉強になるわ」
「ぼくは反対だと思うのです」
「どうして?」
「遊ぶときは、誰でも、同じぐらい利巧で、同じぐらいバカだと思うのです」
「マジメの時は?」
「ぼくは、まだ、人生で何が尊いものだか、わからないのです」
「せいぜい、長生きなさい」
 せつ子はバカらしくなったが、気持を変えて、
「大庭先生は短気の方?」
「いいえ。むしろ、寛大です」
「しかし、皮肉家ね」
「いいえ。いたわりの心が特に先生の長所だと思います」
「私のこと、どんな風に考えてらッしゃるらしいの?」
「今のところ白紙だろうと思いますが」
 放二は考えて、
「ありのままのあなたは、先生の一番近い距離にいる女の方だと思うのですが」
「一番近い距離って、なんのこと」
「魂のふれあう位置です」
 別れて去ろうとすると、放二がよびとめた。
「小さな反撥や身構えはいけないと思います。ほんとうの奥底に通じあう道をはばみます」
「なんのこと?」
 せつ子の目が光った。名刺の件を知っているのかと思ったのだ。せつ子の鋭い目の色を見ると、放二は、あきらめたように、目をふせた。
 せつ子は車をひろって、招待の手筈のために駈けまわった。爽快な闘志がたかぶり、身がひきしまるようである。

       六

 長平は放二の案内で招待の席へ送りこまれた。通されたのは大広間だが、外はまだ明るいのに、雨戸がしめきってある。テーブルに面して床の間を背に大きな座布団がたった一枚、主待ち顔にしかれているのは、今夜の客が一人であることを示しているから、長平はドッカとすわる。
 はこばれた蒸しタオルで顔をふいているうちに、多くの女たちが出入して、広間のナゲシにはガンドウのような燭台をぶらさげてローソクをともし、テーブルの両側には笠のないスタンドのような燭台をたててクリスマスの大ローソクをともした。それが終ると電燈を消してしまった。
 奇妙に思った長平が何を女たちに問いかけても返事をしてくれない。いそがしく出入している女同志も、言葉を発する者がない。
 広間がローソクの明りだけになると、ひきつづいて酒肴がはこばれる。セキを切って落したようにキリもなく渋滞もない。女たちの出入に一段落がついたときには、長平は多くの芸者にかこまれて、酒をさされていた。一時にワッと、無言の酒肴に襲われたような有様であった。
「先生は洋酒がお好きとうけたまわりましたが、どれがお気に召しましょうか」
 芸者はテーブルのかたえから用意の洋酒をとりだして見せる。ジョニーウォーカア。ナポレオンのコニャック。その他、シャンパン、アブサン、ジン。いずれも然るべき品物らしく、敗戦国で拝まれるのがフシギの品々である。
「コニャックは珍しいな。十何年ぶりの再会になるだろう。これを、もらいましょう」
「ハイ」
「時に、ローソクは、どうしたわけですか。今日は東京の停電日ですか」
「いいえ。なんのオモテナシもできませんので、趣向したのですけど、先生のお気に召しますか、どうか。開店二日目の記念日なんです」
「このお店は今まで休業ですか」
「いいえ、私自身の開店記念日。大庭先生を招待させていただくのは、身にあまる光栄でございます」
 長平は驚いて芸者を見つめた。芸者か、店の女将かと見ちがえたのは道理である。洋髪ではあるが、場所柄では素人とはうけとれぬ和服。五尺五寸にちかいかと思われる長身が一きわ目立っていたから、この女の出入には特に目をひかれていたが、これが梶せつ子とは。言葉の様子では、どうも、そうらしい。
「あなたが梶さんでしたか」
「ハイ。どうぞ」
 と、せつ子はコニャックをつぐ。つぎ終ると、
「お気に召すほどのオモテナシはとてもと存じますが、どうぞ、ごゆっくり」
 軽く、しかし、丁重に一礼して、すぐ立ち去った。管々くだくだしいことは一切ぬき。ただ存分に遊んでくれという神妙な風情である。そして、軽快な、行き届いたゆかしさがしのばれるような風情である。
 せつ子に代って他の芸者たちが交々こもごもさす。酒もあれば、ビールもある。
「いろいろと、そうは、のめないよ」
「これは酔心の生一本だそうですけど」
「ほう。日本酒まで珍しいな」
 芸者の人数が多すぎて、一々個別的な応対はしていられない。ローソクの明りが薄暗いせいもあるが、多勢に無勢、一々の美醜を念頭にとめるヒマもない。半玉が一人。若い美人も、婆さんも、年増もいるし、洋装も三人いる。

       七

 長平は酔った。彼はほとんど用心を忘れていた。ニセ手形の件も、それほど気にかけてはいない。何かの反響はあるはずだし、この一風変った趣向も根はそこにあるのかも知れないが、何がとびだしても、成行にまかせて、ただ見ていればよろしいという考えである。
 やがて少女が座布団をひきずるように現れて、広間の下座正面へ置きすてて去ると、ヤブニラミの妙な男がチョコ/\とローソクの影をくぐるようにとびだしてきた。キチンと坐って、オジギをする。落語なのである。
 詩のようなものの朗読にはじまって、ランランラン、ラララと唄って、賑やかなこと、満座は抱腹絶倒、長平も例外ではない。涙がにじむほど笑い痴れた。しかし、
「こんな顔は珍らしいですなア」
 と云って、落語家が目玉をクルクルやると、薄暗がりというものは、演技と現実が分離して見える。おかしさに変りはないが、この顔で苦労しました、という因果物的なイタマシサが、見物人の笑いのあとに残るのである。明るい電燈の下とは違う。
 落語家が去ると、いつのまに来ていたのか、せつ子が長平に寄りそうように坐っていて、
「御多忙の先生はアプレゲールの寄席など御立寄りの機会もあるまいと思いまして、よんでみましたが、ガサツで、おきき苦しかったでしょう」
「いいえ。ごらんの通り、抱腹絶倒、戦後これほど笑ったことはありません」
「そうですか。では、ほかに二三用意がございますけど、やらせましょうかしら」
「どうぞ。見せて下さい」
「それじゃア、ちイさん」
 せつ子に指名されて立ち上ったのは、洋装のうちの一人であった。
 女は十歩ほど歩いて立ちどまり、正面を向くと、体操の予備運動か深呼吸のようなことをやっている。ハハア。これがポーズなのか、と、長平は気がついて、手品だな、と思った。しかし、ちがう。降霊術らしい。
 苦悶しつつ身もだえるようにしながら、静かに一とまわり、二まわり。すると着ているものが肩と腰の上下二ヶ所からスル/\おちはじめた。バラリと落ちきる。シュミーズをきていない。ストッキングだけはいているが、モモから上は一糸まとわぬ裸体のようである。はなれているし、薄ぐらいから、ハッキリしないが、そうらしい。
 女はこれから沐浴するように、かがみこんで、一方のストッキングをぬぎはじめた。ぬぎおわるとき、軽く片足を後に蹴って、股をチラとのぞかせる。
 次には正面を向いて、腰を下す。股をひらいて一方のストッキングもとりはじめた。股をひらいているが、片手がその前後を滑るように動きつづけているから、全裸かどうかは、まだ見分けがつかない。
 ストッキングもぬいでしまうと寝たり起きたりデンマーク体操のようなことをやって、一反転、立った。それから、唄をくちずさみながら、踊りはじめたのである。
「ありふれたストリップですけど」
 と、せつ子がささやいた。
 低い変な声。腰のうごき。人マネではあるが、かなり調和がとれて、因果物の域を脱している。
 日本人には珍しく柔軟な、程よいふくらみをもった裸体のせいで、相当のエロチシズムであった。
 助平根性をかきたてて、ひどい目にあわせようという魂胆かな、と長平は思った。

       八

 ストリップの女は踊りながら、燭台を一つ一つ手にとって、吹き消しはじめた。壁面のローソクを消し終ると、テーブルの左右の燭台を吹き消すために長平の後をすりぬけた。片足がゆるやかに長平の頭上をまたいだのである。まごう方もない全裸であった。そして、次の灯も消え、長平の視界からは、すべてが一瞬にはなれてしまった。広間は真の暗闇。一語を発する者もいない。
 正面下座からパッと光った。又、ひとつ。誰かが、懐中電燈をつけたのである。誰だか分らない。懐中電燈は客席の天井をてらしている。二本の光がいりみだれて天井をさわいでいるが、下の方へは降りてこない。照らす人も見えないが、客席の様子も知ることができない。
 二本の光は天井を交錯しながら、ジリジリと客席の方にすすんでくる。誰かが両手に懐中電燈を握りしめて、こっちへ歩いてくるらしい。
 長平の左腕に誰かの手がふれた。軽くさするように這い降りる。そして、長平の手がやわらかい女手に握られた。せつ子の手だ。
 長平はされるままになっていた。光の主は客席の前にせまっている。二本の光芒は客席の真上をクルクル狂いみだれている。
 客席には微かな音もなく、長平の四囲からなんの気配も感じることができなかった。ただ左手が、かるく、あつく、女の手に握られているだけであった。
 色仕掛かな。ローソクの趣向もそのせいかな、と、長平は思った。これから何事が起るのだろう。何かが起るに相違ないが、ただ成行を見ていることだ。握られた手のくすぐったい感触は彼の酔心持をなまめかしく掻きたてた。
 光源は客席の前まで迫ったが、何事も起らない。光はいたずらに天井を駈けめぐり、光源はすでに後退をはじめた。ついに下座のドンヅマリへ後退した。光の動きがゆるやかになり、のろのろと天井を這い、光源の真上で止まる。すると、消えた。再び、真の闇。
 女の指に力がこもった。三秒。五秒。グッと握りしめた。いよいよ。長平はつづくものを期待したが、握力はにわかに弛んだ。とけたのだ。何秒かの空白ののち、長平は自分の手がすでに誰にも握られていないことをさとった。
 ポッと光った。下座がてらされている。新しい光源はアベコベに客席にあった。
 下座の奥手に、何かポーズしているらしい女の素足がてらされている。膝から下しか見えない。光が徐々に上へうごく。股。下腹部。全裸である。さっきの女ではないらしい。のびのびと、上背があるようだ。円錐形にもりあがる乳房。胸から肩の肉づきが豊かである。アゴ。女は両手を後にくみ、仰向けにポーズしていた。全身が光の中にうかんだ。女の手が静かに後をはなれて、同時に顔が正面をむいた。梶せつ子! せつ子の裸だ! せつ子の目に微笑がこもった。とたんに光が掻き消えて、せつ子の裸体は暗闇に没してしまった。
 数秒後に、皎々こうこうと電燈がついた。しかし下座の奥手には誰の姿もなかった。
「額縁ショーというんでしょうか」
 彼にささやく声がある。せつ子である。彼によりそって、さっきと同じ和服姿で。
 長平がおどろくヒマもなく三たび電燈が消えた。再び下座の奥手をてらす者がある。女の脚がてらされている。股へ。下腹部へ。全裸である。小柄で、ふとった女。せつ子でもストリップの女でもない。全身がうつった。肩と腕に数匹の蛇がまきついていた。

       九

 蛇姫のショウが終って、皎々と電燈がついた。蛇姫も洋装の一人であったらしい。ストリップの女と蛇姫が居なくなって、洋装は一人になっている。
「皆さん、お酌よ」
 せつ子は一同に命じた。
「これからは無礼講よ」
 と、せつ子は一同に笑いかけて、
「先生。あとに残ったのは、みんな芸なし猿なんです」
「あら、ひどいわねえ。芸者はあんな柄のわるい、ストリップなんて、できないわよ」
 と、婆さん芸者がシナをつくって長平にナガシ目をくれると、
「お蝶ちゃん。芸者のストリップおやり。浅い川よ。私、三味線ひくわよ、お姐ちゃアん! 三味線、もっといでえ!」
 年増芸者が、たいへんなシャガレ声。
 それをきくと、芸者たちの目が光った。たちまち一同がひしめくように、
「そうよ。お蝶ちゃん。浅い川よ。いいわねえ。すごいわねえ。可愛いわねえ。色ッぽいわねえ」
 お蝶ちゃんとよばれた可愛い半玉は長平の隣に座をしめていたが、真ッ赤になって、うつむいた。誰に助けをもとめようかと迷ったすえ、おずおずと長平によりそって、訴えるように顔を見あげた。絵からぬけでたような顔。羞恥に真ッ赤に燃えている。切れの長い目に熱気がこもり、感情にうるんでいるのである。
「アラ、色ッぽいわねえ。お蝶ちゃん」
「旦那ア。やけるわよう」
「あの目。たまらないわねえ。男殺しイ。子供のくせに。すえが思いやられるわよう」
 キャッ、キャッ、と大変なさわぎ。お蝶は耳の附根まで真ッ赤にそまり、コチコチに身動きができなくなって、長平によりそったまま、なやましい目を伏せたり、上げたりしている。
「いいわよ。お蝶ちゃん。覚えといで」
 と、婆さん芸者はお蝶をにらんでおいて、年増たちに、
「じゃ、あんた方、芸をだしなさい。踊りがいいわ。槍さびがいいわね」
 四人の年増が立ちあがる。婆さんが三味をひこうとすると、洋装の若いのがツと立って、
「私がひくわ」
 と三味線をうけとる。すると年増の一人が、
「そう、そう。夢ちゃんの糸がいいわ」
「ひどいわねえ」
 婆さん芸者は怒って睨む。夢子の糸で、婆さんが唄う。四人は踊りはじめた。
 すでに長平は感づいていた。踊っている四人の年増は男なのだ。声でも分るし、電燈の下では扮装がハッキリしている。しかし踊りはたしかなものだ。所作がやわらかい。
 婆さん芸者は本物の女らしいが、カツラ頭で男らしいところもある。洋装の美人芸者と半玉だけは本物の女であろう。
「あの四人は男娼ですか」
 長平がきくと、せつ子はうなずいて、
「ええ。この席には女は一人もおりません」
「え? 洋装の人は髪の毛が本物でしょう」
「ええ。ですけど、男なんです。お蝶ちゃん」
 せつ子は半玉を自分の方に向けさせた。お蝶はうるんだ目でジッと見あげる。せつ子はカツラに手をかける。お蝶は真ッ赤になった。せつ子はスッポリ、カツラをぬいだ。少年であった。
「別室へ参りましょう」
 せつ子は長平の手をとって立った。

       十

 そこは数寄屋造りの別棟であった。温泉風に浴室も附属している。居間に食卓の用意ができて、長平の好きなコニャックも、ほかの洋酒も、酔心も、とりそろえてあった。
「お風呂はいかが?」
「それには及びません」
「お寝床もしいてございますから、どうぞ、ごゆっくり」
 せつ子は長平にコニャックをついで、
「先生。のみほして。私にちょうだい」
 長平のグラスをうけとり、ついでもらって、一息にのむ。さしては、もらい、数回つづけて一息にのんだ。せつ子の目の縁はバラ色にそまった。
「悪趣味の女とお思いでしょう。因果物ばかりお見せして」
「いいえ。たいへん有りがたく思いましたよ。珍らしいものを見せてもらって。ところで、あなたは、どっちのあなた? 裸のお方かな? 暗闇で手を握ったお方?」
「どっちが、おすき?」
「梶せつ子さんは、どっちかな」
「二人ともよ。そして、お好きなほうよ。どっちも私ですもの。先生。手を握りましょうか」
 せつ子は膝をよせて、長平の手をとった。
「どう? 覚えてらッしゃる。おんなじ?」
「わからないね」
「じゃア、こう」
 グッと力をこめてみせた。
「なるほど。それで、わかった」
 せつ子は笑って、
「でも、先生。不安を感じませんでしたか」
「どうして?」
「私ね。あとで、男娼の手にすりかえさせようかと思ったんです。はじめの計画は、そうだったの。男娼はよろこぶわ。暗闇で先生に頬ずりしてよ。めるわよ」
「どうして、そんなことがしたいんです」
「ひどい方」
 せつ子は媚をためて睨んだ。
「なぜ青木さんに変な名刺もたせてよこしたんです。イタズラッ児。もっと悪意にとったわ。でもね。イタズラッ児の仕業と思って我慢してあげたんです」
「悪意にとっても、かまわんのさ」
「先生は私を悪い女とお思いなんでしょうね」
「そうきめてかかれば、わざわざあなたを見物に来やしないさ」
「私は同情はキライなんです。そして、ジメジメした人情も」
「キライと好きは生涯ハッキリしませんよ」
 せつ子は長平の手を両手でとって、グイとにじりよって、大胆に見つめた。
「先生は私のどこがお好きなの」
「今日のあなたは一流だよ」
「ヒョッと思いついただけよ」
 せつ子は静かに唇をよせて、
「先生は一流ね。なんでも、ヘイチャラなのね。一流でなければダメだわ。青木さんなんか、ダメ」
「一流の人間は三流四流を好むものかも知れないよ」
「じゃア、私は四流のパンパンよ」
 せつ子は長平のクビにまいた腕にグイと力をこめて、下へ倒れた。泣声をたてて、唇を押しあて、せつ子は理性を失った別人であった。唇をはなして、
「さっきの裸体は踊子よ。私の裸体は、もっとキレイ。もっとステキだわ」
 情熱にふるえて、ウワゴトのようだった。

       十一

 長平の離京は一週間ほどのびた。せつ子に全集の発行を許すについて、他の出版社との行きがかりから、いろいろ雑用があったからである。
 放二と記代子もせつ子の社で働くことに話がきまったが、ちょうど放二たちの社は経営難で、売れない雑誌を廃刊し、事業を縮小する必要にせまられていたから、この方は面倒がない。渡りに舟と編集長の穂積までせつ子の方へ譲り渡す始末であった。
 いよいよ明日は離京という晩、長平がおそく宿へもどると、茶室に青木が待っていた。
「明日はお帰りだってね。べつに大した用もないんだが、お名残りおしいから、ゴキゲン伺いにきたのさ」
 相変らずの皮肉な口調であった。
「一週間、君にも、梶女史にも、北川少年にもお目通りしなかったから、奴め自殺しやがったかとお考えかも知れないが、ナニ、ぼくのことなんか爪の垢ほども考えてやしないだろうがさ。ハハ。しかし、お名残り惜しいんだ。純粋にそれだけだよ。恨みを述べればキリがないがね」
 青木は笑って、
「知ってるんだよ。あの晩、君と梶女史が待合に泊ったことを。ハハ。つけたんだよ。梶女史に会いたくってさ。なにも、あなた、ぼくがどれほど落ちぶれたって、あなた方がシッポリなんとやら、それを突きとめるためにつけるほどケチな根性はもたないさ。ねえ。そうだろう。女房があなたが好きで先刻逃げられたぼくだもの、今更ねえ。だがさ。待合の陰にかくれて一夜をあかして、あなた方がついに御帰館なきことを知らざるを得なかったぼくの胸中というものは、甚だ俗ではあるが、万感コモゴモでしたよ」
 それを言ってしまうと、青木はかえって晴れ晴れしたようであった。彼は明るく笑って、
「それから、ぼくが、どうして生きていたと思う? いやさ。恨みを述べるわけじゃア、ないですよ。アベコベなんだ。その一夜が、転機なんだよ。万感コモゴモの次に、ホンゼンとして心機一転。それほどでもないが、なんとかしたと思いたまえ。ここ一週間、ミミズみたいに、どこか暗いところを這いずりまわり、のたくりまわってきたがね。実はね。今日は又、君の一筆が所望なんだ」
 彼は益々明るく笑いたてて、
「実はね。梶せつ子の新社へ一介のサラリーマンとして採用してもらいたいんだ。恨みも迷いも、すてたんだ。それを捨てるのに、一週間、かかったんだよ。ねえ、君。考えてみれば、ほかに、オレみたいな老骨を拾ってくれる会社はないじゃないか。誇りなんぞ、持ってやしませんよ。生きるには、食わねばならず、食うには、どこかで拾ってもらわざるを得なくなったからですよ。枝葉末節を語ればキリがないが、荒筋はそれだけさ」
「働くポストは」
「門番でも、事務員でも、編集でも。長と名のつくものを望まないよ。女房に逃げられた男が、ふった情婦の店で働くのに御慈悲の長は所を得ていませんよ。まア、当分、考えることを探すわけさ。もし人生に考える価値のあるものが在ったとしたらね」
 長平はせつ子に当てて手紙を書いた。青木を使ってくれという依頼の。なぜなら、そのことに不賛成ではなかったから。
「ありがとう。女房が、イヤ、前女房が、銀座のバーで働きだしたよ。今度上京したら寄ってくれよ。たのまれたんだ」
 そして青木は立ち去った。
 翌朝、長平は東京を去った。


     娘ごころ


       一

「たまには、つきあえよ」
 と、青木が放二をさそったが、
「でも、校正を急がなければなりませんから」
 放二は明るい微笑で応じたが、額や頸には脂汗がういていた。
「残業、又、残業か。ジミな人だな。顔色が悪いぜ。お嬢さんが淋しがっていらッしゃるじゃないか。よく働き、よく遊べ、さ。ねえ、記代子さん」
 記代子は帰り仕度にかかりきって、顔もあげず、放二をさそいもしなかった。
「じゃ、お先きに」
 二人はそろって先にでた。
 せつ子の新社は多忙であった。けれども雑誌編輯部にくらべれば、出版部は大きにヒマな方だ。放二も、記代子も、青木も、出版部をまかされていた。そして、もと放二たちの編集長の穂積が出版部長であった。
 せつ子はお義理で入社させた連中をみんな出版部へ集めたのである。それは雑誌の編集に特に抱負があったからで、編集上の見識や才腕を特に見込んだ者でなければ、雑誌部へは入れなかった。
「青木さん。ビール、のませる?」
「やむをえん」
「たびたび、相すみません」
 青木と記代子は、ちかごろ、たいがい、一しょであった。青木は、そのことで、ほろにがい思いをしていたのである。
 記代子は放二を怒っているのだ。なるべく残業するようにして、一しょに遊ぶのを避ける様子があるからである。青木はそれを見かねて、若い二人を仲よく遊ばせてやるために、時々二人をさそったが、放二はそこからも身をひくようにして、青木と記代子二人だけで一しょに歩くのが自然になった。青木はつとめて放二を誘うようにしたが、記代子は放二を誘わなくなった。
 暑気が加わってから、放二のからだは、めっきり衰えていた。二度、軽く血をはいたことがあったが、それを誰にも悟られぬようにしていた。
 少年時代から病弱で、寝たり起きたりの生活はウンザリするほど重ねてきたが、養父母の仁愛ふかい看護の下で、彼が体得したことは忍耐であった。
 あるとき、放二はオリムピック・マラソン選手の戦記をよんだ。彼らは時々ある地点に於ては、激痛のあまり知覚を失ってしまうのだ。手も足も動かなくなる。放置すれば、倒れる一瞬である。天水桶をみつけて、すがりつく。頭から、かぶっているのだ。又、歩きだす。知覚がもどり、彼は走りだしている。苦痛を超える、よろこび。坂がある。果して、駈けあがる力があるだろうか。疑いに負けてはならない。あらゆる苦痛をのりこして、走りつづけなければ勝つことができないのである。
 一番健康な人のマラソンと、病人と、よく似ている、と放二は思った。マラソン選手は高熱のウワゴトの状態で走りつづけるのだ。苦痛に耐えて、生きぬき、走りつづけているのは病人だけではないのだ。人生が、そういうものなのである。凡人は途中でおりたり、落伍してしもう。まだしも病弱な自分は、その宿命として、おりては負けることをさとっている。そして、選ばれた優勝選手の心境を理解することもできるし、ややそれに似た日々を体験もしている。
 少年の日、放二は病床で、そんなことを考えたことがあった。

       二

 この夏の暑気いらい、急速に衰えはじめた放二は、養父母の慈愛の手にみとられていたころとちがって、仕事もあったが、休息すべき部屋がなかった。
 早めに戻って休息するのが何よりだったが、寝ていると、彼の部屋をたよりにしている女たちに暗い気持を植えてしもう。病気と闘っていることを、彼女たちに悟らせてはいけないのである。
 最良の方法として選んだのは、ねる時間まで残業していることだった。仕事もたしかに忙しかったが、それを残業にのばしてやると、仕事を半ば休養に中和することもできるのである。
 こまるのは、記代子と青木の誘いを拒絶しなければならないことだ。
 せつ子は放二と記代子に、二人が当然結婚すべく定められているかのような言い方をした。それが記代子に現れる反応は敏速であったし、確信的であった。せつ子の認定を得ていることは、内々叫びをあげなければならないような馴れ馴れしい表現をしても、顔すらもあからめさせない支えになるのであった。
 しかし、放二が彼女の誘いに応じる度数は、三日に一度に、五日に一度になる。そして、青木は好二を誘うが、記代子はもう誘うこともやめてしまい、話しかけることも、なくなってしまった。
 それでいいのだ、と放二は思うのである。病弱な自分は、結婚には不適な人間だ。相手を不幸にするだけだから。記代子が積極的になるほど、放二は身をひく。ぼくなんか、忘れて下さい。それを説明することはできるが、人生は説明では解決がつかない。放二は説明の代りに身をひいた。そして記代子が離れて行くのを、静かに、しかし、愛情をこめて見送りたかった。ごきげんよう! ボン・ボアイヤージュ! というように。
「若い者は、手間をかけたがるものさ。曲った方へ、曲った方へ、歩きたがるんだ」
 青木は記代子をひやかした。しかし、若い者だけのことじゃない。自分にしろ、礼子にしろ、もっと、ひどいようなものだ。
 記代子はなぜか顔色を変えた。一息にグラスをのみほして、
「もっと、ちょうだい」
「あんまりハデな飲み方をしないでくれよ。お嬢さんがのびちゃうのは、御当人は太平楽かも知れないが、連れの男は、憎まれたり疑られたり、楽じゃないからな」
 記代子は、又、一息にほした。
「お代り、ちょうだい」
「よせよ。もう、あんたは六パイだ」
「でましょう」
 道へでると、記代子は腕をくみ、肩をよせた。グイグイ押しつける。足はシッカリして、酔ってるようにも思われないから、青木は小娘の大胆さに当惑して、
「もう、お帰り。駅まで送るよ」
「イヤ」
「もう、のめやしないよ」
「話があるのよ」
「じゃア、喫茶店で休むか」
「いいえ。歩きながらが、いいの」
 記代子は暗い道へ曲りこんだ。
「なぜ、いじめるのよ。なぜ、意地わるするのよ、毎日」
「え? どんな意地わるしたろうね」
「してるわ。なぜ、放二さんを誘うのよ。毎日、きまったように」

       三

 やっぱり子供だな――と青木は思った。放二を思いつめているのだ。それは分りきったところだが、それをこんな見えすいた言いがかりで表すところが幼い。
 青木は笑って、
「お嬢さんや。こまった人だな。あなたの気持はわかるが、ぼくがいたわってあげる気持も察してくれなくちゃアいけませんよ」
「だから、私をいじめてるじゃないの」
「どうして?」
「男は男同志って、そんなことなの?」
「妙なことを云うね」
「放二さんをいたわって、私をいじめてるのよ。私なんかは、いたわる価値がないのね」
「やれやれ。そうか。お嬢さんを説得するには、言葉の厳密な選択と行き届いた表現が必要なんだな。いいかい。記代子さん。ぼくがいたわってあげているのは、あなたと放二君の、御二方だよ。二人の恋人の一方をいたわることは、他の一方をもいたわることにきまってるじゃないか」
「私は、どうなっても、かまわないのね」
「やれやれ。どう云ったら、表現が行き届くことになるのだろう」
 二人は小さなバアの前を通りかかった。記代子は青木を取りおさえでもするように、腕に力をこめて、押した。
「ここで、休むのよ」
「え?」
 そこは礼子の働いているバアだ。記代子に教えたはずはなかったが、知っている様子である。
「こゝに、ぼくの昔の奥さん、働いてるの、知ってるんだね」
 記代子は睨んで、答えない。
「誰が教えたの?」
「休みましょうッたら」
 記代子は身体ごと押した。
「ま、待ってくれ。ぼくの立場を考えてくれよ。修学旅行の女学生が色町をひやかすような気分で、ぼくをオモチャにしてくれるなよ」
「女学生じゃなくッてよ」
「すまん。しかし、な。別れた奥さんがお客さんにサービスするのを見るだけだって悲しいんだ。あれがふられた亭主だなんて、そんな哀れな顔を見たがっちゃ、いけないよ。それに、今日は、持合せがないのさ。別れた奥さんにたかって飲むほど、みじめな思いをしたくないんだ。それぐらいなら、泥棒がマシさ。なア、記代子さん。あんた、ぼくが泥棒なみに生きてきたこと、見て、知ってるじゃないか。しかし、別れた奥さんに、たかりたかアないんだよ」
 記代子の目にあらわれたのは、軽蔑の色だけだった。
「私がおごるわ」
 記代子は強い力で、青木を地下の酒場へひきずりこんだ。客はかなりたてこんでいた。記代子はあいてるソファーへかけて、
「カクテル、二つ。ジン台の辛いカクテル。それから、礼子さん、よんでね。こちら、礼子さんの昔の旦那様。意気地なしよ」
 記代子の態度は、なれていた。そして、見ちがえるほど、大人びていた。
「あなた、この店へ来たことがあるね。前に」
「穂積さんと飲むとき、いつも、ここよ」
 そうか、と青木は思った。そして、それを今まで黙っていた記代子、突然それをあばきだした記代子の心を考えた。

       四

 礼子がカクテルを持って現れた。記代子は軽く会釈して、
「つれてきてあげたの。意気地なしを。入口でふるえてたわ。ほら、蒼ざめてるでしょう」
「ヤ。こんちは。ぼくの昔の奥さん。まさか、ふるえもしないがね。しかし、貧ゆえには、ふるえもするさ。今日は持ち合せがないんでね。まさか昔の奥さんに飲ませてもらいたかないからさ。それで、ふるえましたよ。すると、お嬢さんが、おごるというんでね」
 青木は笑いながら、懐時計をはずして、
「明日、うけだしに、くるよ」
「もう、こないで」
 礼子は懐時計を押しかえした。そして、記代子に、
「お嬢さんも、バアへいらッしゃるの、よくないわ。女のくるところじゃありませんわ。大庭先生に叱られますよ」
 記代子は別れた夫婦の再会を、好奇の眼差で凝視していた。グラスに手をふれることも忘れて。
 礼子の言葉に短い観劇をさえぎられて、いさゝか苦笑してグラスをとりあげたが、
「礼子さん。新しい恋人、みつかって?」
 礼子は興ざめた顔をそむけた。それを見ると、記代子の目は興にもえて、
「女がきちゃいけないって、なぜ? 礼子さんだけは、大人だから?」
「まア、そうよ」
「大人って、どういうこと?」
 礼子は顔をそむけて、答えなかった。
「たぶん、恋愛の冒険者だから? そうでしょう。旦那様をすてたから? 家庭の殻をとびでたから? そうでしょう」
「そうよ」
 礼子はうるさそうだった。すると記代子の目に生き生きと微笑がこもった。
「子供だわ。礼子さんは。十いくつのお姉さんと思われない。女学生のよう」
「あら、そう」
「長平叔父さんのどこがお好きなの? 有名だから? 才能があるから? 芸術家だから? お金持ちだから? 威張ってるから? そのほかに、何か、あって? 平凡。少女趣味ね」
 礼子の目は怒りに燃えたが、記代子は冷静に見返して、目にこもる微笑は微動もしなかった。
「英雄気どりの偉い人、偉い人を崇拝する人、どっちも、きらい。子供たちと同じように、お人よしで、ウヌボレが強いのよ。欠点を見せたがったり、欠点を美点のように見せたがったり、みんな、きらい。偉くない人はウヌボレ屋じゃないから、欠点は隠さなければいけないと思うのよ。それで、いつもお化粧しなければいけないと思うのよ」
 記代子はいくらか亢奮して口をつぐんだ。それは言葉の表現が思うようにできないためのようにも見えた。グラスをほして、
「でましょう」
 青木をさそって、立ち上った。
「いかほどですの」
「ここは、いいの」
 記代子は笑って、
「そんなこと、なんにもならないことよ」
「まア、いいさ。ぼくの昔の奥さんの思うようにさせてあげたまえ」
「そのワケがあるの?」
「物事の本当のワケは誰にも分りゃしないのさ」
 今度は青木が記代子を押して外へでた。

       五

「どうして、お金払わせなかったの? なぜよ」
 外へでても、記代子はきいた。ただごとならぬ面持に、青木は苦笑して、
「つまり、ぼくの昔の奥さん、ぼくをあわれんだのさ。たまに会ったんだ。あわれまれてやらなきゃ、昔の奥さんのお顔が立たんじゃないか。今晩だけのことだから、あなたも我慢して、つきあってくれたまえよ」
「あわれんでもらいたいの」
「彼女があわれみたいのさ。だから、あわれまれてあげなきゃいかんじゃないか」
「うそよ」
 記代子の否定は激しかった。
「うそだの本当だのと争うほどのことじゃアないやね。あなたのお気にさわったとすれば、ぼくがナイトの作法に未熟だったというだけのことさ」
「うそです。私が礼子さんをやりこめたから、あなたは礼子さんをかばってあげたのよ」
「こまったな。どうも、インネンをつけたがるお方だ。なア。記代子さんや。やりこめるッて、あなた、別にやりこめやしないじゃないか」
「いいえ、やりこめたわ」
「どんなふうに?」
「礼子さんは少女趣味よ」
「それは、たぶん、当っていますよ」
「だから、やりこめたじゃないの」
 この少女のチグハグな論理の底に、何物があるのだか、青木には見当がつかなかった。記代子はまだ幼くて平凡な娘だ。しかし彼女なりに礼子を一応観察してはいる。だが、観察の根底にどれだけの心棒があるのか。いったい、なんのために礼子の酒場へ自分をさそいこんだのか、それが青木にはわからなかった。
 青木は不キゲンな記代子の肩に手をあてて、慰め顔に、
「なア。記代子さんや。あなた、なぜ、昔の奥さんの店へぼくをつれこんだのさ。ぼくが、あなたをいじめたからかい。あなた、本当に、ぼくがいじめたと思っているの?」
 記代子は答えなかった。
 あまり沈黙が長いので、ふとその顔をみると、たしかに涙にぬれているのだ。夜の灯のせいではなかった。
 青木は放二を思い描いた。それがこの少女の胸をいかに惑乱せしめているであろうか、と。いたましい思いがした。しばらく言葉をかけるのも控えていたが、
「なア。お嬢さんや。ぼくが毎日きまったように放二さんを誘うのはだね。あなたと放二さんが昔のようにむつまじい一対であれかしと願っているからだよ。あなた方は銀座でも人目をひく一対だった。そのような美術品をまもるのは側近の年寄の義務というものさ。ぼくの善意を素直にうけてくれなくちゃアいけませんよ」
「ひどいわ」
「なぜだろうな。ぼくには、あなたの云うことが分らないよ」
「放二さんは知ってるわ。だから、あなたが誘っても、ついてこないわ」
「なぜ、ついてこないの?」
「私にきらわれてること、知ってるから」
 青木が言葉に窮していると、記代子は彼をさえぎるように立ち止って、
「私、子供は、きらいよ。子供なんか、つまんない。私、青木さん、好き。なぜ、察して下さらないの」
 記代子は青木を見つめていたが、にわかに振りむいて、駈け去った。

       六

 記代子の気まぐれな感傷だろうと青木は思った。放二によせる胸の思いが、迷路をさまよって出口をふさがれているせいだ。
 翌日、青木は深くこだわらず、出社した。記代子の様子にも、ふだんと変りは見えなかった。
 午後になると、どの部屋も暑くなる。青木はトイレットへ顔を洗いに行く。いつもの彼の習慣だ。ゆっくり顔を洗って、ふと隣りをみると、水を流して、手を洗うフリをしながら、こッちを見ているのは記代子であった。
「ヤ」
 顔をぬらしているから、物を云うことができない。タオルで顔をおさえる。ふき終ると、視線がかちあった。記代子の目は、食いこむようであった。
「今日、放二さんをさそったら、承知しない」
 言いすてると、すぐふりむいて、立ち去った。昨夜のように駈け去りはしない。もっと確信にみちて、落ちついた態度であった。
 偶然の出会ではない。青木がトイレットへ立つとき、記代子は部屋にいたのだから。記代子は追ってきたのだ。
 青木が部屋へもどると、記代子の姿は見えなかった。
 記代子が戻ってきた。
「ライターかして」
 笑いながら、青木に云った。ライターをかりて、自分のデスクへもどり、タバコに火をつけた。イスにもたれて、タバコをふかしている。まもなく、むせびはじめた。タバコをすったことがないのである。苦笑して、火をもみつぶした。
「ハイ。あげましょう」
 ピースの箱とライターを青木の方へ投げてよこした。
 青木はかなり窮屈な思いにさせられた。記代子の言葉にこだわったのだ。そして、放二によけいなことを話しかけた。しかし、帰り仕度をするときには、放二を誘うことができなかった。
「ノドにつかえていたようね。放二さんを誘う言葉が」
 記代子はあとでひやかした。
 青木は浮いた気持にもなれなかった。のむビールのにがさが浸みるばかりである。
 酔いがまわると、腹をすえて、
「記代子さんや。長平さんの姪御さんだけのことはあるよ。平凡なお嬢さんのような顔をして、頓狂なカラ騒ぎをやらかす人だ。しかし、とにかく、文学的でありすぎるよ。いかに良き人を思いつめたアゲクにしろさ。痴話喧嘩の果に、ぼくのようなオジイサンを口説くのは、ひどすぎますよ。外国の小説や映画にはありそうだがね。女王だの公爵夫人というようなお方がさ。王様だの公爵と痴話喧嘩のあげくに、奴隷だの黒ン坊に身をまかせて腹イセをするというような話がね。それにしても、ぼくに白羽の矢をたてるというのが、頓狂すぎるというものだ。お嬢さんや。よく、おききよ。あなた方の年頃では、遊びというものを、みんな軽く、同列のものに考えているのだね。しかし、男女の遊びは、別のものですよ。とりかえしがつかないのだからな」
「私は、遊びではないの!」
 記代子は叫ぶと、すぐ立上って、大股に歩き去ってしまった。
 青木は別の店で焼酎をのんだ。そして宿へもどると、彼の部屋に記代子が待っていた。

       七

 青木はわざとドッカとアグラをかいて、うちとけてみせて、
「やれやれ。疲れるなア。遊びたい盛りのお嬢さんが退屈して姿を消すまでつきあってあげるのは。なんて、逞しい根気だろう。まさしく、面白ずくの一念だね」
「そう?」
「まアさ。あなたは昨日から怒りすぎるよ。もっと平静に話しあいましょう」
「あなたが、怒らせるのよ」
「怒らせるつもりで言ってるんじゃないんだがなア」
「いま、なんて云った?」
「……」
「面白ずくって、なによ。そんなふうに、見えて? 私、遊んでやしないわ。離婚して、バアで働いて、礼子さん、甘チャン。文学的すぎるわ。私も、そんなに見えて?」
 これが記代子の本心だろうかと青木はいぶかった。
 記代子の恨みは礼子をめぐり、礼子に比較して自己を主張しているのである。礼子のバアでも、記代子の態度は際だって大人びており、対立的な感情が尖鋭であった。
 記代子の意識が礼子をめぐっていることは、青木によせる感情が、放二のせいばかりでなくて、かなり本質的なものであることを表している。そう思っていいのだろうかと青木はいぶかった。
 礼子の離婚の原因が、長平のせいだということも、記代子は知っている。そして、礼子を少女趣味だと面罵しているのだ。
 それらのことを考えると、記代子は礼子との年齢の差を無視しており、礼子が長平によせる対等の感情で、青木に対しているように思われた。
 してみると……青木は考えた。記代子の愛情の本当の根は、長平にあるのではあるまいか。えてして少女というものは、まず肉親に愛情をもつものだ。どッちにしても、彼自身が本当の対象だとは思われなかった。
「ぼくの昔の奥さんが長平さんにあこがれて離婚したということ、誰にきいたの?」
「そんなことが知りたいの?」
「なるほど。別に知らなくともいいことらしい。だが、ねえ、お嬢さんや。ぼくの昔の奥さんは、たしかに文学的で、少女趣味ですよ。しかし、あなただってさ。文学的なお嬢さんに相違ないと思うんだね。なぜなら、現世に生きる人間というものは、一応常識というものを思考の根抵におかなければいけないものですよ。だが、記代子さんは、限られた小さな現実を全部のものにおきかえているね。思考の根が、常識でなくて、あなたを主役にした劇なんだ。夢なんだよ」
「それでいいと思うわ。じゃア、あなたは誰のために生きているのよ。放二さんのためなの? それとも別れた奥さんのためなの?」
「それは、人生というものは、云うまでもなく自分のためのものさね。しかし、自分の位置、限度というものを心得なければいけませんよ。あなたはツボミのようなお嬢さんだし、ぼくは花ビラの散りかけた老いぼれですよ」
「そんなことが理由になるのは、ほかのことがあるせいね。正直に云えないことがあるからよ」
「なア。記代子さん。もっと打ちとけて、茶のみ話をしようよ」
「イヤ」
 記代子は立ちあがった。

       八

 青木は記代子を送ってでた。
「なア。記代子さんや。こんなことで、怒ったり、怒られたり、よそうじゃないか。毎日、ノンビリ、コーヒーやビールや焼酎でものんで、バカ話をし合って、たのしく過そうじゃないか。そうするうちに、二人の心が通じ合うようになると思うんだがね」
 肩を並べて歩きながら、青木は懇願した。つとめて情慾を殺すには、そんな態度をとる以外に仕方がないのだ。そのくせ、立ち去る記代子を立ち去るままに放っておくことができないのは、可憐な記代子に断ちがたいミレンのあるせいだ。
 相剋する二つの心を、興ざめた目で見送る以外に手もない。
「なア。よく考えてくれよ。ぼくは叔父さんの友だちなんだぜ。叔父さんというものは、あんたのオヤジの兄弟じゃないか。オヤジだの、オヤジの兄弟なんてものは、あなたの友だちと違わアね。ぼくだって、そうなんだ。ぼくは、あなたにとって、甚だ親切な友だちさ。あなたのオヤジや、オヤジの兄弟のようにね。しかし、本当の友だちというものは、こんなに親切ではないものなんだ。たとえば、若い者同志はね。ここのところをカン違いしちゃいけないよ」
「喋るの、よして! こんど喋ったら、駈けだしちゃう」
「こまったな。ちょッとぐらい、喋らなきゃア、歩きようがないじゃないか」
「うるさいッたら!」
 記代子は激しくふりむいて、とびかかるように、手で青木の口を抑えた。青木はハズミをくらって、反射的に防禦の手をあげてしまったが、その小指が記代子の口にふれた。記代子は青木を見つめたが、力いっぱい小指をかんだ。
「痛……」
 青木は苦痛にたえようとした。噛まれた指をハシタなくひっこめるのをこらえようと努めていると、記代子は再び、力いっぱい噛んだ。
 青木は指が噛みきられたように思ったほどだ。あまりの痛さに茫然として、たたずんだが、記代子にみじめな思いをさせては、と、指の傷をあらためようとせず、ハンケチをとりだして笑いながら脂汗をふいた。
 記代子は一部始終を見つめていたが、
「指みせて。どんなになった?」
 青い歯型がハッキリついて、血のにじんだところもあった。
「痛かった?」
「うん」
「なぜ痛そうにしなかったの?」
「しなかったかい?」
「泣くかわりに、笑ってみせたわ。なぜ、指の怪我をしらべてみようとしなかったの?」
「痛すぎて、ボンヤリしたのさ」
 しかし記代子は見ぬいているのだ。青木が記代子をいたわるために、指の怪我すらしらべようとしなかったことを。
 青木の胸はふくらんだ。
「君、ぼくの指を本当にかみきるツモリじゃなかったの?」
「そうかも知れないわ」
 青木は記代子をだきよせて、くちづけした。そして明るい道まで送って、
「ねえ、記代子さん。ぼくたちは毎日たのしい四方山話をしようよ。すると、二人の心が通じあってくるよ」
「ええ」
 記代子はニッコリ笑った。そしてスタスタ行ってしまった。

       九

 青木はいったん宿へもどったが寝つかれなかった。思いたって、放二のアパートへでかけた。
 放二はまだ帰っていないから、マーケットのオデン屋で一パイやりながら待つことにした。ここにいると、帰宅の放二をよびとめることができるのである。
「放二さん、いつも帰りがおそいってね」
「ええ。毎晩あたしが店を閉めかけるころにね」
「お酒に酔って?」
「いいえ。ビール一杯で真ッ赤になる人だから、一目で見分けがつくんですが、よくねえなア。とにかく人間、お酒をのんでるうちが花ですぜ。グッタリ疲れきってお帰りでさ。お仕事が忙しいんですッてね」
「ぼくは御覧の通りだがね」
「上ッ方はね」
「冗談云ッちゃアいけませんやね。北川君が上役なのさ。年の功で、月給だけは、ぼくがいただいてるらしいがね」
「ヘッヘ」
 なんとなく来てみたものの、放二に打ちあけて語る性質のものではないようだ。たかが小娘の出来心だ。とまどって人に相談しなければならないようなウブな初心者ではないはずであった。
 青木がとまどったのは、彼自身の獣性についてゞあった。そして、彼を獣性にかりたてる複雑な心理についてゞあった。
 彼の念頭にひらめく主要な人物は、記代子ではなくて、長平だ。また、礼子であり、せつ子であった。
 彼は復讐について考える。これほど簡にして要を得た復讐はない。そこで誘惑は激しいが、復讐というものは、空想された願望の中では人は極端に悪魔的でありうるけれど、現実のものになってみると、そう悪魔的ではありえないものだ。むしろ悪魔と闘う気持が激しくなる。
 青木は復讐の激しさや悲しさにとまどった。どうしていゝか、わからない。なにかに縋らなければ、胸の切なさを持ちこたえることができないようであった。
「なア。おッさんや。カストリだのパンパンてものは、妙なものだね。あなた、なんだと思う?」
「へえ。なんでしょう」
「神様ッてものは、ノドがかわいたり、ゲラゲラ笑ったりするものなんだぜ」
「そんなものですかねえ」
「そんなものなんだよ。すべてが具わったものでもないし、万能でもないのさ。そして、奴らは――奴らッてのは、神様のことだよ。奴ら、ノドがかわいたって、貴族の食卓へ行きやしないよ。カストリとパンパンを買いに行くんだ。ぼくみたいにね」
「ハア。あなた、神様だね」
「まア、そうさ。ノドがかわいてるし、ゲラゲラ笑いたいからね。なア、おッさんや。ぼくが北川放二君を信用しないと云ったら、あんた、怒るかい。だってさ。パンパンが彼を神様だの、ふるさとだのッて云いやがんだ。笑わせるな。ノドがかわいたり、ゲラゲラ笑わない奴、信用できるかッてのさ。甘ったれるな。ハッハ。しかしさ。カストリとパンパンは、甘ったれたところがネウチなんだぜ。笑わせやがら」
「笑いなよ。勝手に」
「お前さんなんかに、可愛がられたくないんだ。パンパンにもよ。バカヤロー。オレはパンパンに軽蔑されにきたんだ」

       十

「なア。放二さん。パンパン街の神様や。笑わせるな。気どるなッてんだ」
 青木はコップを握って、ゆれながら、放二に毒づいた。放二は黙っていた。
 オデン屋のオヤジが見かねて、
「良い年をして、くどいよ。いい加減に、よさねえか」
「だまってろ。チンピラ善人。よって、たかって、甘えてやがら。お前さんたちが甘えるッてことは、めるッてことなんだぜ。お前さんたちが甜めてるものが、ホンモノなのさ。そんなことは、お前さんたちには、わからねえやな。オレはこの街の神様に、放二さんにさ。甘えにきたんだ。だから、ツバをひッかけてるのさ。そんなことは、お前さんに、わからねえのさ。チンピラの宿命だからな」
 青木の顔には脂汗とせせら笑いがにじんでいた。
「なア。放二さんや。あんたが、童貞だか、そうでないか、知らないが、とにかく、あんたは、童貞という規格品ですよ。童貞マリヤのメダイユみたいに、パンパンだの淫乱娘の胸に鎖をつけて吊るされているかも知れないが、あんた自身は、生きている何物なんだろうな。人間はノドがかわくと、水をのむんだ。神様だって、そうなんだぜ。あんたは、ノドがかわいてもジッと我慢するだけじゃないか。それが、どうしたってのさ。え、オイ、規格品。しッかりしろよ。しみッたれるな。可愛がられるなよ。憎まれろよ。だからさ。オレが憎んでやるんだ。なア。あんたには、いくらか、わかるだろうな。オレの愛情というものがさ」
「自分だけ、偉いと思ってやがるな」
「チンピラはだまってろ。オレが偉いと思ってりゃア、こんな子供のところへ甘ったれに来やしないやね。天に向ってツバを吐いてるのだぜ。お前さんなんぞは、ツバは地に吐いてると思ってやがる。それしか知らねえのだからさ。お前なんかに可愛がられちゃ、人間はオシマイなのさ。ひもじいパンパンや学生かなんかに、オデンを一皿めぐんでやって、けっこう善事をはどこしたと満足してやがら。うすぎたないぜ、この町は。しみッたれた人情がしみついてるよ。軽蔑されたいとか、憎まれたいとか、肝心なことは忘れてやがる」
「でろ」
 オヤジは店の外へまわってきて、青木を突きだした。
「そんなことしか、知らねえな。そうだろうと思っていたのさ。なア、おッさんや。お次は、パンパンと、ひッぱたくか。よかろう。やってもらいたいね」
「おのぞみかい」
 四ツ五ツ往復ビンタをくらわせた。青木はせせら笑って、なぐられるままに、まかせていた。
 オヤジはふりむいて、店へひッこんだ。青木は追わなかった。ふらふらと放二のアパートへあがりこみ、ルミ子の部屋の戸をたたいた。
「あけろ! 千円札が来たぞ! ここには、可愛いい女の子が住んでることを知ってるんだからね。千円札で目をさまし、千円札で扉があく。千円札が、来てるよ」
 放二が来て、彼のうしろに立っていた。
「なんだい。あんたかい。ここは、あんたのくるところじゃないぜ。千円札のくるところだ」
「これをお忘れなんです」
 放二は青木に帽子を渡した。そして立ち去った。

       十一

 翌朝、青木は見知らぬ部屋で目をさました。ねているのは、彼だけだった。どうしてこんなところに居るのだか思いだすことができないうちに、襖があいて、現れたのはルミ子であった。
「千円札、目がさめてる?」
「ここは、どこ?」
「私は誰?」
 青木はようやく分ってきた。ルミ子の部屋には先客がいたのだ。彼はルミ子にみちびかれて、近所の宿屋へねかされたのである。
「私の部屋へくる?」
 青木はうなずいて、立上った。
 ルミ子の部屋は、客を送りだしたばかりであった。青木はそのフトンの上へころがりこんで、
「誰かの体温がのこっているよ」
「もっとタクサンのこってるのよ。私のからだの中にね」
「君だけだな。ぼくを締めださないのは」
「千円札のあるうちはね」
「そうだっけ。そんなこと、怒鳴ったのを覚えてら。どこかで、ひッぱたかれたッけ」
「そう。八重ちゃんにね」
「ちがう。オデン屋のオヤジだろう」
「八重ちゃんにもよ。覚えていないの?」
「どこで?」
「兄さんのお部屋でさ。私にお客があったから、八重ちゃんに世話してあげたら、お前なら百円札でタクサンだッて喚いたからさ」
「ひッぱたかれたのは、それだけかい」
「あんたが、ひッぱたいたわ」
「誰を?」
「兄さんを」
 青木は驚いてルミ子を見たが、とくに非難しているような顔付でもなかった。
「北川君をぶつなんて、妙だな。なぜ、ぶったろう?」
「酔っ払いだからさ」
「何か言ったかい? 女のことかなんか」
「あんた、なぜ、顔をあからめるの?」
「変な観察は、よせ」
「なぜさ。あんたぐらいの年になって、そんなことを言いながら顔をあからめるなんて、スッキリしてないね。救われないから」
「救われたかないんだから、いいやな」
「あんたのことじゃないのよ。救われない顔、見せられる方が因果だから。あんたぐらいの年配の人は、たのもしいような顔をするものさ。公衆衛生だから。街路美化週間なんていうわね」
「で、女のことを、言ったかい」
「誰のことを?」
「おい。ハッキリ、言えよ」
「あんた、シッカリ、しなさいよ」
 ルミ子は青木を見つめた。
「あんたぐらいの年になって、そんなことが気がかりなの? 女のことを言ったか、言わなかったか、なんて」
「おい。割りきったようなことを云うな」
「そう。でもね。その女の人が、気の毒だと思うのよ。年配のオジサンが、こう救われなくちゃアね」
「ま、いいやな。とにかく、女のことを、何か言ったかい?」
「言わなかった」
 また、ルミ子は青木を見つめた。
「それで、安心した? あわれじゃないの」
「バカな。人間とコンクリートをまちがえちゃアいけないよ。じゃア、失敬。可愛いお嬢さん」
 青木はアパートをとびだした。


     泣き男


       一

 穂積が京都へきて、話のついでに、青木と記代子のことを長平に語ってきかせた。記代子が長平の姪であることは百も承知のはずだが、千里距てた異邦人の噂をしているように、うっかりすると聞きもらしそうな話し方であった。
 長平は記代子のことに驚くよりも、穂積の悠長な話しぶりに心をひかれて、
「君、わざと気をつかってくれたのかい?」
「え?」
「ぼくをビックリさせないために、わざと悠長な話し方をしたのかと訊いているのさ」
「ハッハア」
 穂積は雲をつかむような笑い方をした。わざととぼけているのかと思うと、苦りきって、
「当節、人のことで気をつかっちゃいられませんよ」
「へえ。なぜだい?」
「ハッハア」
 また、雲をつかむような笑い方をした。
「ですが、人生は、事もなく、また、若干、多忙ですな」
「なんのことだい」
「とにかく、人間というものは人の噂をしたがるものですよ。他人の身の上は多事多端ですな。そして当人だけは、事もなく、わが身に限って何一つ面白いことが起らぬような気でいるものですよ。そのくせ、あらゆる人間が人の話題になるような奇妙な身の上をしているのですな」
「なるほど」
 まったく、人生はそんなものかも知れない。彼自身にしても、梶せつ子と関係をもつに至った一夜の出来事などは、人の絶好な話題になるものであろう。しかし当人には、さしたる事ではない。今後せつ子と同様な機会が起らなければ、あの一夜は、単に過去という無の流れに没し去っているにすぎない。似た機会が起るにしても、二つの夜は、その時に限って継続しているにすぎないのだ。せつ子のように多事多端な毎日をすごす人でも、当人の身には事もない一生であるかも知れない。
「すると、君自身の特に最近の実感だね。事もなく、又、多忙をきわめているらしいな」
「多忙を自覚する人と、自覚しない人に分類して、ぼくはやや自覚派に属していますよ」
「君がかねえ。そんなにとぼけてねえ」
「とぼけているのは顔だけですな」
「青木君と記代子の二人はどうですか。自覚派かも知れないな」
 穂積はちょッとうつむいて考えこんでいたが、ちょいととがめだてるように、
「ひどいねえ」
「なにが?」
「記代子さんは、先生の姪ですよ。まるで赤の他人の話のように」
「へえ。そうかい。ほくが君に訊きたかったのが、それなんだぜ。当人が姪の身の上を他人同様きき流すのは当人の自由なんだぜ。ところが、それをぼくに語ってきかせる君の場合は、世間なみの礼義みたいな気兼ねがありそうなものじゃないか。御愁傷様というような、ね。ぼくの目からは、君の方がトーチカのように見えるんだがね」
「ハッハア」
 穂積は明るく笑って、
「だから、人のことで気をつかっちゃいられないんです。その代り、自分のことじゃア、慟哭しますよ」
「バカに都合がいいんだね。それで安心しているわけじゃアなかろうね」

       二

「しかし、これに就ては、どうですか。五十がらみの男と二十の娘が恋仲になってですな。まア、一般的な感情として、男に好感がもてないのが自然だろうじゃありませんか。ところが案外にも、男の方は、なんとなく引き立ってみえるんですな」
 穂積はハッハアと笑って、
「しおれた野草のような青木さんが、一輪ざしの花のように生き生きと、ハッハ、まア、それぐらいに見える瞬間もなきにしもあらずです。それにひきかえて、二十の娘は徹底的にウスノロに見えるんですな。けだし、ぼくのヤキモチのせいでしょうかね」
 そして穂積は記代子の恋愛状態のウスノロぶりについて例をあげて語ってきかせた。
 そのことがあってから一月あまりすぎて、梶せつ子が京都へきた。
 十一二の男の子が二人、せつ子が紙キレに書いたものを長平の住居へ持ってきた。こッちへ旅行に来たから寄ってみた。別に用があるわけでもないし、在宅かどうかも分らないから、ボンヤリ外に遊んで待ってるが、ヒマだったら食事でもしませんか、というようなことが走り書きしてあった。
 子供の案内で、近所のお寺へ行ってみると、木立の中で、せつ子は子供たちと蝉をとっていた。
「お早う。まだ、十時半よ」
「ぼくは早起きだよ。荷物は?」
「ちょッと散歩にぬけだしてきたのよ。大阪から」
「じゃア、殿様のお供だね」
 せつ子は軽くうなずいてみせた。
「京都の子供ッて、東京の言葉がわからないのかしら?」
「どうして?」
「お手紙とどけてちょうだいッて頼んだんです。なかなか分ってくれないのよ」
「それは君の頼みが奇怪だから、理解できないのさ」
「いいえ。理解しようとするマジメな気持が顔にアリアリ現れているのよ。言葉が通じないらしいわ。京都にも気の短い子がいるのよ。言葉が通じなくッて、モシャクシャしたらしいのね。インデコ、だって。わかる?」
「インデコ?」
「もう、帰ろう、ッてことなの。さッさと逃げて行っちゃったわ」
 せつ子は板チョコを折って長平にくれた。子供たちがチョコレートをかじっているところをみると彼女が配給したのに相違ない。せつ子が手をふってサヨナラと叫ぶと、古都の子供たちは、サヨナラ、バイバイと言った。
「浩然の気を養うという大人の風格があるよ」
 と、感心したのか、ひやかしたのか、わけのわからないことを長平が言うと、せつ子はなさけなそうに苦笑して、
「ゴキゲンとりむすぶの、つらい。息苦しくなるのよ。でも、こんな、息ぬきに散歩にでたりして、とても一流じゃないわね」
 そして、道ばたの犬に、じれったそうに口笛をふいた。
「記代子と青木はどうしてる? まさか、死にもしないだろうね」
 せつ子は驚いて長平を見つめた。
「どうして、知ってらッしゃるの?」
「穂積君がきかせてくれたのさ」
「知られぬ先に、処分しようと思っていたのに」
「処分て?」
 せつ子はボンヤリ口をつぐんでいた。

       三

「処分とは、おだやかならんね」
 重ねて、こう問いかけると、せつ子はものうそうに目をうごかして、
「誰にも知られないうちにと思っていたのよ」
「だって、ぼくは叔父じゃないか」
「だから、尚さらのことよ。こんなこと、肉親は知る必要のないことよ」
「そういうもんかね」
「わかってるくせに」
 せつ子は悠々と歩いていた。
「記代子さんは見かけによらぬアマノジャクよ。ダタイなさいとすすめても、フンという顔よ。私を嘲けるような薄笑いを浮べるだけなの」
「じゃア、記代子はニンシンしたのかね」
 せつ子はうなずいて、
「私のほかには知られていないと思うけど」
「青木だろうね、男は?」
 せつ子は、又、うなずいた。
 考えてみたって、仕様がない。長平は観念した。人間はみんなそれぞれ一人前に動きだすのが当然なのだから。どこといって、ぬきんでたところもなく、一風変ったところも見えない記代子なのだが、お半だのお七だのと思いきったことをやらかす女は、平凡で取柄のない小娘にかぎるのかも知れない。
 それまでは予想もしないことであったが、恋をしたあとの記代子のふてぶてしさが、にわかに思い当るような気にもなった。
「なぜダタイしないのだろうね」
「なぜでしょう」
「よほど、頭がわるいんだろうな」
「平凡な子ほど気違いじみたことをしでかすわ。女の本能が気違いじみているのね」
「静かにさとしたらどうだろう。気が立っているだけじゃないかな」
「そうでもない。私の能力でできるだけの手をつくしてみた。青木さんの子供なんか、生ませたくなかったから」
 手を変え、品を変え、さとしたり、すかしたりした時のことを思いだすと、腹のたつことばかりであった。
 青木の口からダタイをすすめさせもしたし、青木もそれに不賛成ではなかったが、記代子はきかなかった。青木もあきらめて、
「結局ダタイをすすめることが、何よりダタイしないという決意をかたくさせるようなものさ。ねえ、社長さん。ほかに理由がありますか。ぼくには、てんで見当がつかない」
 彼は力つきて、こうせつ子に報告した。
「あなたは子供を育てますか」
 こうきくと、青木は決意の重さにおしつぶされそうな、蒼ざめた顔をひきしめて、激しすぎるほどキッパリ言うのだ。
「むろんですとも。ぼくの子供ですよ。考えてみると、ぼくの足跡はこれだけなんだ。そう考えてニンシンさせたわけではありませんがね。みじめな男は、足跡がのこるまでは、それを欲してやしませんからさ」
 カラカラと、目まいでもしているような笑いをたてるのであった。せつ子は顔をそむけた。思いだしても悪感がすると思うのだ。
「放二さんと記代子さんを、結婚おさせなさろうとお思いじゃないこと?」
 せつ子は長平をみつめて、
「先生のお考えはどうなの? 先生がそれを希望なさるなら、私、必ず記代子さんをダタイさせます。いいえ、むかしの処女にもどしてあげるわ」

       四

「近いうち、上京しよう。それまで、記代子のことは、そッとしておきましょうや」
 食事しながら、長平は言った。
「なに、ぼくが上京したからって、人の心をうごかすような力がそなわってるわけじゃなし、新しい希望や打開策が生れる見込みは有りゃしないさ。それでいいと思ってるのさ。色恋の世界には、先輩後輩はなさそうだ。子供はとつぜん大人になるし、大人になったときは、もう同列のものですよ。この道ばかりは、何十年かかったって、ムダはムダ、当人のことは当人だけしか分りゃしない」
「私はそれほど悟れないけど」
「それは、そうさ。ぼくは講壇派、ニセ達人だが、あなたは生活派の達人だ」
「私は常識的に考えているだけ。記代子さんが結婚前に子供を生むなんて、変だから。青木さんの子供なら、なお奇ッ怪でしょう。それだけのことなの。そうオセッカイでもないのよ。ただ目のふれるところで行われているから。目ざわりなのよ」
 久しぶりの対面であったが、せつ子の心はこだわりなく打ちとけて、のびのびしていた。それが長平に快よかった。こんなにこだわりなく、のびのび打ちとけてみせることができるのは、とにかく、すぐれたことだ。肉慾にこだわりがなく、それを没したようなスガスガしさがあった。
「記代子の話は、もう、よそう」
 長平は言った。百里離れて人の色恋を案じてみてもムダなことだ。
 長平は珍しく眼前の事実に充足するよろこびを味っていた。
「今日は珍しく、たのしいよ。風に乗って、たのしいことが運ばれてきたようなものさ」
 炎天の樹間をくぐって、いくらか涼風が通ってくるが、杯をあげているから、汗の量をへらすだけのタシにもならない。しかし、かがやく葉が草が、目にしみる。炎天の光も、時には、美しいものだ。
「君の気持は、わかるんだ。時々、風になりたくなるからね。ぼくら、風になると、むやみに酔っ払う。下賤なる風なんだね。誰も風の訪れをよろこんでくれないよ。女はお酒をのまないから、綺麗な風になるらしいや。自分が風になるよりも、よその微風が訪れてくれた方が、健康にもいいんだな。こんなソヨ風の訪れはめったに有るもんじゃないんだね」
 せつ子は長平のように浮いた気持にはなれなかった。
「お供はつらいのよ。社でアクセクしてるときは、なんとでもしてお金が欲しいと思うけど、ダメなのね。でも、つとめるのよ。今日までは、おッぽりだして来たことなんかなかったのだけど、ふらふら、とびだしちゃった。もっと娼婦になりきれる方が、立派なんでしょうね」
「そんなことは、クヨクヨ考えることじゃアないね」
「そう。立派だなんて、おかしいわね。誰かに、ほめられたいみたい。でも、そんな気持も、あるのよ」
「社長だものな」
「そうなのよ。社長でなければ、乞食になるのよ。そして、生きてるわ。今日は乞食の方の気持よ。微風の訪れでもなかったの」
 せつ子は胃が悪いから、酒をのむといけないのだと云いながら、かなり飲んだ。そしてテキメンに苦しみはじめた。長平が知人の医者へつれこむと、医者は顔をくもらせて、酒をのむと、ひどいことになるかも知れない、とせつ子を叱責するようにつぶやいた。
 せつ子は黙って、医者を見つめていた。顔色を微動もさせずに。そして、自動車をよんで大阪へ戻った。

       五

 長平は上京した。
 その日の夜中に長平の住む茶室の戸をたたいたのは青木であった。
「そろそろ隠れ家を変えなきゃいけないぜ。ここは拙者につきとめられているんだから、アイビキなぞには不都合だし、第一、タカリが怖しいやね」
 青木は遠慮なく上りこんで、
「とんだ合邦がっぽうさね。やってきたのは娘じゃなくて、ジジイなんだとさ。ヤ、コンバンハ」
 いくらか酔っているようであった。どっかとアグラをかいて、
「いずれ呼びだしをうけて、お叱りを蒙るんだろうから、手間を省きにきたのさ。え?」
 長平の顔をのぞきこんだ。
 長平はウイスキーをとりだした。彼は夜中や暁方にウイスキーをのんで、うたたねする習慣であった。一日に何回もうたたねするが、まとめてねむるのは一週に一回ぐらいのものであった。
「君に会う必要もないと思っていたのだが」
 青木にウイスキーをつぎ、自分ものんでから、言った。その落付きが癪にさわったらしく、青木はジリジリして、
「ハア。そうですか。何等親だか知らないが、君の何かに当ろうというこのオジサンにね。会いたくないのかい?」
 青木は自分の言葉に含まれた毒気に興奮して、目をギラギラ光らせた。長平はそれをそらして、
「君は何かぼくに言いたいことがあるのじゃないか。言うだけ、言ってしまえよ」
「言うだけ言ったら、どうするのさ」
「ねむるよ」
「相変らず、自分の都合だけ考えている人だね。なんと言ったら、気がすむのかね。ワタクシが記代子嬢を誘惑しました、と言ったらいいのかい?」
「おい、よせよ。法廷とちがうのだ。だから、なにも、きいてやしないじゃないか。言いたいことだけ、言うがいいや。さもなきゃ、帰りたまえ」
「なア、長さんや。君は、ぼくがどうしたらいいと思う。子供が生れるんだぜ。ぼくは、どうしたら、いいのさ」
「君はどうしたいのだ」
「それが分らないんだよ。なア、長さん。オレをあわれんでくれよ。どうしていいのか、わからん男を。なア。いい年をして」
 記代子が青木にニンシンをうちあけたのは、伊豆の温泉宿だった。
「あなた、まだ、本当に、子供なかったの」
「本当になかったよ」
「子供、ほしい?」
 青木は答えることができなかった。自分の都合は問題ではない。自分のために子を生む記代子をあわれんだのだ。
「君は、欲しいのかい?」
「あなたは?」
 青木は記代子が後悔していないことを知った。どこに拠りどころがあるのだろうか。人生の敗残者、五十のおいぼれの子を宿して。その無邪気さが、あわれであった。
 しかし、青木が答えに窮していると、記代子は青木の顔を見つめて、
「殺しちゃう?」
 彼は記代子の目に追いつめられて、うろたえたのだ。あの目を青木は忘れることができないのだ。何を語っている目だろうか。
 子を殺す、生む、それだけのことではないのだ。暗い一生をあゆむたった一つの小さい窓。あんな目にさせたのが自分だと思うと、たまらなかった。

       六

「なア、長さんや。恋愛だの、結婚だのッて、太平楽なもんだと思うよ。記代子さんて人は、その太平楽な身分に似合った人なんだね。ところが、ぼくとのことで、そうじゃない立場に落ちたわけだね。それを記代子さんは知ってるんだよ。本能的にね。恋愛だの結婚だのという太平楽なものと戦争状態の立場になってしまったという現実をさ。彼女は襟首をつかまえられているよ。運命というものにね。そして、ただ決意を要求されているんだ。それがあの人の目にでているのさ。ほかにでやしないや。だって、どこにもギリギリの決意なんて、ありゃしないものな。あるのは特攻隊みたいな切なさだけなんだ。それを見るぼくは、うろたえますよ。ねえ。だって、悲しくなるじゃないか」
「気分的なことは、どうだって、いいじゃないか。もっと実際的にさばく手段をさがしたらどうだろうね」
「大人ぶったことを言いなさんな。実際的にさばくッたって、根は気分が心棒じゃないか」
「ほんとかい? とつぜん行動するとき、気分をふりすてるもんじゃないのか。まるで気分と似つかぬことをやるもんじゃないのか。気分屋は、特にそうだぜ」
「それは、まるで、愛情にひきずられるな、というみたいだね。あわれんでも、いとしがっても、ムダなのかな」
 青木はつぶやいた。そして、全身に敵意がこもった。
「わかったよ。長平さん。そして、ぼくは安心したよ。大庭長平という人は、自分勝手すぎるぜ。あなたは、自分の姪が、どうなっても構わない自分だけの人なんだ。たとえば、子をだいて、男にすてられようと、どうなろうとね。ねえ、長平さんや。ぼくはあなたにヒケメを感じていたんだ。記代子さんのようなウブで世間知らずの可愛い娘を、ぼくのようなオイボレ敗残者がいつまでも自分のものにしておくというイタマシサについてね。しかし、今はそうじゃない。あなたのような冷めたい人にくらべれば、ぼくの方がどれぐらいあの人の親身の友であるか知れないんだ。ぼくはもう、安心して、あの人を誰の手にもやらないよ。愛すことも、すてることも、ぼくの自由だ。いずれにせよあなたにくらべて、ぼくの胸に愛情がこもっているのだから」
 長平は返事をしなかった。ウイスキーを青木にさした。
「まア、のめよ」
「そろそろ、帰るとしよう」
「オレがどういう人間であろうと、オレのことが記代子を愛す愛さないの標準になるてえのは、どういうわけだね。君は、まるで落付いていないな」
「だからさ。全然、とりみだしでいるんだよ」
「オレは、まったく、記代子がどうなろうと構わないと思っているよ。君にすてられようと、愛されようと、それで記代子の一生が終るわけではなしね。どっちへどうなろうと、その又次にも、何かがあるものだよ。事がなければ幸せだというわけでもなしさ。亭主が立身しようと、貧乏しようと、そこに女の幸福の鍵があるわけでもなし、さ。幸福の鍵なんてものは、もし有るとすれば、一つしかないものだ。いつも現実の傷を手当てしろ。傷口をできるだけ小さく食いとめ、痛みを早く治せ。それだけの対症療法があるだけさ。君は、何か、手当てについて、考えたり、やってみたり、したかい?」

       七

「君は太平楽な人さ」
 青木はしみじみ呟いた。
「対症療法だって、人間はみんな患者さ。すくなくとも、ぼくたちは、そうだぜ。みんな、とりみだしているだけなんだ。医者じゃないんだから、手当の仕様が分りゃしないじゃないか。この夜更けに君に会いにきたのだって、いわば手当の法を教えてもらいたいと思ったからだぜ。自分流儀じゃ、化膿してゆくばかりだからな」
 青木は涙をまぎらすような力のない笑い声をたてた。
 青木は今度のことについて、事の起りはどうあろうとも、責任を感じていた。それは年齢を考えてみれば、当然のことだ。
 一つにはヤケクソの気持があった。自分と長平との行きがかりから、こッちだって構うものかという気持がはたらいていたことは否めない。それをつとめて自制してきたことに多少の誇りはあるけれども、結局それがはたらいているのである。
 長平がそこを怒っているだろうと青木は考えていたのである。そこを怒られるのは、つらくもあるし、いくらか気のはれることでもあった。そして、怒られることによって、心が洗われ、二人の魂がふれ合うこともできるような、ひそかな愛情を感じてもいたのだ。恩讐の彼方に、という甘い友情に飢えていたのである。
 長年の仇敵がすべてを忘れて粗茶をくみ交し、四方山話にひたる。いかにも世捨人の慾のない交情を空想しているような甘さもあった。
 すべての空想は当て外れだ。長平は内々怒っているかも知れないが、彼が怒られるだろうと思ったところは、問題にしていないのだ。それは淡々として心が枯れているから、というようなせいではないのだ。
 なんて毒々しい男だろうと青木は思った。人間の毒気という毒気をすべて身につけているための、そして、あらゆる毒の上にアグラをかいているための落付きであり無上の寛容さであった。
 世捨人などとは以ての外の話である。およそ慾念のかたまりで、人生を毒と見ている鬼畜なのだ。
 青木は自分と長平との余り大きな距りに組み伏せられたようであった。共に通じ合う余地はなかった。避けて遠ざかるか、縋って甘えるか、どちらかしかないようだ。
 なんて傲慢な悪党だろう。青木はそう思う一方に、わが罪の切なさに、涙があふれてくるのであった。
「ねえ、長さんよ。どうしたら、いいのよ」
 青木はむせる涙に苦しんで、ころがって、頭をかかえた。涙のかわくのを待って、身を起して、
「ぼくは野たれ死んでも構わないし、自殺すりゃ、すむことなんだ。記代子さんを助けてやってくれよ。オレなんか、どうなったって、いいんだから。な。たのむよ」
「助かるッて、どうなることなんだい」
 静かな返事に、青木は目をまるくしたが、はげしい絶望に盲いて、
「なに言ってるんだ、君は! 君はハラワタからの悪党だね!」
「君の善意は分るんだよ。ぼくが悪党であることも、まちがいはないね。ただ、泣くのは止した方がいいぜ。涙から結論をかりてくるのも良くない。もっと静かな方がいいぜ。他人のことを処理するように、自分のことだって処理できるものだよ」

       八

 青木はしばらく考えていたが、首を横にふって、
「いや、ダメだ。ぼくは、いつも、それでやられるんだ。君はいかにも、ぼくの心を言い当てたり、それに同感してみせるようなことを言うね。それは易者が妄者の迷いを言い当てるのに良く似ているね。迷いの最大公約数みたいなものを、言いきるわけさ。そして輪をちゞめていくんだ。もっとも、易者との相似は君だけじゃアないがね。日本のインテリ一般の会話のコツかも知れないな。まるで謎々の遊戯みたいなものさね。ねえ。長さんや。易者ごッこはよしましょうや。なア。あなた。ハッキリ、答えてくれたまえよ。ぼくは記代子さんと結婚するぜ。それで、いいのかね」
「ぼくの返答をかりて、やる必要はなかろうさ」
「そうかい。わかった」
「まア、のみたまえ」
「もう、帰るよ」
「乗物がないぜ」
「夏はどこででも野宿ができるものさ」
「記代子も変な子だね。なんだって、君なんかが好きになったんだろうね。変な夢を見る奴さ」
「ふん。夢を、ね」
「ぼくは、ねるぜ。君、勝手にのんで、勝手に、ねたまえ」
 長平はタタミの上へころがって枕を当てた。
「君はフトンをしかないのか」
「そう。夏はね。たまに、グッスリねむるときだけ、フトンをしくのさ」
「じゃア、失敬するよ」
「そうかい」
「君とねたかアないからな。目がさめて、大坊主のねぼけ顔を見るなんざア、やりきれやしないからな。君は、今日、記代子さんに会ったろうね」
「会わん」
「なぜ」
「ぼくが上京するてんで、会社を休んだそうじゃないか」
「……」
 青木は顔色を変えた。思い直して、
「じゃア、帰ろう。このウイスキー、くれないかね。夜明けまで、どこかの焼跡でのんでるんだよ」
「もってきたまえ」
「記代子さんもオレみたいなことをやってるんじゃないかね。会社を休んで、行くところなんか、ありゃしないと思うんだがな」
「心配することはないだろう」
「そうかい。じゃア、失敬」
 青木はウイスキーのビンをぶらさげて、茶室をはなれた。
 その日、記代子が会社を休んだことは知っていた。長平の上京の日だから、迎えに行ったのだろうと思っていたのだ。
 どこをさまよっているのだろう。
 しかし、みんなバカげていると青木は思い直した。長平なんかが、もっともらしく悪党ぶるのは滑稽でもある。オレの本心は全然動揺してやしないのだ。ただオレの影がゆれているだけ。甘えてみせたり、苦しんでみせたり。みんな影法師の念仏踊りのようなものだ。
 まさしく演技者には相違ないが、そう考えてみたところで、とりわけユトリがあるわけでもなし、優越を納得することができるわけでもない。
「今に、なんとかなる。何かに、ぶつかるだろう。そして、ぶちのめされてみたいのさ」
 彼は苦笑して自分に言いきかせた。


     失踪


       一

 記代子は長平の上京した金曜日から、会社にも姿を見せなかったし、下宿している遠縁の人の家にも戻らなかった。
 失踪がハッキリしたのは月曜日である。すねるのも程々だと、せつ子が宿先へ使いの者をやってみると、金曜以来、宿にも戻らぬことがわかった。
 記代子の外泊がめッきりふえて、宿先ではなれていたし、ちょうど土日曜にかかっていたので、不審を起さなかったのである。
 放二は社長室へよびつけられて、せつ子から記代子の失踪をしらされた。長平が部屋に来合わせていた。
「あなたの独力で、かならず探しだしていらッしゃい。誰に負けてもいけません。たとえ、警察にも、探偵にも。かならず、あなたが見つけなければいけないのよ」
 と、せつ子は命令した。
「このことは私たちのほかに、穂積さん、青木さんが知ってるだけです。ですから、行方を探すにしても、記代子さんの行方不明を人に気付かせてはいけません。たとえば、記代子さんのお友だちのところへ訊きに行ったとしますね。記代子さんが行方不明ですけど、なんて言っちゃダメなのよ。記代子さんに急用ができたんですけど、記代子さんがあいにく会社をサボッてとか、定休日でとか、そんな風に言うのよ。わかりましたね」
 かんで、ふくめるようである。
「それから」
 と、せつ子は放二をジッと見つめて、
「なぜ記代子さんが失踪したか、それを考えてはいけません。あなたの役目は記代子さんを探しだすことなんです。失踪の原因を探索するのは、あなたの役目ではないのです。妙な噂がありましたから、あなたも薄々きき知って、いろいろ推量していらッしゃるかも知れませんが、あなたの推量は、全部まちがいよ。噂は全部デタラメなんです。あなたは人の噂など気にかけませんね?」
 放二はかるくうなずいた。
「人間て、どうして人のことを、あれこれと、憶測したがるのでしょうね。自分のことだけ考えていればいいのに」
 せつ子は退屈しきった様子で、そう呟いたが、机上から一通の封書をとりあげて、
「これは大庭先生が記代さんの下宿の人に差上げるお手紙。この中には、あなたのことが書いてあるのです。記代子さんのお部屋の捜査をあなたに命じたから、部屋へあげて自由に探させてあげて下さい、ということが書いてあります。あなたは記代子さんのお部屋に行先を知らせるような何かゞないか探すのです。又、お友だちの住所とか、捜査の手がかりになりそうなものを見つけてらッしゃい。意外な事実を発見しても、捜査がすんだら、忘れなくてはいけません。記代子さんが失踪したことも、忘れなくてはいけません」
 放二はアッサリうなずいた。長平は笑いだした。
「ずいぶん器用なことを命令したり、ひきうけたりするもんじゃないか」
 放二も笑ったが、
「むしろ、いっと簡単なことなんです」
「ふ。君はそんな器用な特技があるのかい」
 放二はそれには答えなかった。
「では、行って参ります」
「手がかりになりそうなものがあったら、明日、会社へ持ってらしてね。記代子さんが見つかるまでは、会社の仕事はよろしいのです。穂積さんに言ってありますから。記代子さんを探すのが、あなたのお仕事よ」
 放二はうなずいて去った。

       二

 放二は記代子の部屋をさがした。
 室内を一目見たとき、記代子の覚悟のようなものが感じられでハッとした。部屋がキレイに整頓されていたからである。
「イエ、私がお掃除しましたの」
 と、下宿の人は、事もなげに云った。
「おでかけのあとは、毎日々々、それは大変な散らかしようですよ。おフトンだけは自分で押入へ投げこんでいらッしゃいますけどね。ホラ」
 押入をあけてみせた。くずれて下へ落ちそうだ。よくたたみもせずに投げこんである。放二は自分の万年床を思いだして、男女の差の尺度はこの程度かと、おかしくなった。
 一目見たときは整頓されていたようでも、しらべていくと、乱雑そのものである。ヒキダシの中も本箱も。
 日記帳を見出したとき、彼はいくらか安心した。覚悟の失踪なら、こういうものは焼きすてていくはずだ。たしかに今年の日記帳に相違ない。彼は中を見なかった。安心して、本棚の奥へ押しこんだ。
 社をでるとき、穂積のところへ挨拶にいくと、穂積は彼にささやいた。
「青木さんが悲愴な顔で出かけたがね。たぶん心当りへ探しにでたんだな。ぼくはさッき社長に呼びつけられてさ。噂をまいた張本人みたいにこッぴどく叱られたんだが、社長が君に独力で探してこいという気持は分るけど、ムリだな。青木さんは彼女の私事にも通じてるだろうし、君が先に見つかりッこないぜ。ぼくが青木さんに話しておいてあげるよ。彼女を見つけても、その功を君にゆずるように、とね。まア、あんまりキチョウメンに探しまわらずに、遊びがてらの気持で、ゆっくりやりたまえ」
 放二の健康を気づかってくれたのである。
 青木と記代子のことは、もとより放二も知っていた。当然なことであるから、穂積はせつ子のように見えすいた隠し立てはしなかった。
「ええ、一通り探してみようと思います」
 こう答えると、穂積は苦笑して、
「なに、生きてるものなら、探すこたアないよ。君のからだが大事だぜ。死んでるものなら、警察の領分さ。とびまわるのは、青木さんだけで、タクサンだ」
 哲学科出身のこの男は、日本式のプラグマチズムを身につけて、煩瑣なことには一向に動じなかった。
 死んでるものなら、たしかに手の下しようがない。しかし、生きていると、いつ死ぬかわからない。又、どう転落するかわからない。放二はこの部屋の中から記代子の足跡をどうしても見つけだそうと思った。
 捜査の手がかりになりそうなものを一つ一つとりだした。
 友だちからの手紙。みんな親しい女友だちからである。男からの手紙はなかった。
 手紙を一つ一つ読んでみても、手がかりになりそうなものはない、暢気な手紙ばかりであった。放二は差出人の住所を書きとった。
「やっぱし、日記かな」
 最後の日付の日記だけカンベンして見せてもらおう、と放二は思った。最後だけじゃア、まにあわないかな。あるいは、最後の一週間分ぐらい。
 放二は押しこんだ日記帳をとりだした。そして、頁をパラパラめくって最後の日付をさがした。最後の日が、どこにもない。ないわけだ。全部、白紙であった。元旦すらも。

       三

 しばらく笑いがとまらなかった。放二は再び日記帳を本棚へ押しこんで、ヒタイやクビ筋の脂汗をふいた。
「これで一応さがしたわけだが」
 ほかに捜す場所はなさそうだ。手紙の束をしまうついでにヒキダシをかきまわしてみると、ガラクタにまじってマッチ箱がタクサンあった。
「タバコを吸うのかしら?」
 ふだん吸ってるのを見たことはない。しかし机の上に小さなピンク色の灰皿があった。マッチ箱は軸がつまっていて、ほとんど新品だ。三ツ四ツ例外はあるが、大部分が同じ店のマッチであった。
「ノクタンビュール」
 たしか青木前夫人の働いているバーである。店の名だけはきいていたが、彼はそこへ行ったことがなかった。あんまり数が多すぎるのでザッと数えると、二十いくつあった。いつも青木と一しょだから、その店へ行くことがあるのにフシギはない。しかし、ずいぶん通ったものだ。それとも、まとめて貰ってきたのだろうか。放二はマッチ箱を手にとってボンヤリ見つめて考えた。しかし、思いつくことは何もない。
「とにかく、マッチ箱の店へ行った事実はあるのだから」
 と、放二はマッチ箱の店名を手帳に書きとった。箱根や伊豆の温泉旅館のマッチが三ツ。彼の知らない銀座のバーが一つであった。箱根、伊豆、そんなところをブラブラしてるんじゃなかろうか。なんとなく、そう考えておきたいような気持であった。
 捜し終って、放二は宿の人たちの話をきいた。
「金曜の朝は、いつもの出勤時刻に、おでかけでしたでしょうか」
「ええ、時刻にも態度やその他にも、いつもと違うところはちッともなかったようですよ。朝は忙しいので、特におかまいもしませんでしたけど、御食事中の御様子やなどでも、ね」
「特に親しくしてらした女友だちは?」
「そう。たまにね。遊びにいらした方もあるし、お噂をうかがうこともありましたが……」
 主婦が思いだした名は、放二の手帳に控えたものをでなかった。
「別に、それまで、変った様子はなかったのでしょうね」
「いえ。毎日変った様子でしたよ」
 主婦は大ゲサに身ぶりした。
「つまりね。金曜の朝はいつもと変りがなかったのですよ。ですけど、そのいつもがね、決して普通じゃないんですよ」
 放二が世間知らずに見えるので、主婦はコクメイな話し方をした。そして、言ってよいのか、どうか、と迷う様子であったが、
「もちろん、皆さん御承知でしょうが、ニンシンなさっていましたからね。いろいろと、そうでしょうね。思い悩んでいらしたんでしょうよ。とにかく、普通じゃなかったですよ」
「どんな風に、でしょうか」
「話の途中に知らんぷりして立っちゃったり、自分で話しかけといてプイと行っちゃったり、そうかと思うと、こっちで話しかけないのに、なアにイなんてね。そして時々高笑いしていましたね。今日は自動車にひかれるところだったなんて仰有ってましたが、そんなことも有ったでしょうよ。あれじゃアね」

       四

 女友だちは四人しか分らなかった。
 最初に訪ねた克子は、まだ海水浴から戻らなかった。往復している手紙からでは、克子が特に親しいようであった。
 二人目の修子の住所は学校の寄宿舎だ。記代子は罹災して京都へ疎開し、そこの学校をでたから、友だちは京都の娘たちなのだ。学校は夏休みだから、修子は寄宿舎にいる筈がなかった。
「ひょッとすると、京都へ戻っているのかも知れない」
 そう考えて、修子の本籍を調べようかと思いたったが、失踪の動機が、長平の上京を煙たがってのせいらしいと思われるのに、京都へ行くとは考えられない。
「京都なら安心だから」
 そう結論して、京都はほッとくことにした。
 三人目も京都。これも学生で、帰省中であった。
 四人目の敏子はまだ勤め先から戻らなかった。文化住宅街の中でもやや目立つ洋館であるが、居住者の標札だけでも違った姓のが五ツ六ツ並んでいて、内部はアパートの入口のように乱雑だった。
 敏子の母は神経質でイライラしていた。彼女は放二の言葉をウワの空できいていたが、
「まだ勤めから戻りませんよ」
 つめたい返事であった。ちょうど勤め人の帰宅する時刻であった。
「もうじきお帰りでしょうか」
 と、きくと、敏子の母は益々冷淡に、
「毎晩おそいですよ」
「幾時ごろですか」
「人の寝しずまるころですよ」
 そうおそくまで遊んでくるのでは、夜は会えない。
「ではお勤め先でお目にかかりたいと思いますが、お勤め先はどこでしょうか」
 敏子の母はとうとう怒りだした。
「女の子のあとを追いまわしてどうするの。いやらしい。お帰り。相手にしていられやしない。忙しいのに」
 ブツクサ呟きながら、さッさと振向いて去ってしまった。
 放二はそれ以上どうすることもできなかった。もう一度、克子を訪ねるほかに手段がない。社線、省線、社線と、又、一時間半ほど廻らなければならない。
 克子はまだ海から戻らなかった。
 克子の父母はフビンがって、彼を室内へ招じてくれた。
「こちらのお嬢さんも京都の女学校の御出身ですか」
「どうして?」
「今まで廻ったお友だちが、そうですから」
「克子は疎開前のお友だち。たしか、二年まで、ご一しょでしたわね」
 しばらく世間話をしているうちに、克子が疲れて、もどってきた。
 克子は、茶の間の青年が、記代子の行方をさがして、彼女の帰りを待っていたときいて、不キゲンであった。
 彼女は黙りこくッて、考えこんでいたが、
「ねえ。会社の御用なんて、嘘でしょう」
「いいえ。なぜですか」
 克子は薄笑いをうかべた。
「嘘にきまってるわ。記代子さんがサボッたのに、急用だなんて。昼間だったら、それで人をだませるけど、もう夜よ。会社はひけてるでしょう。サボッた記代子さんも家へ帰ってるわ。なぜ記代子さんちへ行かないの。家に居ないからでしょう。行方不明だからでしょう」

       五

「ずいぶん御心配らしいわね」
 克子の冷笑はするどかった。
「とうとう家出したのね。無軌道ね。記代子さんらしい結末だわ。ニンシンしていたんですものね」
 目をあげて、放二を嘲笑した。
「そんな失礼なことを」
 母親はハラハラして、
「あなた、記代子さんの行先に心当りはないのですか」
「知らないわ。十日ほど前に、会ったけど、お茶ものまずに別れたわ。最近は、そう親しくしていないのよ」
 これ以上きいてもムダだと放二は思った。
「ほかに記代子さんの親しいお友だちは、どなたでしょうか」
「どこを捜したんですの?」
 放二は今までの経過を説明して、
「京都へ帰省中の方が二人で、在京中の方はこちらと、木田敏子さんと仰有る方、お二人だけなんです。木田さんはお帰りがおそいそうで、お目にかかれなかったのですが、勤め先をおききしたのですが、教えていただけなかったのです。木田敏子さん御存知でしょうか」
 克子は冷淡にうなずいた。
「勤め先を御存知でしょうか」
 克子はプッとふきだして、
「あなたは、ダメね。とても、捜しだせないわ。私の部屋へいらッしゃい。説明してあげるわ」
 克子は放二を自分の部屋へ案内し、自分は茶の間で食事をしてから、お茶と菓子皿を持って上ってきた。
「家出したんでしょう?」
「ええ」
「なぜ、なんとかして、あげなかったの。無責任な方ね」
「ぼくは、会社の同僚にすぎないのです。あの方の愛人ではありません」
 克子は疑って、
「嘘つきには、教えてあげない。私、あなたの名、記代子さんにきいたことあるわ」
「ぼくはお友だちにすぎないのです」
 克子は疑わしげであったが、放二のマジメさを認めたようでもあった。
「じゃア、本当なのね。五十ぐらいの人だって。十日ほど前に会ったとき、ダタイのお医者知らないッて、きくんですのよ。教えてあげたの。お友だちにきいて」
「その病院は、どこですか」
「忘れました」
 克子は鋭い目をした。
「あなた、病院へ行くつもり? そして、どうなさるのよ。ダタイなら、もう、退院してるわ。すべてが、終了したんです。なくなったの。過去が」
 放二はうなずいた。
 ダタイして入院中なら、心配することはない。しかし、そうなら、青木が知っていそうなものである。
 克子も考えていたが、
「金曜日からなのね。三日、四日目。ダタイにしては長すぎるわ」
 克子はうかぬ顔だったが、気をとり直して、
「私の知ってるの、それだけだわ。最近は親しくしていなかったから。敏子さんにきいてごらんなさい。勤め先、教えてくれなかったの、当り前だわ。新宿でダンサーしてるんですもの。大胆不敵なのよ。会社とダンサーかけもちだったんですもの。今は会社クビになって、ダンサー専門らしいけど」
 と、ホールの名を教えてくれた。

       六

 新宿はごったがえしていたが、もう二十二時であった。
 ダンスホールの切符売場で訊ねると、
「木田敏子? ダンサーですか? 誰かしら。本名じゃアわかんないわ。まって下さい」
 美青年の一得であった。女の子の一人は、イヤがる風もなく、気軽に奥へ走りこんだ。
 相当の時間またされたが、その償いのように、女の子は息をきらして戻ってきて、
「わかんない筈だわ。キッピイさんのことじゃないの」
 先ず同僚に向ってこう報告すると、キッピイさんは有名人とみえて、女の子たちは顔を見合せて笑いだした。そして、意味ありげに、放二の顔を見た。あらためて、放二に興味をもちだしたようである。
 駈け戻った女の子は窓口に首をのばして、
「その方はもう二ヶ月も前から居ないんです。もっと前になるかしら?」
「メーデーの翌日から」
「そう。忘れ得ぬ夜の出来事」
 彼女らは声をそろえて笑った。
「何かあったんですか」
 と、放二がきくと、駈け戻った子は目をふせて答えなかったが、ほかの一人はノドがムズムズする様子で、しかし直接放二には答えず、同僚に向って、
「あの人、共産党なのかしら?」
「うそよ。はじめはイタズラだったのよ。笑いながらデモ演説のマネしてたのよ。マダムが叱ってから、怒っちゃって、闘争演説はじめたのよ」
「そうでもないようよ」
「そんなことなくッてよ。ただの酔ッ払ッたアゲクよ。だけど、マスター行状記、バクロ演説、痛快だったわ」
「キッピイにとびかかったのね。あのときのマスター、ゴリラだわね。キッピイのクビ両手でつかんで、ふりまわしたのよ。フロアへ叩きつけちゃったわ」
「そのときサブちゃんが飛びだしたのね。ダブルの上衣グッとぬいでね。見栄をきったわね。ただの一撃。それからは入りみだれて、敵味方わかりゃしないのよ。てんやわんや」
「サブちゃん、凄いのよ。女を狙うと、あれですッて。キッピイ、もう捨てられたって話」
 話に一段落がついて、一同は口をつぐんだ。要をつくしたのである。あとは放二の質問は一つしかなかった。
「今でてらッしゃるホール、わからないでしょうか」
「ええ。それなんですけど」
 女の子は分別くさげに目をふせながら、
「それをききだすのに時間くッちゃッたんですけど」
 女は又、口をつぐんだ。それから、
「よした方がいいですわ」
 と、言った。
「どうしてですか」
 女はわざと困った顔をして、
「だってねえ。よくないことなの。きかない方がいいわ」
「ぼく、御迷惑はおかけしないと思いますが」
 女の子は思いきった顔をした。
「キッピイには悪いヒモがあるんですッて。グレン隊の中でも特別のダニ。とても悪性よ。ノサれちゃうわ」
 放二は笑って、
「ノサれるような用件ではないのです。あの方のお友だちの住所をきくだけですから」
 女の子は喫茶店の名と図をかいて、投げだすように放二にわたした。

       七

 放二は地図をたよりに喫茶店をつきとめた。同じような店が露路の両側にならんでいて、まよいこんだ放二を見ると、どの店からも女がでてきて、よびとめたり、手を握って引きこもうとした。
 めざす喫茶店で、よびとめた女に、放二はきいた。
「お店に、木田敏子さんという方、働いていらッしゃいますか」
「木田敏子? 誰のことかしら。ええ。探してあげるから、遊んでらッしゃいよ。私じゃ、いけないの?」
 同じ店から、三人の女がでてきて、放二をとりまいていた。一人がこう云って、敏子のことなど問題にしていないのを、他の二人も気にかけなかった。
「ビール一本、のんでよ。すると、あなたの恋人が出てくるわよ」
「木田敏子さんは、ぼくの知り合いではないのです。どんな方か、お目にかかったこともない方なんです」
「いいわよ。そんなこと。あなた、アプレゲールでしょう。わけの分らないこと、云うもんじゃないわ。ビール一本のんでるうちに、いろんな話ができるじゃないの。その人も、出てくるわよ」
 三人は放二のからだに手をかけて、つれこもうとした。放二はふと気がついて、
「その方は、ダンスホールにいらしたときは、キッピイさんと仰有ったそうですけど」
 それをきくと、三人は目を見合わせた。放二のからだにかけた手も、自然に力がゆるんだ。
「じゃア、よんできてあげるわ」
 一人が、こういって店へはいると、他の二人も放二から離れて、戸口の陰へ身をひいた。
 背の高い娘がズカズカと出てきた。気色ばんでいたが、放二の顔をみると、意外な面持であった。
「誰よ。あんたは?」
 放二は名刺をさしだした。
「大庭記代子さんと同じ社のものですが、社で、大庭さんに急用ができたのです。あいにく、大庭さんは休暇中で、家にも居られず、居どころが知れないのです。明日の朝までに、捜しださないと、困ることがあるんですけど、こちらへ立ち寄られなかったかと思いまして」
 キッピイは、さえぎって、
「ここ、どうして分ったのよ」
「樋口克子さんにおききしたのです。大庭さんのお友だちのみなさんに訊いてまわっているのです。どこにも立ち寄っておられません。ここでおききしてごらんなさい、という樋口さんのお話でした」
「あの人、ここ、知らないわよ」
「ええ。以前いらしたダンスホールで、ここをおききしたのです」
 キッピイは納得したようだった。記代子や克子にくらべれば大人びていたが、荒れ果てた感じの奥に、同じぐらいの幼いものは、まだ残っていた。
 キッピイは心持、一歩、放二に近づいた。
「どこを、探しまわったの?」
 放二に、ふと、疑いが閃いた。彼女は記代子の失踪を知っているのではないか、と。
「大庭さんの宿の方から、お友だちの名を四人おききして、きいて廻ったのですけど」
 キッピイは、よそよそしく、
「私も知らないわ。それじゃア、四人とも、知らないのよ。たぶん、五人目をさがすといいわ」
 そう呟いて、
「帰ってよ」
 小犬を追い出すような、無情な様子で睨みつけた。

       八

 放二はアパートへ戻ってきても、まだ考えつづけていた。キッピイが記代子の行方を知っているのではあるまいか、と。
 彼女の態度は、放二が記代子をさがしている理由について、あまり無関心でありすぎるように見うけられる。それは失踪という事実を知っているためのように思われた。
 克子は放二の言葉を疑って、記代子の失踪をかぎあてたが、キッピイは放二の言葉を問題にしなかった。
 彼はキッピイの言葉を一つずつ思い起した。彼女はこんなことを言ったのだ。「五人目の女が知っているかも知れない」と。
 本当にそんな女がいるのだろうか? キッピイはその人を知っているのだろうか? 冗談めいたところもあった。
 まさか、礼子のことではないだろう。しかし?……放二は一山のマッチを思いだして、キッピイの五人目の女が礼子のことではないにしても、彼女も何か知っているかも知れないと思った。ほかの人々が知らないような何かを。
 放二は疲れきっていた。そして、疲れすぎると、尚さら寝つかれなくなる今日このごろを考えて、あるいは、死期とまではいかなくとも、再起不能の状態に近づいているのではないかと思われるのであった。
 記代子の行方をさがしまわることは、さらに急速にその状態に近づくことを明確に示していたが、放二はむしろ捜しまわって疲れる方が楽だと思った。何もせずにジリジリ衰弱するのを見てわきまえている腹立たしさにくらべれば、何かのために物思うヒマもなく疲れる方が、かえって安らかなのだ。
 放二は明け方になって、よく眠った。
 おそく目をさまして、社へでる前に、キッピイの自宅を訪れてみようかと考えたが、一応報告を先にしようと思い直した。せつ子の非凡な目が、同じ材料から何かを見つけてくれるかも知れない、と思ったからだ。
 しかし、せつ子も彼のもたらしたものだけでは、手の施しようがないようだった。
「お友だちに、ダタイの病院、きいたということ、まちがいないことなのね?」
「まちがいないと思います」
「いつごろのことなの?」
「十日か、二週間ほど前。一度は十日前ぐらいと言い、一度は二週間前ぐらいと言ったのです。確かめて訊きませんでした」
「あんなにダタイはいやだと言っておきながらねえ……」
 せつ子は記代子の心理を考えているようであった。放二にも、記代子の心理はいろいろに考えられた。
 礼子に会って訊いたら、記代子の意外な心理を辿ることができるかも知れないと放二は思った。キッピイにもう一度会うことを急ぐよりも、礼子に会うことが先のようだ。すくなくとも「青木の子供」の問題にふれた何かが掴めそうな気がした。
「今度は、どこを捜すつもり?」
 案外にも、せつ子はおびただしく拠りどころない様子であった。
「ダタイの病院をさがす必要はないでしょうか」
 せつ子はクビをふって、
「それでしたら、捜す必要ないの。人間の過去は実在しないものなんです。あなた、それを信じられる?」
 放二はうなずいた。
「じゃア、さがしてらッしゃい。是が非でも、あなたが捜し出さなければ、ダメよ。大庭記代子という過去のない新しい女をね」

       九

 礼子のバーがひらくまでには間があった。キッピイの自宅を訪ねてみるには適した時間であったが、それをやめて、記代子の宿をもう一度訪ねることにした。
 キッピイが何かを知っているにしても、それを語らせるには、一度の足労では間に合いそうもない。あるいは、何も知らないのかも知れないのだ。複雑な私生活をもつらしい彼女の特殊な態度や言葉の表現が、たまたま思わせぶりに見えたのかも知れなかった。
 それよりも、記代子の宿から、捜査を出直してみようと思った。昨日は、記代子の足跡を直接さがしだす材料ばかり心がけていたが、一日の捜査の結果は、記代子の心理を知ることが重大なものに見えてきた。そして、心理を辿ると、足跡の方角を推量しうるかも知れないように思われた。
 宿の主婦は、記代子の態度がちかごろ変ったことばかりだと言った。懊悩する娘の混乱した状態などを根掘り葉掘り聞きたくはなかったので、すぐ打ちきって辞去したが、会社では誰にも見せなかった心の秘密を宿では思いあまって漏しているかも知れず、主婦の世なれた観察眼が、何かを嗅ぎ当てているかも知れない。放二はそこから出直そうと思ったのである。
 しかし、宿の主婦の観察からは、期待したものを得られなかった。
「あの方は、男の方に不満だったんですよ。五十ぐらいの年配だそうですものね。訪ねていらしたお友だちの方などと争論なさるんですよ。五十ぐらいの年配でなきゃ男はつまんないなんてね。ええ。ええ。私などにも、そんなことを仰有ることがありましたよ。それは、あなた、意地ずく、ヤケで力んでいらッしゃることですよ。そうですとも。そうでなきゃならないことですものね。どこに五十の年寄を好く娘があるものですか」
 まったく主婦の希望的観測にすぎなかった。自分の希望に当てはめようとしているだけで、個性というものを見ていないのだ。その観察を自分に合せてゆがめてあるので、多く訊いてもムダであるし、むしろ観点を狂わせる害があった。
 放二は主婦との対話を打ちきって、もう一度、記代子の部屋を捜させてもらった。心理を辿る何かが、どこかにひそんでいないかと思ったのだ。
 放二はヒキダシをあけたり、本箱の戸をひらいて何となく一冊の本をとりだして見たりして、彼女の心理について、何か今に思い当りはしないかと漠然と期待していた。しかし何一つ思い当るものはなかった。
 第一、何かを思い当て得るような根拠ある思考力を自覚することすらもできない。なんとなく空転し、いつまでも空虚なものを自覚しうるだけである。
 もしも、何か思い当ることがあるとすれば、一山のマッチが昨日から思い当っているだけなのだ。それに限定されているだけで、それ以外へ閃く思考の自由すらも失っているかのようだ。
「なんのために灰皿を買ったんだろう。タバコをすうようになったのかしら? それとも、来客のためだろうか?」
 マッチに限定された思考力は、そんなことだけ考えていた。彼はピンクの小さな灰皿を手にとって、空転する頭をもてあましていた。
「とにかく、礼子さんに会ってみよう」
 彼はあきらめて立ち上った。

       十

 バーで礼子に会った。放二の来意をきくと、皆まで言わせず、礼子は彼を近所の喫茶店へさそった。
「なんですッて? 一山のウチのマッチ?」
 礼子は笑った。
「そうね。いらッしゃるたび、テーブルのマッチはきッと持ってお帰りですのよ。あのお店は各テーブルに必ず二ツずつのマッチを置いとく習慣なんです。なんとなく持ち帰って、お使いにならなかったのね」
「使わないマッチを、なぜ持って帰ったのでしょうね」
 放二の思考はずッとマッチにこだわりすぎて、彼自身にもバカらしいと思われた。礼子は返事にこまって、
「いろんな場合がありうるわ。あの年配のお嬢さんには、どんな突飛なことも、御自分だけのれっきとした理由がありうるわ。あのバーでも、あの年配のお嬢さん女給がまとめて三人ぐらい揃うときがあると、バーのシキタリが狂っちゃって、お店全体が狂うんです。それが理窟は合ってるんですよ」
「一回に二ツのマッチですと、一つも使わなかったものとして、十二三回、遊びに行かれたわけですね」
 礼子はかるくうなずいただけで答えなかった。そして、考えこんでいたが、
「私、どちらかと云えば、青木に同情していたのです。ですが、失踪なさッたときいて、記代子さんがお気の毒ですわ」
「奥さんは、記代子さんの失踪を御存知のようでしたね」
「青木にきいたのです」
 さッきから放二はそこにこだわっていたが、礼子の答えは簡潔だった。
「北川さんは、このこと、どう思いますか。記代子さんは、十日間ほど、毎日欠かさずウチのバーへいらしたことがあるんです。失踪は金曜日だそうですね。すると、その十日ほど前までです」
 放二はあやしんで、
「青木さんとご一しょではなかったのですか」
「いいえ。青木と一しょは一回だけ。それから一ヶ月あまりたって、つづけさまに十日ほど、いらしたのです。いつも一人で。で、たいがい、とッつきの長椅子へお坐りなの。私にここへおかけなさいッて、隣へ並んで坐るように命令なさるのよ。そして私が坐りますとね。あなた、おもしろい? つまんないわね、ツて、挨拶代りに仰有る言葉が必ずそれなんですよ。私はほかのテーブルにも回らなければならないでしょう。代りにほかの女給さんが行って話しかけても、ご返事なさったことないの。誰も行く人なくなっちゃったわ。私だって、あの方のテーブルへ行って、たのしいッてこと、ないんですもの。時々、あの方のそばへ行くことがあっても、せいぜい一分間と居たことがなかったんです。いつ、行っても、仰有ることは同じよ。おもしろいの? つまんないでしょ? それだけなのよ。一日に何度でも。私があの方のそばへ行くたびに。そして、ほかの話らしいことはほとんど話し合わなかったわ。その機会はあるんですけどね。一分間ぐらいは、坐っていましたから。二人とも黙りこくッているだけでした。そんな風にして、およそ、三四十分ぐらいね。カクテル一つのみのこして、お帰りでしたの」
 そして、シミジミと、つけ加えた。
「敵意じゃなかったと思うのよ。青木とご一しょの時は、敵意満々のようでしたけどね。敵意があるなら、他のことを言わなくとも、必ず言わなければならない言葉があったはずです。私は昨日まで、あの方がニンシンしていらしたこと、知りませんでした」

       十一

 ともかく、心理の足跡が、うかびでてきた。失踪の十日ほど前までの約十日間、記代子は毎日ただ一人で礼子のバーへ現れているのである。そして、礼子に向って、あなた、おもしろいの? つまんないでしょう、と言いかけるほかには押し黙っていた。そして、ニンシンについては、一言も、もらさなかった。
 失踪の十日前。……
 記代子が克子に会ったころだ。そしてその時はアベコベにニンシンを主に語っているのだ。克子からダタイの医者を教えてもらっているのである。
 そのころ、記代子と青木との仲は、どうだったろう? 二人の間に何かあったのだろうか? それを青木にたしかめることは、いけないことだろうか、と、せつ子の言葉を思いだしながら、放二は考えた。
 社のひけは、規則はないが、サンマータイムの六時ごろだ。編集部とちがって、作家まわりが少いから、ひけ時まで部員の顔はあらかた揃っている。青木と記代子も例外ではない。二人はそろって、姿を消す。
 放二が記代子と一しょのころは映画を見たり、ビンゴをやったり、喫茶で休んだり、歩いたり、ごく月並な二三時間をすごしたにすぎない。放二自身はお酒をのまなかったが、二人のほかに飲み助のつれがあって、お酒をのむようなときには、たいがい駅にちかいマーケットのカストリ屋へ行った。フトコロのせいだけではなく、記代子がそこへ行きたがるのだ。人間の本性をムキダシにしたような猥雑な場所が珍しくて、又、酔漢にジロジロみられたり、話しかけられるのが愉しそうであった。すると記代子はいつも放二に寄り添って、放二以外の誰れのものでもないようにふるまうのが、うれしいようであった。
 放二は踊れなかったが、青木のダンスはステップが美しいので、社内でも有名だった。彼が留学中に覚えたダンスで、リズムにのる姿勢や特に肩の角度やうごきがヨーロッパ風に古風で典雅であった。記代子もダンスが好きであった。二人がホールで踊っているという噂は、放二もかねて聞いたものだ。退社後の青木と記代子の行動は、そのへんまでは見当がつくが、あとは分らない。
「ノクタンビュールへは、たいがい、幾時ごろ行かれたのでしょう?」
「八時か、八時半ごろでしょうね。ノクタンビュールは九時か九時半ごろ、一時にドッとはやるのよ。まるでお客さん方が申し合せていらッしゃるように。そうなんです。記代子さんのいらッしゃるのは、その前、いつもお客さんが一組か二組のころでしたわ」
 サンマータイムでは、明るい時刻だ。青木とそんなに早い時刻に別れていたのだろうか? すると、礼子が言った。
「ほかの女給さんと一言も話さなかったり、まれに酔っぱらったお客さんが、一しょに飲みましょう、こッちへいらッしゃい、なんて誘っても、見向きもなさらなかったんですけどね。北川さんは、お分りになるかしら? 女ッて、変なものなのよ。ことに、娘さんは、複雑ですよ。ですけどね。女の本性には、規道があるから、男の方には変に見えても、女にはたいがい分るものなのよ。私は思うんです。アベコベじゃないかしら? 誰ともお話しなかったのは、本当は、とてもお話したい気持の逆の表現じゃないかしら。みんな逆だと思うんです。おもしろくないでしょう? つまんないわね、というのは、おもしろいでしょう、おもしろそうね、ということだと思ったわ。昨日今日、そう思いついたんです」

       十二

 礼子の観察は当っているかも知れない、と放二は思った。自分の経験にてらして、マーケットのカストリ屋で男たちにとりまかれている時の記代子は、酔漢にからかわれるのも愉しそうであったし、酔漢にジロジロ見られても、心ゆたかであったようだ。カストリ屋の主婦や女給と語らうことも、けっしてキライではなかったのである。
 しかし、記代子の新たな境遇、ニンシンと孤独、小娘の身にあまる煩悶の日々を思いやると、心境の激変も当然なければならないし、たのしいこと、明るく賑やかなことには、ついて行けなくなっていたかも知れない。虚無にもなろう。軽蔑もしたかろう。
 しかし、そのへんのことは、放二にはシカと見当はつけがたかった。
「すると、記代子さんは、皆さんとお友だちになりたくて、遊びに行かれたのでしょうか」
「お友だちになりたいッてわけではないでしょうけど、男のお客さん方のように、バカ騒ぎしたいような気持――女ですから、バカ騒ぎはないでしょうけど、小説などにありますでしょう。気持のふさいだ時や、失恋だの、悩みだのというときに、バーでヤケ酒のむなんてことが。そんなこと、伝説にすぎないようなものですけど、知らない方は、真にうけるかも知れないわ。記代子さんは、まだ子供ですもの、バーッてそんなところかと思ってらッしゃるかも知れなくッてよ。そして、男のお客さん方のように、バーへ行って、気をまぎらしたかったのか知れないわ。バーで、お客さんや私たちのやってることが、つまんないんじゃなくて、同じようなことを、したかったんじゃないかしら。のんで、酔っ払って、お喋りして、乾杯したり、踊ったり……」
 放二は、なるほど、と思った。
 しかし、それだけの理由だとしてみると、記代子がうわべでは虚勢をはっていても、実は深く悩んでいて、バーで鬱を散じたいような、よるべない気持であったということが分るだけだ。礼子にニンシンをうちあけなかったことも、克子にはそれを打ちあけたことも、そして、二つが同じ頃であることも、特別の意味はなくなってしもう。
「ほかに、お気づきのことはありませんでしたか?」
 と、きくと、礼子は放二がミレンを起す余地がないほどハッキリと否定して、
「有れば、私もうれしいわ。私、お力になってあげたくて仕方がないの。御心配でしょうねえ。大庭先生は、どうしてらッしゃるかしら?」
 放二がだまっていると、
「私、先生にお目にかかりたいわ。いま、上京してらッしゃるんですッてね。でも記代子さんがこんなで御忙しいでしょうし、遊びにきていただけないでしょうね」
「記代子さんのことでお忙しくはありませんが、お仕事でお忙しいと思います。上京中、外出なさることは殆どありません」
「私がお訪ねしてはいけないの?」
「その御返事は、ぼくにはできませんが、宿を知らされた特定の人が訪ねる以外はお会いにならないのが普通です」
 礼子も思いきりよくあきらめて、
「時々、遊びにいらしてよ。遊びにきてらしてたら、記代子さんにも会えたのよ。はやく、行方、見つけてあげてね。そして、記代子さんを幸福にしてあげて」
 礼子はそれを心から期待しているようだった。


     青木の場合


       一

 記代子の失踪をきいたとき、青木が直感したのは死であった。
 しかし、記代子に、死を選ぶような素振りがあったわけではない。むしろ、怪しい挙動のなさすぎるのがフシギなほどであった。
 悲しくて、怪しいのは、青木の方であった。罪悪感にさいなまれ、行末を案じ、一人でいると、絶叫したくなり、胸をかきむしりたくなることがあった。記代子と会うと、逆上的なものはおさまって、平静で柔和になるが、骨がらみの暗さ悲しさはどうにもならない。記代子の気持をひきたて、力をつけてやろうとして、いつとなく悲しい思いに走っているのは彼自身であった。
 男の方がそんな風にダラシないから、記代子が逆に、青木の前ではノンビリしていたのかも知れないが、案外シンは頑固で、一人ぎめで、それで楽天的なようにも見えた。
 青木は、記代子の将来を考えてダタイをすすめたいのであるが、記代子の反対は強く、青木は再々云いだすことができなかった。
 失踪前も、特別な挙動があったとは考えられない。二人の仲はいつもと変りがなく、ちょッとしたイサカイもなかった。いつまでも捨てないでくれ、とか、いつまでも愛してくれ、というようなことを言ったこともない。青木がたよりない思いをさせられるほど、淡々と、ノンビリしていたのである。
 しかし、死というものが、どこに宿るかは見当がつかない。ノンビリと、鈍感な田舎者の魂にも、だしぬけの死が宿りやすいことは、チエホフが書いていることだ。これぐらい妙な友だちはない。めったに訪ねてこないけれども、訪ねてきた時は親友で、とびぬけて親友なのかも知れないのである。
 日々が平凡で平和な子守女でもふと自殺する理由がありうるのだ。記代子が死にみいられるのはフシギではない。むしろ当然すぎるといえよう。
 青木は彼女の失踪をきいて、死のほかに考えることができなかった。彼女に不幸の訪れを怖れていたので、最悪の場合を想定せざるを得なかった。
「まだ、生きていてくれ!」
 青木はちょっとした当てをたよりに走りまわった。
「死んでいるなら、死んだ場所へ案内して下さいよ。記代子さん」
 誰の目にもふれない先に、記代子の屍体を埋葬して、同じ場所で死のうと思った。
 礼子に会って、十日あまり毎日一人でバーへ通った話をきくと、ぶちのめされたように思った。やっぱし! 記代子は彼の前ではノンビリしていたが、内心はやりきれなかったのだ! 切なさは、一人じゃ処置がつかないものだ。親しい人には隠して、行きずりの人の合力にすがるのだ。切なさ、というものは、そんなものだ。
「いよいよ、ダメか!」
 青木は落胆して溜息をついた。
「どこで死んでいるのだろう?」
 しかし、礼子の意見はちがっていた。
「生きていますよ。私たちのように平凡な女は、生きることを考えて、悩むものです。あなたのように、力みすぎたり、諦めすぎたりしないのよ。案外ノンビリと、お友だちと水泳にでもいっているのかも知れません」
 青木は、とてもそんな風に思うことができなかった。

       二

 青木は玉川上水に沿うて、さまよった。記代子の宿から、歩いて四十五分ぐらい。死ぬとすれば、まずここを考えるのが自然であった。濁った早い流れを見つめて歩いていると、その下に記代子がいるように思われて仕方がなかった。
「よびかけてくれないかな」
 と、青木は思った。自然林に、おびただしい小鳥が啼いていた。
「あんな風に、よびかけてくれないかな」
 青木は、しかし、自分がどうかしている、と考えた。どうして、玉川上水なんかへ、来たのだろう? 五十の男が人の行方を探すにしては、論理的なところがなさすぎる。まるで女学生のように直感的でセンチである。
「だらしがない!」
 まったくだ。泣きべそかいているじゃないか。ともかく学問を身につけた人間が、論理的なところを皆目失って行動しているようでは、身の終りというものだ。
「死にたいのはオレ自身じゃないのか」
 もしそうだとすると、いよいよセンチで、助からない。彼は苦笑して、歩きだした。
 記代子は、どこにいるか? それを解く鍵が一つある。金曜日に、記代子の姿を見た人を探すことだ。宿をでて電車にのったか、玉川上水の方へ歩いて行ったか、誰かが見ている筈である。しかし、その誰かを探す手段がわからない。
 彼は記代子の宿を訪ねた。はじめての訪問だった。彼の名をきくと、主婦は身をかたくひきしめて、警戒の色をみせた。青木の癇にグッときたので、彼は苦笑して、
「わかっています。歓迎されないお客さんだということは、どこへ行っても、こうなんですよ。で、皆さんのお気持を尊重していたぶんには、出家遁世あるのみですから、時々こうして、歓迎せられざる訪問もしなければならないのですよ。まゝ外交員なみに、ちょッとの辛抱、おねがいしますよ」
 青木はドッコイショとカマチに腰を下して、
「失礼します。これが外交員、イヤ、一般に歓迎せられざる客人の礼義でして、つまり、ここから上へはあがらない、即ち、歓迎せられざる身の程をわきまえています、という自粛自虚の表現なんですな」
 青木は、もっと、ふざけたくなった。
「カバンの中から鉛筆かなんかとりだして、並べたくなるもんですなア。こうして、入り口へ腰かけますとね。昔、やったことがあるような気持になるから、妙なものですよ」
 先方がタニシのように口をあける見込みがないのを見てとって、青木は益々、ふざけた気持になった。
「さて、鉛筆の代りに、とりいだします品物は、ハッハ」
 青木は主婦を見つめた。
「記代子さんは、金曜日に、どんな服装で、でましたか?」
 主婦は意表をつかれた。青木にしてみれば当然な質問だったが、主婦はこれまでに放二から様々の質問をうけて、しかし、この質問はうけなかったからである。
「それを、きいて、どうなさるのです」
 敵意がこもったので、青木は嘲笑で応じた。
「人相書をまわすんですよ。探ね人。家出娘。二十歳」
「大庭さんのお指図で、北川さんが捜査に当っておられます。あなたのことは、なんのお指図もありませんから、お帰り下さい」
 ピシャリと障子をしめてしまった。

       三

 青木は熱海をぶらぶらした。
 記代子は熱海に通じていた。長平が上京のたび熱海に立ち寄る習慣で、迎える記代子や放二らと数日すごしたからである。
 青木は記代子の案内で、いくらか熱海に通じた。観音教の本殿や、来宮神社の大楠や、重箱という鰻屋なども教えてもらった。
 錦ヶ浦へ案内したのも記代子であった。トンネルをでた崖のコンクリートに、ちょッと待て、と書いてあるのも指し示した。
「投身自殺ッて、とてもスポーツの要領でやるもんですッて。ナムアミダブツ、なんてんじゃないそうだわ」
「どんなふうにやるの?」
「たいがい、助走してくるのよ。エイ、エイ、エイッて、掛け声をかけて助走する人も、あるんですッて。茶店で休んでいた人が、とつぜん駈けだして飛びこむこともあるそうよ。走り幅飛の助走路よりも長そうだわ」
「なるほど。岩にぶつかるのがイヤなんだな。ぼくも、ここで死ぬんなら、助走するな。痛い目を見たくないからね」
「痛い目?」
 記代子は不審そうに、
「足が折れたり、顔がつぶれたり、醜い姿になるのがイヤなのよ。助走しない人だって、いるのよ。その人はダイヴィングの要領ですって。こう手をあげて、後にそって、かゞんで、ハズミをつけてダイヴするんですって。私だったら、ダイヴィングでやるなア」
 二人はそんな話をしたことがあった。
 又、記代子がニンシンをうちあけたのも、熱海の宿であった。
 青木は錦ヶ浦の茶店で休んだ。断崖の柵にそうて、若い人たちがむれていた。空も、海も、あかるい。
「あそこで、ダイヴしたのかな」
 しかし、そう考えたり、それを突きとめるために来たわけではなかった。彼は目当てがないのだ。ただ、感傷旅行をたのしんでいるのであった。
 熱海の道々に記代子の匂いがしみているような気がする。そう考えてもいいのだ。なんとなく、センチな気分を追って、漫然と感傷的な旅にひたりたかったのだ。彼の身をとりまいて感じられる見えない敵意の数々から逃げだしたくもあった。
「ここ一週間ぐらいのうちに、誰か投身した人がありましたか」
 彼は茶店の人にきいた。
「投身は下火になりました。今は、アドルムですね」
「なるほど。めったに投身はないのですか」
「いゝえ。下火といっても、かなり、あるんですよ。三四日前にも泳ぎの達者な学生がとびこんで、助かりましたね」
 茶店の前に十名ぐらいの若い男女の団体がむれていた。
「誰か、とびこむ勇士はいないか」
「よし」
 小柄な男が声に応じて群から離れた。彼は肩のリュックを下した。
「諸君。サヨナラ」
 彼は左手をあげて挨拶した。にわかに顔がひきしまって真剣になった。彼は一散に走りだした。
 残された団体は、わけのわからぬどよめきをたてた。断崖の近くで、男は野球のスライディングをやった。そして、スレスレのところで止った。団体は拍手した。
 青木は思わず立ち上って首をのばしていたが、顔は蒼白になっていた。メマイで、クラクラした。
「ひどいイタズラをしやがる」
 しかし、すばらしくキレイな空が目にしみた。

       四

 熱海から戻ってみると、記代子の行方は依然わからなかった。
 もう生きている見込みはない、と青木は思った。生きているなら、ハガキぐらいはくれるだろうと思われた。失踪の日から一週間すぎて、次の金曜日になっていた。
 青木はせつ子によびつけられて、まるで彼が記代子を隠して、ひそかに逢っているかのような不快な疑惑を露骨に浴せかけられた。
 青木は苦笑して否定したが、怒らなかった。そう疑られても仕方がないと思っていたからである。
「しかし、そこまで疑る人の本性というものは、残忍無慙、血も涙も綺麗サッパリないんだなア。見事ですよ」
 青木は皮肉ったが、せつ子は蠅がとまったほども気にとめなかった。
 彼女が耳目をこらしているのは、青木の言葉が真実かどうか、それを見分けるためだけである。
「三日間、どこにいたのですか」
「第一日目は東京に、二日目と三日目は熱海に。そして三日目の夜、つまり昨夜ね。哀れにも悄然と東京へ戻ってきましたよ」
「誰と、ですか」
「二人です。ぼくの影と。ねえ、あなた。影は悲しく生きていますよ。広島のなんとか銀行の石段をごらんなさい。あれは誰の影でもない私の影ですよ。あらゆる悲しい人間の影なんだな。ぼくは原子バクダンを祝福するですよ。なぜなら、も一人の自分を見ることができたから。悲しめる人は、広島で、ありのままの自分を見ることができるですよ。ロダンだって、あんな切ない像を創りやしなかった……」
「熱海の旅館は?」
「実に、見事ですよ、あなたは」
 と、青木はくさりきって、
「そんなことまで一々きく品性もあれば、答える必要をもたない品性もあるですよ。ねえ、あなた。あなたという人は、女ながらも、仕事師としては偉い人です。しかし、あなたの品性は、失礼ながら、戦国時代ですな。人をギロチンにかけるか、あなたがギロチンにかかるか、たぶん、二つながら、あなたのものだ」
 話の途中に、せつ子はベルをおして、秘書をよんだ。
「アレ、とどいてますか。タキシードは?」
「きております」
「持ってきて下さい」
 秘書はカサばった包みをぶらさげてきた。中から、タキシード、シルクハット、靴、その他付属品、ステッキに白い手袋まで一揃い現れた。
「あなた、きてごらんなさい」
 せつ子は青木に命じた。
「なにごとですか。これは?」
「社員は連日宣伝に総動員ですよ。あなたのように、休んで遊んでいる人はおりません。あなたは、明日から三日間、この服装で、都内の盛り場の辻々でビラをくばるのです。ヒゲのある中年紳士は、あなただけですから。デコレーションを施したトラックに、蓄音機と拡声機をつみこんで、お供させます。あなたは、演説がお上手でしたね。立候補なさるのですものね」
 青木は泣きそうな顔をしたが、
「ええ。演説はね。うまいもんですわ。なんなら、シャンソンぐらい、おまけに、唄ってあげまさアね。タキシードも似合うでしょうよ。着てみなくッても分りまさア。紳士はなんでも似合うにきまっているのだから」
 サヨナラも言わないで、立ち去った。

       五

 青木は、たそがれの街を歩いていたが、ふと、キッピイを思いだした。記代子と二度ほど踊りに行ったことがあった。
 尖った顔が、出来の悪い観音様に似て、南洋の娘のような甘ったるい腰つきをしている。なんとなく中年男をそそりたてる杏のような娘である。
「フン。杏娘に拝顔しようや」
 ほかに行き場がなかった。どこにも、親しいものがない。多少、つきあってくれそうなのは、ルミ子ぐらいのものだ。そこは時間が早すぎた。
 目的がきまると、やるせない気持も落付いてくれる。彼は新宿のマーケットで安焼酎をのんだ。一パイ三十円。三杯以上は命の方が、という説もあるから、ギリギリ三杯できりあげる。
 杏娘はあんまり親切じゃないようだ。人ヅキのわるい娘である。しかし、記代子の友だちではあるから、赤の他人よりは身をいれて、失踪の話をきいてくれるだろう。それだけでよかった。
「アクビをかみ殺しているような顔さえしなきゃアたくさんなのさ」
 杏娘の甘ったるい腰をだいて、踊りながら喋りまくっているうちは、太平楽というものである。
 しかし、杏娘はホールにいなかった。一曲ごとにダンサーをかえてキッピイの居場所をきくうちに、十人目ぐらいで突きとめた。
 こんなちょッとの困難に突き当ると、青木の勇気はわき立つのである。キッピイに会ったところで、どうせ、たいしたこともない。むしろ居場所を突きとめるという事業に熱中する方が、気持がまぎれるというものだ。
 踊るうちに、酔いが沸騰していた。
「ここだな。ヤ。こんばんは。お嬢さん」
 めざす店の女給にからみつかれて、青木はキゲンよく挨拶した。
「キッピイさん、いるかい?」
 女は返事をしなかったが、その顔色で居ることを見てとると、それで青木は充分であった。カンの閃きに身をひるがえして応じる時が、彼の人生で最も順調な時間なのである。わずかに一分足らずであるが。彼はそれを心得ていた。わが人生の最良の一分間。
「ヤ。ドッコイショ」
 彼はイスに腰を下して、たちまち彼をとりまいた女たちを一人一人ギンミした。キッピイはいなかった。
「コンバンハ。麗人ぞろいだなア。ビールをいただきましょう。ときに、キッピイさんをよんで下さい。陰ながらお慕い申上げているオトッチャンが、一夜の憐れみを乞いにあがったとお伝えして、ね。イノチぐらい捧げますと、ね。ねては夢、さめてはうつつさ。わかっていただけるだろうね。この気持は。年のことは、言いなさんな」
 他の女の陰から、キッピイがヌッと現れた。彼女は青木を睨みつけた。
「ヤ。キッピイさん。待ってました。そうでしょうとも。分ってましたよ。あんたが笑顔じゃ迎えてくれないだろうということはね」
 キッピイは立ったままだった。
「まア、かけなさいよ。はるばるお慕いして訪ねてきた男を、ジャケンに扱うもんじゃありませんよ。な。笑ってみせてくれよ。一秒でもいいや。ぼくを忘れたかな。大庭記代子嬢のカバン持ちさ。覚えているだろうね」
 キッピイはイスにかけて頬杖をついて、ジロジロ青木を見つめた。
「どうして笑ってみせなきゃいけないのさ」
「難問だね」
 青木はキッピイを観察したが、酔っているようでもなかった。

       六

「言葉が足りなかったんだな。あなたが笑ったら、さぞ可愛いくて、ぼくはうれしい気持だろうと云いたかったのさ。あなたは観音様に似てるんだ。ちょッとリンカクが尖っているのは、職人が南蛮渡来なんだなア。腰の線が、又、そっくり南洋の観音様さ。な。南蛮渡来だって、日本なみに、笑ってくれたっていいだろうね」
 彼はビールをのみほした。そして、益々、好機嫌であった。
「こんなことを言いにきたんじゃなかったんだがな。ま、いいや。何から喋らなきゃいけないという規則があるわけじゃアないんだからな。ねえ。キッピイさん。そうだろう。ぼくはあなたに会えて、うれしいのだ。ぼくは、あなたの頬ッペタを、ちょッと突ッついてみたいね。普通、そんな気持には、ならないもんだね。接吻したいとか、肩をだきよせたいとか、そういう気持になるもんですよ。一般に、女というものに対してはね。ところが、キッピイさんは、ちがうね。ぼくは頬ッペタを突ッつきたいんだ。チベットの女の子は、コンニチハの挨拶にベロをだすそうだね。べつに頬ッペタを突ッつかなくとも出すんだとさ。だけどさ。南洋の観音様は、こッちの方から頬ッペタを突ッついてあげて、コンニチハの挨拶がわりにしたいんだなア。ベロをだせというんじゃないんだぜ。最もインギン、又、愛情こまやかに焚きしめた礼節としてですよ」
 青木はビールをのもうとした。頬杖をついてジロジロ目を光らしていたキッピイが、片手をのばして、青木が口に当てたコップを横に払った。コップは壁に当って、落ちて、割れた。キッピイは睨みつけて、
「じゃア、私の頬ッペタ、突ッついてごらんよ。タダは、帰さないよ」
 青木は酔っていたので、むしろ興にかられた。
「さすがに、あなたは、ぼくの考えた通りの人さ。そのトンチンカンなところがね。ほかの観音様は、みんなツジツマが合ってらア。神秘的というものはタカの知れたものさ。あなたは神秘じゃないんだな。要するに南洋と日本の言語風習の差あるのみ。ねえ。あなた。我々はその差に於て交りを深めましょう」
 青木は腕をつかまれた。そして、ひき起こされた。身ナリのよいアンちゃんであった。
「勘定を払えよ。そして、出ろ。いくらだい。このオトッチャンは」
 二千円であった。青木の蟇口がまぐちには、千八百円と小銭があるだけであった。アンちゃんは千八百円を女に渡した。
「二百円、まけてやってよ。仕方がねえや。おい。出ろ。足りないところは、カンベンしてくれるとよ」
「ヤ、アンちゃん。コンバンハ。しかしお前さんが出ることはなかろうぜ。ねえ、アンちゃんや。ぼくの話し相手はジャカルタの観音様さ」
 アンちゃんは、もはや物を言わなかった。彼の片腕をかかえて、グイグイつれだした。露路をまがると、ちょッとした暗闇の空地があった。男の腕がとけたと思うと、往復ビンタを五ツ六ツくらった。と、顔に一撃をくらッて、意識を失ってしまった。
 気がついたとき、男の代りに、立っていたのはキッピイであった。
「血をふけよ。紙をまるめて、鼻につめこむんだよ。鼻血の始末もできないくせに、この土地で大きな口をきくんじゃないよ」
 空地の隅の水道で、手と顔を洗わせた。
「利巧ぶるんじゃないよ。大バカでなきゃ、こんな目にあいやしないんだから」
 廻り道して大通りの近くまで一しょにきて、キッピイはさッさと戻って行った。


     五人目の人


       一

 放二は午ごろキッピイの自宅を訪ねた。これで四度目であった。キッピイはどこかへ泊りこんで、三日、家へ戻らなかったのである。
 四度目に、キッピイはいた。
 彼女は放二の根気にあきらめたようであった。
「あなた、何回でも、来るつもりなのね」
「ええ。お目にかかって、お話をうけたまわるまでは、何回でも」
 キッピイは有り合せの下駄をつッかけると、放二をうながして、外へでた。人通りのすくない道へ歩きこんでから、
「あなたはどういう人なのよ。記代子さんの何よ。ハッキリ言って」
「同じ社の同じ部に机をならべている同僚です」
「それから?」
「同じ仕事をしています」
「それから?」
「それだけです。そして、社長の命令で、記代子さんの行方を捜しているのです」
 放二は思った。こういう女には、洗いざらい言ってしまう方がいいのだ、と。キッピイは何かを打ちあけてもいいらしい気持になっているようだ。彼が隠しだてをしなければ、たぶん、打ちあけてくれるだろう。キッピイの関心は、彼と記代子との恋愛関係にあるようであった。
「あなたは、記代子さんがニンシンしていらッしゃることを御存じでしょうね」
 キッピイはうなずいた。
「記代子さんの恋人は、青木さんと仰有る年配の方です。ぼくとあの方とは、お友だち以外の関係はありません。ただ、ぼくが大庭長平先生の掛りですから、仕事の上で、特別密接な関係にあるというだけです」
「あなた方は、以前はフィアンセだったのでしょう」
 キッピイの目は険しかった。嘘をとがめているのである。
「ちがいます。ぼくには、女の方を幸福にする資格がないのです」
 放二は、ザックバランにうちあけた。
「ぼくは胸が悪いのです。元々悪かったのですが、この夏以来、特別にいけないのです。ぼくの予感が正しければ、記代子さんの行方を突きとめるまで倒れないのが精一ぱいです。人なみの生活を考えないことにしているのです」
 キッピイは放二をジロジロ見廻した。放二は疲れきっている。目のまわりに青い隈がしみついている。しかしキッピイは同情した様子もなかった。
「私は、なにも知らないわ」
 キッピイはすてるように呟いた。
「ですが、五人目の女の方を御存じではないのですか」
「五人目の女?」
「ええ。先日、そう仰有ったと覚えているのですが」
「五人目か」
 キッピイはつまらなそうに呟いて、やがて、早口につけくわえた。
「五人目の人は知っています。だけど、言うわけには、いかないわ。言うことが、できないの。これだけのことを教えてあげるのだって、一分前まで、考えていなかったことなのよ。あとは勝手に捜しなさいよ。どこかに、いるでしょうよ。なくならないものらしいから。もう、会いに来ても、ダメ。さよなら。肺病さん。だけど、五人目は女じゃないかも知れないわ」
 キッピイは走り去った。

       二

 放二が社へでてみると、穂積が汗をふきふき外出から戻ってきた。
「ゆうべ青木さんが新宿で愚連隊にやられたのさ。記代子さんの友だちの喫茶店でインネンをつけられたんだそうだね。欠勤届を持たせてよこしてね。皮肉な先生さ。タキシードにシルクハットの晴れの日にあいにく美貌に傷をつけまして相すみません。アハハ。あの人は、めぐりあわせまで皮肉に回転するらしいや。しかし、ひどいぜ。鬼瓦みたいな顔さ。喋るのも不自由なのさ。見舞いに行って、気の毒したよ」
「どんなことでインネンつけられたのですか」
「わけがわからんそうだがね。とにかく一撃のもとにノビたんで、かえって良かったんだそうだ。悪酒の酔いは、ノビたぐらいじゃ醒めないそうだぜ」
 放二の頭には、キッピイの謎の言葉がからみついていた。青木のなぐられたのはキッピイの店らしいが、彼女はそれを言わなかった。言う必要がないことも確かであるが。
 しかし、キッピイに会う前に、そのことを知っていたら、と、放二は残念がった。五人目の人物の多少の手掛りにはなったであろう。放二は、ダンスホールでキッピイの居場所をきいたとき、切符売りの女が彼に云った忠告も忘れていなかった。キッピイには悪いヒモがついているらしい。ヒモと五人目の人物は、たぶんツナガリがあるようである。
 放二はせつ子に報告した。
「とにかく、生きておられることだけは確実のようです」
 たったそれだけであるが、最初で、全部の聞きこみであった。とにかく、はじめて足跡らしいものを突きとめたのだが、そこでとぎれで、あとがない。
 しかし、せつ子はよろこんだ。
「きっと突きとめて下さると信じていたわ。私の信じた通りです。こんなうれしいこと、ないわ。あと一歩です」
 放二は、こまりきって、
「このさきが雲をつかむようなんです」
「いゝえ。ハッキリしています」
「誰でしょうか。五人目の男は?」
「それは問題ではないのです。キッピイが知っています。男の名ではありませんよ。記代子さんの居場所を。あなたはそれを突きとめればよろしいのです。五人目の男のことは、どうだって、かまいません」
 理窟はそうにちがいなかった。たしかにキッピイは知っている。放二にはいろ/\のことが考えられた。記代子には青木のほかにも男の友だちがあったのかも知れない。あるいは青木は社内でだけの恋人で、本当の恋人は五人目の男かも知れなかった。青木がなぐられたのは、そのせいかも知れないし、キッピイが、放二と記代子との関係を気にしていたのも、彼女がヒントを与えたのは二人の関係がなんでもないと分ってからであったのも、それを裏書きしているように思われた。
 しかし、キッピイの口からは、もうあれ以上きくことができないだろうと放二は思った。一筋縄ではいかないらしいが、とにかく、やってみるだけだ。
 彼は、せつ子が自分に与えた忠告を、そっくり、せつ子に返しておくのが何よりだと思った。せつ子は何も知らない方がいいのだ。記代子の過去も、現在も。青木にも知らせない方がいいのだ。彼ひとり突きとめて、自分の胸に隠しておけばすむことだ。

       三

 放二は早版の夕刊新聞を買いこんで、電車にのった。一般の退社時刻には早すぎる時間であった。キッピイのところへ立ち寄って、思いきって訊いてみようかと思案したが、新宿の喫茶街の開店時刻には間があるし、キッピイの自宅へ行けば、行き違いになる時刻であった。
 キッピイが五人目の名を言うことができないのは、なぜだろう? 人生の裏街では、どんなことでも有りうるのだ。どんな考えられないことでも、それが実在するときには、なんでもない顔をしているのだ。そして、全てが在りうるのである。
 青木のほかにも記代子の恋人がいたかも知れぬ、ということも、放二にとっては、なんでもなく実在しうることであった。それは記代子の値打に関することではなかった。人間が元々そういうものなのだ。しかし、同時に、万人がいたましくもあり、高くもあるのだ。
 夕刊を読んでいると、映画欄の下段に、キッピイの店の広告がでていた。麗人を求む、とある。記代子が酒場で働く意志があるとすれば、あの店はよろこんで使うだろう。しかし、あの店にいないにしても、他の店にもいない理由にはならない。礼子の観察によれば、記代子は女給の生態が、つまらなくなかった、おもしろかった、というのである。
 放二の部屋には、ルミ子や八重子や数人の女たちが、生菓子と果物をたべていた。ほかの女たちはシュミーズひとつであったが、ルミ子は服をつけていた。いつもルミ子はそうであった。
「記代子さんて方の屍体、まだ、あがらないんですか」
 八重子が放二にきいた。
「え? 記代子さんが自殺したんですか」
 放二はおどろいて訊きかえしたが、彼女らが記代子のことを知るわけがないことに気がついた。今よんできた新聞にも、そんな記事はでていなかったはずである。
「誰かそんなことを言った人があるんですか」
 八重子は笑った。
「青木さんがルミちゃんちへ遊びにきて、今しがた帰ったばかしなんです。ゆうべ新宿でブンなぐられたんですッて。三十分ぐらいルミちゃんに泣き言いって、千円くれてッたんですって。そのお金で、目下、宴会中」
 ルミ子は何も言わなかった。
 放二は穂積の話を思いだして、意外であった。
「青木さんの顔の怪我はひどいようにきいたけど。話もよくできないぐらい」
「ええ。腐爛した水屍体のデスマスクに似ていたわ」
 ルミ子は珍らしくもなさそうな顔だった。
「痛さをこらえれば、話すこともできるの。ポロポロ泣きながら。それを見せにきたんです。腐った顔と、泣きながらしぼりだす声とを、ね」
「そのくせ、私には見せないのよ。出て行け、なんて。キザなんだ、あのジジイ」
 八重子は吐きすてるように、
「やること、なすこと、ニヤケているのよ。ツバひッかけてやりたいよ。だけど、ルミちゃんには、いいお客さ。腐った顔と泣き声みせて、千円くれて帰るんだもの。キザなジジイに好かれてみたいや」
 ルミ子は水蜜の皮をむきながら放二にたずねた。
「大庭先生の姪ですッてね。その方、自殺じゃないんですか」

       四

 放二は捜査のあらましを女たちに語ってきかせた。
 ルミ子はきき終って、
「キッピイさん、もちろん、みんな知ってるのね。そして、何か、深い理由があるんだわ。キッピイさんに、会ってみたいな」
 そしてルミ子は夕刊をとりあげて、放二の示したキッピイの店の広告を眺めていたが、
「私、この店の女給になってみましょうか。二三日いるうちに、秘密をききだすことができるでしょう」
 とんでもないことを言いだしたのに気がついて、ルミ子は苦笑した。
「ちょッとしたスリルか。なにか、イタズラがしてみたいのさ」
「気どってやがら」
 八重子がやりかえした。ルミ子の言葉に意外に反感をいだいた様子である。
 ルミ子は苦笑して、
「フン。ヒステリイ」
「チェッ。しょッてやがら、あんたは、美人だよ。麗人でございますよ。美人女給にお似合いですよ。この町内へ二度と戻ってきなさんな」
「どうも相すみません。パンパンアパートの姐御さま」
「よしやがれ。パンパンでわるかったわね」
 八重子がなぜ腹をたてたか、ルミ子には一から十まで分っていた。何よりも嫉妬であった。誰が放二を恋しているというわけではないのだ。ゴミ屑のような生活のなかで、美しい恋なんてものは、ありやしない。しかし、又、あるといえば、生活の全部が恋だけなのかも知れなかった。
 ルミ子は自分の心を考えてみた。彼女は放二を恋してはいなかったが、世界で一番放二の偉さを知っている者があるとすれば、それは自分だろうと思った。彼女は放二に自分の魂をゆるしていたが、放二も彼女のためにその魂をゆるしていると信じることができるのだ。この上の何物をもとめることもないではないか。放二はそういう人なのだ。己れの魂を彼にゆるす者は、彼の魂を己れにもゆるされていることを見ることができるのである。
 キッピイの店へ女給にでて秘密をききだしてあげたいというのは、深い動機からではない。八重子はそれを恋のせいであるかのように腹を立てゝいるけれども、そう思われるものがもしも自分にあるとすれば、それは自分の大きな罪だと言わなければならなかった。
 放二を恋するというようなことが、他の人々への義理からではなく、自分の正しい生き方として、許さるべきことではないのだ。放二の偉大な魂を知りつつあることの満足よりも大きなものが有り得べきではないのだから。
 彼女は人々に、恋のせいだと見られたことが羞しかったし、放二にはすまないことだと意外に深く気に病んだ。
「なんだか差出がましくッて、私だって、キザッぽくッて気がひけるのよ。あんまり羞しがらせないでね。でも、私が女給にすみこめば、秘密をききだすこともできるし、そうでもしなければ、キッピイさんはタニシみたいに口をつぐんでいるだけだ。兄さんのために何かしてあげたいというんじゃないわ。私には出来ることらしいから、その義務を果すのさ。そして、それが私には面白そうに見えるからのことさ。私が、そうしちゃ、いけないの?」
 ルミ子は珍しくムキになっていた。そして、ふいに、涙ぐんだ。

       五

 その晩から、ルミ子はキッピイの店で働いていた。
 この店の主人夫婦は、この商売の主人にしては、ちょッと柄が変っていた。男の方は五十がらみの年配であるが、昔は手堅い会社かなにかに実直な事務をとっていたような、グズで気のきかないノンダクレという感じである。女はわりに若くて三十三四と見うけられるが、いくらかこんな商売をしていたように思われる程度のおとなしそうな女であった。ルミ子を雇い入れるとき、男主人がなんとなく真剣な顔付で、
「このへんの流儀で、ヒッパリをやらなきゃ競争ができないから、ぼくとしちゃアしたかアないが、身を入れてつとめて下さい。あなたに客がついて繁昌してくれるなら、それに応じるだけのことはします」
 命令らしいことを言ったのは、それだけだった。真剣のようで、なげやりであった。来たばッかりの女に、何を言ったって仕様がない。気にいらなきゃア、その日のうちによその店へ行っちまうのがこの商売の女だから、身を入れて話をするのは居ついてからの相談だというような悟りきった様子である。悟り方が諦め的で、なんとなく哀れに見えた。
 ほかに男はいなかった。
 お客は幾組もきやしない。お客のもとめに応じて、二階の小部屋で遊ぶことができるようになっていた。なんだ、そんなのか、とルミ子は思ったが、表向きがそうでないだけバカバカしくて、奥へ消えたカップルが妙な顔付で再び現れてくると、笑いたくなるのであった。
 ルミ子はお客にさそわれたが、
「はじめてだから、ダメ」
「はじめてだって、ここはそういうウチじゃないか。はずかしがることはないぜ」
「あんたに会うのが、はじめてだから、ダメなのさ」
 再び戻ってくるという仕掛が妙であった。女の中でも利のきいた子は、ここで遊ぶことには応じなかった。
 ルミ子の様子がまだ子供っぽくて可愛いのに、おめずおくせず悠々としているから、女たちは興味をもつものも、好意を示すものもいた。無関心なのはキッピイ一人であったが、彼女は他の誰に対しても、友情を示さなかった。そして一同から腫れ物にさわるような扱いをうけていた。
 ルミ子はキッピイの人物にはなはだしく愛想をつかしてしまった。女の中で一番くだらぬタイプである。自分を一段偉い女だと思っているらしい。このへんで睨みのきくアンチャンがついているせいだ。お客に対しても傲慢だった。それもアンチャンのせいだ。
「ルミ子!」
 とつぜんキッピイがよびつけた。店にお客がいなくなった時である。はなれたテーブルにいたルミ子は、アクビでもするように、
「なアにい?」
「ルミ子」
 ここへ来い、という命令の意味はわかっていたが、ルミ子は顔だけうごかして、
「なんの用?」
 キッピイがズカズカ歩いてきた。ルミ子は有がたくない御来意をさとって身をひこうとしたが、戦闘訓練には全然なれていなかったから、身をひくことを考えてだけいるうちに、十か十五、つづけざまにひッぱたかれた。ルミ子は腕力に自信がないから、腹も立たないタチで、痛さをのぞけば、蠅がとまったぐらいにしか考えていなかった。

       六

 ルミ子がボンヤリしていると、もう七ツ八ツ、おまけにひっぱたかれた。
 ほかの女なら、口惜しまぎれに何とか言いたくなるところだが、ルミ子は睨みつけもしなかった。手応えがなさすぎるせいか、又、三ツ四ツ、おまけをもらった。
 キッピイは凄んだタンカで睨みをきかせるヒマがなく、ひっぱたくだけひっぱたいて、手が痛くなってしまった。
 ルミ子がコック場で顔をなおして戻ってくると、キッピイは帰り仕度して出てしまったあとだった。
「ポン中よ」
 一人が教えてくれた。ヒロポンの話はきいていたが、ルミ子の周囲には愛用者がいなかったので、ポン中毒の正体がのみこめなかった。
「それで、凶暴なの?」
「そうでもないよ。根がヤキモチヤキなのよ。ルミちゃんが可愛いい顔してるから、癪にさわるのよ」
 その言葉が気に入らなかったと見えて、ちょッと可愛い大柄な女が訂正した。
「エンゼルに女ができたから、ヒステリーなのさ。その女ッてのが、キッピイの学校友だちじゃないの。ここへ遊びにきたじゃないの。あの子さ。あんときエンゼルが来ていたでしょう。女をつれてッて、そのまま同棲してるんだってさ」
 簡単に秘密がほぐれてきたが、ルミ子は驚きもしなかった。ただ、エンゼル(天使)という、女らしい名が妙であった。
「エンゼルッて、女性?」
「男も男、凄いのさ。今日は来なかったけど時々くるよ」
 一人のわりに年配なのが、不快そうに口をはさんだ。
「エンゼルがあの子と同棲するのは、キッピイも承知だったのよ。むしろ、キッピイがすすめたのさ。キッピイは、悪党よ。ねえ。あんたも、あのとき、話きいてたわね」
 話しかけられた子は、軽くうなずいたが、答えなかった。年配の女は語りつづけた。
「キッピイはテルミに負けない気なの。そして、エンゼルに気に入られようとしているのよ。だけど、問題になりゃしない。顔だって、貫禄だって、キッピイにいいとこ有りゃしないよ。エンゼルがテルミを可愛がるのは、当り前さ。キッピイはエンゼルにとりいるために、あの子を世話しちゃったのよ」
 そして、不快そうに、つけ加えた。
「世話しちゃってから、ヤキモチやいてるのさ」
「惚れてる男に、女を世話するって、そんなの、あるかしら」
 一人がフシギそうであった。ひとしきり、それで議論がわいたが、言うだけ言わせておいて、年配の女はこう結論した。
「あの娘はね。良家の娘なんだってさ。お金持ちの娘らしいのよ。そして、ニンシンして家出中かなんかだって。それで、子供を生ませて、養育料かなんか、ゆすらせようッてことなの。それがキッピイの発案なのよ。だから、キッピイのツモリじゃア、女の世話じゃなくッて、もうけ口の世話のツモリだったんでしょうね。とにかく悪党よ。いいとこ、一つもない奴ねえ」
 ルミ子はキッピイやエンゼルの悪党ぶりには驚かなかった。そんな奴は、どこかにタクサンいるものだ。わけが分らないのは、記代子という娘であった。ポッと出の田舎娘じゃあるまいし、その馬鹿ッぷりに見当がつけかねるのだ。

       七

 人間はいつも何かにためされているような気がするとルミ子は思った。
 放二のような稀有な人が、せつ子だの記代子のような女とばかり交渉をもつということがその証しだが、人間万事、そんなものでもあるらしい。
 両々その処をうるというのは愚人の夢か諦めである。不均衡、不安定、ガサツなのが人間関係の定めであろう。それに対処することによって、いつも何かにためされているのが人間だ。
 利巧だけがためされているわけではない。バカはバカなりにためされている。自分の位置や身の程を知らないから、バカは得だという理窟もない。記代子のような女を相手にさせられて放二が損してるわけでもなくて、ただ、ためしに応じて生きるのが人間の定めのように思われた。
 そして、尊大なせつ子や、バカな記代子のお相手をさせられるのは、放二が稀有な人だから、ためしが大きいのだろうとルミ子は思った。
 ルミ子は、ともかく、自分の義務を果したことで満足した。意外にも早く、一夜のうちに。それというのも、キッピイにぶんなぐられたせいである。それがキッカケでもあったし、又、ぶんなぐられたルミ子である故、彼女がキッピイに興味をもったり、こまかく質問することを人々は怪しまなかった。
 ルミ子はおそくアパートへ戻って、放二に報告した。
「エンゼルの住所は、女給さんたち、知らなかったわ。知らないのが当然だから、一々きいてもみなかったけど」
 放二は驚きもしなかった。キッピイの様子から相当ケンノンな事情が想像されたからである。エンゼルが記代子のかねてからの愛人でなかったことが多少意外であっただけだ。
 しかし、キッピイが根からの悪党だとも思われない。エンゼルが街のダニであるにしても、それだけが彼の全部ではないはずだ。キッピイがエンゼルにとりいるために級友を売ったにしても、人間というものは多かれ少かれ人を売っているものだ。人間には、めいめいに、やむにやまれぬ悲しい立場があるのだから。
「どうしたら、エンゼルの住所がつきとめられるんだろうね」
 カズ子が分別ぶって言った。ヤエ子は大根足の股をひろげて投げだして、ひっくりかえって、ウチワで胸をバタバタやりながら、
「ルミちゃん、ジュクでパンパンやるのさ。エンゼルの子分が遊びにくらア。そのうちに、なんとかなるよ」
「フン。それぐらいのことだったら、あんたで間に合うよ。やってきな」
 カズ子にこう言われて、ヤエ子はプッとふきだした。
「まったくだ。エンゼルの子分と遊ぶぐらいだったらね。チェッ! つまらねえとこで、間に合いやがら」
 エンゼルの住所を探すということは必ずしも彼の仕事の領分ではない。エンゼルのもとに居ると分れば、せつ子や長平や、又は、警察が探しだしてくれるだろう。
 しかし、放二は、そうしたくなかった。記代子の過去も現在も、誰にも知らせたくなかったのである。
 どうしても、彼自身の手で、記代子を元の位置へ置き戻さなければ、と、思った。
 しかし、そのとき、ルミ子がこう言った。
「記代子さんを探しだしてあげるのが、その方に親切なことでしょうか?」
 ルミ子は思い惑っていた。

       八

「エンゼルに手下が多いたって、監禁してやしないでしょう。監禁されているにしても、逃げられないことないはずだわ。ポッとでの田舎娘じゃないもの。都会のオフィスで働く女性だものね」
 ルミ子は表現の言葉を選ぶのに苦しんだ。
 記代子をバカな女だと思うけれども、自分や自分の周囲の女と同じようにバカなだけだ。彼女らがこんな暮しをしているのも、バカのせい。それを悔いてもいないし、世間体よく暮す人を羨んでもいないが、記代子をハッキリとパンパンなみだと言いきって、寝ざめが良くもない。
「その気持があれば逃げだせるのに、逃げないとしたら。……世間で思うのと、当人が思うのと、ちがうんじゃないかなア。泥沼から助けられて、迷惑する人もいないかなア。泥沼なんて、心境の問題だ。お金をウントコサもって鬼のように生きている人もいるし、働くよりも乞食がいいという人もいるし」
「男を死なせて、増長してるパンパンもいるし」
「奥さんになりたいパンパンもいるしね」
「フン」
 ヤエ子は半身を起して、ルミ子を睨みつけた。
「余計なお世話だよ。利いたふうなことを言いなさんな。今さら、弱音をはこうッてのかい。きッと見つけてきますッて、大きなタンカをきったのは、どこのドイツさ。探しておいでよ、エンゼルのウチをさ。色仕掛でも、腕ッ節でも、キッピイにかなわないというんだろう。チェッ! ハッキリ言えよ。さもなきゃ、エンゼルのウチをつきとめてきやがれ」
 ルミ子はニヤリと笑って、
「すみませんね。色仕掛でも、腕ッ節でも、とてもキッピイにかなわないのよ。助けてちょうだい。姐さん。ワアーン」
 掌に顔をおおい膝にうつぶして泣きマネをした。
「えイ。コイツ」
 ヤエ子はルミ子の髪の毛へ指を突ッこんでゴシャ/\やったが、あきらめて、ゴロンとひッくりかえった。
 ルミ子の言葉にも一理はあった。人間はどこで何をしている方が幸福だという定まった場所があるわけではない。同じ場所にいて幸福な人も、そうでない人も、無限の個人差があるだけのものだ。
 しかし、記代子が逃げだしてこないから、というだけの理由で、場所の適合性を信じるわけにはいかない。エンゼルの住居をつきとめて、記代子に会うことが何よりの急務であろう。
「ルミちゃん、ありがとう。おかげで、記代子さんの行方が知れて、ひと安心しました。エンゼルの住居をつきとめるのは、男の方が適していますね。女だけがエンゼルの手下と仲良くなれるわけじゃないから」
 放二は笑った。なんでもないことだ。今までの雲をつかむような捜査のマヌケさ加減にくらべれば。ホシはハッキリしたのだから。気がかりなのは、いつまで持つか分らない健康だけだが、愚連隊の一撃を避けることができれば、記代子と会うまで持たせる見込みはあるだろう。
「そう」
 ルミ子はなんでもない風にうなずいた。しかし心中では、明日中には是が非でも自分がつきとめなければ、と思った。放二を捜しにやることが気がかりでたまらなかったからである。

       九

 放二は新宿の街に出ている靴ミガキの中から、知り合いのジイサンをさがしだした。このジイサンは放二の付近から通っているらしく、例のオデン屋で時々一しょになる仲間であった。
「私ゃ愚連隊のことは知らないが、仲間にきいてみたら分るでしょう。なんてましたッけ? エンゼル。へ。ちょッと、お待ちなさい」
 ジイサンは靴ミガキ仲間のいかにもアンチャンらしいのとヒソヒソ話し合っていたが、やがて、雑沓の中へ消えてしまった。
 四五人分も靴をみがけるぐらいの時間をかけて汗をふきふき戻ってきた。
「ヘエ。これなんです」
 なんでもないように渡された紙片に、二ツの所番地と、野中幸吉という姓名が記されていた。
「この野中がエンゼルの本名なんです。百万円もかけて普請した立派なウチに住んでるそうですぜ。千坪からの花園をもってるそうでさア。花束を卸してるんだそうですなア。商魂抜群のアンチャンだそうで」
 甚だ意外な話であった。
「それじゃア、愚連隊どころか、立派な商人じゃありませんか」
「私だって、そう思いましたよ。きいてみると、そうでもないねえ。屋敷や花園の敷地だって、焼跡を勝手に拝借したもの、花売りだって因業な商売してるんだそうです。商魂があって、金ができるし、隆々と、いい顔だそうですよ」
 ジイサンは他の所番地を示した。そこはアパートであった。
「このアパートがね。新築するまで住んでたとこで、今でもここにいくつか部屋を持ってるンだそうですがね」
 住所はいたって簡単にわかってしまった。百万もかけて新築して、千坪からの花園をつくって商売しているからには、世を忍ぶ必要はないのだろう。
 放二はジイサンにムリにお金をにぎらせて別れた。記代子の居るのはアパートだろうと思ったが、先ず本宅へ伺うのが礼義であるから、そう遠くないお屋敷町の焼跡へでかけた。
 誰の屋敷跡だか、二千坪ぐらいの焼跡をそっくり拝借したものらしい。表側だけコンクリートの塀が焼け残っているが、三方には二間ぐらいの厚板の高塀をめぐらしている。木材だけでも相当の金がかかったであろう。しかし、そのほかには、家をのぞいて、金のかかったものがない。一本の樹木もなかった。裏は一面の花園らしい。門をはいると、隅の方で犬が吠えた。見ると、吠えている一匹のほかに、シェパードが二匹、雑種の猛犬らしいのが一匹、こっちを睨んでいた。家は花園の片隅に、小さな一隅を占めているにすぎなかった。二階屋の七八間ぐらいの小ザッパリした普請であった。
 取次にでたのは、若いアンチャンであった。そんなのが、幾人もゴロゴロしているようであった。
 放二はいっさい隠さなかった。名刺を渡して、
「大庭先生と社長の言いつけで、大庭記代子とおッしゃる方を探している者ですが、当家にかくまっていただいてるとききましたので、お目にかからせていただきに上りました。御主人にお目にかかって、くわしい事情を申上げたく存じますが、野中さんは御在宅でしょうか」
 アンチャンは黙ってスッとひッこんだ。

       十

 別のアンチャンがでてきたが、返事にきたのかと思うと、下駄を突っかけて、放二をすりぬけて、門に鍵をかけに行った。戻ってきて、凄い笑いをチラリと見せて、
「いつも、こうして鍵をかけておくんだけど、今日はどうしたことか、あんたが迷いこんできたから、泡をくったのさ」
 そう言いすてて姿を消した。それから、実に卅分間ぐらい、音沙汰がなかった。
 記代子が現にここに居たのを移動させているのだろうか、と放二は想像をめぐらした。あるいは放二を料理するための準備中かも知れない。そして、こんな場合に彼が蒙りそうないろんな料理のされ方を考えて、ジタバタしてもはじまらないから、とにかく身にふりかかる宿命をそっくりうけることにしようと心を決めた。身にふりかかる危険を払いおとす器用な才覚もなければ、鵞鳥の半分ぐらいの早さで逃げる体力もなかった。
 三人のアンチャンが彼の目の前を素通りした。隣室でガタガタ何かやっていたが、また、素通りして姿を消した。彼が返事をうけたのは、ようやく、その後であった。
 彼は、さっき四人がガタガタやった隣室へ招じられた。大きな丸テーブルに四ツの肱掛イスという応接間だが、造りは和風で、格子戸がはまっている。
「ちょッと、待って、チョーダイナア」
 アンチャンは変テコな女の声色で、目の玉をギロリとむいて笑いながらひッこんだ。
 入れ代って、無造作に現れたのは、色のまッしろな好男子である。ギリシャ型の鼻筋が通り、目は深く、すんでいる。水もしたたるような、西洋型の明るい美貌で、どこにも凄味というものがない。ただ肩幅ひろく、胸は厚く張り、腕は逞しく隆々としていた。年は二十四五であろう。
「ぼくが野中です。どうぞ、お楽に」
 と、気楽に言ってイスにかけたが、その顔は明るい。青木のなぐられたのも好男子の愚連隊だというが、この男たは、そんなことをしそうな風が見うけられなかった。
「あなたは、どこの戦地へいらしたのですか」
 エンゼルは、卓上のタバコをとって火をつけて、そんなことから話しはじめた。
「ぼくは病弱ですから、兵隊にとられなかったのです」
「ぼくは四国にいたのですが、隊長の命令で、花キチガイのオジイサンのところへ調査に行ったことがありました。このジイサンはお花畑の一部分をどうしても野菜畑にしないのです。二段歩ぐらいでしたが、当時二段の畑と言えば、財宝ですよ。土地で大問題となっていたんですが、ジイサン、頑固でどうしても承知しないんです。そのうちに、お花畑の赤い色が敵機を誘導する目標だ、スパイだという密告です。すてておけませんからぼくが調査に行ったんですが、場合によっては、花をひっこぬいて掘りかえしてしまえ、というような命令だったんです。ところがキチガイジイサンのお説教をくらいましてね。コンコンと一時間、アベコベですよ。花にうちこむ愛情は至高なものです。そこで、ぼくは隊長に復命しましたよ。ジイサンがあんまり頑固だから不満の住民からスパイの噂がでただけで、ジイサンの花に対する無垢の愛情は、天を感動せしむるものあり、とですね。あのお花畑はカンベンしてやって下さい、とたのんでやったんです。終戦後、このジイサンに十日間ほどもてなされて、花つくりの要領を教えてもらいました」
 エンゼルの話しッぷりには、なんの下心もないようだった。

       十一

 放二は自分からきりだした。
「なんの紹介もなしに、とつぜんあがりましたのに、お会いさせていただけて、ありがたく存じております。ぼくと同じ社で、同じ部に勤めていらッしゃる大庭記代子さんという方が、先週の金曜以来、行方不明なのです。この方は大庭長平先生の姪で、ぼくは社で先生の係りですから、大庭先生と社長から、記代子さんの行方を捜すようにと命令をうけたのです。記代子さんは大庭先生のお友だちで、青木とおッしゃる方と恋仲で、ニンシンしていらしたそうです。青木さんは大庭先生と同年配のお年寄のことですし、それまでに、ちょッとした行きがかりがありまして、先生も社長もこの恋愛には御賛成でなかったようです。で、煩悶されたようですが、会社での態度は明朗で、家出後に、社外の方からお話をうけたまわるまでは、我々一同不覚にも記代子さんの御心中を察することができなかったのです。自殺の怖れもありますが、世間に知れて記代子さんに傷のつかぬようにとの社長の配慮で、密々にぼくが捜査を一任されたのでした。方々をききまわるうちに、記代子さんが、こちらのお世話を受けているらしい、という噂をきいたのです。このことは、大庭先生にも社長にも、まだ申上げておりません。ぼくの一存で、真疑をたしかめに伺ったのですが、記代子さんについて御心当りがありましたら、教えていただきたいのです」
 エンゼルはちょッと間をもたせたが、いとも簡単に答えた。
「ええ、よく知っております」
 彼は無邪気な笑顔を見せた。
「しかし、このように御返事すべきか、どうか。まだその時期ではないんじゃないか、ということで、あなたを大そうお待たせしましたが、ぼくたちは相談していたのですよ」
「記代予さんは二階にいらッしゃるんですか」
「そうです。そして、この家の主婦ですよ。野中の妻、記代子なんです。ぼくたちは、愛し合っています。ぼくが花を愛すように、記代子も花を愛します。しかし、ぼくたち同志は、花以上に愛しあっているのです。四国のジイサンに面目ない話ですが」
 そして、エンゼルは高笑いした。
 放二はうなずいた。
「そうなることに、フシギはありません。記代子さんは、御元気でしょうか」
「むろん、大変、元気です。そして、毎日、好キゲンですよ。もっとも、あなたの来訪で、ちょッと憂鬱でしたがね。実は、二三日中に、お腹の子をおろすはずです。記代子は、ぼくの子が生みたいのです。そして、ぼくも、記代子とぼくの子が欲しいのです」
 キッピイがエンゼルにすすめたという企みの話を思いだして、放二はちょッと警戒したが、エンゼルの顔色から何も読みだすことができなかった。
 顔だちから、人を判断することはできないものだ。澄んだ目や、無邪気な明るい顔から、額面通りの素行をうけとるのは考えものである。どんな人間も根は同じものだ。自分も人も変りがないというのが放二の考え方である。世の中に悪党はいないし、みんな悪党でもある。そして、放二は、人間の裏の心を考えずに、表に見せているものを信用すればタクサンだと思うようにしていた。どんなに裏切られてもかまわない。警戒しても、裏切られるものである。
「命令をうけておりますので、記代子さんに会わせていただけませんか」
 こう、たのむと、
「ええ。彼女の返事をきいてきます」
 エンゼルはあっさり立去った。

       十二

 エンゼルは記代子をつれて現れた。
 記代子の顔は晴れていた。一礼して、
「いらッしゃいませ」
 と言ったが、それは主婦が来客に対する態度であり、言葉であった。
「ごらんの通りですよ。どうぞ御安心下さいと叔父さんや社長におつたえ下さい。記代子はぼくに同席してくれと言いますが、ぼくは遠慮しますよ。どうぞ、御二人で腹蔵なく話し合って下さい」
 そして、記代子に、
「話がすんだら、知らせてね」
 と、やさしく言いかけて、姿を消した。
 エンゼルが去ると、記代子の態度は硬化した。
「私、幸福よ」
 まるで宣言であった。
「ハア。ぼくも、野中さんからのお話で、だいたい、そのように思っていました」
 放二はやわらかく受けて、
「ですが、先生も社長も御心配ですから、一度、戻っていただけませんか」
 記代子は苦笑した。
「誰も私のことなんか心配してやしないわ」
 放二はうなずいて、
「そうお思いになるのも当然です。利己的な場合のほかに、本当に心配している関係は、有りえないかと思います」
「野中はエンジェルと言うのよ。そして、私の本当のエンジェルだわ。本当に私を心配してくれるのはあの人だけ」
「そうです。恋愛は利己的ですから。そして、青木さんも本当に心配しています」
 記代子は苦笑した。
「あなた、私の居場所つきとめて、どうするツモリなの?」
「いちど戻ってきて、先生や社長に会っていただきたいのです。ぼくの報告だけでは、納得して下さらないでしょうから。そのとき、御意志に反するようなことは決していたしません。もしも先生方がそのような処置をおとりの際には、ぼくが責任をもって、あなたの意志をまもります」
 記代子は軽蔑しきって、白い目をした。
「責任をとるッて、どんなこと? できもしないこと、おッしゃるわね。あなたは何も実行したことないじゃないの。あなたは人をだますのが商売でしょう」
「ぼくの誠意が足らなかったのです。努力も足らなかったと思います。ですが、今度は、約束を裏切るようなことは致しません。ここへ戻りたいと仰有るのに、先生方が戻さないと仰有ったら、命に賭けて、おつれ戻しいたします」
「命に賭けて、なんて、そんなに安ッぽく、生意気なことを言うから、人格ゼロなのよ。エンジェルは若い人がそんな軽薄なことを云うと、怒るわ。できもしないこと、言うな、ッて。千万人の若者が戦地で苦労してるとき、たった一人、戦争もできなかったあなたは、そのことだけでも人間失格よ。口はばったいこと、言えない義理よ」
 記代子の言葉にこもっているのはエンゼル家の思想であった。それは記代子がエンゼル家に同化しつつあることを示していた。放二が捜査しはじめて、ちょうど一週間。彼女が失踪してたった十日間のうちに。
 放二は感動した。
「ぼくの生涯は至らないことばかりです。目をすましても、いつも曇っていました。精いっぱいやって、それだけでした」
「そう。無能者。あなたはそれよ」

       十三

 記代子にくらべれば、自分の生涯などは、まったく無内容なものだったと放二は思った。
 記代子は彼と語らっていたころは、彼に同化していたし、いわば彼を食事のように摂取していたと言えるかも知れない。青木と共にあるときも、そうだった。青木に同化し、青木の中に移り住んでいた。そして、今は、エンゼルと共に、そうなのである。
 放二から、青木へ、エンゼルへ。彼女の遍歴は孤独者の足跡そのものだ。彼女のために、誰一人、本当に親切な友だちはいなかった。親切な肉親もいなかった。彼女はいつも、自分の全部のものを投げだして訴えていたのだが、それをうけとめるに足る男がいなかったのだ。放二がそうであったし、青木もたぶん、そうだったのだろう。そして、エンゼルが、そうであるのか、そうでないのかは分らないが、記代子の辿った今までの遍歴が、誰の手にも縋らず、彼女の必死の全力で為しとげられていることだけは、変りがなかった。せつ子がいつもそうであったのと同じことだと放二は思った。
 自分が記代子に見すてられたのは、当り前だと放二は思った。記代子に、どのように罵られても仕方がない。自分の生涯は、ただ至らない生涯にすぎなかったのだから。
「ぼくの至らなかった生涯については、一言の言訳の余地がありません。そして、まったく、無能力そのものでした。ですが、先生や社長は、ぼくのようなバカな人間とは違った方々です。ぼくにとっても、ひそかに師とたのむ方々です。先生方は、孤独者の人生の遍歴について、誰よりも理解の深い方々です。あなたが会って話をされて、理解して下さらぬはずはありません。もしも理解なさらぬとすれば、それはちょッとした俗な誤解によって、先生方の目に曇りができているせいなんです。どんな傑れた人の目もつまらない世俗的な感情で曇りをおびることはあるものです。ですが、その曇りは、先生方の場合には、長くつづくものではないのです。あの方々の内に曇りを払うすぐれた力が具っているのですから」
 記代子は言葉をさえぎった。
「私は叔父さまや社長に理解していただく必要はないのです。あなたは、変ね。叔父さまや社長の許しを乞わなければ、何をしてもいけない私だと仰有るようね。叔父さまや社長にそんな権利があるのですか。私に、カリがあるとでも仰有るの?」
「カリではないのです。人生にカリがあることは有りうべきことではないと思います。ただ、心にツナガリのある人々同志は、そのツナガリを尊敬する義務があると思うのです。一般人は博愛や慈悲に身をささげる有徳の行者とはちがいます。人間を愛し、生まれたことを愛する表現としては、ツナガリを尊敬するという義務を果すぐらいで充分なのではないでしょうか」
「理窟屋! 無能力者は、そうなのよ。いつも言葉で考えてるわ。私は、考えるのは、イエスとノオをきめる時だけだわ」
 そこに再びエンゼル家の個有の思想を放二は見た。
「わかりました。それでは、私の申上げたことを、野中さんとお二人で相談して、御返事をきめて下さい。イエスとノオのどちらかで、結構です。野中さんには、ぼくが説明いたします。およびしていただけませんか」
 記代子は放二の執念深さに愛想をつかして、立ち上った。

       十四

 エンゼルをつれて現れた記代子には、トゲトゲしさが失われていた。エンゼルに甘え、もたれきっている安心が、包みきれぬ喜びの姿で現れているようだ。
 放二は記代子にたのんだと同じ言葉で、記代子を長平とせつ子に会わせてくれるようにエンゼルにたのんだ。
「これ、また、難問だな」
 エンゼルは手を後頭に組んで、イスにもたれて、微笑した。
「あなたに会うべきか否かについて、さっきあれほど相談の時間を要したのだから、今度も、タダではすむまいて」
「あなたは、どう思うのよ。おッしゃいよ。イエス、ノオ、どちらか一つでいいのよ」
「二つ一しょに言ってもいいと思ってるらしいな」
 記代子はクックッ笑った。
 エンゼルは、ちょッと改まって、
「北川さん。ぼくはこう思いますよ。これは時期の問題ではないか、とですね。ある時期には、記代子もすすんでお会いしたいと云うでしょうし、ぼくも大庭先生にはお目にかかりたいのです。しかし、今はその時期ではないようです。あなたは先生のところへ戻って、記代子のことを、ありのまま、あなたの目に映じたままに、報告して下さい。世間の噂にせよ、何にせよ、あなたの見聞はそっくり報告なさってかまいません。そして、その時期がくるまでは、あなたを両者のカケ橋にして、ぼくたちを当分そッと放っといていただきたいと思うのです。あなたのように心あたたかく、目のひろい方を、両者のカケ橋にもつことができたのは、ぼくたちの幸せというものです。どれぐらい感謝しても、感謝しきれないほどの喜びなんです。ぼくはあなたの善良な心を、全的に信じて疑いませんよ」
 エンゼルの表現は大ゲサであった。往々、大ゲサな表現には、アベコベの意志がギマンされているものだ。エンゼルの言葉にも、それがないとは云えなかった。
 ある時期とは? 自然にまかせて、ある時期などというものが有りうるだろうか。疑えばキリがなかった。
 放二は、疑うよりも、信じることが大切なのだと思った。人の意志というものは、不変でもなく、性格的なものでもない。自分の悪意や善意に応じて、相手の覚悟もネジ曲るものだ。人をとやかく思うよりも、結局、大切なのは、自分自身の善意だけだ、と放二は思った。そして、人間というものは、所詮、他人の心をどうしうるものでもない。自分にできることは、自分の心だけであり、自分の善意を心棒として、それに全的に頼る以外に法はないと考えた。
「わかりました。では、ぼくの目に映じたありのままを帰って報告いたします。そして、その結果、こちらへ御報告すべきことがありましたら、また、参上させていただきます」
 エンゼルは安堵と感謝を端的にあらわした。
「あなたという人を得たことは、ぼくらには千万の味方にまさるよろこびですよ。記代子のために、力になってあげて下さい」
 放二はうなずいた。そして、立上って、記代子に言った。
「下宿の荷物をこちらへ運びましょうか。さしあたって、必要なものがありましたら、なんなりと命じて下さい」
「ええ、こんどいらッしゃる時までに、必要なものを書きだしとくわ」
 淋しそうなカゲはなかった。もう、ここの人になりきって、いるようであった。


     裏と表


       一

 放二はせつ子に報告した。
 予想していたことにくらべて、あまり意外千万なので、せつ子はいぶかしそうに、
「そう……」
 と答えただけで、ほかに言うべき言葉すらないようであった。
 せつ子は長平の宿に電話して訪問をつげ、放二をともなって、自家用車にのった。
 二ヶ月前までは電車にもまれ、靴下のいたむのを気にしながら訪問記事をとって歩いていたせつ子であるが、自家用の高級車も板につき、衆目の指すところ、日本に於て最も傑出した女性の一人になりきっている。
 戦争の最中には、時間感覚の奇妙な崩壊が起ったものだ。勝っている時もそうであるし、負けている時もそうであった。シンガポールを占領したのは三四年前の出来事のように思われるのに、算えてみると、実は二ヶ月半ぐらいしか過ぎ去っていないのだ。ラバウルの危機、ラバウルへ飛行機を! そんなことを新聞が叫んでいたのは五年も前の遠いことのような気がする。サイパンが敵に占領されたのも去年の話のようだ、が、実は算えてみると、サイパンが陥ちてからまだ一ヶ月を経過せず、ラバウルの危機も今年の正月ごろの話なのだ。
 そういう時間感覚の喪失状態は空襲後は特に極端であった。下町がやられたのは三四年昔の出来事のようだが、まだ三ヶ月しか経っていず、山の手が灰になって一年も二年もの年月がたったように思うのに、実は十日ぐらいしか過ぎてやしない。
 自分の住む隣の町内がやられて三日もたつと、一年前から、隣り町はそんな焼け野原であったような気持になるのであった。
 駅前の繁華な商店街を、疎開で叩きつぶす。そこは三日前までは一パイの半ジョッキのビールのために毎日行列していたところだ。日毎の生活に何よりも親しかった街の姿がコツネンと消えて三日目には、遠い昔から、そこが今のような空地でしかなかったような気持になっているのだ。
 戦争が始まるまでは夢にも考えていなかった時間感覚の狂った喪失状態があらゆる人々に襲いかかったのである。
 戦争が終ってからは、尋常な感覚をとり戻したけれども、感覚異変は、まだ多少は残っている。
 そして、せつ子が自家用高級車を乗りまわして二ヶ月にしかならないのに、二年も前から、いや、もっと遠くて物の始まった昔から、せつ子がそうであったような気がしているのだ。
 戦争が人間感覚を麻痺させた詐術なのだが、うっかりすると、当人までそうとは気づかず、十年も廿年も前から自家用高級車をのりまわしていたと思いこんでいるような詐術にかかっているのじゃないかと放二は思った。常の世の成金の思いあがりとは違う。戦争という魔物のはたらいた詐術であり、時間の感覚の奇怪な喪失なのである。
 記代子も、たった十日間で、エンゼル家の主婦になりきっているようだ。
 それを自分自身に当てはめると、どうなるのだろう? たった十日のうちに、記代子もせつ子も、一年も二年も時間をかけたような変化を示しているが、彼はそれを見ているだけのことだ。
 それが自分の役割なのだ、と放二は思った。変るといえば、やがて死ぬだけのことだろう。そして、変る人も、変らざる人も、すべてが彼には、いとしく見えた。

       二

 長平はエンゼルに興を覚えた。乱世というものは何が現れるか分らない。貯蓄精神と礼節に富む愚連隊の出現も乱世なればこそ。出現してみれば、ありそうなことで、怪しむに足らない。
 堅気の庶民が乱世の荒波にもみまくられて、体裁ととのわず、投機的になり、その日ぐらしのヤケな気持になっているとき、裏街道で悪銭のもうかる愚連隊の中のちょッと頭のきく連中が、悪銭身につかずという古来のモラルをくつがえして、せッせと貯金し、家屋敷をかまえ、身に礼服をまとい、ヤブレカブレの堅気連中に道義も仁義もないのを嘆いているかも知れないのである。ヨタモノもモラルをくつがえす。
 それにしては、選ばれた花嫁が、どうも頭がよくないようだ。エンゼルの審美眼も、当にならない。
「それほどの覚悟なら、こッちで何もすることはなかろう。当人が幸福なら、それに越したことはないさ。ただ、エンゼル家からお払い箱というときに、行き場に窮するということがなく、こッちへ戻ってくる才覚をつけておいたら、よろしかろう。北川君がその才覚をつけてやるのだね」
 長平はこう簡単に結論したが、単純明快に合理的でありすぎて、肉親的な感情が、どこにもなかった。
 せつ子は反対した。
「算術みたいにおッしゃるものじゃありません。もっと、ムリヤリ、してあげなければならないものです」
「当人が幸福なら、こッちでムリヤリしてやることは何もないさ」
「第一、何もしてあげなかったら、世間では、大庭長平は鬼のようだ、と言いますよ」
「遠慮なく言ってもらうさ」
「記代子さんのお姿が見えませんが、どうなさいましたか、と訊かれた時に、こまりますよ」
「こまりませんね。エンゼルという屋敷もちの花づくりのアンチャンと結婚して、花を造り、悪銭をもうけて、内助の功を果し、大そう幸福にくらしているそうだ、と答えて、不名誉なところは一つもない」
「勝手におッしゃい。あなたは、もう、京都へお帰りなさるといいわ」
「左様。記代子のことで滞在がのびてしまったが、明日の特急にでも、帰りたいものですよ」
 せつ子は笑った。
「あとは私が一存で致します」
「何をなさるつもりですね?」
「何ッて、相手はヨタモノですもの。記代子さんの身にシアワセのはずはありません」
「その考えは軽率すぎるようだ。世渡りと男女のことは別問題ですよ。体面のために古い恋女房を離婚して、新しい恋愛を実現した代議士もあるしね。女房を大事にするヨタモノがいてもフシギではない。男女のことは、誰にも分りゃしません。銘々に独特の型があるものです」
「いいえ、世間体を怖れないヨタモノは、女房への誠意もありません。世間体を怖れない男には、それに相応する女がいて、女房になるものです。記代子さんはそれに相応した女ではありません」
「なに、結構、間に合う場合が多いものさ」
 せつ子はふきだしたが、こう結論した。
「記代子さんのことは、私が一切ひきうけます。あなたは京都へ、ひッこんでらッしゃい」

       三

 せつ子は街のヨタモノに善意があるとは思わなかった。虫けらのようなものである。そうときまった人間だけが、ヨタモノ稼業がつとまるのである。
 彼女は記代子をとりもどすことにきめていたが、円満に返してもらうことも、金を払ってとりもどすことも考えなかった。金というものは、ヨタモノや乞食やパンパンなどに呉れてやる性質のものではない。どんなバカげた浪費をしてもかまわないが、それは仕事に関聯しての話である。
 エンゼルから記代子を奪い返すだけのことだ。そういう権利があるからである。理窟はどうでもかまわないのだ。ヨタモノを相手に論争するバカはないのだ。記代子がエンゼルにほれていようが、よしんば、正式に結婚の手続をしていようが、そんなことも問題ではない。
 理論的にはエンゼルに勝身があっても、ヨタモノには、良家の娘を女房にする権利などはないのである。それがせつ子の考えであった。社会秩序に反し、不正を稼業としている人間が、たまたま一事に関して正当な理論をふりまわし、権利を要求しようたって、そんな虫のいいことがとおるものではない。
 しかし、警察の力をかりず、法律の名をかりず、極秘裡に記代子をとりもどすには、どういう手段があるだろうか、と、せつ子もこれには考えこんだ。
 彼女は放二と相談して、智恵をかりようなどゝは考えていなかった。放二のようなお人好しに、まともに相談しかけても、埒があくものではない。こういう人間には、ただ、命令するのが何よりなのだ。
「ずいぶん苦心したでしょう。でも、あなただから、捜しだせたのです。青木さんをごらんなさい。煩悶の様子は深刻そのものですけど、埒があかないじゃありませんか。ずいぶん疲れてらッしゃるようね。しばらく涼しい土地へ行って、ゆっくり休養してらッしゃい。十日でも、二週間でも、もっと長くてもかまいません。その間に、記代子さんのことは、ハッキリ話をつけておきます」
 こう云って、せつ子は放二に多額の賞与を与えた。
「話をつけるッて、どんなふうに、でしょうか」
「それはあなたに用のないことです。あとは私が致します。秋口に、あなたが涼しい土地から戻ってきたとき、記代子さんも戻ってきています。ですが、記代子さんは、先からズッとそこにいたのですよ。あなたが、涼しい土地へ旅行していたので、しばらく会えなかっただけなのです」
 放二は考えた。せつ子は行動的である。ためらわないのだ。言った言葉は必ず実現するだろう。たとえ、街のボスが相手でも。
 せつ子の手腕は非凡であるが、彼女が往々相手の力を見あやまるのも事実なのである。ヨタモノ相手にその手腕を正当にふるいうるかどうかは疑問であるし、記代子のことを考えると、せつ子の考えているらしいことが、一そう妥当でないように見える。
 しかし彼がどう言ってみても、せつ子の決意をかえさせるのは不可能なのだ。
「旅行の前に、四五日東京で休養してみるつもりですが、何か御用はありませんか」
「いいえ。ひとつも」
 早く山の温泉へ行けとせきたてるように、せつ子は放二をきびしく見つめた。まさかムホン人と見破った目ではないだろう。放二は心にさびしく笑った。怒られてもかまわない。エンゼルをせつ子の敵にまわさぬように、彼はひそかに暗躍する覚悟をかためていた。

       四

 放二は必ず面倒が起ると予期していたが、自分の力で、どうする才覚があるでもなかった。
 まず出来そうなことゝ云えば、エンゼルに、自分という人間を信じてもらうことだけである。しかし、マゴコロの袋のようなものがあって、それを開いてみせると人が信用してくれるという便利な手段はないのである。
 自分を知ってもらうという手段があるだけだ。信じてくれるとは限らないが、自分の生活を見てもらって、ありのままの自分を知ってもらうことである。
 放二は夜の新宿の仕事場へエンゼルを訪ねて二度目であった。エンゼルを自宅へ誘い、オデン屋でビールとツマミモノを買って、アパートで酒宴をひらいた。
 連日雨もよいの悪天候で、女たちはアブレがちであった。
 新宿から飲みつゞけで、エンゼルは酔っぱらった。
「ちょッと、お忍びのアパート住い。結構ですねえ。ハッハ」
 エンゼルは醜い女たちには目もくれず、ルミ子の顔から視線をはなさず追いまわしていた。
「ぼくなんか、こうは、できませんや。腕がちがうんですな。ぼくは商売の都合で、野郎どもの面倒をみていますが、あなたは風流の志で、パンスケを養って、かしずかれていらッしゃる。貴族は女中が好き。ねえ。汚いアパートに身を落して、パンスケにかしずかれて、結構ですねえ。お金なんざア、左ウチワでころがりこむんだ。大金持の女社長に可愛がられてね。家なんざ、わざと買ってもらわないね、この人は。この汚いパンスケ・アパートへお忍びぐらし、乙な人だなア」
 エンゼルの視線は、喋りながらも、ルミ子から、はなれなかった。
 ルミ子には、エンゼルの薄ッペラな正体がアリアリ見えた。ただのヨタモノにすぎないのだ。記代子にほれているわけでもない。ヨタモノのチャチな下心があってのことだ。
 およそヨタモノという連中が常にそうであるように、酔っぱらって、そこにちょッとした女がいて、タダでモノになりそうな事情があるから、モノにしようとしているだけのことである。
 エンゼルは、放二を眼中に入れていないのである。また、放二によって代表された長平やせつ子のことも。成行きで、バツを合せているだけのことで、こんな青二才とつきあってやるからには、酒をおごらせて、女の世話をさせるのが当り前だと思いこんでいるだけなのである。
 穏便に事が運ばなければ、放二を殴り倒しても、ルミ子とタダで遊んで、青二才にこんなところまでつきあってやった駄賃をかせいで帰るであろう。酔わないうちはそうでもないが、酔ったが最後、これがヨタモノの本性であり、駄賃をかせぐまでは、血を見たぐらいじゃひるまない。
「あんた、好男子ね。もてるわけね。私と遊ぶ?」
 ルミ子はツマミモノを食いながら、エンゼルにナガシ目をくれた。
「お嫁さんを貰いたてだって、浮気ぐらいはするもんよ。ビールを飲むだけならいいでしょう。ちょッと、つきあってよ。ねえ。私、このビール二三本、もらって、いいでしょう?」
 ルミ子は遠慮なくビールをぶらさげて立ち上った。エンゼルはニヤニヤ笑いながら、彼は有るッたけのビールを軽く両手にぶらさげて、立上って、だまって、ついてきた。

       五

 ルミ子はフトンを片隅へよせて、酒もりの場所をつくった。
「ヌキ忘れちゃった。あんた、歯でぬけるでしょう」
「バカ言え。とってこいよ」
「歩くの、ヤだなア。損しちゃった」
 ルミ子はヌキをとりに放二の部屋へもどって、
「カギかけて、電燈消して、早く寝ちゃった方がいいわ。出てきちゃダメよ。インネンつけられると、いけないから。親分らしいとこなんて、ありゃしないよ。タダのヨタモンだわ」
 ルミ子は苦笑をもらした。人殺し、強殺犯、そんなお客は見なれてきた。男にドスやピストルを突きつけられたこともあった。ヤブレカブレの男は何をするか分らない。しかし、屋敷もちのエンゼルは、たかがパンスケ相手に手が後へまわるようなことはしっこない。
 ルミ子はヌキをぶらさげて部屋へもどった。
「あんた、レッキとした顔でしょう。ビールぐらい、歯でぬくもんよ。この部屋のお客さまはみんなそうするのよ。前科十二犯のオジサンは堅い物が噛めないほどボロッ歯だけど、ビールの栓は器用にぬいたわね。ヌキがなくッちゃ栓がぬけないようじゃ、悪い事はできないものね。泥棒に忍びこんで、ビールをみつけて、ヌキ探してちゃア、フンヅカマるでしょう」
「オレを泥棒あつかいに、しようッてのか」
「似たようなもんじゃない」
「フ。相当なことを云やアがる。落ちついて、ませたことを云うじゃないか。オレの女になれよ。ジュクでいゝ顔にしてやらアな」
「荒っぽいこと、きらいだもの。パンパンに生れついてるのさ。ノンキでグズな商売が好きなのさ」
「顔がきいて、楽にくらせたら、この上なしだろう」
「威勢のいいのがキライなのさ。威張りたくもなし。パンパンがいっとう楽で、面白いや。泥棒だの、人殺しの実話物きかせてもらッてさ。兄さん、人を殺したこと、ある?」
「フ。それが、どうした」
「私はね、目の前で人が死ぬの、一人で見てたことがあるよ。三べんだか、四へんだかね。たくさんの数じゃないけど、忘れちゃった。いろんなことが、こんがらかるから」
「フ、そんなパンスケがこのへんに居るッて話はきいたことがあったが、それがお前か」
「強殺だの喧嘩傷害だの、すごい人が話きかせてくれるでしょう。案外なもんね。どんなふうに死ぬもんだか、見てる人、ないわね。私はみんな見てたわ。ちょッと見落しても悪いような気持だもの。なんでもないもんよ。呆気なく、死んでるものよ。ほんとかな、と疑ったのもあったわ」
 エンゼルはつまらなそうにビールを呷っていたが、
「自殺なんてものは、つまらんものにきまってらアな」
 ちょッと凄んでみせた。
「返り血をあびて真ッ赤にそまる果し合いのようなものは、オレがやっても、目がくらんだ気持にならアな。ひどく冷静でもあるし、泡もくらってるものよ」
「どんな悪いこと、してきたの? ずいぶん、お金持ちだってことじゃないの。なんで、もうけたのさ」

       六

 ルミ子は職業的に、男について階級的な区別を持たなかった。社長と社員、ボスとチンピラ、どっちがどうという区別はない。
 彼女は男を大別して、金放れのいい人とそうでない人、ウヌボレの強い男とそうでない男、執念深いのとそうでないのと、だいたいそれぐらいに区劃していた。
 金銭について、金に汚い男というものは論外である。パンパンに払った金が惜しくなって、ビールをのんだり物をたべて女に支払わせていくらかでもモトをとろうとするのなどはよい方で、脅迫し、時には本当にクビをしめても金をとり返して行こうとする。それが愚連隊などでなくて、表通りに店をもった商人だの、工場主だの、若いサラリーマンだの、世間では虫も殺さぬ善人で通った連中がそうなのである。
 あなたが好き、だとか、又遊びにきてね、というのは、この社会で当り前の挨拶だが、通り一ぺんの挨拶をかけられただけで、恋人のように思いこみ、二度目からは刃物で追いまわすような嫉妬深いウヌボレ屋もいる。そして、刃物をおさめる代償としては、一文も使わずに、遊んで飲んで食って帰ろうというのである。
 世間では堅気の善人で通った人がこんなだから、遊びなれた悪党は弱い者にはオトコ気もあり立派な遊びをするかというと、とんでもない話なのだ。
 小悪党というものは階級意識の強いものだ。パンパンのような社会的地位がゼロ以下の合法的でない存在に対しては、彼らはいたわりをもつどころか、全人格を無視してかかるのが共通の考え方である。パンパンとはタダで遊んで、おごらせて、バクチのモトデをまきあげる道具にすぎないと心得て、一文も置いて行きはしないものだ。一度でもスキを見せると、つけこんできて、情婦のつもりで食い物にし、着物や装身具や鏡台や茶のみ道具まで質に入れてバクチに使い果して、それが当然だと心得ている。狡猾、卑怯、折あらば、つけこむ虫であるから、これに対するパンパンの心構えとしては、柳に風、剣術の極意に似ている。
 エンゼルは片手にコップをにぎりながら、ルミ子の首をかかえて抱きよせたが、ルミ子は、ゆっくりとスリぬけて、
「しつこいこと、しちゃダメよ。暑くって。ウチワであおいであげるから、ビールのんで、お帰り」
「約束のお客があるのか」
「お客は道にゴロゴロいるよ」
「ふざけるな。オレと遊ばないというのか」
「お金、ちょうだい。私、お客様と遊ぶのが商売よ」
 エンゼルは単純に殺気立った。満座の中ででも、一人の女を暴力で意にしたがわせるぐらいのことには、場数をふんでいるという様子であった。
 ルミ子は、しかし、落付きはらっていた。
「いい兄さんが、金で買えるパンパンを手ごめにしたら、物笑いよ。そうじゃなくッて。もっと気のきいた女を相手にするもんよ」
 なんの激するところも見えない小娘の様子であった。四方山話をしているような、屈託のない薄笑いをうかべていた。
「金次第で、どうにでもなるというんだな」
「そうよ」
「どんな男とでも、な」
 ルミ子はニッと笑った。
「パンパンだって、選り好みはあってよ。そうじゃないと思うの」
 明るくて、邪気のない答えであった。

       七

 エンゼルは娘をだまして一稼ぎするには妙を得ていた。終戦後の二三年はそれで食いつないでいたのである。美貌が第一の資本であったが、女の心理にも通じており、演技者としての才能が抜群であった。
 しかし、パンパンなどに対して演技の必要はなかった。同じ裏街道の同志で、生地をさらけだして、不都合がある筈はない。顔の貫禄と美貌は彼女らの身にあまる偶像で、エンゼルの逞しい腕に、ムンズとひきよせられたパンパンは、あまりの羞しさに、泣きそうになり、もがいて逃げようとするのであったが、有無を云わさず引き寄せられて厚い胸に押しつけられると、力はつき、ただ夢を見るようにウットリしているだけであった。
 そうでないような女に対しては、そうでないように、エンゼルは対策にこまるということは、めったになかった。
 エンゼルは酔っていても、ヨタモノの本能は鋭敏であった。
 放二の部屋で、ルミ子が彼に遊びましょうよと誘った言葉を、いつもと同じように、当然なことと真にうけたのが軽率だったのである。
「すると、この女は……」
 と、エンゼルは思った。
 みんな、グルだ。あの若い奴は、好男子の坊ッちゃん然と、まるで世間知らずの顔をしているが、実は町内のパンパンどもをみんな情婦にしているのである。そして、この女が、情婦筆頭というわけだ。
 何組のなにがしというヤクザでもない青白いインテリに、時々こういう教祖めいたヤサ男がいるものであるが、悪事の型がきまっているヤクザとちがって、こういう奴らは何をしているか分らない。しでかすことの筋が見当がつかないのである。エンゼルは、こういう奴が苦手であった。彼の仕事と同じ性質のことを、特別の筋と才能で楽々果しているように思われたからである。彼は対等の敵として、放二に対して激しい闘争心をもやした。
 この女が自分を別室へひきたてたのは、自分が放二にからむのを避けるためだ。しかし、腕力に自信がないからインネンをつけられるのを避けたと見るのは当らない。先方にはピストルのようなものがあって、ただ軽率に血を見ることを好まなかったのかも知れない。あのヤサ男の静かな落付きは尋常ではない。エンゼルはそれを軽視することができなかった。世間知らずの記代子などには、あのヤサ男の正体が分るはずはないのである。
 そう気がついてみると、ルミ子という女も、さすがに、ただのパンパンとはちがう。邪教の一味は、小娘のパンスケまで、ミコだか狐つきだか分らないが、老成ぶって、得体が知れないのである。
「お前は、いくつだ」
「十九」
「フ。どうだい。オレが北川を殺したら、どうする? お前、オレの女になるか」
 エンゼルはビールをなめて、面白くもなさそうに、せせら笑った。
 ルミ子の顔色は変らなかった。
「なぜ殺すのさ」
「なに、下駄につかえた石ころをはじくようなものだアな。誰かが、ちょッと、どこかの街角で、あの兄さんを眠らしてくれらア」
「全然、タダのチンピラだ」
 ルミ子はガッカリして、ねころんで、片肱を枕にエンゼルを見つめて、つぶやいた。
「屋敷もちの花つくりのアンチャンも案外だなア。よくお金モウケができたわね」

       八

「誰か殺せば、女がウンと云うとでも思っているの?」
 ルミ子は起き上って、坐り直した。彼女は次第に亢奮していた。
 たかがヨタモノの脅迫ぐらい、気にするほどのこともない。それも女を口説いての凄文句にすぎないのだから、ムキになるのは、相手の術中におちこむようなものである。
 しかし、放二が殺されるという事柄について考えると、凄みを並べたてるだけのコケおどしかも知れないけれども、我慢ができなくなり、全身が熱くなってしまうのだ。
 ルミ子の目が吊った。ふだんと、まるで人相がちがって、赤いホッペタの童女が、怒って、白くなったように見えた。
「誰が殺されたって、お前なんかに、ウンと云うもんか。嘘か、どうか、ためしてごらんよ。私を殺してごらん。ウンと云うか、どうか。今、やってごらんよ」
 自分がここで殺されれば、エンゼルは捕まるし、放二に迷惑はかからない、ということが、誰に知られなくとも、ルミ子には悔いはなかった。
 彼女はムチャクチャにエンゼルが憎かった。放二をヨタモノなみにしか見ることができないような男、たかがパンパンとの一夜のために放二を虫ケラのようにヒネリつぶそうと思うような男。彼女はどんな男にでも、金で肌をゆるしてきた。それを悔いてはいなかったが、殺されてもこの男には許してやらないということが、最後の償いのように思われた。
 ルミ子はむしろ殺されることを望むような気持であった。すすんで獅子の前へ進みでる勇気がわき起っていた。
 ルミ子は立って、ネマキをぬいで、着物にきかえた。シゴキを一本、エンゼルの前へ投げだして、坐った。
「殺してごらん。私のクビを、しめてごらんよ。人殺し、なんて、叫びたてやしないから。音をたてずに、死んでみせるから、安心して、しめてよ。ちょッとした呻きぐらい、でるかも知れないけど、ウンと言ったわけじゃないから、まちがえないでおくれ」
「フ」
 エンゼルは口にふくんだビールを、いきなりルミ子の顔へふきつけた。ルミ子の顔は、うしろへ一分ひく様子もなかった。
 エンゼルはビンタをくらわせた。ルミ子の上体がふらついたが、倒れなかった。そこで、つづけさまに往復ビンタをくらわせた。左へふらつくと、右へ叩き返され、右へ傾くと、左へ叩き返された。
 しかしルミ子は痛さというものを全然感じなかった。彼女の全身にみちあふれているものは、決意だけであった。
 エンゼルは手をやすめたので、
「卑怯者。ぶって、ごまかすつもり」
「どうしても、死にたいか」
「やってごらん」
 エンゼルはシゴキをひろって横へすてて、
「よし。殺してやる。言い残すことはないか」
 両手でルミ子の首のまわりを握りしめた。ルミ子はアゴを上へあげて、握りいいようにしてやった。そして、エンゼルの腕にすがったり、もがいたりしないように、両手で自分の両腕を握りしめた。エンゼルは三度、首を持ち上げたり下したり、演習した。そして、とつぜん上へひっぱりあげられたと思うと、全身がチョウチンのようにフラフラふりまわされたように思った。そして、わけが分らなくなってしまった。

       九

 ふとルミ子が気がついたとき、誰かがそこにいる様な気がした。目をあけて見定めようとすると、扉が閉じて、誰かが部屋の外へ立ち去ったようであった。
 ルミ子は又目をとじて、できるだけ我慢して、ジッとしていた。自分が、どこで、どんな風になっているのだか、それを知りたいと思った。
 そして、目をあけて起きてみると、部屋の中には誰もいなくて、彼女は全裸でフトンの上へねかされている自分を見出した。
 着物は部屋の片隅に、まるめて捨てられていた。顔をなでてみた。はなもでていない。
 ルミ子は暴行されたことを知った。
 彼女がフトンの上へねかされていたことや、全裸にされて身体の汚物をキレイにふきとられていたことは、エンゼルの仏心でもなければ、人工呼吸のためでもない。心ゆくまで暴行をたのしむためであったにすぎない。
 ルミ子は全身の力がぬけ落ちるような落胆を感じた。彼女が敢てしたことは、すべて徒労だったのだ。ルミ子は性戯ということに特別の感情をもたなくなっていたが、自分の知らないうちにエンゼルのいろいろの侮辱を蒙ったことを思うと、救われようもない悲しい思いに沈んだ。
「なぜ生き返ったのだろう!」
 彼女は泣きだした。はりつめていたものが、際限もなくゆるんで行くようであった。小学校の初年生のころ歩いた道々の野原の橋や、その小川のほとりのレンゲ草の咲いている河原が見える。そこに花をつんでいるのは、たしかに自分だ。小学校の一年生の自分なのである。一方はあかるい青空だし、一方の空は燃えるような夕焼だ。そして橋のタモトから、自分のすぐ手のとどくところから、一メートルぐらいの階段のような虹が、まっすぐ夕焼の空へかかっているのである。いつのまに、こんな虹がかかったのだろうと考える。さッき橋を渡るときまでは、あそこに、なにもなかったのに。……
 気を失ったのか、眠って夢を見ていたのか、わけの分らないような状態から、ルミ子はふと我にかえった。
 誰かが扉をノックしている。
「だれ?」
「私。カズ子よ。ちょッと、いい?」
「ちょッと、待って」
 ルミ子は立って、ネマキをきて、扉をあけた。
 カズ子は中をのぞいて、
「もう、あの人、帰ったの?」
 それをきくと、廊下の曲り角に隠れて様子をうかがっていたヤエ子も姿を現した。
「ちょッと、心配だから、来てみたのよ。おとなしく帰ったのね」
「うん。とっくに帰ったわ」
「チェッ。じゃア、あッちの部屋へくればいいのに」
 ヤエ子は苦笑して、
「色男をみると逃がしゃしないんだから。オタノシミのことですよ」
「兄さんは、ねた?」
「いいえ、起きてる」
 ルミ子はふと身にしむような懐しさを覚えてクラクラした。

       十

 その翌日、放二はエンゼルの自宅を訪ねて行った。
 酒を飲みすぎれば、誰しも妙な風になるものだ。しかし、それが当人の本心というわけではない。たとえ本心にしたところで、誰の本心も汚いものだが、理性の働いている時には抑制されているのだから、酔わない時を人間の常態とみるのが当り前だ。
 エンゼルは放二の生活に甚しい見当ちがいの判断を下したけれども、そう疑っている気持が酔って現れただけのことで、放二の正体を疑っているというのも、放二の本当の心を知りたがる気持があるからに相違ない。
 たぶん記代子が放二の生活について疑っていることを、事実としてエンゼルにきかせたのだろう。それをエンゼルが真にうけるのは当り前で、疑う理由は十分である。
 しかし、こッちが誠意をもってつきあううちに、やがて分ってくれるときがくるだろう。そういうものだと思いこんで、やりぬく以外には適当な手段がないようだ。放二は、あきらめなかった。
 エンゼル家の表門は堅く閉されているので、呼鈴をおして案内を乞うと、アンチャンが戸の小窓をあけて、来意をきいた。
 相変らず、長時間待たせたあげく、四人ものアンチャンが小窓から代り番こに隙見して、放二の服装や、その背後に人はいないかと点検しているようである。
 ようやく戸が開いたので、一足はいると、放二の後足は危く閉じる戸にはさまれて、つぶされそうであった。ピシャリと閉じる。二人のアンチャンが戸に躍りかかって、桟を下し、鍵をかけてしまった。
 四人どころじゃない。一目では算えきれないぐらい、ざッと十人ちかいアンチャンが勢ぞろいしている。四匹の猛犬を檻からだして、めいめい一匹ずつの綱をとって、スワといえば犬を放そうと身構えているアンチャンもいる。
 アンチャンの重鎮らしいのが進みでゝ、大そうニコニコと歓迎の意を表して、握手をもとめ、口上をのべているうちに、誰かが、腰、ズボン、胸のポケットを点検したようである。
 放二は応接間へ通された。窓から見ると、四匹の犬が綱から放されて、庭を行ったり来たりしている。アンチャン連も四人ばかり、要所々々に張りこんでいるが、樹木が一本もないから、折からの日でりで、大そう暑さにヘキエキしている様子であった。
 放二はエンゼルとルミ子の昨夜の真相を知らなかった。しかし、もてなかったのだろうという想像はつく。
 酔っ払いは前後忘却して、ところどころ明滅的な記憶しかなかったりするから、それを想像できなかったりして、益々誤解しているのかも知れないと放二は思った。
 エンゼルはニコニコと現れたが、顔色がすぐれなかった。
「どこをのたくって呑んで歩いたか、気がついたら屋台の土間にねていましたよ。白々と夜の明けるころにね。土間にねてごらんなさい。目をさますと、カゼをひいてますぜ。体温がなくなってるね。骨のシンまで冷えきってまさア」
 目が濁っていた。当人もそれが分るらしく、汚い目を見せないためか、しきりにパチパチやっている。

       十一

「昨夜は失礼いたしました」
 と、放二が言った。どっちの挨拶だか、わからない。さてはインネンをつけなさるか、と、エンゼルは返事をせずに、内々せゝら笑って待ちかまえていると、
「自分で酒をのまないものですから、酒席の気分がわからないのです。アパートの女たちも、言い合したように酒をのまないものですから、変なところへ御案内して、至らなかったと思っています」
 彼はこれから何を言うつもりなのか、エンゼルにはまったく見当がつかない。しかし、どうも、普通じゃない。エンゼルはソッポをむくのをやめて、放二の顔を観察することにした。
「ぼくは野中さんには、ぼくのすべてを知っていただきたかったのです。ありのままの生活を見ていただきたかったのです。なぜかと申しますと、ぼくが野中さんに対して偽る気持をもたないこと、野中さん御夫妻へのぼくの偽りない友情を信頼していただきたかったからです。かりに、ぼくの周囲の方々が、お二方のお気にさわる態度を示す場合にも、ぼくの友情は信じていただきたいと思ったからです」
 エンゼルは苦笑した。この男を買いかぶっていたようだ。酔っ払ってもいたし、パンパンアパートの雰囲気が一風変って異様でもあるから、買いかぶってしまったが、この男の底が知れてみると、あの雰囲気も別に異様ではないようだ。つまり一番グズな人間どもが、グズ同志よりあつまって、センチなママゴトみたいなことをしているのだろう。記代子はバカそのものであるが、この男はそれに輪をかけたウスノロかも知れない。
 エンゼルは大庭長平について、計算ちがいをしていた。記代子はニンシンしているし、知名人の姪であり、愚連隊と結婚させるはずはない。取り戻しにきて、なんとか挨拶があるだろうと期しているから、なんの取柄もないバカ娘をおだてあげて、本宅に鎮座させ、女房然とつけあがらせておくのである。
 放二の伝えるところによると、大庭長平は全然平静で、好いた同志なら何者と一しょになってもかまわないという考えだそうだ。そして、一安心して、京都へ帰ってしまったという。
 エンゼルは事の意外に驚いたばかりでなく、大庭という奴が海千山千のしたたか者で、記代子のバカさかげんに手を焼いており、これを拾いあげたエンゼルをいいカモだと笑っているのじゃないかとヒガンだほどであった。
 エンゼルは、にわかにバカらしくなっていた。奥様然とのさばっている記代子のバカ面を見るのも胸クソがわるい。
 戦法を変えて、芝居気なしに、露骨な取引をすべきじゃないかと考えはじめたから、放二に対しても、演技者の気持を多分に失っている。さもなければ、酔いすぎても昨夜のようなことはやらない。
 放二という男は、見る通りこれだけの、掛け値なしのグズのウスノロと見極めをつけたから、即坐に新体勢をととのえた。
「実はですね。諸事金づまりの世の中。仕事を手びろくやりすぎたものですから、費用はかさむばかりですが、回収する金が十分の一もありません。流行のコゲツキという奴、どこも同じ風ですなア。花屋だけでは、損するばかり、食って行かれませんから、記代子にも働いてもらわなければならないのです。まさか女給にだすわけにもいきませんが」
 エンゼルは気をもたせて、しかし、恐縮したように笑ってみせた。

       十二

 エンゼルは放二をなめてしまった。もはや、こんな小物は相手ではない。記代子というバカ娘が格下げだから、それと対等にも当らないウスノロは問題ではなかった。仮面の必要がなくなったのだ。彼がケツをまくってみせる相手は、大庭長平と、せつ子という女社長である。
 彼はシャア/\と放二の顔をうちながめて、
「どうです。あなたも、一口、やりませんか。ちょッとした商売ですよ。あのルミ子さんを女主人公にしてね。あの子は若くて、可愛いらしいですな。万人むきで、特に大学生むきだなア。記代子がちょッとそうですが、これがこの商売のコツですなア」
 エンゼルは宿酔ふつかよいで頭が重くて、やりきれない。宿酔というものは、宿酔の相手をめぐって不快に思いがこもっているものだが、それはエンゼルでも同じことで、その相手が目の前にいると思えば、不快で邪魔っけなウスノロだが、いくらか気がまぎれないこともなかった。やむをえず、ムダ口をきいているだけのことだ。
「その商売というのが、秘中の秘ですが、先に取払いになったマーケットね。あれを今回オカミの手で、まア、何々公団というようなところでやるんですかなア。明るく、健全な、見た目にもスマートなマーケットに再建しようというんでさあア。この店舗の契約なんですがね。これを然るべき手を通して、発表前にちゃんと予約できるんですな。本当の契約金は十万ですが、然るべき筋へ五万いる。あの新宿の一等地がそれだけでよろしいのです。ぼくは、ここである明朗な商売を記代子にやらせたいと思っていますが、さし当って、困っているのは現金なんですよ。ぼくには現金がないのです。その日その日の運転資金が精いっぱい、生活費にも事欠いてロクな物も食わせないのに、野郎どもも記代子も平気で我慢してくれますよ。時世だから、仕様がない。ね、これですよ。でも、あなた、みすみす、もうけ口があるのに、私もムリな苦面を重ねてもやってみたい。記代子もやりたがっているのです。五万ぐらいは、ぼくもなんとかできそうですが、あなた、十万、かしてくれませんか。記代子のためたです。記代子の商売なんです。あなたを記代子の親友とみこんで、おねがいするのですよ」
 放二は思いまどった。
 エンゼルの話は、なんとなく軽薄である。だまされるにしても、彼が真剣にだますつもりなら、彼に誠意のとどくまで、甘んじてだまされることに不服はなかった。誠意がついに届かなくとも仕方がないと諦めるのはワケがないが、彼は一生だまされてみたいような気もしていた。一生をかけてだまされたら、なんとかなりはしないかというミレンがあった。
 しかし、エンゼルの話はどことなく軽薄であるし、あいにくなことには、なんの苦労もなくエンゼルの申出に応じうる資格があったのである。
 放二は今度の慰労金に、旅行して疲れをやすめてこいと、せつ子から十万円もらっていた。その一部に手はつけたが、補充して十万円にするのにそう苦労はない。
 あんまり簡単に応じうることを言われたので、放二は迷った。しかし、迷うのは、結局金がおしいからだと考えると、心はきまった。
「多少のお金でしたら、ぼくの出来る限りのことは、なんとかしたいと思います。ですが、あなたは信じてくださるでしょうか。ぼくが本心からあなた方のお友だちだということを」

       十三

「それは信じていますとも。記代子も、ぼくも、あなたが二人に共通の唯一の友だちだということを忘れたことはありません」
 エンゼルはこう応じたが、ウスノロの態度が真剣なので、このウスノロは本当にいくらか出すつもりじゃないのかと気がついて、おどろいた。どこまでウスノロだか分らない。先方がそのツモリだとすると、こッちも、もらって損はないから、
「イヤ。こう申上げても、あなたは本当にして下さらないでしょうね。ぼくが悪るかったのです。昨夜、酔っぱらって、とりみだして、あまりと言えば、あまりの醜体です。昔の悪い習慣、三ツ子の魂です。酔っ払うと、昔の悪い男が顔をだすのです。昨夜の醜体はよく記憶していませんが、そのあさましさは、だいたい見当はついています。ぼくはジキル博士一本になりたいのですが、汚れた血は、生涯ついに、ダメですかなア」
「いいえ。ぼくがミレンがましく、友情を信じてくれますかなどゝ、疑ぐりぶかい心をさらけだしたのが、あさましいのです。醜体はぼくなんです。先日から、信頼していただくことばかり考えていたものですから、不覚なグチを申上げてしまったのです。ぼくの存在がお二方のお役に立てば、それだけで満足なんです」
 実にグチなことを言ったものだと、放二はすこし呆れていた。だまされることなんて、なんでもないことではないか。だまされまいとすることは、あるいは最も邪悪の念の一つであるかも知れない。
 エンゼルを疑ぐる必要はないのである。自分の一生を通じて、記代子とエンゼルのためにマゴコロをつくせば足るのであると放二は思った。
「記代子さんはどうしていらッしゃいますか。一目御挨拶いたしたいのですが」
「そうですね。ちょッとカゼをひいてねていますが、様子をきいて参りましょう」
 ウスノロがすすんでカモになりたがっている様子だから、二度と記代子に会わせないつもりであったが、ワガママを言っているわけにいかない。にわかに記代子にムネをふくめて、今度彼女の店をだすについて十万円かしてくれと頼んであるから、お前からもよろしく頼むがよい、と、つれてきた。
 しかし記代子は放二にたのむ気持はないから、ツッケンドンに、放二を見下して、
「私、あなたから、お金かりようなんて思わないのよ。どうせ梶さんのお金ひきだしてくるのでしょう。汚らわしいわ。ですが、エンゼルに貸すんでしたら、貸してあげなさい。きッとよ。貸しますね」
 放二はあからんでうなずいた。
「ぼくは、ただ、お役に立ってうれしいと思っているだけです」
「誰のお役にですか。エンゼルのよ。私はあなたにお役になんか立っていただきたいと思わないのよ」
「おッしゃる通りです。ぼくの言葉が、ぼくの耳にも、まるでお役に立つことを押しつけているようにきこえます。そんな気持ではないつもりなのですが、ぼくの本心が結局それぐらいでしかないのだろうと思います」
 記代子の目はいつも彼の欠点を鋭く見ぬいていると放二は思った。それは記代子が正しい生活をし、心が正しい位置におかれているからだ。
 肉親に、友に、見すてられた記代子は、その心が正しい位置におかれているからであろう。人に愛されようとする自らの心は、ゆがんでいる。それをどうすることもできないモドカシサを放二は感じつゞけた。

       十四

 翌日、放二は約束通りエンゼル家を訪ねて、十万円渡した。
 十万円渡した瞬間から、サバサバした気持になることができた。金というものは奇妙な生き物である。人にやるときめた金でも、フトコロにあるうちは、ミレンの去りがたいものがある。他人に所有権が移ってしまえば否も応もない。自然にサッパリしてしまう。
 十万円で人の信頼を買おうという考えがどうかしている。金額の問題ではない。金で人の心は買えない。
 しかし、そのアベコベも真実であることを放二は知っていた。人間は、お金で買えるものなのだ。身体も、心も。特殊な例をあげる必要はない。早いところ、勤め人の生態がそうではないか。
 だいたい、人の心を買うものが、こっちの誠意や赤心だという考えがまちがっている。誠意や赤心というアイマイなものは、売買の規準にはならないものだ。一歩まちがえば、神がかり的な軍人たちや、教祖と信徒のようなものになってしまうし、まちがわなくとも、それがギリギリの正体なのかも知れないのである。
 むしろ、精神的なものも、金で買うという方法が、マギレがなくて、元々チグハグな人生では、ともかく最も正常な方法なのかも知れない。人の心というものがトコトンまで買いきれないのは分りきったことであるが、一応物質に換算して、ある限界までは金銭で売買するのが、むしろ健全だ。それ以外により明確な手がないからだ。
 しかし、放二は、十万円でエンゼル夫妻の信頼を買うつもりではなかった。彼はその考え方を捨てたのである。何も買ってはいけない。彼はただ二人のために誠意をつくそう、と自分に言いきかせていたのであった。
 そのつもりで、彼らに渡す十万円をフトコロにでかけてきたが、フトコロに金があるうちは、まだ、いろいろなことを考える。その金で転地をすすめてくれたせつ子の気持も気にかかるし、せつ子の厚意が十万円にこもっていると思えば、みすみす詐取とわかっているエンゼルの軽薄な気持を比較して、もどかしさを感ぜずにもいられなかった。
 エンゼルの人を小馬鹿にしたような詐欺的な申出に応じることが、正しいことだろうか、と気にかかりもする。
 しかし、真剣な申出だから応じるという区別の立て方にはウソがある。第一、真剣と、真剣でないものとに、本当に区別を知る人があるだろうか。いったい、真剣とは何だ。そんなものに、どこに特別の値打があるのか。今日は真剣でも、明日は真剣ではなくなるかも知れない。今日は軽薄なエンゼルでも、明日はそうでなくなるかも知れない。ウソと云えば人の心は全部がウソ。どんなにバカ正直の大マジメな心でも、ウソの裏ヅケはちゃんと在るものだ。
 エンゼルの申出が軽薄だから。みすみす騙されるだけだから。そういう言いがかりをつけて金を惜しむのは不当である。だまされることは問題ではない。信念の心棒になるのは、自分の心だけである。そして、二人のために誠意をつくすということを実行すればよろしいのである。
 十万円という金は、たとえ騙して取った金でも、十万円である。エンゼルは、それを十万円とし使うであろう。そして、そんなことは、こっちの気に病むことではないのである。

       十五

 放二は十万円をエンゼルに渡して、にわかにサッパリした気持になったので、自分の心も、たよりなく、軽薄すぎる、と思わずにいられなかった。執念のあるべきものには、もっと執念のある方が本当のような気がしたからであった。
 人間は金銭に対して、当然執念があるべきもののようである。自分が金銭に特に淡白な人間だとも思わないが、この十万円について案外アッサリしているのは、金の値打を知らないせいではないかと思った。
 十万円という意外な大金を自分のものとしてポケットに収めたのは今度がはじめてのことだ。その半分の金を貰ったこともない。
 生活が体をなしていれば、何かと特に欲しいものもあるかも知れないが、無一物、万事にボロだらけの放二の生活には、何もかも欠けているから、特に必要なものがなかった。無ければ無いで、まにあうような生活環境がちゃんと組み上っているものだ。全部を変える以外には、それに多少つけ加えるべきものがないように見えるほどである。
 十万円というまとまった金をもらってみても、放二はそれほど嬉しいとも思わなかったが、思わないわけである。身にしみて必要な理由がなかったからである。一つだけあるとすれば、せつ子がすすめてくれたように、身体を丈夫にすることであるが、それに対しても情熱が欠けていた。たッて、という情熱が、起らなかった。ストレプトマイシンも買える。入院して整形手術もできそうだ。転地して、元気を恢復して戻ってくることも、不可能ではないかも知れない。しかし、そうまでするハリアイが、どうしても起らないのであった。
 十万円に淡白なのは、生命の蔑視から来ているのかも知れないが、それもミジメな話である。誰も好んで己れの生命を蔑視する筈はないのである。外部的な何かが、それはいろいろのからみあった何かであるが、それがアキラメを与えているのであろう。
「お前、健康になりたいと思うか」
 こう自ら問うてみる。いろいろの考えのあとで、彼はこう答えを出した。
「このまま。そして、それから、なるがままに」
 病気ということは一応忘れて、他のことに目的をおき、そして病気はなるがままにまかせようと結論はだしていた。深く考えれば、自分のことは何も分らないばかりである。
「ヤ。これは、これは」
 エンゼルは大そう恐縮そうに十万円を受取った。わざと一枚ずつバカ丁寧に算えて、
「たしかに拝借いたしました」
 金を手にしているエンゼルは銀行員のように律儀な物腰に見えた。
 すると記代子は、放二から借金するエンゼルを見るのがつらいらしく、
「北川さん。あなた、もう、帰って下さい。私たちには、いろいろ用が多いの。毎日毎日が忙しいのよ。あなたと、ゆっくりお話しているヒマなんてないのよ。今日だって、ムリして、お待ちしてあげたんです」
 放二は立って、
「お邪魔いたしました。では、失礼いたします」
「ヤ。そうですか」
 エンゼルはひきとめなかった。記代子は一そう威丈高になって、
「北川さん。私はもうあなたにはお目にかかりません。私に挨拶したいなんて、変なこと仰有らないで。そして、もう、二度とここへいらッしゃらない方がいいわ」
 睨みつけて、さッさと立ち去った。


     三方損


       一

 エンゼルは京都の長平を訪問した。
 せつ子からも、放二からも、まだ報告がなかったので、記代子のその後のことが長平には分らなかった。せつ子が荒っぽい処置をしたので、エンゼルが文句を言いにきたのか、などと考えた。エンゼルという男には興味をもっていたので、書斎へ通した。
「たいへん閑静なお住いですな。京都には、こんな住宅が多いようで、土地風というのでしょうな。東京でこの閑静をつくるには、庭を五十倍にしなければなりません。猫額大にして山中の如し」
 ニコニコしている顔に厭味がない。ちょッと古風なことを言ってみせる芸当など、芸界の生意気ざかりのアンチャンが、こうしたものである。
「君は立派な屋敷をもっているそうだが、屋敷もちは京見物の心得が違うようだね。人の住居が気になるかね」
「いろいろと見聞をひろめ、後日の参考に致そうと思っております。人間、焼跡のバラックでは、恒心がそなわりません。ぼくのバラックでは、庭が花園になっていますが、これは職業上の畑でして、家と職業は分離しなければ、家の落付きはありません。隠居家ということを申しますが、隠居家こそは家の建築の正常な在り方である、これがぼくの意見なのです。なぜかと申しますと、万人が家庭においては隠居である。彼は年若く、生き生きと、かつ多忙に働くが故に、家庭においては特に隠居でありたいと思う。これがぼくの意見です。そして、今後家をつくる時の理想なんです。京都の山手の住宅は、いかにも侘び住居、隠居家の趣きを極度に研究、洗練したもののように拝見いたしました」
「建築に凝ると、調度、書画などに凝るのが自然だが、その方はどうです」
 エンゼルはニコニコと考えこんだ。たしかに彼は家のことには大そう興味をもっている。こんな家をたててみたいと考えて、自然に建物に目がひかれる。調度や書画のことも、自然考えているけれども、本当に買ってみたことがないせいか、好き嫌いまで、まだ漠然としている。世間では、こんな書画が値がいいそうだが、自分の好きというものが、まだ分らないのである。
 なるほど商売人はうまいことを言う。家に凝ると、書画にこる。なるほど、うまい。こッちの気持、人間の気持をピタリと言い当てるのは、さすがに商売人である。こう感服したから、自分の至らないのをごまかして、彼はニコニコと考えてみせた。
「失礼ですが、こちらに御秘蔵の書画を、拝見させていただけましょうか」
「ナニ、君の方が風流人さ。この住居は借家。特に書画と名のつくものは、何一つ持たないのさ。君はどんなものが、お好きです」
「ぼくはこの、まだ若僧で、観賞力もないものですから、閑静な隠居家がすきですが、又、華やかな色彩、調度が好きなんです。サビとか、渋いということが分らぬわけではありませんが、どうしても華やかなものに気をひかれる。それで調和いたしません。この矛盾、これは悪いことでしょうか」
「好き好きさ。それだけ自分の好きなものが分っていれば結構さ。好きなようにやるのが道楽だろう。で、君の御用件は、なんですか」
 この男が何の用できたのだろうと思うと、なんとなく早く知りたくて仕方がなかった。
 エンゼルは困ったという笑いを見せて、
「どうも、そちらから、きりだして下さると思っていましたが、御催促とは、どうも、ちょッと、勝手ちがいで……」

       二

 エンゼルはゆっくり身構えを立てなおした。彼は大人を買いかぶってもいなかったし、世間的に知名な大人を特別な大人だとも思っていなかった。中隊長だの部隊長だのというものが、その階級によって与えられていた威厳を取り去れば、ダラシのないウスノロにすぎないじゃないか。世間というものが個人に与える特別の威厳というものを、眼中に入れるな、ということを、戦地の経験によって身につけていたのである。対等以上の存在を考える必要はないのである。
「女の心理というものは、妙なものですな。女というものはツマラヌ人間である、ぼくがこう判断したのがマチガイかどうか、ひとつ聴いていただきたいものですよ。しかし、ぼくも、オッチョコチョイには相違ありません。ぼくが記代子を好きになったのは、犬庭さんの姪であるということ、これが重大なる理由なんですなア。ダンサーでも女給でもパンスケでもない。ぼくらの身辺にはちょッと見かけない女性で、有名な人の姪だというので、大そう熱ッぽい思いになる。ぼくらは、そんなもんですよ。で、まア、愛した、惚れた、といえば、それにマチガイはないのです。一週間か十日のことですがね」
 エンゼルは深い目を、無感動に、ジッと長平の顔を見つめていた。
 エンゼルが身に現しているものは、対等ということの明確な表示である。年齢の差も、知名人という架空な尊厳も、眼中にいれていない。お前の持てるだけの力量と、オレの力量と、掛値なしの裸でテンビンにかゝってみようじゃないか。オレの重さを対等に受けとめられたら、うけとめてみるがいいや。そう語っている。別に長平にそれを知らせようとしているわけではないが、闘志一本に心をかためたから、彼の構えがそれを表示しているだけであった。
 エンゼルは長平の顔から、無感動な視線を瞬時も放さなかった。
「今では記代子が好きではないのです。なんしろ、熱ッぽい思いになった元はといえば、イカモノ食い……これもイカモノ食いの一つですな。本人よりも、本人の環境に惚れたんですから。ながく、惚れる筈がありませんや。惚れたモトがそうですから、鼻についたとなると、これは、ひどいものですなア。日増しに熱がさめる。そんなもんじゃありませんぜ。一時間、いや、一分、一秒ごとでさア。自分ながら、興ざめていくのが、怖しいぐらい。すさまじいものです。こッちは気持がふさがって、食事もまずくなる、記代子を一目見るたびに、アア、ヤだなア、砂をかむような気持。田宮伊右衛門の心境、アア、ムリもないとしみじみ思ったものですなア」
 長平ははじめのうちは、エンゼルの視線をはずして、ソッポをむいて、軽い気持できいていたが、だんだんそんな風にしていられなくなった。嫌いになった女が、一分一秒ごとにイヤになるという言葉にこもる実感が、軽い気持できいていられなくさせたのである。自然にエンゼルと睨み合っていた。エンゼルの目は、相変らず、無感動であった。
「女の心理というものが妙なものだと思ったのは、これからのことなんです。これだけ嫌われれば、当人に分らない筈はありませんな。知らないフリをしていても、チクリ、チクリ、一分ごとに針をさしこまれているようなもの、当人の胸には誰より鋭く響きわたっているに極っていまさア。ところが、この厳然たる事実を、信じまいとするんですな。イヤ。有りうべからざる事である、と断定すら、するのです」

       三

「嫌われれば、嫌われるほど、ぼくに惚れようとするのです。いえ、本当に惚れてくるのです。まるで、それが嫌われたことの、対策だと思いこんでいるように、ですなア」
 本当にイマイマしいという表情がエンゼルの顔にあらわれた。しかし彼は自然の感情をむきだしにしているのではなかったのである。そういう顔をしてみせたのだ。
 エンゼルは瞬きもせず悪いことのできる男であった。彼は悪事をたのしんでいた。大庭長平という、ちょッと世間に名の知れた男が、彼の仕事や力量に、どんな風に乗ぜられ、どんな風に負け、どんな顔や恰好をするだろうか、ということが、興味津々たるものがある。それを見つめることは、放火狂が火をみつめるように、色好みの男が女体をみつめるように、全身的な快楽を感じる。彼は話術の緩急を考え、猫が鼠をじらすように、たのしむのが好きであった。
 何か長平の一言があるかと思っていたが、何もないので、彼は言葉をつゞけた。
「悪女の深情という言葉がありますが、なるほど、嫌われれば嫌われるほど、もたれてくる。ベタ惚れ、ベタベタ、見栄も外聞もなくなるのですな。高さ、品格がありません。顔はお岩ではないかも知れませんが、その人格からうける全的な感じはお岩、妖怪じみたものです。ぼくも、ついに音をあげたのですよ。これは、とても、たまらん。寸刻も、同居に堪えない。……」
 エンゼルは火をふくような目をした。大いなる怒りが、こもりにこもって、どッと火をふいたようである。当面のものを全的に拒否している冷めたさが、みなぎった。
 すでに歴然たる悪党のエンゼルだった。悪党が悪党らしくないうちは興味津々であったが、悪党になってしまえば、面白おかしくもない。エンゼルの女を嫌う実感に一時は長平もハッとしたが、相手が悪党になりきってしまうと、その実感への感興もうすれた。長平自身が、ひどく興ざめた思いになった。一分は一分ごとに、一秒は一秒ごとに、一枚ずつ紙をはがすように、興ざめた気持になる。エンゼルの熱演は、悪女の深情と同じことだ。もう目を見なくても分りきっている。
 長平は面白くもなさそうにソッポをむいてしまった。
 エンゼルは自分の凄みが相手にうち勝ったのだという風に考えた。
「ぼくは記代子を簡単に追んだすツモリでしたが、簡単に追んだしたのでは、彼女は死にますな。ただ、ベタベタでは、どうにも仕方がありません。ぼくの女の一人の列にありさえすれば、それで満足。こうあきらめてもいるのです。お岩にくらべれば長足の進歩、妾ぐるいぐらいは結構、死んでも化けて出やしませんな。それだけの甲斐性がないんです。化けて出るだけのね」
 軽蔑しきった口調、たすからないほど冷めたい。演技は高潮に達している。次に大詰の一撃があるだけであった。
「ぼくは記代子を叩き売ろうと思います。因果を含めて叩きうれば、承知するにきまっています。同じ因果を含めるのでも、親元へ返すぶんには、死あるのみ。ね。叩きうる一手です。寸刻も同居をつゞけていられないのですから、ほかのことをモタモタ考えていられません。とにかく、ぼくは叩き売りますから、売ったあとで、あなたが買うなり、どうするなり、あわててやると死にますから、死なない程度に、後々の始末をおまかせしようと思いましてね」

       四

 そんなことかと長平は思った。
 ずいぶん手数をかける男だ。長平の趣味から言えば、端的に河内山式の方がよい。この男は、京の家ぼめから始まり、いろいろと演技の数をつくしているが、まだ本当の結論へは来ていないのである。花をつくるだけミソで、近代的にして、かつ退化していると判断すべきようであった。
 長平はどこかの殿様家とちがって、話の正確な結論をたしかめないうちに、あわてて百両包みを河内山の袖の下へ突っこむようなことはできない。
「君の話は、長すぎる」
 長平はエンゼルに教えてやった。
「京の隠居家ぼめが挨拶のツモリならよろしいが、前奏曲のツモリなら、ムダのムダ。それからの話の運び方も遠まわしで、もっと率直でないと近代人の感覚に合わないものだ。こっちはそうとは知らずにきいているから、君の結論をきくと、オヤオヤ、あれはみんなここへくるための道中か、ムダな道を曲りくねるものだと思って、いっぺんに興がさめてしもう。一秒ごとに興がさめるよ。顔を見るのも、話をきくのも、興ざめだ。寸刻といえども、同居に堪えないという気持になる」
 長平はタバコに火をつけた。
「君も一本、吸いたまえ」
 と、すすめると、エンゼルは憤然として、長平の手からタバコの箱をひッたくッて、テーブルへ叩きつけて、
「ヤイ。寸刻といえども同居に堪えがたいと言いながら、オレにタバコをすすめるとは、いい加減なことを言いやがるな。はばかりながら、若い者には、そんなふざけたことは通用しねえや。寸刻も同居に堪えなかったら、堪えないように、ハッキリしやがれ」
「それなら話はわかる。なんでも、そういうグアイに端的に言うものだ。しかし、ハッキリしないのはお前さんの方だろう。オレはさッきから待っているが、お前さんの本当の結論はまだのようだ。その結論をきくまでにはヒマがかかると思ったから一服すすめたが、お前さんの結論が、さっきの言葉ですんでいるのなら、オレは返事の必要がないから、さッさと帰るがよい」
 エンゼルはひらき直った。
「それじゃア、記代子を売ってもよいな」
「バカめ。また同じことをモタモタ言っているのか。それが結論だったら、返事の必要がないから、さッさと帰れと言っているではないか」
 エンゼルは帽子をつかむと、サッと立って、悠々と帰って行った。
 帰り際だけは、どうやら一人前だと長平は思った。良いところは、それだけだった。
 花づくりの屋敷もちの若い顔役も、想像倒れで、新味もないし、人間的な偉さもない。昔ながらのヨタモノにすぎない。
 ヨタモノにエンゼルだけの美貌があれば、若い娘も年増もひっかかる筈である。浜の真砂と同じように、そういうものも種のつきることはない。あいにく陳腐な砂の一粒に自分の姪がまじってしまったが、彼にとっては、たゞつまらない出来事だと思われるだけのことであった。
 エンゼルが記代子を売りとばすことだけは確実だろう。どういう手段で、どこで金に換えるかは見当がつかないが、ほッたらかしておくわけにもいかない。彼には面倒なことだけが残念千万であった。考えると、たゞ、オックウで仕様がない。

       五

 記代子はどうしてそんなことになったか分らなかった。
「お前の部屋は、今日から下だ」エンゼルがこう言うと、こッちだよと言って、子分の一人がひッたてるように階下へつれて行った。階段の下に当る、小さな格子窓が一つしかない留置場のような三畳であった。下は板敷で、納戸であるが、使いようによっては、座敷牢である。
「ここへ、なによ?」
「はいってるんだ」
「なによ。こんなとこ」
 子分の身体を押しきって出ようとすると、
「バカ。勝手に出るな」
 中へ突きとばされた。子分は身の回りのものだけ持ってきて、中へ投げこんでくれたが、
「勝手に出るわけにはいかないのだから、用があったら、声をかけろよ」
 板戸に心ばり棒を下して立ち去った。
 エンゼルが急に冷淡になったのは、ここ四、五日のことである。そして旅行から帰ってくると、記代子に一言の言葉もかけずに、いきなり、閉じこめてしまったのである。
 記代子はわけが分らなかった。子分がカン違いして、部屋をまちがえたのだろう。エンゼルは、自分がこんな部屋へ入れられて、心ばり棒で閉じこめられていることを知らないに相違ない。知っていて黙っている筈はあり得ない。
 記代子は戸をたたいた。
「エンジェル! エンジェル!」
 力いっばいの声をはりあげて、叫んだ。その声は、塀の外までは届かなくとも、この家中には鳴り響いた筈である。心ばり棒を外して現れたのは、エンゼルではなくて、子分であった。いきなり一つ、ぶんなぐって、
「バカヤロー、兄貴はヒルネができなくって、怒っているぞ。ぶんなぐられないようにしろ。兄貴に愛想づかしをされたんだから」
 睨みつけて、戸をしめてしまった。昼めしには、お握りを二つくれただけであった。
 格子窓の向うに、便所の手洗いの窓が見えた。ときどき、子分がその窓から、こッちをのぞいた。それを見ると、寒気がするほど不快で、思わず顔を隠したが、エンゼルもきっとそこへ姿を見せるに相違ないと思うと、窓際から動くことができなかった。
 果して夕方にエンゼルの顔が見えた。彼はヒルネから目をさましたところらしく、いつも寝起きにそうであるように、はれぼッたい顔をしていた。坊やが目をさましたばかりのような、記代子には、忘れることのできないなつかしい顔であった。
 記代子は思わず、とび起きて、格子にしがみついていた。
「エンジェル! 私よ。こんなところへ、なぜ入れるの! きこえないの! エンジェル! エンジェル!」
 エンゼルは記代子の方を見向きもしなかった。
 記代子には信じられないことであった。
「エンジェル! エンジェル!」
 たった二、三間の距離である。たった一声で、ノドがつぶれてしまいそうな、この叫びがきこえない筈はない。しかしエンゼルはふりむいて、姿は見えなくなってしまった。
 エンゼルは、わざと聞えないフリをしてみせたが、身仕度して、きっと迎えにきてくれると思った。十分間も窓からのぞいていたが、次に窓から見たのは子分の顔であった。彼は記代子を睨みつけた。
 記代子は気を失ったように、ふらふらと崩れこんでしまった。

       六

 外から心ばり棒を外す音に、記代子はハッとして飛び起きた。やっぱりエンゼルが迎えにきたと思ったのである。
 しかし、姿を現わしたのは、二人の子分であった。一人は彼女の前へお握りを入れた皿と一杯の水を置いて、
「バカ。ウチが割れるような大声をだしやがる。二度とあんな声をだしやがると、腰の抜けるほど、なぐりづけるから、そう思え」
 一人は窓をしめて、
「まったく、頭の悪い女さ」
 そうつぶやいて、又、心ばり棒をかけて立ち去った。
 日がくれると、多くの跫音がドヤドヤと入りみだれて玄関へあつまるようである。
「兄貴、行ってらッしゃい。行ってらッしゃいまし」
 と口々にのべる言葉がきこえるので、エンゼルのでかけるのが分った。
 記代子は、すべてを諦めかけていたが、その気配をきくと、突然とび起きて、夢中で戸を叩いていた。
「エンジェル! エンジェル! 記代子は、ここよ! エンジェル!」
 叩く手をとめて、耳をすましてみると、エンゼルはもう立ち去ったらしい。部屋へ戻るらしい子分の跫音が消えてしまうと、あとは物音がなくなってしまった。
 疲れきってウトウトしかけると、数名の男たちがフトンをかかえて現れた。彼らがフトンをしき終ると、一人が記代子をだきすくめた。
「兄貴は一週間ほど御旅行だ。可愛いい女が待ちこがれているからな。三四人は廻ってやらなきゃならないから、兄貴も忙しいやな。お前はオレたちにお下げ渡しだから、当分みんなで可愛がってやるぜ」
 記代子はわけがのみこめなかったのでボンヤリしていた。すると男の手が彼女の衣服をぬがせようとしているのに気がついて、おどろいて、もがいた。すると、数名の男たちにおさえつけられて、もはやどうすることもできなかった。
 夜更けに、酔っぱらった男たちの一隊が戻ってきた。彼らは喚声をあげて記代子のところへ殺到して、同じことを、くりかえした。
 そういうことが四日つづいた。記代子は目がくらみ、頭が霞んでいた。夜も昼もなかった。彼らがお握りをおいて行くので、そのときが夜でないことが察しられるだけであった。どうする気力も失って、ただボンヤリしていたが、腹が痛んできたので、便所へ行かせてもらった。便所の往復には、いつも、壁に手を当てて、身体を支えなければならなかったが、その日は腹が痛むので、時々壁にもたれて休んだ。便所から戻ると、のめるように部屋へ倒れこんでしまった。
 一人の男が水と薬をもってきて、
「この妙薬をのんでみろ。いっぺんに治らアな」
 と置いていった。記代子はそれをのまなかったが、腹痛は自然におさまってきた。
 記代子は痛みがとまると、ふと気がついた。薬をおいて行った男は心ばり棒をかけずに立ち去ったのである。その男はモヒ入りの催眠薬を与えたので、安心して心ばり棒をかけなかったのである。
 日がくれて、まもない時刻であった。この時刻は、この家で最も人の少い時間であった。戸に手を当てて静かに少しひいてみると、たしかに心ばり棒はかかっていなかった。
 記代子は戸をあけた。庭へ降りた。花壇を走った。塀をのりこえた。その大半が夢中であった。
 夜中に、青木の宿へ辿りついた。

       七

 記代子は青木の部屋へたどりつくと、高熱を発して寝こんでしまった。何一つ語り合う間もなかった。
 夜っぴて看病して、翌朝は影のように生色を失って、社へかけつけると、せつ子に会って、報告した。
「二目と見られないような有様ですよ。よくも怪しまれずに、ぼくのところまで辿りつけたもんだなア。足は素足で、血をふいているし、顔も、全身もむくんで、悪臭を放つのさ。ぼくは一目見たときに、実に「なれの果て」ということをグッと感じて、目がくらみそうな切なさでしたよ」
「なれの果てだから、どうしたって云うの」
 せつ子は冷めたく、あびせた。
「記代子さんという娘の愛情が、あなたのところへ戻ってきたんじゃないのよ。一人の娘の悲劇が、あなたから出て、あなたへ戻っていったのよ。なれの果てとは何ですか」
 怒りを叩きつけると、せつ子は風のように、とびだしていった。彼女はただちに穂積をつれて、記代子を病院へ移した。
 せつ子は秘密探偵にたのんで、エンゼル家を見張らせていた。記代子の外出を待ちぶせてらっし去るつもりであったが、十日の余も日数をへて、なんの効もなかったのである。
 放二はまだ休んでいた。
「北川君に来てもらって、つききって貰いましょうかね」
 穂積がこう申しでたが、
「ダメですよ。娘のあられもない姿を若い男に見せるのは、もってのほかよ。あなたのような仙人は、そろそろ男の口にはいらないから、これが適材適所なのよ」
「ぼくの方が適材適所さ」
 こう呟く声にふりむくと、いつのまに来たのか、青木がドアの横手の壁にもたれて、パイプをくゆらしていた。
「風と共にきたる」
 青木はせつ子のおどろきに応じるように、皮肉なカイギャクを弄した。
「ねえ、社長さん。あなたは、こんなことを思わないかね。ここに一人の人間がいて、彼のツラの皮をひンむこうと、ふんづけようと、すべてこれ蛙の顔に小便さ。イケ、シャア、シャアですよ。彼のために病院の入口にバリケードをつくっても、彼は忍びこみますよ。しかし、いつも彼がこうだときめるわけにはいかないね。彼は本来は怠け者ですよ。だが、しかし、ひとたび意を決するや、常にかくの如しです。この一念は、雑念がこもって妖気がむらたっていても、仙人よりも、むしろ純粋ですよ。適材適所とは、かかる一念を指名して一任すべきを最上とすると思いますが、いかが?」
 せつ子は色をなした。
「あなたの一念が、どんな効を奏したことがありましたか。記代子さんの行方を突きとめることもできなかったじゃないの。病院のバリケードを破るぐらいは、誰でもできます。放二さんは人の隙をねらうようなずるいことはできませんが、記代子さんの行方を突きとめているのです」
「そして、助けだすことができなかっただけでしょう」
 青木は笑った。
「彼が行方をつきとめても、助けださなければ、ムダに於て、同じことさ。あなたは、希望的観測によって正当なものを見失っているのだな。ぼくは今こそ断言します。彼女はなれの果てとなりはてたから、今や彼女を愛しうるものは、ぼくのほかにありません。ぼくは彼女と結婚します」

       八

 青木はその晩京都へたった。
 その汽車の中で、青木はいろいろのことを考えた。
「とにかく、オレの一生で、今日がいちばん傑作のようだ」
 自分という人間のバカさ加減がよく分ったが、こんなにワケのわからない存在だということを、五十年ちかいあいだ身にしみて考えたことはなかった。
 青木は親しみを表すかわりに挑戦的な表し方をするヒネクレた性癖のおかげで、彼が親しみをもつ人に限って、あべこべに彼をうとんじるという妙な喜劇に一生なやまされてきた。
 相手が自分にウンザリしてしまう理由が、まことにモットモ千万であると納得することができる。
 そして、そういう事柄の中に、いろいろのことがまぎれて、姿がかき消されている。たとえば、梶せつ子という親友は、現在は自分の社長である。そして、長平に対する義理であるか、または気まぐれであるかは知らないが、相当のサラリーをくれて、仕事らしい仕事もさせずに遊ばせておく。いや、遊ばせておくということの中に、彼女、イヤ、親友の意地のわるさがあるのかも知れない。つまり、無用の存在だということを思い知らせるという意地のわるさである。
 けれども、時間的にその前のことを考えると、実に、彼女親友は、彼の恋人であったのである。否、彼の金銭に従属するところの情婦的存在であったのである。そして、彼は彼女親友に、そのとき八十万円ほどかすめとられている。
 現在彼女親友が社長であるところの出版社にしても、元はといえば、彼即ち自分がかすめとられた八十万円を資金の一部としてやりはじめる計画であったが、他に雄大なる後援者が現れて、かれこれするうちに、彼即ち自分は一介の無用な使用人に身を沈め、彼女親友は押しも押されもしない大社長になっていた。
 しかし、すべてそれらの曰く因縁はあたかも地上から姿を没し去ったかのようである。彼は今でも彼女に対して親友の愛情をもつが故に、あたかも挑戦するかのような妙な表現をしてしまう。それに対して彼女が彼に示すものは親友の情ではなくて、お前は無用の存在だという意地のわるさなのである。
 ところが奇怪なことには、彼は彼女に挑戦し、彼女は彼に意地わるをもって応じるという関係のみが現存するが、曰く因縁というものは、彼自身の意識中においてすらも、ほとんど姿を没し、消えてなくなっているではないか。
 まア、しかし、そういうことは、どうでもかまわない。
 妙なのは、記代子と結婚するという断々乎たる決心なのである。どこにも、そんな決心などは、ありやしない。何かしら、ちょッとでも真実らしいものがあるとすれば、彼は記代子がころがりこんだとき、あまりの哀れさにト胸をつかれた。それだけである。
 彼は夜明けまで熱心に介抱したが、彼は介抱しながらも、この女はバカな女だ、バカな女というものを端的に戯画化したのがこの女のこの現実の姿だ、というようなことを考えていた。
「よろし。京都へ行って、長平どんにたのんで正式に女房にもらってやろう」
 そう考えたつもりで、汽車にとびのったが、今や、どう考えても、そのとき、そう決心したと信じることは不可能だ。オレはその決心を口実にして、実は自分の気付かない目的のために京都へ行くつもりだろうか、と考えた。ワケのわからないバカな話があるものだ。しかし、現にそうではないか。

       九

 問題の本尊は、記代子ではなくて、別れた女房にあるのかも知れないな、と青木は考えた。
 長平に会いたいのは、礼子のことであるかも知れない。礼子は長平のふところへとびこむつもりで彼をすてたが、結局、長平は彼女を相手にしなかったし、今は礼子もあきらめたようである。
 しかし、あきらめるッて、何をあきらめるツモリだろう。彼にもあきらめたことは、いろいろあった。青木は立侯補をあきらめたし、大実業家になることもあきらめた。
 今でも青木があきらめないものがあるとすれば、あるいは礼子のことであるかも知れない。けれども礼子は、長平が彼女をてんで相手にしなかったので、それをそッくり昔の亭主に返礼して、ちかごろでは、益々冷めたく、青木を相手にしなくなっている。
 そのウップンを長平のところへ持っていこうという魂胆ではないけれども、彼の心にケイレンが起きたとすると、特効薬は長平のところへなんとなく泣きに行きたくなることである。
 しかし、彼が京都行きの汽車にのりこんだのは、そのためだというわけではない。なにがなんだか分りやしない。めいめいの人間には、一生の誤差がつもりつもってゼンマイが狂い、一時にケイレンを起すような時があって、それかも知れないと青木は思った。
「つまりケイレンだな。病原不明のゼンソクみたいな、精神的アレルギー疾患なのさ」
 人間は――すくなくとも彼自身は、年をとると、益々迷いが深くなるし、バカになるようだと青木は思わざるを得なかった。
 彼は京都の長平の閑居へ早朝に辿りつくと、まるでわが家のように落ちつきはらって、
「なア。長平さんや。こうして古都の静かな侘び住居で、あんたの顔を見ると、なつかしいなア。余らも老いたり、と思うよ。もっとも、あんたは、老いて益々若い気持かも知れないがね」
 自ら小女にビールを命じ、自分で栓をぬき、二つのコップについで、グッと一息にのみほした。
「ヤア、うまい。これが、人生だ。なア、長さん。人生は、たった、これだけのもんだよ。オレが、三四ヶ月前に東京でようやく君をとッつかまえた時にさ、別れぎわに、こう言ったのを覚えているかい。そのうち、一度、京都へ訪ねて行くぜ。なんのためだかオレも知らないけどさ、そのときは、門前払いはカンベンしておくれよな、と言ったのさ。人間は自ら予言するものさ。いや、結局、自分の予感だけの人生しか生きることができないのだな。しかし、そんなことは、どうだっていゝんだ。こうやって、ビールをのむだろう。すると、ほかのことなんか、実にとるにも足らないことになってしまうのさ。なア、キミ。ぼくは、いま、一つのことを悟ったのさ。曰く、老境ですよ。老いて、益々迷い深し。しかし、老境は老境ですよ」
 青木はしばらくビールをたのしんでから、ようやく記代子のことを思いだして、ひどい姿でどこからか彼のもとへ逃がれてきて、目下入院中だということを語った。
「ゆうべ、おそく、東京から電話で、そのことはきいていたよ」
 まだ朝食前の長平もビールをのみはじめた。
「どんな人生だって、同じことだろうよ。聖処女が、とたんに淫売になったところで、なんでもありゃしない。めいめいが自分の一生をかけがえのないものだと分ればタクサン。記代子がそんな風になったことと、女学校へ入学することと、差の違った出来事だと考えることができないよ。もう、そんな話は、よそうじゃないか」

       十

 青木は一ねむりして目ざめると、浴衣がけで京都の街々を散歩した。しかし彼には、街や人よりも、山や川が胸にしみてくるのであった。
 業平なりひらや小町や物語の光君という人などが花やかな貴族生活をくりのべていたころでも、古都は明るいものではなかった。賀茂の河原は疫病で死んだ人の屍体でうずまり、屍臭フンプンとして人の通る姿もなく、烏の群だけが我がもの顔に舞いくるっていたものだ。
 関ヶ原の畑をほると、今でも戦死者の骨がでゝくるそうだが、賀茂の河原からは、何も出てきやしないだろう。いっぺん洪水が起れば、すべては海へ流れて、河原は美しい自然の姿にかえってしまう。
 この古都では、山と川が、昔のままだ。山の中には七八百年来の建物があるし、川をさかのぼれば、遠い王朝のころと同じ自然の中で同じような生活をいとなんでいる農民たちがいる。
 古都の自然は美しいが、それが青木には暗く切なく見えるのである。千年来の古都の庶民の暗い生活が目にしみる。山々の緑の木々の一本ごとに千年来の人骨がぶらさがったり、からまったりしているような気がする。賀茂川が洪水ごとに山に向って逆流して、河原一面にすてられた屍体を山へ運んでまきちらし、山々だけがいつまでも変らぬ緑を悲しくとどめているような気がする。その骨の一本が自分だという気がした。
「京都の山の木の一本が、オレだったのさ。それを見てきたんだよ。なんのためにオレの心が京都へ行こう京都へ行こうと叫び立ったのかと思ったら、つまり、こんなことだったらしいや」
 青木はこう長平に語って、カラカラ笑いだしたが、
「なア、長平さんや。あんたが、又、昔のように、オレとユックリ酒をのんでくれるところを見ると、オレの心が、いくらか落ちついてきたのかなア。イヤ。こんなことを云ったって、君にへつらってるワケじゃアないのさ。オレはね、自分の迷いが自分だけじゃア防ぎとめられないことが分ってきたらしいのさ。だんだん、いろんなことに、あきらめるようになったのさ」
 青木は一ぱいごとにたのしんで何バイも酒をかさねた。
「君はいつも、仏像みたいに、だまっているなア。なんにも返事をしてくれねえや。しかし、君の人相は、いい人相だ。オレは安心して、なんでも喋っていられるよ。昔から、君は、そうだったよ。だが、あのときに限って、どうして、そうじゃなかったのだろう? え? ねえ、長平さん。オレにだって分ってるよ。決して人に愛されるようなオレの姿ではなかったことがね。しかし、オレは、真剣で、必死だったんだ。そんなことは、手前勝手なことには相違ないが、君だけは、そこを見てくれると思ったんだがなア。教えてくれよ。なぜ、怒ったのさ」
「知らないね。オレはお天気まかせだよ。しかし、真剣、必死というものは、自分ひとりでやるものだよ。だが、そんな話はよそうじゃないか」
「そうか」
 青木は、また、杯をかさねた。
「たしかに、いいことだ。こうして昔の友だちと静かに酒をのむことは、ね。いろんなことが、しみるように、分りかけてくるよ。まず、ひとつ、ハッキリ分ったことがあるよ。曰く、覆水盆にかえらず、ということだ。ありがたい。これで、オレは、ホッとしたなア」

       十一

「これが分っただけでも、オレは安心して、東京へ帰れるよ。覆水盆にかえらず。人倫は水のように自然のものなんだ。ひっくりかえって流れた水は、どう仕様もねえや。もっとも、自然に元へ集ってくれるなら、それも良しさね。とにかく、自然でなくちゃア、ダメなんだ。しかし、人間はミレンですよ。覆水を盆にかえそうとしたり、盆にかえりうるものと希望をすてなかったり、ね。思えば、ぼくはそのミレンとナレアイの遊びをしていたようなものさ。ねえ、長平さん。ぼくは老いて益々迷いに迷う人間になりましたよ。しかし、迷いのタネを過去に持ってはダメなんだね。白骨をさらすまで、水のように、迷いはただ盲メッポウ先へと流れるべきものですよ」
 青木の苦笑は明るかった。
「ぼくはちかごろ、三方損ということを考えていたですよ。ただ今、覆水盆にかえらず、を会得するに至って、三方損の考えが生きたものになりましたね。喧嘩両成敗はあたりまえのことでさア。両成敗、両方損、両名は当事者だから、文句なしに、成敗や損をあきらめるのさ。ところが、ここに、すべて物事には当事者ではない三人目がいて、三成敗や三方損というマキゾエをくらって、ついでに損の片棒だけをかつがされている運のわるい奴がいるものさ。まったくですよ。人生の諸事諸相には、かならずこのトンマな三人目が隅ッこでブウブウ言っているものさ。長平さんにあてつけるわけではないが、いつのまにやら、長平さんと梶せつ子がよろしく両成敗の当事者となっている隅ッこで、いつのまにやら三人目の一方損をひきうけてブウブウ言っているのがワタクシさ。御両氏を両成敗と言っては悪いが、しかし、人生、すべてはいずれ両成敗ですよ。それは分って下さるでしょう。ヒガミではありませんやね。だが、長平さん。オレみたいに、人生の大半を三方損の三人目で暮してきた奴はいないよ。三方損の運命に、甘んじるべきや、否や、これ実に、小生一生の大問題、面壁九年の一大事であったです。しかし、面壁、一週間足らずで、解決したね。三方損。よろしい。ねえ、長平さん。ハッキリ、よろしいのです」
「そう簡単には、いかないだろうよ」
 長平は机上から一通の封書をもってきた。
「この速達は、今、きたところだよ。北川が重病でねこんだそうだ。死ぬかも知れないらしいね。ルミ子というパンパンが知らせてくれたんだよ」
 青木は手紙を読んだ。簡単な文面だった。放二が病床について、四十度の熱がつゞいている。入院をすすめても、きいてくれない。入院の費用で困っているわけではなく、放二の頑固なのに困っているだけだが、入院して充分の手当をうけるようにすすめてくれないか、という依頼であった。
「ぼくは明朝上京するが、君は、ここにブラブラしていても、かまわないぜ」
「イヤ。ぼくも上京しよう。おもしろいことになりそうだ。君は主として北川君を見舞うらしいが、ぼくは記代子さんを見舞うとしよう。しかし、なア、長さんや。記代子さんが重病で放浪の旅から戻ってきてもビクともしないという心事も分るには分るが、北川君の病床には駈けつける。これも分るには分るが、一考を要するところだろうと思うね。アマノジャクでもあるし、理に偏してもいる」
 長平の答えはなかった。青木はやや苦笑して、
「フン。よかろう。タヌキかトラか、ただのネズミか知らないが、オレは長さんの正体を見とどけるのがタノシミさ。オレが来年も生きているとしたら、ミレンのせいではなくて、長さんの正体を見とどけたい一心だと思ってくれよ」


     明るい部屋


       一

 放二のやつれ方はひどかった。
 長平は知人の医師をともなって診てもらったが、ルミ子の部屋へしりぞいて話をきくと、彼は放二を生かそうとする情熱を起そうとしなかった。
「いますぐ入院というわけにはいきませんよ。うごかすと、死期を早めるだけのことです。三四日手当をしてみて、多少力がついたとき、病院へうつすことはできるかも知れませんが、どっちみち、長い命ではありません」
「どれぐらいの命ですか」
「うまくいって、二三週間」
「百に一ツも、望めませんか」
「百パーセントです。ここまできては、奇蹟は考えられません」
「会ったり、話を交したりしない方がよろしいですね」
「そう。ですが、どっちみち助からないイノチですから、親しい方々が心おきなく話を交しておかれることを止めるべきではないと思いますね」
 ルミ子は医師の冷淡な言い方があきたらないらしく、
「十分か十五分ぐらいの診察で、どうしても助からないなんてことが、ハッキリ分るんですか。そんなにハッキリ言いきるほど、自信がおありなんですか。診たて違いということが、よくあるでしょう。百パーセント死ぬなんて、そんな自分勝手な、自分だけ絶対に偉いようなことを仰有って」
 ルミ子は自分がとりのぼせているのに気がつくと、自分のノドを手でおさえて、あきらめたように沈黙した。又、ふと、顔をあげて、医師を見つめて、
「先生。奇蹟は、どこにでも、あります。情熱の中にあるのですわ。先生が治してあげようと信じて下されば、奇蹟はあるかも知れないのです」
「そう。ぼくの言いすぎでした。毎日きて、できるだけの手当をつくしますから、安心なさい」
 長平一人を相手のつもりで腹蔵ない意見をのべていた医師は、伏兵の爆撃におどろいたが、世なれた態度でルミ子を慰めてやることを忘れなかった。
 医師を送りだしてから、長平は放二を見舞って、
「あんまりガンコに、ひとりぎめに諦めちゃアいけないぜ。ノンビリとノンキな気持になるがいい」
 放二は童子のようにニコニコして、
「ぼくは、ノンビリと、ノンキな気持なんです。すべてに、満足しています」
「そうか。それに越したことはない。ぼくは東京にいるあいだ、ルミ子の部屋に泊っているから、用があったり、話相手が欲しいときには、よびによこしたまえ」
 放二は、又、童子のようにニコニコした。そして、うなずいた。
「先生、ぼくに看護婦をつけて下さるんですッて?」
「そうだよ。なれた者でなくちゃア、寝たきりの病人は扱えないものだよ」
 放二はうなずいて、
「それは、ありがたいのです。なれない女の子たちに、メンドウをかけるのは、気がひけていたのです。ですが、宿なしの女の子たちを、この部屋から追いださないで下さい。先生が気をきかせて下さって、あの子たちに他の部屋を世話して下さっても、こまるんです。あの子たちの身上は自由なんです。ここにいるのも、ここを去るのも、あの子たちの自由にまかせて下さい」

       二

 長平はルミ子の部屋へ泊りこむことになって、よいことをしたと思った。こんなに虚心坦懐に、女にもてなされたり、女を愛したりして、深間の感情というものをまじえずに、淡々とくらせるのが、ありがたい。ルミ子は魔性というものが少しもなくて、そのくせ、生れつきの娼婦というのかも知れなかった。
 ルミ子は長平から放二のよろこびそうな新刊書をきいて、それを買ってきて、一日中、放二に読んできかせていた。放二が疲れたりねむったりすると、自分の部屋へ戻ってきて、長平の邪魔にならないように、ねころんで、うたたねしたり、本を読んでいた。
「先生、童話すきですか」
「そう。すきだね」
 ルミ子は、どうも困ったという顔をした。
「兄さんも好きなんです。読んでくれッておッしゃるのよ。でもね。読みつづけられなくなってね。時々ね、よむのを止してボンヤリしていることがあるのよ」
「なにを読んだね」
「風の又三郎。兄さんが、それを読んできかせてッて。童話ッて、みんな、あんなに悲しいの」
「そうかも知れない」
「変な悲しさですもの。いらだたしくなるのよ。あれじゃア、助からないわ」
「どんな風に、助からないのかね」
「ほんとに悲しいッてことは、あんなことじゃアないでしょう。私、悲しいときにはね、ウガイをしたり、手を洗ったり、そんなことをして、忘れちゃうのよ。無い時にお金のサイソクされたり、叱られたり、ね。それが悲しいことでしょう。童話と怪談は似ているわ。なんだか、ついて行かれない。いつまでも、からみついてるようで、女々しくッて、イヤなんです」
「子供の時のことを、思いだしたくないことが有るんじゃないのか」
「いゝえ。そうじゃないんです。ウガイをしたり、手を洗ったりして、忘れられないようなことは、私たちの生活にはないのです。童話の中にあるだけなのです」
「なるほど。つまり、余計ものなんだな」
「お金で物を売ったり買ったり、身体を売ったりお金をもらったりでもいいわ。それから、借金したり、お金がなかったり。恋をしたり、しなかったり。私の毎日々々のくらしには、あんな変な悲しいこと、ないんです。童話や怪談は、いけないことだと思うんです。ウソですもの」
「どうも、ぼくには分らないが、パンパンの生活をそッくり書いても、童話になるぜ」
「なるんですか!」
「風の又三郎と同じような童話ができると思うけどね。しかし、君の考えていることが、ぼくには、まだ、分らない。君は、山や川や海の景色をみてキレイだと思わないのか」
「思わないことは、ありません。でも、つまらなくも見えます」
「人間は?」
「人間には善いことと、悪いことがあるでしょう。善いことよりも、悪いことの方が、もっとタクサンあるでしょう。人間は、そうなんです。悪い人間もいます。悪い心もタクラミもあります。童話のように善いことずくめじゃないのです。怪談のように悪いことずくめでもありませんけどね。小説ッて、もっと、人が悪くなくちゃア、いけないと思うんです。あんなに変に悲しい童話、助からないんです」

       三

「お父さんやお母さんは、いるのかい?」
「ええ。それでパンパンは、おかしい?」
 ルミ子は笑った。いつもながら、あどけない笑顔である。そのせいで、ルミ子の部屋はいつも、明るい。長平は疲れた手を休めて、ルミ子と話を交すのがたのしかった。
「生れた家へ帰りたいと思わないかね」
「思いだすことはあるけど、帰りたいとは思わないわね」
「病気になったり、苦しいことがあってもか?」
「ええ。生れた家は、もう無いことにきめたの。私はね。街の女。街の子よ。今日があるだけよ。昨日も、明日もないわ。今のことしか考えない」
「ホウ。立派な覚悟だ」
「先生は?」
「そう見事には、いかないな。昨日のことも、明日のことも、考えるよ」
「私も、そうよ。でも、それじゃアこまるのよ。パンパンには、ね。昨日も、明日も、あると、こまる」
「なるほど」
「私だって、パンパンでなければ、昨日も明日もある方が都合がいいだろうと思うわ。その方が、自然だものね」
「そうかねえ。今のほかに、昨日も、明日もある方が、自然というものかねえ」
「冷やかしちゃア、ダメだわ。そんな風にいわれると、迷ってしまうわ」
「ほう。何を迷うの?」
「だって、誰だって、自分の今のこと、今考えていること、今の生活、信じたいのですもの。今のこと、後悔する日がくるなんてこと、苦しくッて、とても考えられないわ」
 なんとなく、まぶしそうに、笑う。思い切って切ないことを語っていても、それだけであった。
「いつか後悔する日が来そうな気がするのかい? ヤ。そんなことをきいて、わるかったかい」
「いいえ。ヤだなア。先生は。そんなにクヨクヨしそうに見える?」
「そこが、ぼくにも分らないよ」
「先生は、どうなのよ。後悔が、こわい?」
「後悔は、ムダだと思うよ」
「そうなのよ。ですけどね。私は、こう言えると思うわ。後悔する日なんて、もう、来ッこないの。私のところへは、ね。私は、そう信じることができるんです」
 言葉が、すこし、はずんでいた。彼女としては、精いっぱい力強い言い方である。明るい笑みの中に、瞳があくまで澄みきっていた。
 すさまじい確信であった。はずんだ言葉と、明るい微笑が長平の胸にくいこむ。この少女の心のめざましい安定というものが、正確に長平に移動して、彼の心まで安定させてくれるようだ。
 長平はこの安定の静かなことと美しいのに心を洗われずにはいられなかった。ステバチでもなければ、気負ったところもない。十九の少女が、その毎日の生活を正しく生きて、確実につかみとった安定なのである。そしてミジンも感傷がないのは、この少女の身辺を益々清爽なものにしているのであった。
 ただ一つ、この少女がムリをしていることはと云えば、放二に対する感情であるが、それがムリなく起伏をしずめて自然なものに見えるのは、パンパンという職業からくる特典のせいかも知れない。ルミ子の血が多くの男によって汚れているのは、そうでない場合よりも、長平にはかえって清らかなものに見えたのである。

       四

 長平は上京したが、まったく外出しなかった。ある日、青木が遊びにきて、
「君も乱暴なお方だな。上京して一週間にもなるのに、記代子嬢の病室を見舞わないのは、どういうワケです。君の心境がききたくなって、本日は、私製詰問使というわけさ」
 長平は忘れていたことを理不尽に思いださせる青木の言葉がうとましく思われた。
「君は、そんなことに、どうして、こだわるのだろうね」
「これは、おそれいった。こッちがインネンをつけられることになるとは思わなかったね。上京して一週間にもなるんだから、一度ぐらいは見舞ってやりなさいよ」
「そういうもんかね。上京と云ったって、こゝと病院には距離があるよ。京都から病院までの距離と、こゝから病院までの距離と、距離があるということじゃア、おんなじことじゃないのか。記代子の病室へ行く必要があれば、京都からでかけるさ。上京したから、ついでに用のないところへ行く必要があると、君は考えているのかね」
「益々おそれいりましたね。人生には、ツイデ、ということが、ないんですかい」
 ルミ子が屈託なく笑って、
「ツイデ、ッてことは、たのしいわね」
「ホレ、ごらん。この可愛いいお嬢さんが、証明してくれましたよ。ねえ、可愛いらしいお嬢さん。しかし、ツイデは、たのしいかねえ」
「用たしに行くでしょう。ツイデに、このへん、ぶらついてみましょうと思うわね。たのしいわ」
「ずいぶんジミなお嬢さんだね。そんなのが、たのしいかねえ。ほんとに」
「先生は、腰をあげるのがオックウなんでしょう。私は、そう。腰をあげなきゃならないと思うと、たいがいのことは、その値打も魅力もないように見えてしまうわね」
「意気投合していらせられるか」
 青木は苦笑して、ねころんだ。
「パンパン宿というものは、威儀を正して坐っていられない気分になるものらしいや。御免蒙って、失敬しますぜ。ところで、長さんや。重ねて、おききしますが、記代子さんの病室を見舞う必要はないのですか」
「先方が会いたがってもいなかろうよ」
「なるほど。しかし、なんとか、してあげる必要はないかねえ」
「君自身が何かの必要を痛感しているらしいな。ぼくに何をやらせようというのかね」
「君自身には、ないのか」
「ない。記代子がぼくを必要とするまでは。どうも、君は、妙にひねくれて、考えているね」
「そうかい」
 青木は素直に考えこんだ。理窟は、たしかに、そうでもある。しかし、これでは、隣人というものが助からない。
「なア。長さんや。記代子さんの放浪、恋愛、愛人の裏切り、輪姦、脱走、病気。よくもまア、これだけの困ったことを、たった一人で引きうけたものさ。隣人は不幸を分ちあうものさ。君は彼女の死んだ父母に代るべき最も近い肉親ですよ。最大の隣人ですよ。君が何かをしてやらなくて、誰が彼女の再生の支えとなる者があるのかね。え?」
 青木は改まって、起き上らずにいられなかったが、それが一そう長平に不興を与えたようであった。
「記代子にまかしておきたまえ」
 長平はソッポをむいで、つめたく答えた。

       五

 青木は長平の顔を見るのも不快な気がした。いつもながら、思いあがった冷めたさである。
 理窟を云えばキリがない。どんな非行も、理窟で筋を立てることはできるものだ。
 やりきれないのは、長平という男の独善的な暮しぶりだ。行い澄ました偽善者の方が、まだ、どれぐらい可愛いいか分らない。姪の病室を見舞いもしないで、パンパン宿でノウノウとしている悪どさ。その暮しぶりの独善的な構図が、あくまで逆説的だから、鼻もちならぬ毒気に当てられて、やりきれなくなってしまう。
 たかが小娘のパンパンを心の友であるかのように、一ぱし深処に徹して契りを結んでいるかのような、平静や落付きも、やりきれない。思いあがっている、という一語に全てがつきている。
 生活に不安のない人間が、彼によりすがる人々を突き放して勝手に安定するぐらい、容易なことはないのである。要するに、利己主義という一番平易な一語につきる。
 青木はつい皮肉の一つも言わずにはいられなかった。
「貧乏人のヒガミというものは怖しいやね。ねえ、長さんや。貧乏人はあなたのことをこう言うよ。大庭長平という人物は高利貸しと同じ性質の利己主義者にすぎない、とね。誰から何をしてもらう必要のない人間が、誰に何もしてやらないぐらい簡単なことはないやね。それを一ぱし尤もらしく筋を立ててみせる学の心得があるだけ、隣人の心を傷つけ、害毒を流す悪者である、とね。単純明快に、あなたは悪者であるですよ」
「そう。悪者というのかも知れないわね」
 青木の言葉をひきとって、感懐をもらしたのはルミ子であった。青木の皮肉な心をひきつがずに、言葉だけを平静にひきついだので、青木は虚をつかれて、ルミ子を見つめた。
「そう。彼は悪者以外の何者でもありませんよ。しかし、ルミちゃんや。悪者の定義を甘やかしちゃいけませんぜ。何故に彼は悪者であるですか」
「利己主義ということは悪者ッてことじゃないでしょう」
「ア。そうですか」
「隣人に冷めたいことも、悪者ッてことにならないわ」
「そのほかにも悪者がいるのかねえ」
「私はね。沙漠へ棄てられた夢をみたことがあるわ。誰が棄てたか知らないうちに、誰かに棄てられていたのよ。みると、お母さんが歩いて行くのよ。お母さん、助けてッて、叫んで追ッかけようとしても、足が砂にうずもれて進むことができないうちに、お母さんがズンズン歩いて行ってしまうの。とりつく島もないわね。でもね。ズンズン行ってしまうお母さんが悪者ッてことはないわ。誰も悪くはないのね。そんな夢を見ることが、悪いことなのよ」
「夢が悪者なのかい」
「私はね。大庭先生がね。人に夢を与えるようなところがあると思うのよ。だから、悪い人だと思うのよ」
 ルミ子は真顔でそう言ってしまうと、ふき出して、大そう、こまりながら、
「先生、ごめんね。私はね。人に夢を与えることが、悪いことだと思うんです。怖しいのです。私は人に夢を与えるような気持なんかなかったんですけど、何かしら夢をみて死んだ男の人があったんです。でも私は悪いことをしたとは思いませんでした。したツモリがないのですもの。先生も、そうかも知れません。でも、それは、きッと、悪い事かも知れません」
 ルミ子は睡たそうに、目をふせた。

       六

 せつ子のような多忙な女は、かえってヒマがあるのである。時間を巧みに利用するからであった。
 青木と長平がとり交した「ツイデ」に関する論争などは、彼女には論議の因にならない。彼女自身は行えば足りて、他人のことはどうでもよかったからである。
 そのせつ子も、放二の病床を訪ねることと、そして長平に会うことには、気が滅入った。パンパン宿にすみついて、一向に外へも出たがらない長平がバカバカしいからであった。
 せつ子は青木から長平を訪ねてきての報告をきいて、
「そのパンパンは可愛いい子?」
 青木はモッタイをつけて、
「左様。戦後のプロスチチュートは、美貌と同時に学があるね。未熟な芸をひけらかして、古風な型にはまった芸者などにくらべると、身に即した独自な見解をもっていて、甚だイキのよい生物ですな。その中で特に傑出しているのがルミ子というパンパンで、美貌に於ても、独自の見解に於ても、各界の一流の女傑に比して遜色ないほど、一家をなしていらせられるです。あの子の十九という年齢について考えると、他の女傑は、大そうムダに時間を費したものだなと考えさせるところがあるね。女傑は貞操をすてることによって、頭脳的に成育する時間を甚だしく短縮すると見ましたが、どうですかな?」
 せつ子は顔をそむけて、青木を退散させた。
 彼女は特に長平が好きだというワケではない。長平とてもそうである。長いこと会わずにいても、なんということもない。しかし、会えば愉しい時間をすごすことができて、イヤな気分というものに患わされることが殆どなかった。つまり気質的になんとなくウマが合っていて、会うたびにあたたかい友情がよみがえるが、離れてしまうと思いださずにすむのであった。
 せつ子は十九の小娘を嫉妬するイワレをもたなかったが、まったくウンザリした。親友の行跡が、あんまり下らなくて、バカバカしいからである。マジメな顔をして、そんなところへ訪問できるものではない。
 今にこッちへ出向くだろうと思っていたが、青木のつたえるところによると、パンパン宿に居るということと、東京に居るということには、京都と東京と同じだけの距離があって、パンパン宿から東京の一地点へ出向くことは、特に京都から出向くことと同じ意味合いになるのだそうである。パンパン宿から一歩もでずに、そのまま京都へひきあげてしまいそうであったが、長平はたしかにそれをやりかねない性癖であった。
 せつ子はバカバカしくてやりきれなかったが、長平を訪問することにして、穂積をよんだ。
「あなたも一しょに行きましょうよ。バカバカしくて、一人じゃ行けやしないわ」
「ハッハ。ビックリ箱でも、ミヤゲに持ッてらッしゃい」
 しかし、せつ子は珍奇なミヤゲモノをズラリと並べて信長を呆気にとらせた秀吉の女房のような女であるから、放二の病床を慰めるもの、長平へのもの、ルミ子への手ミヤゲに至るまで、しこたま買いこんで、パンパンアパートへ高級車をのりつけた。
 ルミ子の部屋へ一足はいると、
「まア、可愛いいこと! あなた、ルミ子さんね。こんなに清楚で、明るくッて、美しいお嬢さんが、こんなアパートにねえ! あなたは、ほんとに、サンドリヨンね」
 長平には目もくれず、挨拶ぬきでルミ子をほめちぎったが、腹の中ではバカバカしくッて、ウンザリしているのである。

       七

 接客業の女というものは、交際なれているように思われがちだが、実際はアベコベである。彼女らが自由にふるまえるのは、自分の職域においてだけで、一歩出ると敵地の如く、特に同性との社交性を欠いている。女ということを売り物にしているのだから、同性に対しては、交際よりも、敵対感が先立つのはムリがない。
 せつ子は彼女らを心服させるコツを心得ていた。彼女らには敵対感が尖鋭で余裕がないが、一段高く冷静にみると、甘さや盲点がよく分る。心服させるのはワケがない。
 しかし、ルミ子は、ちがっていた。肩をそびやかして対するようなところもなく、狡猾な処世技術によって鋭角をかいているのでもないようであった。
「とても親切に看病して下さるんですッてね。放二さんが感謝していましたよ。若いうちは、親切だけでは、行き届かないものだけど、あなたはお利巧なのね」
 善悪いずれにもとれるような、妙に含みの多い言葉で、せつ子はルミ子をおだてたが、ルミ子は軽く笑っただけで、
「私はヒマなのよ。先生がズッと泊りのお客さんでしょう。ほかの子たちは生活しなきゃならないけど、私の生活は安定。ゴルフも、ダンスもできないし、魚釣りも、ビンゴも、キライだし、パンパンてものは、人並みに遊ぶことを知らないものらしいのね。生活が安定すると、こまるのよ。病人の看病ぐらいに適しているらしい」
 ルミ子の言葉には邪気がないのだが、せつ子は自身の気持にこだわるから、十九の女隠者の述懐を素直にうけとれないのである。
「じゃア、あなたの恋人には、病人が適しているのね」
「そうでしょうか?」
 あどけない目をクルクルさせて、せつ子の瞳をのぞきこんだ。
 せつ子は調子を変えて、
「あなた、学校は?」
「田舎の高等学校一年生の一学期まで。東京へとびだしてきましたの」
「あなたは利巧だから、何をやっても、成功するわね。何か、やってごらんにならない。私、後援してあげるわ」
 ルミ子は大そう困ったらしく、
「そう見えるんですか?」
「自信を持たなきゃダメよ。あなたは身に具った珍しい天分のある方だわ」
「そうですかア」
 ルミ子はくすぐったそうにニコニコしていたが、やがて、哀願するように、
「そんなこと、おッしゃらないで。世間には、いろんな望みをもっていて、誰かがお金を貸してくれないかなア、なんて考えてる人がタクサンいますわ。ですけどね。私は、そうじゃないんです。ほかに望みがあって、誰かの力をかりたければ、こんなこと、していませんわ」
 ルミ子の顔は平静であった。そして静かなる微笑にも変化はなかったが、語調がやゝ改まってきたようであった。
「私だって、人並みに、何かがやれるぐらいの自信はありますけどね。私は、やる気持がなくなっているのです」
 ルミ子は自分の気持が改まっているのを羞じて、笑いだした。
「こんな話、よしましょう。面白い話、教えて。女の社長さんて、どんなお仕事なさるんですか。お仕事の話、きかせて。私もパンパンの話、きかせてあげるわ。私は商売の話、すきなんです。それしか知らないのですもの」

       八

 せつ子はいつまでもルミ子を相手にしていなかった。
「食事はどうしてらッしゃるの?」
 長平にきいた。ルミ子の部屋には、炊事道具も、食器らしいものもなかった。コップと、小さなヤカンがあるだけであった。
「なんでも出前をするようになったからね」
 長平は不自由を感じていない様子である。
 せつ子は、食って生きれば足りる、という生活態度には賛成できなかった。それではミもフタもないし、生きるハリアイもない。
 ルミ子の心の安定などというものも、同じように乞食の心境にすぎないのである。生れたまま、手数をかけずに、ほッたらかしておけば、元々、人間はそれだけのものだ。それだけではミもフタもないから、いろいろの手間をかけ、ムダをする。人生は実用の如くであるが、ムダをたのしむことでもある。人為的なタノシミを発見すること。歴史の跡にしるされた人間の逞しさといえば、それだけである。
 ルミ子の安定が十九という年齢によって珍しいということすらもウソである。乞食や泥棒の心境は年齢に関係のあることではないのである。ジオゲネスは学問というムダを重ねたおかげで、老いぼれて乞食の心境を会得したが、ムダをしなければ、子供の時から誰でもがなれる心境だ。
 長平は乞食の安定に同感している人間ではない。人生は実用の如くで、実は、最もムダを活用すべきものだ、ということを骨の髄から会得している芸術家である。人為というものを自然の上におくことを天性としている人間であった。
 しかし、人間には郷愁というものがある。たまには、炊事道具もない部屋で、乞食の心境を会得した十九の娘のモテナシをうけることは、マンザラではないかも知れない。それは休養というものである。
 しかし、人生と休養をゴッチャにするのは、利巧な人間の為しうべからざることである。休養の場を、実人生の場の如くに、安定しきっているというのは、よくよくのバカのやることで、その安定が見るからにタノモシそうでも、実用の役に立つものではない。実用にならないものは、デクであり、バカバカしいの一語につきる。
「散歩もなさらないの?」
「そう云えば、このアパートから一歩も出たことがないね」
 デクは今さら一歩もアパートから出なかったことを発見した様子であった。
「たまには街へでてごらんなさい。復興途上の街というものは一ヶ月に三年ぶんぐらい変るものですよ。一夏で銀座もまるで変りましたよ。食事がてらブラついてごらんなさい」
 長平はオックウであった。彼は散歩というような気持にはなれなかった。街へでるときは、街の中へ、溶けこむ時である。街へ生死をなげうつ時だ。
 なにも、このアパートにいたいわけではない。しかし、とにかく、この一室にいる時はこの一室に溶けこんでいる。そして、さらに街へ溶けこむことが、今は必要でもないし、オックウであった。
「今は、オックウです」
 長平は気の毒そうに、つけたした。
「ぼくが上京していることを、見て見ぬフリをしてくれないかな。街へでる時には、京都から、街のために上京します」
 デクの気持が分らぬではないが、バカバカしいことには変りがない。とにかく見切りをつけるのが利巧だから、せつ子はこだわらなかった。

       九

 放二はその二三日いくらか元気をとりもどしたように見えた。せつ子と穂積が訪ねた日は、夜になっても、人々が心配したほど疲れを見せなかった。
 ルミ子が遊びに行くと、
「梶さんに会いましたか」
 と、放二がきいた。
「ええ。私の部屋へいらしたわ。ハンドバッグいただいたの」
「話をした?」
「ええ」
「どんな話?」
「そうねえ。面白い話じゃないわ。お世辞の多い方ですもの」
「フフ」
 放二は笑った。
 放二には、梶せつ子という女の像が、いつも目にしみて映じていた。放二の目に映じているせつ子の像を、人々は、せつ子には似ても似つかぬウソの像だと云うかも知れない。それは放二には問題ではなかった。
 せつ子は女らしい女でありすぎるのだ。女のもつ性質の一つ一つを、あまりに豊かに持ちすぎている。特に一つに恵まれるということがなく、全てに平均して恵まれているために、彼女は常に平凡であるが、同時に、停止することも、退くこともできないのである。家庭的でもないし、娼婦的でもない。浮気でもないが、中性でもなかった。特に何物でもない。ただ非常に平均しすぎた女。平均という畸型児であった。
 彼女は家庭婦人となるにしては、男性への洞察力が鋭すぎたし、虚栄心も、名誉慾も高すぎた。しかし、事業家として成功するには、あべこべに、潔癖でありすぎたし、好き嫌いが強すぎる。人を信頼するに過不足でありすぎる。
 彼女の事業も、すでにかなり衰運に傾いているのではないかと放二は思っていた。彼女は、どこへ行くだろうか? それを思うと、放二は暗い。
「お世辞を使わずに、思うことをハッキリ言える人は、強い人ですよ」放二はルミ子に語った。
「梶さんは、お世辞を使いすぎるし、無愛想でもありすぎるし、憎みすぎもするし、愛しすぎもするのです。一ツ一ツが強すぎて、めいめい、ひッぱりッこしているから、あの人の中心には、いつも穴があいているのです。一ツ一ツひッぱる糸が生きているけど、あの方には、中心がないのです。女というものを象徴した人形にすぎないのです」
 ルミ子はビックリして放二を見つめた。にわかにウワゴトを言いだしたのかと思ったのである。放二の言葉は、てんで意味がわからなかった。こんなにワケのわからないことは、今まで言ったことのない放二であった。
 放二はやつれて、目が大きく、頬がこけていたので、安らかな顔ではなかった。微笑しようとしても、吐く息が大きくて、思うようにはできない様子である。しかし、ウワゴトではないのであった。
「ルミちゃんは、梶さんの妹なんです」
「え?」
「気質のちがう姉妹があるでしょう。ルミちゃんは、気質のちがう妹なんです」
「そうですか」
「そうです。ですが、女らしい女ということでは、二人とも、似ています。ルミちゃんは、はじめから不幸を選んだのは、賢明だったかも知れません」
「そうですか」
「不幸を選ぶ事のできない人は」
 そう言いかけると、放二の目から一滴の涙がこぼれた。

       十

 放二の部屋には、五人の女たちが、まだ寝泊りしていた。
 重病人の部屋であるから、静粛、清潔ということを医師や看護婦にくどく言い渡されていたし、時々見舞い客もあることだから、万年床をしきッ放してヒルネもしていられない。シュミーズ一つ、ネマキ姿というわけにもいかない。
 以上のことを封じられると、彼女らの自由の大半は失われたようなものであるが、彼女らはこの部屋から立ち去ろうともしなかったし、日中もほとんど部屋にゴロゴロしていた。
 彼女らが泊りの客をつかまえるのは、困難な事業に属するものになっていた。五百円ぐらいでも外泊の客がひろえればよろしい方だ。すると宿へ二百円おいて手取りは三百円である。ママヨと思えば三百円でも客をひろった。すると翌朝手に残るのは百円であった。
「アア! 自分の部屋が欲しい!」
 五人の誰かが毎日そう呟いていたが、誰も真剣に部屋をもつための努力をしているものはなかった。
 五人はめいめい疑り合っていた。誰かが秘密に貯金しているのではないか、と。なぜなら、彼女らは貯金を持ちたいということが、何よりの念願だったからである。
「アア! お金がほしい!」
 毎日誰かが血を吐くような叫びをあげたが、すると一同ゲタゲタ笑ってしまうのである。
「いくら、たまった? 畜生!」
 ヤエ子は病人の枕元であるのもかまわず、自嘲の苦笑をうかべて、憎らしげにルミ子によびかけた。
「あの女が、ハンドバッグ、くれたんだって? 畜生! オレにくれろよ」
 ルミ子は答えなかったが、病人の足もとをゆっくり一と回りすると、ねそべっているヤエ子のクビをおしつけて、おしかぶさって、
「お前には、アドルムあげるよ。ねな!」
「畜生!」
 ヤエ子は牛のように跳ね起きた。ふりむきざま、右の拳に力いっぱいルミ子の顔に一撃をくれた。ルミ子は一枚の紙のようにフッとんだが、倒れた上へヤエ子がとびついたのは殆ど同時であった。馬乗りになってクビをしめたが、ウッと声をあげたのは、押しつけているヤエ子である。頬をつねった。目のフチをつねった。あとはメッタヤタラに顔面をなぐった。狂気のようである。
 他の女たちがようやくヤエ子を距てたが、ルミ子の唇がきれて血が流れている。
「殺せ! はやく、殺せ!」
 とり押えられたヤエ子は足をバタバタさせて叫んでいる。
「なにが、殺せ、さ。ルミちゃんを殺しかねないのは、あんたじゃないか」
「ヘッ。それが、どうした。お前だって、ルミ子が死んじまえばいいと思ってやがるくせに。アタイはアイツが憎いんだ。自分だけ、部屋をもって、羞しくないのかよ! アタイたちが宿なしで、うれしいだろう! 畜生!」
 ルミ子の顔色が変った。
「ここを、どこだと思うのよ」
「チェッ! なんだと。どこだって、かまうかい。お前が、ここの、何なのさ」
 ルミ子は語るにも叫ぶにも窮して、涙があふれた。ヤエ子はそれを憎々しげに見すくめた。
「フン。結構な御身分さ。自分だけがこの部屋のヤッカイ者じゃないと思ってやがる。オレたちは貧乏だよ。金がないんだよう。金がありゃ、誰だって、思うことができるんだ」

       十一

「思うことができるなら、静かにしたら、どうなのね」
 と、一人がたまりかねて、たしなめたが、
「よせやい。アタイ一人が悪いのかい。わるかったネ。お前たち、お金あるのかい。ヘソクリがあるなら、正直に言いなよ。アタイだけが、一文なしの、宿なしだと笑いたいのかよ。叩ッ殺してやるから、笑ってみやがれ。オイ。笑えよ!」
「勝手におしよ」
 一同はウンザリしてヤエ子を突き放した。部屋にいて喚きたてられては困るから、
「オフロへ行こうよ」
「そうしましょう」
 と、一同は仕度をはじめる。ヤエ子は腕ぐみをしてジロリと一同を見上げて、
「フン。アタイにオフロ銭もないのが、うれしいのか。見せつけたいのかよ」
「うるさいね。オフロ銭ぐらい、だしてやるよ。いつだって、そうしてもらッてるじゃないか」
「いつも、そうで、わるかったな」
「だまって、ついてくるがいいや」
「バカヤロー。オフロ銭ぐらいで、大きなツラしやがるな」
 一同はヤエ子にかまわず、オフロへでかけた。ヤエ子は目をなきはらして便所へとびこんだが、実は便所の窓から、道を行く彼女らの後姿をうかがっていた。
 ルミ子が自分の部屋へもどって、オフロ道具をかかえて、彼女らを追うて去る姿を見ると、ヤエ子はようやくホッとした。彼女らの姿が見えなくなり、しばらくしても戻ってこないのを認めて、ヤエ子は便所をでた。そしてルミ子の部屋の戸をあけた。
「ルミちゃんの着代え、とりにきたのよ。オフロ屋の前のドブへはまっちゃッたのさ。トンマなヤツなのさ」
 ヤエ子は長平の存在などは、眼中になかった。パンパン宿へ一週間も泊りこんでいるジジイに利巧な奴がいる筈はない。助平の甘チョロにきまっているのである。
 ヤエ子は押入をかきまわした。行李が一つある。彼女はそれを、ゆっくりと、五分ぐらいも、中身をしらべていた。
「なにをしてるんだ。早く着代えを持って行ったらどうだ」
 長平がジロリとふりむいて言っても、ヤエ子は平気であった。
「ちょッと中身を見ているのさ。あんまり、たくさん持ってるから、目がくらまア。コチトラは着たきり雀だから、ビックリすらアね。へ。ずいぶん派手に、買いこんでやがら。パジャマ三枚もってやがら。人をバカにしてやがるよ。コチトラ、シュミーズの着代えもありゃしないよ。ズロースもね。エッヘ」
 最後のワイセツな言葉と笑いは、長平にあびせかけたものである。
 とうとう虎の子のありかを探しだした。銀行の通帳と一万円余の現金であった。彼女は行李の中のものを片づけて、
「これがキモノか。これがジュバンだ。このフロシキに包んでやれ。ヘッ。ズロースと、お腰も持ってッてやろうかな」
 と、又、長平に嘲笑をあびせかけて、包みをかかえて悠々と消えてしまった。
 風呂から戻った一同は、これを知って、被害者のルミ子よりも顔色を失った。
 ヤエ子の宿命と自分たちの宿命が、遠く離れたものでないことを、彼女らは身にしみて知っていたからである。ヤエ子は追われて立ち去ったのだ。追われる圧力を彼女らも身にしみている。まだしもルミ子の物を盗んだヤエ子は賢明だ。彼女らの心にうごいたものは、羨しさであった。

       十二

 長平はヤエ子の泥棒ぶりに感心した。よほど天分があるようだ。痛快になめられたものであるが、腹をたてる余地がない。
 彼の存在を眼中になく、行李をあけて十分ちかく金品を物色した落付きというものは、水際立っている。このとき彼の存在というものは、地上で最もマヌケ野郎に相違ない。おまけに、ズロースや腰巻などゝ適切なカイギャクを弄して、マヌケの上にしからぬ根性に至るまで心ゆくまで飜弄しつくして退散しているのである。
 しかし、考えてみると、今までにこういうことが起らなかったのがフシギなのだ。ろくに稼ぎもないくせに、ムダ食いやムダ使いがやめられない五人の宿なしパンパンが、今まで泥棒しなかったのが珍しい。
 放二をめぐる生活の雰囲気が、彼女らの情操を正しく優しくさせていたと見るのは当らないようだ。盗みをしない方が、確実に生活安定の近道だったからである。雰囲気などゝいうものは、その安定を見定めた上で現れてくるセンチな遊びにすぎない。
 盗みをはたらく条件をそなえている人間が、雰囲気の中で妙にセンチにひたっているよりも、盗みをした方が清潔かも知れない。ヤエ子の大胆不敵な盗みッぷりから判断しても、こう判定せざるを得ないのである。雰囲気などというものは、実際は無力なものだ。
 しかし、ついに雰囲気がくずれたこと、つまりは生活安定の見透しがくずれたということについては、それが人生の当然ではあるが、無常を感ぜずにもいられない。
 放二の息のあるうちに、それが行われるというのは、まことに皮肉でもあるし、滑稽でもあるが、これが放二の善意に対する当然な報酬かと考えると、悲痛な思いにうたれもした。
 彼の冷たい判断からでも、放二の善意を若気のアヤマチと言いきれはしない。感傷とは言いきれない。しかし、たとえば彼の善意が神につぐものであったにしても、その報酬がこんな結果に終るというのは、人間の世界では当然すぎるのだろう。そして、放二は、それにおどろくような男ではなかろう。彼はほぼ全てのことを知っていた。
 長平は放二のとこへイトマを告げにでかけた。
「どうだい。いっそ、御一統に自由に解散を願ったら。一葉落ちて、秋来れりさ。一葉ずつ、妙な落ち方をさせない方が、サッパリしてよかろう」
 こうズケズケ言うと、放二は笑って、
「先生は貧乏人の心境をお忘れですね」
「そうかい」
「宿がないということと、タヨリがないということは、やりきれないことなんです。ギリギリのところへきてしまえば、自然に何とかなるものですが、さもなければ、解散しても、結局ここを当てにすると思います」
「なるほど」
「人間は、すすんで乞食にはなれないのですね。三日やればやめられないと分っていても」
「なるほど。秋がきても、気にかからなければ結構さ。じゃア、帰るよ」
「御元気で。長らく有りがとうございました」
 長平が離京するとき、ルミ子が送ってきた。
「いい加減で帰りたまえ。別れ際の時間は短いほどよろしいものだよ」
 長平が彼女を帰らせようとすると、
「セッカチね。私の方が大人だなア。一度、手紙を差しあげるから、忘れないでね」
 ノンビリ手をふって、二人は別れた。


     新しい風

       一

 せつ子は退院後の記代子をひとまず自宅へひきとった。甚だ好ましくなかったけれども、隙あらばと記代子の病室をうかがっている青木を見ると、他に安全な保管所が見当らないから、仕方がなかった。
 記代子の顔を見ることが他にたぐいる物がないほど不快なことだということを、ひきとってから気がついた。
 記代子の入院中、ウワゴトの中で叫んだ言葉は「エンジェル!」という名にからむものばかりであった。
 せつ子に何より不快なのは、それだった。記代子が居ると、その背後に、エンゼルという動物めいた悪者がいつも一しょに影を重ねて居るようで、動物の匂いがプンプン漂ってくる気がする。記代子が住みこんだばっかりに、わが家に動物小屋の悪臭がしみついてしまったようであった。
 記代子を見ると、目をそむけたくなるのをこらえようとすると、冷めたくジッと見つめてしまうことになる。ある日、記代子が言った。
「憎んでらッしゃるのね」
 記代子は、退院の日、なんとなく希望がわきかけたような喜びを感じた。希望というものが全て失われたように、前後左右たちふさがれた切なさに苦しめられたアゲクであった。はじめて小さな爽やかなものに、すがりつくような喜びで、退院したが、それも再びどこかへ没してしまったようだ。この明け暮れ、人生の希望を知るのに骨が折れた。人々が、だんだん憎く見えるのである。
「私、憎まれるのは平気なんです。それが当然ですものね。ですけど、矛盾がイヤなんです。憎みながら、保護して下さるのは、なぜ? その『なぜ』にもっと早く気がつけば、私もマシな生き方ができたでしょうに」
 バカな人間に、尤も千万な言いがかりをつけられるぐらい、興ざめることはない。せつ子は自分の人生が、いつもそのことで悩まされているような気がするのである。結果の事実としては尤も千万であるけれどもツラツラ元をたずねれば当人がバカのせいだということを、全然忘れているのである。
 記代子の背に青木の影が重なっているだけでもイヤだったのに、エンゼルの影も重なっている。動物臭がプンプン匂っている。それはみんなバカのせいだ。
「あなた、今になって気がついたのは、そんなことなの? そのほかに、気づかなければならないことが、ないのかしら?」
「でも、憎んでらッしゃるでしょう。それに答えてよ」
「さア。憎んでいますか。あなたが憎まれてるンじゃないでしょうか」
「おんなじことよ」
「あなたの場合、憎まれているか、いないか、そんなことを考えるのが問題ではないのよ。人々に憎まれる原因について、考えなければならないのよ。あなたも散々苦労なさッたでしょう。そのアゲク、私に憎まれているか、いないか、ようやくそんなことだけ気がつくようになったとしたら、ずいぶん悲しいじゃありませんか。人々はあなたに期待しています。あの大きな試錬の中から、あなたが何をつかみとってきたでしょうか、と。あなたの場合、私という存在は、とるにも足らぬ問題よ。あなたは男性というものに、どんな新しい考えを、つけ加えるようになりましたか。青木さんについて、エンゼルについて、あなたが新しく知り得たことは、どんなことでしたか。それについて、真剣に考えたことがありましたか」

       二

 せつ子の言葉は利巧ではなかった。
 人は誰しも忘れたいことがあるものである。特に記代子の場合などは、悪夢のたぐいで、遺恨は骨髄ふかく血みどろに絡みついているのだ。遺恨の深さというものは、バカと利巧にかかわりなく、差のあるものではない。
 その経験を生かせ、というのは、理窟はそういうものではあるが、人間の実状に即したものではない。利巧でも、そうはいかない。
 まして男女関係というものは、ハタの目からは割りきれても、当人にとっては永久に謎という性質のものである。人間関係というものは合理化しきれるものではない。常に個々独特である。
 悪夢は忘れるにかぎる。バカは死ななきゃ治らない、というのはその人間の墓碑銘としては、よく生きた、という意味に当っているかも知れない。バカでなかった人間よりは、精いっぱい生きているのだ。精いっぱい生きて利巧であったという奴はまずいない。
 しかし、人間は、人のバカさ加減まで、いたわってやるほど、親切である必要もないにきまっているだろう。
 記代子はエンゼルを忘れようと思っていた。それはエンゼルを悪党と断定した意味でもないし、エンゼルを愛せなくなったという意味でもない。理論や感情を超えた一ツの気配がわかるからだ。エンゼルが自分を愛していないという気配、いくらエンゼルを思ってもムダだという気配がわかるからである。
 記代子が経験から得た結論はそれだけであった。彼女の考えも感情も、そこに突き当って、引き返す。つまり、その壁にぶつかって、新しく出発するのである。
 そして、壁にぶつかって引き返してきた新しい感情は、青木か、あるいは、そのほかの新しい何か、そう考えがちであった。それは逞しく、強い考えではない。ややヤケ気味の、絶望的なものでもあった。
 しかし、絶望的な考え方は、むしろ地道なものであった。彼女は時々空想的なことを考えた。人に使われる身から離れて、独立した職業についてみたい、という考えだ。会社員とか、ダンサーとかいうのではなく、自分がその店の主人公、というような空想であった。そのへんまでは、まだ地道かも知れなかったが、すると記代子はその次にこう考えている。お金持になりたい。そして、誰に気兼もなく、自由奔放に生きたい。
 その空想には、極めて現実的な限界があった。彼女の最も近い身辺に、そういう女が実在しているのである。あまり身近かなために、感情的にせつ子を過少評価することは容易であったが、彼女と自分との身にそなわった位の差というものを実感的に脱けだすことは、まず不可能なことであった。
 しかし、無理ムタイに脱出できるたった一つの口があった。それは、怒り、逆上である。
 記代子は半死半生の経験によっても、冒険や危険に怯える心を植えつけられはしなかった。むしろ、なつかしみさえした。彼女があの怖しい経験から教訓を得たとすれば、あのようなことを再びしたくないことではなくて、あのような場合に処する技法に対する期待であった。それも空想の一つである。かすかな期待はあっても、勇気はないし、自信もない。
 記代子はせつ子と睨み合った。彼女を言い負かす言葉はない。しかし、もうこんな家にいるのはイヤだ。今日かぎり、とびだすのだ、と考えた。むしろ閉じこめられていた陰気な空に青空がのぞけたような気がした。
 彼女は覚悟をきめると、だまって自分の部屋へゆっくり戻って、カギをかけた。

       三

 記代子はさっそく家出の仕度にとりかかった。子女の家出に熟慮断行などということは、めったにない。激情的であるから、当人は一時的に悲愴であるが、同時に冷静でもある。時間を失せず、今のうちに飛びださなければ、ということを充分に知りすぎているのである。今でなければ、家出の理由がないし、大義名分がない。今を失すると、再び踏み切るときがないかも知れない。平静の時には自信がないことを知っており、激情にまかせなければ実行不可能であることを知っているのである。
 それは家に甘えているせいではない。誰しも家をでれば、寄るべないのは当り前のことである。
 記代子は二度目のことであるから、なれているようであるが、こういうことは馴れるというものではないようである。必需品はなんであるか、それぐらいのことには気がつくが、特にこの際に必要な、そこまで冷静な計算ができない。血迷ってもいるし、先の目算がたたないせいもある。
 夜の家出というものはグアイがわるい。夜中トランクをぶらさげてブラ/\しているのは都合のわるいことが多いものだ。翌日せつ子の出勤をまって、ゆっくり脱出した方が万事によろしいけれどもそれまで待っている余裕が怖しかった。そこで記代子は、何も持たずに家をでることにきめた。
 せつ子はさすがに大人であった。家出癖のついた小娘を怒らせっぱなしに放ッとくのは穏当ではない。折れたり、なだめたりするのは愉快なことではないが、対等にみたてて意地をはるのは大人げない話である。折れてみせて優しい言葉の一つもかけてやれば、その場では打ちとける色をみせなくとも、内々鋭鋒はくじけているものだ。
 そこで、せつ子は程を見はからって記代子の部屋をノックして、
「どうしてらッしゃるの? あら、カギがかかってるのね。はいっちゃいけないこと?」
「もう、ねています」
「そう。じゃ、私も戻ってねましょう。さきほどは、ごめんなさいね。でも、あれぐらいのことで血相変えて怒るなんて、オコリンボね。もう、仲直りしましょうね。おやすみなさい」
 せつ子はそれで安心して自分の部屋へひッこんだ。これだけ手を打っておけば、記代子は安心して、ねて忘れてしまうだろう。
 しかし、こんな動物の匂いのプンプンする因果物のような小娘を、今後どう処置したらいいのだろうかと考えると、ウンザリしてしまう。放二も悪い時にねこんでしまった。記代子から必要以上の動物臭をかぎたてるのも、こういう間の悪るさのせいもある。
「男の方が利巧らしい」
 せつ子は苦笑した。吾関せずの長平が、憎らしいが、なつかしまれる。彼の冷淡さに理があるように思われるからであった。
「あんなことを言って、子供だましのようなお世辞なんか使ったって、だまされやしないわ。まるで悪るがしこい狐のよう」
 記代子の鋭鋒はくじけなかった。記代子はすでに覚悟がついてしまっていた。否、家出後の暫時の目鼻がほぼリンカクをなしていたのである。せつ子は程を見はからいすぎて、時を失したのである。
 せつ子の訪れは、却って落付きと、かたい決意を与えたようであった。まだ九時ちょッとすぎたばかりだ。記代子は人々の気配に耳をすまして、せつ子の家から忍びでた。

       四

 社がひけてから、二三ヒマをつぶして、青木はゆっくり宿へ戻ってきた。すると、一足おくれて訪ねてきたのが記代子であった。
 記代子は彼に笑顔すら見せなかった。突ッ立ったまま、
「ここにはいられないのよ。てもなく発見されてしまうわ。どこか、社の人たちに気づかれない旅館へ案内して」
 頭上から噛みつくようにイライラと命令する。
「慌てることはないでしょう。お茶でも召しあがれ。アッ。なるほど。どなたか、お連れの方が表に待たしてあるんですね。遠慮なく、よんでらッしゃい」
 青木はバカに察しがよい。敗北精神が骨身に徹しているのである。心にうちしおれたりとは言え、表には益々明るいホホエミをたたえて敵をもてなそうという志であった。
「連れなんか、ないわ」
「ヤ。失礼。すみません。ぼくは、ダメなんだ。すべての栄耀えいようは人に具わるもの、そねむなかれ、という呪文を朝晩唱えるようになったからね。しかし、あなたが丈夫になって、ぼくも嬉しいです。世の大人物はあげてぼくを虐待するからね。陰ながら、病室の外まで見舞いに行っていたのを知っていますか」
 青木がなれなれしく話しはじめたので、記代子は苦々しくふりきって、
「つまらない話は、よして。見舞いにきたのが、どうしたッていうの。見舞いに来てほしいなんて、思ってもいなかったわ。私、こゝにグズグズしていられないわ。梶さんのおウチから、とびだしてきたんです」
「なアンだ。社長殿の邸宅にかくまわれていたのですか」
 記代子は舌うちした。
「卑しいわね。そんな興味を、いつも持っているのね。人の私生活に興味をもつなんて、卑しいわ。グズグズしないで、旅館へ案内しては、どう?」
「そうガミガミ云うことはないですよ。さッそく支度をしますけどね。人にはガミガミお金にはピイピイ、あわれなる宿命だね。しかし、あなた、社長邸をとびだして、旅館へ泊って、いかがなさるのですか」
「うるさい!」
 記代子はカンシャク玉をハレツさせて、一喝した。妙齢の女子が、かりそめにも男子に一喝をくらわせるとは、由々しいことである。女中や下男に向ってそんなことをするかも知れないが、同輩に対する習慣にはないことである。
 しかし、青木は怒らなかった。むしろ記代子をあわれと思った。その墓碑銘に「多難なる生涯を終りたる娘」と書くに価する悲しい人生を経てきた娘が数多くいるはずのものではない。記代子などは例外だった。
「カンシャクを起したくもなるだろうさ」
 青木は深い愛情をもって記代子を見ていた。それは同族に対するあわれみの念でもある。記代子のようなアワレな娘には、踏んだり蹴ったりされても、トコトンまでイタワリを果すユトリを彼は身につけていたのである。
「さ。では、旅館へ御案内いたしましょう」
「あなたが泊るのではありません。案内したら、帰っていただきます」
「御意のままですよ」
「昔のことは、もう、すんだことだわ。親しい名前や言葉で話しかけるんだって、失礼だわ」
「わかりました」
「私の旅館、知ってるのは、あなただけよ。ですから、あなたにしていただく用があるから、明日の朝、来て下さるのよ」
「承知しました」

       五

 翌朝、青木は早めに出勤の支度をして、旅館の記代子を訪問した。
 早く目をさましたものとみえ、朝食もすませ、服装も化粧もキチンとして、所在なさそうにしている。
「よく眠れましたかね」
 記代子は目をけわしく光らせて、
「私を探してきた人はなかった?」
「まだ、きません。で、御用というのは、何でしょうね」
 複雑なかげりが記代子の顔を走った。まだ思案がついていないのではないか、と青木は思った。しかし、記代子が漠然と志向しているものは何だろう? それを思うと、青木は背筋を冷いもので触られたような不安を感じた。
「ねえ、記代子さん。あなたが再度の失踪に当って、ぼくを下僕として選んで下さったことを、しみじみ感謝していますよ。昨夜御命令によってお約束した通り、ぼくは最良の下僕としてあなたに奉仕いたしますよ。決して下僕以上の位をのぞみやしません。ですから、あなたが予定していらッしゃること、あるいは、まだ思案がきまらないようなことでも、みんな打ちあけて下さいませんか。むろん下僕ですから、御相談のない限り、こうなさい、ああなさい、などと差出口はいたしません。ただ御言い付けに従うだけです。ですが、下僕といえども味方の一人ですから、たった一人の味方として、予定の内容をもらしていただきたいというわけです」
「あなたの前夫人に会いたいの。ここへ来ていただいてもいいわ」
「え? 礼子ですか」
「礼子さんとおッしゃい。もうあなたの奥さんじゃないでしょう」
「すみません。ですが、こまったなあ。礼子さんの住所を知りませんのでね。夕方、仕事場へでてからじゃア、おそいでしょうな」
「バーできいてごらんなさい」
「なるほど。ですが、銀座のバーというものは、たいがい留守番の住む場所もないのが普通なんですよ。礼子さんのバーは、特に地下室のウナギの寝床のようなところで、便所以外に付属室はないだろうと思いますね」
「行って、たしかめてみてからになさい」
 記代子はいらだって叫んだが、彼女の顔には、地下室ゆえに泊り部屋がないことを確認した狼狽がかすめて流れたのを、青木は見ている。それをムリに押しつけて、いらだって青木を怒鳴りつけているのは、彼女のワガママである。
 順境にあれば礼節をわきまえ、逆境ゆえにむしろワガママになりがちなものではあるが、おのずから限度がなければならない。逆境の人が、甘やかされて、いい気になっているなどとは、哀れサンタンたる戯画である。そこまで、悲しく無知な姿を捨てておくのは、見るに忍びないから、
「なア、記代子さんや。下僕はいかなる命令にも従うべきではありますがね。しかし、銀座のバアへ行く。扉を叩く。鍵がかかっている。むろん無人にきまっています。あなたも無人だということが分っていらッしゃると思いますよ。ぼくがムダ足をふむのが、何かあなたのお役に立ちますかね。かかる命令が可能であると信じる人は、すでに人間の仲間ではありません。失礼ながら、記代子さん、あなたは逆境の人ですよ。ぼくが下僕の役を奉仕するのも、その逆境に対するきわまりない共感ですよ。逆境の人は、まさに人間中の人間でなければなりませんね」
 逆境のネロ皇帝なんて、道化芝居にもありませんや、と云うところをグッとおさえた。

       六

 青木は持ちまえのカンの良さで、いろいろのことを察しとった。
 礼子に会いたいという記代子の希望は、それか彼女の本当の希望ではないのである。彼女の希望はいろいろあるが、いずれも不可能にちかいことばかりで、実際に望むものには手をだすことができないのである。
 礼子に会いたいというのは窮余の策で、たまたま青木がいるために思いついた程度の、彼女自身きわめて気乗りのしない希望であるに相違ない。彼女が益々不キゲンなのは、そのためであろう。
 記代子のような暗い過去をもった人間が、そして、暗い過去を生かす才能に欠けている人間が、今後の身の振り方をいかに定めるべきであるか、ハタの目からも途方にくれる問題である。
 まず青木の頭にひらめくのは自分自身のことであるが、記代子はすでに物の見方がよほど変化している。結婚によって青木が記代子を幸福にする条件は、すでに失われているようであった。
 しかし、下僕として犬馬の労をつくしてやることによって、哀れサンタンたるこの娘を多少とも安全地帯へ誘導することができるなら、一文の得にならなくとも、思い出として決して不快なものではないだろう。
「なア、記代子さんや。何用で礼子さんに会いたいのか、ぼくには分らないが、あの人自身が全然迷っている子羊で、あなたに貸す智恵は持ち合せッこないですよ。あなたとは性格もちがいすぎる。いいですか、記代子さん。礼子さんの今いる位置は、人がもって範とすべき位置ではないです。彼女自身が、それを良く知っていまさアね。やむを得ず、あんなことをしているだけで、当人は足を洗いたくて仕様がないのですよ。あそこまで落ちて行くのは、誰だってできまさアね。なんの苦労もなく、誰でも、なれる。礼子さんに相談することはないですよ。ね。もしもあなたが、今後いかに生くべきかという問題で、誰かに相談したかったら、礼子さんは相談相手として、まず第一の失格者です。もっとも、消極的な意味では、よき相談相手かも知れません。なぜなら、彼女はあなたをいさめるに相違ないからです」
 いさめたって、どうにもなりやしない。記代子のような平凡な女には、身の程を知らせることが何よりだろうと青木は思った。
 思わぬ多難な経験によって、彼女は凡そふさわしからぬ異常世界を身近かに感じ、自らの生活をもそこに投入しつつあるが、この食い違いが本人自身で気付かなければ、彼女の本当の生活は生れやしない。
 言葉で言ってきかせてもダメ。短期に功をねらってもダメだ。長期の時間を覚悟して、ある特定の環境の中で、身の程を思い知るまでジリジリ待つことである。平凡な男と平凡な結婚生活をねがうようになるまで――それが彼女の性格や智能に最も適合した生活なのである。
「なア。記代子さん。京都へ帰ろうよ。ぼくがお供しますよ。なに、社長邸をとびだしたって、家出でもなんでもありゃしないよ。あなたの家は京都にあるのさ。ね。長平さんは怖いオッツァンのようでも、人間の本心にふれてくれるよ。今まではあなたに分らなかったが、ぼくと一しょにこれから帰ってみると、よく分るです。ね。すぐ京都へ行こう。一分一秒も早く。こんな東京なんか、すてちまうのさ。ぼくは京都まで安全にお送りして、すぐ戻りますよ。旅行の支度をしてくるから、三十分だけ待ってて下さい」
 記代子を承諾させて、青木は大急ぎで宿へ戻った。

       七

 青木が宿の前までくると、せつ子の自家用車がとまっている。シマッタと思ったが、もうこうなったら、逃げ隠れはしない方がよかろうと覚悟をきめた。
 玄関をはいると、せつ子が宿の人たちから色々何かきいているところであったが、青木を認めてサッと面色を改めて詰問にかかろうとするのを、そのヒマを与えず、
「ヤ。わかっています。まさしく記代子さんは、昨夜ぼくを訪ねてきました。そして、たしかに、ぼくが保護いたしております。全部お話いたしますから、ぼくの部屋へきていただきましょう。実に、三人目。いやはや、目も当てられねえや。三方損の三人目。ね。あなたは分って下さらないかも知れないねえ」
 穂積もせつ子と一しょであった。せつ子は青木の部屋を見まわして、記代子の残した動物臭をかぎわけているらしい様子である。いかにも重大決意を蔵するかのような静寂な態度に、青木はウンザリして、
「ねえ、社長さん。嵐の前の静けさですか。しかしですよ。もしもあなたが、今度のことで、ぼくに向って何かの遺恨があるとしたら、そして大いにぼくを面責なさろうというお考えなら、天下の、イヤ、東京の、ハッハ、だんだん小さくなりやがら。とにかく、奇怪事であるですよ。たまたま記代子さんが僕をたよって逃げて来た、ね、ぼくたるや、大過去のインネンはとにかくとして、さしあたって何の責任がありますか。むしろ、逃げられたあなたは、あなた自身の責任を感じ、あわせて、彼女を無事保管の任をまっとうせるぼくに向って感謝の意を表して然るべきではないですか。あなたの態度は常にあなた自身の感情に即してはいるが、物の当然しかるべき理に即してはいませんな。けだし、記代子嬢があなたの邸宅を逃げだしたのも、直接の原因は、そのへんにありと見たのはヒガメですか。どうもね、とかく御婦人は暖冷ただならぬものではあるが、あなたは格別だね。その冷たるや、冷血動物以下、ぼくがツラツラ案ずるに、大そう水ムシによく似ているです。足にできる水ムシのことですよ。あいつは痛くもカユくもないが、実に無残に肉にくいこみ、一生涯、なんとしても治らんです。実に、一生涯ですよ。死ぬまでですよ。死んでからでも、足の指のマタにハッキリくいこんでまだ生きているのですよ。見たわけじゃアないがね。そうに、きまッてらア。実に、人生に最も酷薄なるものは、水ムシの如くに、痛くもカユくもないです。そして生涯、死んでからでも、肉にくいこんで、かみついているです。けだし、あなたは、水ムシだね。実に酷薄ムザンだね。小娘はジタバタするのが当然さ。痛くもカユくもないという生涯ムザンの酷薄なるものに、ジッとこらえていられるのは、拙者、つまり蛙、イケシャアシャアね。それあるのみさね」
 せつ子はちっとも騒がず、
「そう。記代子さんを無事保管していただいて、ありがとう。いま、どこにいますか、記代子さんは」
「その御返事はハッキリおことわり致しますよ。彼女は、あなたとは縁なき衆生です。たぶん、ぼくと彼女とも、多かれ少なかれ縁なき間柄であるらしいようですがね。念のために、それだけはお伝えしておきます。ぼくは彼女を路傍の一人として保護いたしておるにすぎません。今や、なんの親密なる関係もありませんや。ぼくは只今より彼女を京都の叔父なる人のもとへ送りとどけてきます。その旅装のために戻ってきたのです。彼女は今夜は京都の叔父のもとに無事安着するに相違ありませんから、だまって引きとっていただきましょう。言語無用。だまったり。だまったり」

       八

 せつ子は事の判断に於ては、感情に走ることはなかった。青木の意向が、記代子を無事長平のもとへ送りとどけることに専一であると見てとったから、
「わかりました。本当にお世話様ですね。では、御手数でも、おねがい致しますよ。大庭先生に、よろしくね」
 青木は思わずホッとして、のぼせた頭に、血がクラクラと離合集散、彼は冷汗をふいて、冷茶をグッと一パイのみほした。
「ヤ。どうも、ありがとう。理解していただいて、幸福です。そういっていただくと、穴があれば、はいりたいですよ。なに、それほどでもないですか。ハッハ。あなたは処世の達人さ。女ながらもアッパレさね。ぼくもね。三方損の三人目とか、覆水盆にかえらずとか、近代イソップ物語の原理についてウンチクをかたむけたいところがあるですが、今日は急ぎますから、失礼します。御無礼の段、平に御容赦」
 青木がこう言い残して別れようとすると、せつ子はよびとめた。
「お待ちなさい。車がありますから、東京駅まで送ってあげるわ」
「ヤヤ。それは、いけませんね。無茶なことをおッしゃるなア。後で八ツ当りにやられるのが、ぼくですよ。八ツ当りならよろしいが、三たび姿がかき消えまさアね」
「その心配はありません。第一、東京生活をきりあげて帰郷なさるのに、オミヤゲも買ってあげなければいけないでしょう。その機会がなければとにかく、機会があって、手ブラで帰せると思いますか」
 一々もっともである。自分の家から失踪したまま京都へ戻ってしまうのを黙って見過すということは、後味の悪い話である。せつ子に、記代子の帰郷をひきとめる意志のないのが分っているから、青木は彼女の気持も尊重してやる必要があると思った。
「わかりました。おッしゃることは、ごもっともです。ですが、くれぐれも御手ヤワラカにねがいますよ」
 記代子の宿へ案内した。二人をどんなふうにひきあわしたものかと青木が思案していると、せつ子は委細かまわずズカズカと先頭に部屋へ通って、
「アラ。記代子さん。御無事でよかったわ。京都へお帰りですッてね。ほんとに、それが何よりよ。何をプレゼントしましょうね。銀座の商店は、ちょッと開店に間があるから、デパートから廻りましょうよ」
 デパートをまわり、銀座を廻り、出来合いではあるが最新型の高級服を買って、着代えさせる。帽子、靴、ハンドバッグに、その中の品々まで一式。トランクも買いこんで、身の廻りの品々。フランスの香水に至るまで。右往左往、ひきずりまわされる青木は、アア、大変な買物だ、この支払いだけでも、わが社の会計係は月末に一苦労だなア、桑原々々、とついて行く。
 最後に二人を大阪行特急の二等車へ送りこんで、
「じゃア、お気をつけて。大庭先生によろしくね」
 こうして二人は京都へたった。
「ねえ、記代子さん。彼女は敬服すべき手腕家だよ。しかし、金のかかる手腕だなア」
 記代子もつりこまれてニッコリして、
「ほんとね。私のようなチンピラにまでこんなことして、叔父様なんかにはどんなプレゼントするのかしら」
「ナニ、長平さんにはお金いらずのプレゼントがあるのさ」
 と青木が皮肉ると、
「ヤキモチヤキね」
 横目で睨んだ。記代子のキゲンは直っていた。

       九

 青木は半日の汽車旅行で、女の一生ということを変にシミジミと考えさせられた。子供をもたない彼は、そういうことを身にしみて考えたことがなかったのである。
 記代子の多難な経験は、彼女に多少の悪変化を与えたが、三文の得にもならなかったようである。目立った変化といえば、彼女は頑固になっていた。過去のアヤマチを後悔せず、むしろアヤマチとして見ていなかった。自分の過去を客観的に省察してその結論を得たのではなく、人々への敵意によってアヤマチと見ることをテンから拒否しているのである。人の批判もうけつけない。人の言葉を感情的に反ぱつする完全な城壁をかまえたが考えることを失ってしまったのである。過去のいかなる経験も、生きるはずがないのである。一そうバカになったようなものだ。
 しかし、記代子一人のことではないだろう。日本の多くの娘たちが、似たり寄ったりに相違ない。要するに、日本の女というものは、家庭の虫のようなものだ。物質的、精神的にも、義理人情を食餌にして一生を終るように仕込まれている。義理人情にとっては、批判というものは無用の長物、あっては困るものである。記代子のように、一見、義理人情にも突き放され、世間から孤立させられた立場に立たされたようでも、義理人情から解放されたわけではない。義理人情を省察し、自己を省察することを知ったわけではない。むしろ、義理人情に縋ることしか知らない魂が、その義理人情にも見放されたことに対する咒咀じゅそと、益々依怙地な敵意と、自己保存慾があるだけのことである。
 こういう女でも、男に愛される資格はある。青木が悲しく結論し得たことは、それだけであった。経済的に独立し得たところで、彼女の幸福はあり得ないだろう。なぜなら、彼女は義理人情の外には安住できない女だからである。
 男の愛情を当にするということは、まったく偶然相手である。競輪以上のバクチである。男に当ればいいけれども、外れれば、それまでだ。日本の女には、そのアトがない。外れれば、一生が外れたことになるのである。不幸に忍従し、それが日本の自然であり、同情もしてくれないし、ほめてもくれない。そして、男に当るか当らないか、ということは、親がしらべたぐらいで分るものではないのである。サラブレッドと同じように、血統や教育の道程などを調べたあげく、外れればそれまで。復を買うわけにもいかないし、二度目三度目の勝負でとりかえすわけにもいかない。
 しかし、記代子の場合には、とにかく、男に愛される資格はある、ということを頼む以外に仕方がなかろうと青木は思った。どんな男が彼女を愛してくれるだろうか。時間的に彼女を愛す男は少くなくとも、彼女の一生を、ともかく大過なく安泰にすごさせてくれる男が多くあろうとは思われなかった。なぜなら、彼女は可憐さを失いながら、それに相応する知性を得ていないからである。むしろ愚を得ているからである。
 京都へつくと、記代子は疲れきっていたので、はやくねた。青木と長平はおそくまで酒をくみ交したが、長平は相変らず、一向に親身の心配をしなかった。
「なに人間は似たものさ。特に幸福な人間も、特に不幸な人間も、いるものか。境遇なんざ、どう変っていたって、根は同じことだよ。ほッとくのが、いちばん、いいのだ。しかし、本当に、ほッとく奴が、いないだけのことなのさ」

       十

「本当にほッとくなんてことが、できるものかね」
 青木がいささか色をなして長平の無責任な放言を問いつめると、長平は笑って、
「そりゃア、できないな。しかし、大まかに、要点をつかんで、やるのだね。家出本能のようなものもあれば、帰巣本能のようなものもあるんだね。飛びだす方をほッとく以上は、戻ってくるのも自由にほッとく必要があるだろう。要は、それだけだね。何べん飛びだして、何べん戻ってきたって、かまわねえや。それで人間が不幸だってことは、ありゃしねえな。人間は、それ以上に幸福ではあり得ないものなんだね」
 至極要領をつくしている。一人の男を選んで与えて、それで片づけてしまうのに比べると、この方が理にかなってはいる。この方が本質的に、あたたかい方法ではある。帰る家があるというのは一生の救いかも知れない。二度と帰らぬ覚悟で嫁ぐという精神は、そもそも幸福を約束する出発ではない。特にそれを強いられでは、特攻隊のようなものだ。
 長平の言葉にも一理はあるが、チョイチョイ戻られては、困るであろう。青木は苦笑して、
「君のは、禅問答だね。一般家庭じゃ、禅坊主にはなりきれないさ」
「君まで、そんな風に思うかね。オレはハッキリしていると思うな。女には、家が二つあるんだね。生れた家と、子供を生んだ家とだね。子供を生まなくッてもかまわないが、とにかく、この二ツのうち、どッちかを選ぶ自由を与えておくのさ。娘の親は、それだけ覚悟しておくんだね。生んだ義務だよ。オレは記代子に愛情なんぞもってやしない。義務をもってるだけだね。義務というほどでもないが、勝手にしやがれということさ。戻ってきたら、仕方がない。こりゃア、奴めに権利があるのさ。そう心得ておきゃアいいと思うんだね」
 長平流の筋は立っていた。おまけに、彼のしたことは、まったく言葉の通りであった。青木自身、身にしみている。彼自身、勝手にしやがれ、という対象だったことがあるからである。理からいえば甚だあたたかいようなことではあるが、その時、彼が身にしみたのは、長平の冷めたさである。それは、今となっても、理によってあたたかく生れ変って感ぜられる底の底のものではなかった。理窟だけでは納得できない性質のものである。
「君の云うことは、ツジツマが合いすぎて、気味が悪いね。そうツジツマが合いすぎちゃア、いけねえな」
「なに、ツジツマが合うもんかよ。大要をつかんで、要領だけを云ってるんだよ。要所要所は、いつもツジツマの合ったものさ。枝葉末節に至ると、必ずツジツマが合わなくなるのさ。人生は大方枝葉末節で暮しているから、万事ツジツマが合わねえや。こりゃア、仕方がないじゃないか」
「そういうもんかね。しかし、要所要所に於て、君は大そうあたたかいようだが、実はひどく冷めたいのも、枝葉末節のせいかね」
「そうだろう」
「なア、長さんや。思うに、君も水ムシだね。むしろ、君こそ水ムシの張本人だね。生涯人をむしばんで痛くもカユくもねえや。実に酷薄ムザンですよ。最も酷薄なるものは、痛くもカユくもないものだ。それは、君に於て、まさに最も適切だね」
 長平はてんでとりあわなかった。それは全く水ムシと同じ呪わしいものに見えたが、水ムシに悩む自分の方を考えると、青木はクサらざるを得なかった。

       十一

 記代子は京都の土をふむと、新しい気持が生れた。東京では四囲がみな敵地のような気持で、どこにいても気持がすさみ、息苦しく、安息もできなかったが、京都へ着くと、自然に気持がおだやかになっていた。誰がむかえてくれたわけでもなく、古い都の街や自然が彼女によびかけているわけでもなかった。いつも傷口にさわられているようなイライラしたものから、遠く離れた安心を覚えた。なにかキレイにぬぐわれたような清爽感をも覚えた。
 東京にいたって、あの広い東京のことだもの、彼女の傷口にふれる人間にめったにぶつかるものではない。京都に来たからって、傷口にふれる男にどこでぶつかるか分ったものではないのである。しかし、京都へ来たという実感の中には、そういう理窟を超越した安心感があった。
「旅をすると気持が変るというのは、こんなことを云うのかしら」
 自分でも異様な思いがするのであった。なぜだか分らない。たった五百キロの距離。傷口の現場からそれだけ離れたというだけのことで、傷口が治ったわけではないのに。
 しかし、このホッとした安らぎ。久しく忘れていた、このなつかしい安らぎ。フシギではあるが、まぎれもない現実であった。
「こゝが生れ故郷でもないのに」
 記代子は笑いたくなるのであった。
 そして、記代子の胸に吹きつけてくるのは、新しい風だ。東京にいた時は、無性に腹が立ち、身をかきむしって投げ捨てたいような息苦しさで、未来の希望などは人がそれをくれるといっても欲しくないような気持であったが、こゝではまるで生れ変ったようだった。
 記代子の胸は未来の希望にふくらんでいた。いかにすべきかという未来の設計を考えているわけではない。今までは、未来を思うと暗さと絶望があるだけであったが、こゝでは未来が明るいものに感じられた。唐突で新鮮な感動だった。記代子はそれに酔った。
「京都へ戻ってきて、よかったわ。なんてすばらしいことだう! まるで世界の景色が変ってしまったように見えるわ」
 もうマチガイを起さないようにしよう、と記代子は自ら誓った。身にあまることを夢想したり、行きすぎたりしないように。自分は平凡な女なんだ、とふと考えた。その考えすら、素直にシミジミと心を傾けてききいれることができた。すると心は洗われて、過去を消し去ることができたようなサッパリした気持にもなれた。
 過去の姿を今に伝えていることがイノチのようなこの古都へきて、過去を忘れた気持になれるなんて、フシギなものだ、と記代子は思った。覇気のない古い都。乙女心には、灰色の街のように魅力のない土地であったが、今はただ生き生きと明るい。新鮮だ。
 そして、青木に対しても、その親切に感謝する素直な気持が生れていた。彼女は家路を走る自動車の中で青木に云った。
「京都はすばらしいわ。もう東京へ行きたいと思わないわ」
 ウットリと甘い夢を見ているようだ。青木は夜気が一そう身にしむような膚寒い思いがした。肚の中で、こまった子供だと舌打ちした。
「京都は落付いた町ですよ。しかし」
「しかし、なによ」
「京都に甘えてもいけないし、東京を怖れてもいけませんや。そして……」
 青木は悲しくなった。自分だって、記代子と同じことじゃないか。五十にもなって。
「そして、私は生れ変ったと思うのよ」
 記代子の独語は生き生きとしていた。

       十二

 翌朝、新たな第一日の目ざめをむかえても、記代子の胸のふくらみはつづいていた。冷静な考え方も、かなりチミツな計算力もとりもどしたが、希望の明るさを消す力にはならなかった。むろん、いろいろな不安がないことはない。しかし、それをムリに押し殺す必要はなかった。希望がそれにたちまさっていたからである。
「ホウ。顔色がさえているね」
 朝の第一の挨拶に、青木はすかさずこう呼びかけた。青木はそれを喜びもしたが、それがいつまで続くことか、という暗い思いが、同時にひらめいているのであった。
 こうして記代子の顔色がにわかに安直に冴えるのを見ると、青木がつくづく感じるのは自分と記代子の距離であった。ひところ二人がママゴトめいた関係をもったこと、記代子がニンシンしたこと。夢のようだ。
「ひどいことをしたもんだなア」
 青木はいくらか羞じて、間のわるい気持になるのであった。なぜなら、二人の距離の距たりがひどすぎるからだ。今になって、どうしてこんなに目立つのだろう、青木はそれをフシギに思った。
「なア。記代子さん。ぼくの云った通りだろう。京都へ戻って、よかったろうがね」
「そうよ。だけど、どうして今朝になって、そう云うのよ。ゆうべ、京都へ戻って良かったと云ったとき、あなた、なんと云った?」
「そうか。魔が掠めたんだね」
「あら、おもしろい。ゆうべは私に魔がついていたの」
「いいえ。ワタシにさ」
「なんだ。つまんない。いつもじゃないの」
「ホウ。ぼくにいつも魔がついていますか」
「そうよ」
「見えますか」
「見えるわ。貧乏神がついているのよ。それも変に見栄坊で気位の高い貧乏神なのよ。自分の貧乏性もよく分るけど、ほかの人の方がもっと貧乏性に見えるらしいのね。で、いたわったり、同情したり、泣いてあげたりするのよ。気位が高くッて、センチなのね。あなたの貧乏神は」
「やれやれ」
 青木はガッカリした。当らずといえども遠からずである。
 しかし、貧乏性とは、この際、適切な言葉だと青木は思った。これを気取って云えば、知性と云えないこともない。彼の場合は、そうなのである。彼の性格をめぐる理が、そうなのだから。
 それに対して、記代子は貧乏性ではないのかも知れない。そうだとすれば、そのことは彼女の無智をおぎなって余りある美徳なのかも知れない。それが二人の大きな距離の一つかも知れなかった。
「ぼくは貧乏性だとさ。このお嬢さんがそう仰有ったのさ。見栄坊でセンチな貧乏神がついてるのだそうですよ」
 三人集った席で青木が云うと、長平は笑いもしないで、
「で、記代子は、どうなんだ?」
「あら、私は……」
「ぼくは、こう思うよ。英雄、帝王のAクラスにも貧乏性はあるもんだよ。秀吉だの、ヒットラアでも、そう見えないかね。そして、誰だって、そうじゃないかね。それに気がつくと、みんなそうなのさ。知らない奴が一番幸福なんだ。だから幸福なんてものは願う必要がないし、それにも拘らず、知らない奴はたしかに幸福に相違ないよ」
 そして、記代子に云った。
「お前さんは進んで不幸を愛すな。苦しいことには背中をむけなよ。そうこうするうちに、なんとか、ならア」

       十三

 放二が死んだという報らせがきたのは、青木がまだ京都にいるうちだった。せつ子からの電話であった。長平は葬儀万端彼女に託して、上京を見合せた。青木が京都にいてくれたのは便利であった。電話では足りない用を彼に託して帰京してもらうことにした。
「彼は若年にして陋巷ろうこうに窮死するのが、むしろ幸福なのさ」
 と、青木は放二の死を批評した。彼は元来、放二の生き方を高く評価していなかった。
「彼はアプレゲールの逆説派にすぎんですよ。ロシヤ的ストイシズム、特にドストエフスキーの安直な申し子さ。白痴的善意主義の亡魂、悪霊というもんですよ。彼の夢とセンチメンタリズムに安直に合致するような現実が、焼跡の日本にはやたらに有りやがったんだね。それがそもそも、マチガイのもとさ。彼をして安直に英雄的自尊心を満足せしめるに至ったのですよ。それにしても、チンピラ、アンチャンの英雄主義にはまさるけれども、戦後続出のイミテーションの一つには相違ないですよ」
 彼の評価は残酷であった。
「あんまり、口はばッたいことは言えないがね。ぼくとて何かしらのイミテーションかも知れないが、とにかく、長さんや、ぼくははしったですよ。時に停滞しても、時に迸ったです。北川君の一生は迸ったことがないね。激発をひそめた静寂でもなかったね。読書と、読書の裏返しの静かさにすぎないやね。彼にくらべれば、ぼくの生涯はマシですよ。彼は幸福に死んだ。これをぼくはこの上もない道化芝居ファルスと見るが、いかがですか」
 青木は放二がキライではなかった。心あたたかく、あくまでマジメな青年であった。珍らしい好青年と云えるであろう。
 しかし彼の生き方の甘さにはついて行けない。それを許容することは、わが生き方の必死なものを、自らヤユするようなものだ。青木はてんから反撥せずにいられなかった。
 記代子は青木に千円渡して、
「放二さんにお花あげて下さいね」
「ヤ。ありがとう。どんな花?」
「なんでもいいわ。花束なら」
 記代子は長平のいないとき、青木にささやいた。
「私、ホッとしたわ」
「なにが、ですか」
「放二さんが死んだから。私のために死んでくれたような気がするのよ」
 青木はちょッと呑みこめなくて、いぶかしげに彼女の顔色をさぐった。
「え? なんだって?」
「私はね。放二さんの生きているのが、何よりイヤだったの。願いごとをかなえてくれる魔物がいるなら、私の未来の時間を半分わけてやっても、放二さんを殺してもらいたかったわ」
「なぜさ」
「目の上のタンコブなの。なぜだか分らないけど、タンコブなのよ。まだ生きてる、まだ生きてるッて、いつも私を苦しめていたのよ」
「そうかい。それは、おめでとう」
 そして、いよいよ別れるときに、青木は記代子にささやいた。
「なア、記代子さん。オレはタンコブじゃアないだろうな?」
「フフ。あなたなんか、空気みたい。ゼロだわ」
「そうだろう。祈り殺されちゃ困るからな」
「カメのように長生きなさい」
「平凡に。幸福に。ね」
 そして握手して別れを告げた。


     よく晴れた日に


       一

 数日すぎて、長平はルミ子から速達の手紙をもらった。ひらいてみると、遺書であった。長平はおどろいて、東京へ電話をかけて問い合してみると、ルミ子はやっぱり自殺していた。放二の葬儀が終えてのち、自分の部屋には一行の遺書も残さず、アッサリ自殺していたのである。
 長平は電話口で青木に云った。
「すぐ上京するから、あの子の屍体が行路病人みたいに扱われないように、かけあっておいてもらいたいね」
「え? 上京する?」
「左様。半日後には東京につく」
「オイ。笑わせるな。オレは今、ムシ歯が痛んでいるんだよ。今朝から下痢もしているぜ。何大公殿下の気まぐれか知れないが、いい加減にしてくれろよ。行路病人なみに扱わないようにしろッて、そもそもルミ子なるものは大公殿下の妃殿下ですかね」
「北川放二の女房だと云っとけばいいのさ。そのつもりで葬儀の支度をしといてもらいたいね。ナニ、葬儀たって、誰に来てもらう必要もないが、形だけのことをしてやりたいのさ」
「ハイ。ハイ。かしこまりました。ぼくも多少は縁につながる意味があるから、因果とあきらめて、やりますよ。どうだい。親類一同に焼香をねがったら。親類一同の住所姓名がわがらないから、新聞広告はいかがですか。親類代表、大庭長平。ルミ子儀かねて博愛の精神をもって、男子一切同胞の悲願をたて、よくその重責の一端を果し候も、身に限りあり……」
 長平は上京した。東京と京都は遠いようだが、青木と穂積が警察でゴテついている時間の方が、東海道の距離に負けない長さであった。まだ棺桶の用意もできてやしない。二人は屍体と差しむかいで、ヤケ酒をのみながら、ションボリお通夜をしていた。
「ヤ。おいでなすッたな。大公殿下。二人の哀れな葬儀人夫の悲しき様を、とくと見てくれよ。ついでに、自殺した妃殿下の太平楽な寝姿も見てやってくれ。オレたちが足すりへらして三拝九拝、ヘドモドしながら諸方を駈け歩いているのに、妃殿下は寝たッきり身うごきもしねえや。ありがとうとも言わないけど、太平楽がすぎると思うがね」
 駈け歩いて疲れきった二人は、酒の酔いがよくまわって、舌のスベリがよかった。秋の夜寒であるのに、それが癖の青木はハンカチで鼻の頭やヒタイをこすッている。いつも真白のハンカチを身につけている筈であるのに、黒々と垢にまみれているのを見ると、葬儀屋の足労というものが甚大だったと知れるのである。
「御足労をかけてすまなかったが、一刻も早く手をうってもらわないと、行路病人の墓地へ埋められても気の毒だからさ。第一、それからじゃア、尚さら手間がかかるだろうよ。しかし、御両氏が死人と差しむかいの酒モリも、沈々、ちょッと見かけないオモムキだね。酒が、うまかろう」
「まずくはないがね。ところで、君が電話で云ってきたときは、この子の自殺が発見されて二三時間直後のことだそうだよ。遺書を電報で送ったわけじゃアあるまいな」
「速達だが」
 長平はポケットからルミ子の遺書をとりだして示した。
「明日の朝にでも、読みたまえ。今夜は、ねむくなるまで、酒をのもうや」
「こんなものが、シラフで読めるかい」
 青木は無造作に遺書をひらいて、
「しかし、心ききたることをするよ。遺書を速達で届けるなんてね。屍体にだかれた遺書なんてのは、まったく下の下というもんだよ」

        二

 ルミ子の遺書は次のようであった。

 ゴキゲンいかがですか。
 先日お別れのとき、そのうちに一度だけお手紙しますとお約束しましたが、覚えていて下さいますでしょうか。これが約束のお手紙です。
 昨日、梶さんのお宅で兄さんの告別式がありましたが、先生は上京なさらないそうですね。青木さんから、おききしました。私も告別式には行きませんでした。
 野良猫のようにこの町にうろつくようになってからの短い月日は、私の一生にこの上もなく楽しい毎日でした。人のさげすむパンパンという境遇も、自分でみじめとも悲しいとも思いませんでした。むしろパンパンに安住していたのです。どこの奥さんがその家庭に安住するよりも、私はパンパンに安住していたと申せます。心にかかる小さな雲すらも、まずなかったと言いきれます。
 子供の私は、不平家で、ねたみ強くて、いつも人にたてついていましたが、この町へ辿りついて野良猫生活をはじめてからは、人が変ったように素直でした。どんな小さな不平も、忘れてしまったのです。
 先生はわかっていらッしゃると思います。私の心には、いつも兄さんがいて下さるので、私はどんな不平も忘れることができたのでした。好きになれないお客さんと枕を並べてねて目をさました朝でも、兄さんがいて下さると思うだけで、明るいキゲンになることができました。いいえ、かえッて、キライなお客さんほど大切にしてあげようと思いました。きめたお金を朝になって半分にねぎられても、我慢することができましたし、ぶんなぐられて、貰ったお金を取り戻されても、苦笑しただけで忘れることができました。くる朝も、くる日も、微笑して迎えましょうと思っていました。
 こう申し上げたとて、私は兄さんを恋していたのではありません。兄さんを恋すなんてセンエツなこと、どうしてできましょう。ヤエちゃんなどが、私がそうでもあるように皮肉なことを言うとき、兄さんに申訳なく思う気持で、そのときだけはヤエちゃんを殺したくなることがありました。私のようなものが兄さんを恋することは、兄さんを傷つけることです。兄さんを侮辱することです。私はどんな大罪人とよばれてもかまいませんが、兄さんを傷つけた罪に服すことは我慢ができません。
 兄さんは、私の心にともる灯でした。私の航路をてらして下さる燈台でした。兄さんが同じ屋根の下にいて下さると思うと、兄さんのお顔を見なくても、なんの心配もなかったのです。どんなときでも、一瞬の休みもなく、私のそばについていて下さることを信じることができました。いいえ、信じる必要などはありません。いつもいて下さいました。
 朝目をさますと、きっと私の前には、兄さんがいて下さるのです。私は兄さんにお早うを言います。私の心は晴れ晴れとします。私は明るく、働かなければなりません。パンパンという職業がどんな卑しいものであるかということも、考える必要はありません。兄さんがついていて、見まもっていて下さるのですもの、なんの不平がありましょう。私は、毎日々々が、たのしかったのです。どんなに苦しいとき悲しいときでも、自分が幸福な人間だということを疑ったことはありませんでした。

       三

 先日ヤエちゃんにお金をとられたとき、預金の方は手配をすれば人手にひきだされずにすむはずでした。いくらでもないから、私はそう云ってうッちゃらかしておきましたが、私はむしろ人に盗られてホッとした気持もあったのです。預金は卅六万円ほどありました。野良猫が預金していたことをおかしいとお思いになるでしょう。私もはずかしかったのです。
 野良猫にも、夢があったのです。ですが、どんな夢だか、おききにならないで下さい。自分でも知らないことなんです。夢というよりも、もっと実際的な不安だったかも知れません。いつまでもこうしていられないということ、いつか兄さんにお別れする時がくるだろうということ、そのときを考えてのことでしたが、兄さんとお別れしたあとでも、何やかやして生きるつもりの夢はあったのが今はフシギでございます。
 私が何より怖れていたことは、兄さんがおなくなりになる前に、私の今後の生き方について指図なさりはしないかということでした。めったになかったことですが、まれに兄さんが私の名をおよびになると、その怖しさで、私の胸はドキドキするのでした。私はいつも何食わぬ顔でニコニコと兄さんのお側についていましたが、ただその一つの怖れのためにいつも胸をいためていたのです。ですが兄さんは、やっぱり何のお指図もなさらずに、ねむるよりも安らかに、息をおひきとりでした。かすかに笑いながら――ウソではありません。きっと生きている私たちのことがおかしかったのでしょう。いつも、そうでしたもの。
 私の部屋に先生がお泊りのころから、兄さんが死んだら自殺しようと覚悟していました。自殺のフミキリに兄さんの死を使うことを咎めないで下さい。死ぬッてこと、私にはなんでもないことなんです。生きていることがなんでもなかったように。たゞ私にとっては、兄さんがいて下さること、いつもほほえんで私の生活を見守っていて下さることの喜びが全部でした。
 私はこの世になんの不平もありませんが、兄さんが生きていて下さらなければ、ムリに生きてることはないような気持なのです。兄さんが死んだから、私も死にたいのです。センエツかも知れませんが、兄さんと同じことがしたいだけです。兄さんが地の下へおはいりなら、私も地の下へ入れてもらいたいのです。けっして恋というものではありません。ただ兄さんのお側ちかくへ行かれるということ、これからも一しょに見守っていただけることを信じていたいだけです。そして、生れてきたことを胸いっぱい感謝して、一人のパンパンが死んだことを信じて下さい。
 お叱りをうけると困るんですけど、先生におねがいがあるのです。私、お線香一本たてていただきたいとも申しません。ですが、兄さんのお墓にいくらかでも近いところへ、埋めていただきたいのです。埋めていただくだけで結構です。お墓も葬式も欲しいと思いません。慾を云わせていただけば、よく晴れた日に私が背のびすると兄さんのお墓が見えるぐらいのところまで近づかせて下さいませ。怒らないで下さい。この希いをききとどけていただけたら、どんなにうれしいでしょうか。なぜって、私、これからお薬をのんで死ぬまでの短い時間、よく晴れた日に背のびして兄さんのお墓を見ていることを目に描きながら死にたいのですもの。おねがいです。
 先生の御多幸をいのります。

       四

 青木はルミ子の遺書を読み終えて、長平に返した。
「可憐だよ」
 彼はつぶやいた。しかし、すぐ苦笑して、
「あなた、これを読んで、とる物もとりあえず、上京したのかねえ。長平さんともあろう水ムシがさ。水ムシは、時に、妙なことで慌てるのかねえ。人間はたかが白骨ではないですか。なにも、こんなバカなことを云いたくはないが、相手が長さんじゃア、小人はケツをまくりたくなるんだねえ。長さんや。ぼくら小人にとっては、人間はなかなかもって白骨じゃアありませんや。だが、長さんほどの水ムシともなれば、片言隻句、人生すべてこれ白骨ではありませんか。ねえ。長さん。あなた、なんのために、なぜ、上京したのさ。え? よく晴れた日に、か。やれやれ。雨の降る日、風の吹く日は、どうしてようてんだろうなア、この幽霊は」
 その幽霊の本体はすぐそこに横たわっていた。特に正装とも思われないが、見苦しくない和服を身につけ、お化粧もし、今は解かれているが、紐で二ヶ所膝をむすんでいたそうである。流行の毒薬や催眠薬ではなくて、かなり特殊な薬を用いたらしいということであった。死に方について用意をきわめるだけの落付いた心構えがあったのである。ねているような顔だった。ふだんと変りなく、虚心で、可愛く見えた。
 湯呑みに灰を入れ線香をたてた人があったらしい。
「君たちかい。線香を供えてやったのは」
「そうはコマメにいかないねえ。センチな気分にひたるヒマがなかったほど、労働が苛烈をきわめたんだなア。二三、回向えこうの方々があったらしいや」
 青木は腕時計をのぞいて、
「もう十二時すぎてやがら。帰る電車がなくなったわけではないが、ひとつお通夜をしてやるか。完全なるお通夜をね。オールナイトさ。二千円、包まなきゃアいけねえや」
 しかし青木はフッと溜息でももらしそうな、ベソをかきそうに沈みこんだ。
「なア。長さんや。彼女はたしかに、可憐ですよ。だけどなア。オレは同情できねえや。オイ、長さんや。これ、本当かい? 彼女は、なぜ、死んだのさ。彼女の遺書たるや、何物ですかい。ただ、死にゃア、まだ、わかるよ。兄さんが死んだから、生きていてもツマラないッて? しかし、毎日々々が幸福で、たのしく、不平を忘れていられましたとネ。甘えてやがら。元々、自殺ぐらい甘ッたるいことはないがさ。あたりまえだ。一番人生の甘えん坊が、自殺するのさ。だから、彼女が妙テコレンな夢をえがいて、それに甘えて死ぬことはまた可なりかも知れないが、甘え方が気に食わないんだよ。ねえ、長さん。パンパンが、精神的な愛情なんて、笑わせやがるよ。それはね、パンパンが精神的な何かにすがるのは当然あって然るべきかも知れないが、こと恋愛的な雰囲気に於て、精神的とは笑わせらアね。人をバカにしてるじゃないか。ぼくはパンパンを軽蔑してやしませんよ。むしろ、尊敬してるんだ。パンパンたる者は、精神的などゝいう怪しげなものを、ハッキリ土足にかけてくれなきゃア、こまるじゃないか。彼女はぼくを、泣き男だと云いましたよ。それでこそパンパンなんだ。パンパンでなくちゃア至り得ざる境地によって、泣き男を土足にかけてくれなくちゃア、ダメじゃないか。甘ッチョイ死に方なんぞしやがって、ざまアねえや」
 青木は押入からルミ子のフトンをひッぱりだして、くるまって、ねてしまった。

       五

 郊外の墓地の一隅に二人を一しょに埋めることになった。せつ子の家へ放二の遺骨をとりに行くと、せつ子は笑って、
「なんだか、変ね。御当人たち、生きてるときには、死んでこうなるなんてこと、考えたことがないのにねえ」
「生きてるうちは、人間みんなデタラメさ。死んでからも、デタラメでも仕方がないよ。なんとなく恰好がつけば、花なのさ」
 長平は無責任なことを放言して、二ツの骨壺をぶらさげた。青木はニヤリとして、
「オレは持ってやらないぜ。長さんの心事には甚しく同情を感じていないからさ。一人で重い目をするがいいよ」
「私も同感できないのよ。お供しませんから、ごめんなさい」
 せつ子は門前まで見送って戻ってしまった。
「悪縁だなア」
 青木はつぶやいた。
「君とこうして歩いていると、しみじみ感じるのは、悪縁ということだね。まったく、人生は悪縁だけさ。だから意地ずくで生きのびてやらアね。死んじまうと負けだというのが実にハッキリしていやがるなア。今にこうして君の骨を埋葬してやる日のことを考えると、いくらか生きがいを感じるな」
 青木はうまそうにパイプをくゆらした。
 しかし、いよいよ墓地に至り、埋葬の段になると、青木は甚しく労力をおしまず、又、親切であった。長平は何もすることがなかった。青木が一人で汗水たらしているからである。かつ、遺骨にたいする取扱いのいたわりは丁重をきわめ、ミジンも手をぬくような粗略なフルマイがなかった。その人相も一途に真剣である。埋葬し終えてホッと一息、それからも、気になるところをコマメに手を加えて、外観をととのえた。
「実に親切テイネイなもんだねえ」
「これが武士道さ」
 青木は皮肉な笑いをとりもどした。
「よく晴れた日じゃないか。やっぱり、ちょッと離れたところへ埋めてやって、背延びをさせた方がよかったらしいや。しょッちゅう鼻をつきあわしてちゃア、やりきれませんやね。長さんも、不粋な人さ。過ぎたるは及ばずと云うじゃないか」
 青木は口の中でクチャ/\と経文か何かせっかちに呟いて、ペコンと頭を下げた。そして二人の埋葬は終った。
「どう? 水ムシの御感想は? 意はみたされましたか」
 青木は皮肉な目をクルクルさせた。長平は答えなかった。
「フン。勝手に黙ってるがいいや。ぼくの感想は、たった一つあるだけですがね。え。長さんや。たった一ツ。ね。オレは長さんを憎む、憎む、憎む。それだけだよ」
 青木はベッとツバをはいた。
「骨の髄から、憎んでるんだ。恨み、骨髄に徹す、かね。だんだん、それが分ってくるよ。生きるにしたがって、それが分ってくるだけなのさ。明日はもっと憎むんだ。そして、来年は、その分だけ憎さがハッキリ増してるのさ。なんて、まア、なつかしい人だろう。イヤハヤ、実に、おなつかしい」
 青木は墓地をでるとたんに、ニッコリ立ち止って握手をもとめ、強く長平の手を握りしめた。
「殺していいか、抱きついていいか、分りゃしねえや。オレは、長さんが、心から、なつかしいよ。ともかく、生きているからね」
 青木の目にこもった微笑は、素直で、善良であった。

底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
   1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二六三六七号〜第二六五二〇号」
   1950(昭和25)年5月19日〜10月18日
初出:「読売新聞 第二六三六七号〜第二六五二〇号」
   1950(昭和25)年5月19日〜10月18日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。