安井氏の絵はだんだんに肩の凝りが解けて来たという気がする。同時にだんだん東洋人らしいところが出て来るように見える。もう一歩進むと結局南画のようなものに接近する可能性を持っているのではないかと思われる。あの裸体の少女でも、あれを少しどうかすると支那画の童子のような感じが出そうである。
 そう云えば、すぐ隣りにある山下氏の絵にもやはり東洋人が顔を出している。雪景色の絵などはどこか広重ひろしげの版画の或るものと共通な趣を出している。
 津田君の小品ではこの東洋人がむき出しに顔を出している訳である。

 坂本氏の絵がかなり目立っている。これに対する向い側の壁に大分猛烈な絵が並んでいるので、コントラストの作用で一層この人の絵が静かに上品に見える。しかし自分には何だか完全にに落ち切らない一種の物足りなさが感ぜられる。この上品さを徹底させると結局何も描かないのが一番上品だという事も云われる。何かしらこの淡泊の中にしっかりした「しめくくり」が欲しいような気がする。海岸に岩がころがっている絵があると思って、目録を見たら「柿」としてあった。

 正宗まさむね氏と鍋井なべい氏の絵を見ると、かなり熱心に自分の殻を突き破る事に努力しているという事が感ぜられる。しかしあまりあせり過ぎては、却って自分にある好い物を捨てて自分にないものを追っかける恐れがありはしないか。画家の絵の転機はやはり永い間に自然に起って来るものがほんとうにその人に取って純真なものではないだろうか。毎年の展覧会に必ず変化を見せる必要はないかと思う。

 ブラマンク張りの絵が沢山たくさん出ている。私は二科会で何故こういう明白な模造を陳列させるかがどうしても解らない。
 その他にも大分同類がある。同じ人で静物は甲の仏人、人物は乙の仏人といったように真似の使い分けをしているのもある。

 椎塚しいづか氏の絵には何時もながら閉口するが、しかしこの人は、別にこれらの絵を人に見せて賞めてもらうために描いているらしく見えないところを頼もしく思う。
 この人の絵を見ていると、日常見馴れているものの中に潜んでいるグロテスクな分子を指摘される。天プラや、すしなどがあんなに恐ろしい鬼気をもって人に迫り得るという事を始めてこの画から教えられる。
 このままでだんだんに進んで行くところまで行ったら意外な面白いところに到達する可能性があるかもしれない。

 中川紀元きげん氏の今年の裸体は去年のほどおぞましく恐ろしくはない。わざとらしさが少しけ抜けたせいか、それとも此方こちらの眼が少し教育されて来たせいかもしれない。しかしこういう絵には、そういつまでも同じようなものを描き続け得られないだろうと思わせるある物がある。

 院展もちょっと覗いてみた。
 近藤浩一路こういちろう氏は近年「光」の画を描く事を研究しているように見える。ただそれを研究しているという事が何より先に感ぜられるので、楽しんで見るだけのゆとりが自分には出て来ない。
 大観たいかん氏の四枚の絵は自分には裾模様でも見るようで、絵としての感興が沸いて来ない。氏はいつでも頭で絵を描いているのを多とするが、しかし頭と心臓と両方が出ないとどこか物足りない。
 龍子りゅうし氏ももう少し心臓の方を働かせて描いてほしい。
 芋銭うせん氏の絵には時々心臓が働いているように見えるのを頼もしく思う。今年のはあまりはえないが。
 心臓もなければ脳味噌さえもない絵の多い事を残念に思う。もう少し数を減らせて、そして絵は下手でもいいから何かしら味のあるアマチュウアの絵でも加えたらどうであろうか。
 大きな屏風に梅の化物を描いたのがある。実に不愉快な絵だと思う。不自然の醜さという事のデモンストラチオンに使用されるに恰好なものと思う。

 ついでに仏展も見物する。
 近代画家の絵には随分つまらないのや乱暴なのがあるが、しかしどんな変なものでもどこかのびやかな自由さを持っている。フランス人がフランス人の絵を描いているせいだろうかと思う。これを日本人が真似したところでそののびやかさ自由さが出るはずがない。素人にはこれほど自明的な事はないと思われる事が専門の画家にはどうして感ぜられないかという気がする。
 モロオの絵がある。この人もオリジナルな人である。この人の習作や沢山の未成の絵を並べて、そして一夜漬けの模造品を雑作もなく塗り上げる人達に見せるのもいいかと思う。
 ジョコンダの絵と、ルウベンスの模写が出ている。模写の出来る絵と出来ない絵とがあるとすれば、この二つはその代表者だと思う。ジョコンダの模写を見ると本物の価値が始めてよく分るし、ルウベンスの模写を見ると、ルウベンスの大幅が到る処のギャレリイにのさばっている理由が明白になると思う。
 マイヨオルのものの見えないのが物足りない。何か訳があって出ないのではないかを心配する。フランス人と日本人との心持のピッタリ接触し得る接触点を示すものがマイヨオルのプラスティックであるかと思う。ロダンなどは、ほんとうは日本人に背中を向けておりはしないか。
 マイヨオルの作品を見ると、人に見せよう展覧会に出そうという発表意識が少しも感ぜられない。作者が自分ですっかり目尻を下げているようなところがある。
 これに反して、近頃の展覧会の多くの絵などは、作者が幕の陰にかくれていて、見物人の眼の色ばかり読んでいそうな気がする。そんな心持が少しでもあって、いい芸術が生れようとは思われない。見る人にとっても釣り込まれるような感興が起ろうはずはない。

 思うままを備忘までに書いてみた、名前を挙げた画家達に礼を失するような事がありはしないかと思うが、素人の妄言として寛容を祈る。
(大正十四年十月『明星』)

底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店
   1997(平成9)年7月7日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「明星」
   1925(大正14)年10月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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