一

 空のうるわしさ、地の美しさ、万象のたえなる中に、あまりにいみじき人間美は永遠を誓えぬだけに、もろき命にはげしき情熱の魂をこめて、たとえしもない刹那せつなの美を感じさせる。
 美は一切の道徳どうとく規矩きくを超越して、ひとりほこらかに生きる力を許されている。古来美女たちのその実際生活が、当時の人々からいかに罪され、さげすまれ、おとしめられたとしても、その事実は、すこしも彼女たちの個性的価値ねうち抹殺まっさつする事は出来なかった。かえって伝説化された彼女らの面影は、永劫えいごうにわたって人間生活に夢と詩とを寄与きよしている。
 小さき夢想家であり、美の探求者たんきゅうしゃであるわたしは、古今の美女のおもばせを慕ってもろもろの書史ふみから、語草かたりぐさから、途上の邂逅かいこうからまで、かずかずの女人をさがしいだし、そのひとたちの生涯の片影へんえいしるしとどめ、折にふれて世の人に、紹介することを忘れなかった。美しき彼女たちの(小伝)は幾つかの巻となって世の中に読まれている。
 そしてわたしの美女に対するこまかしい観賞、きりきざんだ小論はそうした書にしるしておいた。ここには総論的な観方みかたで現代女性を生んだ母の「明治美人」を記して見よう。

 それに先だって、わたしは此処ここにすこしばかり、現代女性の美の特質を幾分書いて見なければならない。それはあまりに急激に、世の中の美人観が変ったからである。古来、各時期に、特殊な美人型があるのはいうまでもないが、「現代は驚異である」とある人がいったように、美人に対してもまたそういうことがいえる。
 現代では度外どはずれということや、突飛とっぴということが辞典から取消されて、どんなこともあたり前のこととなってしまった。実に「驚異」横行の時代であり、爆発の時代である。各自の心のうちには、空さえ飛び得るという自信をもちもする。まして最近、おりを蹴破り、桎梏しっこくをかなぐりすてた女性は、当然あるたかぶりを胸に抱く、そこで古い意味の(調和)古い意味の(諧音)それらの一切は考えなくともよいとされ、現代の女性は(不調和)のうちに調和を示し、音楽を夾雑音のうちに聴くことを得意とする。女性の胸に燃えつつある自由思想は、各階級を通じて(化粧)(服装)(装身)という方面の伝統を蹴り去り、外形的に(破壊)と(解放)とを宣言した。調ととのわない複雑、出来そくなった変化、メチャメチャな混乱――いかにも時代にふさわしい異色を示している。
 時代精神の中枢は自由である。束縛は敵であり跳躍は味方である。各自の気分によって女性は、おつくりをしだした。美の形式はあらゆる種類のものが認識される。
 黒狐の毛皮の、剥製標本はくせいひょうほんのような獣の顔が紋服の上にあっても、その不調和を何人なんぴとも怪しまない。十年前、メエテルリンク夫人のひょう外套がいとうは、仏蘭西フランスにおいても、亜米利加アメリカにおいても珍重されたといわれるが、現代の日本においては、気分的想像の上ですでにそんなものをば通り越してしまっている。
 その奔放な心持ちは、いまや、行きつくところを知らずに混沌こんとんとしている。けれども、この思い切った突飛とっぴの時代粧をわたしは愛し尊敬する。なぜならば進化はいつも混沌をへなければならないし、改革の第一歩は勇気に根ざすほかはない。いかに馴化じゅんかされた美でも、古くなり気が抜けては、生気に充ちみちた時代の気分と合わなくなってしまう。混沌たる中から新様式の美の発見をしなければならない。そこに新日本の女性美が表現されるのであるから――

 なごやかな、そして湿しめやかな、みしめた味をよろこぶ追懐的情緒は、かなり急進論者のように見えるわたしを、また時代とは逆行させもするが、過激な生活は動的の美を欲求させ、現代の女性美は現代の美の標準の方向を表示しているともいえるし、現代の人間が一般的に、どんな生き方を欲しているかという問題をも、痛切に表現しているともいえる。で、その時代をかもした、前期の美人観をといえば、一口に、明治の初期は、美人もまた英雄的であったともいえるし、現今のように一般的の――おしなべて美女に見える――そうしたのではなかった。「とても昔なら醜女しこめとよばれるのだが、当世では美人なのか。」と、今日の目をもたない、古い美人観にとらわれているものは歎声を発しるが、徳川末期と明治期とは、美人の標準の度があまりかけはなれてはいなかった。
 無論明治期にはいって、丸顔がよろこばれてきていた。「色白の丸ポチャ」という言葉も出来た。女の眼には鈴を張れという前代からの言いならわしが、力強く表現されてきている。けれど、やはり瓜実顔うりざねがおしもぶくれ――鶏卵形が尊重され、かくばったのや、ひたいの出たのや、あごの突出たのをも異国情緒――個性美の現われと悦ぶようなことはなかった。
 瓜実顔は勿論徳川期から美人の標型になっていた。その点で明治期は美人の型を破り、革命をなしげたとはいえない。そして瓜実顔は上流貴人の相である。その点で明治美人は伝統的なものであり、やはり因習にとらわれていたともいえる。維新の政変はお百姓の出世時しゅっせどきというようなことを、都会に生れたものは口にしていたが、「お百姓の出世」とは、幕府直参じきさんでない、地方ざむらいの出世という意味で、決して今日のように民衆の時代ではなかった。美人の型もおのずから法則があった。
 とはいえ、徳川三百年の時世にも、美人は必ずしも同じ型とはいえない。浮世絵の名手が描き残したのを見てもその推移は知れる。春信はるのぶ春章しゅんしょう歌麿うたまろ国貞くにさだと、豊満な肉体、丸顔から、すらりとした姿、脚と腕の肉附きから腰の丸味――富士額ふじびたい――触覚からいえば柔らかい慈味じみのしたたる味から、幕末へ来ては歯あたりのある苦みを含んだものになっている。多少骨っぽくなって、頭髪などもさらりとあらっぽい感じがする。羽二重や、ぬめや、芦手あしで模様や匹田鹿ひったがの手ざわりではなく、ゴリゴリする浜ちりめん、透綾すきや、または浴衣ゆかたの感触となった。しかしこれはおもに江戸の芸術であり、風俗である。京阪けいはん移殖いしょくの美人型が、ようやく、江戸根生ねおいの個性あるものとなったのだった。錦絵、芝居から見ても、洗いだしの木目もくめをこのんだような、江戸系の素質をみがき出そうとした文化、文政以後の好みといえもする。――その間に、明治中期には、中京美人の輸入が花柳界を風靡ふうびした――が、あらそわれないのは時代の風潮で、そうしたかたむきは、京都を主な生産地としている内裏雛だいりびなにすら、顔立ち体つきの変遷が見られる。内裏雛の顔がとがって、神経質なものになったのは、明治の末大正の初めがはなはだしかった。

 上古の美人は多く上流の人のみが伝えられている。まれには国々のうるわしき少女おとめを、花のようにめるおもわ、月の光りのように照れるおもてとうたって、肌のつや極めてうるわしく、額広く、うれいの影などは露ほどもなく、輝きわたりたる面差おもざし晴々として、眼瞼まぶた重げに、まなじり長く、ふくよかな匂わしきほほ、鼻は大きからず高すぎもせぬ柔らか味を持ち、いかにものどやかに品位がある。光明皇后こうみょうこうごうの御顔をうつしたてまつったという仏像や、その他のものにも当時の美女の面影をうかがう事が出来る。上野博物館にある吉祥天女きっしょうてんにょの像、出雲いずも大社の奇稲田姫くしいなだひめの像などの貌容がんように見ても知られる。
 平安朝になっては美人の形容が「あかかがちのように麗々れいれいしく」と讃えられている。「あかかがち」とは赤酸漿たんばほおずきの古い名、当時の美女はほおずきのように丸く、赤く、艶やかであったらしくも考えられる。赤いといっても色艶いろつやうるわしく、匂うようなのを言ったのであろう。古い絵巻などに見ても、骨の細い、肉つきのふっくりとした、額は広く、頬も豊かに、丸々とした顔で、すこし首の短いのが描いてある。そのころは、髪の毛の長いのと、涙の多いのとを女の命としてでもいたように、物語などにも姿よりは髪の美しさが多くかかれ、敏感な涙が多くかかれてあるが、徳川期の末の江戸女のように、意気地いきじと張りを命にして、張詰めた溜涙ためなみだをぼろぼろこぼすのと違って、細い、きれの長い、情のあるまなじりをうるませ、几帳きちょうのかげにしとしとと、春雨の降るように泣きぬれ、うちかこちた姿である。
 鎌倉時代から室町の頃にかけては、前期の女性を緋桜ひざくら、または藤の花にたとうれば、梅のかんばしさと、山桜の、無情を観じた風情ふぜいを見出すことが出来る。生に対する深き執着と、あきらめとを持たせられた美女たちは、前代の女性ほど華やかに、湿やかな趣きはかけても、さび渋味しぶみが添うたといえもする。この期の女性の、無情感と諦めこそ、女性には実に一大事となったのだが、美人観には記す必要もなかろう。
 徳川期に至っては、元禄の美人と文化以後のとはまるで好みが違っている。しかしここに来て、くっきりと目立つのは、上流の貴女ばかりが目立っていたのから、すべてが平民的になった事である。ひとつには当時の上流と目される大名の奥方や、姫君などは、かごとり同様に檻禁かんきんしてしまったので、勢い下々しもじもの女の気焔きえんが高くなったわけである。湯女ゆな遊女ゆうじょ、掛茶屋の茶酌女ちゃくみおんな等は、公然と多くの人に接しるから、美貌はすぐと拡まった。
当世貌とうせいがおは少しく丸く、色は薄模様にして、面道具めんどうぐの四つ不足なく揃へて、目は細きを好まず、まゆ厚く鼻の間せわしからずして次第に高く、口小さく、歯並はなみあら/\として白く、耳長みあつて縁浅く、身を離れて根まで見えすき、ひたいぎはわざとならず自然に生えとまり、首筋たちのびて、おくれなしの後髪、手の指はたよわく、長みあつてつめ薄く、足は八もんの定め、親指つて裏すきて、胸間常の人より長く、腰しまりて肉置ししおきたくましからず、尻はゆたかに、物ごし衣装つきよく、姿の位そなはり、心立こころだておとなしく、女に定まりし芸すぐれてよろずいやしからず、身にほくろひとつもなき――
井原西鶴さいかくはその著『一代女』で所望している。
 明治期の美女は感じからいって、西鶴の注文よりはずっとあらっぽくザラになった(身にほくろ一つもなき)というに反して、西洋風に額にほくろを描くものさえ出来た。
 徳川期では、吉原よしわら島原しまばらくるわが社交場であり、遊女が、上流の風俗をまねて更に派手やかであり、そして、女としての教養もあって、その代表者たちにより、時代の女として見られた。それに次いで、明治期は、芸者美が代表していたといえる。貴婦人の社交もひろまり、女子擡頭たいとうの気運は盛んになったとはいえ、そしてまた、女学生スタイルが、追々に花柳界人の跳梁ちょうりょう駆逐くちくしたとはいえ、それは、大正の今日にかかるかけはしであって、明治年間ほど芸妓の跋扈ばっこしたことはあるまい。恰度ちょうど前代の社交が吉原であったように、明治の政府と政商との会合は多く新橋、赤坂辺の、花柳明暗かりゅうめいあんの地に集まったからでもあろう。芸妓の鼻息はあらくなって、真面目まじめな子女は眼下に見下され、要路の顕官けんかん貴紳きしん、紳商は友達のように見なされた。そして誰氏の夫人、彼氏の夫人、歴々たる人々の正夫人が芸妓上りであって、遠き昔はいうまでもなく、昨日まで幕府の役人では小旗本といえど、そうした身柄のものは正夫人とは許されなかったのに、一躍して、雲井に近きあたりまで出入することの出来る立身出世――たま輿こしの風潮にさそわれて、家憲かけん厳しかった家までが、下々しもじもでは一種の見得みえのようにそうした家業柄の者を、いきなり家庭の主婦として得々としていた――これは中堅家庭の道徳の乱れた源となった。
 しかしながら、それは国事にこと茂くて、家事をかえり見るいとまのすけなかった人や、それほどまでに栄達して、世の重き人となろうとは思わなかった人の、軽率な、というより、むをぬ情話などがからんでそうなったのを――しかもその美妓たちには、革進者を援ける気概のあったすぐれた婦人も多かったのだ――世人は改革者の人物を欽仰きんこうして、それらのことまで目標とし、師表とした誤りである。ともあれ、前時代の余波をうけて、堅気な子女は深窓を出ず、几帳きちょうをかなぐって、世の中に飛出したものもなかったので、勢い明治初年から中頃までは、そうした階級の女の跳躍にまかせるより外はなかった。

 ここにさんとして輝くのは、旭日あさひに映る白菊の、清香かんばしき明治大帝の皇后宮、美子はるこ陛下のあれせられたことである。
 陛下はまれに見る美人でおわしました。明眸皓歯めいぼうこうしとはまさにこの君の御事と思わせられた。いみじき御才学は、包ませられても、御詠出の御歌によってうけたまわる事が出来た。
 明治聖帝が日本の国土のかがやきの権化ごんげでおわしますならば、桜さく国の女人の精華は、この后であらせられた。大日輪の光りの中から聖帝がお生まれになったのならば、天地馥郁てんちふくいくとして、花の咲きみちこぼれたる匂いのしべのうちに、麗しきこの女君めぎみは御誕生なされたのである。明治の御代に生れたわたしは、何時もそれをほこりにしている。一天万乗ばんじょうの大君の、御座ぎょざかたわらにこの后がおわしましてこそ、日の本は天照大御神の末で、東海貴姫国とよばれ、八面玲瓏れいろう玉芙蓉峰ぎょくふようほうを持ち、桜咲く旭日あさひの煌く国とよぶにふさわしく、『竹取物語』などの生れるのもことわりと思うのであった。
 我等女性が忘れてならないこの后からの賜物たまものは、長い間の習わしで、女性の心が盲目であったのに目を開かせ、心の眠っていたものに夢をさまさせ、女というもの自身のもつ美果を、自ら耕し養えとの御教えと、美術、文芸を、かくまで盛んに導かせたまいしおんことである。それはすたれたるを起し、新しきを招かれたそればかりでなく、音楽や芸術のたぐいにとりてばかりでなく、すべての文教のために、忘れてならないお方でおわしました。主上にはよき后でおわしまし、国民にはめでたき国の宝と、思いあげる御方であらせられた。
 この、后の宮の御側には、平安朝の後宮こうきゅうにもおとらぬ才媛さいえんが多く集められた。五人の少女を選んで海外留学におつかわしになったことや、十六歳で見出された下田歌子しもだうたこ女史、岸田俊子きしだとしこ湘煙しょうえん)女史があり、女学の道を広めさせられた思召おぼしめしは、やがて女子に稀な天才が現われるときになって、御余徳おんよとくがしのばれることであろう。一条左大臣の御娘である。

       二

 わたしは此処に、代表的明治美人の幾人かの名をしるそう。そしてその中からまた幾人かを選んで、短かい伝を記そう。上流では北白川宮大妃富子殿下、故有栖川宮ありすがわのみや妃慰子殿下、新樹しんじゅつぼね、高倉典侍、現岩倉侯爵の祖母君、故西郷従道さいごうつぐみち侯の夫人、現前田侯爵母堂、近衛公爵の故母君、大隈おおくま侯爵夫人綾子、戸田伯爵夫人極子を数えることが出来る。東伏見宮周子殿下、山内禎子やまうちさだこ夫人、有馬貞子夫人、前田漾子まえだようこ夫人、九条武子夫人、伊藤※(「火+華」、第3水準1-87-62)いとうあきこ夫人、小笠原貞子夫人、寺島鏡子夫人、稲垣栄子夫人、岩倉桜子夫人、古川富士子夫人の多くは、大正期に語る人で、明治の過去には名をつらねるだけであろうと思われる。
 山県公の前夫人は公の恋妻であったが二十有余年の鴛鴦えんおうの夢破れ、公は片羽鳥かたわどりとなった。その後、現今の貞子夫人が側近そばちこう仕えるようになった。幾度か正夫人になるといううわさもあったが、彼女は卑下して自ら夫人とならぬのだともいうが、物堅い公爵が許さず、一門にも許さぬものがあって、そのままになっているという事である。表面はともあれ、故かつら侯などは正夫人なみにあつかわれたという、その余のともがらにいたってはいうまでもない事であろう。すれば事実は公爵夫人貞子なのである。
 貞子夫人の姉たき子は紳商益田孝ますだたかし男爵の側室である。益田氏と山県氏とは単に茶事ちゃじばかりの朋友ともではない。その関係を知っているものは、彼女たち姉妹のことを、もちつもたれつの仲であるといった。相州板橋にある山県公の古稀庵こきあんと、となりあう益田氏の別荘とはその密接な間柄をものがたっている。
 姉のたき子はせて眼の大きい女である。妹の貞子は色白なつつましやかな人柄である。今日の時世に、維新の元勲元帥の輝きを額にかざし、官僚式に風靡し、大御所おおごしょ公の尊号さえ附けられている、大勲位公爵を夫とする貞子夫人の生立ちは、あわれにもいたましい心のきずがある。彼女たち姉妹がまだ十二、三のころ、彼女たちの父は、日本橋芸妓歌吉と心中をして死んだ。そういう暗い影は、どんなに無垢むくな娘心をいためたであろう。子を捨ててまで、それもかなりに大きくなった娘たちを残して、一家の主人が心中する――近松翁の「てん網島あみじま」は昔の語りぐさではなく、彼女たちにはまざまざと眼に見せられた父の死方である。明治十六年の夏、山王さんのう――麹町日枝ひえ神社の大祭のおりのことであった。芸妓歌吉は、日本橋の芸妓たちと一緒に手古舞てこまいに出た、その姿をうみの男の子で、鍛冶屋かじやに奉公にやってあるのを呼んで見物させて、よそながら別れをかわした上、檜物町ひものちょうの、我家の奥蔵の三階へ、彼女たちの父親を呼んで、刃物で心中したのであった。
 彼女たちは後に、芝居でする「天の網島」を見てどんな気持ちに打たれたであろうか、紙屋治兵衛かみやじへえは他人の親でなく、浄瑠璃でなく、我親そのままなのである。京橋八官町の唐物屋とうぶつや吉田吉兵衛なのである。
 彼女たちの父は入婿いりむこであった。母は気強きごうな女であった。また芸妓歌吉の母親や妹も気の強い気質であった。その間に立って、気の弱い男女は、互いに可愛い子供を残して身をほろぼしたのである。其処に人世の暗いものと、心の葛藤かっとうとがなければならない。結びついてからまった、ついには身を殺されなければならない悲劇の要素があったに違いない。
 その当時の新聞記事によると、歌吉の母親は、対手あいての男の遺子たちに向って、お前方も成長おおきくなるが、間違ってもこんな真似をしてはいけないという意味を言聞かして、涙一滴いってきこぼさなかったのは、気丈な婆さんだと書いてあった。その折、言聞かされてうなずいていた少女が、たき子と貞子の姉妹で、彼女の母親は、彼女たちの父親を死に誘った、憎みとうらみをもたなければならないであろう妓女げいしゃに、この姉妹きょうだいをした。彼女たちはすぐに新橋へ現れた。
 複雑な心裡しんりの解剖はやめよう。ともあれ彼女たちは幸運をち得たのである。情も恋もあろう若き身が、あの老侯爵にかしずいて三十年、いたずらに青春は過ぎてしまったのである。老公爵百年の後の彼女の感慨はどんなであろう。夫を芸妓に心中されてしまった彼女の母親は、新橋に吉田家という芸妓屋を出していた。そして後の夫は講談師伯知はくちである。夫には、日本帝国を背負っている自負の大勲位公爵を持ち、義父に講談師伯知を持った貞子の運命は、明治期においても数奇なる美女の一人といわなければなるまい。
 その他淑徳しゅくとくの高い故伊藤公爵の夫人梅子も前身は馬関ばかんの芸妓小梅である。山本権兵衛伯夫人は品川の妓楼に身を沈めた女である。桂公爵夫人加奈子も名古屋の旗亭香雪軒きていかせつけんの養女である。伯爵黒田清輝画伯夫人も柳橋でならした美人である。大倉喜八郎夫人は吉原の引手茶屋の養女ということである。銅山王古川虎之助氏母堂は、柳橋でならした小清さんである。
 横浜の茂木もぎ、生糸の茂木と派手にその名がきこえていた、生糸王野沢屋の店の没落は、七十四銀行の取附け騒ぎと共にまだ世人の耳に新らしいことであろう。その茂木氏の繁栄をなさせ、またその繁栄を没落させたかげに、当代の若主人の祖母おちょうのある事を知る物はすけない。彼女は江戸が東京になって間もない赤坂で、常磐津ときわずの三味線をとって、師匠とも町芸者ともつかずに出たが、思わしくなかったので、当時開港場として盛んな人気の集った、金づかいのあらい横浜へ、みよりの琴の師匠をたよって来て芸者となった伝法でんぼうな、気っぷのよい、江戸育ちの歯ぎれのよいのが、大きな運をかけてかかる投機的の人心に合って、彼女はめきめきと売り出した。その折、彼女の野心を満足させたのは、横浜と共に太ってゆく資産家野沢屋の旦那をつかまえたことであった。

 野沢屋茂木氏には糟糠そうこうの妻があった。彼女は遊女上りでこそあるが、一心になって夫を助け家をとました大切な妻であった。その他に野沢屋には総番頭支配人に、生糸店として野沢屋の名をなさせた大功のある人物があった。その二人のために、さすがにおぼれた主人も彼女をすぐに家に入れなかった。長い年月を彼女は外妾として暮さなければならなかった。
 茂木氏夫妻には実子がなかった。夫婦のめいおいを呼び寄せ、めあわせて二代目とした。ところが外妾の方には子が出来た。女であったので後に養子をしたが、現代の惣兵衛氏の親たちで、彼女が野沢屋の大奥さんとして、出来るだけの栄華にふける種をおろしたのであった。
 過日あの没落騒動ぼつらくがあった時に、おなじ横浜に早くから目をつけて来たが、茂木氏のような運をつかみ得ないで、国許くにもとに居るときよりは、一層せちがらい世を送っている者たちはこう言った。
「とうとう本妻の罰があたったのだ。悪運も末になって傾いて来たのだ。」
 なるほど彼女はかなり深刻な悲惨な目を見たのである。彼女は王侯貴人にもまさる贅沢ぜいたくが身にしみてしまっていた。そして彼女のはなはだしい道楽――彼女が生甲斐いきがいあるものとして、生きいるうちは一日も止めることの出来ないように思っていた、芸人を集めて、かるた遊びをしたり、弄花ろうかなぐさみにふけることは、どうしてもやめなければならないような病気にかかっていた。長い間の酒色しゅしょく放埒ほうらつのむくいからか、彼女の体は自由がきかなくなっていた。それでも彼女のおごりの癖は、吉原の老妓や、名古屋料理店の大升だいますの娘たちなどを、入びたりにさせ、機嫌をとらせていた。看護婦とでは、十人から十五人の人たちが、彼女の手足のかわりをして慰めていた。風呂に入る時などは幕を張り、屏風びょうぶをめぐらし、そして静々しずしずと、ふくよかな羽根布団にくるまれて、室内を軽くすべる車で、それらの人々にはこばせるのであった。野沢屋の店が、この親子三人――彼女は祖母で、娘は未亡人となり、主人はまだ無妻であった――のために月々仕払う生活費は一万円であったということである。無論たった三人のために台所番頭という役廻りまであって、その人たちは立派な一家をなし、中流以上の家計を営んでいたのである。
 おかみ女中、おしも女中、三十人からの女中が一日、齷齪あくせくとすわる暇もなく、ざわざわしていた家である。台所もおかみの台所、おしもの台どころとわかれ、器物などもそれぞれに応じて来客にも等差が非常にあった。

 彼女はそうした生活から、そうした放縦ほうしょうの疲労から老衰を早めた。おりもおり、さしもに誇りを持った横浜の土地から、或夜、ひそかに逃げださなければならなかった。彼女は幾台かの自動車に守られて、かねて東京へ来たおりの遊び場処にと、それも贔屓ひいきのあまりにかい取っておいた、赤坂仲の町の俳優尾上梅幸おのえばいこうの旧宅へと隠れた。
 とはいえ彼女はさすがに苦労をした女であり、また身にあまる栄華を尽したことをも悟っていたのか、家の退転については、あまり見苦しい態度はとらなかったということである。病床にある彼女はすっかり諦めて、これが本来なのだ、もともと通りなのだと達観しているとも聞いたが、何処どこやらに非凡なところがある女という事が知れる。
 そうした幸運の人々の中には現総理大臣原敬はらたかし氏の夫人もある。原氏の前夫人は中井桜洲なかいおうしゅう氏の愛嬢で美人のきこえが高かったが、放胆ほうたんな家庭に人となったので、有為の志をいだく青年の家庭をおさめる事は出来にくく離別になったが、困らぬように内々ないない面倒は見てやられるのだとも聞いていた。現夫人は、紅葉館のひとだということである。丸顔なヒステリーだというほかは知らない。おなじ紅葉館の舞妓まいこで、さかえいみじい女は博文館はくぶんかん主大橋新太郎氏夫人須磨子さんであろう。彼女は何の理由でか、家を捨て東京へ出て来ていたある旅館の若主人の、放浪中に生せた娘であったが、舞踊にもひいで、容貌は立並んで一際ひときわ美事みごとであったため、若いうちに大橋氏の夫人として入れられた。八人の子を生んでも衰えぬ容色を持っている。越後から出てほんの一書肆しょしにすぎなかった大橋氏は、いまでは経済界中枢の人物で、我国大実業家中の幾人かであろう。かたわらに大橋図書館をひかえた宏荘の建物の中に住い、令嬢豊子さんは子爵金子氏令嗣れいしの新夫人となっている。よろずに思いたらぬことのない起伏おきふしであろう。明治の文豪尾崎紅葉氏の「金色夜叉こんじきやしゃ」は、巌谷小波いわやさざなみ氏と須磨子夫人をとったものと噂されたが、小波氏は博文館になくてならない人であり、童話の作家として先駆者である。氏にも美しくけんなる伴侶はんりょがある。
 大橋夫人は美しかった故にそうした艶聞誤聞を多く持った。

 長者とは――ただ富があるばかりの名称ではない。渋沢男爵こそ、長者の相をも人柄をも円満に具備した人だが、兼子夫人も若きおりは美人の名が高かった。彼女が渋沢氏の家の人となるときに涙ぐましい話がある。それは、なさぬ仲の先妻の子供があったからのなんのというのではない。深川油堀あぶらぼりの伊勢八という資産家の娘に生れた兼子の浮き沈みである。
 油堀は問屋町で、伊勢八は伊東八兵衛という水戸侯の金子御用達きんすごようたしであった。伊勢屋八兵衛の名は、横浜に名高かった天下の糸平と比べられて、米相場にも洋銀ドル相場にも威をふるったものであった。兼子は十二人の子女の一人で、十八のおり江州ごうしゅうから婿むこを呼びむかえた。かくて十年、家附きの娘は気兼もなく、娘時代と同様、物見遊山ものみゆさんに過していたが、かたむく時にはさしもの家も一たまりもなく、わずかの手違てちがいから没落してしまった。婿になった人も子まであるに、近江おうみへ帰されてしまった。(そのころ明治十三年ごろか?)市中は大コレラが流行していて、いやが上にも没落の人の心をふるえさせた。
 彼女はう人ごとに芸妓になりたいと頼んだのであった「大好きな芸妓になりたい」そういう言葉の裏には、どれほどの涙が秘められていたであろう。すこしでも家のものに余裕を与えたいと思うこころと、身をくだすせつなさをかくして、きかぬ気から、「好きだからなりたい」といって、きく人の心をいためない用心をしてまで身を金にかえようとしていた。両国のすしやという口入くちいれ宿は、そうした事の世話をするからと頼んでくれたものがあった。すると口入宿ではめかけの口ではどうだといって来た。
 妾というのならばどうしてもいやだと、口入れを散々手古摺てこずらした。零落おちぶれても気位きぐらいをおとさなかった彼女は、渋沢家では夫人がコレラでなくなって困っているからというので、後の事を引受けることになって連れてゆかれた。その家が以前の我家わがや――倒産した油堀の伊勢八のあとであろうとは――彼女は目くらめく心地で台所の敷居を踏んだ。
 彼女はいま財界になくてならぬ大名士だいめいしの、時めく男爵夫人である。飛鳥山あすかやまの別荘に起臥おきふしされているが、深川の本宅は、思出の多い、彼女の一生の振出しの家である。

       三

 さて明治のはじめに娼妓解放令の出た事を、当今の婦人は知らなければならない。それはやがて大流行になった男女交際のさきがけをしたもので、いわゆる明治十七、八年頃の鹿鳴館ろくめいかん時代――華族も大臣も実業家も、令夫人令嬢同伴で、毎夜、夜を徹して舞踏に夢中になった、西洋心酔時代の先駆せんくをなしたものであった。その頃吉原には、金瓶楼きんぺいろう今紫いまむらさきが名高い一人であった。彼女は昔時いにしえ太夫職たゆうしょくの誇りをとどめた才色兼美の女で、廃藩置県のころの諸侯を呼びよせたものである。山内容堂やまのうちようどう侯は彼女に、その頃としては実に珍らしい大形の立鏡たてかがみを贈られたりした。彼女は今様男舞いまようおとこまいを呼びものにしていた。はかま水干立烏帽子すいかんたてえぼし、ものめずらしいその扮装ふんそうは、彼女の技芸と相まってその名を高からしめた。明治廿四年依田学海よだがくかい翁が、男女混合の演劇をくわだてた時に、彼女は千歳米坡ちとせべいはや、市川九女八いちかわくめはち守住月華もりずみげっかと共に女軍じょぐんとして活動を共にしようとせ参じた。その後も地方を今紫の名を売物にして、若い頃の男舞いを持ち廻っていた様であった。一頃ひところは、根岸に待合めいたこともしていた。晩年に夫としていたのは、の相馬事件――子爵相馬家のお家騒動で、腹違いの兄弟の家督争いであった。兄の誠胤せいいんとよばれた子爵が幽閉され狂人とされていたのを、旧臣錦織剛清にしごおりごうせいが助けだした――の錦織剛清であった。
 遊女に今紫があれば芸妓に芳町よしちょう米八よねはちがあった。後に千歳米坡と名乗って舞台にも出れば、寄席よせにも出て投節なげぶしなどを唄っていた。彼女はじきに乱髪らんぱつになる癖があった。席亭せきていに出ても鉢巻のようなものをして自慢の髪を――ある折はばらりと肩ぐらいで切っている事もあった。彼女が米八の昔は、時の人からたった二人の俊髦しゅんもうとして許された男――末松謙澄すえまつけんちょう光明寺三郎こうみょうじさぶろう――いずれをとろうと思い迷ったほど、思上った気位で、引手あまたであった。とうとうその一人の光明寺三郎夫人となったが、天は、その能ある才人に寿じゅをかさず、企図は総て空しいものとされてしまった。彼女はその後、浮世を真っすぐに送る気をなくしてしまって、斗酒としゅをあおって席亭で小唄をうたいながら、いつまでも鏡を見てくらす生涯を送るようになった。しかし伝法でんぽうな、負けずぎらいな彼女も寄る年波には争われない。ある夜、外堀線そとぼりせんの電車へのった時に、美女ではあるが、何処やら年齢のつろくせぬ不思議な女が乗合わせた、と顔を見合わした時に、彼女はそれと察してかクルリと後をむいて、かなり長い間を立ったままであった。席はむしろすきすぎていたのであったが、彼女は正体を見あらわされるのをきらったに違いなかった。艶やかに房やかな黒髪は、巧妙にしつらわれたかつらなのは、額でしれた。そして悲しいことに、釣り革をにぎる手の甲に、年数としかずはかくすことが出来ないでいた。
 女役者として巍然ぎぜんと男優をも撞着どうちゃくせしめた技量をもって、小さくとも三崎座に同志を糾合きゅうごうし、後にはある一派の新劇に文士劇に、なくてならないお師匠番として、女団洲の名をはずかしめなかった市川九女八いちかわくめはち――前名岩井粂八いわいくめはち――があり、また新宿豊倉楼とよくらろうの遊女であって、後の横浜富貴楼ふっきろう女将おかみとなり、明治の功臣の誰れ彼れを友達づきあいにして、種々な画策に預ったお倉という女傑じょけつがある。お倉は新宿にいるうちに、有名な堀の芸者小万と男をあらそい、美事にその男とそいとげたのである。彼女は養女を多く仕立て、時の顕官に結びつくよすがとした、雲梯うんてい林田亀太郎はやしだかめたろう氏――粋翰長すいかんちょうとして知られた、内閣書記翰長もまたお倉の女婿じょせいである。お倉は老ても身だしなみのよい女であって、老年になっても顔は艶々としていた。切髪のなでつけ被布姿ひふすがたで、着物のすそを長くひいてどこの後室こうしつかという容体であった。
 有明楼ゆうめいろうのお菊は、白博多しろはかたのお菊というほど白博多が好きで名が通っていた。それよりもまた、その頃の人気俳優沢村宗十郎さわむらそうじゅうろう――助高屋高助すけたかやたかすけ――を夫にむかえたのと、宗十郎が舞台で扮する女形おやまはお菊の好みそのままであったので殊更ことさら名高かった。ことに宗十郎の実弟には、評判の高い田之助たのすけがあったし、有明楼は文人画伯の多く出入でいりした家でもあったので、お菊はかなりな人気ものであった。待乳山まっちやまを背にして今戸橋いまどばしのたもと、竹屋の渡しを、山谷堀さんやぼりをへだてたとなりにして、墨堤ぼくてい言問ことといを、三囲みめぐり神社の鳥居の頭を、向岸に見わたす広い一構ひとかまえが、評判の旗亭きてい有明楼であった。いま息子の宗十郎がすまっている家は、あの広さでも、以前の有明楼の、四分の一の構えだということである。
 此処に若いころは吉原の鴇鳥花魁におとりおいらんであって、田之助と浮名を流し、互いにせかれて、逢われぬ雪の日、他の客の脱捨ぬぎすてた衣服大小を、櫺子外れんじそとに待っている男のところへともたせてやって、上にはおらせ、やっと引きいれさせたという情話をもち、待合「気楽の女将」として、花柳界にピリリとさせたおきんの名も、もらすことは出来まい。この女も、明治時代の裏面の情史、暗黒史をかくには必ず出て来なければならない女であった。
 清元きよもとようは名人太兵衛たへえの娘で、ただに清元節の名人で、夫延寿太夫えんじゅだゆうを引立て、養子延寿太夫を薫陶したばかりでなく、彼女も忘れてならない一人である。京都老妓中西君尾なかにしきみおは、その晩年こそ、貰いあつめた黄金を、円きかたまりにしてとこに安置したような、利殖倹約な京都女にすぎないように見えたが、維新前の国事艱難こくじかんなんなおりには、憂国の志士を助けて、義侠を知られたものである。井上侯がまだ聞太もんたといった侍のころ深く相愛して、彼女の魂として井上氏の懐に預けておいた手鏡――青銅の――ために、井上氏は危く凶刃きょうじんをまぬかれたこともあった。彼女は桂小五郎の幾松いくまつ――木戸氏夫人となった――とともに、勤王党の京都女を代表する美人の幾人かのうちである。
 歌人まつ三艸子みさこも数奇な運命をもっていた。八十歳近く、半身不随になって、妹の陋屋ろうおくでみまかった。その年まで、不思議と弟子をもっていて人に忘れられなかった女である。その経歴が芸妓となったり、妾となったりした仇者あだものであったために、多くそうした仲間の、打解けやすい気易きやすさから、花柳界から弟子が集った。彼女は顔の通りに手跡しゅせきも美しかった。彼女の絶筆となったのはたつみやふすまのちらし書であろう。その辰巳屋たつみやのおひなさんも神田で生れて、吉原の引手茶屋桐佐きりさの養女となり、日本橋区中洲なかすの旗亭辰巳屋おひなとなり、豪極ごうきにきこえた時の顕官山田○○伯をつかみ、一転竹柏園ちくはくえんの女歌人となり、バイブルに親しむ聖徒となり、再転、川上貞奴さだやっこの「女優養成所」の監督となって、劇術研究に渡米し、米国ボストンで客死したとき、財産の全部ともいうほどを、昔日の恋人に残した佳話の持主で、書残されない女である。
 三艸子みさこの妹もうつくしい人であったが、尾上おのえいろともいい、荻野八重桐おぎのやえぎりとも名乗って年をとってからも、踊の師匠をして、本所のはずれにしがない暮しをしていた。この姉妹が盛りのころは、深川の芸者で姉は小川屋の小三こさんといい、または八丁堀櫓下やぐらしたの芸者となり、そのほかさまざまの生活をして、好き自由な日を暮しながら歌人としても相当に認められ、井上文雄いのうえふみおからまつの名を許され、文人墨客の間を縫うて、彼女の名は喧伝けんでんされたのであった。その頃は芸者が意気なつくりをよろこんで、素足すあしの心意気の時分に、彼女は厚化粧あつげしょうで、派手やかな、人目を驚かす扮飾をしていた。山内侯に見染められたのも、水戸の武田耕雲斎たけだこううんさいに思込まれて、隅田川の舟へ連れ出して白刃はくじんをぬいていどまれたのも、みな彼女の若き日の夢のあとである。彼女たちは幕府のころ、上野の宮の御用達をつとめた家の愛娘であった。下谷したや一番の伊達者だてしゃ――その唄は彼女の娘時代にあてはめる事が出来る。店が零落してから、ある大名の妾となったともいうが、いかに成行なりゆこうかも知らぬ娘に、天から与えられた美貌と才能は何よりもの恵みであった。彼女は才能によって身をたてようとした。そして八丁堀茅場町かやばちょうの国文の大家、井上文雄の内弟子うちでしになった。彼女たちは内弟子という、また他のものは妾だともいう。しかし妾というのは、その頃はまだ濁りにそまない、あまり美しすぎる娘時代であったので、とかく美貌のものがうけるねたみであったろうと思われるが、後にはあまり素行の方では評判がよくなかった。

       四

 我国女流教育家の泰斗たいととしての下田歌子女史は、別の機会に残してつとに后の宮の御見出しにあずかり、歌子の名を御下命になったのは女史の十六歳の時だというが、総角あげまきのころから国漢文をよくして父君を驚かせた才女である。中年の女盛りには美人としての評が高く、洋行中にも伊藤公爵との艶名艶罪がかまびすしかった。古い頃の自由党副総理中島信行なかじまのぶゆき男の夫人湘煙しょうえん女史は、長く肺患のため大磯にかくれすんで、世の耳目じもくに遠ざかり、信行男にもおくれて死なれたために、あまりその晩年は知られなかったが、彼女は京都に生れ、岸田俊子といった。年少のころ宮中に召された才媛の一人で、ことに美貌な女であった。このひと覇気はきあるために長く宮中におられず、宮内を出ると民権自由を絶叫し、自由党にはいって女政治家となり、盛んに各地を遊説ゆうぜいし、チャーミングな姿体と、熱烈な男女同権、女権拡張の説をもち、十七、八の花の盛りの令嬢が、島田髷しまだまげで、黄八丈きはちじょうの振袖で演壇にたって自由党の箱入り娘とよばれた。さびしい晩年には小説に筆を染められようとしたが、それも病のためにはかばかしからず、母堂にみとられてこの世を去った。
 女性によって開拓された宗教――売僧俗僧まいすぞくそうの多くが仮面をかぶりきれなかった時において、女流に一派の始祖を出したのは、天理教といわず大本教おおもときょうといわず、いずれにしても異なる事であった。その中で皇族の身をもって始終精神堅固に、仏教によって民心をなごめられた村雲尼公むらくもにこうは、玉を磨いたような貌容おかおであった。温和と、慈悲と、清麗せいれいとは、似るものもなく典雅玲瓏てんがれいろうとして見受けられた。紫の衣に、菊花を金糸に縫いたる緋の輪袈裟わけさ、御よそおいのととのうたあでやかさは、その頃美しいもののたとえにひいた福助――中村歌右衛門の若盛り――と、松島屋――現今の片岡我童かたおかがどうの父で人気のあった美貌びぼう立役たちやく――を一緒にしたようなおかおだとひそかにいいあっていたのを聞覚えている。また、予言者と称した「神生教壇しんせいきょうだん」の宮崎虎之助氏夫人光子は、上野公園の樹下石上じゅかせきじょうを講壇として、路傍の群集に説教し、死に至るまで道のために尽し、諸国を伝道し廻り、迷える者に福音をもたらしていたが、病い重しと知るや一層活動をつづけてついに終りを早うした。その遺骨は青森県の十和田湖畔の自然岩の下に葬られている。強い信仰と理性とに引きしまった彼女の顔容は、おごそかなほど美しかった。彼女は夫と並んで、その背には一人子の照子を背負っていた。そしていつも貧しい人の群れにまじって歩いていた。ある時は月島の長屋住居をし、ある時は一膳めしやに一食をとっていた。栗色の大理石マーブルで彫ったようなのが彼女であった。
 宗教家ではないが、愛国婦人会の建設者奥村五百子おくむらいおこも立派な容貌をもっていた。彼女が会を設立した意味は今日ほど無意義なものではなかった。彼女は幼いころから愛国の士と交わっていたので、彼女の血は愛国の熱に燃えていたのである。彼女は尋常一様の家婦としてはすごされないほど骨がありすぎた。彼女は筑紫つくしの千代の松原近き寺院の娘に生れたが、父は近衛公の血をひいていて、父兄ともに愛国の士であったゆえ、彼女も幼時から女らしいことを好まず、危い使いなどをしたりした。しかし一たん彼女は夫を迎えると、貞淑温良な、忠実な妻であった。彼女の夫は煎茶せんちゃを売りにゆくに河を渡って、あやまって売ものをぬらしてしまうと、山の中にはいって終日、茶をしながら書籍を読みふけっていて、やくにたたなくなった茶がらを背負って、一銭もなしで家に帰って来たりした。彼女は四人の子供を抱えて、そうした夫につかえるために貧苦をなめつくした。ある時は行商となり、ある時は車をおしてものをあきない、ある時は夫の郷里にゆく旅費がなくて、門附かどづけをしながら三味線をひいて歩いたこともあった。晩年にやや志望こころざしを遂げるようになっても、すこしも心のひもはゆるめず、朝鮮に、支那に、出征兵士をねぎらって、肺患のおもるのを知りながら、薬瓶をさげて往来していた。

       五

 高橋おでんも、まむしのお政も、偶々たまたま悪い素質をうけて生れて来たが、彼女たちもまた美人であった。おでんもお政も悪がこうじて、盗みから人殺しまでする羽目になった。それにくらべては、花井お梅は思いがけなく人を殺してしまったので、獄裡ごくりに長くつながれたとはいえ、それを囚人あつかいにし、出獄してから後も、囚人であった事を売物見世物みせもののようにして、舞台にさらしたり、寄席よせに出したりしたのはあんまり無惨むざんすぎる。社会は冷酷すぎる。彼女は新橋で売れた芸者であったが、日本橋区の浜町河岸はまちょうがしに「酔月すいげつ」という料理店をだした。そうした家業には不似合な、あんまり堅気な父親をもっていて、恋には一本気な彼女を抑圧しすぎた。我儘わがままで、勝気で、売れっ児で通して来た驕慢きょうまんな女が、お酒のたちの悪い上に、ヒステリックになっていた時、心がけのよくない厭味いやみな箱屋に、出過ぎた失礼なことをされては、前後無差別になってしまったのに同情出来る。彼女は自分の意識しないで犯した大罪を知るとすぐに、いさぎよく自首して出た。獄裡にあっても謹慎きんしんしていたが、強度のヒステリーのために、夜々よよ殺したものに責められるように感じて、その命日になると、ことに気が荒くなっていたということであった。幾度かの恩赦おんしゃによって、再び日の光を仰ぐ身となったが、薄幸のうちに死んでしまった。

       六

 ささや桃吉ももきち春本万竜はるもとまんりゅう照近江てるおうみこい富田屋八千代とみたややちよ川勝歌蝶かわかつかちょう富菊とみぎく、などは三都歌妓の代表として最もぬきんでている女たちであろう。そしても一人、忘れる事の出来ないのは新橋のぽんた――鹿島恵津子かじまえつこ夫人のある事である。
 桃吉の「笹屋」は妓名の時の屋号ではない。笹屋の名は公爵岩倉具張いわくらともはり氏と共棲ともずみのころ、有楽橋ゆうらくばしの角に開いた三階づくりのカフェーの屋号で、公爵の定紋じょうもん笹竜胆ささりんどうからとった名だといわれている。桃吉はお鯉の照近江に居たのである。照近江から初代お鯉が桂公の寵妾ちょうしょうとなり、二代目お鯉が西園寺侯爵の寵愛となった。二代つづいて時の総理大臣侯爵に思われたので、桃吉も発奮したのであろう、彼女は岩倉公を彼女ならではならぬものにしてしまった。そして大勢の子のある美しい桜子夫人との仲をへだててやかたを出るようにさせてしまった。そして二人は、桃吉ももきち御殿ごてんとよばれたほど豪華な住居をつくって住んだりしたはてが、負債のために稼がなければならないという口実で、彼女がきていた内裏雛だいりびな生活から、多くの異性に接触しやすい、もとの家業に近い店をだしたのであった。彼女は笹屋の主人となり、ダイヤモンドをイルミネーションのように飾りたてて、幾十万円かの資産を有していたというに、あわれにも公爵家は百余万円の浪費のために、公爵母堂は実家へ引きとられなければならないというほどになり、やかたは鬼の高利貸の手に処分されるようになり、若くて有為ゆういの身を、笹屋の二階の老隠居と具張氏はなってしまった。桃吉が資産家になり、権力がくわわってゆくと共に、今は爵位を子息にゆずって、無位無官の身となった具張氏は居愁いづらい身となってしまった。やがて二人の間に破滅の末の日が来て、具張氏は寂しい姿で、桜子夫人のもとにと帰っていった。ささやの三階から立ち出た人には、あまり天日てんぴ赫々かくかくとあからさますぎた事であろう。九尾きゅうびきつね玉藻たまもまえが飛去ったあとのような、空虚な、浅間しさ、世の中が急に明るすぎるように思われたでもあろう。その桃吉は甲州に生れ、旅役者の子だというが、養われたさきは日本橋の魚河岸だったという事である。
 ぽんたは貞節の名高く、当時大阪の人にいわせると、日本には、富士山と、鴈次郎がんじろう(大阪俳優中村)と、八千代があるといった。富田屋八千代はすが画伯の良妻となり、一万円とよばれた赤坂春本の万竜も淑雅しゅくがな学士夫人となっている。祇園の歌蝶は憲政芸妓として知られ、選挙違反ですこしの間つみせられ、禅門に参堂し、富菊は本願寺句仏上人くぶつしょうにん得度とくどして美女の名が高い。
 芳町よしちょうやっこ嬌名きょうめい高かった妓は、川上音次郎かわかみおとじろうの妻となって、新女優の始祖マダム貞奴さだやっことして、我国でよりも欧米各国にその名を喧伝けんでんされた。いまは福沢桃介ふくざわももすけ氏の後援を得て名古屋に綿糸工場を持ち、女社長として東京にも名古屋にも堂々たる邸宅を控え、日常のおこないは工場を監督にゆくのと毛糸編物とを専らにしている。貞奴の後に、彼地で日本女性の名声を芸壇にひびかしているのは歌劇オペラ柴田環しばたたまき女史であろう。この人々は日本を遠く去ってその名声を高めたが、海外へはついに出なかったが、新女優の第一人者として松井須磨子まついすまこのあった事も特筆しなければなるまい。彼女は恩師であり情人であった島村抱月しまむらほうげつ氏に死別して後、はじめて生と愛の尊さを知り、カルメンに扮した四日目の夜にくびれ死んだのであった。
 それにくらべれば魔術師の天勝てんかつは、さびしいかな天勝といいたい。彼女はいつまでも妖艶に、いつまでもおなじような事を繰返している。彼女の悲哀は彼女のみが知るであろう。
 豊竹呂昇とよたけろしょう竹本綾之助たけもとあやのすけの二人は、呂昇の全盛はあとで、綾之助は早かった。ゆくとして可ならざるなき才女として江木欣々えぎきんきん夫人の名がやや忘られかけると、おなじく博士夫人で大阪の高安やす子夫人の名が伝えられ、蛇夫人とよばれた日向きん子女史は、あまりに持合わせた才のために、かえって行く道に迷っていられたようであったが、林きん子として、舞踊家となった。
 九条武子、伊藤※(「火+華」、第3水準1-87-62)いとうあきこは、大正の美人伝へおくらなければなるまい。書洩かきもらしてならない人に、樋口一葉女史、田沢稲舟たざわいなぶね女史、大塚楠緒子おおつかなおこ女史があるが余り長くなるから後日に譲ろうと思う。
――大正十年十月『解放』明治文化の研究特別号所載――
附記 樋口一葉女史・大塚楠緒子女史・富田屋八千代・歌蝶・豊竹呂昇は病死し、田沢稲舟女史は毒薬を服し、松井須磨子・江木欣々夫人はくびれて死に、今や空し。

底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年2月発行
初出:「解放 明治文化の研究特別号」
   1921(大正10)年10月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2007年9月5日作成
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