神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を
論証する、第一哲学についての省察


     書簡


   聖なるパリ神学部の
 いとも明識にしていとも高名なる
    学部長並びに博士諸賢に
        レナトゥス デス カルテス

 私をしてこの書物を諸賢に呈するに至らしめました理由は極めて正当なものでありますし、諸賢もまた、私の企ての動機を理解せられました場合、この書物を諸賢の保護のもとにおかれまするに極めて正当な理由を有せられるであろうと確信いたしますので、ここにこの書物を諸賢にいわば推薦いたしまするには、私がその中で追求しましたことを簡単に申し述べるにしくはないと考える次第であります。
 私はつねに、神についてと霊魂についてと、この二つの問題は、神学によってよりもむしろ哲学によって論証せられねばならぬ諸問題のうち主要なるものであると、思慮いたしました。と申しますのは、われわれ信ある者には、人間の霊魂の肉体と共に滅びざること、また神の存在したまうことは、信仰によって信ずることで十分でありますとはいえ、たしかに、信なき者には、まず彼等にこの二つのことが自然的理性によって証明せられるのでなければ、いかなる宗教も、またほとんどいかなる道徳上の徳すらも説得せられうるとは、思われないからであります。そしてこの世においてはしばしば徳よりも悖徳にいっそう大きな報酬が供せられるのでありますから、もし神を畏れず、また来世を期待しないならば、利よりも正を好む者は少数であるでありましょう。もとより、神の存在の信ずべきことは、聖書に教えられているところでありますから、まったく真でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まったく真であります。まことに信仰は神の賜物でありまするゆえに、余のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れたまうその神はまた、神の存在したまうことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得たまうからであります。とはいえ、これはしかし、信仰なき人々に対しましては、彼等はこれを循環論であると判断いたすでありましょうから、持ち出すことができませぬ。そして実に私は、単に諸賢一同並びに他の神学者たちが神の存在は自然的理性によって証明せられ得ると確信いたされるということのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について我々が有する多くの認識よりもさらに容易であり、まったくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易であることが推論せられるということに、気づきました。これはすなわちソロモンの智慧第十三章の言葉から明かでありまして、そこには、またそのゆえをもって彼等は宥すべからざらなりけだし彼等もしこの世のものを賞で得るほど知り得たりとせばいかにしてその主なる神をさらに容易に見出さざりしぞ、とあるのであります。またロマ書第一章には、彼等、弁解することを得ず、と言われております。そしてまた同じ箇所にある、神に就きて知られたる事柄は彼等において顕わなり、という言葉によりまして、神について知られ得る一切のことがらは、他の処においてではなく我々の精神そのものにおいて求めらるべき根拠によって、明白にし得るということが告げられていると思われるのであります。しからば、いかにして然るか、いかなる道によって神はこの世のものよりもさらに容易にさらに確実に認識せられるかを探究いたしますことは、私に無関係なことではないと考えた次第であります。
 また霊魂に関しましては、多くの人々はその本性は容易に究明せられ得ないと判断いたしており、そして或る者は人間的な根拠からは霊魂が肉体と同時に滅びると説得せられるのほかなく、ひとり信仰によってのみその反対が理解せられるとすら敢えて申しておりますとはいえ、しかしレオ十世の下に開かれましたラテラン公会議は、第八会同におきまして、彼等を非とし、そしてキリスト教哲学者たちにかの人々の論拠を破り、全力を挙げて真理を証明するように命ずるのでありますから、私もまたこれを企てることを恐れなかった次第であります。
 さらに私は、多数の不信者が神の存したまうこと、人間の精神が身体から区別せられることを信じようと欲しない原因はまさに、この二つのことがらは従来何人によっても論証せられ得なかったと我らが申しますところに存することを知っておりますゆえに、もちろん私は決して彼等に同意するものではなく、反対にこれらの問題に対して偉大なる人々によって持ち出されましたほとんどすべての根拠は、十分に理解せられます場合には、論証の力を有すると考えておりますし、従って私は前に他の何人かによって発見せられなかったような根拠はほとんど何も与え得ないと信じておりますとはいえ、しかもひとたびそれらすべての根拠のうち最もすぐれたものを克明に考究し、そして厳密に明瞭に解明し、かくてすべての人々の前に今後これが論証であることを確かにいたしますならば、哲学においてこれにまさる有益なことは為し得ないと思慮いたすのであります。そして最後に、私がもろもろの学問におけるあらゆる難問を解決するための或る方法を完成いたしましたことを知っております或る者は―――もちろんこの方法は新しいものではありませぬ。と申しますのは、真理よりも古いものはないのでありますから。けれども彼等は私がそれをしばしば他のことがらにおいて使用して実のり多かったことを見ているのであります。―――この仕事が私によって為されることを切に請い求めましたゆえにかようにして私はこれについて若干試みることが私の義務であると考えた次第であります。
 さて私が為し遂げ得ましたほどのことはことごとくこの論文の中に含まれております。もっとも、かのことがらを証明すべきものとして持ち出され得るであろう様々の根拠のすべてをこの中に集録することに努力いたしたわけではありませぬ。と申しますのは、かかることは、何ら十分に確実な根拠を有しない場合にしか、労力に値しないと思われるからであります。かえって私はただ第一の、何よりも重要な諸根拠をば、今これらを極めて確実な、極めて明証的な諸論証として提出することを敢えて致し得るような仕方で、追求したのであります。なおまた私は、これらは、おもうに、人間の智能にとりましてはさらにすぐれた根拠を発見し得るいかなる道も開かれていないような性質のものであるということを、附け加えるでありましょう。すなわち、ことがらの緊要性と、これがことごとく関係するところの神の栄光とは、この場合私の習慣の常とするよりもいくらか無遠慮に私の仕事について語るように私を強要する次第であります。もっとも私は、私の根拠を確実で明証的なものと考えますにしても、それだからと申してすべての人の理解力に適合しているものとは信じませぬ。まことに幾何学におきましては、アルキメデス、アポロニオス、パッポス、あるいは他の人々によって多くのことが書かれておりますが、これはもちろん、それ自身として見られるならば認識するに極めて容易でないような何物も、またそれにおいて後続するものが先行するものと厳密に関聯しないような何物もまったく含まないゆえに、すべての人によって極めて明証的でまた確実なものと看做みなされておりますとはいうものの、しかしそれはどちらかといえば長く、そして非常に注意深い読者を要求いたしますから、まったく少数の者によってのほか理解せられないのであります。あたかもそのように、私がここに使用いたしますものは、確実性と明証性とにおきまして幾何学に関することがらと同等あるいはこれを凌駕しさえすると私は認めておりますとはいえ、しかし多くの人々によって十分に洞見せられ得ないであろうと恐れる次第であります。すなわち、一つにはこれらもどちらかといえば長く、そして一は他に依繋いたしているからであり、また一つには主として、先入観からまったく解放せられた、自己自身を感覚の連累から容易に引き離すところの精神を要求するからであります。そして確かに世の中には形而上学の研究に適する者は幾何学の研究に適する者よりも多く見出されないのであります。さらにまた次の点に差異が存しております。すなわち、幾何学におきましては、すべての人が、確実な論証を有しないいかなることがらも書かれない慣わしであると信じておりますゆえに、精通しない者は、真なる事柄を反駁することにおいてよりも、偽なることがらを、これを理解すると見せ掛けようと欲しまして、是認することにおいていっそうしばしば過ちを犯すのでありますが、これに反して哲学におきましては、双方の側において論争せられ得ないいかなることがらもないと信じられておりますゆえに、少数の者のみが真理を探索し、そして大多数の者は敢えて最もすぐれた説を攻撃することによって、智能ある者との名声を得ようと努めるのであります。
 かるがゆえに、私の根拠がいかなる性質のものでありましょうとも、ともかく哲学に属しているのでありますから、諸賢の庇護によって助けられるのでなければ、それらの根拠をもって労力に値する大きな効果を挙げ得ようとは、私は期待いたしませぬ。しかるに諸賢の学部につきましてはすべての人が深く尊敬の念を抱いており、またソルボンヌの名ははなはだ権威を有しており、かくて単に信仰に関することがらにおいて聖なる公会議にいで諸賢の団体ほど信頼せられているおよそいかなる団体も存しないのみでなく、また人文的な哲学におきましても、他のいずこにも[#「いずこにも」は底本では「いずこも」]さらに大きな明察と堅実性とが、また判断を下すにあたってさらに大きな健全性と叡智とが存しないと看做されているのであります。かるがゆえに、もし諸賢においてこの書物に対しまして、まず第一に、それが諸賢によって訂正せられますように、―――すなわち、単に私の人間的な弱さのみでなく、何よりもまた私の無知を想起いたしまして、この書物の中に何らの誤謬も存しないと私は確信いたしませぬ。―――次に、欠けていることがら、あるいは十分に完全でないことがら、あるいはさらに詳細な説明を要求することがらが、諸賢みずからによりまして、それとも、諸賢から告げられました後に、少くとも私によりまして、附け加えられ、完全にせられ、闡明せられますように、そして最後に、神の存したまうこと、また精神の身体とは別のものであることを証明するこの書物の中に含まれる根拠が、実にこれを極めて厳密な論証と看做さねばならぬほどまで、明瞭性に達せしめられました後に、―――私はそれがかかる明瞭性に達せしめられ得ると確信いたしております、―――諸賢がまさにこのことを言明し、公に証言して下さいますように、かように高配を賜りますならば、その場合には、これらの問題についておよそ存しましたすべての誤謬はまもなくもろもろの人間の精神から拭い去られるますことを、私は疑わないのであります。すなわち、真理そのものは容易に余の智能の士並びに博学の士が諸賢の判断に同意いたすようにするでありましょう。また権威は、智能の士とか博学の士とかであるよりもむしろ多くは一知半解の徒であるのを慣わしといたします無神論者が、反対する心を棄てるように、それのみかは、おそらくすべての学識ある人々によってそれが論証と看做されていることを彼等が知っているところの根拠を、理解せぬと思われたくないために、彼等みずから弁護するようにさえ、するでありましょう。そして最後に、その余のすべての者はかくも多くの証拠に容易に信をおくでありましょう。そしてもはや世の中には神の存在とか、人間の霊魂と肉体との実在的な区別とかを敢えて疑う者は誰もないでありましょう。そのことがいかほど有益であるかは、諸賢みずから、諸賢の並々ならぬ叡智において、すべての人のうちで最もよく評価せられることができる次第であります。つねにカトリック教会の最大の柱石であらせられた諸賢に、神と宗教とに関することがらをこれ以上の言葉を費してここに推薦いたしますことは、私にはふさわしくないでありましょう。
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     読者への序言

 神及び人間の精神に関する問題は、すでに少し前、フランス語で一六三七年に公にせられた『理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法の叙説』の中で、私は触れた。もっともそれは、この問題をかしこで厳密に取扱うためではなく、ただこれにちょっと触れて、読者の判断から、いかなる仕方で後にこれを取扱うべきかを、知るためであった。というのは、この問題は私には極めて重要なものと思われたので、一度ならずこれについて論じなければならぬと私は判断したのである。またこの問題を説明するために私が辿る道は、ほとんど先蹤のないもので、一般の慣用から極めてかけ離れたものであるので、智能の脆弱な者がこの道を自分も歩まねばならぬと信じると悪いから、これをフランス語で書かれた、差別なしにすべての人に読まるべき書物の中で、あれ以上詳細に述べるということは、益のないことと考えたのである。
 しかし私はかしこで、私の書物において何か非難に値いすることがらに出会ったすべての人に、これを私に知らせていただくようにお願いしたが、右の問題について私が触れたことがらに関して、二つしか注目に値いする駁論は出なかった。この駁論に対して私はここで、右の問題のさらに厳密な説明を企てるに先立って、簡単に答えたい。
 第一の駁論は、自己に向けられた人間の精神は、自己を思惟するものであるとしか知覚しないということから、その本性すなわち本質はただ、思惟するものであることに、このただという語がおそらくはまた霊魂の本性に属すると言われ得るであろう余のすべてを排除する意味において、存するということは帰結しない、というのである。この駁論に対して私は答える、私もまたかしこで余のすべてを、ものの真理そのものに関する秩序において(これについてもちろん私はあのとき論じたのではない)排除しようと欲したのではなく、かえって単に私の知覚に関する秩序において排除しようと欲したのである、と。かくてその意味は、私の本質に属すると私が知るものとしては、私は思惟するもの、すなわち自己のうちに思惟する能力を有するものであるということのほか何物も私はまったく認識しないということであった、と。しかし以下において私は、いかにして、そのほかの何物も私の本性に属しないと私が認識することから、また実際にそのほかの何物も私の本性に属しないということが帰結するかを明白にするであろう。
 もう一つの駁論は、私が私のうちに私よりも完全なものの観念を有するということから、この観念が私よりも完全であるということ、ましてこの観念によって表現せられるものが存在するということは帰結しない、というのである。しかし私は答える、この場合、観念なる語に両義性が伏在すると。すなわち、それは一方質料的に、悟性の作用の意味に解せられることができ、この意味においては私よりも完全とは言われ得ないが、他方それは客観的に、この作用によって表現せられたものの意味に解せられることができ、このものは、たとい悟性の外に存在すると仮定せられなくとも、自己の本質にもとづいて私より完全であり得る、と。しかし、いかにして、ただこのこと、すなわち私のうちに私よりも完全なものの観念があるということから、かのものが実際に存在するということが帰結するかは、以下において詳細に解明せられるであろう。
 ほかに私は二つのかなり長い文章を見た。しかしその中では右の問題についての私の根拠ではなくむしろ結論が、無神論者たちのきまり文句から借りてこられた議論でもって駁撃せられているのである。ところで、この種の議論は、私の根拠を理解する人々の前では何らの力も有し得ないからして、また実に、多くの人々の判断は弱くて正しからず、たとい偽であり、理を離れたものであっても、最初に受け取った意見によってのほうが、真で堅固な、しかし後に聞いたその反駁によってよりも、いっそう多く説得せられるものであるから、ここではその議論に対して私が最初に述べねばならぬとすると悪いから、答弁することを欲しない。そしてただ一般的に私は言っておこう、神の存在を駁撃するために無神論者たちによって通例持ち出される一切は、つねに、人間的な情念が間違って神に属せしめられることに、あるいは僣越にも、神の為し得ることまた為すべきことを決定しまた理解することまでを我々が欲求し得るほど多くの力と智慧とが我々の精神に属せしめられることに、懸っており、かくて実に、我々がただ、我々の精神は有限で、神はしかし理解を超え無限であると考えねばならぬことを忘れない限り、かの論駁は我々に何らの困難も示さないであろう、と。
 さて今、ともかく一度人々の判断を知った後、ここに再び私は神と人間の精神とに関する問題を論究し、そして同時に全第一哲学の基礎を取扱おうと思う。しかしその際私は何ら大衆の称賛を、また何ら読者の多いことを期待しないであろう。私はただ本気で私と共に思索し、精神をもろもろの感覚から、また同時にすべての先入見から引離すことができまた引き離すことを欲する人々だけに読まれるように、これを書いたのであって、かような人がまったくわずかしか見出されないことを私は十分に知っている。しかるに私の根拠の連結と聯関とを理解することに意を用いないで、多くの人々にとって慣わしであるように、ただ箇々の語句に拘泥して、お喋りをすることに熱心な人々についていえば、彼等はこの書物を読むことから大きな利益を収めないであろう。そしてたとい彼等がおそらく多くの箇所において嘲笑する機会を発見するにしても、何か緊要なあるいは答弁に値する駁論は容易になし得ないであろう。
 しかしまた他の人々に対しても、私がすべての点において初手から彼等を満足させるであろうと私は約束しないのであるからして、また僣越にも私が何人かに困難と思われるであろう一切のことがらを予見し得ると私は確信しないのであるからして、私はまずこれらの省察において、私がそれによって真理の確実な明証的な認識に到達したと思われるところの同一の思惟の作用を開陳し、もって私が説得せられたのと同じ根拠によっておそらく私は他の人々をも説得し得るかどうかを知りたいと思う。そして、かくして後、これらの省察を印刷に附せられる前に検討してもらうために送った幾人かの智能と学識とによってすぐれた人々の駁論に対して答えるであろう。というのは、この人々によってなされた駁論は十分に数多くまた種々様々であるので、そこにすでに触れられていない、少くとも或る重要な、他の駁論が容易に何人の心にも浮かばないであろう、と私は敢えて期待するのである。そしてかるがゆえに、私は読者に、右のすべての駁論及びこれに対する弁明を通読する労力をとられない以前に、この省察について判断を下されないように、繰り返しお願いする。
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     以下の六省察の概要

 第一省察においては、いかなるわけで我々はすべてのもの、とりわけ物質的なものについて、少くとも我々がこれまで有したものよりほかの、もろもろの学問の基礎を有しない間は、疑うことができるかの理由が示される。かような全般的な懐疑の効用は初手には明かではないとはいえ、しかしそれはあらゆる先入見から我々を解放し、精神を感覚から引き離すに最も容易な道を用意し、そして最後に、我々がかくして後に真であると理解したことについてもはや疑い得ないようにするという点において、その効用は極めて大きいのである。
 第二省察においては、自己の有する自由を使用する精神は、その存在について極めて少しでも疑い得る一切は存在しないと仮定するが、自身はしかし存在せざるを得ないことに気づくのである。そのことはまた、このようにして、自己に、すなわち思惟する本性に属するものと、身体に属するものとを容易に区別するからして、極めて大きな効用を有している。しかしおそらく或る者は、その箇所において霊魂の不死についての根拠を期待するであろうから、ここで彼等に告げておかねばならぬと思う、私は厳密に論証しない何物も書かないことに努めたので、幾何学者たちの間で慣用せられている順序、すなわち何かを結論する前に、求められた命題が依繁する一切を前もって提論するという順序よりほかの順序に従うことができなかった、と。しかるに霊魂の不死をよく認識するために前もって要求せられる第一の何より重要なことがらは、霊魂についてできるだけ分明な、そして身体のあらゆる概念からまったく区別せられた概念を作るということである。これはそこでなされている。しかしそのほかに、我々が明晰に判明に理解する一切は、我々がそれを理解する通りに、真であるということを知ることがまた要求せられるのである。これは第四省察以前には証明せられることができなかった。さらに、物体的本性の判明な概念を有しなければならないのであって、かかる概念は一部分この第二省察において、また一部分は第五及び第六省察において作られている。なおまたこれら一切のことから、精神と身体とがまさにそのように把握せられるごとく、別個の実体として明晰に判明に把握せられるものは、全く実在的に互に区別せられた実体であることが結論せられねばならないのである。そしてこれは第六省察においてその通り結論せられている。これはしかも、同じ第六省察において、我々はいかなる物体も可分的としてでなければ理解せず、反対にいかなる精神も不可分的としてでなければ理解しないということによって、確かめられている。すなわち我々はどのように小さい物体でもその半分を考えることはできるが、いかなる精神についてもその半分を考えることはできぬ。かようにして両者の本性は単に別であるのみでなく、また或る点で相反することが認められる。しかしながらこのことについてはこの書物の中ではそれ以上立ち入って論じなかった。というのは、一方それだけで、身体の消滅から精神の死が帰結しないことを示し、そしてかようにして人間に来世の生の希望を与えるには、十分であるからであり、他方またこの精神の不死を結論し得るもろもろの前提はあらゆる自然学からの説明に依繁しているからである。すなわちまず、およそあらゆる実体、詳しく言うと、存在するためには神によって創造せられねばならぬものは、自己の本性上不滅であり、その同じ神によって、そのものに神の協力が拒まれることによって、無に帰せしめられるのでなければ、決してあることをやめ得ないということが知られねばならぬ。そして次に、一般的に見られた物体は実体であり、それがために決してまた滅びないということ、しかし人間[#「人間」は底本では「人問」]の身体は、余の物体と異なる限り、ただ単にもろもろの器官の或る一定の布置、及びこの種の他の偶有性から組立てられたものであり、しかるに人間の精神はかように何らかの偶有性から成るのではなく、純粋な実体であるということ、に着目せられねばならぬ。というのは、たといその一切の偶有性が変化せられ、その結果、別のものを思惟し、別のものを意欲し、別のものを感覚し、など、するにしても、そのために同じ精神が別のものにならないが、人間の身体はしかし、ただ単にその何らかの部分の形体が変化せられることによって、別のものになる。そのことから身体はきわめて容易に滅亡し、精神はしかし自己の本性上不死であるということが帰結せられるのである。
 第三省察においては、神の存在を証明するための私の主要な論証を、私の見るところでは、十分に詳しく展開した。しかしながら、読者の心をできるだけ感覚から引き離すために、私はかしこでは物体的なものから藉りてこられた比較を用いることを欲しなかったからして、たぶん多くの不明な点が残っているであろう。しかしそれは、私の希望するところでは、後に駁論に対する答弁の中でまったく除き去られるであろう。中にも、例えば、いかにして、我々のうちにあるこの上なく完全な実有の観念は、この上なく完全な原因によらなくては存し得ないほど大きな客観的実在性を有するかということであるが、これは答弁において、その観念が或る工人の精神のうちにある極めて完全な機械との比較によって解説せられている。すなわち、この観念の客観的製作は或る原因、言うまでもなくこの工人の知識、あるいは彼にそれを授けた或る他の者の知識、を有しなければならないのと同様に、我々のうちにある神の観念は神自身を原因として有せざるを得ないのである。
 第四省察においては、我々が明晰に判明に知覚する一切は真であるということが証明せられる。同時にまた虚偽の根拠が何に存するかが説明せられる。これは前に述べたことがらを確かにするためにも、後に続くことがらを理解するためにも、必ず知ることを要するのである。(しかしながら注意しておかねばらぬ、かしこで私は決して罪、すなわち善悪の追求において犯される誤謬についてではなく、ただ真偽の判別において起る誤謬について論じたのである、と。また私は信仰、あるいは処世に属することがらではなく、ただ思弁的な、そしてもっぱら自然的な光によって認識せられた真理を検討したのである、と。)
 第五省察においては、一般的に見られた物体的本性が説明せられるほか、また新しい根拠によって神の存在が論証せられる。しかしこの根拠にもおそらく或る困難が生ずるであろうが、これは後に駁論に対する答弁の中で解決せられるであろう。そして最後に、幾何学的論証の確実性さえも神の認識に依繁するということの、いかにして真であるかが示される。
 最後に、第六省察においては、悟性が想像力から分たれる。その区別の徴表が記述せられる。精神が実在的に身体から区別せられることが証明せられる。にもかかわらず精神が身体に、これと或る統一を成すほど密接に結合せられていることが示される。感覚から起るのを慣わしとするすべての誤謬が調査せられる。これを避け得る手段が開陳せられる。そして最後に、物質的なものの存在を結論し得る一切の根拠が提示せられる。それは、この根拠がまさに証明することがら、すなわち、世界は実際にあるということ、また人間は身体を有するということ、その他この類のことがらを証明するために、この根拠が極めて有益であると考えるからではない、かかることがらについては健全な精神を有する何人も決して本気に疑わなかったのである。そうではなくて、この根拠を考察することによって、これがかの我々を我々の精神及び神の認識に達せしめる根拠ほど堅固でも分明でもないことが認められるゆえである。従ってかの根拠は人間の智能によって知られ得る一切のうち最も確実で最も明証的である。ただこの一事を証明することを私はこの省察において目的としたのである。かるがゆえに私はその中でまたたまたま取扱われた他の種々の問題をここで枚挙しないことにする。
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     省察一

  疑いをいれ得るものについて。

 すでに数年前、私は気づいた、いかに多くの偽なるものを私は、若い頃、真なるものとして認めたか、またそれを基としてその後私がその上に建てたあらゆるものがいかに疑わしいものであるか、またさればいつか私がもろもろの学問において或る確固不易なるものを確立しようと欲するならば、一生一度は断じてすべてを根柢から覆えし、そして最初の土台から新たに始めなくてはならない、と。しかしこれはたいへんな仕事であると思われたので、私は十分に成熟してこの業に着手するにそれ以上適当ないかなる時も後に来ないという年齢に達するまで待った。かようなわけで長い間延ばしてきたので、いまやもし私が実行するために残っている時間をなおも思案に空費するならば、私は過ちを犯すことになるであろう。そこで、幸に今日、私の心は一切の憂いから放たれ、独り離れて、平穏な閑暇を得たから、いよいよ私は本気にかつ自由に私のもろもろの意見のこの全般的顛覆に従事しよう。
 ところがこれがためには、その意見のすべてが偽なるを示す必要はないであろう、かかることはおそらく私の到底為し遂げ得ないことである。かえって、すでに理性は、まったく確実でもなく疑い得ぬものでもないものに対しては、明白に偽なるものに対するに劣らず注意して、同意を差し控うべきだと私を説得するのであるから、もし私がその意見のいずれのうちになりとも何か疑いの理由を見出すならば、それでそのすべてを拒斥するに十分であろう。またこれがためにその意見の一つ一つを調べ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ることを要しないであろう、かかることは際限のない仕事である。かえって、土台を掘りかえせばその上に建てられたものはいずれもおのずと一緒に崩れるのであるから、私はかつて私が信じたところの一切が拠っていた原理そのものに直ちに肉薄しよう。
 実にこれまで私が何よりも真と認めたものはいずれも、感覚からか、または感覚を介してか、受取ったのであった。しかるにこの感覚は時として欺くということがわかった。そして一度たりとも我々を瞞したものには決してすっかり信頼しないのが賢明なことである。
 しかしおそらく、感覚はあまり小さいもの、あまり遠く離れたものに関しては時として我々を欺くとはいえ、同じく感覚から汲まれたものであっても、まったく疑い得ぬ他の多くのものがある。例えば、今私がここに居ること、煖炉のそばに坐っていること、冬の服を着ていること、この紙片を手にしていること、その他これに類することのごとき。まことにこの手やこの身体が私のものであるということは、いかにして否定され得るであろうか、もし私がおそらく私を誰か狂った者に、その脳が黒い胆汁からの頑固な蒸気でかき乱されていて、極貧であるのに自分は帝王であるとか、赤裸であるのに緋衣を纒うているとか、粘土製の頭を持っているとか、自分は全体が南瓜であるとか、硝子から出来ているとか、と、執拗に言い張る者に、比較するのでなければ。しかし彼等は狂人であるのだが、もし私が何か彼等の例を私に移すならば、私自身また彼らに劣らぬ精神錯乱と見られるであろう。
 いかにもその通りだ。だが私は、夜には眠るのをつねとし、そして夢において、その同じすべてのことを、いな時として彼等狂人が覚めているときに経験するよりもっと真らしくないことをさえ経験する人間でないとでもいうのか。実際、いかにしばしば私は、夜の夢のなかで、かの慣わしとすること、すなわち、私がここに居ること、服を着ていること、煖炉のそばに坐っていることを、信じているか、しかも私は着物を脱いで寝床の中に横たわっているのに。とはいえ現在私は確かに覚めたる眼をもってこの紙片を視ている、私が動かすこの頭は眠ってはいない、私はあらかじめ考えて、意図を持ってこの手を伸ばしかつ感覚している。眠っている場合に生ずることはこのように判明なものではないであろう。それにしても私は他の時には夢のなかでまた同様の意識によって騙されたことを思い出さないとでもいうのか。かかることをさらに注意深く考えるとき、私は覚醒と夢とが決して確実な標識によって区別され得ないことを明かに認めて、驚愕し、そしてこの驚愕そのものは、私は現に夢見ているのだとの意見を私にほとんど説得するのである。
 それゆえにいま、我々は夢みているものとしよう。そしてこの特殊的なもの、すなわち、我々が眼を開くこと、頭を動かすこと、手を伸ばすこと、が真でなく、いな、またおそらく我々はかような手も、またかような身体全体も有するのではないとしよう。それにしても実際我々は、睡眠の間に見られたものが、あたかもかの現実にあるものにかたどってでなければ作られ得ぬところの絵に画かれた像のごときものであること、従って少くともこの一般的なもの、すなわち、眼、頭、手、また全部の身体は、或る空想的なものではなくて真なるものとして存在することを、承認しなければならぬ。というのは、実に彼等画家は、セイレネスやサチュロイを極めて怪奇な形で描こうと努力する場合でさえ、それにあらゆる点で新しい本質を付与することは出来ないのであって、単に種々の動物のもろもろの部分を混ぜ合わせるに過ぎないから。それとも、もし彼等がおそらく、およそ類似のある何物も見たことがない、従ってまったく虚構であり虚妄であるというほど新しいものを案出するとしても確かに少くとも彼等がそれを構成する色は真なるものでなければならないのである。そして同じ理由によって、たといまたこの一般的なもの、すなわち、眼、頭、手、その他これに類するものが空想的なものであり得るとしても、少くとも或る他のなおいっそう単純な、かつ普遍的なものは、すなわち、それでもってあたかも真なる色でもってのごとく、この、真にせよ偽にせよ、我々の思惟のうちにある物の一切の像が作られるところのものは、真なるものであることは、必然的に承認しなければならない。
 この類に属すると思われるものは、物体的本性一般、及びその延長、さらに延長あるものの形体、さらにその量、すなわちその大いさと数、さらにそれがそのうちに存在する場所、及びそのあいだ存続する時間、その他これに類するものである。
 かるがゆえにこのことから我々はたぶん正当に、物理学、星学、医学、その他すべて複合せられたものの考察に関わる学問はたしかに疑わしいということ、これに反して算術、幾何学、その他かようなもの、すなわち極めて単純でいたって一般的なもののみを取扱い、そしてそれが世界のうちに存するか否かをほとんど顧みない学問は、或る確実で疑いを容れぬものを含むということ、を結論し得るであろう。なぜなら、私が覚めているにせよ、眠っているにせよ、二と三を加えれば五であり、また四角形は四より多くの辺を有しないのであり、そしてかように分明な真理が虚偽の嫌疑をかけられることは起り得ないと思われるからである。
 さりながら私の心には或る古い意見、すなわちすべてのことを為し能う神が存在し、そして私はこの神によって現に私が有るごとき性質のものとして創造せられたという意見が刻みつけられている。さすればしかし、この神が、何らの地も、何らの天も、何らの延長あるものも、何らの形体も、何らの大きさも、何らの場所も、まったく存在せずに、しかもこのすべてのものが現在とたがわず私には存在するごとく思われるように、為さなかったということを、私はどこから知るのであるか。否、むしろ、私はときどき他の人々が自分では極めて完全に知っていると思っていることに関して間違いをしていると判断するのであるが、これと同じように、私が二と三とを加えるたびごとに、あるいは四角形の辺を数えるたびごとに、あるいはもし何か他のさらに容易なことを想像し得るならそのことについて判断するたびごとに、私が過つように、神は為した、とさえ言うことができるであろうか。しかしおそらく神はかように私が欺かれることを欲しなかったであろう、なぜなら神はこの上なく善であると言われているから。しかるにもしこのこと、すなわち私を常に過つようなものとして創造したということが神の善意に反するとするならば、私がときどき過つことを許すということも神の善意と相容れないように思われる、けれどもこの最後のことはそうは言い得ないのである。
 もちろん、余のすべてのものが不確実であると信ずるよりか、むしろそのように有力な神を否定することを選ぶ者がたぶんあるであろう。しかし我々はいまは彼等に反対せずにおこう。そして神についてここで言われた全部が虚構であるとしておこう。さりながら、彼等がどのような仕方で、運命によるにせよ、偶然によるにせよ、物の連続的な聯結によるにせよ、あるいは何か他の仕方によるにせよ、私が私の現に有るものに成るに至ったと仮定するにしても、過つこと思い違いすることは或る不完全性であると思われるからして、彼等が私の起原の創造者をより無力であると考えれば考えるほど、私が常に過つほど不完全であるということは、ますます確からしくなるであろう。この議論に対して私はまことに何ら答うべきものを有しない。しかし私は、かつて私が真と思ったもののうちに疑うことを許さぬものは何もないこと、しかもこれは無思慮とか軽率とかによるのではなく、強力な熟慮せられた理由によるのであること、従ってもし私が何か確実なものを見出そうと欲するならば、この議論に対しても、明白に偽のものに対してと劣らず用心して、今後は同意を差し控えねばならないこと、を告白せざるを得ないのである。
 しかしながら、これらのことに気づいただけでは未だ十分ではない、いつも念頭におくように心を用いなければならぬ。というのは、習いとなった意見は絶えず還ってきて、いわば長い間の慣わしと親しさの権利とによって己れに愛着している私の信じ易い心を、ほとんど私の意に反してさえも、占領するからである。また私がこの意見を、それが実際さうであるような性質のもの、すなわち、すでに示されたごとく、なるほど多少疑わしいが、にもかかわらずはなはだ確からしいもの、従ってそれを否定するよりも信ずることが遥かに多く道理に適っているもの、であると見做す間は、私は決してそれに同意しそれを信用する習慣を脱しないであろう。かるがゆえに、私が意志をまったく反対の方向に転じて、自分を欺き、そしてしばらくの間すべての意見が偽で空想的であると仮想し、かくして遂に、いわば偏見の重量を双方ともに同等のものとし、もはや曲った習慣が私の判断をものの正しい知覚から逸らせないようにしても、私は不都合なことはしてはいまいと思う。実際、かくすることから何らの危険も誤謬もその間に生じてこないであろうということ、また現在私は実行に関することがらではなくただ認識に関することがらに専心従事しているのであるから、いかに不信を逞うしても、それが過ぎることはあり得ないということ、を私は知っているのである。
 そこで私は真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形体、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何らの感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まろう。そしてかようにして、もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなわち私は断乎として、偽なるものに同意しないように、またいかに有力で、いかに老獪であろうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないように、用心するであろう。しかしながらこれは骨の折れる企てである、そして或る怠慢が私を平素の生活の仕方に返えらせる。そのさまは、おそらく夢の中で空想的な自由を味わっていた囚われびとが、後になって自分は眠っているのではないかと疑い始める場合、喚び醒まされるのを恐れこの快い幻想と共にゆっくり眠りつづけるのと異ならないのであって、そのように私はおのずと再び古い意見のうちに落ち込み、そしてこの睡眠の平穏に苦労の多い覚醒がつづき、しかも光の中においてではなく、かえって既に提出せられたもろもろの困難の解けない闇のあいだで、将来、時を過ごさねばならぬことのないように、覚めることを怖れるのである。
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     省察二

  人間の精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られるということ。

 昨日の省察によって私は懐疑のうちに投げ込まれた。それは私のもはや忘れ得ないほど大きなものであり、しかも私はそれがいかなる仕方で解決すべきものであるかを知らないのである。かえって、あたかも渦巻く深淵の中へ不意に落ち込んだように、私は狼狽して、足を底に着けることもできなければ、泳いで水面へ脱出することもできないというさまであった。しかしなおも私は努力し、昨日進んだと同じ道を、もちろん、極めてわずかであれ疑いを容れるものはすべて、あたかもそれが全く偽であることを私がはっきり知っているのと同じように、払い除けつつ、改めて辿ろう。そして何か確実なものに、あるいは、余のことが何もできねば、少くともまさにこのこと、すなわち、確実なものは何もないということを確実なこととして認識するに至るまで、さらに先へ歩み続けよう。アルキメデスは、全地球をその場所から移動させるために、一つの確固不動の点のほか何も求めなかった。もし私が極めてわずかなものであれ何か確実で揺るがし得ないものを見出すならば、私はまた大きなものを希望することができるのである。
 そこで私は、私が見るすべてのものは偽であると仮定する。また、私はひとを欺く記憶が表現するものはいかなるものにせよかつて存在しなかったと信じることにする。私はまったく何らの感官も有しないとする。物体、形体、延長、運動及び場所は幻想であるとする。しからば真であるのは何であろうか。たぶんこの一つのこと、すなわち、確実なものは何もないということであろう。
 しかしながらどこから私は、いましがた数え上げたすべてのものとは別で、少しの疑うべき余地もない或るものが存しないことを、知っているのであるか。何か神というもの、あるいはそれをどのような名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのような思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのようなことを考えるのであるか、たぶん私自身がかの思想の作者であり得るのであるのに。それゆえに少くとも私は或るものであるのではあるまいか。しかしながら既に私は、私が何らかの感官、または何らかの身体を有することを否定したのであった。とはいえ私は立ち止まらされる、というのは、このことから何が帰結するのであるか。いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちに全く何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。
 しかし、いま必然的に有る私、その私がいったい何であるかは、私は未だ十分に理解しないのである。そこで次に、おそらく何か他のものを不用意に私と思い違いしないように、かくてまたこのすべてのうち最も確実で最も明証的であると私の主張する認識においてさえ踏み迷うことがないように、注意しなければならない。かるがゆえにいま、この思索に入った以前、かつて私はいったい何ものであると私が信じたのか、改めて省察しよう。このものから次に何であれ右に示した根拠によって極めてわずかなりとも薄弱にせられ得るものは引き去り、かくて遂にまさしく確実で揺がし得ないもののみが残るようにしよう。
 そこで以前、私はいったい何であると考えたのか。言うまでもなく、人間と考えたのであった。しかしながら人間とは何か。理性的動物と私は言うでもあろうか。否。何故というに、さすれば後に、動物とはいったい何か、また理性的とは何か、と問わねばならないであろうし、そしてかようにして私は一個の問題から多数の、しかもいっそう困難な問題へ落ち込むであろうから。またいま私はこのような煩瑣な問題で空費しようと欲するほど多くの閑暇を有しないのである。むしろ私はここで、私は何であるかと私が考察したたびごとに、何が以前私の思想に、おのずと、私の本性に導かれて、現われたか、に注意しよう。そこに現われたのは、もちろん、まず第一に、私が顔、手、腕、そしてこのもろもろの部分の全体の機械を有するということであって、かようなものは死骸においても認められ、そしてこれを私は身体と名づけたのである。なおまた、そこに現われたのは、私が栄養をとり、歩行し、感覚し、思惟するということであって、これらの活動を私は霊魂に関係づけたのである。しかしながらこの霊魂が何であるかに、私は注意を向けなかったか、それともこれを風とか火とか空気とかに似た、私のいっそう粗大な部分に注ぎ込まれた、何か知らぬが或る微細なものと想像した。物体については私は決して疑わず、判明にその本性を知っていると思っていた。これをもしおそらく、私が精神によって把握したごとくに、記述することを試みたならば、私は次のように説明したであろう。曰く、物体とはすべて、何らかの形体によって限られ、場所によって囲まれ、他のあらゆる物体を排するごとくに空間を充たすところの性質を有するもの、すべて、触覚、視覚、聴覚、味覚、あるいは嗅覚によって知覚せられ、そして実に多くの仕方で、決して自己自身によってではなく、他のものによって、そのどこかに触れられて、動かされるところの性質を有するものである、と。すなわち、自己自身を動かす力、同じように、感覚する、あるいは思惟する力を有することは、決して物体の本性に属しないと私は判断したのであり、のみならずかような能力が或る物体のうちに見出されることに私はむしろ驚いたのである。
 しかし現在、或る極めて有力な、そして、もしそういうことが許されるならば、悪意のある、欺瞞者が、あらゆる点において、できる限り、私を欺くことに、骨を折っていると仮定する場合、どうであろうか。私は、物体の本性に属するとさきほど言ったすべてのものうち極めてわずかなものであれ私が有することを確認し得るものがあろうか。私は注意し、考え、また考える。私が有すると言い得るものには何も出会わない。私は同じことを空しく繰り返すことに疲れる。しからば霊魂に属するとしたものは、どうであろうか。栄養をとるとか歩行するとかいうことは? 実にいま私は身体を有しないのであるから、これもまた作りごと以外の何ものでもない。感覚することは? もちろんこれも身体がなければ存しないものであり、また私は夢において、後になって実際に感覚したのではないと気づいた非常に多くのことを感覚すると思ったのである。思惟することは? ここに私は発見する、思惟がそれだ、と。これのみは私から切り離し得ないのである。私は有る、私は存在する、これは確実だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。なぜというに、もし私が一切の思惟をやめるならば、私は直ちに有ることを全くやめるということがおそらくまた生じ得るであろうから。いま私は必然的に真であるもののほか何も許容しない、そこで私はまさしくただ思惟するもの、言い換えれば、精神、すなわち霊魂、すなわち悟性、すなわち理性である、これらは私には以前その意味が知られていなかった言葉である。しかし私は真のもの、そして真に存在するものである。だがいかなるものなのか。私は言った、思惟するもの、と。
 そのほかに何か。想像を働かせてみよう。私は人体と称せられるかのもろもろの部分の集合ではない。私はまたこれらの部分に注ぎ込まれた或る微妙な空気でもなく、風でも、火でも、蒸気でも、気息でも、その他私の構像するような何ものでもない。というのは、このようなものは無であると私は仮定したのであるから。けれどそれにもかかわらず、私は或るものである、という立言は動かないのである。しかし、たぶん、私に知られていないとのゆえをもって、無であると仮定するこれらのものそのものが、ものの真理においては私が知っている私、その私と別のものでないということが生じないであろうか。これについて私は何も知らない。このことについては私はいま争わない。ただ私に知られていることについてのみ、私は判断を下し得るのである。私は私が存在することを知っている。そして、私の知っている私、その私は何であるか、と問うている。この、かように厳密な意味における知識が、その存在を私が未だ知っていないものに依繋しないということ、従って私が想像力によって構像する何ものにも依繋しないということは、極めて確かである。そしてこの構像するという語が私の誤謬を私に告げるのである。なぜなら、もし私が何かであると私が想像したならば、私は実際に構像するであろうから。というのは、想像するとは物体的なものの形体、あるいは像を見ることにほかならないのであるから。しかるに既に私は、私は有るということ、同時にまた一切このような像、そして一般に物体の本性に関係づけられるあらゆるものは、夢幻以外の何ものでもないことがあり得るということ、を確かに知っている。このことに気づいた場合、私はいったい何であるかをさらに判明に知るために想像力を働かそうと言うのは、いまたしかに私は目覚めており、そして真なるものをいくらか見るが、しかし未だ十分に明証的に見ないからして、夢がこのものをさらに真にさらに明証的に表現するように、努力して眠りに入ろうと言うのに劣らず、道理に反すると思われるのである。かようにして私は、想像力の助けを藉りて捉え得るいかなるものも、この、私が私について有する知識に属しないこと、精神が自己の本性をまったく判明に知覚するためには、極力注意して精神をそのようなものから遠ざけねばならぬこと、を認識するのである。
 しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいうのか。言うまでもなく、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものである。
 まことにこれは、もし全部が私に属するならば、僅少ではない、しかしなぜ属してはならないであろうか。いまほとんど一切のものについて疑い、しかしいくらかのものは理解し、この一つのことは真であると肯定し、余のことを否定し、いっそう多くのことを知ろうと欲求し、欺かれることを欲せず、多くのことを意に反してであれ想像し、なおまたいわば感覚からきた多くのものを認めるものは、私そのものではないのか。たとい私がつねに眠るにしても、たといまた私を創造したものが、できる限り、私を欺くにしても、私は有るということと同等に真でないものは、これらのうち何であるか。私の思惟から区別せられるものは、何であるか。私自身から分離せられていると言われ得るものは、何であるか。というのは、疑い、理解し、欲するものが私であることは、これをさらに明証的に説明する何物も現われないほど、明白である。しかし実にまた私は想像する私と同じ私である。なぜなら、たといおそらく、私が仮定したように、想像せられたものがまったく何一つ真でないにしても、想像する力そのものは実際に存在し、そして私の思惟の部分をなしているからである。最後に、私は、感覚する、すなわち物体的なものをいわば感覚を介して認める私と同じ私である。いま私は明かに、光を見、噪音を聴き、熱を感じる。これらは偽である、私は眠っているのだから、といわれるでもあろう。しかし私は見、聴き、暖くなると私には思われるということは確実である。これは偽であり得ない。これが本来、私において感覚すると称せられることなのである。そしてこれは、かように厳密な意味において、思惟すること以外の何物でもないのである。
 これらのことによってともかく私は、私はいったい何であるかを、いくらかよく知り始める。しかしながらこれまでのところ、その像が思惟によって形作られ、そして感覚そのものが検証する物体的なものは、この何か知らぬが、想像力の支配下に入り来らぬ、私に属するものよりも、遥かに判明に認知せられると私には思われ、また私はそう考えざるを得ないのである。とはいえ、実際、疑わしくて、知られていないで、私に関係がないと私の認めるものが、真であるもの、認識せられているもの、要するに私自身よりも、いっそう判明に、私によって理解せられるということは、奇異なことであろう。しかし私はこれがどういうことであるかを看取する、すなわち、私の精神はさ迷い歩くことを好み、そして未だ真理の限界内に引き留められることを甘受しないのである。それならそれで宜しい。我々はさらにひとたびこの精神に手綱を極度に弛めてやり、かくして、やがて適当な時に再び引き締める場合、それがいっそう容易に統御せられ得るようにしよう。
 そこで我々はかの普通にすべてのもののうち最も判明に理解せられると思われているもの、すなわち、言うまでもなく、我々が触れ、我々が見る物体を考察しよう。しかし物体一般ではない。というのは、この一般的な知覚はむしろいっそう不分明であるのがつねであるから。かえって我々は特殊的な一つのものを考察する。我々は、例えば、この蜜蝋をとろう。それは今しがた蜜蜂の巣から取り出されたばかりで、未だ自己の有する蜜のあらゆる味を失わず、それが集められた花の香りのいくらかを保っている。その色、形体、大きさは明白である。すなわち、それは堅くて冷たく、容易に掴まれ、そして指で打てば音を発する。要するに或る物体をできるだけ判明に認識し得るために要求せられ得ると思われる一切が、この蜜蝋に具わっている。しかしながら、見よ、私がこう言っている間に、それを火に近づけると、残っていた味は除き去られ、香は散り失せ、色は移り変わり、形体は毀され、大きさは増し、流動的となり、熱くなり、ほとんど掴まれることができず、またいまは、打っても音を発しない。それでもなお同じ蜜蝋は存続しているのか。存続していると告白しなければならぬ。誰もこれを否定しない。誰もこれと違って考えない。しからばこの蜜蝋においてあのように判明に理解せられたものは、何であったのか。それは確かに私が感官によって捉えたところのいかなるものでもない。なぜなら味覚、あるいは嗅覚、あるいは視覚、あるいは触覚、あるいは聴覚によって感知したあらゆるものは、いまは変化しているからである。しかもなお蜜蝋は存続している。
 たぶんそれは私が現在思惟するものであったのであろう、すなわち、疑いもなく、蜜蝋そのものは、かの蜜の甘さでも、花の香りでも、かの白さでも、形体でも、音でも、あったのではなく、かえって少し前にはかの仕方で分明なものとして私に現われ、現在は別の仕方で現われるところの物体であったのである。しかしかように私が想像するこのものは、厳密に言えば、何であるか。我々は注意しよう、そして、蜜蝋に属しないものを遠ざけることによって、何が残るかを見よう。疑いもなく、延長を有する、屈曲し易い、変化し易い或るもの以外は何も残らない。しからばこの屈曲し易い、変化し易いとは、どういうことであるか。それは、この蜜蝋が円い形体から四角な形体に、あるいはこの四角な形体から三角の形体に転じられ得ると私が想像することであろうか。決してそうではない。なぜなら、私は蜜蝋がこの種の無数の変化を受け得ることを理解するが、しかし私はこの無数のものを、想像することによってはことごとく辿り得ず、従ってこの理解は想像する能力によっては仕遂げられないからである。さらに延長を有するとは、どういうことであるか。蜜蝋の延長そのものもまた知られていないのではあるまいか。なぜならそれは、溶解しつつある蜜蝋においていっそう大きくなり、煮沸せられるときにはさらにいっそう大きくなり、そして熱が増されるなら従ってまたいっそう大きくなるからである。そして蜜蝋が何であるかは、このものがまた延長において私がかつて想像することによって把握するよりも多くの多様性を容れると考えるのでなければ、正しく判断せられないであろう。従って私は、この蜜蝋が何であるかを実に想像するのではなく、ただ単に精神によって知覚する、ということを認めるのほかはないのである。私はこの特殊的な蜜蝋を言っている、なぜなら蜜蝋一般については、そのことはさらに明瞭であるから。しからば精神によってのほか知覚せられないこの蜜蝋は、いったいどういうものであるのか。疑いもなく、私が見、私が触れ、私が想像するものと同じもの、要するに私が始めからこういうものであると思っていたのと同じものである。しかしながら、注意すべきことは、この蜜蝋の知覚は、視覚の作用でも、触覚の作用でも、想像の作用でもあるのではなく、また、たとい以前にはかように思われたにしても、かつてかようなものであったのではなく、かえってただ単に精神の洞観である、そしてこれは、これを構成しているものに私が向ける注意の多少に応じて、あるいは以前そうであったように不完全で不分明であることも、あるいは現在そうあるように明晰で判明であることもできるのである。
 しかるに一方私はいかに私の精神が誤謬に陥り易いものであるかに驚く。というのは、たとい私がこのことどもを自分において黙って、声を上げないで考察するにしても、私は言葉そのものに執着し、そしてほとんど日常の話し方そのものによって欺かれるからである。すなわち我々は、蜜蝋がそこにあるならば、我々は蜜蝋そのものを見る、と言い、我々は色あるいは形体を基として蜜蝋がそこにあると判断する、と我々は言わないのである。そこから私は直ちに、蜜蝋はそれゆえに眼の視る作用によって、ただ単に精神の洞観によってではなく、認識せられると結論するであろう。ところで、もしいま私がたまたま窓から、街道を通っている人間を眺めたならば、私は彼等についても蜜蝋についてと同じく習慣に従って、私は人間そのものを見る、と言う。けれども私は帽子と着物とのほか何を見るのか、その下には自動機械が隠されていることもあり得るではないか。しかしながら私は、それは人間である、と判断する。そしてかように私は、私が眼で見ると思ったものでも、これをもっぱら私の精神のうちにある判断の能力によって把捉するのである。
 しかしながら自己の知識を一般人を超えて高めようと欲する者は、一般人が発明した話の形式から懐疑を探し出したことを恥じるであろう。我々は絶えず先へ進もう。いったい私が蜜蝋の何であるかをいっそう完全にいっそう明証的に知覚したのは、最初私が蜜蝋を眺め、そしてこれを外的感覚そのものによって、あるいは少くとも人々のいわゆる共通感覚によって、言い換えると想像的な力によって、認識すると信じた時であるか、それとも実にむしろ現在、すなわち一方蜜蝋が何であるかを、他方いかなる仕方で認識せられるかを、いっそう注意深く探究した後であるか、に注目しよう。このことについて疑うのは確かに愚かなことであろう。最初の知覚において何が判明であったか。どんな動物でも有し得ると思われないものは何であったのか。しかるにいま私が蜜蝋をその外的形式から区別し、そしていわば着物を脱がせてその赤裸のままを考察する場合、たとい未だ私の判断のうちに誤謬が存し得るにしても、私は実際、人間の精神なしには、かように蜜蝋を知覚することはできないのである。
 しかしこの精神そのものについて、すなわち私自身について、私は何と言うべきであろうか。というのは、私は精神のほか未だ他の何物も私のうちに存すると認めないのである。しからば、この蜜蝋をかくも判明に知覚すると思われる私、その私について、私は何と言うべきであろうか。私は私自身を単に遥かにいっそう真に、遥かにいっそう確実に認識するのみでなく、また遥かにいっそう判明にいっそう明証的に認識するのではあるまいか。なぜというに、もし私が蜜蝋を見るということから、蜜蝋が存在すると判断するならば、確かに遥かにいっそう明証的に、私がそれを見るということそのことから、私自身がまた存在するということが、結果するからである。すなわち、この私の見るものが実は蜜蝋ではないということはあり得る、私が何らかのものを見る眼を決して有しないということはあり得る、しかし、私が見るとき、あるいは(いま私はこれを区別しないが)私は見ると私が思惟するとき、思惟する私自身が或るものでないということは、まったくあり得ないのである。同様の理由で、もし私が蜜蝋に触れるということから、蜜蝋が有ると判断するならば、同じことがまた、すなわち私は有るということが結果する。もし私が想像するということから、あるいは他のどんな原因からであっても、蜜蝋が有ると判断するならば、やはり同じことが、すなわち私は有るということが結果するのである。しかも蜜蝋について私が気づくまさにこのことは、私の外に横たわっている余のすべてのものに適用することができる。そしてさらに、もし蜜蝋の知覚が、単に視覚あるいは触覚によってのみでなく、いっそう多くの原因によって私に明瞭になった後、いっそう多く判明なものと思われたならば、今やいかに多くいっそう判明に私自身は私によって認識せられることか、と言わなければならぬ。というのは、蜜蝋の知覚に、あるいは何か他の物体の知覚に寄与するいかなる理由も、すべて同時に私の精神の本性をいっそうよく証明するはずであるからである。しかしながらまた精神そのもののうちにはその本性の知識をいっそう判明になし得るものがこれ以上他に極めて多く存するのであり、かくてこれらの物体から精神の本性に推し及ぶものは、ほとんど数えるにあたらぬと思われる。
 かくて、見よ、遂に私はおのずと私の欲したところに帰って来たのである。すなわち、今や、物体そのものも本来は感覚によって、あるいは想像する能力によってではなく、もっぱら悟性によって知覚せられるということ、触れられることあるいは見られることによってではなく、ただ理解せられることによって知覚せられるということ、が私に知られたのであるから、私は何物も私の精神よりもいっそう容易に、またいっそう明証的に私によって知覚せられ得ないということを明瞭に認識するのである。しかしながら古い意見の習慣はそんなに速かに除き去られ得ないからして、私の省察の時間の長さによってこの新しい認識がいっそう深く私の記憶に刻まれるように、ここで立ち停まることが適当であろう。
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     省察三

  神について。神は存在するということ。

 いま私は眼を閉じ、耳をふさぎ、すべての感覚を遠ざけ、物体的なもののすべての像をさえ私の思惟から拭い去り、ないし、これはほとんどできないことであるから、少くともかかる像を空虚で偽のものとして無視しよう。そしてただ、自分に話し掛けることによって、またいっそう深く洞観することによって、私自身を漸次私にいっそう知らされたもの、いっそう親しいものにすることに努めよう。私は思惟するものである、すなわち疑い、肯定し、否定し、わずかなことを理解し、多くのことを知らぬ、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものである。というのは、先に私の気づいたごとく、たとい私が感覚しあるいは想像するものは私の外においてはおそらくは無であるにしても、感覚及び想像力と私が称するかの思惟の仕方は、それらが単に思惟の或る一定の仕方である限りにおいては、私のうちにある、ということは私に確実であるからである。
 さてこのわずかな言葉で私は、私が真に知っていることの、あるいは少くとも、私が知っているとこれまでに私の気づいたことの一切を要約した。いま私はおそらくなお私のうちに何か他の未だ私の振り返ってみなかったものがありはしないかどうか、さらに注意深く調べてみよう。私が思惟するものであるということは、私に確実である。しからばまた私は或ることが私に確実であるためには何が要求せられるかをも知っているのではあるまいか。疑いもなく、この第一の認識のうちには、私が肯定するところのものの或る一定の明晰で判明な知覚のほか他の何物も存しない。かかる知覚はもちろん、もし私がかように明晰に判明に知覚する何らかのものが偽であることがかつて生じ得るならば、私にものの真理を確実ならしめるに十分ではないであろう。従ってすでに私は、私が極めて明晰に極めて判明に知覚するものはすべて真である、ということを一般的な規則として立てることができると思う。
 もっとも私は、後になって疑わしいものであるとわかった多くのことを、以前にはまったく確実で明白なものとして認めていた。しからばこれはどういうものであったか。言うまでもなく、地、天、星、その他私が感覚によって捉えた一切のものである。しかしそれらのものについて何を私は明晰に知覚したのであるか。言うまでもなく、かかるものの観念そのもの、すなわち思想が、私の精神に現われたということである。そして現在といえども、もちろん、かかる観念が私のうちにあることを、私は認めまいとは思わない。しかし或る他のことで、私が肯定し、またこれを信じる習慣によって明晰に知覚すると考えたことで、しかも実際には私の知覚しなかったことがあった。言うまでもなく、かかる観念がそれから出て、それにまったく類似している或るものが私の外にあるということである。そしてまさにこの点において私が過っていたか、あるいは私の判断が正しかったのならば、確かにその判断は私の知覚の力によって生じたのではなかったのである。
 しかしそれなら、算術あるいは幾何に関することで、何か極めて単純で容易なこと、例えば二と三とを加えると五であるということ、あるいはこれに類することを私が考察した場合、私は少くともこれを、真であると肯定することができるよう十分に明瞭に直観したのではあるまいか。実際、私がこれについて疑うべきであると後になって判断したのは、おそらく何らかの神が、最も明白なものと思われることに関してさえ欺かれるような本性を、私に付与したかもしれないという考えが私の心に浮かんだからというよりほかの理由によるのではないのである。しかしながら神のこの上ない力についてのこの先入の意見が私に浮んでくるたびごとに、もし神が欲しさえすれば、私が精神の眼で極めて明証的に直観すると考えることにおいてすら、私が間違うようにすることは神にとって容易である、と告白せざるを得ないのである。とはいえ私は、私が極めて明晰に知覚すると信じるものそのものに私を向けるたびごとに、私はそれによってまったく説得せられ、かくておのずと次の言葉を発する、できる者は誰でも私を欺くが宜い、しかし、私が私は或るものであると思惟するであろう間は、彼は私が無であるようにすることは決してできないであろう、あるいは、私は有るということが現在真であるからには、私がかつて有らなかったということがいつか真であるようにすることは決してできないであろう、あるいはおそらくまた、二と三とを加えると五よりも大きいないし小さいとか、あるいはこれに類すること、すなわちたしかにそのうちに明白な矛盾を私の認めること、が生ずるようにすることはできないであろう、と。そして確かに私は何らかの神が欺瞞者であると見做すべきいかなる機会も有しないのであり、また実に何らかの神が存するかどうかを未だ十分に知らないのであるからして、単にこのような意見に依繋する疑いの理由は極めて薄弱であり、そしていわば形而上学的である。しかしかかる理由もまた除き去られるように、機会が生ずるや否や直ちに、神は存するかどうか、そして、もし存するならば、欺瞞者であり得るかどうか、を検討しなければならぬ。というのは、このことが知られていないと、まったく他の何事も決して私に確実であり得ると思われないからである。
 しかるにいま、省察の順序は、まず私の一切の思惟を一定の類に分ち、そしてこの類のうちいったい何れに真理または虚偽は、本来、存するかを探究することを要求すると思われる。私の思惟のうちの或るものはいわばものの像であって、これにのみ、本来、観念という名称は適当するのである。例えば私が人間とか、キマイラとか、天とか、天使とか、神とかを思惟する場合がこれである。しかし他のものは、そのほかに、或る他の形相を有している。例えば私が欲する場合、恐れる場合、肯定する場合、否定する場合がこれであって、この場合私はつねにもちろん或るものを私の思惟の対象として把捉するが、しかし私の思惟はかかる、もののかたどり以上にさらに或るものを含んでいる。そしてこのようなもののうち或るものは意志あるいは感情と名づけられ、他のものは判断と名づけられる。
 いま観念についていえば、それが単にそれ自身において観られ、それを何か他のものに関係させなければ、それは、本来、偽であり得ない。なぜなら、私が山羊を想像しようとキマイラを想像しようと、私がその一を想像するということは他を想像するということに劣らず真であるからである。また意志そのもの、あるいは感情においても、何ら虚偽を恐れることを要しない。なぜなら、たとい私は曲ったこと、あるいはどこにも有しないものをさえ願望するかもしれないとはいえ、それだからといって私がこれを願望するということは真でなくはないからである。かようにして残るのはただ判断のみであり、これにおいて私は誤らないように用心しなければならぬ。しかるに判断において見出され得る主要な、そして極めて普通の誤謬は、私のうちにある観念が私の外に横たわる或るものに類似している、あるいは一致している、と私が判断するということに存する。なぜなら、実際、もし私が単に観念そのものを私の思惟の或る一定の仕方として考察し、何か他のものに関係させなかったならば、それはほとんど私に何らの誤謬の材料を与え得なかったからである。
 ところでこれらの観念のうち或るものは生具のもの、また或るものは外来のもの、さらに或るものは私自身によって作られたもの、と私には思われる。すなわち、私が、ものとは何であるか、真理とは何であるか、思惟とは何であるか、を理解するということは、この理解を私は他のどこからでもなく私の本性そのものから汲み取ると思われる。しかるにいま私が噪音を聞く、太陽を見る、熱を感じるということは、この感覚を私はこれまで、或る私の外に横たわるものから出てくる、と判断した。そして最後にセイレネス、ヒポグリプス、その他これに類するものは、私自身によって構像せられたものである。もっとも、おそらくまた私は、すべての観念は外来のものであるとも、あるいはすべての観念は生具のものであるとも、あるいはすべての観念は作られたものであるとも、考えることができる。というのは、私は未だその真の起源を明晰に洞見したのではないから。
 しかしここでは主として、いわば私の外に存在するものから取ってこられたものと私の見做すところの観念について、いったいどのような根拠が私をしてそれらの観念をばかかるものに類似していると思量するに至らしめるのであるかを、探究しなければならぬ。もちろん私は自然によってかように教えられたと思われるのである。なおその上に、私はそれらの観念が私の意志に、従ってまた私自身に依繋しないことを経験する。というのは、それらはしばしば私の意志に反してさえ現われるからである。例えばいま私は、私が欲すると欲しないとにかかわらず、熱を感じる、そしてそのために私は、この感覚、すなわち熱の観念が、私とは別のものから、言うまでもなく私がそのそばに坐っている火の熱から、私にやってくると考える。そしてかかるものが他の何物でもなくむしろ自己のかたどりを私のうちへ送り込むと私が判断するということよりももっともなことはないのである。
 いま、これらの根拠が十分に確固たるものであるかどうかを検べてみよう。私がここで、私は自然によってかように教えられた、と言う場合、それはただ或るおのずからなる傾動によって私がこれを信じるようにせられたということを意味するのであって、或る自然的な光によって真であると私に明示せられたということを意味するのではない。この二つのことははなはだ異なっている。すなわち、自然的な光によって私に明示せられるあらゆることは、例えば、私が疑うということから私は有るということが帰結すること、その他これに類することは、決して疑わしいものであることができない。なぜなら、この光と同等に私の信頼し得るような、またこの光によって私に明示せられることを真でないと私に教え得るような、いかなる他の能力も有り得ないからである。しかるに自然的傾動についていえば、私は以前にすでにしばしば、善を選ぶことが問題であった場合に、私がこの傾動によりいっそう悪い側に動かされた、と判断したのであって、何故に私はかかる傾動に或る他のことにおいていっそう多く信頼すべきかを理解しないのである。
 次に、たといそれらの観念が私の意志に依繋しないにしても、だからといってそれらが必然的に私の外に横たわるものから出てくるということは確かではない。なぜなら、私がたったいま述べた、かの傾動は、私のうちにあるとはいえ、私の意志とは別のものであると思われるが、同じようにおそらくまた、それらの観念の生産者として、何か他の、未だ私に十分に認識せられていない能力が私のうちにあるかもしれないからである。あたかもこれまでつねに私には、私の眠っているときに、かかる観念がいかなる外物の助けも借りないで私のうちに作られるのが見られたごとくに。
 そして最後に、たとい私とは別のものから出てきたにしても、このことからそれらの観念がかかるものに類似していなくてはならぬということは帰結しない。反対に、多くの場合において私は両者の間にしばしば大きな差異を見出したように思われる。すなわち、例えば、私は太陽について二つの相異なる観念を私のうちに発見する。その一つはいわば感覚から汲み取ったもので、これはとりわけかの外来のものと私の見做すところの観念のうちに数えらるべきものであるが、これによると私には太陽は極めて小さいものに見える。他の一つはしかるに星学上の根拠から取ってこられたもので、言い換えると或る私に生具の概念から引き出されたもの、それとも何か他の仕方で私によって作られたものであるが、これによると太陽は地球より何倍も大きいものとして示される。そして実際、これら二つの観念の双方が私の外に存在する同一の太陽に類似しているということは不可能である。そして理性は、最も直接に太陽そのものから出てきたと思われるところの観念が太陽に最も多く類似していない、と私を説得するのである。
 このすべてのことは、これまで私が、感覚器官を介して、あるいは何らか他の仕方で、観念すなわち自己の像を私に送り込むところの、私とは別の或るものが存在すると信じたのは、確実な判断によるのではなく、かえってただ或る盲目の衝動によるのであるということを、十分に証明するのである。
 しかしながら、私のうちにその観念があるもののうちで、そのうちの或るものが私の外に存在するかどうかを探究するために、或る他の道が私に与えられている。疑いもなく、これらの観念がただ単に思惟の或る一定の仕方である限りにおいては、私はこれらの観念の間に何らの不等をも認めず、そのすべては同じ仕方で私から出てくると思われる。しかるにその一つは一つのものを、他は他のものを表現する限りにおいては、これらの観念が相互にはなはだ異なっていることは明瞭である。というのは、疑いもなく、実体を私に示すところの観念は、ただ単に様態すなわち偶有性を表現するところの観念よりも、いっそう大きな或るものであり、しかして、いわば、いっそう多くの客観的実在性を己れのうちに含んでおり、さらにまた私がそれによって或る至高にして、永遠なる、無限なる、全智なる、全能なる、そして自己のほかなる一切のものの創造者たる、神を理解するところの観念は、有限なる実体を私に示すところの観念よりも、確かにいっそう多くの客観的実在性を己れのうちに有しているからである。
 ところでいま、動力的かつ全体的な原因のうちには少くともこの原因の結果のうちにあると同じだけの実在性が存しなくてはならぬということは、自然的な光によって明瞭である。なぜなら、結果は、原因からでなければ、いったいどこから、自己の実在性を得ることができるのであろうか。また、いかにして原因は、自分でも実在性を有するのでなければこの実在性を結果に与えることができるのであろうか。そしてここから、いかなるものも無から生じ得ないということ、なおまた、より多く完全なものは、言い換えると自己のうちにより多くの実在性を含むものは、より少く完全なものから生じ得ないということ、が帰結する。しかもこれは、単に、その実在性が現実的すなわち形相的であるところの結果について明白に真であるのみでなく、また、そのうちにおいてはただ客観的実在性が考察せられるところの観念についてもまた真である。くわしく言うと、例えば、以前に存しなかった或る石は、その石のうちに含まれるものの全体を、あるいは形相的に、あるいは優越的に、自己のうちに有するところの或るものによって生産せられるのでなければ、いま存し始めることができないし、また熱は、熱と少くとも等しい程度の完全性を有するものによってでなければ、以前に熱せられなかった対象のうちに生ぜしめられることができないし、その他の場合もかくのごとくであるが、単にこれらのみではなく、さらにまた、熱の、あるいは石の観念は、熱あるいは石のうちにあると私が考えるのと少くとも同じだけの実在性を自己のうちに含む或る原因によって私のうちに置かれたのでなければ、私のうちにあることができないのである。というのは、たといこの原因は自己の現実的すなわち形相的実在性の何物も私の観念のうちに移し入れないとはいえ、だからといってこの原因はより少く実在的でなくてはならぬと考うべきではなく、むしろ、観念そのものは私の思惟の仕方であるからして、その本性は、私の思惟から借りてこられる実在性のほか、何ら他の形相的実在性を自分からは要求しない性質のものであると考うべきであるからである。しかるに或る観念が、他の客観的実在性ではなくて或る特定の客観的実在性を含むということは、たしかに、この観念が客観的実在性について含むのと少くとも同じだけの形相的実在性を自己のうちに有するところの或る原因によって、これを得てくるのでなくてはならぬ。なぜなら、もし我々がその原因のうちに存しなかった或るものが観念のうちに見出されると看做すならば、この観念は従ってこれを無から得てくることになり、しかるに、ものがそれによって観念を介して悟性のうちに客観的に有るところのこの存在の仕方は、たとい不完全であるとしても、たしかにまったく無ではなく、また従ってこの観念が無から出てくるということはあり得ないからである。
 なおまた、私が私の有する観念のうちにおいて考察するところの実在性は単に客観的なものであるからして、この実在性がこの観念の原因のうちに形相的に有ることは必要でなく、かえってこの原因のうちにおいても客観的に有れば十分であろう、と忖度そんたくしてはならない。というのは、この客観的な存在の仕方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同じように、形相的な存在の仕方が観念の原因に、――少くともその第一にして主要なる原因には――この原因の本性上、合致するからである。そしてたといおそらく一の観念は他の観念から生まれることができるにしても、これはしかしこのようにして無限に溯ることができないのであって、遂にはいわば或る第一の観念に達しなくてはならず、しかしてこの観念の原因は、観念のうちにおいてはただ客観的に有る一切の実在性を形相的に自己のうちに含むところの、原型ともいうべきものなのである。かようにして観念は私のうちにおいてあたかも或る影像のごときものであって、これは、たしかに、これを得てきたもとのものの完全性に及ばぬことは容易にあり得るが、或るより大きなものまたはより完全なものを含み得ないことは、自然的な光によって私に明瞭である。
 そしてこのすべてのことは、これを考量することが長ければ長いだけ、注意深ければ注意深いだけ、いよいよ明晰に、いよいよ判明に、その真であることを私は認識するのである。しかし私は何を結局これから結論しようとするのであるか。言うまでもなく、もし私の有する観念のうちの或るものの客観的実在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また従って私自身がこの観念の原因であり得ぬことが私に確実であるほど、大きいものであるならば、そこから必然的に、私のみが独り世界にあるのではなく、かかる観念の原因であるところの或る他のものがまた存在するということが帰結するということである。他方もし何らかくのごとき観念が私のうちに見出されないならば、私とは別の或るものの存在を私に確実ならしめるところのいかなる論拠もまったく私は有しないであろう。というのは、私は一切を極めて注意深く調査して、これまで何らの論拠も見出し得なかったからである。
 ところで私の有する観念には、ここに何ら困難のあり得ないところの、かの私自身を私に示す観念のほか、他に、神を表現するもの、また物体的な無生的なものを表現するもの、また天使を表現するもの、また動物を表現するもの、そして最後に私と同類の他の人間を表現するものがある。
 そして他の人間を、あるいは動物を、あるいは天使を示すところの観念についていえば、たとい私のほか何らの人間も、何らの動物も、何らの天使も世界に存しないにしても、これらの観念が、私自身について、物体的なものについて、また神について私の有する観念から構成せられ得るということを、私は容易に理解するのである。
 そして物体的なものの観念についていえば、これらのうちには私自身によって生まれ得たとは思われないほど実在性の大きいものは何も見られない。もし私がこれらをいっそう深く観察するならば、また昨日私が蜜蝋の観念を吟味したのと同じ仕方で、その一つ一つを吟味するならば、これらにおいて私が明晰に判明に知覚するものはただ極めてわずかであることに気づくのである。言うまでもなく、それは、大きさ、すなわち長さ、広さ及び深さにおける延長、かかる延長の限定によって生ずる形体、種々の形体を具えたものの相互に占める位置、及び運動、すなわちかかる位置の変化であって、これになお実体、持続及び数を加えることができる。しかるにその他のもの、例えば光と色、音、香、味、熱と寒、また他の触覚的性質は、ただ極めて不分明に不明瞭にのみ私によって思惟せられるのであり、従って私は、それらが真であるのか、それとも偽であるのか、言い換えると、それらについて私の有する観念が或るものの観念であるのか、それとも何ものでもないものの観念であるのか、をさえ知らないのである。というのは、たとい私は少し前に、本来の意味における虚偽すなわち形相的虚偽は、ただ判断においてのみ見出され得ると述べたとはいえ、しかし観念にして何ものでもないものを或るものであるかのように表現する場合、たしかに、或る他の質料的虚偽が観念のうちに存するのである。かくて、例えば、熱と寒について私の有する観念は極めてわずかしか明晰で判明でないので、これらの観念によって、寒が単に熱の欠存であるのか、それとも熱が寒の欠存であるのか、あるいはまた両者共に実在的な性質であるのか、それとも共にそうでないのか、私はこれを見分けることができない。ところで或るものの観念であるかのように思われぬいかなる観念も存し得ないのであるから、もし実際に寒は熱の欠存以外の何ものでもないことが真であるならば、寒を実在的な、積極的に或るもののように私に表現するところの観念が、偽と言われるのは不当でないであろう。その他の場合も同様である。
 これらの観念は、たしかに、或る私とは別の作者に帰せられることを要しない。なぜなら、もし実際にそれらが偽であるならば、すなわち、何ものでもないものを表現するならば、それらが無から出てくること、言い換えると、それらが私のうちにあるのは、私の本性にあるものが欠けており、これがまったく完全でないゆえにというよりほか他の原因によるのでないことは、自然的な光によって私に知られているからであり、もしまたそれらが真であるならば、それらはしかし実に何ものでもないものと区別し得られないほど極めてわずかの実在性をしか私に示さないからして、何故にそれらが私自身によって作られることができないのか、私にはわからないからである。
 しかるに物体的なものの観念の中で明晰で判明であるもののうち、或るものは、すなわち実体、持続、数、その他これに類するものは、私自身の観念から引き出され得たように思われる。私が石は実体であると、すなわちそれ自身によって存在することができるものであると思惟し、他方また私は実体であると思惟する場合、もちろん私は、私が思惟するもので延長を有するものでなく、これに反して石は延長を有するもので思惟するものでないこと、従ってふたつの概念の間には非常に大きな差異があることを理解するにしても、しかし実体という点においては両者は一致すると思われる。同じようにまた私が、私はいま有ることを知覚し、さらに以前にまた或る時のあいだ有ったことを想起する場合、なおまた私がその数を理解している種々の思想を有する場合、私は持続と数との観念を得、しかる後これをどのような他のものへも移すことができる。物体的なものの観念を構成するその他のすべてのもの、すなわち延長、形体、位置及び運動は、もちろん、私は思惟するもの以外の何ものでもないのであるからして、私のうちに形相的には含まれないが、しかし、それらは単に実体の或る様態であり、私はしかるに実体であるから、優越的には私のうちに含まれ得ると思われる。
 かようにして残るところはただ神の観念のみである。この観念のうちには何か私自身から出てくることのできなかったものがあるかどうかを考察しなければならぬ。神という名称のもとに私が理解するのは、或る無限なる、独立なる、全智なる、全能なる、そして一方、私自身を、また他方、もしさらに何ものかが存在するならば、存在するほどのものの一切を、創造したところの、実体である。まことにこのすべての性質は、私がこれに注意することの深ければ深いだけ、いよいよ、単に私自身から出てきたものであり得ると思われないのである。それゆえに、前述のことから、神は必然的に存在する、と結論しなければならない。
 なぜかというに、私は実体であるということそのことから、たしかに実体の観念が私のうちにあるとはいえ、だからといってそれは、私は有限であるからして、実際に無限であるところの或る実体から出てきたのでなければ、無限なる実体の観念ではなかったであろうから。
 また、私は無限なるものを真なる観念によって知覚するのではなく、かえって、あたかも静止や闇を運動や光の否定によって知覚するごとく、単に有限なるものの否定によって知覚する、と思ってはならない。なぜなら反対に、無限なる実体のうちには有限なる実体のうちにおけるよりも多くの実在性があること、また従って無限なるものの知覚は有限なるものの知覚よりも、言い換えると、神の知覚は私自身の知覚よりも、いわばいっそう先なるものとして私のうちにあることを、私は明瞭に理解するからである。というのは、もし私のうちに、それとの比較によって私が私の欠陥を認めるところの何らかいっそう完全なる実有の観念が存しなかったならば、いかにして私は、私を疑うこと、私が欲求すること、言い換えると、或るものが私に欠けていて、私はまったく完全ではないこと、を理解したであろうか。
 また、おそらくこの神の観念は、熱や寒の観念、およびこれに類するものの観念について少し前に私が気づいたのと同じく、質料的に偽であり、従ってまた無から出てくることができる、と言うことはできない。なぜなら、反対に、この観念は極めて明瞭で判明であり、そして他のいかなる観念よりも多くの客観的実在性を含んでいるからして、この観念よりも多くそれ自身によって真なるもの、偽でないかとの疑いを容れることがいっそう少ないもの、は存しないからである。私は言う、この最も完全にして無限なる実有の観念はこの上なく真であるのである、と。というのは、たといおそらくかくのごとき実有は存在しないと仮想することができるにしても、この実有の観念が、先に寒の観念について言ったごとく、何ら実在的なものを私に示さないと仮想することはできないから。この観念はまたこの上なく明晰で判明であるのである。なぜなら、何であれ私が実在的にして真なるものとして、また何らかの完全性をもたらすものとして明晰に判明に知覚するものは、全部この観念のうちに含まれているから。またこの場合、私が無限なるものを把握しないということ、あるいは神のうちには私の把握することのできぬ、またおそらく思惟によっては何らか触れることさえできぬ、他の無数のものが存するといことは、妨げとはならない。というのは、有限であるところの私によって把握せられないということは、無限なるものの本質に属するものであるから。そして私がまさにこのことを理解することで、そして私の明晰に知覚し、何らかの完全性をもたらすものとして知る一切のものが、なおおそらくまた私の知らない他の無数のものが、形相的にか優越的にか神のうちに存すると判断することで、私が神について有する観念が私のうちにあるすべての観念のうち最も真で、また最も明晰で判明であるためには、十分なのである。
 しかしおそらく私は自分で理解しているより以上の或るものであるかもしれない、しかして私が神に帰するところの一切の完全性は、たとい私においては未だ自己を顕現せず、また現実性にもたらされないにしても、何らか可能的には私のうちにあるかもしれない。というのは、私は実際に私の知識が漸次に増大せられることを経験し、そしてそれがかようにして無限にまでますます増大せられないように何が妨げるのか、また何故に、この知識がかように増大せられたとき、これによって私が神の余のすべての完全性に達することができないのか、また最後に、何故に、かかる完全性に至る力が、もし実際に私のうちにあるならば、かかる完全性の観念を作り出すに十分でないのか、私は理解しないから。
 否、かかることは何らあり得ない。すなわちまず第一に、私の知識が一歩一歩増大せられるということ、また未だ現実的にはないところの多くのものが可能的に私のうちにあるということは真であるにしても、かくのごとくことは何ら神の観念に適しない。神の観念のうちには疑いもなく単に可能的であるものは何もない。またこの一歩一歩増大せられるということはまさに不完全性の極めて確実な証明なのである。次に、たとい私の知識は常にますます増大せられるとはいえ、しかも私は、それが、だからといって、決して現実的に無限なものにならないであろうということを理解する、なぜなら私の知識はこれ以上の増大を容れないというところには決して達しないであろうから。しかるに神は、その完全性には何ものも加えられ得ないというように、現実的に無限である、と私は判断するのである。そして最後に、観念の客観的有は、本来からいえば無であるところの単に可能的な有によってではなく、かえってただ現実的な有、すなわち形相的な有によってのみ生ぜしめられ得る、ということを、私は知覚するのである。
 まことにこのすべてのことには、注意深く考察するとき自然的な光によって明瞭でないものは何もないのである。しかしながら私がそんなに注意しないで、感覚的なものの像が精神の眼を盲にする場合、何故に私よりもいっそう完全な実有の観念は必然的に、或る実際にいっそう完全なる実有から出てこなければならないかを、私は容易に想起しないからして、さらに進んで、かかる観念を有するところの私自身は、もしかかる実有が何ら存在しなかったならば、存することができたかどうか、を探究したいと思う。
 いったい私は何者から出てきたのであろうか。もちろん私は私自身から、それとも両親から、それとも何か他の、神よりも少く完全なものから。というのは、神よりもいっそう完全なものは、神と同じ程度に完全なものでさえ、何も思惟せられることも想像せられることもできないのであるから。
 けれども、もし私が私自身から出てきたとすれば、私は疑うということがなかったであろうし、また願望するということがなかったであろうし、またおよそ何物かが私に欠けているということがなかったであろう。なぜなら、その何らかの観念が私のうちにある一切の完全性を、私は私自身に与えたであろうし、かようにして私自身は神であったであろうから。また私に欠けているものはたぶん、すでに私のうちにあるものよりも、得られるにいっそう困難であるかもしれないと考えてはならぬ。なぜなら、反対に、私、言い換えると思惟するもの、すなわち思惟する実体を無から生み出すことは、単にこの実体の偶有性であるところの、私の知らないところの多くのものの知識を得ることよりも、遥かにいっそう困難であったということは明瞭であるから。そして確かに、もし私がかのいっそう大きなもの、すなわち思惟する実体を生み出すという完全性を自分によって持ったとすれば、私は少くともかのいっそう容易に持たれ得るもの、すなわちこの実体の偶有性であるところの多くのものの知識を自分に拒まなかったであろう。のみならず私は神の観念のうちに含まれると私の知覚するものの他のいかなるものをも自分に拒まなかったであろう。なぜなら、たしかに、そのいかなるものも作り出されるにいっそう困難ではないと私には思われるから。そしてもし何らかのものが作り出されるにいっそう困難であったとすれば、実に私が持つあらゆる他のものは自分によって持ったのであるからして、私はかかるものにおいて私の力が制限せられるのを経験したであろうゆえに、確かにかかるものはまた私にいっそう困難と思われたであろう。
 なおまた、おそらく私はいま存するごとくつねに存したと仮定するにしても、あたかもこの仮定から私の存在のいかなる作者も追求せらるべきではないということが帰結したかのように称して、これらの論拠の力を逃れることは私にはできない。なぜなら、私の生涯の全時間は、そのいずれの箇々の部分も余の部分にまったく依繋しないところの無数の部分に分かたれ得るゆえに、私が少し前に存したということから私がいま存しなくてはならぬということは、この瞬間に或る原因がいわばもう一度私を創造する、言い換えると私を保存する、のでない限りは、帰結しないからである。すなわち、時間の本性に注意する者にとっては、何らかのものがその持続する箇々の瞬間において保存せられるためには、そのものが未だ存在しなかったとした場合、それを新たに創造するために必要であったのとまったく同じだけの力と働きとが必要であることは、明白である。してみれば保存はただ考え方によってのみ創造と異なるということはまた、自然的な光によって明瞭であることがらの一つであろう。
 かくしてここに私は、いま存するところの私が少し後にも存するであろうようにすることのできる或る力を私が有するかどうか、私自身に対して問わなくてはならない。というのは、私は思惟するもの以外の何物でもないからして、あるいは少くとも今はまさしくただ私の思惟するものであるところの部分が問題なのであるからして、もし何かかような力が私のうちにあったとすれば、疑いもなく私はこれを意識したはずであるから。しかるに私は何らかかるものの存することを経験していない。そしてまさにこのことから私は、私が或る私とは別の実有に依繋することを、極めて明証的に認識するのである。
 しかしたぶんこの実有は神ではないかもしれない、そして私は両親によってか、それとも何か他の、神よりも少く完全な、原因によって、作り出されたのかもしれない、否、決してかかることはない。すでに前に言ったごとく、原因のうちには結果のうちにあるのと少くとも同じだけの実在性がなくてはならぬことは分明である。そしてこのゆえに、私は思惟するもので、また神の或る観念を私のうちに有するものであるからして、どのような原因が結局私に振り当てられるにしても、それはまた思惟するものであり、そして私が神に帰する一切の完全性の観念を有する、と言わねばならぬ。しかしてそれについて再び、それ自身から出てくるのか、それとも他のものから出てくるのか、と追求することができる。すなわち、もしそれ自身から出てくるとすれば、前述のことからそれが自身神であることは明かである。なぜならもちろん、それは自分自身によって存在する力を有するのであるから、それは疑いもなくまた、その観念をそれが自分自身のうちに有するところの一切の完全性を、言い換えると、神のうちにあると私が考えるところの一切の完全性を、現実的に所有する力をも有するはずであるから。しかるにもし他のものから出てくるとすれば、この他のものについてあらためて同じ仕方で、自分自身から出てくるのか、それとも他のものから出てくるのか、と追求せられ、かようにして遂には神であろうところの究極の原因にまで達せられるであろう。
 なぜというにこの場合、とりわけ、単に私をかつて作り出した原因のみがここで問題であるのではなく、むしろ主として私を現在保存しているところの原因が問題であるのであるからして、無限への進行があり得ないことは十分に明かであるから。
 なおまた、私を作り出すためにはおそらく多くの部分的原因が協力したのであって、私はその一つから私の神に帰する完全性のうちの或る一つの観念を、他のものから他の完全性の観念を受け取ったのであり、従ってこれら一切の完全性はたしかに宇宙のうちどこかに見出されるであろうが、しかしこれら一切が同時に、神であるところの或る一つのものにおいて、結合せられたものとしては見出されないであろう、と想像することもできない。なぜなら、反対に、統一、単純性、すなわち神のうちにある一切のものの不可分離性は、神のうちにあると私が理解する主要な完全性のうちの一つであるからである。また確かに、神のかかる一切の完全性の統一の観念は、私をしてまた他の完全性の観念をも有せしめたのではないような、何らかの原因によって、私のうちに置かれ得なかったはずである。というのは、この原因は、私をして同時にこれらの完全性がいったい何ものであるかを知らしめるようにしたのでない限りは、私をしてこれらの完全性を一緒に結合せられた、分離し得ぬものと理解せしめるようにすることはできなかったはずであるから。
 最後に、両親についていえば、私がかつて彼等に関して考えたすべてのことは真であるかもしれないが、しかしたしかに彼等は私を保存するのではなく、また、私が思惟するものである限り、決して私を作りだしたのでもない。むしろ彼等は単に、私、言い換えると精神――私はいまただ精神のみを私と認めるのである――がそのうちにあると私の判断したところの質料のうちに或る一定の性情を据えつけただけなのである。従ってここでは彼等に関して何らの困難もあり得ない。かえってぜひとも次のように結論しなければならぬ、すなわち、私が存在するということ、そして最も完全な実有の、言い換えると神の、或る一定の観念が私のうちにあるということ、ただこのことから、神もまた存在するということが極めて明証的に論証せられる、と。
 残るところはただ、いかなる仕方で私はかかる観念を神から得たかを考査することである。すなわち、私はそれを感覚から汲んだのではなく、また決して感覚的なものが感覚の外的器官に現われるもしくは現われるように思われる場合、かかるものの観念のつねとするごとく、私が期待しないのに私にやってきたのでもない。またそれは私によって構像せられたのでもない。なぜなら、明かに、私は何物をもそれから引き去ることができず、何物をもそれにさらに加えることができないから。従って残るところは、あたかも私自身の観念がまた私に生具するのと同じように、この観念が私に生具するということである。
 そしてたしかに、神が私を創造するにあたって、ちょうど技術家が彼の作品に印刻した自己のしるしであるかのように、この観念を私のうちに植えつけたということは、不思議ではない。またこのしるしが作品そのものとは別の或るものであることも必要ではない。しかしながら、神が私を創造したということ、ただこの一つのことから、私が何らかの仕方で神の姿とかたどりに従って作られたということ、また神の観念がそのうちに含まれるこの像りが、私の私自身を知覚するに用いるのと同じ能力を持って私によって知覚せられるということは、極めて信じ得ることである。言い換えると、私が私自身のうちに精神の眼を向けるとき、単に私は、私が不完全で、他のものに依繋するものであり、そしてますますいっそう大きなものすなわちいっそう善いものをと無限定に喘ぎ求めるものであることを理解するのみでなく、同時にまた私は、私の拠って依繋するところのものが、かかるいっそう大きなものの一切を、単に無限定に、可能的にではなく、かえって実際に無限に自己のうちに有し、そしてかようにして神であることを理解するのである。そして論証の全体の力は次のところに存するのである、すなわち、私の現にあるごとき本性を有する私、まさに神の観念を自己のうちに有する私は、実際に神がまた存在するのでなければ、存在することがあり得ない、と私の認知するところに存するのである。ここに私が神と言うのは、その観念が私のうちにあるその神、言い換えると、私の把握し得ぬ、しかし何らかの仕方で思惟によって触れ得る、一切の完全性を有し、そしていかなる欠陥からもまったく免れているものである。このことから、神が欺瞞者であり得ないことは、十分に明かである。なぜなら、すべての瞞着と詐欺とが或る欠陥から出てくるということは、自然的な光によって明瞭であるから。
 しかしながら、このことをいっそう注意深く考査し、同時にまたここから引き出され得る他のもろもろの真理の中へ尋ね入るに先立ち、私はここでしばらく神そのものの観想のうちに停まり、その属性を静かに考量し、そしてその無辺なる光明の美をば、これにいわば眩惑せられた私の智能の眼の耐え得る限り多く、凝視し、讃嘆し、崇敬しすることが適当であると思う。なぜなら、ただこの神的荘厳の観想にのみ他界の生活のこの上ない浄福の存することを我々は信仰によって信じているのであるが、そのようにまた今我々は、かかる観想によって、もとよりそれは遥かに少く完全なものであるとはいえ、この世の生活に置いて許された最大の満足を享受しうることを経験するからである。
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     省察四

  真と偽とについて。

 私はこの数日、私の精神を感覚から引き離すことにかくも慣れてきたし、また私は、物体的なものについてほんとうに知覚せられるものがきわめてわずかであり、人間の精神についてはしかし遥かに多くのものが、神についてはさらに遥かに多くのものが認識せられることをかくも注意深く観察したので、今や私は何らの困難もなしに思惟をば想像せられるべきものから転じて、ただ悟性によってのみ捉えらるべきもの、そして一切の物質から分離せられたものに向わせうるであろう。まことに私は人間の精神について、それが思惟するものであり、長さ広さ及び深さにおける延長を有せず、そして物体に属するところの何物をも有せざるものである限りにおいて、いかなる物体的なものの観念よりも遥かに多くの判明な観念を有している。そして私が疑うということ、すなわち不完全で依存的なものであるということに注意するとき、独立な完全な実有の、言い換えると神の、かくも明晰で判明な観念が私に現われ、そしてかくのごとき観念が私のうちにあるということ、すなわち私、かかる観念を有する私が存在するということ、この一つのことから私は、神がまた存在するということ、そしてこの神に私の全存在があらゆる箇々の瞬間において依存するということをかくも明瞭に結論するのであって、かようにして私は人間の智能によって何物もこれ以上明証的に、何物もこれ以上確実に認識せられ得ないと確信することができる。そしていま私は、真の神の、すなわち知識と智慧とのすべての宝を秘蔵する神の、かかる観想から、余のものの認識にまで達せられるところの、或る道を認めるように思われるのである。
 すなわち、まず第一に私は、神が私をかつて欺くことはあり得ないということを認知する。なぜならすべての瞞着あるいは詐欺のうちには何らかの不完全性が見いだされるから。そしてたとい欺き得るということは聡明あるいは力のある証拠と見え得るにしても、欺くことを欲するということは疑いもなく悪意かそれとも薄弱かを証するのであって、従ってまた神にふさわしくないのである。
 次に私は私のうちに或る判断能力のあることを経験するが、私はこれを確かに、私のうちにある余のすべてのものと同じく、神から受け取ったのである。そして神は私を欺くことを欲しないからして、神はもちろんこの能力を、私がこれを正しく使用するときにも過ち得るようなものとして私に与えなかったはずである。
 このことについては、もしそこから、だからして私は決して過ち得ないことが帰結するように思われたのでなければ、何らの疑いも残らなかったであろう。というのは、もし私のうちにあるどのようなものでも私はこれを神から得るとすれば、そしてもし神は私に過つ能力を何ら与えなかったとすれば、私はかつて過ち得るようには思われないから。そしてかようにして実際、私がただ神についてのみ思惟し、私を全く神に向けている間は、私は誤謬または虚偽の何らの原因をも発見しないのである。しかしながら、すぐ後で、再び自分に還ってくると、私はそれにもかかわらず私が無数の誤謬にさらされていることを経験し、その原因を探究すると、私は単に神の、すなわちこの上なく完全な実有の、実在的で積極的な観念のみではなく、またいわば無の、すなわちあらゆる完全性からこの上なく離れているものの、或る消極的な観念が現われること、そして私があたかも神と無との間の、すなわち最高の実有と非有との間の中間者をなしており、かようにして、最高の実有から創造せられた限りにおいては、私のうちにはもちろん欺きまたは誤謬に誘うものは何も存しないが、しかし或る仕方でまた無に、すなわち非有に与る限りにおいては、言い換えると、自分が最高の実有でなく、そしてきわめて多くのものが私に欠けている限りにおいては、私が過ったのは不思議でないことに、私は気づくのである。そしてかようにして私は確かに、誤謬は、それが誤謬である限りにおいては、神に依存するところの或る実在的なものではなく、ただ単に欠陥であるということ、従ってまた私が過つには、この目的のために神から賦与せられた或る能力が私に必要であるのではなく、かえって私が神から得ているところの真を判断する能力の私において無限でないことによって、私の過つことの生じるということを、理解するのである。
 さりながら、このことは未だまったく私を満足させない。というのは、誤謬は純粋な否定ではなく、かえって欠存、すなわち何らかの仕方で私のうちに存しなくてはならなかった或る認識の欠乏であるからである。そして神の本性に注意するとき、その類において完全でない、すなわちそれに本来属すべき或る完全性の欠けている何らかの能力を神が私のうちに置いたということはあり得ないように思われる。なぜならもし、技術者がいっそう老練であればあるだけ、いよいよいっそう完全な作品が彼によって作り出されるとすれば、かの一切のものの最高の製作者によって、あらゆる点において完璧でない何ものが作られ得たであろうか。また神が私を決して過たないようなものとして創造し得たはずであるということは疑わしくないし、また神がつねに最も善いものを欲するはずであるということも疑わしくない。しからば、私が過つということは過たぬということよりもいっそう善いことででもあろうか。
 これらのことをいっそう注意深く考量するならば、まず、その理由を私の理解しない或るものが神によって作られるとしても、私にとって驚くべきことではないということ、またおそらくそれが何故に、あるいはどういう仕方で、神によって作られたかを私の把握しないさらに或る他のもののあるのを私が経験するというわけで、神の存在について疑うべきではないということ、が心に浮かんでくるのである。なぜなら私は、私の本性が極めて薄弱で制限されたものであり、神の本性はこれに反して広大で、把握し得ぬ、無限なものであることを既に知っているから、このことからまた私は十分に、その原因の私には知られていない無数のことを神はなし能うということを知るからである。そしてこのただ一つの根拠から私は、目的から引き出されるのをつねとする原因の類の全体は物理的なものにおいて何らの適用をも有しない、と私は思量するのである。というのは、私が神の目的を探究し得ると考えるのは向う見ずのことであるから。
 さらに、神の作品が完全なものであるかどうかを我々が尋求するたびごとに、或る一つの被造物を切り離してではなく、一切のものを全体として考察しなければならぬ、ということが心に浮んでくるのである。なぜなら、もしそれが単独であったら、おそらく正当に、極めて不完全なものと思われるものも、世界において部分の地位を有するものとしては極めて完全なものであるから。そしてたとい、私が一切のものについて疑おうと欲したことから、これまでのところ私と神とが存在するというほか何物も確実に認識しなかったにしても、しかし神の無辺の力に気づいたことから、他の多くのものが神によって作られたはずであり、あるいは少くとも作られ得るはずであり、かくして私はものの全体において部分の地位を占めるはずであるということを私は否定し得ないのである。
 そこで、私自身にいっそう近く寄って、私の誤謬(これのみが或る不完全性を私のうちにおいて証するのである)がいったいどういうものであるかを探究すると、私は、これが二つの同時に一緒に働く原因に、言うまでもなく私のうちにある認識の能力と選択の能力すなわち自由意志とに、言い換えると悟性にと同時に意志に、依繋することを認める。というのは、単に悟性によっては私はただ観念を、それについて判断を下し得るところの観念を知覚するのみであり、そして厳密にかように観られた観念のうちには本来の意味におけるいかなる誤謬も見出されないから、なぜなら、たといたぶん、その観念が何ら私のうちに存しないところの無数のものが存在するにしても、しかし本来は、かかる観念が私に欠存していると言わるべきではなく、かえってただ否定的に、かかる観念を私は有していないと言わるべきであるからである。疑いもなく、神は私に与えたよりもいっそう大きな認識の能力を私に与えるべきであったと言うことを証明する何らの根拠も私は提供し得ないのであるから。そしてたとい私は神を老練な技術者であると理解するとはいえ、だからといって私は神が、自己の作品のいずれの箇々のうちにも、その或るもののうちに置き得るところのすべての完全性を、置くべきであったとは考えない。なおまた実に私は、十分に広くて完全な意志、すなわち意志の自由を私が神から授からなかったと訴えることはできない。なぜなら、私は実際、意志がいかなる制限によっても局限せられていないことを経験するのであるから。そして極めて注目すべきことと私に思われるのは、私のうちにはこれほど完全な、これほど大きなものは他には何もないので、私にはこれがさらにいっそう完全な、すなわちいっそう大きなものであり得るとは理解せられ得ないということである。というのは、例えば、もし私が理解の能力を考察するとすれば、私は直ちにそれが私のうちにおいてはなはだ小さくて、非常に有限なものであることを知り、そして同時に私は或る他の遥かにいっそう大きな、いな最も大きな、無限な能力の観念を作り、そして私がかかる能力の観念を作り得ることそのことから、私はかかる能力が神の本性に属することを知覚するからである。同じように、もし私が想起の能力あるいは想像の能力、あるいは何か他の能力を考査するとしても、決して私は、それが私のうちにおいて弱くて局限せられていて、神においては広大であることを私の理解しないものは何も発見しないのである。ただ意志すなわち意志の自由のみは、私はこれを私のうちにおいて何らいっそう大きなものの観念を捉え得ないほど大きなものとして経験するのであり、かくて私がいわば神の或る姿と像りを担うことを理解せしめる根拠は、主としてこの意志である。なぜならこの意志は神においては私のうちにおいてよりも、一方この意志に結びつけられていて、これをいっそう強固にし、いっそう有効にするところの、認識と力との点において、他方この意志がいっそう多くのものに拡げられるところから、その対象の点において、比較にならぬほどいっそう大きいとはいえ、しかしそれ自身において形相的にかつ厳密に観られるならば、いっそう大きいとは思われないから。意志というものはただ、我々が或る一つのことを為すもしくは為さぬ(言い換えると肯定するもしくは否定する、追求するもしくは忌避する)ことができるというところに存するからである、あるいはむしろそれはただ、悟性によって我々に呈示せられているものを我々が肯定しもしくは否定し、すなわち追求しもしくは忌避するにあたって、いかなる外的な力によってもそうするように決定せられてはいないと感じて、そうするように動かされるというところに存するからである。というのは、私が自由であるためには、私が一方の側にも他方の側にも動かされることができるということは必要でなく、かえって反対に、私が真と善との根拠をその側において明証的に理解するゆえにせよ、あるいは神が私の思惟の内部をそうするように処置するゆえにせよ、私の一方の側に傾くことが多ければ多いだけ、ますます自由に私はその側を選択するのであるから。実に神の聖寵も、自然的な認識も、決して自由を減少せしめるのではなく、かえってむしろこれを増大し、強化するのである。しかるに、何らの根拠も私を他方の側によりも一方の側にいっそう多く駆り立てない場合に私が経験するところの、かの不決定は、最も低い程度の自由であり、そして意志における完全性ではなくて、ただ認識における欠陥、すなわち或る否定を証示するのである。なぜなら、もし私がつねに何が真であり善であるかを明晰に見たならば、私は決していかなる判断をすべきかあるいはいかなる選択をすべきかについて躊躇しなかったはずであり、そしてかようにして、たといまったく自由であったにしても、決して不決定ではあり得なかったであろうから。
 ところでこれらのことから私は次のことを知覚する。すなわち、私が神から授かっている意欲の力は、それ自身として観られた場合、私の誤謬の原因ではないということを。なぜなら、この力は極めて広くて、その類において完全であるから。また理解の力もそうではないということを。なぜなら、私はこの力を神から理解するために授かっているゆえに、私の理解するあらゆるものは、疑いもなく私はこれを正しく理解し、そしてこれにおいて私が過つということはあり得ないから。しからばどこから私の誤謬は生じるのであろうか。言うまでもなくただこの一つのことから、すなわち、意志は悟性よりもいっそう広い範囲に及ぶゆえに、私が意志を悟性と同じ範囲の内に限らないで、私の理解しないものにまでも広げるということからである。かかるものに対して意志は不決定であるゆえに、容易に意志は真と善とから逸脱し、かようにして私は過つと共にまた罪を犯すのである。
 例えば、私がこの数日、何らかのものが世界のうちに存在するかどうかを考査し、そして私がこのことを考査するということそのことから私は存在するということが明証的に帰結するのを認めたとき、実に私は私のかくも明晰に理解することは真であると判断せざるを得なかったのである。これは、或る外的な力によってそうするように強要せられたというのではなく、かえって悟性のうちにおける大きな光から意志のうちにおける大きな傾向性が従ってきたゆえであって、かようにして私がそのことに対して不決定であることが少なければ少ないだけ、ますます多く私は自発的にそして自由にそのことを信じたのである。しかるに今、私は私が或る思惟するものである限りにおいて存在することを知っているのみでなく、さらにまた物体的本性の或る観念が私に現われている、そこで、私のうちにあるところのあるいはむしろ私自身であるところの思惟する本性が、かかる物体的本性とは別のものであるか、それとも両者は同一のものであるか、という疑いが生じてくる。そして私は、この一方を他方よりも多く私に説得する何らの根拠も未だ私の悟性に現われていないと仮定する。まさにこのことから確かに私は、両者のいずれを肯定すべきか若しくは否定すべきか、それともまたこのことについて何も判断を下すべきでないか、に対して不決定であるのである。
 実にまたこの不決定は、単に悟性によってまったく何も認識せられないものに及ぶのみでなく、また一般に、意志がそれについて商量している時に当って悟性がそれを十分に分明に認識していないというすべてのものにも及ぶのである。なぜなら、たとい蓋然的な推測が私を一方の側へ引張るにしても、それが単に推測であって、確実なそして疑い得ぬ根拠ではないというただ一つの認識は、私の同意を反対の側へ動かすに十分であるから。このことを私はこの数日、以前に極めて真なるものと私の信じたすべてのものをば、この一つのこと、すなわちそれについて或る仕方で疑われ得ることがわかったといことによって、まったく偽なるものであると仮定したときに、十分に経験したのである。
 ところで何が真であるかを十分に明晰に判明に知覚していない場合、もし実際私が判断を下すことを差し控えるならば、私のかくすることが正しく、私は過つことがないのは明かである。しかるにもし私が肯定するもしくは否定するならば、そのとき私は意志の自由を正しく使用していない、そしてもし偽である側に私を向わせるならば、明かに私は過つ、またもし他の側を掴んで、偶然に、なるほど真理に当りはするにしても、だからといって私は罪を免れないであろう。なぜなら、悟性の知覚がつねに意志の決定に先行しなくてはならぬことは、自然的な光によって明瞭であるから。そしてこの自由意志の正しくない使用のうちに誤謬の形相を構成するところのかの欠存が内在するのである。すなわち、欠存は、作用そのもののうちに、これが私から出てくる限りにおいて、内在するのであって、私が神から受取った能力のうちに内在するのではなく、また神に依存する限りにおいての作用のうちに内在するのでもない。
 そこで私は、神が私に与えたよりもいっそう大きな理解の力、すなわちいっそう大きな自然的な光を私に与えなかったということを訴うべき何らの理由も有しない。なぜなら、多くのものを理解しないということは有限な悟性にとって当然であり、そして有限であるということは創造せられた悟性にとって当然であるから。むしろ私は、決していかなるものをも私に負わないところの神に、彼から授けられたものに対して、感謝すべきであるのであって、彼が私に与えなかったものをば、彼によって私が奪われたもの、すなわち彼が私から引き上げたものと考うべきではないのである。
 なおまた私は、神が私に悟性よりもいっそう広く及ぶところの意志を与えたということを訴うべき理由を有しない。なぜなら、意志はただ一つのもの、そしていわば不可分のものに存するゆえに、その本性は何らかのものがそれから取り去られ得ることを許さないと思われるから。そして実に、かかる意志が広大であれば広大であるだけ、ますます大きな感謝を私はこれを与えた者に対して負うのである。
 また最後に、私がそれにおいて過つところの判断、すなわち意志の作用を喚び起すために神が私と協力するということもまた、私は歎いてはならない。なぜなら、この作用は、それが神の依存する限りにおいては、まったく真であり善であるし、また私がこれを喚び起し得るということは、もしかしたら喚び起し得なかったということよりも、私において或る意味でいっそう大きな完全性であるからである。しかるに、虚偽と罪過との形相的根拠がただそれにのみ存するところの欠存は、神の何らの協力をも必要としない、それは何ら実在的なものではなく、そしてもしその原因として神に関係させられるならば、それは欠存と言わるべきではなく、かえってただ否定と言わるべきであるから。なぜなら実に、その明晰かつ判明な知覚を神が私の悟性のうちに置かなかったところのものに対して、同意しもしくは同意しない自由をば神が私に与えたということは、神における何らの不完全性でもなく、かえって、私がかかる自由を善く使用せず、私の正確に理解しないところのものについて私が判断を下すということは、疑いもなく私における不完全性であるからである。しかしながら、たとい私が自由であること、そして有限な認識を有するものであることはもとのごとくであるにしても、私が決して過たないようにするということは、神によって容易になされ得たと思う。すなわち、もし神が私の悟性に、私のいつか商量するであろうすべてのものの明晰で判明な知覚をば、賦与したか、それともただ私の記憶に、私の明晰にそして判明に理解しない何物についても決して判断してはならないということをば、私が決してこれを忘れ得ないほど堅く刻みつけたか、すれば宜かったわけである。そしてもし私がかくのごときものであるように神によって作られていたならば、私は、私が或る全体としての意味を有する限りにおいては、現在私があるよりもいっそう完全であったろう、ということをば私は容易に理解する。しかしながら、だからといって、宇宙の或る部分は誤謬から免れていないが他の部分は免れているという場合のほうが、すべての部分がまったく類似しているという場合よりも、宇宙という全体のうちには或る意味でいっそう大きな完全性が存するはずであるということを、私は否定し得ない。そして神は私が世界においてすべてのうち最も主要であり最も完全である役を受持つことを欲しなかったからとて、私は訴うべき何らの権利をも有しないのである。
 またさらに、私は上述の第一の仕方で、すなわち商量せらるべきすべてのものの明証的な知覚に依存するところの仕方で、誤謬を絶つことができないにしても、私はもう一つの仕方で、すなわちただ、ものの真理が私に明白でないたびごとに、判断を下すことを差し控えるべきであることを想起するということに依存するところの仕方で、誤謬を絶つことができるのである。なぜなら、たとい私はつねに一つの同じ認識に堅く固執することができないという弱さが私のうちにあることを経験するにしても、しかし私は注意深いそしてしばしば繰り返された省察によって、その必要があるたびごとに、かのことを想起し、そしてかようにして過たない或る習慣を得るようにすることができるのであるから。
 まさにこのことに人間の最大のそして主要な完全性は存するゆえに、私は今日の省察によって、誤謬と虚偽との原因を探究したのであるからして、少からぬものを獲得したと思量する。そして実にこの原因は私が説明したのとは別のものであることができない。なぜなら、判断を下すにあたって意志をば、ただ悟性によって意志に明晰に判明に示されるところのものにのみ及ぶように、制限するたびごとに、私が過つということはまったく生じ得ないからである。すべて明晰で判明な知覚は疑いもなく或るものであり、従って無から出てきたものであり得ず、かえって必然的に神を、私はいう、かの最も完全な、欺瞞者であることと相容れないところの神を、作者として有している、それゆえにかかる知覚は疑いもなく真である。また今日私は単に、決して過たないためには私は何を避くべきであるかを学んだのみでなく、同時にまた真理に達するためには何を為すべきであるかも学んだ。すなわち、もし私がただ私の完全に理解するすべてのものに十分に注意し、そしてこれを私のいっそう不分明にいっそう不明瞭に把捉する余のものから分離するならば、私は確かに真理に達するはずである。かくすることに私はこれからは注意深く努力しよう。
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     省察五

  物質的なものの本質について。そして再び
     神について、神は存在するということ。

 神の属性について、私自身のすなわち私の精神の本性について、私の探究すべき多くのことがなお残っている。しかしこれはおそらく他の機会に再び取り上げられるであろう。今は(真理に達するためには私は何を避くべきでありまた何を為すべきであるかに気づいた後)、過ぐる数日私の陥っていた懐疑から抜け出すことに努めるということ、そして物質的なものについて何か確実なものを得ることができるかどうかを見るということ、よりも緊要なことはないと思われる。
 しかも、何かかかる物質的なものが私の外に存在するかどうかを調べるに先立って、私はこのものの観念をば、それが私の思惟のうちにある限りにおいて、考察し、そしていったいそのうちのどれが判明であり、どれが不分明であるかを見なくてはならない。
 言うまでもなく私は量を判明に想像する、これを哲学者たちは普通に連続的なものと称している、すなわちこの量の、あるいはむしろ定量を有するものの、長さ、広さ及び深さにおける延長を判明に想像する。このうちにおいて私は種々の部分を数える、これらの部分に私は各種の大きさ、形体、位置、及び場所の運動を属せしめ、またこれらの運動に各種の特徴を属せしめる。
 また、単にこれらのものが、かように一般的に観られた場合、私にまったく知られていて分明であるのみではなく、さらにまた私は、注意するならば、形体について、数について、運動について、及びこれに類するものについて、無数の特殊的なものを知覚するのであって、その真理は極めて明瞭であり、また極めて私の本性に適合しているので、それを私が初めて発見するとき、或る新しいことを学ぶというよりはむしろすでに私が知っていたことを想起するかのごとくに思われる、言い換えると、つとに確かに私のうちに存したが以前にはそれに精神の眼を向わせなかったところのものに、私が初めて注意するかのごとくに思われるのである。
 そしてここに最も注目すべきことと私の考えるのは、たとい私の外にたぶんどこにも存在しないにしても、無であるとは言われ得ない或るものの無数の観念をば私が私のところで発見するということである。かかるものは、たとい私によって或る意味で随意に思惟せられるとはいえ、私によって構像せられるのではなく、かえって自己の真にして不変なる本性を有しているのである。かくて、例えば、私が三角形を想像するとき、たぶんかような形体は私の思惟の外に世界のうちどこにも存在せず、またかつて存在しなかったにしても、それには確かにそれの或る限定せられた本性、すなわち本質、すなわち形相があるのであって、これは不変にして永遠であり、私によって構像せられたものではなく、また私の精神に依存するものでもない。このことは、この三角形について種々の固有性が、すなわち、その三つの角は二直角に等しいということ、その最も大きな角に最も大きな辺が対するということ、及びこれに類することが、論証せられ得ることから明かである。これらの固有性は、たとい以前に私が三角形を想像したときには決して思惟しなかったにしても、今は欲するにせよ欲しないにせよ私の明晰に認知するところであり、従って私によって構像せられたものではない。
 なおまた、私はもちろん三角形の形体を有する物体をときどき見たのであるからして、この三角形の観念はおそらく外のものから感覚器官を介して私にやって来たのであろうと言っても、ことがらには関係がないのである。なぜなら私は、いつか感覚を介して私のうちに忍び込んだのではないかという疑いの何らあり得ないところの他の無数の形体を考え出すことができ、しかもこれについて、三角形についての場合にも劣らず、種々の固有性を論証することができるから。これらの固有性はすべて、実に私によって明晰に認識せられるからして、確かに真である、従ってまた或るものであり、純粋な無ではない。というのは、すべて真であるものは或るものであることは明かであり、また私が明晰に認識するすべてのものは真であることを私は既に十分に論証したのであるから。そしてまたたとい私がこれを論証しなかったにしても、少くとも私がそれを明晰に知覚する限りは、いずれにせよこのものに同意せざるを得ないということは、確かに私の精神の本性である。また私は、私がつねに、これより先、感覚の対象にはなはだしく執着していた時にさえも、この種の真理、すなわち形体とか、数とか、また算術もしくは幾何、あるいは一般に純粋なそして抽象的な数学に属する他のものについて、私が明証的に認知したところの真理をば、あらゆるもののうち最も確実なものと看做したということを想起するのである。
 ところで今、もし単に、私が或るものの観念を私の思惟から引き出してくることができるということから、このものに属すると私が明晰かつ判明に知覚する一切は、実際にこのものに属するということが帰結するとすれば、そこからまた神の存在を証明する論証を得ることができないであろうか。確かに私は神の観念を、すなわちこの上なく完全な実有の観念をば、何らかの形体または数の観念に劣らず、私のうちに発見する。また私は、つねに存在するということが、神の本性に属することをば、或る形体または数について私の論証するものがこの形体または数の本性にまた属することに劣らず、明晰かつ判明に理解する。従って、たとい過ぐる数日私の省察した一切が真でなかったにしても、神の存在は私のうちにこれまで数学上の真理があったのと少くとも同じ程度の確実性にあるのでなくてはならなかったであろう。
 もっとも、このことはたしかに、一見してはまったく分明ではなく、かえって或る詭弁の観を呈している。なぜなら、私は他のすべてのものにおいて存在を本質から区別することに慣れているゆえに、神の存在もまた神の本質から切り離されることができ、そしてかようにして神は存在しないものとして思惟せられることができる、と私は容易に自分を説得するからである。しかしながらいっそう注意深く考察するとき、神の存在が神の本質から分離せられ得ないことは、三角形の本質からその三つの角の大きさが二直角に等しいということが分離せられ得ず、あるいは山の観念から谷の観念が分離せられ得ないのと同じであることが明白になるのである。それゆえに、存在を欠いている(すなわち或る完全性を欠いている)神(すなわちこの上なく完全な実有)を思惟することは、谷を欠いている山を思惟することと同じく、矛盾である。
 けれども、私はもちろん谷なしに山を思惟し得ないごとく、存在するものとしてでなければ神を思惟し得ないにしても、しかし確実に、私が山を谷とともに思惟するということから、だからといって何らかの山が世界のうちに有るということは帰結しないごとく、私が神を存在するものとして思惟するということから、だからといって神が存在するということは帰結しないと思われるのである。というのは、私の思惟はものに対して何らの必然性をも賦課しないのであるから。また、たといいかなる馬も翼を有しないにしても、翼のある馬を想像することができるのと同じように、たといいかなる神も存在しないにしても、私はたぶん神に対して存在を構像することができるであろうから。
 否、詭弁はここにこそ潜んでいる。なぜなら、谷と共にでなければ山を思惟し得ないということからは、どこかに山と谷とが存在するということは帰結しないで、かえってただ、山と谷とは、それが存在するにせよ存在しないにせよ、互いに切り離され得ないということが帰結するのみであるが、しかし、存在するものとしてでなければ神を思惟し得ないということからは、存在は神から分離し得ないものであるということ、従って神は実際に存在するということが帰結するからである。私の思惟がこれをこのようにするというわけではない、すなわち何らかのものに或る必然性を賦課するというわけではない、かえって反対に、ものそのものの、すなわち神の存在の、必然性が、これをこのように思惟するように私を決定するからである。というのは、馬をば翼と共にでも翼なしにでも想像することが私にとって自由であるごとく、神をば存在を離れて(すなわちこの上なく完全な実有をば最大の完全性を離れて)思惟することは私にとって自由であるのではないから。
 なおまたここに、ひとは次のように言ってはならぬ、すなわち、神は一切の完全性を有すると私が措定した後においては、存在は実に完全性のうちの一つであるからして、たしかに神を存在するものとして私が措定すべきことは必然的であるが、しかし第一の措定は必然的なものではなかった、あたかもすべての四辺形は円に内接すると考えることは必然的ではなく、かえって私がこれをこのように考えると措定すれば、私は必然的に菱形は円に内接すると認めねばならないであろうが、これはしかし明かに偽である、ように、と。なぜというに、たといいつか神について私が思惟するに至ることは必然的ではないにしても、しかし第一のかつ最高の実有について思惟し、そして彼の観念をいわば私の精神の宝庫から引き出すことが起るたびごとに、私が彼にすべての完全性をば、たといその際私はそのすべてを数え上げず、またその箇々のものに注意しないにしても、属せしめるべきことは必然的であって、この必然性はまったく、後に、存在は完全性であることに私が気づくとき、私をして正当に、第一のかつ最高の実有は存在すると結論せしめるに十分であるからである。これはあたかも、私が何らかの三角形をいつか想像すべきことは必然的ではないが、しかし私が単に三つの角を有する直線で囲まれた図形を考察しようと欲するたびごとに、私がこの図形に、その三つの角は二直角よりも大きくないということを、たといその際私はまさにこのことに注意しないにしても、正当に推論せしめるところのものをば属せしめるべきことは必然的である、のと同様である。しかるに、いったいどのような図形が円に内接せしめられるかを私が考査するときには、すべての四辺形はこれに数えられると私が考えることは決して必然的ではない。否、私が明晰かつ判明に理解するものでなければ何ものも認容しようと欲しない限りは、私はかかるものを構像することさえ決してできないのである。従って、この種の偽の措定と私に生具する真の観念との間には大きな差異がある、そして後者の第一のかつ主要なものは神の観念である。なぜなら、実に、私は多くの仕方で、この観念が何か構像せられたもの、私の思惟に依存するもの、ではなく、かえって真にして不変なる本性のかたどりであることを理解するからである。すなわち、まず第一に、ただ神を除いて、その本質に存在が属するところのいかなる他のものも私によって考え出されることができないゆえに。次に、私は二つまたはそれ以上多数のこの種の神を理解することができないゆえに。そして、今かかる神が一つ存在すると措定すれば、彼は永遠からこのかた存在したし、また永遠に向って存続するであろうということが必然的であるのを私は明かに見るゆえに。そして最後に、私は神のうちに、その何ものも私によって引き去られることも変ぜられることもできないところの多くの他のものを知覚するゆえに。
 しかしともかく、私が結局どのような証明の根拠を使用するにしても、つねにこのこと、すなわちただ私が明晰かつ判明に知覚するもののみが私をまったく説得するということ、に帰著するのである。そしてたしかに、このように私が知覚するもののうち、或るものは何人にも容易にわかるにしても、他のものはしかしいっそう近く観察し注意深く研究する者によってでないと発見せられないが、しかし発見せられた後には、後者も前者に劣らず確実なものと思量せられるのである。例えば、直角三角形において、底辺上の正方形は他の二辺上の正方形の和に等しいということは、かかる底辺はこの三角形の最も大きな角に対するということほど容易にわからないにしても、ひとたび洞見せられた後には、後者に劣らず信じられるのである。ところで神について言えば、確かに、もし私が先入見によって蔽われていなかったならば、そしてもし私の思惟が感覚的なものの像によってまったく占められていなかったならば、私は何ものをも、神より先に、またはいっそう容易に、認知しなかったであろう。なぜなら、最高の実有があるということ、すなわちただそのもののみの本質に存在が属するところの神が存在するということよりも、何がいっそう、おのずから明かであるであろうか。
 そして、まさにこのことを知覚するために注意深い考察が私に必要だったとはいえ、今や私は単にこのことについて、他の最も確実と思われるすべてのことについてと同等に、確かであるのみでなく、さらにまた私は余のものの確実性がまさにこのことに、これを離れては何ものも決して完全に知られ得ないというように、懸っていることに気づくのである。
 すなわち、たとい私は、何らかのものを極めて明晰かつ判明に知覚する間は、これを真であると信ぜざるを得ないがごとき本性を有するにしても、しかしまた私は、精神の眼をつねに同じものに、これを明晰に知覚するために、定著し得ないごとき本性をも有するゆえに、しばしば以前に下した判断の記憶が蘇ってくる、そして、どういうわけでそのものをかように私が判断したかの根拠に十分に注意しないときには、他の根拠が持ち出されることができ、この根拠は私をして、もし私が神を知らなかったならば、容易に私の意見を捨てさせるであろう、そしてかようにして私は何ものについてもかつて真にして確実なる知識を有することなく、ただ漠然とした変り易い意見を有するにすぎないであろう。かようにして、例えば、私が三角形の本性を考察するとき、たしかに私には、もちろん私は幾何学の原理にいくらか通じているので、その三つの角が二直角に等しいということは極めて明証的に認められ、また私は、私がその論証に注意する間は、このことは真であると信ぜざるを得ないが、しかし私が精神の眼をこの論証から転じるや否や直ちに、たとい私はなおこれを極めて明晰に洞見したことを想起するにしても、もし実際私が神を知らなかったならば、このことは真であるかどうかを私が疑うようになるということは容易に起り得るのである。というのは私は、私が自然によって、極めて明証的に知覚すると私の考えるものにおいて時々過つがごときものとして作られているということをば、とりわけ後になって他の根拠にとって偽であると判断するに至らしめられたところの多くのものをしばしば真にして確実なるものと看做したということを想起するときには、自分に説得することができるから。
 しかるに私が神は有ると知覚した後には、――同時にまた私は余のすべてのものが神に懸っていること、また神は欺瞞者ではないことをも理解し、そしてそこから私の明晰にかつ判明に知覚するすべてのものは必然的に真であると論決したゆえに、――たとい私がどのようなわけでこのことは真であると判断したかの根拠に十分に注意しないにしても、ただ単に私がこのことを明晰かつ判明に洞見したことを想起するならば、私をして疑うようにさせるいかなる反対の根拠も持ち出され得ず、かえって私はこのことについて真にして確実なる知識を有するのである。否、単にこのことについてのみでなく、また私がかつて論証したと記憶するところの余のすべてのものについて、例えば幾何学に関すること及びこれに類するものについても、さうである。というのは、今やいかなる反対の根拠が私に対して持ち出されるであろうか。私がしばしば過つがごときものとして作られているということででもあろうか。しかし既に私は、私が分明に理解するものにおいては過ち得ないことを知っている。それとも私が後になって偽であるとわかったところの多くのものを他の時には真にして確実なるものと看做したということででもあろうか。しかしながら私はかくのごときものの何ものも明晰かつ判明に知覚したのではなく、かえって私はおそらく、真理のこの規則を知らなかったために、後になってそんなに堅固なものでないことを発見したところの他の原因によって信じたのである。しからば、ひとはなお何を言おうとするか。私はおそらく夢みているのだ(少し前に私が自分に反対して言ったように)、すなわち、私が今思惟するすべてのものは眠っているときに浮んでくるものより以上に真ではないのだ、とでも言うであろうか。否このこともまた何らことがらを変じない。なぜなら確かに、たとい私は夢みているにしても、もし何らかのものが私の悟性に明証的であるならば、このものはまったく真であるから。
 そしてかようにして私は一切の知識の確実性と真理性とがもっぱら真なる神の認識に懸っていることを明かに見るのである、従って、私が神を知らなかった以前は、私は他のいかなるものについても何ものも完全に知ることができなかったであろう。しかるに今や私には、一方神そのもの及び他の悟性的なものについて、他方また純粋数学の対象であるところの一切の物体的本性について、無数のものが明かに知られているもの、確実なものであり得るのである。
[#改丁]

     省察六

  物質的なものの存在並びに精神と身体との実在的な区別について。

 なお残っているのは、物質的なものが存在するかどうかを検討することである。そしてたしかに私は既に少くとも、それが、純粋数学の対象である限りにおいては、存在し得ることを知っている、たしかに私はそれをかかるものとしては明晰かつ判明に知覚するのであるから。なぜなら、神が私のこのように知覚し能うすべてのものを作り出す力を有することは疑われないことであり、また私は、どのようなものでも神によって、それを私が判明に知覚することは矛盾であるという理由によるほかは、決して作られ得ぬことはない、と判断したからである。さらに、私が物質的なものにかかずらう場合にそれを用いるのを私が経験するところの想像の能力からして、かかる物質的なものは存在するということが帰結するように思われる。というのは、想像力とはいったい何であるかをいっそう注意深く考察するとき、それは認識能力にまざまざと現前するところの、従って存在するところの物体に対する認識能力の或る適用以外のなにものでもないことがわかるから。
 このことが明瞭になるように、私はまず想像力と純粋な悟性作用との間に存する差異を検討する。言うまでもなく、例えば、私が三角形を想像するとき、私は単にそれが三つの線によって囲まれた図形であることを理解するのみでなく、同時にまたこれらの三つの線をあたかも精神の眼に現前するもののごとくに直観するのであって、そしてこれが想像すると私の称するところのものなのである。しかるにもし私が千角形について思惟しようと欲するならば、もちろん私は、三角形が三辺から成る図形であることを理解するのと同様に、それが千辺から成る図形であることをよく理解するが、しかし私はこの千辺を三辺におけると同様に想像すること、すなわち、あたかも精神の眼に現前するもののごとくに直観することはできないのである。また、たといそのとき、私が物体的なものについて思惟するたびごとに、つねに何ものかを想像する習慣によって、おそらく何らかの図形を不分明に自分のうちに表現するにしても、それがしかし千角形でないことは明かである。なぜならそれは、もし私が万角形について、あるいは他のどのようなはなはだ多くの辺を有する図形についてでも、思惟するならば、そのときにまた私が自分のうちに表現する図形と何ら異なるところがないし、またそれは、千角形を他の多角形から異ならせるところの固有性を認知するに何らの助けともならないからである。しかるにもし問題が五角形についてであるならば、私はたしかにこの図形をば、千角の図形と同じように、想像力の助けなしに理解し得るが、しかしまたこれをば、言うまでもなく精神の眼をその五つの辺に、同時にまたこの辺によって囲まれた面積に向けることによって、想像し得るのである。そしてここに私は、想像するためには心の或る特殊の緊張が、すなわち理解するためには私の使わないような緊張が、私に必要であることを明かに認めるのであって、この心の新しい緊張は、想像力と純粋な悟性作用との間の差異を明晰に示している。
 これに加えるに、私のうちにあるところのこの想像の力は、それが理解の力と異なるに応じて、私自身の本質にとって、言い換えると私の精神の本質にとって必要とせられぬ、と私は考える。なぜなら、たといそれが私に存しなくても、疑いもなく私はそれにもかかわらず私が現在あるのと同一のものにとどまるであろうから。そしてそこから、それが私とは別の或るものに懸っているということが帰結するように思われる。しかも、もし何らかの物体が存在していて、精神がこれをいわば観察するために随意に自己をこれに向け得るというように、これに精神が結合せられているならば、まさにこのことによって私が物体的なものを想像するということは生じ得ること、従って、この思惟の仕方が純粋な悟性作用と異なるのはただ、精神は、理解するときには、或る仕方で自己を自己自身に向わせ、そして精神そのものに内在する観念の或るものを顧るが、しかるに想像するときには、自己を物体に向わせ、そしてそのうちに、自己によって思惟せられた、あるいは感覚によって知覚せられた観念に一致する或るものを直観する、ということに存すること、を私は容易に理解する。私は言う、もしたしかに物体が存在するならば、想像力がこのようにして成立し得ることを私は容易に理解する、と。そして想像力を説明するにいかなる他の同等に好都合な仕方も心に浮ばないゆえに、私は蓋然的にそこから、物体は存在する、と推測する。しかしそれは単に蓋然的である。そして、たとい私が厳密にすべてのものを調べても、私の想像力のうちに私が発見するところの物体的本性の判明な観念からしては、何らかの物体が存在することをば必然的に結論するいかなる論拠も取り出され得ないということを私は見るのである。
 しかるに私は、純粋数学の対象であるところのこの物体的本性のほかに、どれもこれほど判明にではないが、他の多くのものを、例えば、色、音、味、苦痛、及びこれに類するものを、想像するのを慣わしとしている。そして私はこれらのものをいっそうよく感覚によって知覚し、これらのものは感覚から記憶の助けを藉りて想像力に達したと思われるゆえに、これらのものについていっそう適切に論じるためには、同時にまた感覚についても論じなければならず、そして私が感覚と称するこの思惟の仕方によって知覚せられるところのものからして、物体的なものの存在を証すべき何らかの確実な論拠を得ることができるかどうかを見なければならぬ。
 そしてもちろんまず第一に、私はここで、以前に、感覚によって知覚せられたものとして、真であると私の思ったものはいったい何であるか、またいかなる理由で私はそれをそう思ったのか、を自分に想い起してみよう。次にまた、どういうわけで私はその同じものに後になって疑いをいれるに至ったかの理由を検討してみよう。そして最後に、現在そのものについて私は何を信ずべきであるかを考察してみよう。
 かようにしてまず第一に私は、私がいわば私の部分あるいはおそらくいわば私の全体とさえ看做したこの身体を構成するところの、頭、手、足、及びその他の器官を有することを感覚した。また私は、この身体が他の多くの物体の間に介在し、これらの物体から、あるいは都合好く、あるいは都合悪く、種々の仕方で影響せられ得ることを感覚した、そして私はこの都合好いものを或る快楽の感覚によって、また都合悪いものを苦痛の感覚によって量ったのである。なおまた、苦痛と快楽とのほか、私はまた私のうちに飢、渇、及びこの種の欲望を、同じくまた歓びへの、悲しみへの、怒りへの、或る身体的傾向性及び他のこれに類する情念を感覚した。そして外においては、物体の延長、及び形体、及び運動のほか、私はまた物体において堅さ、熱、及び他の触覚的性質を感覚した。さらにまた私は光、及び色、及び香、及び味、及び音を感覚し、これらのものの様々の変化によって私は天、地、海、及びその他の物体を相互に区別したのである。そして実に、私の思惟に現われたところのこれらすべての性質の観念――そしてただこれらの観念のみを私は本来かつ直接に感覚したのであるが――によって見れば、私が私の思惟とはまったく別の或るものを、すなわちこれらの観念のそこから出てきたところの物体を感覚すると考えたのは、理由のないことではなかった。というのは、私はこれらの観念が何ら私の同意なしに私にやってくることを経験した、従って、もし対象が感覚器官に現前していなかったならば、私はこれを感覚しようと欲しても感覚し得なかったし、また現前していたときには、感覚すまいと欲しても感覚せざるを得なかったからである。また、感覚によって知覚せられた観念は、自分であらかじめ知って意識的に省察することにおいて私が作り出した観念のどれよりも、あるいは私の記憶に刻印せられたものとして私が認めた観念のどれよりも、遥かに多くの生気があって明瞭であり、またそれ自身の仕方でいっそう判明でさえあったから、これらの観念が私自身から出てくるということはあり得ないように思われた。かようにして、これらの観念は、或る他のものから私にやってきたと考えるほかなかったのである。そして私はかかるものについて、まさにこれらの観念からのほか、他のどこからも知識を得なかったゆえに、かかるものがこれらの観念に類似しているというよりほかの考えは私の心に浮かび得なかったのである。なおまた私は、私が以前に理性よりもむしろ感覚を使用したことを想い起したし、また自分で作り出した観念が感覚によって知覚した観念ほど明瞭なものでなく、そして前者の多くが後者の部分から構成せられていることを見たゆえに、私は、私がまず感覚のうちに有しなかったところのいかなる観念も私はまったく悟性のうちに有しないということをば、容易に自分に説得したのである。さらにまた、私が或る特殊の権利をもって私のものと称したところのこの身体は他のいずれの物体よりもいっそう多く私に属すると私が信じたのは理由のないことではなかった。なぜというに、私は身体からは、その他の物体からのように、決して切り離され得なかったし、また私はすべての欲望や情念を身体のうちにかつ身体のために感覚したし、そして最後に私は苦痛及び快楽のくすぐりを身体の部分において、身体の外に横たわる他の物体においてではなく、認めたからである。しかし何故に、この何か知らない苦痛の感覚から心の或る悲しみが生じてくるのか、また快いくすぐりの感覚から或る悦びが生じてくるのか、あるいは何故に、私が飢えと呼ぶこの何か知らない腹部のいらだちは私に食物を取ることについて忠告し、咽喉の乾きはしかし飲むことについて忠告するのか、その他これに類することが生じるのは何故であるかについては、私は自然によってこのように教えられたからという以外、実に私は他の説明を有しなかった。なぜなら、腹部のいらだちと食物を取ろうとする意志との間には、あるいは苦痛をもたらすものの感覚と、この感覚から出てきた悲しみの意識との間には、いかなる類同も(少くとも私の理解し得たような類同は)まったく存しないからである。むしろ、私が感覚の対象について判断したその他の一切のこともまた、自然によって教えられたように思われたのである。というのは、私は、それら一切のことが私の判断したごとくであるということをば、まさにこのことを証明する何らかの根拠を考量するよりも前に、自分に説得したのであるから。
 しかるにその後多くの経験が、次第次第に、感覚に対して私の有したすべての信頼を毀していった。なぜなら、時々、遠くからは円いものと思われた塔が、近くでは四角なものであることが明かになったことがあったし、またこれらの塔の頂に据えられた非常に大きな彫像が、地上から眺めるときには大きなものと思われなかったことがあった、そして私はかくのごとき他の無数のものにおいて外的感覚の判断が過つことを見つけたから。単に外的感覚の判断のみではない、また内的感覚の判断もそうであった。なぜなら、何が苦痛よりもいっそう内部的であり得るだろうか、しかも私はかつて、脚あるいは腕を切断した人々から、自分ではまだ時々この失くした身体の部分において苦痛を感じるように思われるということを聞いた、従ってまた、私においても、私が身体の或る部分において苦痛を感じるとしても、その部分が私に苦痛を与えるということは、まったく確実ではないように思われたから。これらの上にまた私は最近二つの極めて一般的な疑いの原因を加えたのである。その第一のものは、私の醒めているときに私が感覚すると信じたもので、眠っている間にまたいつか私が感覚すると考え得ないものは決してなく、そして私が睡眠中に感覚すると思われるものは、私の外に横たわるものから私にやってくると私は信じないゆえに、どうしてこのことをむしろ私の醒めているときに感覚すると思われるものについて私が信じるのであるか、私にはわからなかったということであった。もう一つの疑いの原因は、私は私の起原の作者をこれまで知らなかったゆえに、あるいは少くとも知らないと仮定したゆえに、私に極めて真なるものと見えたものにおいてさえ過つというように私が本性上作られているということをば、いかなるものも妨げるものを私は見なかったということであった。そして以前に私が感覚的なものの真理を説得させられたところの理由についていえば、これに対して答えることは困難でなかった。というのは、理性が制止した多くのものに私は自然によって駆り立てられるように思われたので、自然によって教えられるものに多く信頼すべきではないと私は考えたから。またたとい感覚の知覚は私の意志に懸っていないとしても、だからといってそれが私とは別のものから出てくると結論すべきではないと私は考えたから。なぜならおそらく、私にはまだ認識せられていないとはいえ、私自身のうちにはかかる知覚を作り出すものとして何らかの能力があるかもしれないからである。
 しかしながら今、私は私自身並びに私の起原の作者をいっそうよく知り始めるに至って、感覚によって得ると思われるすべてのものは、もちろん軽々しく容認せらるべきではないが、しかしまたそのすべてのものに疑いをいれるべきでもない、と私は考えるのである。
 そしてまず第一に、私が明晰かつ判明に理解するすべてのものは、私が理解する通りのものとして神によって作られ得ることを私は知っているからして、或る一つのものが他のものと異なることが私に確実であるためには、私がその一つのものをば他のものを離れて明晰かつ判明に理解し得るということで十分である。なぜならそのものは少くとも神によって分離して措定せられることができるから。それに、そのものが異なるものと思量せられるためには、いかなる力によってかく分離して措定せられるということが生ずるかは、問題にならない。かようにして、まさにこのこと、すなわち、私は存在することを私が知っているということ、しかも、私は思惟するものであるということのみのほか他の何ものもまったく私の本性すなわち私の本質に属しないことに私が気づいているということから、私の本質はこの一つのこと、すなわち私は思惟するものであるということに存することを、私は正当に結論するのである。そしてたとい私はたぶん(あるいはむしろ、すぐ後に言う通り、確かに)私と極めて密接に結合せられているところの身体を有するにしても、しかし一方では、私が延長を有するものではなくてただ思惟するものである限りにおいて、私は私自身の明晰で判明な観念を有し、そして他方では、物体が思惟するものではなくてただ延長を有するものである限りにおいて、私は物体の判明な観念を有するゆえに、私が私の身体から実際に区別せられたものであるということ、そして私がこの身体なしに存在し得るということは、確かである。
 なおまた私は私のうちに思惟の仕方における或る特殊な能力、すなわち想像の能力や感覚の能力を発見するが、私はこれらの能力なしに全体としての私を明晰かつ判明に理解することができるに反し、逆にこれらの能力は私なしには、言い換えるとこれらの能力がそのうちに内在する思惟的実体なしには理解せられることができない。なぜなら、これらの能力は自己の形相的概念のうちに或る悟性作用を含み、そこから私は、あたかも様態が物から区別せられているごとく、これらの能力が私から区別せられていることを知覚するからである。さらにまた私は或る他の能力、例えば場所を変じる能力、種々の形体をとる能力、その他これに類するものを認知するが、これらの能力もたしかに、前のものと同じく、これらの能力がそのうちに内在する或る実体を離れては理解せられることができず、従ってまたこの実体を離れては存在することができない。むしろこれらの能力が、もしたしかに存在するならば、物体的実体すなわち延長を有する実体に、しかし思惟的実体にではなく、内在しなくてはならぬということは明瞭である。なぜなら、これらの能力の明晰で判明な概念のうちには、もちろん或る延長が含まれるが、しかしいかなる悟性作用もまったく含まれないからである。しかるに今たしかに私のうちには感覚する或る受動的な能力、すなわち感覚的なものの観念を受取り認識する能力があるが、しかし私はこれをば、もし私のうちに、あるいは他のもののうちに、或る能動的な、かかる観念を生産するあるいは実現する能力がまた存在しなかったならば、何ら用い得なかったであろう。しかもこの能動的な能力は実に私自身のうちに存することができない。なぜなら、それはいかなる悟性作用をもまったく予想しないし、またかかる観念は私が協力することなしに、かえってしばしば私の意志に反してさえ生産せられるから。ゆえにそれは私とは別の或る実体のうちに存すると考えるほかはない。そしてこの実体のうちには(既に上に注意したごとく)この能力によって生産せられた観念のうちに客観的に有る一切の実在性が形相的にか優越的にか内在しなくてはならないからして、この実体は物体、すなわちもちろんかかる観念が客観的に含む一切のものを形相的に含むところの物体的本性であるか、それとも神そのものであるか、それともかかる一切のものを優越的に含むところの、物体よりも高貴な或る被造物であるかである。しかるに、神は欺瞞者でないゆえに、神がかかる観念を、直接に自己自身によって私に伝えるのではないこと、またかかる観念の客観的実在性をば形相的にではなく単に優越的に含むところの或る被造物の媒介によって私に伝えるのでもないことは、まったく明白である。なぜなら、神はこれがそのような被造物の媒介によるのであると認知するいかなる能力をもまったく私に与えなかったし、かえって反対にかかる観念が物体的なものから発すると信じる大きな傾向性を私に与えたのであるから、もしかかる観念が物体的なものからよりほかの他のところから発したとしたならば、どういうわけで神が欺瞞者でないことが理解せられ得るのか私にはわからないからである。従って、物体的なものは存在する。しかしおそらくそのすべてはまったく私がそれを感覚によって把捉するがごときものとして存在するのではなかろう、この感覚の把捉は多くの場合極めて不明瞭であり不分明であるから。しかしながら少くともそのうちにおいて私が明晰かつ判明に理解する一切のもの、言い換えると、一般的に見るならば、純粋数学の対象のうちに包括せられる一切のものは、実際に有るのである。
 しかるにその余のものについていえば、それらのものは、例えば、太陽はかくかくの大きさまたは形体のものである、等々のごとく、単に特殊的なものであるか、それとも、例えば、光、音、苦痛、及びこれに類するものののごとく、より少く明晰に理解せられたものであるかであるが、たといそれらのものは極めて疑わしい不確実なものであるにしても、しかもまさにこのこと、すなわち、神は欺瞞者ではないということ、従ってまた私の意見のうちにはいかなる虚偽も、これを訂正する或る能力がまた私のうちに神によって賦与せられている場合のほかは、見出されることがあり得ないということは、それらのものにおいてもまた真理に達し得る確実な希望を私に示すのである。そして実に自然によって教えられるすべてのものが何らかの真理を有するはずであるということは疑い得ないことである。なぜなら、私がいま一般的に見られた自然というのは、神そのもの、それとも神によって制定せられたところの被造物の整序以外の何物でもなく、また特殊的に私の自然というのは、神によって私に賦与せられたすべてのものの集合体以外のものではないからである。
 ところで、私が身体を有すること、すなわち、私が苦痛を感覚するときにはその具合が悪く、そして私が飢えまたは渇きに悩むときには食物あるいは飲料を必要とし、等々といった、身体を有することよりもいっそう明白にこの自然が私に教えることは何もない。従ってまたこのことのうちに或る真理が存することを私は疑うべきではないのである。
 また自然はこれら苦痛、飢え、渇き、等々の感覚によって、あたかも水夫が船のなかにいるごとく私が単に私の身体のなかにいるのみでなく、かえって私がこの身体と極めて密接に結合せられ、そしていわば混合せられていて、かくてこれと或る一体を成していることを教えるのである。というのは、もしそうでないとすれば、身体が傷つけられるとき、私すなわち思惟するもの以外の何物でもない私は、そのために苦痛を感じないはずであり、かえってあたかも水夫が船のなかで何かが毀れるならば視覚によってこれを知覚するごとく、私はこの負傷を純粋な悟性によって知覚するはずであり、また身体が食物あるいは飲料を必要とするとき、私は単純にこのことを明白に理解し、飢えや渇きの不分明な感覚を有しないはずであるからである。なぜなら確かに、これら渇き、飢え、苦痛、等々の感覚は、精神と身体との結合と、いわば混合とから生じた或る不分明な思惟の仕方にほかならないから。
 さらにまた私は自然によって、私の身体のまわりに、その或るものは私にとって追い求むべきものであり、或るものは避け逃るべきものであるところの、他の種々異なる物体が存在することを教えられる。そして確かに、私が極めて異なる色、音、香、味、熱、堅さ、及びこれに類するものを感覚するということから、私は、これら種々に異なる感覚の知覚がそこからやってくる物体のうちに、これらの知覚にたといおそらく類似していないにしても対応している或る異種性が存する、と正当に結論するのである。なおまた、かかる知覚のうち或るものは私にとって快適であり、或るものは不快であるということから、私の身体が、あるいはむしろ、私が身体と精神とから成っている限りにおいて、全体としての私が、そのまわりを取り繞っている物体によって、あるいは都合好く、あるいは都合悪く、種々異なる仕方で影響せられ得るということは、まったく確かである。
 しかしながら、自然が私に教えたもののように見えても、実際は自然からではなく、かえって無思慮に判断する或る習慣から私が受取った他の多くのものがある、従って容易にこれらのものは偽であることが生じ得る。すなわち、その中には私の感覚に影響を与える何ものもまったく現われない一切の空間は真空であるとすること、また、例えば、熱い物体のうちには私のうちにある熱の観念にまったく類似する或るものがあり、白い物体または緑の物体のうちには私の感覚するのと同じ白または緑があり、苦い物体または甘い物体のうちにはこれと同じ味があり、その他の場合にも同様のことがあるとすること、また、星や塔、その他何でも遠く離れた物体は単に私の感覚に現われるのと同じ大きさや形体のものであるとすること、その他この種のことが、それである。しかるに、これらのことがらにおいて私が十分に判明に知覚しない何ものもないようにするためには、私が或ることを自然によって教えられると言うとき、何を本来意味するかをいっそう厳密に定義しなくてはならぬ。すなわち私はここに自然をば、神によって私に賦与せられたすべてのものの集合体という意味よりもいっそう狭い意味に解する。というのは、この集合体のうちにはただ精神のみに属する多くのもの、例えば、為されたことは為されなかったことであることができぬと私が知覚すること、及びその他、自然的な光によって知られているすべてのものが、含まれるが、これらについてはここでは言及しないし、またそのうちにはさらに、ただ物体のみに関する多くのもの、例えば、物体は下に向うということ、及びこれに類すること、が含まれるが、これらについてもまたここでは問題でなく、かえってただ、精神と身体とからの合成体としての私に、神によって賦与せられたもののみが問題なのであるからである。従ってまた、この自然はたしかに、苦痛の感覚をもたらすものを避け逃れ、そして快楽の感覚をもたらすものを追い求むること、及びかかる性質のことを教えるが、しかしこの自然がその上になお、これらの感覚の知覚から、悟性のあらかじめの考査なしに、我々の外に横たわるものについて何かを結論することを我々に教えるということは明かではないのである、なぜなら、かかるものについて真を知るということはただ精神のみに属し、合成体には属しないように思われるから。かようにして、たとい星は私の眼を小さい松明の火よりもいっそう多くは刺戟しないにしても、かかる合成体としての私のうちにはしかし星がこの火よりも大きくないと信ぜしめる何らの実在的なあるいは積極的な傾向性も存せず、かえって私は根拠なしに若い時分からこのように判断したのである。また、たとい火に近づくと私は熱を感覚し、そして余りに近くそれに近づくと私は苦痛を感覚しさえするにしても、実際、火のうちにはこの熱に類似する或るものがあると、またこの苦痛に類似する或るものがあると、私に説得する何らの根拠も存せず、かえってただ、火のうちには我々においてこれらの熱あるいは苦痛の感覚を喚び起す或るもの――それが結局どのようなものであろうとも――があるということを私に説得する根拠が存するに過ぎないのである。さらに、たといまた或る空間のうちに感覚に影響を与える何物も存しないにしても、だからといってこの空間のうちには何らの物体も存しないということは帰結せず、かえって私は、私がこの場合に、また他の非常に多くの場合に、自然の秩序を歪曲するのを慣わしとすることを見るのである。なぜなら実に、感覚の知覚は本来ただ精神に、精神がその部分であるところの合成体にとっていったい何が都合好いものあるいは都合悪いものであるかを指示するために、自然によって与えられており、そしてその限りにおいて十分に明晰で判明であるが、私はこの知覚をあたかも我々の外に横たわる物体の本質がいったい何であるかを直接に弁知するための確実な規則であるかのように使用するのであって、かかる本質についてはしかるにこの知覚は極めて不明瞭にそして不分明にでなければ何物も指示しないからである。
 ところで既に前に私は、どういうわけで、神の善意にもかかわらず、私の判断の偽であることが生ずるのかという理由を十分に洞見した。しかしながらここに、あたかも追い求むべきものあるいは避け逃るべきもののように自然によって私に示されるものそのものに関して、さらにまた私がそのうちにおいて誤謬を発見したと思われる内部感覚に関して、新しい困難が現われる。例えば、ひとが或る食物の快い味に欺かれて、中に隠されている毒をも一緒に取る場合のごときがそれである。しかしもちろん、この場合、彼はただそのうちに快い味が存するものを欲求するように自然によって駆り立てられるのであって、彼がまったく知らない毒を欲求するように駆り立てられるのではない。かくてここから結論せられ得ることは、この自然は全智ではないということ以外の何物でもないのである。そしてこれは驚くべきことではない、なぜなら、人間は制限せられたものであるゆえに、彼には制限せられた完全性しかふさわしくないから。
 しかし実に我々が自然によって駆り立てられるものにおいてさえも我々が過つことは稀ではない。例えば、病気である人々がすぐ後に自分に害をなすべき飲料あるいは食物を欲求する場合のごときがそれである。この場合たぶん、彼等は彼等の自然が頽廃しているために過つのである、と言われることができるであろう。しかしながらこれは困難を除くものではない。なぜなら、病気の人間は健康な人間に劣らず真実に神の被造物であり、従ってまた前者が神から欺くところの自然を授けられているということは後者がそうであるということに劣らず矛盾であると思われるから。そして歯車と錘とから出来ている時計が、悪く作られていて時刻を正しく示さないときにも、あらゆる点で製作者の願いを満足させるときに劣らず正確に、自然のすべての法則を遵守するように、そのようにまた、もし私が人間の身体をば、骨、神経、筋肉、脈官、血液及び皮膚から、たといそのうちに何ら精神が存在しなくともなお、現在そのうちに、意志の命令によってではなく、従って精神によってではなく、行われているのと同じすべての運動を有するように、調整せられ合成せられているところの或る種の機械として見るならば、この身体にとって、もし、例えば、水腫病を患っているならば、かの精神に渇きの感覚をもたらすのをつねとするのと同じ咽喉の乾きに悩み、そしてまたこの乾きによってその精神及びその他の部分が、病気を重くすることになる飲料をとるように、配置せられるということは、この身体のうちに何らかかる欠陥が存しないときに、咽喉の同様の乾きによって自分に有益な飲料をとるように動かされるということと等しく、おそらく自然的であるのを、私は容易に認めるのである。そしてたとい、時計のあらかじめ意図せられた用途を顧るならば、時刻を正しく示さないときには、それは自己の自然からそれていると言うことができるにしても、また同じように、人間の身体の機械をあたかもそのうちにおいて生ずるのをつねとする運動のために調整せられたもののごとくに見るならば、もし、飲料が身体そのものの保存に役立たないときに、その咽喉が乾いているとすれば、それはまた自己の自然からはずれていると考えるにしても、しかし私は自然のこの後の意味が前の意味とははなはだ異なることに十分に気づくのである。なぜなら、後の意味での自然は、病気の人間や悪く作られた時計を健康な人間の観念や正しく作られた時計の観念と比較する私の思惟に依存するところの規定以外の何物でもなく、そしてそれは、それについて語られるものに対して外面的な規定であり、しかるに前の意味においては、自然というものは、実際にもののうちに見出される或るもの、従って或る真理を有するあるものであるからである。
 しかしながら確かに、水腫病を患っている身体について見るならば、飲料を必要としないのに渇いた咽喉を有するということから、その自然は頽廃していると言われるとき、それは単に外面的な規定であるにしても、しかし合成体、すなわちかかる身体と合一せる精神について見るならば、飲料が自分に害をするであろうときに渇くということは、単なる規定ではなく、かえって自然の真の誤謬である。従ってここに追求すべく残っているのは、いかにして神の善意はかように解せられた自然が欺くものであることを妨げないのであるか、ということである。
 ところで私はここにまず第一に、精神と身体との間には、身体は自己の本性上つねに可分的であり、しかるに精神はまったく不可分的であるという点において、大きな差異が存することを認めるのである。というのは実に、私が後者、すなわち単に思惟するものである限りにおける私自身を考察するとき、私は私のうちに何らの部分をも区別することができず、かえって私は私がまったく一にして全体的なものであることを理解するからである。そしてたとい全体の精神が全体の身体に結合せられているかのように思われるにせよ、しかし足、あるいは腕、あるいはどのような他の身体の部分を切り離しても、私はそのために何物も精神から取り去られていないことを認識する。なおまた意欲の能力、感覚の能力、理解の能力、等々は、精神の部分と言われることができない、なぜなら、意欲し、感覚し、理解するのは一にして同じ精神であるから。しかるにこれに反して、私が思惟によって容易に部分に分割し、そしてまさにこれによってそれが可分的であることを私の理解しないような物体的ないかなるものも、すなわち延長を有するものも私によって思惟せられることができないのである。この一事は、精神が身体とはまったく異なっていることをば、もしまだ私がこのことを他のところから十分に知らないならば、私に教えるに足りるであろう。
 次に私は、精神が身体のすべての部分からではなく、ただ脳髄から、あるいはおそらくそれのみでなく単に一つの極めて小さい部分、すなわちそこに共通感覚が存すると言われる部分から、直接に影響せられるということを、認めるのである。この部分は、ここで数え上げることを要しない無数の経験の証明するごとく、それが同じ仕方で配置せられるときはつねに、たといその間に身体のその他の部分は種々異なる状態にあることができるにしても、精神に同一のものを示すのである。
 さらに私は、物体のいかなる部分も他のなにほどか遠く隔っている部分によって、たといこのいっそう遠く隔っている部分が何ら動かないにしても、その間に横たわっている部分のうちの何らかのものによってまた同じ仕方で動かされ得るのでないと、動かされ得ないということが、物体の本性であるのを認めるのである。すなわち、例えば、A・B・C・Dなる綱において、その最後の部分Dが引かれる場合、最初の部分Aは、最後の部分Dが動かないままに止まっていて中間の部分のうちの一つBあるいはCが引かれた場合にまたそれが動かされ得るのと別の仕方で動かされないであろう。これと同様の理由によって、私が足の苦痛を感覚する場合、自然学は私に、この感覚は足を通じて拡がっている神経の助けによって生ずるのであって、この神経は、そこから脳髄へ連続的に綱のごとくに延びていて、足のところで引かれるときには、その延びている先の脳髄の内部の部分をまた引き、このうちにおいて、精神をして苦痛をばあたかもそれが足に存在するものであるかのごとくに感覚せしめるように自然によって定められているところの或る一定の運動を惹き起すのである、ということを教えるのである。しかるにこれらの神経は、足から脳髄に達するためには、脛、腿、腰、脊及び頸を経由しなくてはならぬゆえに、たといこれらの神経の足のうちにある部分が触れられなくて、ただ中間の部分の或るものが触れられても、脳髄においては足が傷を受けたときに生ずるのとまったく同じ運動が生じ、そこから必然的に精神は足においてそれが傷を受けたときのと同じ苦痛を感覚するということが起り得るのである。そして同じことが他のどのような感覚についても考えられねばならない。
 最後に私は、直接に精神に影響を与えるところの脳髄の部分において生ずる運動のおのおのは、精神に或る一定の感覚しかもたらさないのであるからして、この場合、この運動が、それのもたらし得るあらゆる感覚のうち、健康な人間の保存に最も多くかつ最もしばしば役立つところのものをもたらすということよりもいっそう善いいかなることも考え出され得ないということを認めるのである。しかるに経験は自然によって我々に賦与せられたすべての感覚がかくのごとき性質のものであることを証している。従ってそのうちには神の力並びに善意を証しない何物もまったく見出されないのである。かようにして、例えば、足のうちにある神経が激しくそして通例に反して動かされるとき、その運動は、脊髄を経て脳髄の内部の部分に達し、そこにおいて精神に或るものを、すなわち苦痛を、あたかも足に存在するもののごとくに、感覚せしめるところの合図を与え、これによって精神は苦痛の原因をば足に害をするものとして自分にできるだけ取り除くように刺戟せられるのである。もっとも、人間の本性は、この脳髄における同じ運動が精神に何か他のものを示すように、すなわちあるいはこの運動そのものを、脳髄にある限りにおいて、あるいは足にある限りにおいて、あるいは両者の中間の場所のうちのどこかにある限りにおいて、示すように、あるいは最後に何かもっと他のものを示すように、神によって仕組まれることができたであろう。しかしながらこれらの他のいずれのものも身体の保存に右にいったものと同等に役立たなかったであろう。同じように、我々が飲料を必要とするとき、これによって或る種の乾きが咽喉に起り、その神経を動かし、そしてこの神経を介して脳髄の内部を動かし、そしてこの運動は精神に渇きの感覚を生ぜしめる。なぜなら、この全体のことがらにおいて、健康状態の維持のためには我々は飲料を必要とすることを知るということよりも、我々にとっていっそう有用なことは何もないのであるから。そしてその他の場合についても同様である。
 これらのことから、神の広大無辺なる善意にもかかわらず、精神と身体とから合成せられたものとしての人間の本性が、時には欺くものであらざるを得ないことは、まったく明白である。というのは、もし或る原因が、足においてではなく、神経が足からそこを経て脳髄へ拡がっている部分のうちのどこかにおいて、あるいは脳髄そのものにおいてさえも、足が傷を受けたときに惹き起されるのを常とするのとまったく同じ運動を惹き起すならば、苦痛はあたかも足にあるもののごとくに感覚せられ、かくして感覚は自然的に欺かれるから。なぜなら、この脳髄における同じ運動はつねに同じ感覚をしか精神にもたらすことができず、そしてこの運動は他のところに存在する他の原因によってよりも足を傷つける原因によって遥かにしばしば惹き起されるのをつねとするゆえに、この運動が他の部分の苦痛よりもむしろ足の苦痛を精神につねに示すということは、理に適ったことであるからである。またもし時に咽喉の乾きが、通例のごとく身体の健康に飲料が役立つということからではなく、かえって水腫病において起るごとく、或る反対の原因から惹き起されるならば、それがこの場合に欺くということは、反対に身体が健全な状態にあるときにつねに欺くということよりも、遥かにいっそう善いことである。そしてその他の場合についても同様である。
 ところでこの考察は、単に私の本性が陥り易いすべての誤謬に気づくためにのみでなく、またこれらの誤謬を容易にただしあるいは避け得るために、はなはだ多くの貢献をするのである。なぜなら実に、私はすべての感覚が身体の利益に関することがらについて偽よりも真を遥かにしばしば指示することを知っているし、また私は或る同じものを検査するためにほとんどつねにこれらの感覚の多くを使用することができるし、そしてその上に、現在のものを先行のものと結合するところの記憶や、すでに誤謬のすべての原因を洞見したところの悟性をも使用することができるからして、もはや私は毎日感覚によって私に示されるものが偽でありはしないかと恐れることを要せず、かえって過ぐる日の数々の誇張的な懐疑は、笑に値するものとして、追い払わるべきものであるからである。これはとりわけ私が覚醒から区別しなかったところの夢についての極めて一般的な懐疑がそうである。というのは、私は今、両者の間には、夢に現われるものは決して、醒めているときに起るもののように、生涯の余のすべての活動と記憶によって結び附けられないという点において、非常に大きな差別があることを認めるからである。なぜなら実に、もし何者かが、私の醒めているときに、夢において起るごとく突然に私に現われ、そしてすぐ後に消え失せ、かくしてもちろんこの者がどこから来たのかもどこへ去ったのかもわからなかったならば、私がこの者を真実の人間であると判断するよりもむしろ幽霊、または私の脳裡で作られた幻想であると判断するのは、不当ではないであろうから。しかしながら、それがどこから来たか、どこにあるかという場所、またそれがいつ私にやってきたかという時間を私が判明に認めるところの、そしてそれについての知覚を何らの中断もなしに全生涯の他の時期と私が結び附けるところのものが起るときには、それが夢においてではなく、醒めているときに起っていることは、私にまったく確実である。またかかるものの真理について私は、もし、それを検査するためにすべての感覚、記憶及び悟性を召喚した後に、そのうちのいずれによってもその他のものと矛盾するいかなることも私に知らされないならば、わずかなりとも疑うことを要しないのである。なぜなら、神は欺くものではないということから、かかるものにおいて私は過たないということが一般に帰結するからである。しかしながら行動の必要はつねにかように厳密な検査の余裕を与えないゆえに、人間の生活は特殊的なものに関してしばしば誤謬に陥り易いことを告白しなければならず、そして我々の本性の弱さを承認しなければならないのである。
[#改丁]

   幾何学的な仕方で配列された、
     神の存在及び霊魂と肉体との区別を証明する諸根拠


       定義

 一 思惟(cogitatio)という語によって私は、我々がそれを直接に意識しているというふうに我々のうちにあらゆるものを包括する。かくして意志、悟性、想像力、及び感覚のすべての働きは、思惟である。しかし私は、思惟から帰結されてくるものを除外せんがために、直接に(immediate)という語を附け加えた。例えば、有意運動はたしかに思惟を原理として有するが、それ自身はしかし思惟ではない。
 二 観念(idea)という語によって私は、その直接の知覚によって私がその同じ思惟自身を意識している、おのおのの思惟の形相(forma)を理解する。かくてすなわち私は、私が言うところのものを私が理解しているとき、まさにこのことからその言葉によって表わされたものの観念が私のうちにあることが確かであるのでなくては、言葉によって何ものも表現することができないのである。そしてかよううにして私は想像のうちに描かれた単なる像を観念と呼ぶのではない、否、私はここでかかるものを、それが身体的な想像のうちに、言い換えると脳の或る部分のうちに描かれている限りにおいては、決して観念とは呼ばず、ただそれが脳のその部分に向けられた精神そのものを形作る限りにおいて、観念と呼ぶのである。
 三 観念の客観的実在性(realitas objectiva ideae)ということによって私は観念によって表現されたものの実有性(entitas)を、それが観念のうちにある限りにおいて、理解する。そして同じ仕方で、客観的完全性、あるいは客観的技巧、等々、と言われることができる。というのは、観念の対象のうちにあるもののように我々が知覚するあらゆるものは、観念そのもののうちに客観的にあるのであるから。
 四 同じものは、それが観念の対象のうちに我々がそれを知覚する通りに現われている場合、観念の対象のうちに形相的に(formaliter)あると言われる。また、その通りにではないが、かえってこれを補うことができるほど大きなものである場合、優越的に(eminenter)あると言われる。
 五 我々が知覚する或るもの、言い換えると、その実在的な観念が我々のうちにある或る固有性、あるいは性質、あるいは属性が、それのうちに直接に内在する基体(subjectum)、あるいはそれらを存在せしめるあらゆるもの(res)は、実体(substantia)と呼ばれる。また厳密な意味における実体そのものについて我々は次のごとき観念しか有しない。すなわち、実体とは、我々が知覚するところの或るものが、つまり我々の観念のいずれかのうちに客観的にあるものが、そのうちでは形相的に、もしくは優越的に存在するところのものである。無は何ら実在的な属性を有し得ないことは、自然的な光によって知られているゆえに。
 六 思惟がそれに直接に内在する実体は精神(mens)と呼ばれる。私はここで霊魂(amima)というよりもむしろ精神と言う。霊魂といふ語は両義的であって、しばしば物体的なものに適用されるからである。
 七 場所的延長及び延長を前提する偶有性、例えば形体、位置、場所的運動、などの直接の基体である実体は、物体(corpus)と呼ばれる。しかし精神及び物体と呼ばれるものが、一つの同じ実体であるか、それとも二つの相異なる実体であるかは、後に攷究しなければならないであろう。
 八 この上なく完全であると我々が理解し、そしてそのうちに何らかの欠損あるいは完全性の制限を含む何ものもまったく我々が把捉しない実体は、(Deus)と呼ばれる。
 九 或るものが何らかのものの本性あるいは概念のうちに含まれると、我々が言うとき、そのものがこのものについて真であると、あるいはこのものについて肯定され得ると、言うのと同じである。
 一〇 その一が他を離れて存在し得るとき、二つの実体は実在的に区別されると言われる。

       要請

 第一に、私は、読者が自分の感覚をこれまで信用した根拠がいかに薄弱なものであるか、またその上に築いたすべての判断がいかに不確実なものであるかに注意せられるように、そしてこのことを長い間またしばしば自分の心に思いめぐらし、かくて遂に自分の感覚にもはやあまり多く信頼しない習慣を得られるやうに、要請する。というのはこれは形而上学に関する事がらの確実性を知覚するために必要であると私は判断するから。
 第二に、私は、読者が自分自身の精神並びにその全体の属性を考察せられるように、要請する、これらについては、たとい自分の感覚によってかつて受取ったすべてのものが偽であると仮定しても、疑うことができないことを認められるであろう。そして私は、読者が精神を明晰に知覚し、そしてそれがすべての物体的なものよりも認識するにいっそう容易であると信じる習慣を得るまでは、精神を考察することを止められないように、要請する。
 第三に、それ自身によって知られ、読者が自分において発見するところの命題、例えば、同じものは同時に有ると共にあらぬことはできぬ、また、無はいかなるものの動力因であることも不可能である、及びこれに類する命題を、注意深く考量し、そしてかようにして自然によって自分に賦与されている、しかし感覚の表象が極めてはなはだしく混乱させ不分明にするのをつねとするところの悟性の明瞭さを、純粋に、感覚から解放して、使用するように、私は要請する。なぜならかような仕方で読者にとって後述の諸公理の真理は容易に明かになるであろうから。
 第四に、私は、読者がそのうちには多くの同時に有する属性の複合が含まれるところの本性の観念を検討するように、要請する、すなわち、三角形の本性、正方形のあるいは何か他の図形の本性、さらにまた精神の本性、物体の本性、そして何よりも神あるいはこの上なく完全な実有の本性はかかる性質のものである。そして読者が、かかる本性のうちに含まれることを我々が知覚するところのすべてのものは、実際にそれらのものについて肯定せられ得ることに注意するように、私は要請する。例えば、三角形の本性のうちにはその三つの角は二直形に等しいということが含まれ、また物体すなわち延長を有するもののうちには可分性が(というのはそれを少くとも思惟によって分割し得ないほど小さな延長を有するものを我々は何ら考え得ないから)含まれるゆえに、すべての三角形の三つの角は二直角に等しい、またすべての物体は可分であると言うのは真である。
 第五に、私は、読者がこの上なく完全な実有の本性の観想に長くまた多くとどまるように、要請する、そして中にも、あらゆる他の本性の観念のうちにはたしかに可能的存在が含まれるが、神の観念のうちにはしかし単に可能的存在のみではなく、また実に必然的存在が含まれることを考察するように、要請する。なぜなら、ただこのことから、そして何等まわりくどい議論なしに、神が存在することを読者は認識するであろう、そしてそれは読者にとって、二が偶数であり、あるいは三が奇数であること、及びこれに類することに劣らず、それ自身によって明かであるであろう。というのは、或る人々にはそれ自身によって明かであることがらであるのに、他の人々には長々しい議論によってでないと理解せられないものがあるからである。
 第六に、私は、読者が私の省察のなかで挙げたところの、明晰で判明な知覚のすべての例、さらにまた不明瞭で不分明な知覚のすべての例を熟考することによって、明晰に認識せられるものを不明瞭なものから直別することに慣れるように、要請する。なぜなら、これは規則によってよりも例によっていっそう容易に学ばれるから、そして私はかしこでこのことがらのすべての例を説明したか、あるいは少くとも或る程度触れておいたと思う。
 第七に、そして最期に、私は、読者が明晰に知覚したもののうちには決して何等の虚偽も発見せず、反対にただ不明瞭に把捉したもののうちには偶然によるほか何らの真理も見出さなかったことに注意することによつて、単に感覚の先入見に基づいて、あるいは何か知られていないものを含む仮説に基づいて、純粋な悟性によって明晰にかつ判明に知覚せられるところのものに疑いをいれることは、まったく不合理であるということを考察するように、要請する。なぜなら、かようにして読者は容易に後述の諸公理を真で疑われないものとして認めるであろうから。もっともたしかに、そのうちの多くは、いっそうよく説明せられることができたであろうし、またもし私がいっそう厳密であることを欲したならば、公理としてよりむしろ定理として提示せられねばならなかったであろう。


       公理
        あるいは
         共通概念

 一 何故に存在するかの原因を尋ねられ得ないような何物も存在しない。なぜなら、これは神そのものについて尋ねられ得るから、神は存在するために何らかの原因を必要とするというのではなく、かえって神の本性の無辺性そのものが存在するために何らの原因をも必要としない原因あるいは根拠であるゆえにである。
 二 現在の時は最近接的に先行する時に依存しない、従ってものを維持するためには、それを初めて作り出すためによりもいっそう小さい原因が要求せられるのではない。
 三 いかなるものも、またもののいかなる現実的に存在する完全性も、無(nihil)すなわち存在しないものを、自己の存在の原因として有することができぬ。
 四 或るもののうちに有するいかなる実在性すなわち完全性も、このものの第一のかつ十全的な原因のうちに形相的に、あるいは優越的に存する。
 五 そこからしてまた、我々の観念の客観的実在性は、この同じ実在性をば単に客観的にではなくて形相的に、あるいは優越的に含むところの原因を必要とするということが、帰結する。そしてこの公理は、ただこの一つのものに、感覚的な並びに非感覚的なあらゆるものの認識が依存するというほど、認められることが必要であることに、注目しなければならない。なぜなら、どこから我々は、例へば、天が存在することを知るのであるか。それを我々が見るゆえにであろうか。しかるにこの視覚は、観念である限りにおいてのほか、精神に触れない、ここに観念と言うのは、精神そのものに内属するものをいうのであって、室想のうちに描かれた像をいふのではない。そしてこの観念に基づいて我々が天は存在すると判断することができるのは、ただ、あらゆる観念は自己の客観的実在性の実在的に存在する原因を有しむければならぬという理由によるのである。そしてこの原因は天そのものであると我々は判断するのである。その他の場合についても同様てある。
 六 実在性の、すなはち実有性の、種々の度がある。なぜなら、実体は偶有性あるいは様態よりもいっそう多くの実在性を有し、また無限な実体は有限な実体よりもいっそう多くの実在性を有するから。従ってまた実体の観念のうちには偶有性の観念のうちによりもいっそう多くの客観的実在性が有し、また無限な実体の観念のうちには有限な実体の観念のうちによりもいっそう多くの客観的実在性が存する。
 七 思惟するものの意志は、たしかに有意的にかつ自由に(なぜならこれは意志の本質に属するのであるから)、しかしそれにもかかわらず謬ることなく、自分に明晰に認識せられた善に赴く。従って、もし自分に欠けている何等かの完全性を知るならば、それを直ちに、もしそれが自分の力の及ぶところにあるならば、自分に与えるであろう。
 八 いっそう大きなことあるいはいっそう困難なことを為し得るものは、またいっそう小さいことをも為し得る。
 九 実体を創造しあるいは維持することは、実体の属性すなわち固有性を創造しあるいは維持することよりも、いっそう大きなことである。しかしながら、既に言ったごとく、同じものを創造することは、それを維持することよりも、いっそう大きなことではない。
 一〇 あらゆるものの観念あるいは概念のうちには存在が含まれる。なぜなら我々は存在するものの相のもとにおいてでなければ何物も把捉し得ないのであるから。もとより、制限せられたものの概念のうちには可能的あるいは偶然的存在が含まれ、しかしこの上なく完全な実有の概念のうちには必然的にして完全な存在が含まれる。


       定理一

神の存在はその本性の単なる考察から認識せられる。

     証明

 或るものが何らかのものの本性あるいは概念のうちに含まれると言うことは、そのものがこのものについて真であると言うことと、同じである(定義九によって)。しかるに神の概念のうちには必然的存在が含まれる(公理一〇によつて)。ゆえに神について、神のうちには必然的存在が存する、あるいは神は存在する、と言うことは真である。
 しかるにこれは、既に上に第六駁論に応えて私が用いたところの三段論法である。そしてその結論は、要請五において言われたよううに、先入見から解放せられている人々に対してはそれ自身によって明かなものであり得る。しかしかような明察に達することは容易でないゆえに、我々は同じことを他の仕方で追求することを試みよう。


       定理二

神の存在は単にその観念が我々のうちにあるということから、ア・ポステリオリに証明せられる。

     証明

 我々の観念のいかなるものの客観的実在性も、この同じ実在性をば単に客観的にではなく、形相的に、あるいは優越的に、含むところの原因を必要とする(公理五によって)。しかるに我々は神の観念を有する(定義二及び八によって)、そしてこの観念の客観的実在性は形相的にも優越的にも我々のうちに含まれない(公理六によって)、またそれは神そのもののうちにのほか他のいかなるもののうちにも含まれることができない(定義八によって)。ゆえに我々のうちにあるところのこの神の観念は、神を原因として必要とする、従って神は存在する(公理三によって)。


       定理三

神の存在はまたその観念を有するところの我々自身が存在するということからも証明せられる。

     証明

 もし私が私自身を維持する力を有するならば、なおさら私はまた私に欠けているところの完全性を私に与える力を有するであろう(公理八及び九によって)。なぜならこれらの完全性は単に実体の属性であり、私はしかるに実体であるから。しかしながら私はこれらの完全性を私に与える力を有しないのである、なぜなら、さもなければ私は既にそれらを有しているであろうから(公理七によって)。ゆえに私は私自身を維持する力を有しない。
 次に、私は、私が存在する間は、もし実に私がその力を有するならば、私自身によって、あるいはその力を有する他のものによって、維持せられるのでなければ、存在することができぬ(公理一及び二によつて)。ところで私は存在するが、しかもまさにいま証明せられたように、私自身を維持する力を有しない。ゆえに私は他のものによって椎持せられる。
 なおまた、私を維持するものは自己のうちに、私のうちにある一切を形相的に、あるいは優越的に、有する(公理四によって)。しかるに私のうちには私に欠けているところの多くの完全性の知覚と同時に神の観念の知覚が存する(定義二及び八によって)。ゆえにまた私を維持するもののうちにも同じ完全性の知覚が存する。
 最後に、この同じものは、自己に欠けているところの完全性の、すなわち自己のうちに形相的にあるいは優越的に有しないところの完全性の、知覚を有し得ない(公理七によって)。なぜなら、既に言われたごとく、このものは私を維持する力を有するからして、なおさらかかる完全性を、もし欠けているならば、自分に与える力を有するであろうから(公理八及び九によって)。しかるにこのものは、いましがた証明せられたように、私に欠けていてただ神のうちに存し得ると私が考えるところのすべての完全性の知覚を有する。ゆえにこのものはそれらの完全性を形相的にあるいは優越的に自己のうちに有し、かくして神である。


       系

神は天と地と及びそのうちに存する一切を創造した。なおまた神は我々が明晰に知覚するあらゆるものを我々がこれを知覚する通りになし得る。

     証明

 このすべては前の定理から明晰に帰結する。すなわちこの定理において神の存在することが、我々のうちにその或る観念の有するすべての完全性が形相的にあるいは優越的にそのうちに存するところの或る者が存在しなくてはならぬということから証明せられた。しかるに我々のうちにはあるいとも大きな力の、すなわちただこの力がそのうちに存するところのものによつて、天と地、等々が創造せられ、また私が可能なものとして理解する他のすべてのものもこの同じものによって作られ得るというほど大きな力の観念が存する。ゆえに神の存在と同時にこのすべてがまた神について証明せられたのである。


       定理四

 精神と身体とは実在的に区別せられる。

     証明

 我々が明晰に知覚するあらゆるものは、神によって、我々がこれを知覚する通りに、作られ得る(前の系によって)。しかるに我々は精神を、言い換えると、思惟する実体をば、物体を離れて、言い換えると、何等かの延長を有する実体を離れて、明晰に知覚する(要請二によって)。また逆に物体をば精神を離れて知覚する(すべての人々が容易に認容するごとく)。ゆえに、少くとも神の力によって、精神は身体なしに存することができ、また身体は精神なしに存することができる。
 ところでいま、その一が他を離れて有し得るところの実体は、実在的に区別せられる(定義一〇によって)。しかるに精神と物体とは実体であり(定義五、六、七によって)、そしてその一は他を離れて存することができる(たったいま証明せられたごとく)。ゆえに精神と身体とは実在的に区別せられる。
 註。私はここで神の力を媒介として使用したが、それは精神を身体から分離するために何らかの異常なカが必要であるからではなく、かえって私は前の諸定理においてただ神についてのみ取扱ったからして、他に使用し得るものを有しなかったゆえである。またいかなる力によつて二つのものが分離せられるかは、両者が実在的に異なっていると我々が認識するためには、無関係である。

底本:「省察」岩波文庫、岩波書店
   1933(昭和8)年12月20日第13刷発行
※原題の副題の「DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.」としました。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「恰も→あたかも 或いは→あるいは 如何→いか (て)戴→いただ 至って→いたって 一層→いっそう 恐らく→おそらく 拘らず→かかわらず 且つ→かつ 嘗て→かつて かも知れ→かもしれ 蓋し→けだし 此処・茲→ここ 如→ごと 毎→ごと 悉く→ことごとく 更に→さらに 然るに→しかるに 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 是非→ぜひ 多分→たぶん 給→たま 何処→どこ 何れ→どれ 乃至→ないし 筈→はず 甚だ→はなはだ 殆ど→ほとんど 先ず→まず 復た→また 間もなく→まもなく (て)見→み 尤も→もっとも 専ら→もっぱら (て)貰→もら 故→ゆえ 僅か→わずか」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付した。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(高柳典子)
2006年1月21日作成
2006年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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