人

布引けい    知栄の少女時代
堤 しず    野村精三
  伸太郎   職人 井上
  栄二    女中 清
  総子    刑事一
  ふみ    刑事二
  章介
  知栄


     第一幕の一

堤家の焼跡。
昭和二十年十月のある夜。

正面右手寄りに、之だけが完全に残った石燈籠。左手に壕舎の屋根、舞台右手寄りに切石が二つ三つ積んである。高台と見えて地平線の空が月明に明るい。
石燈籠の脇に堤けい、向うむきに坐りこんでいる。じっとして動かない。髪に白いものも多く、戦禍をくぐって来た事とて年よりもぐっとふけて見える。
間。
下手から栄二、けいより一二歳上だが之も最近「或る場所」から出て来たのですこしふけて見える、暫くあたりを見廻しているがけいに気がついて……
栄二 あの……。
けい ……。
栄二 ちょっとお伺いしたいのですが。
けい はあ(と云ってちょっとふり向くがすぐ向うむいてしまう)
栄二 並河町六番地と言うのは確かこの辺だったのですね。
けい 六番地はこの辺でしたがネ、みんな焼けっちまいましたよ。
栄二 全くひどいもんですね、一軒残らずって言う感じですが……。
けい 一軒残らずですよ。何処もかしこもきれいさっぱり。残っているのは蔵の壁と金庫と石燈籠。(立上って壕舎の方へ歩き出しながら)どちらをおたずねなんですか。
栄二 いや、もうよしましょう。こう見渡す限りじゃ、わざわざ焼跡を探して歩くまでもありません。大体覚悟して来たんです。(切石に腰を降して煙草を出して火をつける)
けい (壕舎へ入ってしまおうかどうしようかと迷いながら)遠方からでもいらしたのですか。
栄二 三時間ほど前に着いたんですがね、盛岡からです。
けい 東京中の人がみんな田舎へ田舎へと落ちてゆくのにわざわざ田舎から出ていらっしゃる方もあるんですね。(しゃがんでしまう)
栄二 奥さんは一人でここにお住いなんですか。
けい ええ、泥棒が入ったって取られる物は焼けちまってないし、この年寄をどうしようと言う人もないでしょうし、結局気楽な一人住いです。
栄二 お身寄りの方はないんですか。
けい いいえ、身寄りがないことはありません。土浦の方で、農場をやっている姉妹もいますし、京都で商業をやっている姉妹もいて、東京を引き上げて来い来いとやかましく言ってはくれるんですが今更気がねをしながら他人の世話になる気もしませんし、やっぱり長い間住みなれた処と言うものはこんなになっても離れられないんですよ。
栄二 そういうものですかね。
けい それに娘と孫を諏訪の方に疎開させてあるんです。どうせ都会育ちの娘達が田舎に何時いつまでも落ちつけるものでもなし、何時になるか分りませんが其の連中の帰って来る日の為にもと思ってこんな処に根を下しているんです。
栄二 そりゃなかなか大変ですね。しかしこの見渡す限りの焼跡での一人住いじゃ随分心細い様なこともあるでしょうなあ。
けい それはね……強い様なことを言っても女ですもの、過ぎて来た日の事や行末ゆくすえのことを考えて眠れない事もありますよ。あらいやだ、暫く人とおしゃべりをしないもんだから、すっかりいろんな事をしゃべってしまって……。(立ち上って)どら、そろそろ寝るとしようか。御免なさい。
栄二 おやすみなさい。すみませんね引き止めてしまって。
けい いいえ、どうせ何時にねて何時に起きるという身分じゃないんですから。(小屋の後へ廻って戸の様なものをさげて来る。口の中で切れ切れに歌う)かき流せる……筆のあやに……そめし紫色あせじ。(明治二十三年発行小学唱歌集中、才女)
煙草を消して行きかけていた栄二がその声を聞いて立ち止る。
栄二 あの。
けい (歌をやめて)何か。
栄二 今の其の歌は。
けい ふふふふ。何でしょう、今頃こんな歌を思い出すなんて、ずっと昔私が未だ子供の時分に聞きおぼえて未だに忘れないでいるたった一つの歌なんですよ。(そう言って入って行こうとする)
栄二 おけいさん。
けい え。
栄二 (それにはかまわず)するとやっぱりここがあの家だったんだ。そう言えば変り果てた中にも思いだすいろんなものがある。このくつぬぎ石は廻縁まわりえんから庭へ出る時何時も踏んづけたものだった。丸坊主になった松の枝ぶりにもくずれた土蔵の面影にも見おぼえがある。ああ、この石燈籠だけは昔のままだ。するとあの辺に兄貴の部屋があって其の隣が私の部屋だったのだ。そこから廻縁を通ってここにあの部屋があった。おけいさん、貴女あなたが初めてこの家へ入って来たあの部屋があったのだ。
けい (一、二歩栄二に近づいてほとんど息を呑むように)あなたは……栄二さん。
(早い溶暗)
     第一幕の二

明治三十八年正月の夜。
(溶明)
堤家の庭に面した座敷。

外の方で「敵は幾万」と軍歌の声。時々万歳々々の叫び声がつづく。ちょっとした間があって、栄二(次男十九歳)ふみ(次女十六歳)「敵は幾万……」と合唱しながらどんどん入ってくる。
ふみ みんなすっかり夢中のようね。むやみに提灯ちょうちんをふり回してるわ。
栄二 夢中にもなるさ、旅順の陥落は去年の七月から待ってたんだ。何処どこの町内でも三月も前から高張りや小旗の用意をして今日の日を待っている。あんまり何時までも発表がないもので癇癪かんしゃく起して折角造った提灯や旗を燃しちまったなんて話もあるくらいだ。
ふみ まあ、そうすれば旅順が早く落ちるとでも思うのかしら。
栄二 そりゃ知らんよ。お前だって帯がうまく結べないからって鏡を放り投げたりするじゃないか。
ふみ ふふふ。私、思い切って大きな声で歌ってみたいな。何だか胸がどきどきするようよ。
栄二 僕もそうだよ、号外みた時手が震えて止まらなかった。明日の晩、提灯行列に出てみようかな。
ふみ 提灯の灯って近くでみるより遠くからの方がれいね。そんな気しない?
栄二 うちは高台だからなおよくみえるのさ。
ふみ 火の帯、火の波、火の流れ、姿のみえない所から軍歌が地響じひびきのように湧き上ってきて……ほら、又聞える。身体全体を揺り動かされるような気がするわ。万歳、万歳、万歳……。
しず、章介(その弟少し跛足びっこ
章介 勿論もちろん嬉しくないことはありませんよ。私だって、日本人ですからね。ただ少し騒ぎが大袈裟おおげさすぎると思うんです。これで戦争に勝ったというわけじゃないのですよ。
しず それはそうですがねえ。勝った時は勝った時で、又お祝いをすればいいじゃありませんか。旅順が落ちたっていうことはそれだけで、充分およろこびしていいことだと思いますよ。
章介 私達が旅順を占領した時はたった一カ月でした。それでも私は自分の片足を埋めて戦いとったところだと思って有頂天でしたよ。ところがその年の暮には呆気あっけなく遼東半島を清国しんこくに還付している。しかも今度はその、同じ旅順に半年の歳月と何十万の人命をかけているのです。
しず 誰もそうしようと思った人はないのですよ、皆が皆、最善を尽して、こうなるより仕方がなかったのです。
章介 そうですよ。だからこうなった結果より、こうなるより仕方のなかった次第の方を考えるべきだと思いますね。
しず 世間というものはこれでいいのじゃないのですか。誰もが始終世界の歴史について考えているわけにはいきませんもの。
章介 無責任にして健康なる民衆の智恵ですか。姉さんは自分の嬉しい日なもんだから今日は何でも良い方に解釈出来るんでしょう。
しず (笑って)あなたこそ何も、みんなが素直に喜んでいるものを曲ってとらなくてもいいと思いますね。
ふみ 叔父さまはなんでも、人が右っていえば自分は左といわないと気がすまないのよ。
章介 こらこら、そんな憎まれ口をきくともうお嫁に貰ってやらんぞ。
ふみ 結構でございますよだわ。あたしは叔父様のような不真面目な酔っ払いは嫌いなんですもの。
栄二 叔父さん、旅順が陥ちたってことは、戦争に勝ったことにはならないにしても、少くとも勝敗のわかれを決める決戦に勝ったことになるんじゃないのかしら。
章介 いや、戦争というものは一つ一つの戦闘が決戦だよ。一つの決戦が終ればすぐ次の決戦が控えている。此処ここで勝ちさえすれば後はどうでもいいという戦闘もなければ此処で負けたからおしまいだという勝負もないさ。
栄二 すると、今の戦争は、まだまだ続くんでしょうか。
章介 続くとみていいね、去年の十月に浦塩ウラジオ艦隊を破り、今又旅順を落して我が軍は意気大いにあがっているが、ロシヤでは、バルチック艦隊を東洋に回航させるという噂もあるし、陸では沙河に大軍を集めて決戦準備しているという説もある。
栄二 (わくわくして)そうすると、僕が軍服を着るようになるまで、まだ戦争は続くでしょうねきっと。
章介 なんだ、おまえは自分のことを考えて戦争が長くつづけばいいと思っているのか。
栄二 いや。そんなわけじゃないけれど……新聞でみると、アメリカの大統領が金子堅太郎男爵に講和の方策を考えておくようすすめているそうじゃありませんか。そんなに急に講和する様子があるのでしょうか。
章介 そこまでのことは俺達にはわからんがね。しかしたとえば今度の戦争が急にここで終ったとしても、お前達の働かなければならない戦争はまだまだこれからいくつもあるよ。
栄二 そうでしょうか。
章介 というより、これからの日本の生きて行く道というものがすべて戦争だと思わなければ。テオドル・ローズベルトの提議にしてからが、好意的に仲裁の用意があるという程度のものじゃない。戦争をやめなければ貸してある金を返せという、態のいい戦争中止命令だ。何故そんなお節介をするのか。日本がアジアの大陸であまり大勝利を得ると困るからだ。その戦争はどうして起ったかといえば、ロシヤが清国を侵して朝鮮をおどかしたからだ。ヨーロッパやアメリカの国が何か思い立つ度に日本は、戦争をしたり、やめたり、取るべき理由があって取ったものを還したりしなくちゃならんのだ、そりゃ一体どういうわけだい。
しず 章さん、世間が昂奮するのがおかしいなんていってるけど今夜はあなたも随分昂奮しているようですよ。
章介 いや、私が昂奮しているのは提灯行列やお正月の所為せいじゃありません。このアジアの、百年の運動についてですよ。
しず (笑って)おやおや、それじゃまるであなたがその、百年の運命を握ってでもいるようね。
章介 姉さん。あんたの御亭主が支那貿易に目をつけ、三井や三菱に先達って取引をやり出したのは確かに先見の明だと私は感心してるんですがね。その見識が生きるか死ぬかはこれから先にかかっているのですよ。清国の運命はアジアの運命につながっています。その清国の運命に関りを持ち出した堤家の将来は、見方によっては始末におえない厄介な泥沼に足を突込んだようなものですよ。さあ、どうします。
しず お前って人はどうしてそう、次から次へ、寝てる子を起すようなことをいうのだろう。人が気持よく笑っているのを自分も笑ってみていられないのですか。堤洋行の主人は亡くなったけれど、店の仕事は至極満足に行っています。それに二人の息子と二人の娘がいて、れもこれもいい子で私を大事に思っていてくれます。さあどうしますなどという出来事は今のところひとつもありませんよ。
章介 ああ、利巧りこうなようでも女は女だ。共にアジアの形勢を論ずるには足らんな。
しず アジアの形勢は論じなくてもよろしいからいい加減に本気でお嫁さんのことでも論じていただきたいですね。
ふみ ほんとだわ。叔父さまの身の回りのお世話はみんな私とお姉さまにかかってくるんですからね。早くお仕立て物から解放していただきたいと思うわ。
章介 仕立物とアジアの形勢か。どうも君達の話の飛躍的なのには驚く他ないね。
総子(二十一)
総子 あの、叔父様、こちらでお食事なさるんですか。それとも何処か他へお廻りになるんでしょうか。
章介 そうですね。食べて行けと仰言おっしゃれば御馳走になってもよろしいし、他へ廻れと言われれば廻っても悪くないんですがね。
総子 それじゃ困りますわ。食器の都合もありますし、叔父様が召し上るのならお酒のお仕度もしなくちゃならないんですもの。
章介 総子さん、君は仲々家庭的で思いやりがあっていい婦人だ。きっとしあわせになりますよ。
総子 あら、でも私、こういう台所のことするの好きなんですもの。だけど困ってしまうわ。精三さんたらお台所へ入って来て、どうしてもお勝手を手伝って下さるってきかないんですよ。咲やと二人で充分だと、いくらいっても、大丈夫です、大丈夫ですなんて、何が大丈夫なんだかちっともわからないわ。
章介 男が台所へ入って来てお勝手を手伝うといったらそりゃ、私は御亭主になったらこんなにあなたを大事にしますってことさ。
総子 いやだわ、叔父さまったら、だって私はやせていて五尺三寸もあるのに、精三さんたら五尺二寸しかなくって、十八貫もあるんですもの。じゃ叔父様、家で済ましてらっしゃいますね。そのつもりでいますわ。(出てゆく)
章介 ヤレヤレすると今夜もこの家庭団欒だんらんの中で独り盃を含むことになるのかなあ。
しず 何だか物足りなくてお気の毒のようですね。でも、たまには家庭のお料理で食事をした方がいいんじゃないのですか。
章介 私は厭なんですよ。自分が独り者のせいですかね。あなたがたがこんな風ににぎやかににこにこしていると、時々大丈夫ですかって尋ねたくなって困る。
栄二 そりゃ、どういうことですか。
章介 さあ、そう開き直られても困るんだが、人間の幸福だとか平和だとかいうものは一枚の紙の表だけみているようなもんだという気がするのだ。幸福で仲間のたくさんいる人間という物は、それだけ不幸で独りぽっちになる機会が多いんじゃないのかね。
ふみ そうかもしれないわ。でも、叔父さまが何時迄も独り身でいらしたり、お料理屋のお酒を呑んだりなさるのは、叔父さまが戦争に行ってらした間に、澄江おばさまが他所よそへお嫁入りしてしまわれたからだと思うわ。
しず ふみちゃん。
伸太郎(二十二)肖像画の額を抱えて、入って来る。
伸太郎 やあ、此処にいたの。叔父さん、いらっしゃい。
章介 なんだ伸ちゃん。家にいたのか、留守かと思っていた。
伸太郎 これをどうしても今日中に仕上しあげたいと思ったものだから。
章介 ほう、何だい。(近づいておおいをとる、しずと見比べ)なかなかよく出来てるじゃないか。
伸太郎 お母さんの気に入るといいけれど……。
ふみ どらどら。(近づく)
しず 有難う。絵の方がほんものよりよさそうね。
伸太郎 そりゃおまけですよ。毎日辛抱しんぼうしてお相手して下すった。
しず お誕生日のお祝いに私に呉れるというのですよ。
章介 誕生日に物を贈るというのは西洋の習慣ですかね。それとも支那かな。
伸太郎 そりゃどうだかしらないけれど、お父さんは何時でも私達の誕生日には何か下さいましたよ。お父さんがなくなられてから初めてのお母さんの誕生日だから今年は僕達から何かお母さんに上げようって、皆で約束したのです。栄二は何を上げるんだい。
栄二 うん。僕はこれだ。お母さん、笑っちゃいけないよ。
しず (とって)まあ、綺れいなくしだこと。でもお母さんにはちょっと派手すぎるようね。
栄二 そうかな。僕には仲々気に入ってるんだけど。
しず いいのよ。男のお前がこんなところに気をつけてくれて、お母さんはほんとに嬉しいよ、丁度古くから使っていたのが折れてしまったものだから重宝ちょうほうしますよ。
栄二 いやあ。実は、あれは僕がふんづけて折っちまったんです。
章介 なんだい。それなら買って来て返すのは当り前じゃないか。
栄二 でもまあ、気は心ですよ。
ふみ 私のは、品物じゃないのよお母さま。私の一番好きな歌をお母さまの為に歌って上げようと思ってるんです。
栄二 おい、そんなのは贈り物にならないじゃないか。
ふみ だって総子姉さまは今日のお料理をお引受けになったでしょ、一番お得意のことをなさるんですもの。私だって私の一番得意のことをしたいのよ。やっぱり気は心だわ。
しず えええ、結構ですとも、あなたがたがそうして祝ってくれる気持だけでも、どんなに嬉しいかわかりませんよ。お正月で、戦には勝つ、おまけにお誕生日で……こんなに嬉しいことってありませんよ。
野村精三(二十五六)
精三 あの……お食事の仕度がいいそうですからどうぞ……。
しず ああ、それはどうも。精三さんあなた今迄ずっとお勝手にいらしたのですか。
精三 はあ。
しず まあ、そんなこと、総子や咲やに任せておおきになればよろしいのに。男の方がお台所になぞお入りになるものじゃありませんよ。
精三 いや、いいんですよ。私はああいうことが嫌いじゃないんですから。ははは。(照れて入ってゆく)
章介 ここのうちには近くお目出度いことが起りそうですな。
しず ええ、そうだといいと思っているのですがね。総子がどういうつもりでいるんだか。
栄二 でも精三さんて、何だか変な人だな。
章介 どうして、洗濯や料理が自分で出来る御亭主なんてそうざらにないぜ。どうだね、ふみちゃん、ああいうのなら。
ふみ いやよ、私。
章介 叔父さんのような無精者でも厭、精三君のような働き者でもいや、それじゃ君は一体どういう人を旦那様にもちたいのかね。
ふみ どういう人でも駄目だわ。私、音楽学校へ入って声楽の勉強したいんだもの。
章介 へえ、すると紫のはかまで上野の森を自転車で乗り廻す組か。
ふみ そう。幸田延子さんみたいに欧州へ留学させて戴くつもりだわ。そうしたら、叔父さまも荷物持ちくらいに連れて行って上げるわ。
章介 やれやれ。有難い仕合せだが、それ迄俺が生きているかどうか。
ふみ まあにくらしい。(打つ)
しず さあさあ、そんなに大騒ぎしないで、向うへ行きましょう。
伸太郎 それじゃひとつ、ふみ子の歌でも拝聴するか。
章介 結構だね。俺もヨーロッパ見物が出来るかどうかの境目だから。
ふみ だめよ。叔父さまなんかにはもう聞かせないのだから。
章介 はあ。さては大きな口をきいて、少し心配になってきたか。
皆さざめきながら入る。その人々を見送るように庭の石燈籠の影から下げ髪に三尺帯の布引けい、姿をみせ縁の所にちょっとの間立っているが人の気配にすぐ引込む。ふみがばたばたと引き返してきて壁際の戸棚をかき廻して楽譜を持ち出て行く。やや遠くで拍手の音。やがてふみの歌う声。かき流せる筆のあやに……そめし紫……けい、又出て来る。珍しそうに、そろそろと座敷に上りこむ。肖像画の前に立ってみたり、炉の方へ行ってみたりするが先刻栄二が母に贈った櫛が卓の上においてあるのをみると好もしそうに手にとり、髪にさしてみる。栄二入ってくる。
両方で驚く。
栄二 あああ、驚いた。
けい ……今晩は。
栄二 ああ……誰、君。
けい 私……布引けい。
栄二 ふみ子の友達かい。
けい ……い……いいえ。
栄二 それじゃ総子姉さんの?
けい ……そうじゃないわ。
栄二 じゃあ……何しに来たの君……。
けい ……私……私……。
栄二 変な人だな。一体何処から入って来たのさ。
けい あすこの、お庭の木戸が開いてたものだから……。
栄二 ああ、先刻提燈行列を見に出るので開けたんだ。(思い出したように探す)おや、ないぞ、君、知らないか、この辺に貝細工のついた櫛が……。
けい (反射的に頭をおさえる)
栄二 (気がついて)あ、おい。それをどうするんだ。
けい 御免ごめんなさい。御免なさい。私、私、持ってくつもりなんかなかったのよ。ただ、こんな綺れいな櫛自分でさしてみたらどんなにいいだろうと思って……。
栄二 おい。この櫛はお前なんかにささせるつもりで買って来たんじゃないぞ。お母さんに僕が初めて買って来て上げたものだ。なんだって黙って髪にさしたりしたんだこん畜生!
けい だから返すわ。ほら、此処へおくわ。ね、だから御免して。
栄二 今更返したってどうなるもんか。お母さんが使わないうちにお前なんかが使っちまっちゃ、もうお母さんに上げること出来やしないじゃないか。
けい だったら、どうすればいいの。あなたのしろっていうようにするわ。どうすればいいか、教えて。
栄二 どうすればいいか、そんなこと僕にだってわかるもんか。
けい ねええ、私……そんなに器量の悪い方じゃないでしょう。うちのおばさん、私くらいの器量なら新橋や柳橋から芸者に出してもひけをとりゃしないけれど、あんな所は保証人がどうとか、つき合いがどうとかって面倒くさいからそうしないんですって。私、新橋や柳橋の人がどんなに綺れいだか、みたことないから知らないわ。でも時々鏡みて自分でもそんなに悪くないなあ、って思うことあるわ。あなた、そう思わない。
栄二 そんなこと……知るもんか。
けい この間ね、魚屋の新ちゃんが行きちがいに私の手を握ったのよ。新ちゃんて人、八百蔵やおぞうに似てるって、うちの近所じゃお内儀かみさんたちが大騒ぎしてるのよ。私、あんな人好きじゃないわ。魚屋のくせにちょびひげやしてとても気取ってるの。おかしくって……。あんた、女の子の手握ったことあって。
栄二 そ……そんなことないよ。
けい そお、私だって男の人に手なんて、握られたの初めてよ、とても変な気のするものね。身体中の血が、一ぺんにぶくぶくって煮え返るんじゃないかと思うくらいよ。ふふふ。私、新ちゃんを突きとばしてうちへ逃げて帰ったけど、あわてて台所の鉄瓶蹴とばしてしまったわ。うちのおばさん、怒って物さしで私の頬っぺた二十もぶったけど私、痛いとも何とも思わなかったくらいよ。
栄二 おい、そんなに傍によるなよ。お前、どうして僕にそんな話するんだ。
けい あら、あなた、私が怖いの? 何故そんなにおっかなそうな顔するの。(笑って)なにもしやしないわよ。あんたなら、私の手、握ったって、私じっとしててよ。ほら……。(すり寄る)
栄二 こら(つき飛ばして)彼方あっちへ行け!
けい 痛い! (と、どっかにぶっつけたひじをこすっている)
栄二 傍に寄るとぶん殴るぞ!
けい 乱暴ね、あんた。
伸太郎。
伸太郎 栄二、どうしたんだ。大きな声出して。
栄二 兄さん、此奴こいつ、泥棒なんだ。あすこから入って来て、櫛とろうとしたんだ。僕がお母さんに上げる櫛持っていこうとしたんだ。おまわりさん呼んで、警察にわたしてやるんだ。
けい あら、それだけは御免して、後生だから、お巡りさんに渡すのは堪忍して頂戴。ほら櫛はちゃんと此処へ返したじゃありませんか。私、他人の物盗ったことなんて、今迄に一度だってありゃしないのよ。今だって持ってく気なんてまるでなかったのよ。ただ、ちょっと髪にさしてみただけなんですもの。(伸太郎に)ねえ、あなたは私をお巡りさんに渡したりはなさらないわねえ。しないっていって、私、何でもあなたのしろっていうことするから。
伸太郎 まあまあ、君、そうぐんぐん押したら転んじまうよ。
けい 私、お巡りさんに連れていかれると困るのよ。きっとおばさんが呼び出されてくるわ。おばさんの家に帰されて、どんなひどい目に逢うかわからないんですもの。私、おばさんの家、黙って出て来ちゃったのよ。
伸太郎 君は、今、おばさんの家にいるのかい。
けい ええ、おばさん、とても私をひどい目に逢わせるのよ。自分ちにも食べざかりの子供がいるのに厄介者やっかいものの私が食べるもんだから、物要ものいりで物要りで仕方がないっていうのよ。私、坊やのお守りだって、お台所の用だって、おじさんの内職の手伝いだって、何でも厭っていったことないわ。夜なんか十二時より早くねたことないのよ。それでもまだ、私の働きが足りないって怒られるの。私、どうすればいいの。
伸太郎 君のお母さんは、どうしたんだい。
けい 死んじまったの。私を生んだお産の後が悪かったんですって。
伸太郎 それじゃ、君はお母さんてもの知らないの。
けい お母さんの写真、タンスの抽出ひきだしに入っているの見たことあるわ。けど、声をきいた憶えもないし、抱いて貰ったこともないらしいわ。お父さんが、二人分可愛がってくれたからよかったけれど。
伸太郎 そのお父さんはどうしたの。
けい やっぱり死んだの。
伸太郎 病気?
けい ううん。戦争で。
伸太郎 戦争? 今度の?
けい いいえ、前のよ。
伸太郎 それでその後ずうっとおばさんの家で育てられたの。
けい (うなずく)
伸太郎 そんな戦争で働いて死んだ人の子供を、何だってひどい目に合わせるんだ。
けい 知らないわ。きっと私を引き取りたくなかったんでしょう。他に親類がないので、仕方なしに育ててくれたんだもの。
伸太郎 なんてひどい奴だろう。
栄二 ……うん。ひどいね。
三人、一寸考えこんでしまう。又軍歌の声。章介、いい気嫌で入ってくる。後からしず。
章介 どうしたんだ二人共。折角のお祝いの席を外してしまう法があるものか。さあ早く来い。おや、お客様かね。
伸太郎 いや。お客様ってわけじゃないんだけど……。
章介 おいおい隠したって駄目だぞ。こう現場をおさえられてしまってはもう手遅れだ。姉さんあんたはいい子だいい子だなんていっているが、油断もすきもありませんぞ、ちょっと目を離すとこの有様です。
栄二 そうじゃないんだよ。おじさん、この人は僕達まるで知らない……。
章介 こら、まだしらっぱくれるのか。知らない人を座敷に上げて話をしてる奴がどこにある。
伸太郎 いいえ。ほんとうなんです。おじさん、僕達は……この人のお父さんはおじさんと同じように戦争に出て戦死したんです。
章介 お父さんが戦死したからお前達のお客様でないという証拠になるかね。
栄二 ちがうよ。そんなこといってやしませんよ。この人はおばさんの家に引き取られていたんだけど、この家がひどい家なもんで、それで家を出て……。
章介 え? 家を出てどうしたというんだ。お前達の話はまるで現在の状態を説明する材料になっとらんぞ。落第、落第。
しず 章さん。そうお前のように笠にかかって物をいったってわかりゃしませんよ。みんなへどもどして話がごたごたするばかりですよ。(けい、しくしく泣き出す)あなた、なにも泣かなくってもいいんですよ。泣かないでおばさんにわけを話してごらんなさい。え。一体どうしたの。何だってそのおばさんの家を黙って出たりしたんですか。
けい 今日、お昼御飯をたべていてふっと思い出したんです。今日は私の誕生日なんです。お父さんが居たころ、お父さんはいつでもお誕生日には何処かのお料理屋へつれて行ってくれて私を床の間の前へ坐らせました。尾頭付おかしらつきの焼物を注文してお祝いしてくれるんです。お母さんがいないから、お家でご馳走することが出来ない。これで我慢するんだよって……。私、ご馳走なんかちっとも欲しくないんです。ただ、何時迄もひとの家の厄介者で、邪魔っけにされているの、急に我慢が出来なくなってしまったんです。
章介 お前、お父さんの戦死した場所を知ってるかい。
けい よくは知らないけど、大東溝っていうところですって。
章介 大東溝、それじゃ俺達の通って来た所だ。お父さんの名前は何ていうの。
けい 布引勝一。
章介 布引勝一? 知らんな。何ていう隊にいたか。そんなこと知らないかね。
けい 知らないわ。私、まだ小さかったんですもの。
章介 ふむ……姉さん。戦争のおかげで一代に産を成し、あなたのように子供から誕生日を祝って貰う人もあり……同じ戦争で父を失い誕生日に町を彷徨する者もあり……さまざまですね。
間。
けい ねえ。おばさん。後生だから私を、お巡りさんへ渡すのだけは堪忍して頂戴。もう、これからは決して他所の家へ黙って入ったりなんかしませんから……。
しず 大丈夫ですよ。おばさんは、あなたを警察なんか渡しゃしません。ですから早くお家へお帰んなさい。お家じゃきっと心配してらっしゃいますよ。
栄二 家じゃ心配なんかしてないかもしれませんよ。
しず 何を言うのです。家のものがいなくなって心配しないお宅があるものですか。
栄二 だって……その子の家は……。
しず 子供を育てるってことはねえ。育てられた当人が思っているほど、そう簡単なものじゃありませんよ。自分のお腹を痛めた子供を育てるのだって、時には、もうもうどうしていいかわからないほどつらく、情ないことがあるものです。まして、たとえ親類にもせよ、他人の子供を育てて下さったということは、並大抵のことじゃありませんよ。それから又、人ってものは、その辺にごろごろしてる時は邪魔になったり、厄介者に思ったりしていても、さていなくなるとやっぱり惜しいことをした、可哀想なことをした、そういう気になるものですよ。あなたのおばさんにしても今頃はきっとあなたのことを心配してあなたの行先を探してらっしゃるに違いありませんよ。悪いことはいいませんから、もう他所へ行かないでお家へお帰りなさい。ね。
けい (頷いて)帰ります。
しず あ。わかりましたね。よかったよかった。それじゃわき道しないで真直まっすぐに帰えるんですよ。あの誰か送って上げましょうか。
けい いいえ、一人で大丈夫です。
しず そうですか。それじゃ気をつけてね。又お昼にでも暇があったら遊びにいらっしゃい。おばさんのおゆるしをいただいてね。
けい 御免なさい、さようなら。
しず さよなら。気をつけてね。
栄二 おい、待ちたまえ。(と追っかけて)これ、君に上げるよ。(と先刻の櫛を渡す)さ。
けい (黙って受取ってみているが、やがて又しくしく泣き出し、そのまま坐ってしまう)
栄二 君、君、どうしたんだい。
章介 どうしたんだね。え。
けい 私、帰れないんです。帰るところないんです。
しず まあ、どうして? あなた、おばさんのお家を黙って逃げ出して来たんでしょ。
けい 私が抜け出したの、おばさん知ってるんです。私がそうっと裏へ出て木戸をしめようとしたらおばさんが家の中から、大きな声でもう二度と帰ってくるんじゃないよって……。
泣き倒れてしまう。
四人、顔を見合せている。
     第二幕

明治四十二年春。

座敷はすっかり日本間になっている。桃割に結った、けいが、縁の拭き掃除をしている。縁の所に伸太郎がしゃがんで画帖をひろげ、花か何かを写生している。
伸太郎 (それが癖の静かな調子で)われわれは小さい時から漢字というものを習ってきている。同じ漢字を使った清国の文章くらいわけなく読めると、普通に思っているらしいけれど、清国人とつき合う上で一番むずかしいことはこの同じ文字を使っているということなのだよ。同じ日本語を話していても僕の家とお前の家とじゃ、随分家の風も人間の気質も違うように、日本語と清国語とでは言葉の順序もその成立ちもまるで違うのだからね。
けい でも、こちらのようにいつも清国の人とお取引をなすっていらっしゃれば、向うの言葉もよくおわかりになるんでしょう。
伸太郎 さあ、取引ということは結局お互に自分に必要な用だけを足すことだからね。用事が足りたから言葉が分るか、といえばそれはどうだか怪しいものだよ。ひとつの国の言葉がわかるということは、実はその国の文明と人間の特質を会得えとくするということなのだもの。
けい なんですか、そんなむずかしいことは私にはわかりませんわ。お商売をなさるのにそんなこと迄お考えになるのですか。
伸太郎 僕は、取引の役に立たせるために清国語の勉強をさせられたのだが、言葉の勉強が進むにつれて自分が商売にかけてはさっぱり役に立たない人間らしいということがわかってきて困るんだよ。三国志も水滸伝も僕にとってはもう手離すことの出来ないものだし、八大山人はちだいさんじん石濤せきとうの絵についてなら幾らでも話すことがありそうな気がするが、種粕の相場や綿花の収穫については何の意見も方針もない。
けい 私は、こちらのようなお仕事、何だか大変面白そうで先のたのしみもある気がしますわ。この間、栄二さまに波止場へ連れて行っていただきましたの。船から荷物がどんどん積みおろされる所や、引渡しの立合の目の廻るようないそがしさや今迄みたこともない税関の交渉なんか、何もかも生き生きしていて、頭の中へ涼しい風が吹きこんでくるようでしたわ。
伸太郎 女のお前がなんだってあの騒々しい岸壁の景色にわくわくするのか、僕にはわからないなあ。
けい 岸壁の景色ばかりじゃありませんわ。私はお商売の電信を打ちに行ったり、銀行の交換所へ出かけたりすることも大好きですわ。みるもの聞くものが珍らしいせいかもしれません。私はお茶っぴいだからそういう男らしい仕事の方が好きなんですわ、きっと。
伸太郎 僕にはどっちかといえば学校の教師のような仕事がむいているようだ。日本人の生徒に清国語を教えるようなことでもいいし、清国人の子供を集めて日本語や日本の絵の話をしてやるような仕事でもいい。そういう仕事なら僕もほんとにたのしみな気がするのだが……。
総子の声 けいちゃん。けい!
けい はーい。
総子 (出て来て)けいちゃん、お前すまないけれどこれ千駄木の叔父さまの湯上りと肌着、明日るかもしれないのだから今日中洗っておいて頂戴な。肌着の方は手をかけなくちゃいけないかもしれないから今夜にでもちょっとね。
けい はい。
伸太郎 (総子に)自分の頼まれた仕事を他人におしつけちゃいかんね。
総子 だって私、これから精三さんの所へ行こうと思ってた所なんですもの。叔父様ったら明日にでも天津てんしんへお発ちになるかもしれないというのに今日お出しになるなんてひどいわ。咲やにたのんだら何だ彼だとぐずぐずいうし。じゃ、たのみますよ。間違いなくね。
けい 承知いたしました。いってらっしゃいまし。
総子 ほんとに精三さんったら困ってしまうわ。私の刺繍台を直してやるなんて持っていったきりちっともおみえにならないんですもの。それにふみちゃんったら私の日傘を持ってお稽古にいっちまうし、いやだわ、ほんとに。(去る)
けい 野村さまって、そういえば随分長くお見えにならないようでございますね。何処か、お悪いんじゃないでしょうか。
伸太郎 僕は総子という人間をみるのが、何となくいやな気がするんだ。自分じゃ何にも出来ないでうじうじして煮えきらないくせに始終ぶつぶつ愚痴をいっている。悪い人間じゃないんだが愉快になれない。あれをみてると、僕は自分の影をつきつけられているような気がする。
しず、庭から古い漬物桶のようなものを下げて出てくる。
けい (みつけて)あら、奥さま、それをどうなさるんでございますか。
しず 今物置でみつけたのですよ。漬物をするのに丁度いいと思ってね。洗っておきましょうと……。
けい そんなこと奥さまがなさらなくても私いたしますわ。
しず いいんですよ。別に大したことでもないんだから……。
けい (下駄のないまま片足下りて行って桶を押さえ)それでは私達が困ります。後で洗っておきますからここへお置きになって。
しず そうですか。それじゃ、急ぎゃしないのだから明日でもいいのよ。(隅へおく)お前まだ銀行へ行かなかったの。
伸太郎 ええ、ああそうか。
しず ああそうかではありませんよ。岡本の手形のことがあるから早くしといて下さいって頼んだじゃありませんか。
伸太郎 でも、手形の割引なんて、きまりが悪くって厭だな僕。
しず 何がきまりが悪いことがあるものですか、何処の家だってお金を動かす都合ってものがあるものです。そのために銀行があるんじゃありませんか。
伸太郎 え、だから行きますよ行きますけど……入金の時やなんかと違ってなんだか……どうも……(出て行く)
しず、しばらく見送っているが、
しず ああ、暖い。ここは随分よく日のあたることね。
けい 今日は奥さま、ご加減がよろしいようでございますね。
しず ええ、店のことも気になるし、起きてみましたよ。どう、家の用事が多くてつらくない?
けい いいえ、もっとどんどん御用をお出し下すった方がいいくらいですわ。私なんだか遊んでいるようで勿体もったいないと思っています。
しず そんなことはありませんよ。家の方こそ、お前が来てくれてから掃除はゆきとどく、用はどんどん片づく、どんなに喜んでいるかしれないのですよ。でも、あまり無理をしないで辛い時は遠慮なくそういって休みなさい。
けい 辛いなんて、そんなこと決して。私、時々こんな暮しって夢じゃないかと思うくらいでございますわ。朝、目がさめると、ああやっぱりほんとでよかったと思うんです。
しず ふふふ。誰も彼もがお前のように遠慮勝ちの望みを持っていたら、世の中はどんなに穏やかに美しくなるでしょうね。
章介。
章介 やあ、こっちでしたか。
しず いらっしゃい。
けい いらっしゃいまし。
章介 ああ。すまんがね、冷たい水を一杯くれんかね。
けい はい。(ゆこうとする)
章介 おいおい、ちょっと。
けい はい。
章介 (つくづくとみて)ははあ。これがあの、いつかの晩、鼠の尻っぽみたいな下げ髪で藁草履わらぞうりをつっかけて迷いこんできたしらみくさい女の子かね。
しず なんですよ、そんな……。
章介 行きなさい行きなさい。(けい去る)どうも、子供が女になるというのは毛虫が蝶々になるようなものだ。造化の妙といえば妙此上このうえないが、考えてみると滑稽なものですね。
しず そんなつまらないこといって、旅行の手続はすんだのですか。
章介 ええ万事済みました。
しず 会社の方も、いつも休ませてすみませんね。
章介 なに、自慢じゃないが私なんぞ会社じゃ、いてもいなくても大した変りはないんです。しかし、そんなこととは別に、私がこの家の商売に関係するのは今度が最後ということにしていただきたいんですがね。
しず 又その話ですか。
章介 又その話ですよ。御退屈でしょうがね。
しず でもまァもう少し私を助けてくれてもいいじゃありませんか。私がこんなに有難く思っているんだから。
章介 いやあ、私は人を助けたり人に有難く思われたりするのは一向好きじゃないんです。
しず ま、そう言わないで、私もこうして病身だし、それに何しろ跡取りがまだ若いし。
章介 私が伸ちゃんの年にはもう親父の代りに問屋通いをしていましたよ。
しず あなたの時代と今とは、時代が違いますから。
章介 姉さん、兄さんが伸太郎を外国語学校へ入れたのは一体いいことだったのですかね。あなたには伸ちゃんに家の仕事を、やらせてゆく気が一体あるんですか。
しず ……あの子は、頭もいいし、気立もやさしいし、親思いの子です。けれど……商売にむいているかどうかということになると、私にははっきりわからないのですよ。
章介 むいているかどうかじゃありません。やらせるつもりがあなたにあるかどうかですよ。
しず そりゃ、伸太郎は長男ですし、当然家の仕事を継いでもらわなくちゃならないと私は思っています。けれどあの身体とあの気性で、抜け目のない清国人を相手のかけ合いができるかどうか……。ま、今のところ古い店のものもいないと思うとつい……。
章介 いけませんよ。やらせるつもりなら思いきってやらせなさい。仕事が人間を鍛えてくれるでしょう。し仕事に負けて途中でへたばるようなら、それはそれで仕方がありません。
しず まあ、お前は随分冷めたいことをいいますね。
章介 伸太郎をお呼びなさい。私から申渡してやりましょう。
しず そうですね。いずれ一度はしなくちゃならない話です。それじゃ、もう出かけたかどうかちょっとみてきます。(しず去る)
間。けい。
けい 遅くなりました。
章介 あ、どうも……。(受取って呑む)うまい。
けい あのう。
章介 ん?
けい 御旅行は、明日おちになるんでございますか。
章介 いや、明日はちょっと無理だ。明後日だな。どうして?
けい お洗濯物を。
章介 あ、そうか、すまんな、たのむよ。
けい 明日の朝でもお届けしましょうか。
章介 そうだな。いや、明日の晩もう一度来るからその時もらってゆこう。
賑やかな笑い声がして庭からふみ、後から精三。
ふみ いいじゃありませんか。さっさとついてらっしゃい。此方こちらからの方がお部屋に近いのよ、あら、いらっしゃい、叔父さま。
章介 ああお帰り、お花見かね。
ふみ フェルマー先生のレッスンに行って来たんですよ。お花見なんて嫌い。埃っぽくってあれじゃお花見だか埃見だかわかりゃしない。
精三 今日は。
章介 やあ、これはこれは。
ふみ 精三さんの妹さんもフェルマー先生のところへ来てらっしゃるんです。あたしあすこへ紹介してもらっていいことしたと思いますわ。親切でお稽古が熱心で……。
精三 そうなんです。音楽家というものはむら気で気むずかしいものですが、あの人にはそういうところがありません。家へなんかよく、遊びに来られますが、まるで親類かなんかのように気がるで話し易いんです。
章介 すると精三君は料理にも精通してるし音楽にも趣味が深いというわけですな。
精三 いやあ。私のはただ、聞くというだけで一向何もわかりゃしないんです。しかし、音楽がわかるとかわからんとかいうことは、仲々むつかしいことで、本人がわかったつもりでいても本当にわかってるんだかわからないんだか、誰にもわかることじゃありませんから。
ふみ 何いってらっしゃるの。あなたのいってることの方がよっぽどわからないじゃありませんか。
精三 や、どうも。ははは。(と縁へ坐ろうとする)
ふみ あら、駄目よ、そんなところへ坐っておしまいになっちゃ。私のお手伝して下さるんじゃなかったの。
精三 あ、そうだっけ。
ふみ 後でけいちゃん、手があいたらお部屋まで来て頂戴。バケツと雑巾ぞうきん持ってね。押入れの虫干しするんだから。
けい はい。
ふみ じゃ叔父さま又後で。精三さん。
精三 う、うん。じゃ、御免なさい。(二人去る)
章介 (二人を見送って)人間という奴は、何かやると必ず間違いをしないではいられないらしいな。まるで間違いをするために何かするみたいだ。
けい あの、精三さまは、総子お嬢さまの旦那さまになられる方じゃないのではございますか。
章介 そんなことは俺は知らん、当人達だって、恐らくわかっておらんことだ。しかしこの頃、ちょいちょいふみ子とつながって歩いているところを見るとどうかね。
けい ふみ子お嬢さまも一体どういうおつもりでございましょう。
章介 ありふれた話さ。女にとって、ちやほやしてくれる男はいわば勲章みたいなものさ。多ければ多いほどいいんで邪魔にはならんもんだからね、まあお前なんかもよく気をつけるのだな。(入ってゆく、けい呆れたような顔で見送っている。背後から栄二)
栄二 おい、なにをぽかんとしてるんだい。
けい いえ、何にも。
栄二 その桶どうするんだ。
けい 洗って漬物をするのでございます。
栄二 僕、洗ってやろうか。
けい よろしゅうございます。
栄二 遠慮するなよ。
けい たがが外れてバラバラになっても困りますもの。
栄二 大丈夫だよ。
けい 御本人がお受け合いになっても駄目でございます。
栄二 いやに信用がないんだな。
けい 物置の棚を作っていただいてりていますから。
栄二 へえ、どういうわけだい? あれ壊れやしないだろう、そうすぐには。
けい 壊れはしませんけど、お庭の塀の板をはがしておいでになったそうでございますね。
栄二 何だ、知ってるのか。
けい 今朝、大工さんが来て塀を直して居りましたわ。
栄二 あすこは板がない方が通りへ出るのに近いんだがな。
けい 此方の水溜りを埋める土を持ってくるのに向うへ水溜りを掘ってるようなものですって、手数が一遍ですむようにこの次から大工を呼びなさいって奥さまが……。
栄二 お前、余計なことを告口つげぐちするからだよ。
けい 私じゃございませんわ。
栄二 お咲の奴だな。後で水ぶっかけてやるから。
けい あら、そんなことなすったらそれこそ私、恨まれてしまいますわ。(袂をさぐる)
栄二 (けいのたすきを見つけほうってやる)それより又船見に連れてってやろうか。
けい 結構でございますわ。
栄二 なんだい。今日はいやに用心深いんだな。
けい だって、あなたさまのは、私をだしにして御自分が港へお行きになりたいのでございましょう。向うへ行ったら私なんかおっぽり出して何処かへ行っておしまいになるんですもの。
栄二 お前だって随分、珍しがってデッキを走ったり転んだりしたじゃないか、船員達が笑ってたぜ。
けい あら。あなたのように船底へもぐり込んで釜焚かまたきに怒鳴られたりはしませんわ。
栄二 止そうや。お前と僕だけしかしらないことだし、あんまり自慢になる話じゃないからね。
けい あの船が海を渡って清国の港迄ゆくなんて、私なんだか妙な気がしますわ。
栄二 だって、船は海を渡るために出来てるんだぜ。別に妙なことはないさ。
けい そりゃそうですけれど、向うには清国人ばっかり住んでいてみんな清国語で話したり泣いたりしてるんでございましょ。それだのに私達はみんな日本語を話したり、買物したりしてるんですもの。おかしいわ。
栄二 そうかね、僕は日本人が清国語で話をしたり清国人が日本語で喧嘩をしたり怒ったりしたら、その方がおかしいと思うがね。
けい ええ、それはそうかも知れませんわ。でも私のいうのは、そういうすっかり何もも違った二つの国がですね、まるで遠くにあるようでいて実は案外近くにあるということ……。なんだかうまくいえないわ。
栄二 僕は三、四年前には、清国へ渡って馬賊になろうなんて真面目に考えていたんだ。
けい まあ、でも、あなた様ならお似合いになるかもしれませんわ。
栄二 おい、そりゃ僕をめたつもりかい。
けい あら、別にそんなつもりで申し上げたんじゃありませんわ。ただそう思いましたからつい。
栄二 尚よくないじゃないか、それじゃあ。
けい すみません。
栄二 謝ったってもう遅いよ。
けい 私、清国なんて所、考えてみただけでは想像もつきませんわ。お父さんがあんな所へ出かけて行って死んだなんて、時々やっぱり本当にあったことじゃないような気がするんです。そんな時は来ないに決ってるんだけど、いつか一度は行ってみたいと、今でも、思っていますわ。
栄二 僕のお父さんってのはとても変った人だったらしいんだぜ。明治三年に渋沢栄一さんが富岡に製糸工場を作られたときいたら、もうこれからはそれでなくちゃいかんといって、自分の家の前へ、いきなり煉瓦造りの工場を建てちまったんだ。機械迄外国から買ったのはいいんだが、これを動かす方法を誰も知らんというのだからね、無茶苦茶だよ。
けい まあ、それで、どうなすったのですか。
栄二 それっきり家はつぶれてしまったのさ。それから清国へ渡って塩田で働いたり綿畑で働いたりしたらしいんだがね。日清戦争が始まって通訳にやとわれたのが世の中へ出て来るいとぐちになったのさ。僕にもそういう血が流れているのかもしれんなあ。
けい それじゃお母様も随分御苦労なすってらっしゃるんですね。
栄二 そりゃそうだろう。だからお父さんだって大事にしてたし、僕達だって皆お母さんは大事にしなくちゃいかんと思ってはいるんだ。
けい あなたの奥さまになられる方もそんなに苦労をなさるのかしら。
栄二 お前は、どんな人の奥さんになりたいと思ってるんだい。
けい さあ。そんなことを考えてみたことございませんわ。でも馬賊になりたいなんて人の奥さまだけはいやですわ。
栄二 だって、初めてお前がこの家へ来た晩、お前は僕なら、手を握ったってじっとしているっていったじゃないか。
けい あら、いやだわ今頃、そんなこと思い出したりなすって。あの時は私、何とかしてお巡りさんに渡されたくないと思って一生懸命だったんですもの。口からでまかせで、何言ったんだか自分でも憶えてなんかいませんわ。
栄二 へえ、口から出まかせだったのか。僕は又少しは僕が好きなのかと思ってた。今迄親切にしてやって損しちゃったな。
けい さあ、そんなつまらないことを仰言おっしゃってないで、ちょっとおはなしになって。あの桶洗って来なくちゃならないんですから。
栄二 なんだい、人をがっかりさせといて、そう急いで逃げる奴があるかい。(と、いいながらたすきを握っていた手を放す)
けい いえ、逃げるわけじゃありませんけど、後に叔父さまの御用だの、ふみ子お嬢さまの御用だのいろいろあるんですもの、御免なさい。
栄二 おいおい。ほら、ばたばたするから櫛が……(と拾って)お、これはあの時の……(といいかける時、けいは急にそれを奪いとり、走って入ろうとする。丁度出て来たしずと危くぶつかりそうになる)
けい あ、御免なさい。
しず どうしたんです。家の中でそんなに走ったりしちゃいけませんね。(といいながら栄二の方をみる。栄二ちょっと照れて外の方を向く)
けい すみません。今度から気をつけます。(と、ゆきかけるのを)
しず あ、ちょっと……。
けい はい。
しず (栄二に)私、けいちゃんと二人だけで話したいことがあるからちょっとの間、お前向こうへ行って頂戴な。
栄二 ええ。(出て行く)
しず さあ。もっとこっちへいらっしゃい。
けい (恐縮して)はい。
しず そんなに堅くならなくてもいいんですよ。まあそこへお坐りなさい。
けい はい。
しず なんですねえ。そんなに、兵隊さんのようにかしこまっちゃ、お話もなにも出来やしないじゃありませんか。
けい 奥さま。私、奥さまから受けました御恩決して忘れてはいませんのです。奥さまに助けていただかなければ今頃、私はどんなになってしまっていたか、考えてみるだけで怖い気がします。ですから私。奥さまがお怒りになるようなことは、決していたしません。それだけは信用して下すっていいと思います。
しず お前は一体何の話をしているのです。
けい いえ、私……何の話をしようと思ったんでしょう。ただ……御免なさい。今日は何だか少し変になっているかもしれません。
しず 私はいつだってお前を信用しています。お前と私とは、同じ月の同じ日に生れたんですもの、お前を疑うことは、私自身も信用のならない人間ってことになりますからね。(笑う)けどお前も若いし家には若い男の子が二人もいるし、まァ、お互に間違いのないうちにと思って急にこんなことをいう気になったのですがね……。
けい ……。
しず といって何も、むずかしいことじゃありませんよ。もう、大分前から考えてはいたことなんだけど……お前も女のことだし、いずれは何処かへ身をかためなくちゃならないんだけど……そういうことについて、別に相談する所も、親身になって下さる所もないのでしょう。
けい ……。(うなずく)
しず それじゃ、どう、自分の誕生日にこの家へ迷い込んで来たのも何かの縁だろうから、いっそ本当にこの家の人になったらば……。
けい まあ、奥さま、そんな、私……。
しず そりゃ、女にとっては一生のわかで、並大抵のことではないのだから気がすすまなければ無理にという性質のものではないのだけれど……。
けい いいえ。気がすすむとか、すすまないとか、そんなことは思ってもみません。私のような生れも育ちもわからないような人間がこちらのようなお宅に上るなんて怖いと思うだけで……。
しず 私は生れを貰うつもりはないのです。人がほしいのです。
けい 奥さまは……私が……ほんとに出来るとお思いになるのでしょうか、こんな、お家のいろんなことが……。
しず お前でなければ出来ないと、思っているくらいなのですよ。お前は気分もはきはきしているし、身体も丈夫だし、働きもので、おまけに店の仕事も随分面白がっているようだし、お前がやってくれれば私はどんなに安心して隠居が出来ると思うのです。私だっていつまでも生きているものじゃなし、伸太郎はあの気性で、あの子一人に何もかもまかせるのはどう考えても無理だと思いますからね。
けい 伸……私を、この家のものになれと仰言しゃるのは伸太郎様の……。
しず そうですよ。お前はどうお考えだったの。
けい いいえ別に……。
しず 自分の子供のことを自分でいうのもおかしいけれどあの子は家庭の旦那様としては誰に比べても恥かしい人じゃないと思います。ただ人中へ出て激しい世の中を渡るのには何か欠けた、弱い所がある気がするのです。そこをお前に家の中から助けてやってほしいのです。
けい 困りますわ、そんなに……でも、伸太郎さまはお家のお仕事よりは、学校の先生のようなことの方が……。
しず 誰にだって自分一人の願いというものはあります。私だって子供は可愛いのです。子供のしたいようにさせてやりたい気持は誰にも負けません。けれどこれは私がさせるのではないのです。家がそうしろと命じるのです。わかりますか。
けい はい。でも私、奥さま……。
しず 子供に家を譲るということは、苗木を土地に植えつけるようなものです。親というものは取越し苦労なもので、添木そえぎをしたり、つっかい棒をしたり。はたからみればそれほどまでにしなくともと思えることが親にとっては一生懸命なのですよ。わかってくれますね。
けい はい。それはよくわかっております。けれど……。
しず お前は先刻、私の恩を忘れないといってくれましたね、だったらどうぞ、私のためにでも、このことを承知しておくれ。ね。
けい はい。(泣いている)
間。
しず ほほほ。なんでしょう。二人共泣いてしまったりして。さあもう、話はすみました。他の者が不思議に思うといけません。彼方あっちへ行きなさい。
けい はい。(行こうとする)
しず お待ちなさい。その顔じゃかえって変に思われるかもしれない。私が先にゆきますから、少し此処にいて顔を直して行った方がいいでしょう。今の話は折を見て私から皆に話します。お前はそのつもりでさえいてくれればいいのですからね。じゃあ……(出て行く)
間、単調なピアノの音。
けい、帯の間から先刻の櫛を出し、ちょっとの間みているが思いきってぽっきり二つに折り庭へ投げ出し入ってゆく。丁度庭の奥から出て来た章介の足許にそれが落ち、章介はそれを手にとりけいの入って行った方を見送っている。
     第三幕

大正四年夏の夜。

縁にすだれがかかっている。左の縁にある籐の寝椅子ですっかり奥様になっているふみが知栄(五歳)に手紙を読んできかせている。
ふみ 土着の北京人ペキンじん、または、北京に来て一家を構えている人以外の外来者、或は旅行者が北京で住む家に三種類あります。一つは、旅館で、一つは……コウ……コン……コイか。読みにくいな。そしてもう一つは民房ミヌファン……です、と。旅館は日本人のそれと大して変りなく、長期の滞在には不経済だし、民房ミヌファンというのは安いけれども部屋を貸すだけで、食事がつかないので私のような独身者の浪人には……知栄ちゃんは栄二叔父さん覚えている?
知栄 ううん。
ふみ そうかなあ。でもまるっきりってことないでしょう。
知栄 だって……私の生れた時はもう、この家にいなかったんでしょ。
ふみ ん。そりゃ、そうだけど。三つくらいの時に一度帰ってきたわよ。あんた随分よくして貰って方々っこして行ったりしたんだけどね。
知栄 しらないわ。栄二おじさんて支那で、何しているの。やっぱりお父さんのお店の仕事しているの。
ふみ いいえ、叔父さんには叔父さんでお仕事があるのよ。何をしているんだか、私にもよくわからないけれど……。
総子、ふみよりずっと派手な衣裳。若づくりの濃化粧。
総子 ああ暑い、何てすんでしょうね今日は。(袂で煽ぎながら)夜になってもまるで風がないんだもの。息がつまりそうだわ。
ふみ (にやにやして)暑いのは風のないせいばかりじゃなさそうね。
総子 あら、どうして、変なこといわないで頂戴。(入ってきて)知栄ちゃん、お母さままだ。
知栄 まだよ。
ふみ 知栄ちゃん、お母さまいなくってつまんないでしょ。
知栄 ううん。お母さまお家にいたって、お店の御用ばっかりで私と遊んでくれないんだもん。
ふみ それじゃ、知栄ちゃんは誰と遊ぶの毎日。
知栄 一人で。
総子 困っちまうなあ私。どうしていいんだかわからないわ。猪瀬さん、精三さんと将棋を始めてしまったのよ。兄さんは自分の部屋へ入ってしまって本を読んでるし、私何処にいて何をしていいんだかわからないじゃないの。
ふみ まあ。お見合に来て将棋をさしているなんてどういうの。
総子 だって、将棋をしましょうなんていい出したのは精三さんなのよ。
ふみ 呆れた。あの人は、そういう人なのよ。時と所っていう考えがまるでないんですからね。第一お見合の席なんてものは挨拶さえすめば当人同志放っといて、みんな引込んじまえばいいものよ。姉さんが傍にいてくれなんていうものだから、いい気になって腰をすえてるんじゃないの。半分は姉さんがいけないのよ。
総子 だって……二人っきりにされちゃ私困るじゃないの。何を話していいんだかわからないし。
ふみ 話なんか、あなたが考えなくても先様さきさまでよろしくやって下さいますよ。初めてお見合いするんじゃあるまいし。
総子 よくってよ。度々たびたびのお見合いで御迷惑ならどうぞお帰りになって頂戴。
ふみ あら。私はなにもそんなつもりで言ったんじゃないわ。そうむきにならなくったっていいじゃありませんか。
総子 むきになるわよ。もっということに気をつけてもらいたいわ。
ふみ はいはい。では以後を気をつけることにして……。一体どうなの、お姉さん自身の気持は。
総子 なんだか私にはわからないわ。あの人でもいいような気もするし、もう少し何とかしたのがありそうな気もするわ。結局結婚の相手というものはどうしてもこれでなくちゃというようにして、決るんじゃないってことがだんだんわかってくるような気がするわ。
ふみ 左様でございますか。あああ。いつまでもお若くておうらやましいことだ。
知栄 総子おばさん。今日は随分綺れいね。
ふみ ほらほら。子供は正直よ。知栄ちゃんに迄ちゃんとそう見えるんだから。何かおごって戴かなくちゃ合わないわ。
総子 よして頂戴。私にとっちゃ笑いごとじゃなくってよ。もうもうお見合なんか沢山。その度にどきどきしたり、はらはらしたりするだけでも命が縮まる思いがするんですもの。もういい加減に見合ずれがしてもいいと思うんだけど、やっぱり駄目。自分で自分に腹が立ってくるわ。この間なんの気なしに写真屋の前通ったら飾り窓に自分のお振袖の大きいのが出てるのよ。眼をつぶって走って通ったわ。すれ違ってゆく人がみんなにやにやして、私の顔をみるような気がするの……。(眼を拭く)
ふみ 姉さん……姉さんどうしたのよ急に……。
総子 いいのよ。ほっといて……。
伸太郎。
伸太郎 おや、お客さまはもうお帰りになったのかい。
ふみ いいえ。精三と将棋をお始めになったんですってさ。ほんとうにうちの旦那様にも困ってしまうわ。
伸太郎 けいはまだかい。
ふみ まだなのよ。何してらっしゃるんでしょうね。
伸太郎 仕様がないなあ。すべて自分で段取りをしておいて。
ふみ 全体どこへいらっしゃったのよ。
伸太郎 うん、工業クラブで対支貿易の懇談会があるんだがね。
ふみ あら、そんなものに迄姉さんが出てらっしゃるの。
伸太郎 (苦笑)俺が出るより確かかもしれんからね……。しかし、二人だけ放っておくわけにもゆかないだろうね。
ふみ 精三とお見合いにいらっしたわけじゃないんですからねえ。
伸太郎 お前、とも角部屋へ戻っていたらどうだ。
総子 私なんか、傍にいたっていなくったって同じだわ。二人とももう夢中なんですもの。今度は飛車ですか。はあ角道かくみちとおいでなさいましたね、なんて。
伸太郎 俺には又、将棋って奴はちんぷんかんぷんなんでね。
ふみ お見合のおさまりなんてものはどうつけるものかしら。こうなると私もお兄さんもお見合いなんてものしなかっただけに不便ね。
伸太郎 何をつまらんことをいってるんだ。だから俺は初めっからちゃんとした仲人なこうどを立ててというのに年をとっているからとか、何度もやった揚句あげくだから今度は決ってからにしようとか……。
ふみ 今更そんなこといったって仕方がないじゃありませんか。
伸太郎 今更っていうがお前だってそれに賛成したんだぞ。
精三の声 おーい。ふみ子! どうしたんだ! 総子さん! 猪瀬さんのお帰りだよ!
ふみ あら、お帰りだって。(総子に)さあ、行きましょう。兄さん、あなたもいらしって……。
伸太郎 うん、何だか俺は……。(といいながらついて行く)
庭から、章介、けい。
章介 ふっふ。流石さすがのお歴々もお前の口にかかっちゃひとたまりもないね。驚いている顔がみえるようだ。
けいと章介が庭から入って来る。
けい だってそうじゃありませんか。どうせ乗りかかった船なんですから今更ちっとやそっとの物要ものいりを気にしてどうするんです。そんなことばっかりいってるから元も子もなくしてしまうんです。アメリカをごらんなさい。イギリスをごらんなさい。商売上何の値打もない、北京に御殿みたいな銀行をたてて、その支配人が外交官以上の勢力を張って支那の大官たちとゆききしているんですよ。
知栄 お母さまおかえりなさい。
けい ああ只今、私はね支那問題は結局お金だと思うんです。
章介 しかし、そういう支那人自身のその日ぐらしの精神をめざめさせることがまず第一なのだ。今のままで放っておけば、支那はやがて第二のバルカンだ。今ヨーロッパでやってるような戦争をアジヤでも又引起すことになるのだ。
けい それだからいうのですよ。国民党をたすけると決めたなら決めたで、そっちへどんどんお金を注ぎこむ。支那人が日本人と仲よくしてからほんとに暮らしが楽になったと思うようにするのです。それ以外に手はありませんよ。
章介 そう簡単に言うがね、袁世凱えんせいがいという人間は、とにかくこの間の第二革命で清朝に替る大勢力となってしまったが、国内では彼の政策を必ずしも歓迎していない。そこへ来ると孫文そんぶんは、一時日本に来ていたこともあるし、支持者も随分いるようだが、孫文の三民主義という思想の中には共産主義に一脈通じるものがすくなからず入っているのだ。袁世凱と結ぶか、孫文の思想を支持するか、これは仲々複雑微妙な問題なのだ。
けい いいえ、だから、思想は思想ですよ。思想ってものは政治家が机の上で考え出すものです。権兵衛や太郎兵衛は思想を食べて生きてるんじゃありませんよ。(笑う)
知栄 お母さま、お土産みやげは?
けい あ、しまった、お母さま御用で手間取れたものだからお土産すっかり忘れてしまった。御免なさい。
知栄 ううん。(からだをふりすねる)
けい ああ、苦しい。(帯をゆるめて)私はね、日本のえらい政治家や軍部の連中が、もっと下の権兵衛や太郎兵衛……いいえむこうのですよ。むこうの権兵衛や太郎兵衛ともっとぴったり結びついてなくちゃだめだと思うんです。そうすりゃ対支政策が変ったからどうの、支那の政府が変ったからって、一々騒ぎたてなくてもいいじゃありませんか。
章介 どうも、何時の間にかお前はすっかり支那問題の大家になっちまった。
けい いやですよ、そんなに人をからかっちゃ。
精三、ふみ、後から総子。
精三 (すっかり自信たっぷりの社会人になっている)いや、あれは仲々大した人物だ。流石におけいさんは目が高いよ、やあ、お帰んなさい。
けい あ、只今。
精三 今も、此奴にいっとるんですがね、猪瀬氏ですよ。立派なもんです。よくあれだけの人物を選んで来られたと。あんたの慧眼けいがんに感服してるんです。あの人物についてなら私が太鼓判を押しますよ。
けい そうですか。そりゃよろしゅうございました。あなたにも、いろいろ御苦労さまでしたね。
ふみ 太鼓判だかどうだかしらないけど、お見合いに来て介添人かいぞえにんと将棋を始めるなんて随分呑気のんきな人もあるものね。
精三 いや、それだから出来てるというんだ。仲々気取った青二才になんか出来る芸当じゃないよ。
章介 ひどく又肝胆かんたん相照あいてらしたものだな。
精三 いや、相照したというより教えられたのですよ。叔父さん、あなたがお逢いになってもきっとお気に入るに違いないと思いますね。男はやっぱり、男のれるような男でなくてはいけません。
ふみ でも、何だか少し殺風景ね。姉さんを前にしていきなり自分の子供の手くせの悪い話なんか出すなんて、思いやりがなさすぎるわ。
精三 そういう解釈をするのが、そもそもの間違いのもとだ。飾らず偽らず、ありのままを話して相手にあらかじめの覚悟と理解を促す。こりゃそうそう誰にだって出来ることじゃない。総子さんだっていい話ばっかりきかされて、いきなり悪い事実をつきつけられるよりどれだけ気持がいいかわかりゃしない。
ふみ それは、本当にそうかもしれませんわ。でも女の気持って、そういうものじゃないと思うわ。多少はかざりやいろどりはあってもそこが人間同志のあれなんだもの。
精三 何をいってるんだ。ほんとに男のいい所がお前なんぞにわかってたまるものか。
ふみ えええ。どうせそうでしょうよ。男のいい所がわかるくらいならあんたなんかと一緒にならなかったでしょうからね。
精三 なに!
章介 おいおい。そういう話は二人だけの時に願おうじゃないか。
精三 いや。あっははは、こりゃ、一本参りました。はっははは。
伸太郎 (むっつり)いやに遅いじゃないか。今迄クラブにいたのかね。
けい すみません。……みんな血眼ちまなこになってるもんだから話がすっかりのびちまって。
伸太郎 遅くなるならなるでそういって貰わなくちゃ。家でも帰るか帰るかと思って待ってるんだ。
けい だって……家の方の段取りはちゃんとついてるんだし、精三さんだって頼んであるんですもの。
伸太郎 精三君だって勤めのある人だ。そうそう此方こっちの勝手な時に呼び出されては、困るだろう。知栄だってお前がいないもんだから何時迄いつまでもねやしないし。
けい あら、子供は何時だって咲やと一緒にねるんだから、そいって下さればいいのに。知栄ちゃん咲やにそういってお床とって貰いなさい。
知栄 私、お母さまと一緒にねるの。
けい (つい焦々いらいらして)子供が何時までも起きてるものじゃありません……お母さまはまだ御用があるんだから先におやすみなさい。
知栄 ……。
章介 さあ、今日は叔父さんとねよう。な、お母さん達は今日はお話が残ってるんだからな。さ、行こう。(と、行きかけて)あ、伸さん。例の斎藤長兵衛な。今日とんでもない所で表札をみたんだ。鎌倉の小町なんだがね。あんな所にいたんだね。探してもわからない道理さ。(入ってゆく)
精三 斎藤長兵衛というと、例の夜逃げの口なんですか。
けい ええ、そんな所にいるんじゃ、東京中探したってわからない道理ですよ。
精三 しかしよくまた、見つかったものですね、偶然なのかな。
けい そうなんですって。御自分の用事で鎌倉までいらしって、夕立にあったものだから雨やどりをしようと思って何の気なしに表札をみたらそうだったというんでしょ。悪いことは出来ないもんですね。
精三 天網恢々てんもうかいかいですかな。そういうのは一つ見せしめのために大いにしぼってやるんですよ。
けい ええ。だから、明日にでも私、行って来ようと思っているんですがね。
精三 そりゃそうなさい。ぐずぐずしていると又逃げられてしまいますよ。なんだったら、私も一緒に行ってあげますよ。
けい そうお願い出来れば私もどんなにか心丈夫ですがね。やっぱりこんなことは女一人じゃちょっと具合がわるくって……。
伸太郎 何も世間から逃れて、ひっそり暮している人の住居をそうおびやかしに行かなくってもいいんじゃないかね。
けい 別に脅やかしにゆくわけじゃありませんわ。此方は当然済まして貰う権利のある債務の話し合いに行くわけなんですもの。
伸太郎 しかしそれが無ければうちが明日から困るというわけのものでもないのだ。それにあの話は一年も前の話で、もう一応かたがついているのだろう。
けい いいえ。かたなんぞついてはいませんよ。御本人がいなくなってしまったから仕方なしにうやむやになっているだけです。あの人には随分沢山の人がひどい目に逢っているのですもの。知らして上げたらみんなどんなに喜ぶかしれませんよ。
伸太郎 そんなにお前、他の人に迄知らせるつもりなのか。
けい 知らせやしません。知らせやしませんけれど、それでいいってことになれば世の中に債務など果す人はありゃしませんわ。(笑って)なにもあなたに行って下さいというんじゃないからいいじゃありませんか。
伸太郎 (半ば当てつけに)自分がそんな身分になった時の事を考えてみればいいんだ。(立って縁側の方へ行って向うむきに坐る)
けい (少しむっとして)大変御寛大なことでございますね。でも、困る時はやっぱり私が困るんですから。
伸太郎 おい。それは俺に働きがないという謎かね。
総子 どうせ私はこの家の厄介者なんです。子供が二人あろうと、年をとっていようと、そんなことなんか、どうだってかまいません。おけいさんがあの人がいいっていうならあの人の所へ行きます。ええ、行きますとも!(そういって泣きながら駈けこむ)
間。
精三 どうも……なんだな。女も三十を越して一人でいるというのは、精神的に具合が悪いようだな。
ふみ そりゃ、女だって生きてるんですもの、虫の居所の悪い時だってありますわ。
精三 しかし、今の話と総子さんの縁談と一体何の関係があるのかね。俺にはわからんね。女のああいう神経は。
けい 私がもっと早く帰ってくればよかったのですよ。
ふみ そりゃ、お姉さんがいて下さった方がよかったには違いないけれど……。
けい 私も夕方までには帰れるつもりでいたのだけれど話が混入こみいってくればそう予定通りにはゆかないものだから。支那の政府が変ったばかりでこれから何方どっちを向くかわからないことだし、直接商売に関係のあることですものねえ……。
伸太郎 早く帰ったからどう遅く帰ったからどうってことはないさ。とにかく、いい年をした人間が三人も首を揃えているんだからね家には。
精三 そりゃそうですよ。こういうことは何もそうむずかしく考えることはないんです。いくら大騒ぎしたってまとまらない時は纏らないし、纏るものなら放っておいたって纏ります。それだから縁というんです。
ふみ あなたのように無造作に考えるのもどうなんですかね。いくら好きな道だからって、今日みたいな日に将棋をすなんて。
精三 いや、俺は別に指したくっていい出したわけじゃない。お愛想のつもりでいったら向うが乗ってきたんだ。
ふみ 時と場合を考えて御覧なさい。御見合いの介添に来て、介添すべき相手を放ったらかしといて自分が遊びごとに熱中してしまうなんて……総子姉さんにしてみれば随分莫迦ばかにされた気がするじゃないの。
精三 (怒って)お前は一体俺にどうしろというんだね。兄さんは自分の部屋に引こんでしまって出て来ない。総子さんは石みたいに黙りこくって、畳のへりばかりむしってる。猪瀬さんは不味まずそうに煙草ばかりすぱすぱやってる。一体俺に何が出来たというんだい。裸でステテコでも踊ってみせればよかったのかね、莫迦々々しい。俺は帰る。(プリプリして出て行く)
ふみ まあ。なんていいぐさをいうんでしょう。裸でステテコだなんて、どこであんな下品なことを憶えてくるんでしょうね。男ってほんとに勝手なものだわ。結婚するまではさんざん機嫌をとって、人の後からついて廻っておきながら一度一緒になってしまうと、とたんに威張り出すんですからね。二言目ふたことめには大きな声を出して怒鳴るし。音楽に趣味なんて、とんでもない大嘘だわ。折角声楽のレッスンにだって通っておきながら元も子もなくしてしまったし、此頃じゃまるでピアノの蓋をとってみたことないんですもの。私の結婚ってほんとに考えてみると失敗だったわ。
けい (焦々して)失敗だの成功だの、そんなことをいってみて、一体何かになるんでしょうか。誰が選んでくれたのでもない、御自分でお選びになった道じゃありませんか。それにあなたは何と思ってらっしゃるか知りませんがね。精三さんはあなたには過ぎた旦那様ですよ。(出て行く)
伸太郎 (立上って寝椅子の方へ行きながら)誰が選んだのでもない、みんな自分で選んだ道か。精三君はお前には過ぎた亭主だ。そりゃほんとのことだぜ。(ごろりと横になる)
ふみ いやだわ。これじゃあまるで、私が叱られに来たみたいだわ、そうかしら、精三が私には過ぎた旦那さまだなんて……私、そんなこと考えてみたこともないわ。でもそういわれてみるとあんなにそわそわして、落ちつきのなかったお人好しが、今じゃすっかり自信たっぷりなんですもの。わけがわからないわ。いつからあんなになったんだろう。(急に)帰りましょう、旦那様のところへ。(そそくさと出てゆく)
間、けい入って来て寝椅子の傍へ行く。
けい あなた。
伸太郎 ……。
けい あなた、おやすみになったんですか。
伸太郎 いいや。
けい じゃ、ちょっとお起きになって……。
伸太郎 なんだい。(ねたまま)
けい あなた、仰言しゃって。私の何処どこが一体いけないんですの。
伸太郎 ……。
けい そんな風に黙っていられるの、私、たまりませんの、私は何でもあなたのようにおなかに持ってること出来ないんですもの、何を考えてらっしゃるのかわからないで毎日一緒に暮らしているなんて、私には辛抱出来ませんわ。
伸太郎 別に……どうといって、直すこともないだろう……。
けい 総子さんの御縁を断わればいいんですか。私は決して猪瀬さんを押しつけるつもりはないのです。先様が逢ってみたいと仰言しゃるから事を運んだまでで、私はお断りしたってちっともまずいことはないんですよ。
伸太郎 そりゃ総子が厭といえば仕方がないけれど、俺は積極的に断りたいと思うほど悪い感情を持ってはいないよ。総子も三十を越しているんだし、あれくらいなら、いい相手としなくちゃいけないだろうからな……。
けい それじゃやっぱり、今夜私が家にいなかったのがお気に入らなかったのですか。
伸太郎 そんなことはないといってるじゃないか。
けい そんなら、そんな憂欝な顔をなさらなくったっていいじゃありませんか。私だって一生懸命家のことで駈けずり廻っているんです。
伸太郎 お前が家の為にどれだけつくしてくれているか俺には充分わかっているよ。だからそれでいいだろう。
けい 何にもないと仰言しゃっても私には感じるんです。言葉に出して仰言しゃらなくてもそれくらいのこと私にはわかりますよ。そんなら何も彼も言っておしまいになった方がさっぱりしてお互いにいいじゃありませんか。
伸太郎 そうさっぱりと口に出して、いえない場合だってあるだろう。
けい それ程私に、いい難いことなのですか。
伸太郎 いや、いい難いことなんぞありゃしないさ。どういう風にいっていいかわからないといった方が適当かも知れない。いていうならお前と俺と……性格が合わないとでもいうか……。
けい 性格……。
伸太郎 成程お前は一家の女主人としては実によく行届ゆきとどく。店の仕事から奉公人の指図、台所から掃除洗濯、近所交際づきあい、何一つとして手抜てぬかりはない。よく一人であれだけ廻るものだと俺は、感心してるくらいなんだ。しかしね。女ってものは、ただよく気がつく、よく働く、それだけのものじゃないよ。女には、どうしても女しかもっていないっていうものがある。お前にはそれがないのだ。
けい まあ、それは一体どういうことなんですの。女しか持っていないものって何なんですか。
伸太郎 残念ながら俺にもそれがどんなものだか口でいえるほどにはわかっていない。ただお前にはそれが欠けているということだけはわかるのだ。お前は店のことを殆んどひとりで切り廻してくれている。しかしお前がそれほどに出来なかったとしても、俺は決してお前が出来損できそこないだったとも女として行届かないとも思わないだろう。総子のことにしてもそうだ。お前は次から次へいろいろの話を、掻き集めるようにして持って来る。誰にでも出来ることじゃない。ないと思っていても、お前がそうすればするほど俺はお前のすることについて行けない気がするのだ。
けい あなた、それはひどいじゃありませんか。私が、お家の為を、あなたの為を、あなたの妹さんの為を思ってすることを、そう一々裏からみてらっしゃるなんてひどすぎます。
伸太郎 だからお前が悪いといってるわけじゃない。お前と俺との性質の違いだから仕方がないといっているのだ。
けい いいえ、そんな仕方がないなんていうようなことじゃありませんよ。私はあなたと御一緒になる時なくなられたお母様からこの家のことをくれぐれもたのむといわれたのです。ですから私は、そりゃもう一生懸命、お母様にいわれた通り家の中のことお店の事と、一人でやってきたのです。そりゃ私には、あなたの出来ないとわかっている事を知らん顔をして放っておくことは出来なかったし、自分なら出来るとわかっている仕事を出来ないような顔をしてすましていることもしませんでした。だからといって、あなたからそんなことをいわれる憶えはないと思います。
伸太郎 そうなのだ、お前は、なくなったお母さんに堤の家の将来を深く託された。その時お前は堤の家の柱となり、当主である俺の保護者となるという闘志と自負心とに胸を躍らせて立ち上った。ひょっとするとお前は俺の妻になることより、その仕事に対する期待や熱意の方が大きかったのじゃないのかね。
けい 卑怯ひきょうですよそれは。そんなこと今になって仰言しゃるぐらいなら、なぜ今迄私のすることを黙ってみてらしったのです。そんなに私のすることがお気に入らないなら、御自分でおやりになればいいじゃありませんか。
伸太郎 俺も一度はそう思った。だからいろんな方から物事を考え直そうとしてきたよ。しかし、支那問題は金だと放言してはばからないような、お前の一面的な思い上り方をみていると俺は我慢がならなくなるのだ。いいかね、民族と民族の問題はお互いの文化と伝統を尊重することなくして解決の出来るわけはないのだ。いや、こりゃ飛んでもない脱線だ。俺はなにもお前と支那問題を論ずる気なんかなかった。そうだ、言いかけたついでにもう一ついっちまおうか。お前は堤家の重要人物となることの期待の為に、お前自身の心さえいつわったことがありゃしないかい。
けい 今夜のあなたはどうかしてらっしゃるわ。あなたの仰言しゃることをうかがっていると私はまるで闇に鉄砲っていう気がしますよ。私は叱られるような悪いことをした憶えもないのに先生に叱られている学校の生徒みたいね。何でしょうその、私自身の心を偽って……。
伸太郎 栄二のことだよ。
けい 栄二さんのこと?
伸太郎 そうだよ。俺は初め、お前が栄二を好きなのだとばかり思っていた。栄二もまたお前を好きなのだとね。ところが、お母さんがお前を貰えという、お前も承知だという。それじゃ俺の思い違いだったのかと、俺は考え直した。お前に、女になくてはならないものが欠けていると、はっきり知ったのは、栄二が無断で家を飛び出したあの日さ。
けい あなた。それじゃあなたは、今迄そんな目で私をみてらしたのですか……。
伸太郎 そう。過ぎた話だ。古い古い、昔のおとぎ話だ。(立上って)栄二の奴、今頃、どこで何をしていやがるのか……。(入る)
けい、ぐったりなってしまう。
縁側の廊下から章介出て来る。黙って籐椅子に坐って、
間。
章介 人間という奴は実によく間違いをする。まるで間違いをする為に何かするみたいだ。ところで、あんたもその間違い組かね。
けい (ぐっと首を上げて)いいえ、そんなことはありません。誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩きだした道ですもの。間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ。
     第四幕

昭和三年中秋の午後。

秋の夕方前の日ざしが庭の立木を照らしている。知栄ぼんやり庭をみて坐っている。栄二入ってくる。
片隅の支那カバンを開いて中をごそごそみているが……。
栄二 知栄ちゃん。
知栄 ああ叔父さま、お帰りなさい。
栄二 何をみているんだね。
知栄 何にもみていないわ。
栄二 いやにぼんやりしてるじゃないか。
知栄 そうかしら、私、時々こんな風になっちまうの、何をするのも何を考えるのも厭になってしまうのよ。
栄二 この家の空気はなんだか妙に沈んでいるね。冷え冷えとしているのは秋という陽気のせいだけではないようだ。まるで水の底にでもいるようだ。濁っていて底のみえない水もあるが、ここのは澄んでいて底のしれない水だ。いつからこんな風になっちまったんだろう。
知栄 しらないわ。私がいろいろなことを憶えているようになってからこっち、ずっとこんな風だったわ。
栄二 昔はこんなじゃなかった。死んだ親爺もおふくろも、にぎやかでお祭り騒ぎが好きで家の中には、笑い声が絶えたことがなかった。兄貴は絵書きになるんだといって家中の誰彼をつかまえてはモデルにしたもんだ。ふみの奴は音楽学校を出て西洋旅行をするなんていってた。二人共その方の腕前はいい加減なものらしかったがね。とにかくこんな具合じゃなかったよ。
知栄 この家にそんな時代があったなんて、信じられないわ、私には。
栄二 もっとも時代も変った。俺もその頃は中国へ渡って馬賊になるなんて大望を持ってたんだからな。
知栄 でも、叔父さまはとにかく中国へお行きになったんですもの、おじさまだけは初志を貫徹なすったわけでしょう。
栄二 さあ、果して、初志を貫徹したことになるかどうか、こりゃ怪しいがね。お父さんは今でも絵を画いているかね。
知栄 時々……思い出したようにジャガ芋や人蔘にんじんの絵を画いてらっしゃるわ。でも、別にそれが書きたいから書いてらっしゃるとは思われないわ。以前からの習慣をやめるほどの決心がつかないからしてらっしゃるとしか思えないわ。
栄二 ジャガ芋に人蔘か。……
知栄 叔父さまは、中国の何処にいらしたの。
栄二 う……ん。いろんな所にいたよ。初めは北京にいたが、近頃ではずっと上海シャンハイにいた。その他広東カントンにもいたし、武昌ブショウにも永くいたね。
知栄 そんなに方々廻って、一体何をしてらしたの。
栄二 そりゃ、いろんなことをしたよ。セメント会社の技師になったこともあるし、苦力クーリーみたいなことをしていたこともある。中国っていう所は不思議な所だからね。……ま。そういう話は、又のことにしよう。お父さんとお母さんの別居生活ってものは、長いのかい。
知栄 おじさまは、御自分のことは、ちっともお話しにならないで、うちのことばかりおききになるのね。
栄二 そういうわけじゃないがね、誰だって自分のことってものは厭になるほどわかっているからね、つい他のことに好奇心が働くんだろう。俺も久し振りに自分の家に戻って来て、本家の主人と主婦が別に暮らしているんじゃ、何処へゆっくり腰を落ちつけていいんだか見当がつかないからさ……。
知栄 私は生れた時からずうっとこの家にいるけれど、それでもゆっくりと腰を落ちつけてなんかいたことないわ。
栄二 君は、お父さんとお母さんと、何方どっちが好きなんだね。
知栄 わからないわ。お母さんと一緒にいる時はお父さまが可哀そうだし、お父さまと一緒にいる時はお母さまがお気の毒だと思うの。
栄二 それで、親爺は、アパートからその横浜の国際学院迄毎日通っているわけだね。
けい、前幕の活動的な気負い立った感じとは逆の、静かでどことなく親しみ難い感じ。
けい (新聞を読みながら入ってくる)国民政府日本品の輸入販売を禁止か? 対支貿易は停止状態……今に中国に関りのある日本人は軒並のきなみ倒れてしまうでしょうね。
栄二 王正廷外交は田中内閣の山東出兵を取り上げて、日本の中国に対する領土的野心だとしてますからね。当分この状態は続くとみた方が間違いないでしょう。
けい どういうんでしょうね。中国の政府は商務総会に命令を出して日本から輸入したもの、契約済みの貨物をすっかり登録してしまいましたよ。日本船による貨物の輸送も禁止したそうです。揚子江ようすこうを走っている日清汽船はからで動いているそうですがね。
知栄、黙って立って入ろうとする。
けい 知栄ちゃん、何処へ行くの。
知栄 (ふり返らないで)何処へも行かないわ。私には、中国のお話なんて、別に興味ないわ。
出て行く。
けい ……。あの子は、此の頃だんだんせてくるような気がするけど……。そうでもないのかしら。
栄二 姉さんと知栄ちゃんは太陽と月みたいなものですね。姉さんのいる所には知栄ちゃんはいない。知栄ちゃんのいる所には姉さんの姿がみえない。
けい 子供というものは、むつかしいものですよ。私は他所よそのお母さんやお父さんが、三人も五人もの子供を引きつれて平気で街を歩いてらっしゃるのをみると、それだけでへえっと舌を巻いてしまうんです。よくあんな平然とした顔をしていられるものだと思いますね。
栄二 そうかな。むつかしく考え出せばきりのない話だが、なんでもないと思えばそれはそれで済むもんですよ。私をごらんなさい。言葉もうまく通じないような中国人を女房に持って二人の女の子がいます。それでも別にむつかしいなんて考えたことはありませんな。尤も私は外の仕事が忙しくて家の中のこと迄気を配っている余裕なんかなかったせいかもしれませんがね。それだけに、たまにいる時には珍しいんでしょう。
けい 私の所じゃ、私が店の用事で追い廻されれば追い廻されるほどあの子は私の所から遠くなってゆくのです。お互いにさびしいんだから、たまにいる時でも、という気が起りそうなものがあべこべなのです。
栄二 でも、あの子は姉さんの立場や気持を、案外わかっているじゃありませんか。
けい そうなんです。あの子には私のことは私以上によくわかっているのです。わかっていてやっぱり我慢がならないのですよ。それを一生懸命に辛抱しているのです。みてて痛々しいくらいですよ。
栄二 そんなに知栄ちゃんのことが気になるなら、どうして、兄貴と一緒に住まないのですか。
けい 私が別居を望んだわけではないんです。此処はあの人の家だし、私が別に住みたいのなら、私がこの家を出てゆくべきじゃありませんか。あの人は私が此処を出てゆくことを望んでもいないのです。私がいなければこの店が困ることも事実ですからね。
栄二 それで、兄貴は不自由とも何とも思わないのかなあ。
けい あの人は、あれでいいんでしょう。若い頃から語学の教師のような仕事につきたかったんですから、この頃は仲々元気にやっているようです。国際学院というのは、在留の印度人、中国人なんかの学校なんですがね。語学の他に歴史なんかも教えているようですよ。
栄二 食事やなんかはどうしているんですか。
けい 食事は近所の食堂を契約して朝晩運んで貰っていますよ。一週間に一度づつ私が行って掃除をして汚れものを持って帰ることにしています。
栄二 随分手のかかる別居ですね。それじゃあどうせ生活費なんかも此方から持ち出しでしょう。
けい あの人はあの人として精一杯のことをしているのです。足りない時は持ち出してもよろしいわ。
栄二 あなたはどうなのです。そういう暮しをしていてそれで満足なのですか。
けい 満足かどうか……そういう考え方をしてみたことはありませんがね……するだけのことをしてこうなったのですもの、これでいいと思っています。
栄二 ……。
章介。
章介 此処にいたのか。
けい いらっしゃい。
栄二 今、お帰りですか。
章介 ああ、疲れた疲れた。どうも年のせいか浮世の風の荒くなったせいか、この頃はすぐくたびれて……。
栄二 あまり稼ぎすぎるのじゃないのですか。そろそろ引退でもなすったら。
章介 ううん、引退したいにも、後を継いでくれるものがおらんじゃないか。
栄二 (笑って)私ではどうです。
章介 ああ、お前がやってくれるなら文句はないがね。
栄二 (何か慌てて)いやあ、止しましょう。又何時会社をおっぽり出して行方ゆくえをくらますかもしれませんからな。ははは。……しかし、こうなるとやっぱり強情を張って独身を押し通したことを後悔しませんか。
章介 なに別に後悔もしないがね。しかし驚いたよ。俺のケチなメリヤス会社でも世間並に争議が起るんだからな。
けい まあ……。
章介 世の中は悪くなったよ。市電のストライキ、炭坑の争議、銀行襲撃、張作霖ちょうさくりんの暗殺騒ぎ、まるで徳川末期の百鬼昼行だ。一体どういうことになってゆくのかね、日本は。
栄二 まあ、一応ゆく所迄ゆくんでしょ。
章介 行く所というのは何処だ。
栄二 そりゃ、僕にもわかりませんが。
章介 いやに責任を持ったようないい方をするな。俺はこの頃そういう物のいい方をきくと焦々いらいらする。
けい ほんとに、このままじゃ家なんかも、間もなく行く所へ行きそうですよ。
章介 う……ん。蒋介石も折角日本の力で共産党を追って返り咲いても、この有様では国民党もガラガラだ。
けい 孫文以来、日本とは切ってもきれない間でしょうにね。
章介 王正廷の背後には米国という後ろだてがいるんだ。王が外交部長に就任すると、同時に米国から田中総理に一種の威嚇的いかくてきな申し入れがあったといわれている位だからね。
けい それじゃ中国の政治ってものは誰がやっているんだかわかりゃしませんね。
栄二 誰が出て来たって、今迄のような頭目政治をやっている限り同じことですよ。可哀想なのはその都度つど道具に使われては絞られる一般民衆です。
章介 中国の政治のよくない所は何時でも外国の力を利用して、他の外国を牽制してばかりいることだ。こりゃもう、日清日露の役以来そうなのだ。アメリカ、イギリス、ロシア、実に厄介極まる。
栄二 そうですよ、中国はどうしても、中国自身の手に戻さなくちゃいけません。中国に関係のあるすべての外国は中国から手を引くべきですよ。
けい 私は、そうは思いませんね。中国は中国と、生活の上で一番関りの深い国と手を握り合うことでしか独り立ちは出来ませんよ。その国は日本ですよ。
けい、出て行く。
章介 おいおい、お茶の仕度ならいいよ。
けい ええ、でも、お茶くらいれますよ。
出て行く。
栄二 (見送って)あの人は、たしか僕より三つくらい下だったけが……。随分ふけてみえるなあ。
章介 あの女のやってきた仕事はお前や俺以上の仕事だ。ふけてみえるのはあの女にとって戦いのいさおしとでもいうべきものだろう。
栄二 そうのようですね。しかし少々やりすぎたのじゃありませんか。
章介 あの女はそれをしなければならないような地位に置かれて、それをしたのだ。あの女の働きが必要な間は働かせておいて、その働きがあの女に持ってきた結果だけをとがめるわけにはゆかん。
栄二 しかし、あの人も昔は空想家で感情のあふれた娘でしたよ。私は、何だか別の人に逢っているような気がして仕方がないのです。
章介 誰だって若い間は空想家で、感情にみちているものだ。それが年をとってくれば実際家で感情の枯れた木念仁ぼくねんじんになってしまう。しかし、あの女の偉い所は、若いある時代に自分から思い切ってその空想と感情を絶ち切ってしまったことだ。それからあの女は一度もそのことについて自分の感慨をらさなかった。実にみごとなものだ。
栄二 驚きましたね。世の中の美しいこと、嬉しいこと、しあわせなこと、そういうものを何一つ信じたことのない叔父さんが姉さんに対して讃美を惜しまないというのは。
章介 何とでもいうがいい。お前は昔、仲のよかった女に久し振りで逢うのだ。もっと余韻のある、しんみりした場面を想像していたのだろう。それとも昔お前を捨てた女が、今は亭主に捨てられている姿をみて溜飲りゅういんがさがった気がするのかね。どっちにしてもお前の考えは間違っている。あてが外れて、お気の毒さまという他ないね。
栄二 いや、そのどちらでもありませんよ。私ももう四十です。昔の夢をいつ迄も忘れかねるほど、ロマンチックな人間ではありませんがね。しかしあの人の今をみていると興ざめという気がするのは、又どうしようもありませんね。
章介 その興ざめな人間に誰がしたか、それを知ったらお前もそんな見方はしなくなるだろうさ。
栄二 そんな……人がいるのですか。それは誰ですか。
章介 お前達のおふくろと、この俺だよ。
栄二 僕達のお母さんと……どうしてそんなことをしたのです。
章介 俺がここの店を伸太郎に譲れといい出した時、お前達のおふくろは伸太郎一人では到底やって行けないことを見透していたのだ。だから、伸太郎の女房にあの女をと望んだおふくろにしてみれば、特別な恩恵でも与えるつもりだったんだろう。相手の気持も何も考えず、子供可愛さのエゴイズムから遮二無二しゃにむに押しつけてしまったのだ。俺はすぐ後で、それがあの女の本意でないことを知ったのだが、本人は何もいわなかった。従って俺も黙っていたんだ。
栄二 ……。ふーん。そんなことがあったのですか。
章介 ……。あの女は何もいわなかったよ。実に黙々として今日までやってきたよ。あの女に人間として、癖があるのは、俺も知っているが、それはあの女が人間としてのすべてを、あの戦いの生活の中で鍛え上げて来た結果なのだ。あの女の知ったことじゃないよ。
栄二 そうですか……。そんなことは、僕はまるで……。
けい、茶を持って入ってくる。
けい お番茶ですよ。
章介 ん。それで結構……。
栄二 いただきます。
だまって、けいの顔をみながら呑む。
けい 顔に何かついていますか。
栄二 いや……。ははは。
顔をそらす。
けい 叔父さま。私、栄二さんと二人でちょっとお話をしたいのですが……。
章介 いますぐかね。
けい ええ。
章介 そりゃ又急なことだ。それじゃ、俺は遠慮しよう。
けい すみません。追ったてるようで……。
章介 なになに、二階へ行って日向ひなたぼっこでもして来よう。話がすんだらそこから怒鳴ってくれ。
出て行く。
栄二 何ですか姉さん。毎日一緒にいて、今直ぐ話なんて……。
けい 栄二さん。私、一度伺おう伺おうと思っていたのですが、あなたは今度、一体どんな御用で内地へ戻ってみえたのですか。
栄二 いや、御用などというものはないんです。初めにいいました通り、しばらくぼんやりして何も考えないくらしをしてみたいと思いましてね。
けい 奥さんや二人の子供さんを中国に置いて御自分一人、こんな遠い所へ来てのんびりなどしていられますか。
栄二 遠い所へ来たっていずれは帰るんです。そう始終妻子のことを気にもしていませんよ。向うだってたまにのうのうと、鬼のいない間に洗濯をしてみたいでしょう。
けい 何時、何処が戦争でごった返しになるかわからない中国にいて、女や子供だけで、のうのうと旦那様の留守をたのしんでなどいられるのですか。
栄二 いささか不審尋問の形をそなえていますね。姉さんの話というのはそれですか。
けい (無視して)あなたは昨夜、一体何処へいらしたのですか。
栄二 そんなことをあなたに話す必要はないでしょう。私は子供じゃないのですから自分の行動を一々あなたに断ることはないと思います。
けい いいえ。話していただかなくちゃなりません。堤家の相続人の妻として、夫の家族の生活について知っておかなくちゃならないことです。堤が家にいればあの人がお伺いするはずのことです。仰言しゃって下さい。
栄二 とすれば、私は御返事をお断りする迄ですが。
けい それじゃ、あなたが向うでなすってらしたことは、私達に知られてはまずいことだと思っていいのですね。それから今度内地へ戻ってらした御用というのも、世間に知れては困る御用だと思っていいのですね。
栄二 御推察に委せます。何方にしても僕の行為についてそこ迄立入たちいったお話しは、あなたとする必要はないと思います。
けい ……。そうですか。……仕方がありません。玄関にあなたを尋ねてお客様がみえています。(名刺を放り出して)お逢いになってらっしゃい。
栄二 (ちらりとみて、ぎょっとする)姉さん。いるといったのですか。
けい 私はもっと別な御返辞をしなくちゃいけなかったのかしらと思いながら此処へ入ってきました。でも、今あなたの話を聞いて、自分の返事が間違っていなかったと思います。
栄二 莫迦ばかな、あなたに政治のことなどわかるものですか。(立って庭へ下りようとする。庭の向うを、二人の男が、ゆっくり歩いて横切る。栄二座敷へ戻る)姉さん、私はたった今、叔父さんからあなたの身の上について僕の知らなかったことを聞きました。そうしてちょっとの間大変素直な暖いショックを受けました。しかしそれはほんのちょっとの間。実に短い、甘ずっぱい感動でしたよ。あなたは私を……他の誰でもない、この栄二をさえ売ることの出来る人なのですね。
けい ゆく所へ行ってよく考えてらっしゃい、売るとか売らないとかいうのはあなたの仲間同志で仰言しゃることです。私は一度もあなたの仲間になった憶えはありません。
栄二 ははは。こりゃ一本参りました。成程あなたは私の仲間じゃない。あなたは私にとってはむしろ敵に属する人だったかもしれない。
けい あなたの……奥さんと連絡のとれる方法を教えておいて下さい。あなたのいらっしゃらない間の、奥さんと子供さんのことは御心配のないようにしておきます。
栄二 折角ですがその御好意はお断わりしましょう。たとえ私がお受けしたとしても、私の家族は、あなたの親切を受けるくらいなら、むしろ餓死を歓迎するでしょう。尤も、くやしまぎれにあなたをつけねらうくらいのことはするかもしれませんがね。しかし、おかしな話ですね。あなたと僕とは、ずうっと昔、やっぱりこの座敷で中国について話し合ったことがあるような気がします。取とめもない、夢のような話でしたが、私達は中国のことを話すことで、随分親しみを感じました。あなたにはお父さんの骨を埋められた土地、私にとっては、父が再び世の中へ出て来た土地、ところが今は、その中国のことをもう一度語ることによって二人は敵味方に別れてしまったのです。時もったが人間も変りました。まったくおかしな話ですね。(その時再びさっきの人影が黙々と庭を横切る)さあ、あの人が急いでいるようです。では私は行きます。御機嫌よう。
栄二出て行く。けい、石のように黙然としている。間。つと立って栄二の後を追おうとする時、うしろの廊下から。
知栄 お母さま!
けい ……。(戻ってきて坐る)
知栄 今、おじさまを連れて行った人達は、何ですの。
けい なんですかたちはだかって。お話をするならそこへお坐りなさい。
知栄 お母さま、おじさまは一体何をなすったからあの人達に連れてゆかれたのですか。
けい おじさまが何をなすったか、これから何をしようとしてらしたか、私は知りません。もう知る必要もないことです。
知栄 お母さまは、おじさまの為に何かして上げることは出来なかったのですか。あんな風にこちらから突き出すようなことをしないでも、もっとやさしくして上げる方法が考えられなかったのですか。
けい あなたには話してもわからないことです。
知栄 いいえ、私は知っています。叔父さまはうちへいらしてから、御自分のことをちっともお話しにならないのですもの、何かあると思っていたのです。お母さまもそれは知ってらっしゃるのだとばかり思っていました。
けい 私がそれを知っていたら今日迄黙って放っておかなかったでしょう。
知栄 お母さま。お母さまはそれで御自分が淋しくはないのですか。お父さまの本当の弟さんじゃありませんか。お母さまだって久し振りにお逢いになった義理のある人じゃありませんか。自分の家族を自分の手で縛るようなことをなすって、お母さまは苦しくないのですか。
けい 世の中には苦しくても淋しくても、しなければならないことというものがあります。叔父さまにもそれはわかってらっしゃると思いますよ。
知栄 私にはとても我慢が出来ません。ふみ子おばさまも、総子おばさまも、以前にはあんなに出入りしてらしたのにこの頃は、もうまるでよりつきもなさらない。お父さまはお父さまで、アパート住居ずまいなんかなすっておしまいになる。他の親類の人だってむろん、前を通っても声もかけない。くる日もくる日もお母さまと私と二人っきり、思いがけなく栄二叔父さまが帰ってらしたと思ったら又こんなことをして、おしまいになる。私にはお母様の気持がわかりません。
けい 私だって、二十年振りにお逢いした叔父さまと、こんな別れ方をするとは思ってもみませんでした。でも仕方がありません。あなたのおばあさまが以前私に仰言しゃいましたよ。誰にでも自分一人の願いというものはある。けれども、その願いを捨てなければならない場合ってものが又あるってね。
知栄 人間じゃありませんか。生きていて血の通っている人間じゃありませんか。お母さまは夜中ふと目をさまして、自分の手で自分の胸を抱いてみるようなことはおありにならないのですか。道端の小さい花をみて生きていることの嬉しさがおさえきれないというようなことが一度でもおありにならないのですか。お母さまは……。
けい (いきなり、ぴしゃりと知栄の頬を打つ)
知栄 (驚いてちょっとの間けいの顔をみている)
章介、入ってくる。中の有様にこれもちょっとまごつく。
章介 どうしたんだね。
知栄、いきなり立ち上って馳け出そうとする。
章介 おい。どこへ行くのだ。
知栄 私はお父さまの所へ行きます。これからお父さまと一緒に暮すんです。
出てゆく。
章介 知栄。おい、知栄。……行ってしまった。
けい ……。いいんです。その方があの子の為にもいいのです。私は前からそう思っていました。これで私はほんとにひとりになってしまいました。何だかかえって、さっぱりしたような気がします。叔父さま、あなたも今度こそ行っておしまいになるんでしょう。さあ、いらっしゃい。私はもう驚きません。
章介 ところが、俺はもう決して、お前の傍から離れることはないだろう。世界中の者がお前から去って行っても俺はお前の傍についているだろう。
けい そうですか。何方でもいいんですがね。栄二さんは共産党員だったんだそうですよ。知栄は、自分が何をいっているんだか、自分でもわかってやしないんです。私は自分のやったことが間違っているとは思いません。それだのに私は、知栄にあんな風にいわれると、どきんとするのです。他の人がやったら立派なおこないで通ることが、私がやるとみんな厭味で鼻持ならないことになってしまうんですね。出しゃばりでひとりよがりで冷たくて人間味がなくて……私にはそれがだんだんわかってくるのです。それでいてどうにもならないのですよ。皆が私から離れてゆくのが当り前だという気がするのです。私は、自分で自分がだんだん嫌になってくるのですよ。
章介 何をいうんだ。あんたが今そんなことをいい出してどうする。俺は、あんたのお蔭で初めて人間というものを信じることが出来るようになったと思っているくらいだ。そのあんたが今更自分を信じることが出来んなんて、そんなばかなことがあるもんか。おけいさん、しっかりしなくちゃいかん。あんたは俺にとっちゃ……。(肩をおさえ……急に手を引き、そのまま縁側の方に立っている)
黄昏の色が濃い。
     第五幕の一

昭和十七年正月の昼。

舞台、前幕とほぼ同じ。椅子、家具を入れ終った所の感じ。けいが、職人井上と女中の清を指図している。
けい その机はも少し向うへ押した方がよかないかしら。
井上 これですか。
けい ええ、そう。清、ちょっと手を借して上げなさい。
清 はい。
井上 これで、如何いかがです。
けい いいでしょう。結構ですね。
井上 戸棚は、此処で、よろしゅうござんすか。
けい そうね。いずれ、当人達が又勝手のいいように直すでしょうから……。
井上 随分古いものですね。こりゃあ。
けい 何しろ明治何年というのですから。
井上 そうでしょう。今出来の物とは違います。じゃ、先代がいらした頃ので。
けい 私がまだ、この家へ来ない時分からあったわけですからね。
井上 へえ。そんな古いものが、よくとってあったものですね。
けい 壊そうったってあなた、この頑丈さですもの。どうにもなりません。私もこの間蔵の中へ入ってみてびっくりしたのですがね。何が役に立つか、わかったものじゃありません。
井上 無駄なものってものはないもんですね。
清 あの、他に用意しておくものはございませんでしょうか。
けい そうですね。何しろ、勝手の違う人達のことだから私にもわからないよ。後は当人達が来てからのことにしましょう。
清 召し上りのもののことやなんか、如何どうすればよろしいのでしょうか。
けい まあまあ、そう、いっ時にいわないで下さい、そっちの方のことになると尚見当がつかないのだから。
清 では、このままにしておいてよろしゅうございますか。
けい ええ、後のことは後のことで、また考えましょう。女の子ばかりだから、案外自分達でよろしくやってくれるかもしれませんよ。
清 さよでございますね。では……。
けい あ。御苦労さま。
清、去る。
井上 なんですか。支那からのお客様ですか。
けい ええ。
井上 ははあ。長い御逗留ごとうりゅうで。
けい ええ。少し長くなると思うんですよ。ひょっとすると、ずうっとこの家の人になるかもしれないのですが……。
井上 そりゃそりゃ。向うの人とくると、言葉も分らないだろうし、お大抵じゃありませんなあ。
けい いいえ、言葉は、片親が日本人ですから、案外平気なんだろうと思うんですがね。何しろ毎日の習慣や、衣食がねえ……違うでしょうから……。
井上 そうでしょうとも。同じ日本人同志でも土佐の人間と越後の人間じゃ、毎日のしきたりってものがこれ、随分違うものでしてね。私なんぞも、仕事の上で仲間と一緒に旅へ出ることがよくありますがね、びっくりして笑っちまうようなことがよくありますよ。
清。
清 あの奥さま。横浜の、伸一郎様と仰言しゃる方が……。
けい え? 誰が?
清 よく、わからないのでございますが、伸……何とか仰言しゃいました。
井上 こりゃ、とんだおしゃべりをしてしまって……では私はこれで。
けい 御苦労さま。まあ、お茶でも召し上がって行って下さい。清、かしらにお茶を。
井上 いえいえ。もう、結構でございます。私はこのままの方が勝手で……じゃ……。
庭から去る。
けい それで、旦那様は?
と行きかける時、伸太郎。
伸太郎 いいかね、入っても。
けい お帰んなさいまし。お迎えもしないで……。
伸太郎 ああ。しばらくだった。変りはないかね。
けい お蔭様で。あなたの方も……。
伸太郎 お蔭でね。
けい それは結構でした。あの、此処は火がありませんから、茶の間の方へでも参りましょうか。
伸太郎 いや。ここでいいよ。この部屋は昔から日当りのいい部屋だ。ここで日に当ってれば火鉢はいらん。
縁側へ出て坐る。
けい そうですか。じゃ。お前はいいよ。
清 はい。
去る。
伸太郎 新らしく来た子かね。
けい 前にいたのが母親が病気とかで暇をとりましたので……。無しでやってやれないことはないのですが。
伸太郎 いや、これだけの家に女中無しじゃ掃除だけでも大変だ。店の方も戦争が始まるとまたいろいろと大変だろう。
けい はあ。どうなってゆきますことか……でも私は大分前からそのつもりで仕度をしてきましたから……あの……もっと此方へいらっしゃいませんか。何ですか端近はしぢかで……。
伸太郎 うん。いや……いいよここで……、本郷の何は……元気なんだろうね、相変らず。
けい はあ。お変りないだろうと思うのですが、この所ちっともお便りがないもので……。
伸太郎 ちっともみえないのかい、此方へ。
けい ええ。もう随分前から……。
伸太郎 どうしたのだろうな。便りがなければ此方から行ってでもみなくちゃいけないな。
けい そうですね。そういたしましょう。……あの、学校の方へは、その後ずうっと出てらっしゃるのでしょうか。
伸太郎 う……ん。まあね。
けい 何だか、お顔の色がはっきりしないようですけど、何ともないのですか。
伸太郎 そうかな、ここんとこちょっとたまっていた仕事を一遍にしたものだから疲れが出ているのだよ。……栄二の子供達はまだ来ていなかったのだね。
けい 山田さんが門司迄迎えに行ったのですが、船の都合で一日遅れると、今朝電報を打って寄越しました。明後日くらいになるかと思っています。あなたのお指図も待たないで差出たことをしまして……。
伸太郎 そんなことはないさ。親爺はいないおふくろに死なれるじゃ、あの連中も心細いだろうからね。しかし、お前はよくよく人の世話をするように出来てるのだな。
けい ……。(首を垂れる)
伸太郎 ところで世話ついでと言っちゃ何だが、今日は一つ頼みがあるんだが。
けい なんでしょう改まって。
伸太郎 知栄のことなんだがね。
けい 知栄がどうか致しましたのですか。
伸太郎 今朝起きぬけに松永君がやって来て、とうとう来ましたって言うんだよ。
けい と言うと。
伸太郎 応召だよ。
けい でもあの人はもう少しで予備に入るくらいでしょう。
伸太郎 今来ているのは皆その辺らしい、三十七八と言ったところらしいんだよ。
けい それじゃあの子も大変ですね。此の間バスの窓から一寸姿を見ました。二人の子供を歩かせて何だかとても倖せそうに見えました。次の停留所で降りてみようかと思ったけれどやっぱり其のままにして帰りましたが。
伸太郎 ……。
けい 暮し向きの事や何かどうなんでしょうね。
伸太郎 うん、それなんだがね、俺も今までくわしい事は知らなかったんだが、ああ言う音楽家などと言うものは別に何処の会社へきまって出勤すると言う事がないので定収入と言うものはないらしいんだね。ふだんは仕事をしさえすれば金が入るものだから、何とも思わなかったらしいが、こんな場合になってみると後に残る者の事がひどく心配になって来たんだ。と言って相談を掛けられても俺の方でも今のところあの家族をどうしてやれると言う程のゆとりがあるわけではなし、……そこでお前に相談に来たわけなんだが……。
けい ……。
伸太郎 俺も今更、お前にこんな事が相談出来た義理でもないのだが、外に大した名案もなしそれかと言って此の先何時まで続くか分らない戦争に、他人の力を当にするわけにもゆかないので……。
けい いいえそんな、相談出来た義理だの何だの。堤のお家はあなたのお家でございます。あなたがなさろうとお思いになる事に私はこれまで一度だって反対した事はございませんし、する理由もありませんわ。
伸太郎 確かにそうだ。お前の寛大なのをよい事にして俺はこれまで度々、当てにしてはならない時にお前を当てにしてすませて来たものだ。だからと言って俺が恥も面目も知らない人間だとは、まだ思っていないのだ。
けい 私は唯、松永さんがなぜ娘の事ならわたしに言って下さらなかったのかとそれを淋しく思ったのです。
伸太郎 そりゃ松永君だって事情を知らないわけじゃないんだから、お前に直接は言いにくかったんだろう。知栄は家を出る時は、ああして後足で砂をかける様にして出たきりだし、結婚する時だって前もってお前に一言了解を得たと言うわけでもなし、一緒に住んでいる俺でさえ事後承諾の形で、一時は憤慨したくらいだ。お前にしてみれば一人娘の婿だからいろいろ希望もあった事だろう計画もあった事だろう、店の仕事を継いで行く者の事も考えただろうし。
けい 私も一時はいろいろ考えた事もございますが、今頃までそんな事をおぼえては居りません。すべての事がうなったのも、こうなるより外に仕方がなかったのだろうと思っています。商売の事も今度の戦争のおさまり次第でどうなるか分ったものじゃありません。結局白紙にもどって第一歩から出なおさなくちゃならないとすれば、後を継ぐ者などなかった方が却って良かったのかもしれないと思っています。
伸太郎 どうもお前の諦めのいいのには驚かされる。
けい ……、そのお蔭で廻りの人からすっかり捨てられてしまいました。
伸太郎 俺達俗人にとってはえらすぎるんだなお前は。
けい そんなひどい。
伸太郎 (真面目くさって)いや。ほんとだよ。うん。
けい (噴き出してしまって)まあ、真面目くさって何でしょう。
伸太郎 (ますます真面目くさって)なに笑う事はないさ、俺はほんとにそう思っているんだ。
けい もう、よろしゅうございます。知栄の事は確かに私の方で致します。何だかだと言うよりこの家も広いのですからあの子さえ良ければ、此方へ越して来たらどうでしょう。
伸太郎 うん、いっそそうした方がいろんな面倒が却って少ないかも知れないな。俺の方からもそうする様にすすめてみよう。
けい 私も今夜にでも一寸、行ってみます。
伸太郎 ああ、それでやれやれだ。何だか大変な問題の様な気がしていたが話してみるとそうでもないのかなあ、変な気持ちだな。
けい 一役おすませになったのですからね。
伸太郎 ちょいと高いしきいだったが、娘のお蔭で越えさせられてしまった。俺もこれでやっぱり親爺おやじの端っくれかな。
けい 私達も、こんな話をするようになったのですから、もう年をとったのですね。
伸太郎 うん、俺などはもう。(とちょっと頭をみせて)白髪しらがが出て来た。
けい (微笑)でも、まだ白髪をお出しになる年じゃありませんでしょう。
伸太郎 いや、ほんとだよ。以前は時々知栄が抜いてくれたんだがね。この頃じゃもう、二本や三本ずつ、抜いたって追っつかないというので放ったらかしさ。放ったらかしにされるようじゃ、もうおしまいだね。(笑う)
清、茶をれてもってくる。
伸太郎 あ、どうも……。
清、去る。
伸太郎 (ゆっくり茶を呑んで)この部屋は模様変えをしたのかね。
けい あの人達がくるのに、いくらかでもくつろげるかと思って、お蔵の中から昔のお道具を引張り出して来たのですが……。
伸太郎 ああ。そうか、道理で見憶えがあると思った……。よく虫にもならないで、もってるもんだね。
けい 紫檀したんだとか黒檀こくたんだとかいうものは、いつ迄たっても変らないものですね。
伸太郎 ふーむ、何だか此処にこうしていると妙な錯覚を起しそうだな。ずうっと以前に、ここで、こんな風にして、やっぱり茶を呑んでいたことがあるような……。
けい 私も……今、ふっとそんな気がいたしました……誰の考えることも同じようなことですね。
間。
伸太郎 (急に茶碗をおいて時計をみる)さあ。そろそろ行かないと……。
けい まあ、およろしいではございませんか。
伸太郎 いや、そうもしていられない。電車が四十分かかるからね。今から帰って丁度夕飯に間に合うくらいなのだ。
けい なんでしたらお夕飯を済ましていらしたら。
伸太郎 それでもいいが……しかしまだ用も残っているし。
けい ……左様でございますね。……
伸太郎 じゃ、その方のことはよろしくたのむよ。
立上る。
けい 承知いたしました。
伸太郎 家をたたんだり荷物を運んだり、大変だが……。(行きかけて)え? 何かいったかね。
けい は! いえ。
伸太郎 ふふ、つんぼの空耳か。
と、いいながら、ちょっと周囲を見廻し、又行きかける。
けい あの……。
伸太郎 (振返る)
間。
けい あの……。知栄が戻ります時……あなたも御一緒に、お帰りになって下さいませんか。
伸太郎 (嫌味でなく)この家には、まだ俺の戻ってくる部屋があるかね。
けい あなたのお部屋は、あなたが出てらした時のままになっております。
伸太郎 ……。憶えて、おこう……。
そういって歩き出す。ふすまの所迄行った所で、急にふらふらと倒れそうになる。
けい (馳けよって)あなた、あなた、どうなさいました。
伸太郎 大丈夫だ。何でもない。
けい 大丈夫ですか。なんだか、お顔の色が真っ蒼ですよ。
伸太郎 大丈夫だ。もういい。もう……。
と歩き出し、又ふらふらする。
けい 駄目じゃありませんか、あなた。(と椅子の所へつれてゆき)何処がお苦しいんです。此処ですか。帯をゆるめましょうか。よろしい? きよ! 井上さんいませんか。
伸太郎 (止めて)けい。いいんだ。大丈夫だよ。
けい そんなこと仰言しゃったって、これじゃあなた。きよ! あなた、ちょっとそのままにしていらっしゃいね。今お医者を。
伸太郎 (けいの手を引っ張って)いいんだ。いいんだ。このままにしていよう。けい、お前と、二人で、こうしていよう。な、じっとしていてくれ。お前と、二人で……。
けい あなた。あなた! あなた!
(溶暗)
     第五幕の二

堤家の焼け跡。
第一幕の一と同じ瞬間。栄二とけい一幕の一と同じ型で立っている。
栄二 十……何年振りでしょうね、お変りがなくて結構でした。
けい ……あなたこそ……御無事で何よりでした。
栄二 (ゆっくりさっきの切石の方へ歩き出しながら)体は長い放浪生活で、相当鍛えてありましたからね。しかしすっかり年をとってしまいましたよ。貴女も随分お変りになった。月の光じゃ一寸見分けがつかない位ですよ。(又切石に坐る)
けい (栄二の方に近づきつつ)此の二三年私もすっかり老い込んでしまいました。
栄二 全くこの四年間の世の中の動き方ときたらすさまじかったですからなあ。そいつを乗り切る為には誰れもが十年を一年にしてやって来たんです。尤も其のお蔭で私の様に二度と見られないと思った世の中へひょっくり戻って来られた人間もいるにはいますがね。
けい ほんとうに……御無事で何よりでした。何時……。
栄二 出たのは一週間も前でしたがね、友達の家で昨日まで休ませて貰って、こっちに用もあり貴女方の消息も知りたいので、友達は引き止めてくれたんですが。ほんとはもう少しおそく上京する事になっているんです。
けい この頃はラジオも聞かず新聞も読まずなもんで……お迎えもしないで。
栄二 何そんなものはいりやしません。それより娘達を引き取って下すったそうで有難うございました。
けい ……そんな事くらいであなたへのお詫びが出来るわけではありません。
栄二 そんなうらみが言いたい位なら、わざわざ訪ねて来やしません。わたしが何かを言う以上に、今度の戦争じゃ貴女はひどい打撃を受けられた筈でしょう。
けい 私はわたしの体と心をささえていたものを、一ぺんにへし折られてしまった様な気がします。何をしても無駄な様な気もするし、じっとしてはいられない様な気もするし、ほんとは何が何だか分らなくなってしまっているのです。
栄二 そいつは貴女一人だけの事じゃありません。この国全部が生れて初めての大きな打撃によろめいているのですからね。而しそれも何時かは収まるでしょう。わたし達みんなの努力でそうする外ないのです。この見渡す限りの焼跡にも間もなく今までの日本とはまるで違った新しい何かが芽をふいて来るでしょう。人間の恨よりもその新しい芽の方にわたしは興味を感じています。ああ、おしゃべりをしていて気が付かなかったが夜が更けたせいか急に寒くなった様ですね。
けい 中へ入っておやすみになりましたら……。
栄二 いやそれより焚火でもしましょうか。今夜はこのまま眠れそうにもない。どうせこうなれば貴女の厄介者です。よろしくお願いします。
けい (立ちながら)わたしもどんなに心丈夫か知れません。どうぞ何時までも厄介になって下さいまし。(と言いながら壕舎の中へ焚物を取りに行く)
栄二 (後からついて行って柴を受取りながら)やあ、これは上等すぎる。どこか其の辺で拾って来てもよかったんだ。
けい (壕から出て来ながら)焼夷弾の焼跡には棒切れなんか残ってやしません。探したって無駄な事ですよ。
栄二 (石の所へもどって)はあ。すっかり専門家になりましたね。(二人一寸笑う。柴を組み合せながらふと手をやめて)わたしの娘達は。
けい 知栄達と一緒に大分前から疎開をさせてあります。木曾川のずっと上流で不便な処ですが温泉が出たりして落ち付けば住みいい処です。
栄二 ……有難ういろいろ、土浦にいると言うのは総子ですか。
けい そうです。猪瀬さんは早い目に思い切って工場をお売りになったのでとてもいい事なさいました。
栄二 ふみの方も無事にやっているらしいですね。
けい あちらも戦争中はいろいろむずかしい事もあった様ですがこれからはいろんな事がずっとしよくなるだろうと言う事です。
栄二 (燐寸マッチを受取って火をつける様にしゃがみ込んでけいの顔をさけながら)兄貴が亡くなったと言う事は聞いたけれど、別居のままですか。
けい ……はあ。でもどう言うものですか最後の時になって突然此の家へ訪ねて来てくれまして息を引き取る時は私の手を持ってそのままでした。
栄二 (顔を上げて)そうですか、それはよかったですね。兄貴もやっぱり貴女と仲なおりがしたかったのですよ。それが夫婦です。其の話を聞いただけで、わたしはあの死物狂いの汽車に揺られてやって来た甲斐かいがあると思います。
けい ええ。でも私此の頃になって時々考えるんです。私の一生ってものは一体何だったんだろう。子供の時分から唯もう他人様の為に働いて他人様がああしろと言われればその様にし、今度はそれがいけないと言って、身近の人からそむいて行かれ、やっとみんなが帰って来たと思ったら、何も彼もめちゃめちゃにされてしまい、自分て言う者が一体どこにあるんだか……。
栄二 今までの日本の女の人にはそう言う生活が多すぎたのです。しかしこれからの女は又違った一生を送る様になるでしょう。
けい そうでしょうか。そうでしょうね。そうあってほしいと思います。
栄二 さあ燃えた。手を出しなさい……。わたしは今ずっと昔読んだ外国の短篇を思い出しているんですがね、それは今夜の様に月の明るい夜、人気ひとけもない公園で燕尾服えんびふくと夜会服を着込んだ老人夫婦が静かにカドリイルを踊ると言うんですがね、どうです、わたし達も此の月の下でカドリイルを踊ってみませんか。
けい え。
栄二 いえ。其の老人達の色褪いろあせた式服にもはなやかな昔が数々折り込まれている様に、わたし達の老年にも一つや二つの思い出があろうと言うものですよ。
けい ほんとうに。踊りましょうか。(二人顔見合せて静かに笑う)

底本:「現代日本文學大系 83 森本薫 木下順二 田中千禾夫 飯澤匡集」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月5日初版第1刷発行
   1981(昭和56)年10月30日初版第13刷発行
入力:伊藤時也
校正:土屋隆
2006年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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