上

 五百機いほはた立てて綾錦、織りてはおろす西陣の糸屋町といふに、親の代より仲買商手広く営みて、富有の名遠近おちこちにかくれなき近江屋といふがあり。主人あるじは庄太郎とて三十五六の男盛り、色こそは京男にありがちの蒼白過ぎたる方にあれ、眼鼻立ちも尋常に、都合能く配置されたれば、顔にもどこといふ難はなく、風体も町人としては上品に、天晴れ大家の旦那様やと、多くの男女に敬まはるる容子ようすなり。されどこの男生れつきてのしまりてにて、おさなきより金の不自由は知らで育てし身が、何に感じてやらそれはそれは尋常ならぬ心得方、五厘の銅貨を二つにも三つにも割りて遣ひたしといふほどの心意気、溜めた上にも溜めて溜めて、さてその末は何とせむ了簡ぞ、そこは当人自身も知るまじけれど、ただ溜めたいが病にて、義理人情はわきまへず、金さへあればそれでよしと、当人はどこまでも済まし込めど、済まぬは人の口の端にて、吝嗇けちを生命の京わらんべも、これには皆々舌を巻きて、近処の噂さかしまし。中にもこれは庄太郎の親なる庄兵衛といふが、どこの馬の骨とも知れぬに、ある年江州より彷徨さまよひ来り、織屋へ奉公したるを手始めに、何をどうして溜めしやら、廿年ほどの内にメキメキと頭をもたげ出したる俄分限、生涯人らしきものの味知らで過ぎしその血の伝はりたる庄太郎、さてかくこそと近辺の、医師の書生の下せし診断、これも一ツの説なりとか。その由来はともかくも、現在の悪評かくれなければや、口入屋も近江屋と聞きては眉を顰め、ハテ誰をがなと考へ込むほどの難所、一季半季の山を越したる、奉公人はなしとかや。さればかかる大家に、年久しく仕ふるといふ番頭もなくその他はもちろん、新参の新参なる奉公人のみなれば、商業の取引打任すべきものはなし、地廻りのみは雇ひ人を遣へど、大阪神戸への取引は、主人自ら出向くが例なり。この一事庄太郎の為には大の頭痛にて、明日行くといふ前一日は、終日ふさぎ通して、例の蒼白き顔いよいよ蒼く、妻のお糸はいへば更なり、たなの者台所の飯焚女まで些細なる事にも眼に角立てらるれば、アアまた明日は大阪行かと、呟くもあれば、お蔭でこちらへ来てより、ついぞ鯛は見た事なきも、目玉の吸もの珍しからず、口唾は腹を癒せりと冷笑あざわらふもあるほどなり。さるはかねてより執着深き庄太郎の、金銀財宝さては家くらに心ひかされてかといふに、これはまたあるべき事か、それよりももつと大事の大事の妻のお糸にしばしだも離るるがつらさにとは、思ひの外なる事もあればあるものかな。
 店よりは二間隔りたる六畳の中の間、目立たぬ処の障子は、ことごとく反古にて張り、畳の上にはこれも手細工に反古張り合はせたる式紙一面に敷き渡し、末なる煙草盆の、しかも丈夫に、火入れは小さき茶釜形なるをひかへて、主人庄太郎外見ばかりはゆつたりと坐りたれど、心に少しの油断もなきは、そこらジロジロ見廻す眼の色にも知られぬ。別に叱言こごといふべき事も見出ださざりしと見えて、少しは落着きたるらしく、やがて思ひ出したやうに、奥の間に針仕事してありし妻を呼びて、我が前へ坐らせ、しげしげとその顔を眺めゐたりしが、投げ出したやうな口調にて、
 これお糸や。
といひながら臭き煙草を一ぷくくゆらし、これも吹殻より煙の立つやうな不始末な吸ひやうはせず。吹かしたる煙の末をも篤と見済まして、あはれこれをも軒より外へは出しともなげなり。さて炭団埋めたる火鉢の灰を、かけた上にもかけ直して、ほんのりとぬくい位の上加減と、手つきばかりは上品にのんびりとその上にかざし、またしげしげとその顔を見て、
 これお糸ゆふべもいうた通り、今日はこれから大阪まで行つてこねばならぬ。いつもいふ事ぢやが、留守中は殊に気をつけて、仮りにも男と名の付くものには逢ふ事はならぬぞよ。たとへ家に召遣ふものでも男にはお前が直接じかにいひ付ける事はならぬぞ。その為に下女といふものが置いてあるのやさかい。また商売用に来た人は、店の者が取捌とりさばく筈でもあり、それで分らぬ事はわしが留守ぢやというておけばそれで済む。それでも内方に逢ひたいといふ人があつたら、よくその名前を覚えておけ、後日の心得にもなる事やさかい。それからまた親類の奴ぢやがな、これはとかく親類といへばええかと思うて、わしの留守でもかまはずづんづん上るものがあるといふ事ぢやが、これからはそんな事があつたら、親類でも何でも構はぬ、とつとといんで貰ふがよい。
 ナ何叔父さんはどうしやうといふのか、知れたこツちや。叔父さんでも同じこツちや。
 ウム……いつぞや叔父さんが怒つた事がある……フフン何構ふもんかい、たとへ甥の嫁でも留守に逢はうといふのが、向うが間違いぢや。それで気に入らねばここの家へ来ぬがええわ、あたあほうらしい、亭主の留守に人の女房に相手になつて、何が面白い事があろぞい、誰でもその身で知れたものぢや、てんでに我が女房は気にしてるくせにアハ……ナアお糸さうじやないか。
 ちよつと妻の顔色を窺ひしかど、何の返事もなければ不満らしく、また煙草一二ふく燻らして、ポンと叩く灰吹の音にきじめを利かし。
 何でもかんでも搆はせんわ、一切断るといふ事を忘れまいぞー誰はええ、彼はええといふ事になると、ついものがややこしなつて来てうちの規則が破れるさかい。何のお前人の女房といふものは、亭主の気にさへ入ればそれでよいのじや。よその人の気に入ると、えて間違ひが出来るさかいな。
 少し声を潜めて、
 トいふも実はわしのお父さんがそれでしくじつてはるのや。
 ウ何ぢや、親類の人だけは受けが悪なると困る。ハ……分らぬ事をいふ奴ちや。わしとこの親類に誰ぞ、ヘイ上げまようというて、金を持て来るものがあるかい――、あらしよまいがな。それ見イな、何が困る事があろぞひ。まだしも無心をいはぬだけが取得と思つてる位の先ばかりじやないか、それを何心配する事があろぞひ。そんな奴でもちよつと来て見イな、茶の一杯も振舞はんならんし、畳も自然損じるといふもんぢや。そこへ気がつかぬとは、さてさて世帯気のないこツちや。いつもお前の心配は、とかく方角が違うて困る……
「なるほど分りました。」
 分つたか、分つたらそれでよい。それからまた飯時のこツちやがな、お前はいつも、わしがいひ付けといても、わしの留守には出て見てくれぬさかいいかん。これから行くと、なんぼ急いでも帰りは夕方になるやろさかい、昼飯はわしの留守に喰う事になる。さうすると皆ンなが、ここを先途と喰ふさかい、いつもいふ通りその時だけは台所へ出て、火鉢の傍で見張つててくれ。それも男の方はなるべくその顔を見ぬやうにして、手を見てゐればよい。それでも勘定は分るさかい、女子の方は構はせん、充分顔を見ててやれ。さうするとあんなもんでもちつとは遠慮して、四杯のとこは三杯で済ますといふもんぢや。男の方はしよことがない、手だけで勘忍してやるのやけどなハ……
 高く笑ひてまた小声になり、
 さうするとまア一人前に一杯づつは違てくるといふもんじや。一杯づつ違ふとして見ると、コーツとなんぼになる知らん。
 首をひねりてちよつと考へ、
 まア男が十人で女が三人そこへ丁稚の長吉やがな……
 いひかけてまた考へ、ポンと膝を叩きて、
 ええわ、子供の割にはよう喰ひよるさかい、こいつも一人前に見といてやろ、さうするとコーツとなあ。……
 次第に左の手の指を折りたるを、妻の面前にさし出して、それと七分三分にその顔を眺め、
 そやろがな、これで十四人じや、そうするとどれだけになる知らん。
 得意らしくうつむきて勘定にかかり、たちまちに胸算は出来たりと見えて、しきりに自ら感歎し、
 えらいものなア。ちよつとこれで一遍に四合六勺あまりは違ふさかいな。
 振り向きて肩後うしろひかへし張箪笥の上より、庄太郎の為には、六韜三略虎の巻たる算盤、うやうやしく取上げて、膝の上に置き、上の桁をカラカラツと一文字に弾きて、エヘント咳払ひ、ちよつとこれを下に置きて、あたかも説明委員といふ見得になり、
 まあそれざつと三杯を一合と見いな、もつとも家の茶碗は小さうしてあるけど、みんながてんこ盛りに盛りよるさかいな、そこで、
とまた算盤を取り上げて、今度は手に持ちたるまま妻の顔を見て、
 先づここへ三と置くやろ、さうしてこちらへ十四とおいてと、エエ十四を三で除るとすると、――な、それな三一三十の一三進が一十、ソレ三二六十の二、三二六十の二でそれな……
 ちよつと頭を掻きて、
 除り切れんさかい都合が悪いけど、これでざつと四合六勺なんぼといふものやろ、
 どうじやといはぬばかり手柄顔に、また妻の顔を見て、
 それな、そこでコーツと一石を十二円の米として、
とまたぱちぱち算盤と相談、
 五銭六厘は違はうといふもんじや。ゑらいもんなあ。今は割木がたこなつてるさかい、これで一束は買へまいけれど、まア一度分のきものは、ざつとここから出やうといふもんじや。何となア怖いもんなア。
 今は自分の得意のみにては飽き足らずや、妻よりも感歎の声を上げさせむと、しきりにその同意を促したれど、これはまたいかなる事ぞ、鬼の女房に鬼神のなり損ねてや。この女房京女には似ず、先刻来の事にはいつさい無頓着にてあごを襟に埋めたまま何事をか他事を考へゐたり。
 庄太郎はやや不満ならぬにあらねど、元来惚れたる妻なればや、我と我が機嫌をとり直してからからと笑ひ、妻の顔を下より覗くやうにして、
 アハ……これはまたちと御機嫌を損ねたかな。
 これには妻も何とかいうてくれさうなものと、しばしためらひゐたりしが、なほもかなたは無言なれば、また重ねかけて、
 何じやまた怒つたのか、何にもそないな怖い顔せいでもえいがな、お前はとかく私が勘定の話すると気に入らぬけれど、わしばかりの世帯ぢやないがな。この身代がようなれば、やはりお前もええといふもんぢや。――が今のはほんの物の道理をいうて見たのや、何もこれで雑用が減つたか減らぬか、それを月末に勘定してみやうといふではなし、ほんの話をして見ただけの事やさかい、万事その心得で居てさへ貰へばええといふこツちや。
 自ら詫びるやうな調子になりて、
 わしも今出て行こうといふ矢先じや。お前の怒つた顔を見て行くのも、あんまりどつとせんさかい、ちと笑ろて見せいな。
 同時に算盤は、無情にもわきへ突遣られたり。
 コーツとなア、その代はり土産は何を買うて来か知らん、二ツ井戸のおこしはお前が好きやけど、○万の蒲鉾はわしも喰べたいさかいな。
 さも大事件らしくしばし考へ込みしが、庄太郎はポンと手を叩きて、
 いいわ、負けといてやろ、おこしにして来るさかいな。ひよつと夕飯までに帰らなんだら、少し御飯ごぜんひかへて喰べとくがよい、腹のすいてる方がおいしいさかいな。
 いかなる場合にも、勘定を忘れぬ男なりけり。お糸もかう機嫌を取られてみれば、さすが我が亭主だけに、厭はしき人ながらも気の毒になりて、やうやく重き唇を開き、
 宜しうござります、何んにも御心配おしやすな、あんたに御心配かけるやうな事はしまへんさかい、安心してゆつくりと行ておいでやす。
 大張込みにいひたるつもりなれど、そのゆつくりといひしが気にかかりて、庄太郎はむツとした顔付、
 何じやゆつくりと行て来いといふのか。
 俄然軟風の天気変はりて、今にも霹靂一声頭上に落ちかからむ気色にて、庄太郎は猜疑の眼輝かせしかど、例の事とて、お糸は早くも推しけむ、につこりと笑ひを作りて、
 いいえ、なアゆつくりというたのはそりやあなたのお心の事、おからだはどこまでもお早う帰つて貰ひまへんと、私も心配どすさかい。
 庄太郎はとみに破顔一番せむとしたりしにぞ、白き歯を見せてはならぬところと、わざと渋面、
 さうなうてはかなはぬ筈ぢや、亭主の留守を喜ぶやうな女房では、末始終が案じられる。それはマアそれでよいが、また何にもいふ事はなかつたかしらん。
 考へ果てしなき折しも、店の方にて丁稚の長吉、待ちあぐみての大欠伸、
 旦那はまアいつ大阪へ行かはるのやろ、人を早う早うと起こしといて、今時分までかかてはるのやがな、おつつけ豆腐屋の来る時分やのに。
 庄太郎聞き付けてくわつと怒りを移し、
 これ長吉ちよつと来い。
 我が前へ坐らせて、
 お前は今何をいうてたのぢや。いつ行こと行こまいと、こちの勝手じや、お前の構ひにはならぬこツちや。そんな事いうてる手間で隣家へ行て、もう何時でござりますると聞いて来い。ついでに大阪へ行く汽車はいつ出ますと、それも忘れまいぞ。
 叱り飛ばして出しやり、もと柱時計の掛けありし鴨居の方を見て独言のやうに、
 ああやはり時計がないと不自由ななア、要らぬものは売つて金にしとく方が、利がついてよいと思うて、何やかや売つた時に一所に売つてしまうたが、こんな時にはやつぱり不自由なわい。でも隣家は内よりもしんしよが悪い僻に、生意気に時計を掛けてよるさかい、聞きにさへやれば、内に在るのも同じこツちや。あほな奴なア、七八円の金を寐さしといて、人の役に立ててよる。
 これにも女房無言なれば、また不機嫌なりしところへ、長吉帰り来りて、九時三十分といふ報告に、さうさうはゆつくりと構へて居られず、
 ええか、今いうただけの事は覚えてるな。
 念の上にも念を推してやうやくに立上り、辻車の安価なるがある処までと長吉を伴につれ、持たせたるささやかなる風呂敷包の中には、昼餉ひるげの弁当もありと見ゆ。心残れる我家の軒を、見返りがちに出行きたり。

 しばらくありて丁稚の長吉、門の戸ガラリ、
 ヘイ番頭さんただ今、
 いひ訳ばかり頭を下げぬ。名は番頭なれどこれも白鼠とまではゆかぬ新参、長吉の顔見てニヤリと笑ひ、
 安価やすい車があつたと見えて、今日はどゑろう早かつたな。またお前何やら、大まい五厘ほどの駄賃貰ろて、お糸さんの探偵いひ付けられて来たのやろ。そんな不正いがんだ金は番頭さんが取上げるさかい、キリキリここへ出せ出せ。
 おだてかかれば、上を見習ふ若い者二三人、中にも気軽の三太郎といふが、
 これ長吉ツどん、うつかり番頭さんに口を辷らすまいぞ。極内でわしに聞かしとくれ。おほかた旦那はこういうてはつたやろ。店の者の中でも、この三太郎は一番色白でええ男やさかい、あれにはキツト気をつけいとナそれ。
 アハ……と笑い転げる長吉をまた一人が捉へて、
 なんのそんな事があろぞい。三太郎はあんな男やさかい気遣ひはない、向ふが惚れてもお糸が惚れぬ。それよりはこの惣七。あれがどうも案じられると、いははつたやろ。
 いふ尾についてまた一人が、
 三太郎ツどんも惣七どんも、その御面相で自惚うぬぼれるさかい困るわい。お糸さんの相手になりそなのは、わしの外にはない筈じやがな、ナ、ナ、これ長吉ツどんナ旦那の眼鏡もそうやろがな。
 銘々少し思ふふしありと見えて、冗談半分真顔半分で問ひかかるをかしさを、長吉はこらへて、
 へいへいただ今申します、旦那のいははりましたのには、店の奴等は三太郎といひ、惣七十蔵、その他のものに至るまで……
といひかければ、早銘々得意になりて、我こそその心配の焦点ならめと、一刻も早くその後を聞きたげなり。長吉は逃支度しながら声色めかして、
 いづれを見ても山家育ち、身代はりに立つ面はない、長吉心配するに及ばぬといわはりました。
といひ捨てて、己れ大人を馬鹿にしたなと、三人が立ちかかりし時は長吉の影は、はや裏口の戸に隠れたり。跡にはどつと大笑ひ、中にも番頭の声として、
 やはりお糸さんが別品べつぴんやさかい、皆なが気にしてると見えるな。旦那の心配も無理はない。死んだ先妻のお勝さんといふは、よほど不別品やつたといふ事やけど、それでも気にしてゐやはつたといふこツちやさかいな。アハ……番頭さんもお糸さんを、別品やというて誉めてる癖に、我が事は棚へ上げとかはるさかいをかしいわい。
 同士討ちの声がやがやとかまびすし。かかる騒ぎも広やかなる家の奥の方へは聞こえず。お糸は夫を出しやりて後は、窮屈を奥の一間に限られたれば、飯時の外は台所へも出られぬ身の、一人思ひに沈める折ふし、先妻の子のお駒といひて、今年七歳なるが学校より帰り来り、
 ヘイお母アさんただ今。
 おとなしく手をつかゆるを、お糸は見て淋しげなる笑ひを漏らし、
 おおえらい早かつたなア、もうお昼上りかへ。
 ヘイお昼どす。
 そんなら松にさういうて、早うお飯喰べさせてお貰ひ、お母アさんも今行くさかい。
 お駒はものいひたげに、もぢもぢとしてやがて、
 あのお母アさん、焼餅たらいふものおくれやはんか。
 エ、焼餅、焼餅といふものではないえ、女子おなごの子はお焼きといふものどすへ。けどそれは今内にないさかい、また今度買うて上げますわ。
 いいえ私は知つてます、お焼きがあると皆ンながいわはりました。
 誰れがへ。
 学校で隣のお竹さんや、向ひのお梅さんが、あんたとこにはお父ツさんが、毎日焼いてはるさかい、たんと焼餅があるやろ、いんだらお母アはんにお貰ひて。
 ええそんな事をかへ。
 お糸は口惜しく情なく、さては夫の嫉妬りんき深き事、くより近所の噂にも立ちて、親の話小耳に挾みし子供等の、口より口に伝はりて、現在父の悪口とも知らぬ子供の、よそでなぶられ笑はるるも、誰が心のなす業ぞや。さはいへ夫を恨むは女の道でなし、我に浮きたる心微塵もなけれど、疑はるるはこの身の不徳、ああ何となる身の果てぞと、思案に暮るるをお駒は知らず。継子根性とて、あるものを惜しみて、母のくれぬものとや思ひ違へけむ、もうもう何にもいりませぬといはぬばかり、涙を含み口尖らせ、台所の方へ走りゆく後姿いぢらしく、お糸は追ひかけて、外のものを与へ、やうやくに機嫌とり直しぬ。
 五時といふに庄太郎は帰りつ。約束の土産の外に、お糸が日頃重宝がる、小椋屋のびんつけさへ買ひ添へて、いつになき上機嫌、花の噂も聞いて来たれば、明日は幸ひ日曜の事、お駒をも連れて嵐山あたりへ、花見に行かむといひ出たるは、長吉の報告に、今日の留守の無難を喜びての事なるべし。お糸も優しくいはれて見れば底の心はすまねども、上辺に浮きたる雲霧は、拭ふが如く消え失せて、その夜は安き眠りに就きぬ。

   中

 よそにまたあらしの山の花盛り、花の絶間を縫ふ松の、みどりも春の色添ひて、見渡す限り錦なる花の都の花の山、水にも花の影見えて、下す筏も花の名に、大堰の川の川水に、流れてつひに行く春を、いづ地へ送り運ぶらむ。川を隔てて見る人の、顔も桜になりながら、まださけさけと呼ぶもあり。菓子売る姥の強ひ上手、甘きに乗りてうつかりと、渋き財布を解くもあり。人さまざまの花莚敷き連ねたるそが中を、夫婦に子供下女丁稚五人連れにて過ぎゆくは、これ近江屋の一群なり。お糸は日頃籠の鳥、外に出る事稀なれど、春の花見と秋の茸狩[#「茸狩」は底本では「葺狩」]これのみは京の習ひとて、いかに物堅き家にても催すが例なれば、庄太郎も余儀なく、世間並に店のものは別に出しやりつ、お糸は己れ引連れて、かくは花見に出でしなり。外珍しき女の身、殊には去年近江屋へ嫁ぎてより、あるに甲斐なき晴小袖、かかる時に着でやわと、お糸はさすが若き身の、今日を晴れとぞ着飾りたれば、器量も一段引立ちて、美しき女珍しからぬ土地柄にも、これはと人の眼を驚かし、千鳥足なる酔どれの酔眼斜めに見開きて、イヨー弁才天女と叫ぶがあれば、擦れ違ひざまに、よその女連のほんに美しい内方と囁きながら振返るが嬉しく、日頃は人の眼にも触れさせじと、中垣堅く結べる庄太郎も、今日は悋気の沙汰を忘れて、これみよがしに連れ歩行あるきぬ。
 これお糸ちよつと見いな、あの桜の奇麗に咲いた事なア、もう二三日後れると、散りかかるところやつたぜ。
 さうどすなア、いつも十五六日頃どすけれど、今年はちつと早かつたと見えますなア。
 さうやどこで休もな、三軒家あたりがてうどよいのやけど、あまり人が込んでるさかい、どこぞ外の処で。
とは茶代の張るを厭ひてなるべし。折からとある茶屋の床几しやうぎに腰掛けゐたりし、廿五六の優男、ふし結城の羽織に糸織の二枚袷といふ気の利きたる衣装いでたちにて、商家の息子株とも見ゆるが、お糸を見るより馴れ馴れしげに声かけて、
 これはこれはお糸さん、あなたも今日はお花見どすか。可愛らしいお子様の、いつの間にお出来やしたの。
 ちよつと庄太郎に会釈して、愛想よし。お駒の頭撫でなどするを、苦々しげに見てをりし庄太郎に、お糸は少しも心付かず、
 ほんにあなたは幸之介様でござりましたへな、ついお見それ申しまして失礼を致しました。わたしもただ今では糸屋町の、近江屋といふ家に居りますさかい、お夏さんにもちとお遊びにお出やすやうに。
 通り一遍の世辞をいひたるなれど、庄太郎は例の心より、たちまちこれが気にかかり。
 今の人はえらひええ男やな、お前心易いと見えるな。
 疑問の前触まへぶれは早くも掲げられたれど、お糸は未だ心付かず。
 ヘイあのお方は、わたしの小学校へ行てました時分の友達の兄さんで、あの人もやつぱりおんなし学校へ行てはつたのどす。
 フムそれだけか。
 ヘイさうどす。
 それにしてはお前の顔がをかしかつたぜ。それ位の事であんな赤い顔をしたのか、妙な笑ひやうをしてたやないか。
 あまりの事に、お糸も少しムツとして、
 別に赤い顔をしたという訳もおへんやないか、そらあんた誰でも女子といふものは、人にものをいふ時には、ちつとは笑顔をしていふものどすがな。別にあの人に限つて笑ろうたのやおへん。
 素気なくいひ放ちたるに、それより庄太郎の気色常ならず、せきかくの花見もそこそこにして、帰りは合乗車といふは名のみ。面白からぬ心々を載せたればや、とかくに二人が擦れ合ふのみにて口も利かねば、たまたまの事にまた旦那が箱やを起こして、ほんに陰気な事やつたと、下女も丁稚も小言つぶやきぬ。

 その翌日も日一日庄太郎は、絶えてお糸にものいはず、されどその人に在りては、かかる事珍しきにもあらねば、また旦那の病が起こりしとのみ思ひて、お糸も深く心にとめず。まさかに昨日の幸之介一条、心にかかりてとまでは推せねど、ただ危きものに触るやうにして、やうやくに日を暮せしに、やがて寝に就かむとする十時頃に、
 ヘイ郵便が参りました。
み女の梅の持ち来りしを、庄太郎は手に取りて、見て見ぬ振り、無言にお糸の方へ投げ遣りぬ。お糸は近江屋様にてお糸様とあるに、我のなりとうなづきて開き見れば、きのう逢ひし幸之介の妹なつといふより寄せしなり。たださらさらと書き流して何の用もなければ、きのう兄より御噂承りて、あまりの御なつかしさにとあるのみ。されど絶えて久しき友よりの手紙なれば、お糸は我知らず繰返して眺め居たるを、先刻より恐ろしき眼にてじろじろと見ゐたる庄太郎だしぬけに、
 お糸それはどこからの手紙じや。
 きのふ逢ひました人の妹よりといはむは、いとも易き事ながら、前夜より口を利かざりし人の、すさましく問ふ気色さへあるに、ふと今日の不機嫌もその人の事にはあらぬかと心付きては、何となく隠したる方安全らしく思はれもして、
 ヘイ友達の処からの手紙でござりまする。
 フム昨日の人の妹か。
 いいえ。
 つがひたる一矢は、はや先方の胸を刺したり、かかる事に注意深き庄太郎の、いかでかは昨日夏と聞きし名の、その封筒に記されたるを見のがすべき。
 フムそれに違ひないか。
 ヘイほんまでござります。
 勢ひ確答を与へざるを得ずなりしお糸、庄太郎はクワツと怒りて立上り、
 おのれ夫に隠し立するなツ。
 いふより早し肩先てうと蹴倒し、詫ぶる詞は耳にもかけず、力に任せて打擲ちやうちやくしつ、
 お前のやうな不貞なものは、ちよつとも家に置く事は出来ぬ。たつた今出て行けツ。
 血相も変はりて、逆上したるらしき庄太郎、これもこなたの常なれど、不貞の名を負はされては、お糸もくせと知りつつだまつてゐられず。一生懸命にて夫の拳の下を潜りながら、
 ど、どうぞその手紙を見ておくれやす。け、決して悪いつもりで隠したのではござりませぬ。あんまりあんたの、お疑ひが怖さに……
 ナ何というた、おれが疑深ひ――おのれツ人にあくたいきおるな。
 怒りはますます急になり、今は太き火箸を手にしての乱打。
 サア出て行かぬか、何出る事は出来ぬ、出ぬとて出さずに置くものか。
 勢ひすさまじく飛びかかり、十畳の間をかなたこなたへ追ひ廻す騒ぎも、広き家とて、始めは台所のものも気付かざりしが、あまりの物音にやうやく駈け来りたる下女三人、
 マ……旦那さんお待ちやす、お糸さん早うお断りおいひやす、どうぞ旦那さん旦那さん。
 おづおづとして止めてゐたれど、庄太郎の暴力とても女の力に及ばざれば、側杖喰はむ恐ろしさに、下女等は店へ駈け付けて、若い者呼びさましたれど、これは日頃覚えあれば出も来ず、男の顔見せてはかへつて主人の機嫌損はむと、いづれも寐た振して起きも来ず。お糸も今はその身の危さに、前後を顧ふにいとまあらず、我を忘れて表の方に飛出したるを見て、庄太郎は我手づからくわんぬきを※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し、
 誰でも彼でも、断りなしにお糸を内へ入れたものには、きつとそれだけの仕置をするぞ。
 わめき散らして立去りたる後は、家内寂然ひつそとして物音もせず。多くの男女も日頃の主人の気質を知ればか、これも急に開けに来る様子はなきにぞ、お糸はしばし悄然として、その軒下に佇み居たりしが、折悪しくも巡行の査公、通りかかりてジロジロとその顔を眺め、幾度か角燈の火をこなたに向けて、ピカリピカリとお糸の姿を照らしながら過ぎゆくも心苦しく、自然咎められては恥の恥と、行くともなし二足三足歩みかけしが、さてどこへと指さむ方はなし。媒妁人の家は遠きにあらねど、これは媒妁とはいへ他人なれば、恥を曝すも心苦し。里方へ帰りては事むつかしくなりもやせむ、とてもこのまま家へは入れらるまじき身を――お、それよそれよ程近き叔父様の家、そこまでゆきてともかくも身を頼まむと、平常着ふだんぎのまましかも夜陰に、叩き苦しき戸を叩きぬ。
 叔父も一時は驚きしが、若きものには有うちの事とて取合はず。
 ハ……出て行けといふのは男の癖やがな、それを正直に出るといふのがお前の間違へじや。そのままあやまつて寝さへすれば、翌朝あすは機嫌が直るといふものじや。それを下手に人が口を入れると、何でもない喧嘩に花が咲いて、かへつて事がめんどうになるものじや。私が挨拶してやるのは何でもないが、それよりはお前が一人でいんだ方が、何事なしに納まるやろ。あんまり仲が好過ぎると、得て喧嘩が出来るさかい、仲好しもゑい加減にしとくがよいじやハ……
 事もなげにいはれてみれば、泣顔見するも恥づかしけれど、お糸は更にさる無造作なる事とは思はず。さはいへこれこれでと打明けむは、いかに叔父甥の間柄とはいへ、夫の恥辱はぢとなる事と思へばそれもいはれず。ただ責めを己れ一身に帰して、
 なるほど承つてみますれば、そんなものでござりまするか存じませぬが、何分にも今晩のうちの人の立腹は尋常ひととほりの事ではござりませぬ。決して決して喧嘩といふではございませぬ、何事も不調法なる私うちの人の立腹も無理はござりませぬが、それはどこまでも私があやまりますさかい、どうぞ叔父さん御慈悲に御挨拶下されまして。
と声を顫わせ頼むけしき、容易の事とも思はれねば、叔父もやうやく納得して、
 それでは私が送つてやろ、おおもう十二時は過ぎたのや。家で一晩位泊めてもよいのやけど、なんぼ甥の嫁でも人の女房、断りなしに泊めても悪かろ、そんなら今から。
 煙草入腰に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して立上るに、お糸もやうやく力を得て、どうぞこれで済めばよいがと、危ぶみながら随ひ行きぬ。
 さて叔父のおとなひに、一も二もなく門の戸は開かれたれど、さぞ叔父様のお骨の折れる事であろと、お糸は我が家ながらしきゐも高くおづおづと伯父の背後うしろに隠れゐたるに、案じるよりは生むが易く、庄太郎は前刻せんこくの気色どこへやら、身に覚えなきもののやうなる顔付にて、
 これはこれは伯父様どうも夜中に恐れ入りまする、お糸のあはうめが正直に、あんたとこまで行きましたか。ほんまに仕方のない奴でござりまする。ほんの一と口叱つただけの事で。
 一言を労するにも及ばぬ仕儀に、叔父はそれ見た事かといはぬばかり、お糸の方を顧みて苦き笑ひを含みながら、
 おおかたそんな事やろと思うたのやけど、お糸が泣いて頼むものやさかい、よんどころなくついて来たのじや。――がマア痴話もよい加減にして人にまで相伴させぬがよい。
 日頃庄太郎の仕向けを、快からず思へるままに、少しは冷評をも加へて、苦々しげに立去りぬ。跡にはお糸叔父の手前は面目なけれど、まづ夫の機嫌思ひの外なりしを何よりの事と喜びしに、これはただ叔父の手前時の間の変相なりしと見えて、叔父が帰りし後はまたジリジリと責めかけて、
 なぜお前は、日頃心易くもない叔父さんの許へ逃げて行く気になつたのじや。ただしおれの留守に叔父さんと心易くした事があつてか。
 さすがに再び手あらき事はせねど、火の手は叔父の方へ移りて、夜一夜いぢり通されぬ。

   下

 この事ありてより後は庄太郎、仮初の外出にもお糸への注意いつそう厳しく、留守の間の男の来りし事はなきや、お糸宛の郵便どこよりも来らざりしやと、店の者に聞き下女に聞き、なほそれにても飽き足らず、大人はお糸にくはされて、我に偽る恐れありと、長吉お駒を無二の探偵として、すこし心を休めゐしに、あひにくにも一日あるひの事、庄太郎の留守にお糸の里方より、車を以てのわざと使ひ、母親急病に罹りたれば、直ちにこの車にてとの事なり。お糸は日頃の夫の気質、親の病気とはいへ留守中に立ち出ては悪かりなむと、しばしはためらひゐたりしかど、待つほど夫の帰りは遅く、いかにしても堪へ難ければ、よし我上はともかくもならばなれ、親の死目に逢はぬうらみは、一生償ひ難からむと、日頃の温和には似ず、男々しくも思ひ定めて、夫への詫びはくれぐれも下女にいひのこし、心も空に飛行きぬ。その跡へ帰り来りたる庄太郎、お糸の見えぬに不審たてて、
 これお糸どうしたのじやどこに居るのじや、亭主の帰りを出迎へぬといふ不都合な事があるものか。
 見当り次第叱り付けむの権幕恐ろしく、三人の下女は互ひに相譲りたる末遂に年若なるが突き出されて、
 ヘイアノ先ほどお里からお迎ひが見えまして。
 どこから迎へが来たツ。
 お母アさんの御病気やとおつしやつて。
 フム苦しい時には親を出せじや、親の病気が一番エエいひ草じや。それでお糸は出て行たのか。
 ヘイお留守中で済みませんけれど、何分急病といふ事どすさかい、充分お断りをいふといてくれとおいひやして。
 ソソンそれて何ぞ風ろ敷包でも持て行たか。
 イイエ何にもツイお羽織だけを召しかへやして。
 ハテナ。
 考ふる隙に、下女は龍のあぎとを逃れ出でたる心地、台所の方へ足早に下りつつ、三人一時に首を延ばして、主人の容子いかがとこはごはに窺ひゐる様子なり。
 庄太郎はやがてスツクと立上り、お糸の部屋へ入りて箪笥の引出し、手文庫の中はいへば更なり、鏡台の引出しまでも取調べて、
 ハテナ別に何にも持出してはゐぬやうな。そんならやはりほんまかしら、ええわおれが行て見て来てやろ――これ長吉車呼んで来い。
 いつになき寸法に長吉は驚きて、
 ヘイアノ人力どすか、なんぼ位で応対致しませう。
 馬鹿め、なんぼでもええわ、達者そうなを呼んで来い。
 近江屋始まりてより以来このかた、始めて帳場の車は呼ばれつ、値段の高下を問ふに及ばず急げツとばかり乗出しぬ。お糸の里といふは、六角辺のさる糸物商、家の暖簾の古びにも名ある旧家とは知らるれど、間口の広きには似ず、店の戸棚はがたつきて、内輪はそれ程にもなき様子なり。母といふは内娘にて、今の父重兵衛といふは二度目の入夫、お糸の為には義父なればや、お糸は何事も遠慮がちにて、近江屋へ嫁ぎてよりの憂さつらさも、ついぞ親里へ告げ越したる事なければ、両親はただお糸を幸福ものと呼びて、我が家よりも資産ゆたかなる家へ片付けしを喜びぬ。庄太郎は以後の懲らしめ、たとへその事の実否はともあれ、お糸が泣いて詫ぶる顔見では済まされじと、三行半みくだりはんの案文さへ、腹の裏に繰返しつ、すわとばかり飛下りしに、お糸の家の事の体容易ならず、医師の車と覚しきは二台まで門辺に据へられつ、家内は鳴りを鎮めてしんみりとしたる体に先づ張詰めし力も抜けて、我知らず足音も穏やかに、案内を乞ひて奥の間へ通りしに、次の間には主人と医師との立ち噺、声は小さけれど耳引立てる庄太郎には聞こえて、
 どうもよほどむつかしさうに見えまするな、滅多な事はござりますまいか。
 案じ顔に問ふは主人なり、八字髭美しき医師はちよつと首をひねりて、
 さうーどうもまだ何ともいへませぬネ。先づ今日明日はよほど御大事になさい。
 かくとききては庄太郎も、お糸にここへ出よとはいはれず。急に我も気遣はしさに、見舞に来りし体にもてなして、医師を見送り果てたる重兵衛に向ひ、慇懃に会釈しつつ、
 どうも御心配な事でござりまするな、留守中にお糸を呼びに御遣はしになつたといふ事を承りましたので、ツイ私も取るものも取りあへず御見舞に出ましたので、ツイ御見舞の品も持つて出ませず、誠にどうもすまぬ事でござりまする、どんな御様子でござりまするな。
 心配らしくいはれて重兵衛も喜び、
 イヤどうもお留守中に呼び寄せて、済まぬ事でござつた。が何分にもただ今お聞きの通りの次第でござるから未だ海のものとも山のものとも付かぬといふ仕儀、万一にも母の死目に逢はせぬといふやうな事があつては、私もなさぬ中の事じやさかい、母親なりお糸なり心がいつそう不憫でござる。そこでどうぞここ二三日の内お糸をお借り申す訳には行きますまいか。
 事をわけていはれてみれば、嫌といふ訳にはゆかず、かへつて藪を叩いて蛇を出したといふやふな心持を抑へて、
 ヘイ、イエ、ヘイ宜しうござりまする。家の方はどうなと致しますさかい、お心置なしお留置なすつて。
 ちよつとお糸をと顔だけでも見たさに呼びて、舅の手前殊勝らしく、
 そんなら二三日御介抱申すがよい、家の方は気にかけいでもええさかい。
 さすがに人の性は善なりけり。かく世間並の挨拶はして帰りしものの、考へて見れば父も義父なり、医師も立派なる紳士なりと、また例の心よりさまざまなる妄想起こりて夜もおちおちと眠られず、淋しさと気遣はしさに明くるを待ち侘びて、再び見舞といふ触れ込みにて去年の暑中見舞に、外より貰ひ受けたる吉野葛壱箱携へ、お糸の方へ至りしは、その実妻を監督する心とも、知らぬ母親は喜びて、
 ああ今の今まで庄太郎さんは、あんな深切なお方とは知らなんだ。御用も多かろにまた御見舞にとは……お糸庄太郎さんを大事にしてたもや、一生見捨てられぬやうにな、あんな深切なお方はまたとない、私もこれでお前の事は安心の上にも安心して死ねる。
 聞くお糸はあながちさうとのみは思はねど、死ぬる際にも我が事は思はず、子を思ひくるる親の慈愛、身にしみじみと有難く、ああ何にも御存じない母様の、御安心なさるがせめてもの思ひ出、母様なき後は父様も義理ある中、打明けて相談する人はなけれど、今逝くという人には、何事もお聞かせ申さぬが何よりの孝行と、わざと嬉しげなるおももちにて、
 さうでござりまする、誠にやさしい人で、私も幸福でござりまする。どうぞお母アさん何も御心配おしやはんと……
 さりげなくいふお糸の胸は、乱れ乱れてかきむしらるるやうなり。さるを庄太郎は急に帰りさうなる気色もなく、とかくうるさく附き纒ふを、親の手前よきほどにもてなして、心は母の枕辺にのみ附き添へど、勤めは二ツ身は一ツ、一ツの躰を二ツに分けて、心を遣ふぞいぢらしき。
 かくて庄太郎夜は帰れど昼は来て、三日ばかり経し明け方、医師の見込よりは、一日後れて知らぬが仏の母親は、何事も安心して仏の御国へ旅立ちぬ。お糸は今更のやうに我が身の上悲しく、ああ甲斐もなきこのわたしをなど母様の伴ひたまはざりしと、音にこそ立てね身をもだえて泣き悲しむ傍らに、庄太郎が我を慰め顔に共泣きするがなほ悲しく、ああこれがこんな人でなければとお糸はいとど歎きの数添へぬ。
 知らぬ庄太郎は早これにて事済みたるかのやうに、
 お糸もう明日はいぬるやろ。
 促し立つる気色浅ましく、ああ人の妻にはなるまじきものと、お糸はつくづく思ひ染みぬ。
 わづかに一夜の通夜を許されたるのみ。その翌朝は庄太郎、一度自宅へ立戻りて衣服など改め来り、参拾銭の香奠包み、紙ばかりは立派に、中は身分不相応なるを恥もせでうやうやしく仏前に供へ、午後はお糸と共に葬式の供に立ちたれど、その実誰の供に行きしやら分らず。眼は亡き人の棺よりも、親類の誰彼に立交らふお糸の上にのみ注がれつ。事果つるを待ち侘びて直ちに我が家へ連れ帰り庄太郎はホツと一息したれど、お糸のおもてはいとど沈み行きぬ。かくて一七日ひとなぬか二七日ふたなぬかと過ぎゆくほども、お糸は人の妻となりし身の、心ばかりの精進も我が心には任せぬをうらみ、せめてはと夫の家の仏壇へともす光も母への供養、手向くる水も一ツを増してわづかに心を慰むるのみ。余事には心を移さぬを、庄太郎は本意なき事に思ひて、
 お糸マアそないにくよくよせんと、ちつとはここへ来て気を晴らしいなア。何もこれが逆さま事を見たといふではなし、親にはどつちみち別れんならんものやがな。
 一かど慰め顔にいふ詞も、お糸にとりては何となくうるさく情なければ、とかくことばすくなに、よそよそしくのみもてなすを、廻り気強き庄太郎は、おひおひに気を廻し、果ては我を疎んじての事とのみ思ひ僻みけむ。お糸の心の涙はくまで、いとど内外に眼を配りぬ。
 涙の内にも日は過ぎていつしか忌明といふに、お糸の父は挨拶かたがた近江屋方に至りしに、この日も折悪しく庄太郎留守なりしかば、男には逢へぬ家法ながらも、父といひ殊にはまた、母亡き後は義父ながらも、この人ひとしほなつかしければ、他人は知らず父にはと、お糸もうつかり心を許し、奥へ通してしばし語らひし事、庄太郎聞知りての立腹おほかたならず、
 たとへお父さんに違ひないにしても、根が他人の仲じやないか。それもお母アさんの生きてゐる内なればともかく、死んだら赤の他人じや。それを私の留守に奥へ通すとは何事じや。どうもおれは合点がゆかぬ。
 あまりの事にお糸も呆れて、それ程私を疑ふなら、もうどうなとしたがよいと、身を投げ出して無言なり。庄太郎はまた重ねかけて、
 なぜ悪かつたとあやまらん、家の規則を破つておいて、あやまらんほどの図太い女なら、わしもまたその了簡がある。何いふ事を聞かせいでか。
 それよりは仮初の外出にもお糸を倉庫へ閉籠めて、鍵はおのれこれを腰にしつ。三度の食事さへ窓から運ばするを人皆狂気と沙汰し合ひぬ。
 かくてもお糸は女の道に違はじとかや、はたまた世を味気なきものに思ひ定めてや、我からその苦を遁れむとはせず。ただ庄太郎がするままに任せて、身を我がものとも思はねども、さすが息ある内は、大徳も煩悩免れ難きを、ましてやこれは女の身の、狭き倉庫へ閉籠められたる事なれば、お糸は我が身の上悲しく浅ましく、情過ぎたる夫の情余りて情けなの心は鬼か蛇なるかと、ただ恨みかつ歎く心は結ぼれ結ぼれて、遂には世にいふ気欝病とやらむを惹き起こしたりけむ。日毎に身の痩覚えて色青ざめゆくを、下女どもはいとしがりて、
 まアあんたはんの今日この頃の御顔色はどうどすやろ。それも御無理はござりませぬ、なぜお里へ逃げてはお帰りやさんのどす。私等もあんたはんがおいとしさに、辛抱はしておりますけど、さうなりましたらお暇を戴きませうに。
 とりとりに膝を進めて囁くを、お糸は力なき手に制して涙を呑み、
 なんのなんの女子の身は、たとへどんな事があらふとも、嫁入した先で死なねばならぬと、常にお母アさんがおつしやつてたし、またどのよな訳があつて帰つても、いんだト一生出戻りと人に謡はれ、肩身を狭めねばならぬさかひ、私はどこまでも辛抱するつもり、それでも同じ事なら、一日も早う死んだ方が。……
と末の一句計らず、庄太郎漏れ聞きての驚き大方ならず、もともと可愛さのあまりに出たる事なれば、珍らしく医師をとまでは思ひ立ちたれど、これも年老いてかつは礼の張らぬ漢法医をと、撰りに撰りてやうやくに呼び迎へたるなれば、もとよりその効験ききめとみに見ゆべくもあらず、お糸は日毎に衰へゆくを、さすがにあはれとは見ながらその老医さへ我が留守に来りたりと聞きては、庄太郎安からぬ事に思ひ、それとなくお糸にあたり散らす事もあり。罪なきお駒に言ひ含めて、医師の来りし時には、傍去らせず。お糸のいかなる顔をして、医師の何といひしかといふ事まで、落もなく聞き糺すに、お糸はまたもや一つの苦労を増して、いとどその身を望みなきものに思ひ、我からそれをも断りて、死ぬをのみ待つ心細さを、思ひやる奉公人の、いとしいとしとよそでの噂、伝はり伝はりて事は次第に大きくなり、お糸の父なる重兵衛の耳を、ゆくりなくも驚かせぬ。
 重兵衛は聞き捨てならぬ娘の身の上、いかに嫁に遣つたればとて、命にまではのしは付けぬ。それにお糸もお糸じや、おれを義理ある父と隔て、それほどの事なぜ知らせてはくれぬ。ああ水臭い水臭い、それもお糸は承知の上であらふかなれど、里が義理ある中やさかい、よう帰らんのじやと人は噂するわ。よしよしそれではお糸を呼び寄せ、篤と実否を糺した上で、もし実情なら無理にでも、取戻さねば死んだ女房に一分が立たぬと、独り思案のはらを堅めつ、事に托してお糸を招きぬ。
 幸ひにもこれは庄太郎在宅の時の迎へなりしかば、渋々ながら聞き入れられて、お駒と長吉の二人を目付けに差添へられ。お糸は六角なる里方に帰りぬ。
 さて義父よりかくかくの噂聞き込みたれば、その実否尋ねたしとて呼び寄せたるなりといはれ、お糸はハツと胸轟かせしが、よくよく思ひ定めたる義父の様子に容易たやすくはらへせず。さしうつむきて考へゐたれど身をしる雨はあひにくにはふり落ちて、義父に万事を語らひ顔なり。されどお糸は執拗しふねき夫のとても一応二応にて離縁など肯はむ筈はなし。なまじひに手をつけて、なほこの上の憂き目見むよりは、身をなきものに思ひ定め、女の道に違はぬこそ、まだしもその身の幸ならめと、はやるこころを我から抑へて、
 イイエさういふ事はござりませぬ。とかく人と申すものは、悪い事はいひたがりますもので。
 立派にいふて除けるつもりなりしも、涙の玉ははらはらはら、ハツト驚くお糸の容子かほに、前刻せんこくより注意しゐたる義父は、これも堪へず張上げたる声を曇らし、
 お糸、お、お前はおれを隔てるなツ。
 これに胸を裂かれて、わつと泣入るお糸、ウウームと腕を組みて考へ込む義父、千万無量の胸の思ひに、いづれ一句を出さむよしなし、双方無言の寂寥に、我を忘れて縁側に戯れ居たるお駒と長吉とは、障子の隙よりソッとさし覗きぬ。
 やがてお糸はやうやくに涙を収め、始めて少しは打明けたるらしく、重兵衛も次第に顔色解けて、しんみりとしたる相談ありたるらしく、それよりお糸はしばし里方に留置かるる事となり、重兵衛は庄太郎への手紙したため、お駒と長吉に持たせて、この二人をのみ車にて送り帰しぬ。
 庄太郎の怒りはいかばかりなりけむ。ぐにも飛んで来るべしとの機を察して、重兵衛は直ちに媒妁人方へ駈付け、表向き離婚の談判開きたれば、さすがの庄太郎もこれに気を呑まれて、少しはその身を省みたれど、かかる男の常とて、未練と嫉妬はますますその身を燃やし来り、おのれツお糸の畜生女め、我に愛想を尽かせしな、おのれツ重兵衛の禿頭め、我が女房が死んだる淋しさに、我が妻を奪ふ心になつたなと、我が行為のお糸を遠ざからせ、重兵衛を怒らせたる素因もとを忘れて、二人をのみ怨み罵りぬ。
 されど未練心にお糸をすかして見むとや、淋しさに堪へねば一日も早く帰りくるるやうと、筆にいはせてしばしばお糸の方へ送りたれど、重兵衛は義理ある娘を、いかでかは再び彼が如き者にあたふべき。いづれにも離縁させたる上、よき方へ片付けむとの過慮より、これをさへ押収しつ、絶えてお糸に示さざれば、お糸は少しもこれを知らず。されどこなたには未練なき庄太郎に、これまで女の道といふ一すじにのみ繋がれ居たるなれば、この上は父のはからひに任せて、我はいづれにもあれ、外へは嫁付とつかず、一生独身にてくらし身を清らにさへ持ちたらましかばとそれのみ心に念じ居たり。
 知らぬ庄太郎は、我より幾通の手紙遣りても、そよとの返事もなきはいよいよ心変わりに極まつたり、いでいでと我が身分を打忘れつ嫉妬に駆られて夜毎にお糸の方へ至り、内の様子を窺ひ居ぬ。
 ある夜重兵衛はお糸と膝を突合はせての話し声、
 どうも困つたなア庄太郎が男のやうでもない、女房の里から離縁を申し込まれて、酢の蒟蒻こんにやくのと離縁をしおらんじや。でもどうしても私は離縁ささねば置かぬ。それもお前に未練の気があればともかくもじやが、嫌な男に操を立てて、それで身を果たさせてはわしの役目が済まぬ。お前は覚悟の上でも世間が私を譏るからの。
 勝手知りたる裏口の戸に身を忍ばせ居たる庄太郎、障子に映る二人の影の、密接しゐたるさへ快からざりしに、この詞を聞くが否クワツと怒りて身を躍らせ、己れおいぼれ親爺め、思ひ知れと、飛込んでの滅多打ち火鉢を飛ばし鉄瓶を投ぐるに、不意を喰ひたる重兵衛多少の疵負ひてひるむところを、なほ付け入らむとする庄太郎、お糸は親と夫の争ひに、かなたをかばひ、こなたを抑へ、心もわくわく立騒げど、女の身の詮なさに、二人の間に身を入れて、ただ私を私をと、暴れ廻る庄太郎に身をすりつけ、声もかれかれ抱き付きぬ。折しもこの物音聞付けたる店の者一二人、スワヤ盗賊どろぼうと怖気立ちたれど、血気の若ものやにはに手頃の棒を携へ来り天晴れ高名するつもりも、相手の庄太郎なるに心得られて、容易くは進みかねたれど、我が主人の危急には代へ難しと、ともかくもして取抑へぬ。この瞬間に庄太郎は気の狂ひてか、前の威勢には似もやらず。茫然としてそこらキヨロキヨロ見廻はしゐたり。
 重兵衛は咄嗟の間、いかでかはそを気付くべき、庄太郎の不始末いかにもいかにも心外に堪へかねいづれにしても娘の聟、荒立てては互えの恥と、胸をさすつて隠便に済まし、召遣ひの者にはそれぞれ口止めして、庄太郎を家に送らせぬ。

 その後岩倉なる癲狂院には、金満家の主人てふ触れ込みの患者一人殖えて、そが妻と覚しき美しき女の、七ツばかりなる女の子携へたるが、絶えず見舞に来りて、骨身を砕くいたわり方を、見るほどのものいとしがらぬはなしとかや。(『文芸倶楽部』一八九七年一月)

底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
   1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
   1897(明治30)年1月
※疑問箇所の確認にあたっては、「日本現代文學全集 10 樋口一葉集 附 明治女流文學」講談社、1962(昭和37)年11月19日発行を参照しました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
2005年11月6日修正
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