マルサス『人口論』の第一版と第二版との間に大きな差異があることは、どの本にも書いてあり誰でも知っている。しかしその第二版以後がどうかということになると、余りはっきりしていないようである。しかし実際は、『人口論』はマルサスの生きている間に六版を重ねており、その各々にはいずれも訂正または増補が行われているのであって、同一の版本は一つもないのである。もちろん第二版の訂正増補が最大であるが、これに次いでは第三版及び第五版のそれである。そして第四版及び第六版はその各々の前の版の再刻と普通には称せられているが、それでさえ実は修正が加えられているのである。
これらの訂正ないし増補の跡を辿ることは、単にペダンティックな趣味のためであるならば、実に下らないことである。しかしながら実は、マルサスの『人口論』は、経済学に関する理論的著述であるよりはむしろ階級的利益の代弁書である。そしてこのことは、代弁せらるべき利益の情勢の変化につれて代弁理論が刻々と前後撞着的に変化してゆくことに最もよく露呈されるのである。この意味で、『人口論』こそは、そのある版本だけを読了しそれだけで理解の行く本ではなく、ぜひともその各版本を比較読了しなければならぬのである。
しかしながら、それだからと云って、六種の版本について格別に六種の訳本を出すことは無用の業である。したがって私は、ただ一つの訳本でしかも前後六版の変化が辿れるような飜訳をしてみたいと、前から考えていた。しかし各版の文句を噛み合せるという形(私がマルサスの『経済学原理』の岩波文庫版で試みた形)ではこれは到底行い難い。けだし各版の差異が大である上に、本が六種にも及ぶので、無理にこれを実行してみたところで煩わしくて読めるものではないからである。
そこで今囘再建春秋社によって機会が与えられたので、とにかく本文については一応第六版を基礎とし、これになるべく読む邪魔にならぬような形で細字で訳者註を加えて、各版の差異を現すこととした。読み方については別記『凡例』を参照せられたく、また『人口論』の階級的本質その他については『解説』を参照せられたい。
最後に一言すれば、私はかつてこの試みを少しやりかけたのであるが、それは戦争のために抛棄せざるを得なくなった。従って今囘はこれを改めてはじめからやり直したのであるが、それにもかかわらず当時の試みに関する御配慮につき堀經夫博士にここに謝意を表したい。また今日の試みに当っては美濃口時次郎教授及び東京商大図書館の御配慮によって希覯図書を接見するの便宜を与えられた。併せて感謝の意を表する。なお春秋社の瀬藤五郎及び鷲尾貢の両氏、並びに原稿整理その他各般の事務につき多大の便宜と助力とを与えられた高橋元治郎氏及び高橋一子君にも厚く謝意を表したい。
一九四八年六月
凡例
第二版――一八〇三年
第三版――一八〇六年
第四版――一八〇七年
第五版――一八一七年
第六版――一八二六年
[#改ページ]
マルサス『人口論』解説
一
トマス・ロバト・マルサスの『人口論』(Thomas Robert Malthus, An Essay on the Principle of Population.)が匿名の下にはじめて世に現れたのは、一七九八年である。
それはフランス大革命とそれに続くナポレオン戦争の時代であった。そして『人口論』はまさしく一つのフランス革命の子であると云うことが出来る。しかしそれは革命の側に立ってこれを鼓舞する書ではなく、革命の情熱に冷水を浴びせる書であった。
由来フランスは、一七八九年の大革命に至るまでは、絶対王制によって統治されていた。しかし実際上の権力は貴族及び僧侶の手にあった。これらの権力者は、貨幣を代償として、種々の特権を大貨幣地主に売渡していた。これらの諸階級は、商人資本及び高利貸資本による封建的農業関係の分解によって生じた農民の貧困や、形成されつつある近代都市に溢れている汚辱的貧困と対照的に、極度の奢侈生活を営んでいた。殊に豪奢の競争において大貨幣地主との助力結合を得て終に封建貴族を威圧するに至ったところの国王の宮廷における奢侈は、言語に絶するものがあった。ために公債は激増し租税は加重された。しかも対外的には、アメリカにおける植民地は失われ、そこにおける艦隊は無に帰し、またドイツにおいては屈辱的大敗をなめなければならなかった。このことはまたも公債租税の累進に著しい拍車をかけ、フランスの財政は破産に瀕した。かくて特権を享受し得なかった所の小生産者、農民、中小商人資本家は、国王に対し叛旗を飜して立った。一七八九年に革命が勃発するや、バスティユは開かれ土地は地主から奪われた。九二年には権力は小資本家及びパリの労働者の手におち、王制は廃止され、九三年には革命はその絶頂に達したのである。
実にこの革命は封建制度の晩鐘であり資本制制度の暁鐘であった。それは英国にも大きな影響を与えずにはおかなかった。けだし英国は既に数度の革命によって一応立憲的政治形態をとるに至っていたとはいえ、しかもそこには沈淪の状態にある無数の破滅せる農民や小生産者や労働貧民が溢れていたからである。彼らはフランスの『国民』がその貧困の状態を打破せんがために、その貧困の原因と考えられるいわゆる『デスポティスム』に対して立ち上ったのを見た。そして彼ら自身また立って、自己の貧困を打開せんがために、現存する社会制度特に政治制度を打破せんとしたのである。すなわちそれは一方においては、実践的に、いわゆる『通信協会』の運動を、イングランド、スコットランド、及びアイルランドの全英国にわたって、燎原の火の如くに進展せしめると共に、また他方においては、理論的に、リチャアド・プライスのフランス革命謳歌に端を発するエドモンド・バアク対ラディカルズの論争となって現れた。ラディカルズにして論争に参加し革命を讃美し英国の状態を批判したものは、プライスを別としても、メアリ・ウォルストウンクラフト、ジョウジフ・プリイストリ、ジェイムズ・マッキントッシュ、トマス・ペイン、ウィリアム・ゴドウィンをはじめ数十人に上り1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、他方これに反対せるものは、バアクを別としても、ジョン・ホロウェイ、エドワド・セイア、ウィリアム・コックス等多数に上った2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。更にまた『通信協会』も、トマス・ハアディ、トマス・ホルクロフト、ホオン・トゥック、トマス・ペイン等によって代表される『ロンドン通信協会』を中心として、その影響は急速に、全英の小生産者、小資本家、労働者の階級の間に拡がって行った。大都市においては『通信協会』は必ずしも破壊的ではなかったけれども、地方、特にアイルランドにおいては、既に騒擾の兆が現れて来た。かくて革命の当初にはなお平静を持していた英国特権階級も、ようやく事の急なるにその度を失って来た。その最初の現れは、メアリ以下の駁論を誘発したエドモンド・バアクのプライス批判であったが、一七九二年にフランスの王制が廃止された時に、『通信協会』が、権力を掌握したパリの労働者及び小資本家と手を握ったことを見たピット政府は、この英国特権階級の希望を実行に移す口実を得た。すなわちここに英国史上稀に見る一大弾圧が全英にわたってラディカルズの上に加えられ、その著書は発売禁止処分を受け、その代表者は十分の訊問も取調もなくして相次いで処刑され、英国における最初の――もっとも上記の如く純粋なものではないが――労働者運動は根こそぎに破壊され、一八〇〇年の結社禁止法に至ってそれはようやく終りを告げた。これいわゆる『英国におけるフランス革命』であるが、マルサス『人口論』は実にこの闘争における輝ける特権階級擁護の書なのであり、フランス革命に関する論争に終止符を打ったものと称せられているのである。
バアクの所説の中心点は次の如くである、――およそ英国における一切の改革は過去の先蹤を典拠として行われたのであり、またそうあるのが当然である。しかるに英国には世襲の王位や世襲の貴族をはじめ、また英国流の自由が遠い祖先から伝えられて来ている。従って真に改革が必要であるならばこれに従って改革を行えばよいのであって、フランスに学ぶような必要は少しもない。かくの如くフランス革命は、啻に英国の先例たらしむべき資格を欠くばかりでなく、更にただ革命としてのみ見ても最悪の性質のものである。他の革命においては、その犠牲となったものは常に悪虐極まりない人物であった。しかるにフランス国王が穏和な合法的な国王であることは疑問の余地がないのに、フランス人はかかる模範的統治者に対して革命を起したのである。従って単にフランスから何物も学ぶべきではないというに止らず、更に進んで英国をしてフランスの模範たらしめるべきである、と。
なおバアクはかかるプライス批判の外に、積極的にフランスにおける反革命運動を組織し支持するに至ったので、ラディカルズは彼に対して著しい怒りの念を懐くこととなった。かくて前述の如くウォルストウンクラフトをはじめ、プリイストリ、マッキントッシュ等数十名のものは一斉に立って、バアクの所論を覆えそうとしたのであるが、その代表的なものはペインの『人権論』である。
ペインによれば、バアクの所論は彼自身の述べる所そのものによって否定される。けだし改革は過去の先蹤によるべきであるとすれば、その先蹤はまたそれ自身の先蹤を有つであろう故に、結局創造の時まで遡るの外はなく、そして創造の際には人間は人間であるのみであり、それ以外の何ものでもあり得ないのである。しかるに生殖は単に創造の延長に過ぎぬ故に、人間は人間として、創造の際におけると同様に、その生存の権利を有つはずである。しかるにかかる権利すなわち彼れのいわゆる自然的権利の中には、なるほど個人において権利としては完全であるが、その行使において不完全なものがある。それは安固及び保護に関する権利である。かくて各個人はかかる権利を社会の共通貯蔵に持込み、必要の場合には共通貯蔵からその保護を受けることとなる。これいわゆる市民的権利である。ひるがえって政府の起源を見るに、それは迷信か、力か、この市民的権利かであり、フランスにおいて形成されつつあるものはこの第三のものであるが、英国の政府はウィリアム征服王以来その第二に属する。従って英国もまた一つの『フランス革命』を必要とする、というのである。
バアクはこれに対し正面からは答えなかったが、しかしその政治的態度の故にホイグ党から離脱するに当って若干ペインに触れ、更に実践的には法律によるペインの処刑を大いに運動したが、しかしこれは成功しなかった。一方ペインは更に続いて『人権論』第二部を公けにし、国王及び貴族を大いに罵倒するかたわら、貧困問題の重要性を強調し、貧民法を廃止して貧民に権利としての生存を保証せんことを主張した。この書については終にバアクの運動は効を奏し、ペインは起訴され終に有罪の判決を受けたが、彼は既に身はパリにあり、その処刑を免れることが出来た。
ペインの『人権論』は、バアクの書と並んで多大の反響を惹き起したが、これに続いて現れたゴドウィンの『政治的正義』の反響も、これに劣るものではなかった。しかしこの書は、ペインのそれとは異ってもはや論争の書ではなく、積極的理論の展開がその主題である。積極的理論とは、空想的思弁的な無政府共産生義である。すなわちゴドウィンによれば、政府の目的は単に暴力の行使にあるにすぎない。従ってそれは悟性または意思の働きたる服従とは何らの適法的関係をも有ち得ない。されば、あるべきものは『政府なき簡単な社会形態』でなければならない。更に彼れの共産主義は如何というに、有用物の所有ないし消費を決定するものは正義でなければならない。換言すればそれは必要ないし欲望によって決定されなければならない。他方労働もまた万人の共通に担当するところでなければならない。従って、もし一方では奢侈に耽り得る人がいるのに、他方健康や生命を破壊してまでかかる奢侈に必要な物資の生産に従事するものがいるのは、正義に反することである。結局生産及び消費の全分野において共産主義が導入せらるべきである、というのである。ただここに注意すべきは、彼が、人口の増加によるかかる理想社会の終局的困難を予想していたことである。しかし彼によれば、その時は遠いのであるから、かかる遠い将来の困難が予想されるからといって、現在の実質的進歩に躊躇すべきではない、というのである。
彼はなおこれに続いて『研究者』を著している。これはマルサス父子の論争を誘発し、その結果として子マルサスが『人口論』第一版を著すこととなったものであるが、しかし理論的興味は多からぬものである。
かかる時に、また、人類の『不定限の可完全化性』を主張するコンドルセエの楽観的思想1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]が、フランスから海を越えて渡って来た。彼れの思想は一種の歴史観を基調とするものである。すなわち彼によれば、人類の歴史は将来をも含めて十段階に分たれ得るものであり、この第九段階と第十段階とを分つものがフランス共和囲の成立である。しからばこの時から始まる第十段階においてはいかなる見通しがなされるかというに、国民間の不平等の消滅、同一国民内の不平等の消滅、及び人類の真の完成、の三つがそれである。そして科学や文明の進歩を見、人類の精神とその能力とを検討するならば、この三つは果てしなく実現されるであろうと考えられる。――しかしながら、その際には、ゴドウィンの頭にも浮かんだところの、人口の増加による終局的困難が生じないであろうか、という疑問は、また彼れの頭にも浮かんだものであった。これに対して彼もまた、時は遠いと答える。しかし彼もまた、これではその時が到着した時に対する真の解答にはならぬことに気附いて、その時には産児調節の手段に出ずべきことを説いている。かくて彼は、かくの如き完全化の進行によって、終に人類は不死になるに至るものとさえ、考えているのである。
二
マルサスの『人口論』第一版は、匿名の下に、一七九八年に現れたのであるが、これに先立って一七九六年、彼は公刊の目的をもって、フランス革命に影響されて混沌たる状態にある時勢を論じた一つのパンフレット1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]を書いた。これは終に公刊されずに終ったが、しかし吾々はエンプスンが後に試みた引用と紹介2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]とによってその大略を知ることが出来る。
2)[#「2)」は縦中横] Edinburgh Review for Jan., 1837. "Art. IX. Principles of Political Economy considered with a View to their Practical Application. …… etc." by Empson.
このパンフレットは出版書肆の拒絶によって日の眼を見ないでしまったが、それに次いで彼が一七九八年に著した『人口論』こそは、彼を一躍時代の寵児たらしめたものである。
『人口論』を誘発するに至った直接的動機は、その序言に明かな如くに、ゴドウィンの著『研究者』の中に収められた『貪慾と浪費』なる論文について、彼がその一友――実はその父ダニエル・マルサス――と交わした会話にある。しかるにこの会話は社会の将来の改善に関する一般的問題へと移行して行った。そしてこの一般的問題に関するマルサスの見解をまとめたものが、『人口論』第一版なのである。
ここにマルサスのいわゆる一般的問題とは、人類はこれから加速度的に限りなき進歩をなして行くものであるか、または幸福に達すれば再び窮乏に沈淪しこの窮乏がまたも次の幸福の出発点となるというふうに永久の擺動(オシレイション――マルサスはこの語そのものもその観念もこれをコンドルセエから得て来たもののように思われる)に運命づけられていなければならぬのであるか、ということである。そしてマルサスは後の方を肯定することによってこの問題に答えんとしたのである。
マルサスの論述の仕方において極めて特徴的なことは、それが一種の唯物論的色彩を非常に濃くもっていることである。このことは、彼が繰返して、経験の重視を強調し、単なる臆測を排撃していることから、容易に知ることが出来る。実は彼れのこの卑俗な一種の唯物論が、空想的思弁的なゴドウィン、コンドルセエ流の思想に対して、一つの大きな強味と見えたであろうことは、容易に想像し得るところである。
すなわち彼は本来の問題に立入るに先立ってまずその基礎理論を展開する。まず食物が人間の生存に必要であるということ、及び両性間の情欲は必然的でありかつほとんどその現状に止まるであろうということは、何らの証明を必要としないこと、すなわち『公準』とせられ得よう。そこでひるがえって見るに、人口増加力は、人口を支持すべき生活資料の増加力よりも、不定限により大である。しかるに人間の生存には食物が必要なのであるから、この不等の二つの力の結果は勢い平等に保たれなければならず、換言すれば人口増加力はいかに大であろうとも、現実の人口増加は生活資料の増加の範囲に限られてしまうこととなる。この関係はしかし人類のみに限られたことではなく、一切の生物界に見られるところである。そしてこの不等の二つの力の結果が平等ならしめられざるを得ないことの結果として、動植物界においては種子の濫費や疾病や早死が起り、人類においては窮乏及び罪悪が生ずる。すなわち窮乏及び罪悪は人口に対する『妨げ』であり、これあるによって人口は生活資料と均衡を維持し得るのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
2)[#「2)」は縦中横] Ibid., ch. V.
かくてマルサス『人口論』は一世の名著と称せられるに至り、それは連綿として今日にまで至っているのであるが、この名声の根拠が何に帰せらるべきかは余りにも明かであると云わなければならない。
そこで彼れの思想の理論的背景を振返ってみるに、まずこれをヨオロッパ全体の問題として見る時は、そこには一方では人口をもって富なりとしまたは富に達する唯一または最大の手段なりとする見解(マアカンティリズム及びカメラリスティクの如き)が広く行われており、国家の政策が人口増加を擁護すべきはむしろ自明の理であるとされていた。しかるにまた他方では人口は単に国の繁栄の結果であり、かつ徴標であるにすぎず、従って単に人口を増加せしめんことを企図するよりも、まずその基礎たる国の物質的一般的幸福を企図する必要があると説くものが少なからず存在した。しかも彼らの中の多くによれば、人口増加力は極めて大なるものであり、この人口を支持すべき資料は、これと同一の速度をもっては増加し得ない故に、そこに必然的に戦争や流行病や不節制や不道徳がかかる優勢な力の実現を阻止するために現れることとなる、と説いていた。しかもある者は、この事実をもって社会の一般的永続的改善を不可能ならしめる要因をなすものである、と考えてすらいた。かかる時に一七八九年にフランス革命は勃発した。それは貧困と悪辱、不正義と不公正を一挙にして絶滅するものであるかの如く見えた。社会の一般的永続的改善はこの日よりその緒についたかの如く見えた。さればここに政治的社会的のまた思想的の一大混乱時代が出現したのである。
更にマルサスの理論的背景を特殊的に英国について見るに、常識的世論が人口増加の擁護にあったことはヨオロッパ一般と同一であるが、マルサス的思想においてもまた欠けるところはなかった。なかんずくジェイムズ・スチュワアトはこれをいわゆる学問的に1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、ジョウジフ・タウンスエンドはこれを試論的に2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、論じて余すところがなかった。しかるにフランスにおいてその端を開いた3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]人口減少の危惧は、英国に渡って極めて広汎にわたる人口論争を惹き起しており4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]、またフランス革命勃発後はいわゆる『英国におけるフランス革命』と呼ばれる英国史上空前のの社会的混乱が経験されていた。この後の問題は特に緊急なものであった。従って『英国におけるフランス革命』に対する鎮静剤たる理論は一つの必然であり、かつそれがマルサス的内容を有することは可能であったのである。
2)[#「2)」は縦中横] 彼がフアン・フェルナンデスの山羊と犬との例を引いて貧困を論じたことは、極めて有名である。Joseph Townsend ; A Dissertation on the Poor Laws. London 1786. Do. ; A Journey through Spain etc. 2nd ed., London 1792.
3)[#「3)」は縦中横] Charles de Secondat, Baron de La Brde et de Montesquieu ; Lettres Persanes. 1721. Do. ; De l'Esprit des Lois. 1748.
4)[#「4)」は縦中横] 英国においてはこの論争は二つの形で行われた。その一は英国自身に関するものであり、人口減退を主張するものは前掲のリチャアド・プライス、その反対者は、Arthur Young (A six Months Tour through the North of England : etc. Vol. IV. 1771. Do. ; The Farmer's Tour through the East of England. etc. London 1771.), John Campbell (A Political Survey of Britain. etc. 1774.), William Eden (Four Letters to the Earl of Carlisle, etc. London 1779. Do. ; A Fifth Letter etc. London 1780.), William Wales (An Inquiry into the present State of Population etc. London 1781.), John Howlett (An Examination of Dr. Price's Essay), George Chalmers (An Estimate of the Comparative Strength of Great-Britain, etc. 1782.) 等である。
もう一つは、マルサスが『人口論』でかなり詳しく触れているところの、古代世界と当時とに関する Hume-Wallace Controversy である、―― Robert Wallace ; A Dissertation on the Numbers of Mankind etc. Edinburgh 1753. David Hume ; Political Discourses. Edinburgh 1752 : Discourse X. Of the Populousness of Antient Nations.
三
この絶大な『人口論』のポピュラリティに最も驚愕したものは、おそらく著者マルサスその人であったかもしれない。ところがこの書は時事問題を論ずるいわゆる試論であり、学究的なまたは philosophical な論究ではない。そこで第一版の望外な成功に自ら驚いたマルサスは、海外旅行と多大な読書とによって多数の資料を蒐集した上、一八〇三年の第二版においては、第一版の試論的性質を捨ててこれに代えてそれを一つの論究の書とするにつとめた。かくて努力の主観的目標は、時論の追及から原理の歴史的証明へと転向した。すなわち第一版においては若干の頁を割かれたに止った人口原理を実証する歴史的記述の部分は著しく拡張され、それは尨大な第二版の約二分の一を占めることとなった。彼れの主観的意図のこの変更は、両版の書名の比較によって知ることが出来る。すなわち、――
第二版―― An Essay on the Principle of Population ; or, A View of its past and present Effects on Human Happiness ; with an Inquiry into our Prospect respecting the future Removal or Mitigation of the Evils which it occasions. A new Edition, very much enlarged.
第一篇 世界の未開国及び過去の時代における人口に対する妨げについて / 第一篇 同上 / 第一篇 同上 /
第一章 問題の要旨、人口と食物との増加率 / 第一章 同上 / 第一章 同上 / 第一章 第二章
第二章 人口に対する一般的妨げとその働き方について / 第二章 同上 / 第二章 同上 / 第一章 第二章
第三章 人類社会の最低段階における人口に対する妨げについて / 第三章 同上 / 第三章 同上 / 第三章 第四章
第四章 アメリカ・インディアンにおける人口に対する妨げについて / 第四章 同上 / 第四章 同上 / 第三章 第四章
第五章 南洋諸島における人口に対する妨げについて / 第五章 同上 / 第五章 同上 / 第三章 第四章
第六章 ヨオロッパ北部の古代住民における人口に対する妨げについて / 第六章 同上 / 第六章 同上 / 第三章 第四章
第七章 近代牧畜民族における人口に対する妨げについて / 第七章 同上 / 第七章 同上 / 第三章 第四章
第八章 アフリカ各地における人口に対する妨げについて / 第八章 同上 / 第八章 同上 / 第三章 第四章
第九章 南北シベリアにおける人口に対する妨げについて / 第九章 同上 / 第九章 同上 / 第三章 第四章
第十章 トルコ領及びペルシアにおける人口に対する妨げについて / 第十章 同上 / 第十章 同上 / 第三章 第四章
第十一章 印度及び西蔵における人口に対する妨げについて / 第十一章 同上 / 第十一章 同上 / 第三章 第四章
第十二章 支那及び日本における人口に対する妨げについて / 第十二章 同上 / 第十二章 同上 / 第三章 第四章
第十三章 ギリシア人における人口に対する妨げについて / 第十三章 同上 / 第十三章 同上 / 第三章 第四章
第十四章 ロオマ人における人口に対する妨げについて / 第十四章 同上 / 第十四章 同上 / 第三章 第四章
第二篇 近代ヨオロッパ諸国における人口に対する妨げについて / 第二篇 同上 / 第二篇 同上 /
第一章 ノルウェイにおける人口に対する妨げについて / 第一章 同上 / 第一章 同上 / 第四章 第五章
第二章 スウェーデンにおける人口に対する妨げについて / 第二章 同上 / 第二章 同上 / 第四章 第五章
第三章 ロシアにおける人口に対する妨げについて / 第三章 同上 / 第三章 同上 / 第四章 第五章
第四章 ヨオロッパ中部における人口に対する妨げについて / 第四章 同上 / 第五章 同上 / 第四章 第五章
第五章 スイスにおける人口に対する妨げについて / 第五章 同上 / 第七章 同上 / 第四章 第五章
第六章 フランスにおける人口に対する妨げについて / 第六章 同上 / 第八章 同上 / 第四章 第五章
第七章 フランスにおける人口に対する妨げについて(続) / / / 第四章 第五章
第八章 英蘭における人口に対する妨げについて / 第七章 同上 / 第九章 同上 / 第四章 第五章
第九章 英蘭における人口に対する妨げについて(続) / / / 第四章 第五章
第十章 蘇格蘭及び愛蘭における人口に対する妨げについて / 第八章 同上 / 第十章 同上 / 第四章 第五章
第十一章 結婚の出産性について / 第九章 同上 / 第四章 同上 / 第四章 第五章
第十二章 伝染病が出生、死亡、及び結婚の記録簿に及ぼす影響 / 第十章 同上 / 第六章 伝染病が死亡記録簿に及ぼす影響 / 第四章 第五章
第十三章 以上の社会観察による一般的推論 / 第十一章 同上 / 第十一章 同上 / 第六章 第七章
第三篇 人口原理より生ずる害悪を除去するものとしてかつて社会に提案されまたは実施された種々な制度または方策について / 第三篇 同上 / 第三篇 同上 /
第一章 平等主義について、ウォレイス、コンドルセエ / 第一章 同上 / 第一章 同上 / 第八章 第九章
第二章 平等主義について、ゴドウィン / 第二章 同上 / 第二章 同上 / 第十、十一、十二、十三、十四、十五章
/第三章 ゴドウィン氏の駁論に関する考察 / 第三章 同上 /
第三章 平等主義について(続) / / /
第四章 移民について / 第四章 同上 / 第四章 同上 /
第五章 貧民法について / 第五章 同上 / 第五章 英国貧民法について / 第五章 第七章
第六章 貧民法について(続) / 第六章 貧民法問題の続き / 第六章 同上 /
第七章 貧民法について(続) / / /
第八章 農業主義について 第九章 商業主義について 第十章 農商併行主義について 第十一章 穀物条例について、輸出奨励金 第十二章 穀物条例について、輸入制限 / 第八章 富の定義について、農業及び商業主義 / 第八章 同上 / 第十七章
第八章 農業主義について 第九章 商業主義について 第十章 農商併行主義について 第十一章 穀物条例について、輸出奨励金 第十二章 穀物条例について、輸入制限 / 第九章 農業及び商業及び商業主義の種々なる結果 / 第九章 同上 /
第八章 農業主義について 第九章 商業主義について 第十章 農商併行主義について 第十一章 穀物条例について、輸出奨励金 第十二章 穀物条例について、輸入制限 / 第十章 穀物輸出奨励金について / 第十章 同上 /
第十三章 富の増加が貧民の境遇に及ぼす影響について / 第七章 同上 / 第七章 同上 / 第十六章
第十四章 一般的観察 / 第十一章 人口及び豊富についての一般の誤謬について / 第十一章 人口及び豊富についての一般の誤謬の主たる源泉について /
第四篇 人口原理より起る害悪の除去または緩和に関する吾々の将来の展望について / 第四篇 同上 / 第四篇 同上 /
第一章 道徳的抑制及びこの徳を行うべき吾々の義務について / 第一章 同上 / 第一章 道徳的抑制及びこの徳を行うべき吾々の義務の根拠について / 第十八章 第十九章
第二章 道徳的抑制の普及が社会に及ぼす影響について / 第二章 この徳の普及が社会に及ぼす影響について / 第二章 同上 / 第十八章 第十九章
第三章 貧民の境遇を改善する唯一の有効な方策について / 第三章 同上 / 第三章 同上 / 第十八章 第十九章
第四章 この方策に対する反対論を考察す / 第四章 同上 / 第四章 同上 / 第十八章 第十九章
第五章 反対の方策を実行せる諸結果について / 第五章 同上 / 第五章 同上 / 第十八章 第十九章
第六章 貧困の主要原因に関する知識が政治的自由に及ぼす諸影響 / 第六章 同上 / 第六章 貧困の主要原因に関する知識が政治的自由に及ぼす影響 / 第十八章 第十九章
第七章 同じ問題の続き / / / 第十八章 第十九章
第八章 貧民法の漸次的廃止の企画を提唱す / 第七章 同上 / 第七章 同上 / 第十八章 第十九章
第九章 人口に関する通説を訂正する方法について / 第八章 同上 / 第八章 人口の問題に関する通説を訂正する方法について / 第十八章 第十九章
第十章 吾々の慈善の方針について / 第九章 同上 / 第九章 同上 / 第十八章 第十九章
第十一章 貧民の境遇を改善する種々なる企画 / 第十章 同上 / 第十章 貧民の境遇を改善せんがためにかつて提案された種々なる企画の誤謬について / 第十八章 第十九章
第十二章 同じ問題の続き / / / 第十八章 第十九章
第十三章 この問題に関する一般的原理の必要について / 第十一章 同上 / 第十一章 同上 / 第十八章 第十九章
第十四章 社会の将来の改良に関する吾々の合理的期待について / 第十二章 同上 / 第十二章 同上 / 第十八章 第十九章
附録 / 同上 / /
〔註〕傍点は訳者の施せるもの。
ではかかる各版の外形的差異によって、理論的内容の上にいかなる変化がもたらされたかというに、その詳細は以下の本文自身が物語るであろうから、ここでは敢えて取り上げないが、ただその理論的差異を解釈する上でのいわゆる『導きの糸』をここに与えておくことは決して無用ではなかろう。
吾々は既に『人口論』第一版の社会的意義が、『英国におけるフランス革命』に対する英国特権階級擁護にあることを見た。この特権階級は、国王、貴族、僧侶、大地主、大資本家等の雑多な要素を含むものであり、ラディカリズムの階級的支持者たる小資本家、小生産者、労働者、無産無職者等に対する意味においてのみ一体をなしていたものである。しかるに『英国におけるフランス革命』が彼らにとり勝利的に終るにつれ、今度はナポレオン戦争の進行に伴って、特権階級の内部における封建的要素とブルジョア的要素との対立が激化して来た。これは主として穀物価格の騰貴による地主利益と資本家利益との対立によるものである。この対立は経済学の範囲においてはマルサス対リカアドウの対立となって現れた。すなわち前者は封建利益なかんずく地主利益の擁護者となり、後者は資本家利益の擁護者となった。すなわち『人口論』は版が進むにつれて、資本家利益に対する封建利益の擁護者としてのマルサスの役割がますます明瞭に露呈されて行くのが見られるのである。
『人口論』各版の進むにつれて見られるもう一つの顕著な点は、その反労働者性である。時の進行につれ地主階級と資本家階級の対立は鮮明になって行ったが、これと共にまた、資本家階級と労働者階級との対立も激化して行った。そして、地主利益の関する限りにおいては反資本家階級的であったマルサスも、事が資本家対労働者の関係に関するものであり、しかも地主階級利益がそれと関しない限りにおいては、今度は反労働者階級的な資本家階級擁護者としてますます明かに現れるのである。
以上二つの観点に立って『人口論』各版の差異を見る時に、その真価は最もよく理解せられ得るのである。
四
既に述べた如くに、マルサスの『人口論』はその出現の時以来、実に異常の反響を喚び起し、悪罵と賞讃は雨の如くにこれに注いだ。すなわちそれに対しては善意悪意の無数の反撃が行われているが、それにもかかわらず、それはまたその出現後まもなく経済学の名著の一つとなり、それは連綿として今日に及んでいる。従って経済学または社会思想を論ずる著書でこれを紹介しまたは批評しないものはほとんどない状態である。だからマルサス批判の書は真に汗牛充棟も啻ならざるものがあるのである。しかしここでは到底その全部を紹介することは出来ないから、極めて簡単な一瞥を与えてみることとする。
マルサス『人口論』に対する諸批判は、肯定的批判と否定的批判とに分って見るのが便利であろう。前者はマルサス説の大綱はこれを認め、それに若干の加工を加えることによって、これを『発展』せしめんとするものであり、後者はマルサス説の誤謬を指摘してこれを否定せんとするものである。吾々はまず肯定的批判を瞥見して後、否定的批判を見よう。
吾々は右に、マルサスが既に『人口論』の後版において反労働者的な資本家擁護論を説きはじめていることを述べた。しかしこれは、地主階級の利益に触れない限りにおいて、という条件附きのことであって、彼れの理論の主たる擁護利益はどこまでも地主階級利益にあったのである。そこで、肯定的批判の第一歩は、マルサスの理論から地主的色彩を払拭し、これを純然たる資本家階級理論とすることによって行われた。これはいわばマルサスの手を離れて後のマルサス説の第十九世紀的存在状態なのであり、私がマルサス説の第二期と仮称するところのものである。
このマルサス説の第二期は前後二段に分たれる。すなわちその前半はいわゆる収穫逓減の法則の人口理論への採用と労賃基金説の成立とに至るまでの時期であり、その後半はこれが卑俗化され俗流化された後に労働運動無効論=反社会主義の形で大衆の中に宣伝され浸透して行く時期である。そしてこの前後二段の時期を境するものは、ジョン・スチュワアト・ミルである。
マルサス説の第一期から第二期への転換を成就し、前者における地主階級的色彩の一掃に理論的に寄与したもの、すなわちそれの第二期の前半を代表するものは、ジェイムズ・ミル、ナソオ・ウィリアム・シイニョア、ジョン・ラムゼイ・マカロック、及びジョン・スチュワアト・ミルである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そしてかくして成立した純資本家理論としてのマルサス説こそが、いわゆる労賃基金説である。
労賃基金説はジョン・ミルによって理論的に完成され、同時に彼によって抛棄された。すなわち彼は、フランシス・ロンジ及びウィリアム・トマス・ソオントンの批判を受けて、この説を淡白に抛棄した1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし、この説は、経済学史上抛棄されたこの日から、大衆の中へ下向して俗流化し、反社会主義論、産児調節論として大きな実践的結果を挙げることとなるのである。
第二十世紀は恐慌と窮乏の時代であり、侵略的戦争の時代である。それはかくて『持てる国と持たざる国』の理論を作り上げ、過剰人口の圧迫による侵略戦争の合理化を試み、戦争準備のために労働運動圧伏のために新装の労賃基金説を発明する。それは今日の吾々としては詳細に縷説する必要がないほど生々しい事実である。ここではただ、その理論的代表者として例えばルウドウィヒ・ミイゼス1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、実践的代表者として第二次大戦終了に至るまでの日・独・伊の政策の如きを、挙げるだけで十分であろう。
しかしながら、よく考えてみると、それに対する否定的批判は実は思ったほど多くは存在しないのであることがわかる。けだし否定的批判が真に否定的批判であり得るのは、問題の論者が単にこれを否定せんとする意図を有ったというだけでは足りないのであって、真にその批判がこの否定を全面的にまたは部分的に行ったという事実によるのであるからである。
そもそもマルサス人口理論における根本的致命的誤謬は二つの点にある。その第一は、いわゆる人口原理なるものを樹立するに当って採用されている孤立化という方法であり、その第二はかかる普遍的自然的原理が直ちにもって歴史的人類に対しその特殊な段階に関係なく無条件に適用され得ると考える点にある。そして真の否定的批判と称せらるべきものはこれらの点に関して行われた批判のみに限られるのである。
まず第一の点から見るならば、マルサスにおける人口はそれ自身としての人口であり、また食物はそれ自身としての食物である。それらは絶対化され孤立化されている。しかし実は、食物を食う人口なるものも、これを食う人口に対しては食物である。例えば鰯はそれ自身の食物を有ちながら同時にそれを食うものに対しては食物である。しかるにマルサスにあっては、鰯の人口は鰯の人口であって鰯たる食物となることのないものである。実は生物のある種はマルサスにおけるが如くにそれ自身として存在するものではなく、自然界における密接不可離の相互関連と複雑多様な交互作用の中ではじめて自己自身たることを得るのである。従ってはじめから個別化された種そのものはあり得ない。反対に、存在するものは全生物界における存在の生産及び再生産であり、全体の種における総連関である。むしろ特定の種は、かかる総連関の中においてのみ特定の種であり得るに過ぎぬ。かくて探究は当然に全体から出発しなければならぬ。そしてここに、個別化され絶対化された部分から出発するマルサス人口理論の根本的誤謬が存在するのである。
孤立化された部分ではなく、全体から出発するならば、全自然界における人口と食物とは一つの均衡を形成している。すなわち全自然界における生命は、全体としては、食うものと食われるものとに分たるべきであって、この二つの均衡がない限り生命の持続は不可能である。もとよりこの均衡は内的及び外的の原因によって絶えず破壊される。しかしこの均衡破壊の運動と同時に、均衡再建の、または新らしい均衡形成の、反作用が働く。従ってここに云う食うものと食われるものとの均衡は、一つの動的均衡であるということになる。そして特定の種の増殖の秩序は、全体としてのこの動的均衡の中においてかつこれに対してのみ決定されるのである。
例えば鰯をとろう。マルサスによれば、鰯はその食物以上に増殖するので、過剰のものは他の餌食になる。しかし全体的観察によれば、鰯は過剰に増殖するのではなく、その一部は残存し一部は餌食となることが、全生物界の均衡調和なのである。そしてこの均衡がくずれ、鰯が食われ過ぎる事態が新たに生ずるならば、かかる事態は新らしい一つの均衡の完成によって落着くことになる。またマルサスによれば、松の木が無数の花粉を飛ばし多数の種子を散らすのは、その増加力がより大である証拠である。しかし全体的観察によるならば、かくも無数の花粉を飛ばしかくも多数の種子を散らさなければその種の維持が出来ぬほど松の増殖の可能性は限られているのである。
したがって、たとえ文字の上では、マルサスとダアウィンは同じことを云っているように見えるとはいえ、実はマルサスの場合は、この個別化から社会の貧困へと論断して行く独断論なのであり、ダアウィンの場合は、一つの動的均衡、すなわち均衡の破壊と再建の中における、特定の種の、及び特定の種の間の、闘争と淘汰とに関する、科学的理論なのである。
この分野に関するマルサス人口理論の否定的批判に部分的または全面的に成功せるものとしては、マイクル・トマス・サドラア、トマス・ダブルデイ、ヘンリ・チャアルズ・ケアリ、ハアバアト・スペンサア、及び一連の唯物論的弁証法論者を挙げることが出来るであろう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
かかる線に沿ってのマルサス批判は、まずジョン・ウェイランド、アーチボオルド・アリスン、ジョオジ・エンサア、シモンド・ド・シスモンディ等を通って発展して来たのであるが、それは終に総括的最終的にカアル・マルクスによってその完成点に達したのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
かくて今日マルサス『人口論』を研究することは、なかんずくその各版に現れた思想の変化を辿ることは、それが一つの階級的利益理論であることを闡明する上に極めて重要なことと考えられるのである。
五
最後にごく簡単にマルサスの伝記を附記しておこう。
トマス・ロバト・マルサスはダニエル・マルサスの次男として、一七六六年二月十四日に生まれた。一七七九年に彼は教育のためにリチャアド・グレイヴズのもとに遣られ、一七八二年には更にギルバアト・ウェイクフィールドのもとに遣られた。そして一七八四年には彼はケインブリジのジイザス・コレジに入学し、一七八八年に、このコレジ唯一の第九数学優等生として卒業した。一七九六年にはサリのオールベリの副牧師をしていたが、この時前述の『危機』なるパンフレットを書いた。しかしこれは出版書肆の拒絶によって日の眼を見なかったこと前述の通りである。
父ダニエルはヴォルテールと文通を交わし、またルウソオの遺稿保管人であったと云われているほどの、進歩的思想の所有者であった。そこでこの父子の間には、『人口論』の序言に書いてあるように、フランス革命の思想的内容をなす進歩的思想に関して、なかんずくゴドウィンの『研究者』等に表れた思想に関して、口頭の討論が行われ、その結果として『人口論』第一版が現れることとなったのである。
第一版の成功にむしろ驚愕したマルサスは、一七九九年に、学友のオタア、クラアク、及びクリップスと共に海外旅行に出かけ、ドイツ、スウェーデン、ノルウェイ、フィンランド、及びロシアを訪問して、その第二版のための材料を蒐集した。更にまた彼は別にフランス及びスイスにも赴いた。その結果として一八〇三年に第二版が現れたことは、前述の通りである。そしてこの時に至って、彼ははじめて匿名を捨てたのである。(彼はこの間に一八〇〇年に『食料品の高き価格』なるパンフレットを書いているが、これもまた匿名であった。)
一八〇四年四月十二日に、道徳的抑制の提唱者マルサスは――従って確かに『婚資をたくわえて』――ハリエット・エカアソオルと結婚した。彼らの人口増加力はアメリカの植民地におけるほど大でなかったと見えて、子供はわずかに三名に止った。
一八〇五年に、東印度会社の現地向職員教育の目的を有つ東印度大学が、ヘイリベリに設置され、マルサスは招かれて歴史及び経済学の教授に就任した。彼はこの職に死ぬまで止った。なお彼は世界最初の経済学教授である。
彼は一八三四年十二月二十九日に心臓病で死んだが、それまでに実に多数の著書及びパンフレットを書いている。これを列記すると次の如くである。
右によって知られる如くに、マルサスはリカアドウと多年にわたって地代や価値やその他多くの問題について論争した。それは著書やパンフレットだけではなく、長年月にわたる多数の手紙の交換によっても行われた。ただしマルサスの手紙はリカアドウのものほどは残っていない。
なお右に挙げた著書及びパンフレットのほかに、マルサスの書いた手紙や雑誌論文もかなり残っている。手紙は、残っているものとしては、リカアドウとの論争のものよりは、むしろ、人口理論に関するものの方がより重要である。
[#改ページ]
序言(訳註――第一版のみに掲載)
以下の論文は、もと、ゴドウィン氏の著『研究者』中の論文の問題すなわち貪慾と浪費(訳註)について、一友と交わした会話に由来するものである。この討論は、社会の将来の改善に関する一般的問題を提起した。そこで著者は、最初は、その友人に、会話で出来ると思われるよりもはっきりと自分の思想を紙上に述べてみるというだけの考えで、机に向かったのである。しかるにこの問題は、著者をして、従来考えてみもしなかった色々な考えに面せしめ、そして、かくも一般に興味ある問題に関しては、いかに微かな光でも、それはすべて公平に迎えられるに違いないと考えられたので、著者はこれを著作の形とすることに決心したのである。
人口は常に生活資料の水準に抑止されなければならぬということは、既に多くの著者が気づいていた明白な真理であるが、しかし著者の想起する限りでは、いかなる著者も、特別に、この水準が実現される仕方を研究したものはない。そしてこの仕方を考えるからこそ、著者にとっては、社会の将来の非常に大きな改善の途上には最も強い障害があると考えられるのである。著者は、この興味ある問題を論ずるに当って、著者が動かされているのは真理の愛好の念のみであり、ある特定の人々や意見に対抗せんとする偏見ではないことが、わかってもらいたいと思う。著者は、社会の将来の改善に関する若干の見解を、それが幻想であればよいがという気持とはおよそ遠い気持で読んでみたが、しかし、著者をして、自分の希望するものは証拠がなくとも信じ、または好ましくないものは証拠があっても賛成を拒否し得せしめるほどの、悟性の支配力を得はしなかったということを、告白せざるを得ない。
著者の人生観は陰鬱な色をもっている。しかし著者は、かかる暗い色を画いたのはそれが絵画の真実であると確信するからなのであり、色眼鏡や持ち前の気まぐれによるものではないことを、意識している。著者が最後の二章で素描した精神説は、人生の多くの害悪の存在に対する説明として、自ら満足に思うものである。しかしそれが他の者にも同じ効果を有つか否かは、これを読者の判断に委ねなければならない。
もしも著者が、社会の改善の途上に横たわる主たる困難と考えるところのものに、より有能な人々の注意を惹くことが出来、その結果として、この困難が、たとえ理論上だけでも、除去されたことを見得たならば、著者は喜んで現に懐いている意見を撤囘し、そしてその誤謬を知って歓喜するであろう。
一七九八年六月七日
[#改ページ]
第二版序言(訳註――第二―六版の全部に掲載)
私が一七九八年に著した『人口原理論』は、序言に断っておいたように、ゴドウィン氏の『研究者』の中にある一論に示唆されて出来たものである。それは、時興にうながされて書かれたものであり、当時辺鄙なところにいて手に入れ得た少数の資料によって書かれたものである。私が該書の主論点をなす原理を演繹して来た著作の著者は、ヒュウム、ウォレイス、アダム・スミス及びプライス博士(訳註)だけであり、そして私の目的は、これを適用し、そして、当時公衆の注意をかなり刺戟していた人類及び社会の可完全化性に関する諸々の推論が本当かどうかを検討してみるにあった。
この研究をしている中に、私には、『人口論』をはじめて著した時に知っていたよりも遥かに多くのことが、今までになされていることが、わかった。既に早くプラトン及びアリストテレエスの時代に、人口の過急の増加から生ずる貧困と窮乏とは明確に認められ、また最も乱暴な救治策が提案されていた。そして近年では、、この問題は、それがもっと公衆の注意を刺戟しなかったのが、当然に変だと思われるくらいに十分に、フランスのエコノミストのある者や、時にはモンテスキウや、また我国の著者の中では、フランクリン博士、サア・ジェイムズ・スチュワアト、アーサ・ヤング氏、及びタウンスエンド氏によって、取扱われているのである(訳註)。
この問題をかねて理解していたか、または第一版を熟読してそれがはっきりわかった人々にとっては、私がそのある部分を余りにも縷説し過ぎ、また不必要な反覆の罪を犯しているように見えることを、恐れる。こうした欠陥は一部分は不手ぎわから起ったものであるが、また一部分は意識的なものである。多数の国の社会状態から類似の推論を導くに当って、私にはある程度反覆を避けるのが非常に困難であった。またこの研究の中、吾々の通常の思考習慣とは異る結論に導くでは、私には、確信を生み出そうというわずかでもの希望をもって、異る時、異る機会にこれを読者の心に提示するのが必要であるように思われた。私は、より広汎な読者に印象を与えるためには、文体を飾ろうなどということは一切喜んで犠牲にしようと思った。
ここに展開された原理は議論の余地なきものであるから、従って、もし単に概観だけに論点を限ったならば、私は難攻不落の城塞に身を固めることが出来たであろうし、そして本書は、そうした形の方が、おそらく遥かに堂に入ったらしい外貌を有ったことであろう。しかしかかる概観は、抽象的真理を進めるには役立つであろうが、何等かの実際的善を促進する傾向はほとんどないのである。そして私が、それから必然的に生ずると思われる帰結――かかる帰結なるものが何であろうとも――のいずれかを考察することを拒否するならば、私はこの問題を正当に取扱わず、またそれを正しく論議したことにはならぬ、と考えたのである。しかしながら、この案をとったので、私は多くの反対論と、またおそらくは極めて激しい批判とに、門戸を開くことになったのに、気がついている。しかし私は、私が犯しているかもしれぬ誤謬ですら、議論の手がかりとより以上の検討の刺戟とを与えるであろうから、社会の幸福とこれほど密接な関係を有つ問題をより以上一般の注目をひくようにするという、重要な目的に役立つであろうと考えて、ひそかになぐさめているのである。
本書の全体を通じて私は、原理において、前著とは、罪悪と窮乏のいずれの部類にも入らない人口に対するもう一つの妨げの作用を想定する点で、意見を異にした。そして本書の終りの部分で、私は、『人口論』第一版の最も苛酷な結論のあるものを緩和せんと努めた。このことをなすに当って、私は、正しい推理の原理を破らず、また過去の経験によって確証されない蓋然的社会進歩に関する何らかの意見を表明しはしなかったと、希望する。人口に対する妨げはそれがいかなるものであろうと、それはそれが除去せんとする害悪よりも悪いものだと、なお考えるものには、前版『人口論』の結論が依然十全の力を有つであろう。そしてもし吾々がこの意見を採用するならば、吾々は、社会の下層階級の間に広く存在する貧困と窮乏とは絶対的に救治し難いものであると、認めざるを得ないであろう。
私は本書の中に掲げてある事実や計算については誤りを避けるよう、出来るだけの努力をした。それでもなおそのあるものが誤りであることがわかったとしても、読者はそれが一般的論述に本質的には影響を及ぼすものではないことを、認めるであろう。
問題の第一部門を例証するに当って現れた山なす資料の中から、私は最良のものを選んだとか、またはそれを最も明晰な方法で配列したとか云って、誇る気は少しもない。道徳的政治的問題に興味を有つ人々には、この問題の新奇さと重要性とが、その取扱の不完全を補ってくれることを、希望する。
ロンドンにて
一八〇三年六月八日
[#改ページ]
第三版前書(訳註――第三、四両版のみに掲載)
この版の主たる変更は次の如くである。
第二篇の第四章及び第六章となっていた章は、記録簿の資料から結婚の出産性と結婚まで生存する産児の数とを測定せんとする際に著者が誤りを犯していたので、ほとんど書き改めた。そこでこれらの章はその内容が前版ではそのすぐ前の諸章と続いていたが今度はそうではなくなったので、この篇の後ろの方に移すこととし、第九章と第十章とにすることとした。
同篇の中『英蘭における人口に対する妨げ』を取扱う章には、前世紀を通じて出生の比例はほとんど均一であったと考えることが正しくなく、従ってかかる論拠に基いて異る時期の人口を測定するのが正しくないことを証示するために、一記述を加えてある。
第三篇第五章には、一時的の困窮期には貧民を扶助するのが得策でもあれば義務でもあることを論じた一文を挿入した。また同篇の第七、八、九、十の諸章では章句を削除したり挿入したりした。これは穀物輸出奨励金を取扱う第十章において特に甚だしいが、けだしこの問題は現在重要性を有し、最近大いに論ぜられているからのことである。
第四篇第六章では一章句を削除し、善政が貧困を減少するの結果を論じた一章句を加えた。
同篇の第七章では一章句が削除された。また第八章では既婚者と未婚者との比較を論じたかなりに長い章句を削除し、そして吾々は道徳的抑制の義務を説いてはいるものの結婚が望ましいものなることを軽視してはならぬことを述べた一文を加えた。
最も顕著なる変更は以上の如くである。その他は単に誤解を防ぐために少数の用語上の訂正を試み、ここかしこに短い章句や説明用の註を加えただけである。この種の小さな訂正は主として最初の二箇章に行われている。
上述の変更は本書の原理に影響を及ぼすものではなく、従って四折版(訳註)の価値を本質的に減ずるものではないことを、読者は見るであろう。
[#改ページ]
第五版序言(訳註――第五、六両版に掲載)
この『人口論』は、大戦争があり同時に特殊の事情によって外国貿易が極めて栄えた時期に、はじめて公刊された。
従って本書は人間に対し異常な需要があり、人口過剰から何等かの害悪が生ずる可能があるとはほとんど考えられない時に、公衆の前に現れた訳である。こういう不利益があったのであるから、その成功は合理的に期待され得べかりし程度以上のものであった。従って、その次の時期はこれと種類を異にして最も著しくその原理を例証しその結論を確証した時期となったが、この時期には本書はその興味を失わないものと考えられ得よう。
従って、問題の性質は永久的興味を有し将来それには多くの注意を払われるであろうと考えらるべきものであるから、私としては、その後の経験と知識とによって私が知り得た本書の誤りを正し、かつ本書を改善しその有用性を一層大ならしめる如き増補や変更を加えざるを得ないのである。
この問題の前半についてもっと多くの歴史的例証を加えるということならば容易なことであったであろう。しかし私が前に述べた如くに、各特定の妨げが自然増加力を各々どれだけ破壊するかを確証すべき十分正確な記述はやはり得ることが出来ないので、手に入れ得る唯一種類の極めて豊富にある証拠から私が前に得た結論は、全く同じ種類の証拠をもっと集めてみた所でその力を加えるものではないように私には思われた。
従って最初の二篇では増補はフランスに関する新らしい一章と英蘭に関する一章とだけであり、これは主として前版の公刊後に生じた事実に関するものである。
第三篇では『貧民法』に関する一章を加えた。そして『農業及び商業主義』を論ずる章と『富の増加が貧民に及ぼす結果』を論ずる章とは適当に整えられてもいなければまた主題にすぐ適用することも出来ないように思われ、その上私は『輸出奨励金』を論ずる章で若干の変更を試み、『輸入禁止』の問題に関して若干附加しようと思ったので、これ等の章を書き改めることとした。これ等はこの版では第八、九、十、十一、十二、十三の諸章となっている。更に同篇の最後の第十四章には新らしい名前を附して二三の章句を附加した。
第四篇では私は『貧困の主要原因に関する知識が政治的自由に及ぼす諸影響』と題する章に新らしい一章を加え、また『貧民を改善する種々なる企劃』を論ずる章にも一章を加えた。また私は『附録』にもかなりの増補を試み、前版以後に現れた『人口原理』を論ずる二、三の論者の論作に答弁を与えた。
この版で行われた主たる増補と変更とは以上の如くである。これは大部分『人口論』の一般諸原理を現在の事態に適用したものである。
前の諸版の購買者の便宜のために、以上の増補と変更は別冊で公刊することとする(訳註)。
一八一七年六月七日
東印度大学において
第六版前書
一八二六年一月二日
この版で行った増補は主として、一八一七年にこの前の版が現れて以後新らしい人口調査や出生、死亡及び結婚の記録簿が現れた国の人口の状態に関し、記録や推論を若干加えた点にある。それは主として英蘭、フランス、スウェーデン、ロシア、プロシア、及びアメリカに関するものであり、従ってこれら諸国の人口を取扱う章に現れている。『結婚の出産性』を論ずる章では表を一つ加えたが(第一巻四九八頁)(訳註1)、これは現在若干の国で行われている十年ごとの人口調査の中間期の人口増加百分比率からその倍加期間またはその増加率を示すものである。『附録』の終りには私がゴドウィン氏の最近の著書(訳註2)に答えない理由を簡単に述べてある。本書の他の部分では小さな変更や訂正が行われているが、これはいちいち指摘する必要はない。また若干の註を加えたが、その中主要なるものは、自由貿易下のオランダにおける穀物の変動を論じ、一国の食物の不足はある他国のその豊富なることによって一般に相殺されると考えるのが誤りなることを述べたものである(第二巻二〇七頁――訳註、原書の頁である)。
〔訳註2〕Godwin, Of Population. An Enquiry concerning the Power of Increase in the Numbers of Mankind, being an Answer to Mr. Malthus's Essay on that Subject. London 1820. ――これは、マルサス『人口論』によって全く忘却の中に陥しいれられたゴドウィンが、デイヴィド・ブウス David Booth の助力を得て著した最後の必死のマルサス反駁書である。