私は昨年9月14日から16日まで,デンマークの首都コペンハーゲンで開かれた國際學術會議に,日本學術會議を代表して出席することになり,9月9日の朝2時すぎにパンアメリカンの飛行機で羽田を發った.そして翌朝未明に沖繩の那霸空港につき,1時間ばかりですぐ飛び立ち,香港に向った.途中は好い天氣であったが,香港に着いて聞くと,同地は昨日時速100マイルの颱風があったということで,まだ荒れ氣味である.
 香港の空港は九龍側にあって,多くの空港と同樣殺風景なところであるが,空路が集中しておって,絶えず飛行機が發着する.例えば“air bus”と稱する廣東行が1日に12回もでるということであった.その後,中共が廣東を占領してからはどうなったであろう.
 香港では4時間ばかり待って,午後4時に,同じ型ではあったが,少し小さい(座席約30)飛行機で出發,パンコックに向う.そして6時間半飛んでバンコックの地方時午後8時半に空港についた.空港は町からだいぶん離れているらしく,地方色もあまり見られない.ここでも1時間待って出發,カルカッタに向った.そして5時間半を費して同地についたのは翌9月10日の地方時午前2時であった.ここでは必ず飛行機を乘り替える.というのは,サンフランシスコ―カルカッタ間を往復しているのが太平洋航路で,ニューヨーク―カルカッタ間を往復しておるのが大西洋航路である.そして同じパンアメリカンではあるが,後者は少し型の大きいコンステレーション機を使っている.
 カルカッタでは19時間も待つので,その日は大學總長の Barnerjie 博士や,商業會議所の事務局長 Tawari 博士に會って,印度の状況を尋ねた.Saha 博士に會いたかったのであるが,Science College が共産主義者の騷ぎで,當日は閉鎖せられていたから,殘念ながら目的を達しなかった.
 ずいぶん濕氣の多い暑さに惱まされたが,その晩9時カルカッタを出發,3時間半を費して9月11日零時半頃デリイについた.ここも空港を見るだけで1時すぎ出發,3時間餘を費して,朝4時半パキスタンのカラチについた.ここでも空港以外には出られないが,どこでも空港に着く度毎に飛行機を追い出されて,旅劵その他の檢査を受け,飛行機は給油,點檢せられる.
 朝5時半カラチ發,海岸を飛んでアラビア灣の西岸を北上して,砂漠の上を過ぎ,8時間を經て地方時間午前10時すぎにシリヤのダマスカスに着いた.空港の邊は滿目土褐色で草木はなく,家屋も同じ一色に塗られている.しかし丘の上には黒い山羊の群がうごめいているのを見ると,やはり草はあるのであろう.この邊は乾期となると,5ヵ月も雨は降らないという.
 朝11時半出發,今までもそうであつたが,高度14,000〜15,000フィート,時速200マイル餘で飛ぶのである.間もなく快晴できれいな繪のような多島海を過ぎ,ギリシャのアテネ,ピレウスの上空を經,イオニヤ海に出て,イタリヤを北上するのであるが,雲に包まれてよく見えない.夕方にはアルプス山脈を越える.薄やみの中に雪を頂いた山々が連っておるのは壯観であった.こうして9時間40分を費して,地方時20時40分にベルギーのブラッセルについた.
 空港で1時間ばかり待って22時出發.1時間10分を費してロンドンのヒースロウ空港についたのは23時10分であった.
 それから旅劵,税關その他の手續きをすませて,バスでヴィクトリヤ・ステーションの近くにある Air Terminal に運ばれる.20年目に見るロンドンはネオンサインや街のあかりが豫想以上にきれいに感じられる.ホテルに着いたのは翌9月12日の朝2時であった.
 それからコペンハーゲンへ行くには,11時11分にケンジントン Air Station をバスで出てノーソルトの空港にゆくのであるが,途中見る街は昔のままのイギリスの古い家が並んでおる.乘った飛行機はコジンマリした双發の英國機で,12時出發,北海を飛んでジァットランドを經,デンマークの島々を見て,カストルップ空港についたのは15時半頃であった.久しぶりにデンマーク語を聞く.
 ホテルに着くと,Bohr さんからの傳言で,すぐ電話をかけろとのことで,かけたところが Bohr さんは不在で奧さんが出られ,今晩來るようにとのことであった.ホテルでは國際學術會議(International Council of Scientific Unions)に出席するために來ておる Stratton,Fraser とも會い,久しぶりに古い思い出話をする.Stratton 博士は昭和11年北海道の日蝕におけるイギリスの觀測班長として來た人で,國際學術會議の事務總長をもう12年間もやっておる.Fraser 博士は1927年にハンブルグで Rabi などと一緒に識り合いになった舊友である.今ユネスコと國際的の學術團體との連絡係をしておるのであるが,最近まで戰後の西ドイツの科學界の管理をしていた人である.彼の話によると,ドイツの科學は若い世代に有能な人がいないので,大きな空白を生じ,再び往時の隆盛を回復することは難しいのではないかと嘆いていた.Auger,Wang など,ユネスコの科學部の人達も同じホテルにいて話をする機會を得た.
 その晩 Bohr さんの2人の令息(Erik と Ernest)が車で迎いに来てくれて,Bohr さんの宅にゆき,まる12年ぶりで會った.御夫妻とも大して變っておられない.先ず話が出たのは日本のことであった.日本から持って歸られたものを一々示しながら,宏壯な邸宅のうちを案内して頂いた.
 この邸宅は Carlsberg というビール釀造所の構内にある.この釀造所が會社であった頃,その社長の Jacobsen という人が立派な建物をたて,これを國家に提供して,一代の碩學に住んで貰うようにしたもので,1萬坪に近い廣い庭園が附いており,家には大理石の彫刻の列んだホールや温室があり,立派な部屋が澤山ある.この邸宅に最初に住んだのは哲學者 H※(アキュートアクセント付きO小文字)fding で,この人が亡くなってから,Bohr さんの家族が住まれたのである.
 その晩の話は主として日本の復興状態,又自分がどんな目的を持って科學研究所を經營しているのかということを話した.即ち經濟復興に科學を利用するということである.四つの島に8,000萬の人を入れて,どうして食ってゆくかが大きな問題であるということを話した.
 翌日は Bohr さんの研究所を見に出かけた.全く見違えるほど大きくなっている.新しい4階建の建物ができたばかりであるし,またサイクトロン專用の建物も建築中である.Koch,Jacobsen の兩人に研究室を案内して貰ったが,小さいながら 10MeV に近いエネルギーの H2 を生ずるサイクロトロン,1MV の cascade の高壓加速裝置,高壓の Van de Graaff 裝置などがあり,研究も次第に軌道に乘って來たようであった.
 その晩アメリカの理論物理學者 Wheeler と會食する機會を得た.最近の仕事のことを話し,又廣島,長崎の原爆状況のこともいろいろと尋ねられるままに話をした.

 翌9月14日10時からデンマークの學士院會館で國際學術會議の總會が開かれた.
 國際學術會議は二つの目的を持っておる.その第1は第1種の會員であるユニオン(International Scientific Unions)の仕事を連絡調整し,かつこれを推進するという仕事,第2は第2種の會員である各國の代表的學術團體の科學的連絡調整を圖ることである.そのユニオンというのはいろいろの學術の專門分野における研究調査の國際的連絡調整及び推進をはかる機關であって,たとえば物理のほうの(1)International Union of Pure and Applied Physics とか天文のほうの(2)International Union of Astronomy とかいうもので,現在10個存在している.
 そのほかに(イ)現在どの國際學術團體の活動範圍にも屬しないような國際的活動に關すること,(ロ)各國の會員を通して,その國の政府と學術研究の進歩に關して折衝すること,(ハ)國際連合およびその特殊機關と連絡を保つこと,(ニ)國際學術會議が擔當している自然科學の分野に關連する他の國際團體と連絡すること,そういうこともこの國際學術會議の仕事である.
 この國際學術會議の總會の會員は前述の通り二通りある.即ちユニオンの代表と,各國の學術を代表する團體の代表者とである.
 ユニオンのほうは二通りあって,一般的なユニオンと特殊的なユニオンとおのおの五つずつある.一般的のユニオンは代表を2人ずつ會員として出し,特殊的のユニオンは代表を1人ずつ出すことになっている.
 現在のユニオンは次の通りである.
一般的ユニオン
 天文
 測地學および地球物理學
 純化學および應用化學
 純物理および應用物理
 生物學
特殊的ユニオン
 地理
 電波科學
 結晶學
 理論力學および應用力學
 科學史
 國は20ヵ國が加盟している.但しソヴエトは入っていない.ユニオンのほうの會員は全部出席しておったが,各國代表の中では出ていないところもあった.ソヴエト系の國では,ポーランドが出席していた.ルーマニヤ,チェコスロバキヤも來ていたかも知れない.日本はもともと國際學術會議の會員であったのであるが,戰爭中に脱落した.しかし,最近日本學術會議が生れたことを通知したところ,事務總長はすぐに日本を復歸させて,總會への招待状をこちらへ寄越した.それで,私が日本學術會議を代表してこの總會に出席することになったのである.この總會は3年毎に1回開かれる.この前はロンドンで行われ,この次はアムステルダムで開かれるということにこの總會できまった.今年の總會は9月14日から16日まで,開かれたのであるが,この日程は少くとも3ヵ月前から決定せられており,それに從って議事が進められたわけである.
 日程はいろいろあったが,そのなかで一番大きな問題は定款の改正であった.この改正案は前から會員に配布されており,これに基いてロンドンのロイヤルソサイティーその他からは修正案が提出されておった.會議ではこの原案と修正案とを見くらべて,逐條審議していった.
 この定款改正のなかで一番大きな問題となったのは,國が新しく會員として入會する手續きに關することである.原案では,入會を申込むと自働的に入會を許すということになっておったのであるが,これに對して反對論が出て,たとえば執行委員會での2/3の多數の賛成を要するというようなこともいわれた.ずいぶん長い間の論議の結果,結局ビューローというのが,新しい申込者が入會の資格があるかどうかということを決定することになった.ビューローというのは會長と,副會長2人,それから前會長,事務總長,これに普通の國を代表する會員2人,合計7名から成立っているものである.この論議の裏には,暗默のうちにドイツの問題が考えられておったわけである.ドイツは前大戰後,入會を許されなかったが,國際政治の問題を學術會議に持込むのはよろしくないという議論がだんだん強くなって,最後にドイツも加入させるということになった.ところが,そのときにはドイツのほうから入らないということをいい出して,問題が紛糾したことがある.こんな國際政治の問題を學術會議に持ち込まないという心づかいから,ビューローが決定權をもつということになったわけである.但しビューローがこれを拒否した場合には,總會で承認を得る必要があるということになった.
 その次に議論の對象となった大きな問題はユネスコとの關係であった.國際學術會議およびユニオンは1946年以來ユネスコから年20萬ドルの補助を受けておった.これらの團體が國際的に科學の領域における活動を行なっているので,これをユネスコの仕事として推進するという考えから,この補助を與えておった.ところが,今年6月にユネスコの執行委員會はこの補助を打切るという決議をした.これはユネスコとしてはなるべく古い仕事は打切って新しい仕事に着手するという考えから出たことである.ところが,國際學術會議の總會はこれに全面的に反對をして,學術會議及びユニオンはユネスコの趣旨に副った最も有效な國際的團體である,もしユネスコがこれを見すてるならば,ユネスコはこれと同じような組織を別につくる必要があるであろう.それは重複であり,能率の惡いことであるから,この補助は打ち切るべきでないということで,この繼續を希望するという決議を行って,それを9月19日から始まるユネスコの總會に持っていって採擇してもらうということにきまった.これはその後恐らく採擇されたことと思う.
 そのほかの日程としては各ユニオンの報告,ユニオンの間でつくられた協同委員會の報告,もしくは科學の社會に及ぼす影響を研究する委員會とか,そういう報告があった.この最後の委員會は,たとえば原子爆彈とか,あるいはある特定の學説が政治的の壓迫を受けるという問題とか,軍事機密の名の下に學術が不當に壓迫されるとか,そういう問題を取扱っている委員會である.
 そのほか人權宣言の採擇も行われた.これは國際連合の宣言であるが,國際學術會議では當然のこととして採擇した.それから役員の選擧などをしてこの會議を終ったわけである.
 最後に前に述べた Carlsberg のビール釀造所で晝食の招待を受けて,そのあとで Niels Bohr 教授の邸宅のお茶の會に招ばれて,それでこの會議を終ったわけである.

 會合がすんで自分はホテルから Bohr さんのお宅へ移って,そこで3日ばかり過したが,その間に非常に親切なもてなしを受けた.そして,Bohr さん夫妻の戰爭中の話や,戰後の話など,いろいろ話は盡きないものがあった.戰爭中 Bohr さんはドイツ軍に捕われる寸前,飛行機でイギリスに逃げ,それからアメリカに渡って,原子力の研究に加わったということである.その間 Bohr さんの家族はストックホルムに避難しておられたのである.Bohr さんは將來の平和に對して,非常に大きな希望を持たれているようであった.また日本に對しては,深い同情をもって終始しておられた.
 私がおる間に,アメリカの Wheeler や,オランダの Kramers などの物理學者が來て,いろいろ盛んに討議をしていることは,私が前におったときと變りがなかった.
 私は9月10日にコペンハーゲンを發って,パリへ行き,ユネスコの總會を2日間見學した.まだ總會は始まったばかりであったから,會議は主に演説に終始しておったようであるが,平和に對する熱意が溢れているのを感じた.
 それから9月21日にパリを發ってロンドンへ行き,ロンドンでは旅劵の査證などで手間取って9月26日に出發し,同じ空路で日本に歸って來た.
 コペンハーゲンやパリは戰災を被らなかった都市であるから,その復興も早いのは當然だが,ロンドンはずいぶん戰災を被ったにかかわらず,賑やかな表通りはほとんど元の通りに回復している.これはイギリスの底力のある經濟と文化によるのであると感じた.要するに何代も世代を重ねて蓄積せられた文化と富の結果に外ならないと思う.
 往復の飛行機をふくめて3週間の旅行であったから,私の觀察はほとんど皮相の感に過ぎないと思うが,私の強く感じたことは,日本はアジアの民度の低い國家の間に介在しておるが,8,000萬の人を維持するにはこの周圍の國の産業を開發して,大衆の生活程度を上げることによって,われわれの生活程度も上げてゆくというやり方より外に方法はないと感じた.これにはわれわれの科學を應用して技術を開發し,それによって資源を開拓するということが必要である.これは決して1代や2代でできることではないと思うが,わが國の經濟を維持し,われわれの生活を上げるにはこれより外に方法はないと思う.
〔科學研究所〕

底本:「自然 300号記念増刊 総収録 仁科芳雄・湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一」中央公論社
   1971(昭和46)年3月20日発行
※底本は横組みです。
入力:山崎雅人
校正:小林 徹
2005年11月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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