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〔昭和十二年(一九三七)〕
獄をいでて侘居しをれば訪ねくる人のこゝろはさまざまなりき
ありがたや静かなるゆふべ簡素なる食卓の前に妻子居ならぶ
河鹿鳴くと人は云へれど耳老いてせせらぐ水にわれは聞えず
世の塵もこの渓まではよも来まじ窓を披きて峰の月見る
奥山にとめ来し友と語らひて若さ羨む後のさびしさ(宮川実君の来訪を受く)
今は早や為すこともなき身なれども生きながらへて世をば見果てむ
山深きいでゆにひたりいたづらに為すよしもなき身をばいたはる
何事もなさで過ぎねと人は云へ為すこともなくて生きむ術なき
洗竹出前山
晴れし日を南の縁に孫だきて陽を浴びをれば飛行機通る
手製りて送りたまひし柚味噌の焼くる匂ひに今朝もほゝゑむ
行き行けば疲れし頃に小橋あり腰をおろして煙草のむべく
畑中の小溝の水は澄みわたりゆらぐ藻草の美しきかな
つぎ/\に拓かれてゆく郊外に取り残されし稲荷のやしろ
畑中の小高き丘の松蔭の洋館のあるじ誰ならむ
藁葺にまじりて白堊の家もあり赤き屋根あり青き屋根あり
白粥に柚味噌添へて食べたり奥歯のいたむ霜寒の朝
〔昭和十三年(一九三八)〕
膝を伸ばせば足が出る、
首を伸ばせば枕が落ちる、
覗き穴から風はヒュー/\。
ほんたうに冬の夜の
牢屋のベッドはつらかつた。
二
今は毛布の中にくるまり、
真綿の蒲団も柔かに、
湯タンポで脚はホカ/\。
ほんたうに仕合せな
今歳の冬は弥生の春よ。
時紛不復聞 時紛また聞かず。
倚爐思往事 炉に倚りて往事を思ひ、
擧首看浮雲 首を挙げて浮雲を看る。
携孫就午陽 孫を携へて午陽に就く。
讀書歎菲才 書を読みては菲才を歎じ、
曳杖愛長塘 杖を曳いて長塘を愛す。
紅火煮新茗 紅火新茗を煮、
青燈夢故郷 青灯故郷を夢む。
無爲無病叟 無為無病の叟、
閑裡四分忙 閑裡四分の忙。
茵蓐暖於春 茵蓐春よりも暖かなり。
憶去年今夜 憶ふ去年の今夜、
幽窗抱膝身 幽窓膝を抱きし身。
偸生寂避名 生を偸み寂として名を避く。
莫傷時事否 傷むことなかれ時事の否なるを、
應水到渠成 水到りて渠成るあるべし。
隨流游魚心 流に随ふ游魚のこゝろ。
棄躯輕似葉 棄躯軽きこと葉に似、
不復覺浮沈 また浮沈を覚えず。
艱難險阻備嘗之 艱難険阻つぶさに之を嘗む。
如今覓得金丹術 如今覓め得たり金丹の術、
六十衰翁初學詩 六十の衰翁初めて詩を学ぶ。
結庵來臥老杉傍 庵を結び来り臥す老杉の傍。
一鉢生涯貧巷吟 一鉢生涯貧巷に吟じ、
千金遺墨富兒藏 千金の遺墨は富児蔵す。
甘貧不賣文 貧に甘んじて文を売らず。
仰天無所愧 天を仰いで愧づる所なく、
白眼對青天 白眼青雲に対す。
天荒未放紅 天は荒れて未だ紅を放たず。
狗吠門前路 狗は吠ゆ門前の路、
雲低萬里空 雲はたる万里の空。
老妻のたゞ所在なく坐しをるに所在なくまた我も居向ふ
愁人獨送春 愁人ひとり春を送る。
落花絲雨裡 落花糸雨の裡、
塵外刑餘身 塵外刑余の身。
今夜月光圓 こよひ月光まどかなり。
歩月人迷野 月に歩して人は野に迷ひ、
照人月度天 人を照らして月天をわたる。
初夏の四坪の庭にふりそゝぐ雨をながめて茶をすすりをり
倦來樹下眠 倦み来りて樹下に眠る。
夢覺無人見 夢さめて人の見るなく、
風清百畝田 風は清し百畝の田。
曲肱一卷書 肱を曲ぐ一巻の書。
小儒養老處 小儒老を養ふ処、
明月獨侵廬 明月ひとり廬を侵す。
擲盡經世萬卷書 擲ち尽す経世万巻の書。
唯有九天明月度 たゞ九天明月の度るあり、
清光含露入吾廬 清光露を含んで吾が廬に入る。
當時之實景也
未成旬日曠經時 未だ成らず旬日むなしく時を経。
皺白膩紅凋謝後 皺白膩紅凋謝の後、
壺中開蕾一枝梔 壺中蕾を開く一枝の梔。
聊贈畫中詩 聊か贈る画中の詩。
竹林孤月度 竹林孤月わたる、
來聽草蟲悲 来り聴け草虫の悲むを。
高樹蝉鳴歳復秋 高樹蝉鳴いて歳また秋なり。
處々江山空有待 処々の江山むなしく待つあり、
斷雲斜月爲君愁 断雲斜月君がために愁ふ。
荒苑蝉鳴又會秋 荒苑蝉鳴いて又秋に会ふ、
老殘孤客倚門愁 老残の孤客門に倚りて愁ふ。
惆悵我歸君未復 惆悵す我帰りしも君未だかへらず、
不知與誰話曾遊 知らず誰と共にか曾遊を話せむ。
客ありて二階に通り窓近き隣の青葉ほめて帰れり
(之はからだのことばかりを言ふに非ず)
寒雨蕭々五載前 寒雨蕭々たりし五載の前なり。
如今把得奇書坐 如今奇書を把り得て坐せば、
盡日魂飛萬里天 尽日魂は飛ぶ万里の天。
咲きほこる春の花よりも
今揺落の秋の暮
梢を辞して地にしける
枯葉さま/゛\拾ひ来て
染まれる色を美しと見る
落葉美於花 落葉花よりも美なり。
始識衰殘美 始めて識る衰残の美、
臨風白鬢斜 風に臨んで白鬢斜なり。
何留鬧市嘆清貧 何すれぞ鬧市に留まりて清貧を嘆ずるや。
休怪荒村多吠狗 怪むを休めよ荒村吠狗多し、
寄身愛此馬蹄塵 身を寄せて此の馬蹄の塵を愛す。
人未だ帰らず、
物価いよ/\高くして歳まさに暮れなんとす。
道にそひたる小さなる家より
たゞラヂオのみ
窓の外まで高々と鳴りひゞく。
無帽の老人
ひとり佇みて杖に倚り
天を仰いで長嘯す。
故第三句用刀字
萬里未歸人 万里未だ帰らざるの人。
枕刀眠曠野 刀を枕として曠野に眠り、
驚夢別愁新 夢に驚けば別愁新たなり。
〔昭和十四年(一九三九)〕
枕蠹書眠願有終 蠹書を枕として眠り終あらんことを願ふ。
羸駑不與兵戈事 羸駑与からず兵戈の事、
心似山僧萬籟空 心は山僧に似て万籟空し。
長忘嶽麓蘭芳 長く嶽麓蘭の芳を忘る。
刑餘始作無爲叟 刑余始めて無為の叟となり、
空倚危欄望北 空しく危欄に倚りて北を望む。
人は老い着物もやれて綿出でぬよごれと見しは綿にてありき
晩歳斯名始作眞 晩歳この名始めて真となる。
天以餘生恩此叟 天は余生を以てこの叟をめぐみ、
教爲高臥自由身 高臥自由の身となさしむ。
出し切つたと思ふこゝろの安けさよ。
捨て果てし身の
なほもいのちのあるまゝに、
飢え来ればすなはち食ひ、
渇き来ればすなはち飲み、
疲れ去ればすなはち眠る。
古人いふ無事是れ貴人。
羨む人は世になくも、
われはひとりわれを羨む。
または見ぬ庭ぞと思ふ庭の面に真紅のダリヤ咲きてありしか
遠寺の鐘にゆられて雛罌粟の風なきゆふべ散るがに死なむ
老い去りて為すこともなく日を経れば明日にも死して悔なしと思ふ
萬境踏來似隔生 万境踏み来りて生を隔つるに似たり。
祇喜囘頭無所悔 たゞ喜ぶ頭をめぐらして悔ゆる所なきを、
誰知這箇野翁情 誰か知る這箇野翁の情。
一身痩盡纔存骨 一身痩せ尽して纔に骨を存し、
萬卷抛來空賦詩 万巻抛ち来りて空しく詩を賦す。
憐爾刑餘垂死叟 爾を憐む刑余垂死の叟、
半生得失待誰知 半生の得失誰を待ちてか知らむ。
連載社會主義評論于讀賣新聞紙上、名顯
如今草屋似扁舟 如今草屋扁舟に似たり。
相逢莫怪名殊實 相逢うて怪むなかれ名の実と殊なるを、
萬水千山胸底收 万水千山胸底に収む。
〔昭和十五年(一九四〇)〕
夢描妙境樂清貧 夢に妙境を描いて清貧を楽む。
幽蘭獨吐深山曲 幽蘭ひとり吐く深山の曲、
殘月斜懸野水濱 残月斜にかゝる野水の浜。
形骸相似盡遺眞 形骸相似るも尽く真を遺ふ。
千金求得良寛字 千金求め得良寛の字、
但莫由沽這裡貧 たゞ這裡の貧を沽ふに由なし。
天荒地裂鳥魚瞋 天荒れ地裂けて鳥魚いかる。
何幸潛身殘簡裡 何の幸ぞ身を潜む残簡の裡、
腥風吹屋不吹身 腥風屋を吹けども身を吹かず。
と思ふほどなり、小詩を賦して自ら慰む
閑居して思ふことなく日を経れば天地を忘れまた我をも忘る
老いらくの身のはかなさを思へばか今年の春のそゞろに惜まる
刑餘蝉蛻身 刑余蝉蛻の身。
懶眠繙帙罕 懶眠帙を繙くこと罕に、
晏坐覆棋頻 晏坐棋を覆すること頻りなり。
有髮亦如僧 髪あるもまた僧の如く、
無錢尚不貧 銭なきもなほ貧ならず。
人嗤生計拙 人は生計の拙なるを嗤ふも、
天惠四時春 天は恵む四時の春。
雲間空望阿母家 雲間空しく望む阿母の家。
誤作風塵場裏客 誤つて風塵場裏の客となり、
十年不見故郷花 十年見ず故郷の花。
懇ろに近親に感謝し、
厚く良友に感謝し、
普く天地に感謝し了へ、
晏如として我が生を終へなむ。
今われ老いて
幸に高臥自由の身となり、
こゝろに天眷の渥きを感ずること頻りに、
ひとりゐのしゞまには
しば/\かゝる思ひにひたる。
似遊山川、乃賦一絶以敍心境云
無事到心頭 事の心頭に到るなし。
對月披襟臥 月に対し襟を披いて臥せば、
烟波載夢流 烟波夢を載せて流る。
驚秋獨悵然 秋に驚いて独り悵然たり。
可憐強弩末 憐むべし強弩の末、
空學竹林賢 空く竹林の賢を学ぶ。
秋闌山徑清 秋闌にして山径清し。
雨餘逢月色 雨余月色に逢はば、
高趣畫難成 高趣画けども成り難からむ。
輩出す、憤慨の余り窃に一詩を賦す
言ふを得ざれば黙するに如かず。
腹にもなきことを
大声挙げて説教する宗教家たち。
眞理の前に叩頭する代りに、
権力者の脚下に拝跪する学者たち。
身を反動の陣営に置き、
ただ口先だけで、
進歩的に見ゆる意見を
吐き散らしてゐる文筆家たち。
これら滔々たる世間の軽薄児、
時流を趁うて趨ること
譬へば根なき水草の早瀬に浮ぶが如く、
権勢に阿附すること
譬へば蟻の甘きにつくが如し。
たとひ一時の便利身を守るに足るものありとも、
彼等必ずや死後尽く地獄に入りて極刑を受くべし。
言ふべくんば真実を語るべし、
真実の全貌を語るべし、
言ふを得ざれば黙するに如かず。
みもしらぬその畢生をかきをへてこひしくなりぬなきおほちちの
をさなごらひとまのいへにとりかこむきみがたまどこ思へばかなしも
[#改段]
〔昭和十六年(一九四一〕
六十三翁獨樂天 六十三翁ひとり天を楽む。
風骨※[#「月+瞿」、76-下-5]然如病鶴 風骨※[#「月+瞿」、76-下-5]然病鶴の如し、
蠹簡堆中棋局前 蠹簡堆中棋局の前。
莫怪春來尚蟄庵 怪むなかれ春来尚庵にひそむを。
病骨支離難耐歩 病骨支離歩に耐へがたし、
間窗枕帙夢江南 間窓帙を枕として江南を夢む。
棋局自生塵 棋局おのづから塵を生ず。
君去風流絶 君去つて風流絶え、
間居空戀人 間居して空しく人を恋ふ。
宛似萬延元治年 宛として万延元治の年に似たり。
野老不關軍國事 野老関せず軍国の事、
粗飯一飽抱琴眠 粗飯一飽、琴を抱いて眠る。
但留客好對楸 但だ客を留め好んで楸に対す、
不問客從何處到 問はず客の何処より到るかを、
堪嗤衰翁索居情 嗤ふに堪へたり衰翁索居の情。
眉宇纔存積憤痕 眉宇纔に存す積憤の痕。
心如老馬雖知路 心は老馬の如く路を知ると雖も、
身似病蛙不耐奔 身は病蛙に似て奔るに耐へず。
始見人情眞不眞 始めて人情の真と不真を見る。
昨夜燈下交膝客 昨夜灯下交膝の客、
今朝忽作路傍人 今朝忽ち路傍の人と作る。
高原、見寄殘雪句、(残雪や浮世の風の来
ぬあたり、)賦詩乞正
今日獨空歎老身 今日独り空しく老身を歎ず。
高原踏雪君搜句 高原雪を踏んで君は句を捜め、
陋巷擁爐我待春 陋巷炉を擁して我は春を待つ。
心似香山放妓年 心は似たり香山放妓の年。
壯圖如夢落花夕 壮図夢の如し落花の夕、
老殘寒儒誰爲憐 老残の寒儒誰か為めに憐まん。
一首直千金 一首千金に直す。
擧付斯茅宇 挙げて斯の茅宇に付し、
教誇月色深 月色の深きを誇らしむ。
身靜有良朋 身静かにして良朋あり。
愛此殘春夕 此の残春の夕を愛し、
悠然待月昇 悠然として月の昇るを待つ。
看雲雲白似波 雲を看れば雲白うして波に似たり。
光滿地花滿樹 光地に満ち花樹に満つ、
愁居奈春色何 愁ひ居らば春色を奈何。
錯提長劍草爲茵 錯つて長剣を提げ草を茵と為す。
刑餘一枕蠹書裡 刑余 一枕 蠹書の裡、
造物還吾風月身 造物 吾に還す 風月の身。
姓名又人無知 姓名又た人の知る無し。
獨弄詩蝸廬底 独り詩を弄す蝸廬の底、
戰雲滿乾坤時 戦雲 乾坤に満つるの時。
不是愁人亦合愁 是れ愁人ならざるも亦た愁ふべし。
至今猶想荒川雨 今に至るも猶ほ想ふ荒川の雨、
手械東過白首囚 手械 東に過ぐ 白首の囚。
蝸廬何所營 蝸廬何の営む所ぞ。
迎風撒紙 風を迎へて紙を撒ひ、
逐清搬楸 清を逐うて楸を搬す。
一枕蠹書裡 一枕蠹書の裡、
千山煙雨情 千山煙雨の情。
我今死無悔 我 今 死すとも悔なし、
那又妨長生 那ぞ又た長生を妨げん。
從風西又東 風に従うて西又た東。
此是鄙夫事 此は是れ鄙夫の事、
學者那得同 学者那んすれぞ同するを得ん。
丈夫苟志學 丈夫苟くも学に志す、
指心誓蒼穹 心を指して蒼穹に誓ふ。
惟要一無愧 惟だ一の愧なきを要す、
何必問窮通 何ぞ必ずしも窮通を問はん。
困睫騰老 困睫騰の老、
耳聾心未聾 耳聾するも心未だ聾せず。
寄語世上輕薄子 語を寄す世上の軽薄子、
莫擬瞞此避世翁 此の避世の翁を瞞かんと擬する莫れ。
雨過ぎ風落ちし跡
月さへ照れる山村の
静けさに身を置かんとて、
刑余帝京のかたほとり
一簷の蝸廬を賃し、
門を閉ぢ客を謝し得て
住むこと已に五年。
たまたまここにして
一千年前の宋人
陸放翁に邂逅す。
渭南文集五十巻、
剣南詩稾八十五巻、
詩一万余首。
何の幸ぞ、
砲声坤軸を動かす時、
紅塵万丈の巷に在りて、
ひとりわれ前輩に侍し、
驢に騎りて桟路に
早梅の暁をめで、
兎を焼いて駅亭に
微雪の夜を愛す。
静かなるかな
こころ太古の民の如し。
ありし形見ぞとほつ世に
物のこさんとねがひしも
筆を執ること四十年
ただ文屑のみぞうづたかき
墓に入る日も近かからむ
骨をさすりて菲才を歎く
贏得楮塵堆 贏ち得たり楮塵の堆。
垂死悲秋客 垂死悲秋の客、
撫骸歎菲才 骸を撫して菲才を歎ず。
空作蠹魚奴 空しく蠹魚の奴と作る。
惟喜書百卷 惟だ喜ぶ書百巻、
一字未嘗沽 一字未だ嘗て沽らず。
閉戸閑詠 第二集(昭和十七年度)
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昭和十七年(壬午、一九四二年)
法然院にて
三十年をありしながらの姿にてわれを待ちにしこのしづけさよ
十年あまり放浪の旅ゆかへりて眺むればうつくしきかな叡山の色
世を忘れ世に忘らるる身にしあれば甲斐なき友は自然に去りぬ
生還、及今十有二年矣、頃日賃得一屋、復還
京洛、日夕毎對舊山河、感慨不少、乃賦一絶
挺一身忘萬戸封 一身を挺して万戸の封を忘る。
豈圖十有餘年後 豈に図らむや十有余年の後、
老眼重對比叡峰 老眼重ねて対す比叡の峰。
僧院闃不見人影、不遇而歸、至後日始知、當
時老師獨坐於深院、仍有此作、寺在上高野水
車町、溪聲頗壯、到處見水車
空院沈沈草横 空院沈沈として草横はる。
惟聽青龍長廣舌 惟だ聴く青竜の長広舌、
滿山松籟和溪聲 満山の松籟渓声に和す。
聊倣古賢蹤 聊か古賢の蹤に倣ふ。
青帙悲遺響 青帙遺響を悲み、
紅爐愛暮鐘 紅炉暮鐘を愛す。
家貧飯味甘 家貧にして飯味甘く、
客少友情濃 客少にして友情濃し。
這裡君知不 這裡君知るやいなや、
久忘萬戸封 久しく忘る万戸の封。
黄昏辭去、連日微雪未已、歸途口占
黄塵不到似孤村 黄塵到らず孤村に似たり。
煮茗圍爐微雪夕 茗を煮、炉を囲む、微雪の夕、
白頭相對脱乾坤 白頭相対して乾坤を忘る。
門前掃迹馬蹄塵 門前迹を掃ふ馬蹄の塵。
莫歎凋零交舊絶 歎ずる莫かれ凋零交旧の絶ゆるを、
雪中恩賚脛衣新 雪中恩賚脛衣新たなり。
法然此開基 法然ここに基を開くと。
十載重曳杖 十載重ねて杖を曳き、
三歎聊賦詩 三歎聊か詩を賦す。
都塵未曾到 都塵未だ曾て到らず、
湛寂無加之 湛寂之に加ふるなし。
脩竹掩徑竝 脩竹径を掩うて並び、
痩松帶苔 痩松苔を帯びてく。
池底紅鯉睡 池底 紅鯉眠り、
嶺上白雲滋 嶺上白雲滋し。
深院晝猶暗 深院 昼 猶ほ暗く、
佛燈如螢煕 仏灯 蛍の如く煕る。
地僻磐韻淨 地僻にして磐韻浄く、
山近月上遲 山近うして月上ぼること遅し。
絶不見人影 絶えて人影を見ず、
時有幽禽窺 時に幽禽の窺ふ有り。
春雨椿自落 春雨 椿 自ら落ち、
秋風梟獨悲 秋風 梟 独り悲む。
酷愛物情靜 酷愛す物情の静かなるを、
斯地希埋屍 斯の地希くは屍を埋めむ。
でく泣くにますらを我も泣きにけり
亡びなむ芸とも見えず三業のにほひとけゆく春のゆふぐれ
いのち短き春なれば。
わが住む京はうぐひすの
啼くねも高きみやこなり、
苔美はしきみやこなり、
春たけていざよふ水にちる花の
きよらににほふみやこなり。
けふ見ればさくらはすでににほほゑめり、
咲きはえむ日も近からむ
君をも待たでその花の散らまく惜しも。
偶春闌而花滿城
姓名世莫知 姓名世の知る莫し。
穿櫺春夜月 櫺を穿つ春夜の月、
誰對半山詩 誰ぞや半山の詩に対す。
填庭苔 々たり庭を填むの苔。
慇懃抽雜草 慇懃に雑草を抽き、
間拂緑絨埃 しづかに緑絨の埃を払ふ。
江山故舊情 江山故旧の情。
行藥鳧堤上 鳧堤のほとりを行薬すれば、
衰楊掃石迎 衰楊石を掃うて迎ふ。
忽將赴于滿洲、遂不得會、賦詩遣懷
此日君歸家 此の日君家に帰る。
問更向何處 問ふ更に何れの処にか向ふ。
不堪對落花 落花に対するに耐へじ。
聊贈一毛錐 聊か贈る一毛錐。
頼破臥龍夢 頼に臥竜の夢を破れ、
春光嬾困時 春光嬾困の時。
雖師平生言私淑良寛上人、堂宇宏壯、不似
五合庵遠、因呈一絶
師曰求貧不得貧 師曰く貧を求めて貧を得ずと。
淪落小儒聊足慰 淪落の小儒聊か慰むに足る、
暮年自是賤貧身 暮年おのづから是れ賤貧の身。
楊柳青青楓葉新 楊柳青々楓葉新たなり。
老木殷勤有誘我 老木殷勤に我を誘ふあり、
枉爲樹下石牀人 枉げて樹下石牀の人となる。
偏愛野蔬春 偏に愛す野蔬の春。
嫩筍如黄犢 嫩筍黄犢の如く、
旨甘抵八珍 旨甘八珍に抵る。
又
老脱利名累 老いて利名の累を脱かれ、
纔餘飮食慾 纔に余ます飲食の慾。
春光竹菌肥 春光竹菌肥え、
一飽心君足 一飽心君足る。
又
身健縁心靜 身の健かなるは心の静かなるにより、
食甘爲氣平 食の甘きは気の平かなるが為めなり。
竹萌頻入膳 竹萌頻りに膳に入る、
美敵五侯鯖 美、五侯の鯖に敵せり。
之蔬食、甘味抵八珍
鼓舌嘉粗飯 舌を鼓して粗飯を嘉む。
天憐此小儒 天は此の小儒を憐み、
爲許閑人健 為めに許す閑人の健。
青帙散空牀 青帙空牀に散ず。
誰知貧巷裡 誰か知る貧巷の裡、
亦有白雲郷 また白雲の郷あらむとは。
詩人陸放翁 詩人陸放翁。
抱情歌扇月 情を抱く歌扇の月、
忘世酒旗風 世を忘る酒旗の風。
伏櫪千里驥 櫪に伏す千里の驥、
蹴空九秋鴻 空を蹴る九秋の鴻。
愛吟長不飽 愛吟長へに飽かず、
閑暮樂無窮 閑暮楽み窮る無し。
自怪身猶活 みづから怪む身の猶ほ活くるを。
心願百縁成 心願百縁成り、
痩涓唯待渇 痩涓唯だ渇るを待つ。
今春三月二十二日、與河田氷谷博士相會於洛北一乘寺之遂志軒、因主人金子君之發意、三人相並而坐南窓之簷下、爲記念撮影了、更相携遊于八瀬、受博士之饗應於平八茶屋、對山臨溪、清談半日、席上余謂博士曰、花易散人易老、君亦須及早少省事、共吾等樂晩年之間適也、君可之且言、昨日偶臨于大學同期卒業生之會合、當年之同窓、今既半歸北之塵、從古人祝還暦、吾於今覺非無其故、當時君之靜音、今尚殘存於余耳朶、誰料越而纔旬日、君忽獲病而遂不起、五月二十一日早曉爲千載不歸之客、於是吾等三人之寫眞、獨爲君空成最後之撮影、君亦不待還暦而長逝焉、眞如一夢、乃悵然賦
同君流水落花愁 君と流水落花の愁を同にす。
誰料春徂君亦逝 誰か料らむ春徂いて君亦た逝かむとは、
衰翁獨立夕陽樓 衰翁独り立つ夕陽の樓。
又 樂府憶江南調
同遊地 同に遊びし地、
寂寞憶君時 寂寞君を憶ふの時、
孤影龍鐘空曳杖 孤影竜鐘として空く杖を曳けば、
百花落盡一溪遺 百花落ち尽して一渓遺り、
水嗚咽風悲 水嗚咽して風悲めり。
又 雙調憶江南
春已逝 春已に逝き、
花落割愁腸 花落ちて愁腸を割く。
人易老山川不老 人老い易く山川老いず、
依稀山紫水明郷 依稀たり山紫水明の郷。
悲舊坐茅堂」 旧を悲んで茅堂に坐す。」
交契久 交契久し、
三十五星霜 三十五星霜。
君未嘗思忽逝 君未だ嘗てを思はずして忽ち逝き、
待終我卻弔遺芳 終りを待てる我、却て遺芳を弔ふ。
雨暗暮江柳 雨は暗し暮江の柳。
青帙散空牀 青帙空牀に散ず、
此趣人無會 此の趣、人の会する無し、
白雲環草堂 白雲草堂を環る。
またとあらうかと思うて食べる。
大概は帙をひもといて古人の詩を読んで暮らす。
倦み来りて茗をすすり疲れ来らば枕に横たはる。
家はせまけれど風南北に通じ、
銭を用ひずして涼風至る。
こんなよい気持が人の身に
またとあらうかと疑はれる。
生きてゐる甲斐ありとつくづく思ふ。
しかしまたいつ死んでもよいと思ふ。
生きてゐてもよく、死んで行つてもよい、
これ以上の境涯はまたと世になからうではないか。
北窗南向風開 北窓南、風に向つて開く。
清風明月何無主 清風明月何ぞ主なからむ、
嘗賭一身贏得來 嘗て一身を賭して贏ち得来たる。
誰言風月元無價 誰か言ふ風月元と価なしと。
踏怒浪狂雷 怒浪狂雷を踏み、
抛身換得來」 身を抛つて換へ得来たる。」
屋如江上槎 屋は江上の槎の如く、
身是山間蝸 身は是れ山間の蝸。
紫陌九衢傍 紫陌九衢の傍、
獨棲白雲郷 独り棲む白雲の郷。
春晩賦詩頻 春晩れて詩を賦すること頻りなり。
小院無窮興 小院窮りなきの興、
今朝竹葉新 今朝竹葉新たなり。
夢破粟膚生 夢破れて粟膚生ぜり。
嘗臥幽囹月 嘗て幽囹の月に臥す、
至今夢易驚 今に至るも夢驚き易し。
惟愛古賢詩 惟だ古賢の詩を愛するなり。
茅堂一架帙 茅堂一架の帙、
取次百花披」 取次百花披けり。
天許閑兼健 天は許す閑と健とを、
粗飯甘如飴 粗飯甘きこと飴の如し。
不憂一箪食 憂ひず一箪の食、
不求五鼎滋」 求めず五鼎の滋。
隨分眼前樂 分に随うて眼前を楽む。
無客獨覆棋 客無くんば独り棊を覆し、
倦來則曳杖 倦み来らば則ち杖を曳いて
間尋古佛祠」 間に古仏の祠を尋ぬ。
別有身後慰 別に身後を慰むる有り。
扁舟弄潮兒 扁舟弄潮児、
浮沈千重浪 浮沈千重の浪。
聊期月明知」 聊か月明の知るを期す。
故舊哀貧賤 故旧貧賤を哀むも、
貧賤元所期 貧賤元と期する所。
不慙被寛褐 寛褐を被るを慙ぢず、
不羨坐虎皮」 虎皮に坐するを羨まず。
不學嘗糞陋 嘗糞の陋を学ばず、
不顧利名羈 利名の羈を顧みず。
怡怡伍鄰保 怡々として隣保に伍し、
竊喜志未移」 窃に喜ぶ志の未だ移らざるを。
旁人憐寂寞 旁人寂寞を憐むも、
寂寞何足悲 寂寞何ぞ悲むに足らむ。
千里少年夢 千里少年の夢、
愛靜老馬疲」 静を愛して老馬疲る。
招涼北窗下 涼を招く北窓のもと、
不妨庭無池 妨げず庭に池なきを。
疎鐘坐暮雨 疎鐘、暮雨に坐す、
百年最好時」 百年最も好き時。
心願已盡滿 心願已に尽く満ち、
且留悴竹姿 且らく留む悴竹の姿。
不辭蒙霜雪 霜雪を蒙るを辞せず、
信風兩三枝」 風に信す両三枝。
悠悠遲暮意 悠々たり遅暮の意、
無悔半生癡 悔ゆるなし半生の痴。
眞箇樂天叟 真箇楽天の叟、
舍予復有誰 予を舎いて復た誰か有る。
紅染紫霄時 紅、紫霄を染むる時、
弄色西山好 色を弄して西山好し、
乾坤露玉肌 乾坤玉肌を露はす。
何意悠悠獨賦詩 何の意ぞ悠々独り詩を賦せる。
休怪衰翁六十四 怪むを休めよ衰翁六十四、
耳聾世事久無知 耳聾して世事久しく知る無し。
まんまるな月のあまりに近ければたかどのに来てきだはしをよづ
人の詩集を買ひ来て読む
手すりの和紙に木目のこり
活字の墨も匂ふばかりぞ
短詩四十余章
余白ゆたかに占め得て
庭ひろき深院に
なごみて貴人の住めるに似たり
そねみにかよふ心ありて
いねがての夏の夜の
はかなしや夢のとだへに
詩人ならぬ身をこそ恨め
みづからは詩にも書きつれ
ただ一つのみ願ひ遂げ得で
いつしかにわれ世をし去るらむ
あやしくもたへなりいにし世の詩はも
そねみに似たる心ありて
蕭条たるこの垂老の秋の日に
ひとりわれ
骨を撫でつつ菲才をなげかふ
迢迢雲外鐘 迢々たる雲外の鐘
一日聾一日 一日は一日より聾し
清音又難逢 清音又た逢ひ難し
今夜天如洗 今夜天洗ふが如く
風露秋意濃 風露秋意濃し
仰月臥南 月を仰いで南に臥し
一牀聽砌蛩 一牀砌蛩を聴く
ゆくりかに殺人犯人の顔を見て人違ひなるに胸をなでけり
ひとりゐのものにあきたるゆふぐれを障子にとまる秋の蠅うつ
真白なるダリヤを活けてひとりゐの秋の夕日を窓ごしに見る
ややさむのそらはくもれりかめに活けし大輪のダリヤ白く浮びつ
ひとりゐてオートミールを煮てたうぶ上海の吾子おくりし品はも
ややさむのかはたれどきをほのぼのと街わたりくるふるでらの鐘
たかむらにくらくこもれるふるでらの門にうづくまり山時雨よく
法然の庵りし山のこのふところは苔むしてあるか古へゆ今に
枯葉ちる水さびし池に痩せにつつしづまる鯉はやもをなるらしも
葷酒不許入山門と石に彫らし寺の住持は銭好むらし(氷谷博士の墓地、約束後また値上げされし由を聞きて)
むかしよりわれのめでにし寺なれば友のおくつきけふも見に来つ(墓地成りをれど埋骨は未だなりき)
桑の実の赤きを食ひて口そめしをさなあそびの友はいま一人だになし
青淵は浅瀬となりてうろくづも見えずなりぬかふるさとの川
松山をそがひにしたる青淵の鱒住みしかげも浅瀬となりぬか
老妻とわかちて食べし鯔の味ひととせあまり忘れゐし味
無為にして物もらふことの多ければ経よまぬ僧とおのが身を愧づ
をさなくてなじみし村の山鳩を京のほとりにききつつ住めり
俗客のかへりみせざるしづけさをわびしきものと人おもふらし
二人して京のほとりにかくろひて心しづかに世を終へむとす
大戦の世ともおもほへずわが老をやしなふやどのこのしづけさは
今更に生きながらへて何かせむものおしみするわれをさげしむ
秋の蚊の人をこほしみ寄りけるをたゆたふ間なくうち殺しけり
千丈の大浪いまに来たるらし板に縋りて浪を越さばや
明日よりはたばこやめむと思ひつつ寝ねあさあけに先づ吸ふ「さつき」のけむり
飯はめばこころ足らへりわがいのち太古の民の安けさにかも似る
いとけなき頃ゆ人にまさりて脈多し身のさが半ばここに負へるか
如何なれば生きのたづきにふけれるや人のいのちは短きものを
夕日てる雲見つつあれば今も尚ほひとやの窓の空おもはしむ
夕日てる雲見つつあれば海見ざる久になりぬと此の十年を思ふ
うたてしや思ひあがれる人のさまひとときわれもかくてありけむ
客ありて便所よごして帰りしを掃除してゐる妻を見てをり
老いさきのはや短かかる我なればよき思ひ出こそ妻にのこさな
筆とりてあらでは生きて行けぬかと妻さへ我を怪む日のあり
ふち赤き茶寮の旗のひるがへりあまざけひさぐ頃ともなりぬ
美しき家を好まず
美しきおみなごを見むと欲りせず
ただ美しき詩を
われ朗々として誦するに足る
美しき文を見むことを願ふ
遠きこころを知らむとす
すでに老いにし身なればか
新たなる詩は愛でがたし
歌見つつあればおのづから歌生まる
風のまにまに
興のまにまに
きそまたけふ
或るどんたくの午後の散歩に
衣をはらひ杖をふりて
おどろ分けつつわれ近江路に
越えゆきし日は尚ほ若かりしも
人は老い易く山川老いず
ああまなかひの如意ヶ岳
反歌
膝をいだきわれの居むかふ如意ヶ岳たをりの松のはるけくも見ゆ
行く雲は若うしてわれの越えにける山のたをりを今越ゆる見ゆ
北洋の夢やぶられてけふここに関八州を急ぎすぎゆく
電灯をつくるにはやきひとときを火鉢によりてたばこ吸ひをり
楽しくも遠くゆ友の訪ひくるに勧むべきもの一つなき世ぞ
うつせみは弥陀仏の園に遊ぶかと思ほゆるまでこころなぎをり
老いぬれば軽き机ぞよろしけれ陽にあたらまくあさゆふにうつす
くさぐさの世のつねならぬ夢も見つあといくとせのうつつともよし
かへりみば六十四歳の今のさがわがをさなくてありし日のごと
かにかくに力のかぎり咲きいでて咲きみだれつつ衰ふらむか
夢となりぬや栗毛の馬に鞭あつるもののふがにも京を立ちしが(居を東京に移せしは昭和五年の一月の初なり、今や早く十三年前の夢と化しぬ)
あたたかにすぐるは分に越えむかと寒さにたへてうすぎしてをり
紙のへに白髪落ちくるしきりなりみんなみのまどにふみよみをれば
四坪にも足らはぬ庭のすみながら赤ばみてゆく南天の実あはれ
うす寒く曇れる秋のゆふぐれを碁譜ならべつつ人をこほしむ
書にあきぬ碁をうつ友の今来なば嬉しからむか秋のゆうぐれ
朝な夕なをしものなべてまうほりて貧しかる身はすくよかに生く
手錠して荒川の獄に移されし秋雨のけふぞ忘らえなくに
いくたびかわれここに憩ふなど思ひ忠僕茶屋にあまざけをのむ
むかしわれ父にはべりて詣うでたる清水寺に曼珠沙華咲くも
名に負へる乙羽ヶ滝のまづしさにほほゑみたまひし父の面影
ことし春ははと遊びし八瀬にまた秋のなかばを吾子につれらる
バスに乗り映画見るがに動きゆく山に見はりて大原に入る
大きなる庭石曳きて京に入る牛にも逢ひつ大原の野路
大原はなべて美し山くまの屋なみ美し柿の実赤く
名も知らぬ大樹黄いろくもみぢして造れるがごと山々に立つ
いかにして君に伝へむ大原の身にしむまでにたたふる秋の気
大原や時雨に逢ひて傘買ひて畑中の路に雨の山見る
しぐれたるあとのおちばの色のはえ踏むを惜みて谿の道ゆく
もみぢ葉は落ちしたまゆら掌にとりて濃染のさやけ賞づべかりけり
もみぢ葉のこぞめの色の色こきを君に見せなと拾い来りつ
たたなはる山のおくがの雨空に雪かと見ゆる比良の山膚
まなかひの峰に虹たち入日さし時雨の雲は西より晴れ来
黄にみのり半ばはすでに刈られある稲田のくろを尼かへりくる
いのちありて名のみ聞きゐし大原の寂光院をけふぞ見にこし
のぼりきて院のみぎりにわれ立てばかけひの音のさやに聞こゆる
ひるくらきみ堂のうちを案内して若き尼僧の声もさやけき
あないせる尼僧のともすらふそくのゆらぐほのほにうかぶ御像
ひとたびはをさなみかどのおんあとをうみにいりましし建礼門院
思ひ見れば寿永の涙たまなしてなほこの堂ぬちにおちゐたりけむ
荒波のとよむにも似て松風の吹きすさぶ夜の夢の浮橋
深山辺に豊明をいやとほみ人老いにつつ月にみたたす
ここにしてつひのやどりとねむりたる人のいのちはただ詩のごとし
合掌の阿波の局の木像は安徳の御衣を纏ふと云ふも
石仏は三万の小ほとけむねにいだきもだしつつ立たす今に八百年
赤黄青三段に染まるかへるでの濃染の色は見しこともなし
いにしへを見つつ偲べと枯葉ちる池のほとりの石蕗の花
京になきうまきお萩と門前の茶みせに憩ひ褒めつつ食うぶ
バス待ちてうづくまりゐる小半時大原なればこころいらだたず
秋深みひにけにもみづ山山のはえのきわみに一日くらしつ
山城の国のまほらの畳なはる青山垣のこのみやこはも(家に帰りて京をたたふ)
今朝見れば君に見せなと拾ひ来しきそのもみぢ葉見るかげもなし(あくる朝よめる)
昨日拾ひ来し落葉、けふは見るかげもなし
もみぢ葉は落ちしたまゆら掌にとりて濃染のさやけめづべかりけり(以上二首前出)
もみぢ葉のおのづと落ちしたまゆらは栄のきはみ枯衰のはじめ
もみぢ葉の栄のさかりはおのづから落つるたまゆらのいのち短く
落ちしける落葉にはなほいのちありてたまゆらのまに魂よばひあへず
つくづくと見れば花にもいやまさる落葉の美を誰か知るらむ(左千夫歌集に落葉数首あり、いづれも落葉をにくめり、詞華和謌集に見ゆる大弐資通の「梢にてあかざりしかばもみぢ葉の散りしく庭を払はでぞ見る」も、未だ落葉の美を知りたる者にあらじと覚ゆ)
ゆかしともおもひてみませ千年の歴史しづまる京の秋ぞも
見も知らぬ人にもぢぢと呼ばるまで我が身のかげはふけにけらしも
列に立ちやうやくハムを買ひえてき手柄顔して一日くらしつ
遠山はきだにさぎりてほのじろく近き田のもに牛すける見ゆ
木のまもる秋のうすびもあはくして苔のあをみにほのあをみつつ
庭の面は木の根岩ぐまくまなくも苔にうづもる苔寺の土
広庭は天鵞絨苔にうづもりて道をたばさむ杉苔草苔
しめなはは白髪苔つく杉の樹になかば朽ちつつ苔寺の隅
ひるくらきこの苔寺にかくろひて粥や食しけむ岩倉具視(岩倉贈丞国は文治二年九月十五日難を避くるため姿を変じてこの寺にかくる)
苔寺の苔をも見ずてはたとせを京の巷にすぐしけるわれ(嘗て京に住むこと二十余年、今日初めて苔寺を見る)
苔むせる山のおくがのふるでらのかどのみぎりに砂嚢おく(到るところ戦時色を見る)
うどんやに小学児童もうどんたぶ配給の米足らぬにやあらむ
来て見れば人のよしとふ嵐山かははらに伏すつけ剣の銃(帰途嵐山に廻はる)
洛東法然院にて
このゆふべ君のなきがらはふるとき雲ゆきなづみ山にしぐれす
しろたへのきぬにつつまるるものとなりて土に入ります古きわが友
このくれのしげきをのへのふところにきみがなきがらいましうづむる
秋山のしぐるるゆふべ土に入る君がなきがら目守りつつ立つ
一すぢに求め求めてやまざりしわかき日のわがすがた可愛しも
わかき日の思ひ出いだき訪はまくと思ひゐし日に君みまかれり
敵よりも恐ろしからむ食ひ物のけふこの頃のこのともしさは
朝夕に甘きものほりすめしうどと同じきさまに人みな〔な〕れり
三大節に紅白のあんもちたまはりし牢屋ぞむしろ今はよろしも
をすもののある国ならばいづことも移りゆかまく欲りす日もあり
さむき日をひねもすくりやにおりたちてわれに飯はますわれの老い妻
六十路超え声色の慾枯れたれば食し物のこと朝夕に思ふ
自由日記老い果てし身の暇多くことし初めて余白なくなりぬ
日を呑みて色はえにける西山に天津乙女の玉の肌見つ
日は沈み山紫に空赤く大路小路に灯火見えそむ
うつくしと見上げしもみぢ落ちつくし乾き果てつつ吹き寄されをり
人気なき阪を登れば御陵あり一人の守衛ひねもす守る(花園天皇の十楽院上陵に詣づ)
砂利しける十楽院上陵の阪道の杉の木立に鶫むれとぶ
書き了へて憐むべくもおもほへり見る人もなき思ひ出のかずかず(「思ひ出」第二輯を清書し了りて)
版に刷るよすがもなくてはかなくも書きのこしおくわれの思ひ出
戦勝を神にいのらすすめらぎの忍びのみゆきけふありしとぞ
火用心火用心の声聞こゆ厠に起きし霙ふる夜半
わがとものこころこもりしもちひなりあなありがたとをがみてたうぶ
届きける木箱あくればもちひ出で蜜柑も出でつ芋もまた出づ
陽あたりの好き家見ればなにとなく羨みて見る老に入りぬる
老い去りて尿近くなり電車にて途中下車を余儀なくされぬ(尿意耐へがたく灘に下車す)
手紙には衰へたりとのらす伯父けふ相見れば矍鑠として
八十七にならせたまへる伯父訪へばひとりかたりて人の言聞かさぬ
ふるきこと頻りに語り今の世は知らさぬがごとわが老いし伯父
何度でもけふは何日ときくまでにわれ呆けたりと伯父ののらする
ただ二つけさ来たばかりとのらしつつ出してたうべし羊羹のつつみ
天つ日はひかりかがやき海の面は行きかふ船のこなたかなたに(須磨浦所見――船なしといへど未だ船影なきまでには至らず)
ゆらゆらとこぎたみてゆく船見れば戦ひのある日ともおもほへず
ひさに見ぬ海辺に立てばふるさとの麻里布の浦の眼に浮かぶかも
入日さすいただきのみはほのあかく煙れるがごと暮るる群山(帰途所見)
ふたたびは見る日なけむと決めてゐしレーニン集が今はこほしき
みんなみにおもむく君をおくるにもこのたたかひのゆくへうれたき
たたかひはさもあらばあれゆかばまづうまざけくみてししたうべませ
うまざけをくむたかどのゆみはるかすひろらなる海八十の島々
うみこえていやすくよかにならせつつとくかへりませ京のひがしに
ととせまへはつちにひそみて朝な夕な陽の光さへ避けゐたるわれ
教へられやうやうに知る魁車の顔も声もみな忘れをり
大きかりし幸四郎も肉やせて声のちからも衰へけるか
遠つ世の夢路に会ひし人かとも名も変りゐる梅王を見守る
ふと思ふ大鼓鳴りて松王出でし二時の半ばはひとやのゆふげ(刑務所の夕食は十二月中午後三時半の定なれど日曜日祭日などは一時間繰り上げて二時半なりそれより全く火の気といふものなく窓の隙間よりは木枯の吹き入る監房の中にて湯さへ飲み得ず袷の股引を素肌に穿ちつつ便器に腰かけ就寝時間の来たるを待つ間の寒かりしこと長かりしこと今においてなほ忘られず歓楽の境に入り温飽の身を感ずる毎に忽ちにして当年を想起するを常とするなり)
十五年見ざりしものをけふ見つつゆたけきいのち一日経にけり(昭和三年春大学を退きし前年の冬より今に至るまで正に十有五年を経たり)
あぢはひのよろしきろかも老妻のかしげるものはなべてよろしも
九時すぎてさてと言ひつつ銭湯に出でゆく妻の下駄のあしおと
夜はふかみ街のとよみの消ゆなべに老ひにし耳に蝉なきやまず
鳴きしきる虫をまぢかに聞くごとし聾ひにし耳のよもすがら鳴る
眼も遠き耳さへ遠く心また遠きくにべを思ひをるかな
炬燵火にもろ手もろ足さし入れて心に浮ぶうたかたを追ふ
忽ちにかき曇りつつ雪ふりて忽ちに陽は照る京の冬空
買物の列に立ちゐる妻を待ち吹雪のやむを祈りつつをり
看板はみな偽りとなり果てて餅屋に餅なくそばやにそばなく
さびしみて君ひとり居ると聞くなべに我もさびしむ百里へだてて
ときじくはまづしきゆふげともにして高やかに笑ふみ声聞かましを
君まさば時めく人をよそに見て碁など囲みてゑみてあらましを
えにしあらば尋ねても来ませ老妻と京のほとりにわびて住むやど
うれしくも個展の成績よかりしと親に云ふごと我に云ふ君
今もなほ天下好事の客ありてうれしみて君の絵求むとや
仔兎の一つは眠り上ぼる月見て一つ立つ絵の見まく欲り
克明に一つ一つの鱗かき雲母おとせし鰈の絵はも
春されば尋ねても来ませ東山いさよふ水に花のちる頃
一たびは尋ねて来ませ洛東に老いゆく我の尚ほ生けるうち
来ます日は食ます米持ち来りませ米さへ乏し今のわが庵
老妻のかしげる飯を食うべつつ語りあかさな春の一夜を
堺より一羽の鶏を割きもちて尋ねてくるる友もありけり(福井君来訪。この頃鶏肉を手に入るること極めて難し。食事の公定価格は一人五円を最高限とするの規定なるも、二十五円出さばいつにも鶏肉を食し得る料理店あり、また一羽十五円出さば鷄一羽入手し得べしなどいふ噂を耳にすれど、所詮我には縁なきことなり。この日福井君一羽の鶏を割かしめ、大皿に盛りて遠く堺より持ち来りくれらる。好意感謝すべきなり。乃ちしるこを作りて饗す)
ふるさとの小豆に湯山の餅入れてはつかにつくる味こきしるこ
とつくにの行列買をあざけりし日本人が今は列成すも
権力の命ずるがままに寝返れる女郎の如き学者ぞあはれ
おしなべて富める家庭はひややかに貧乏夫婦はよく喧嘩すも(原君の手紙の中に夫婦喧嘩のことなど書きありしより、自らも省みて)
末梢の些事を女房と争ひて怒れる我は見るにみにくし
身をおくにせまき家居をかこたざれせまき心ぞ恥づべかりける
貧しかる狭き家居も住む人のひろき心に家ぬちうるほふ
もろもろの物資ともしくなる〔な〕べに盗みごころの日々にはびこる(銭湯にて屡シャツを盗まるる由聞きて)
朝あけに水道氷り北山は雪まだらなる冬となりけり
おしなべて読む物よりも食し物〔を〕喜ぶ老に我は入りけり(鈴木安蔵自著を寄せられしに対し)
わが友の日本一ぞと褒めゐたるパン屋のパンも今あはれなり
列なしてただ一きれのパン食むと街にあふれて待ちゐる人々