荒磯の春というものは、地上がまだ荒涼としている冬の内に、もうそろそろやって来ているのである。海草の芽は冬の内に生える。そしていよいよ陸上の春が来て、人間が春の磯遊びにゆく頃には海草もかなりのびて、新芽を喰いに来た魚族は更に深みへ移り、温い潮につれていろいろに移動する。
 その結果、この頃での磯釣は冬の内に初まる。十二月から翌年の二月へかけて、伊豆方面のブリ、ブダイ、イズスミ、クシロなぞの竿釣が行われ、初夏にはクロダイ、夏にはメイジダイ、ヒラマサ、秋も略同様なものが、三間から四五間の長竿で釣れるのであるから、近代の釣人がその強引にあこがれて、遠く出釣するのも無理はない。船でサヨリの掛釣とか、その他の魚の曳釣も行われるが、磯の興味は荒い岩礁や巌の上から、竿を満月にしぼって釣るところにある。
 従って荒磯を攻めるには、冬でも夏でもその附近の漁村へ一二日は滞在し、くわしくは漁夫に案内させるのがよいが、船釣ばかりしている漁夫は、又案外に磯の海溝や岩礁の潮流や、魚の附き工合いを知らぬもので、これはむしろ潜水に経験のある者とか、その附近の素人の釣人に尋ねる方が悉しく解る。
 荒い岩礁と怒濤が白馬のように狂っている磯へゆくと、あまりにも人間の存在は弱く小さい。むしろ魚の方があの怒濤に堪えて生きているだけあって、人間よりも強く賢いようにさえ思える。友人と二人で行っても、七八間隔ったら浪の響きで言葉が解らないことがある。まして岩礁はよく辷ったり、釘の山のような所があったり、峨々たるところ、坦々たるところ、辷ったり、曲ったり、尖ったり、千変万化に岩が配置されているから、どこから行って、どこを通るという見当さえつかない所もある。浅い所は白泡が立っている、深い所は深藍に渦巻いている。適当な巌が出ていると思うと、なかなか道がない、背後の絶壁を岩登りの勢いで降りたり登ったり、又干潮を見計って、少し沖の岩へ渉ったり、とにかく岩登り、岩歩きが上手でないと危険である。陸釣で海にさらわれるのは、多く荒磯の釣にゆくからである。
 然し精神を落着けて、つまり浪のリズムに乗り、海と身も心もぴたりと一致さして、潮のとびちる巌上に立ち、一竿を揮って釣れるようになったら、その豪快な感覚というものは無類である。水平線と、浪と雲、岩とそして自分と魚だけで、竿を振り、餌を流し、獲物を狙う。眼も頭も凡て海と一致しているのである。岩をとび歩いても、海草や貝類を見ても、もう決して陸上の人間のような感じは持たない。海は生きている、海草も貝も生きている。まして釣は猶更のこと、その神秘な自然の深みへ没入して、初めて溌剌たる魚を引掛け得るのだ。そして強引に争い、水面をぬいて獲物とするまでには、時に魚の鰭で手に血を流し、転んだり、跪いたり、思わぬ怪我をしても、潮で洗えばすぐ癒るような野蛮さにある。
 長竿を揮って、怒濤の巌上に立つ気持というものは恐らく太古の感情そのままである。もう自分の背後にある陸の生活のことなぞは考えない、又考えたらそんな冒険的な行為が恐ろしくなるが、只この健康、この荒ぶる感情、その行動というものが、得も云われず一種の壮快さをもたらすのだ。たった一人で半日も釣っていると、浪の音と風で耳が遠くなる、よく岩礁の蔭で幻聴を感じ、何か囁くような、訴えるような、ふしぎな海の笛をきく、そして燦爛と輝く荒磯の魚を足に踏まえ、太陽を額にして、ひとり食事なぞをしていると、もう私達は未開人と一歩の差である。そして陸への郷愁といったものに憑れ、淋しい漁村や、遠くの空が、妙にかなしく懐しくさえ思われてくる。
 波静かな日、小舟を出して、そういう荒磯の底を覗くと、魚の生態というものがよく解る。私は小笠原の母島から父島へかけて、三週間ばかり磯釣をした時に、透明度の高い海底をよく覗いて、三十二種の珍らしい魚を釣ったが、珊瑚礁に附いている魚は、実に静かで、まるで水中の牧場のようである。紫の魚、青と紅の魚、縞のあるもの、褐色のもの、青黒きもの、凡て三寸のものから、一尺もあるものは、多く同じ形態と仲間と伍して遊戈し、往ったり来たりしていた。それが一尺以上の魚になると単独で、悠々とやって来たり、又矢のようにどこかへ突進してゆく。こうして荒磯の魚の生態を上から覗いていると、天然の水族館のようで興味はあるが、いざ釣となると、魚はその本性に還って、より競争的に餌を求める。釣友大久保鯛生君は八丈島から伊豆の荒磯に潜水し、よく魚の習性を研究しているが、特にクロダイの鋭敏な生態は、殆ど神秘以上だといっている。そうなると都会の一室でホルマリン漬の魚を解剖しているだけでは、釣れる魚の生存形態なぞは本当に解らないといってよい。
 一望千里、波浪と岩礁のみの荒磯も、その海底は千変万化で、海流に洗われて深く、浅くさまざまな現象を持っている、そこへ四季の魚が寄り、石ダイやブダイは同じ所に生棲し、鮑やその他の貝や、ウツボや海蛇と共に生活しているのであるから、理科学的に調査したら、恐らく凄じいものがあるだろう。その小さい科学的な知識を前提として、私達の磯釣は成立するのである。
 その第一は陸の生活と遠離の感で、まるでロビンソン・クルーソーになった気持である。第二は陸と海の境界線に立って、自分も同じ生物として生きている孤独感で、いかにして魚を釣るかという喜悦と祈願に似た感情である。第三はいざ目的の大魚がかかって、これを逸すかせしめるかの闘争的快楽である。この第三の健康的な挑むような、張切った感じがうれしくって、波浪も岩壁も物かは、危険を犯してまでも目的の魚のいるところまで往くのである。
 もしその場合、四百目以上七八百目から一貫目もある魚に出逢って見給え、引き上げるか、引き込まれるか喰うか喰われるかの境地まで行くと、そのスリルたるや何物にも勝るものがある、まして竿が満月になり、魚の引きの強さに、よろめきつつ岩にしがみついて仕止めるまで、或は糸を切られて逸してしまった拍子ぬけの気持等、到底筆紙には尽し難いものがある。こうして一日波浪のピアノの音、天空と海の広い襞の中に遊んでいると、頭も身体も生気に満ちて、実際に生きている喜悦と歓喜に戦くようなことがある。
 殊に二日、三日となると、磯に馴れ、石ころと岩の道も苦にならなくなって、原始人のような感覚になってくる、魚のあたり、その日の調子というものが解ってくる、海にも二三度落ちる、脛も怪我する、潮と風の工合もよく解ってくるとなると、自分というものが、いつの間にかその大きい自然の原理と一つになって生きていることを知る、そして殺伐な気分というものも常識になって、新鮮無類な魚族の七色の光に眩惑されるようになり、野人のような食欲さえ湧いてくるのである。それは少しく誇張であるとしても、この忙しい世界にいて、こうして釣っていられるのだけでも有難く、こよなき法悦がやって来るのである。
 友人とゆくなら二人で、もし妻君を伴えば岩蔭に待たして、釣った魚を焼いて食事するとか、いろいろの方法もある。更に疲れたら岩に眠る、川では風邪を引くが、海では絶対といっていいほど、風邪を引かない。そして塩分の強い空気にぬれて、肺を新らしくし、縦横無尽に活躍してくると、いかなる人でも、その精神は子供か原始人のようになる。そしてよく疲れて一日や二日は夢のように過ぎてしまうものである。
 こうして私は、冬も温い南方の荒磯へ行って遊んでくる。夏や秋は一週間も釣ってくる。海水浴場とか温泉にも遠く、何の設備もないそういう場所が、まだ日本にはいくらもある。たとえば式根島でもそれを味える、神津島でも八丈島でも、陸つづきなら下田以南、石廊岬から西へ行けば、私のいう荒磯はいくらもあり、関西なら潮岬から土佐海岸、その少し交通不便なところというものは、又釣人にとっての好適地で、天然の水中牧場がひらけ、千百種の魚が遊んでいるのである。
 この場合、釣とは原始に還ることである。そして最も生新に自然と遊ぶことである。特にリール竿の研究、餌の問題、魚の習性というものをよく会得し得られることによって、詩と科学の世界へまで侵入し、そこに自然の運動を感知することが出来る。荒磯の興味は殊にそういう点で、多忙な現代の人士にとっては必要なものではなかろうか、恰度三千米突以上の高山に登って、夏、白雪と雲表の中に崇高な天上の歓喜を感ずるように、外洋に向った荒磯にでて、南洋はるか共栄圏の島々をかんじ、鵬程一万粁の海上を望んで、只一人怒濤の巌上に皇土を踏みしめているうれしさ、この悠久たる釣戯、まるで私達は神代を今に生活するような鬱勃たる生気に浸ることが出来る。
 磯釣りのよさはそこにある、その有限と無限の境界線に立って、白日の夢のように、永遠なる自然界に没入し、あらゆる意識を去って魚と遊び争う生物としての歓楽にある。普通人にとっては、ただ風と浪と岩ばかりの海岸線も、こうして島国日本のふしぎな魅力を感ずるというのも、考えようによっては釣人にとっての役得である。

底本:「日本の名随筆4 釣」作品社
   1982(昭和57)年10月25日第1刷発行
   1995(平成7)年3月30日第24刷
入力:浅葱
校正:門田裕志
2005年1月7日作成
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