扨北朗昼間来てくれると大に都合がよかつたのだが、今は夜、と云ふのは庵には布団無し喰べものは焼キ米とお粥ばかりだから、於茲放哉嬉しまぎれに病躯を引つさげて、前の石屋さんの亭主にたのみ込み布団を借りて来てもらふ様に交渉してまづ之で一方は一安心、扨扨喰べ物……此の時北朗「ワシはパンを持つて来たよ」、よし/\之でまづ片つ方も安心、北朗又曰く「処でね放哉、わしは五日間庵にとまるよ」愈出でゝ愈彼は芸術家なるかな、「とまるのは何日でもかまはぬが、イヤに落付いたネ、第一妻君が待つとるぢやないか」、実は放哉、北朗のこと故、多分一晩位庵にとまつて、大急ぎであの可愛いゝ妻君の顔を見にかへる位なとこだらうと思つて居たのだ、「イヤそれがね、実は姫路の展覧会の収入を全部妻君に持たせて返してしまつたので、北朗カラツけつ也、故に妻君は大に安心してると云ふわけだ」、「ウフ……さうか、さうか、わかつた、わかつた」、「ソレニネ今一度丸亀市で展覧会を開いて大に四国人の壺に対する識見の蒙を啓かうといふ考なのだ」、「さう云ふ事なら何日でも居てくれ、そして二人で大に句作しようぢやないか」、「その事その事、わしも大に君と句作しようと思つてやつて来たのだ」、「さうか/\」、之より両人あれこれと積る話を交した後、まだ夜中と云ふわけでも無いのだから、これから西光寺さんと井上家とを訪問して、放哉がお世話になつて居る御礼を北朗に申してもらふ事と話しがきまつて二人で夜中に出かける。「西光寺サンてどんな人だい」、「それは、とても、エライ坊さんだよ、マアあつて見給へ」……之は後日話しなれ共北朗出発する時曰く、西光寺の和尚さんはエライ人だなあメツタに見た事が無い云々……これから西光寺さんと、井上家とを訪問して(一二君上阪中にて留守)帰つて庵で寝る、此の間に西光寺さんから北朗のために上等の布団が持つて来てあつたので、北朗全くホクホク物でその布団のなかにはいつて寝た。……今夜の庵の賑かなことかな、但之も亦五日後にはモトの静寂の庵に帰らなければならない、イヤそんな事思ふまい思ふまい。
日日是好日の筈では無いか、……放哉もいつしか寝込んでしまふ。扨これから北朗五日庵に居たのだけれ共、今書かうと思つても書くことが無い、不思議なことだが、なんにも無いやうな気がする、マトマツタ事がなんにも無い、只馬鹿な顔をして、二人でゴタ/\してニコ/\して居たものと見える、第一、放哉も北朗も、ソレ程意気込んで居た句が一句も出来なんだことを以つて見ても、たゞ、ボンヤリして喜んで居たことが解ると思ふ。中津の同人、丁哉氏が送つて来てくれた、小供が三人で蟹に小便かけて居る絵を壁にはり付けて放哉が毎日見て喜んで居るのだが、之を二人で眺めては、只五日間と云ふものニコ/\、ゴタ/\、して居たものと見える、強ひて個条書きにでもして見れば、次のやうな事があつたやうに思ふ。――
△北朗、毎朝お経をあげてくれて、放哉大に感銘せしこと、そして北朗の読経中々うまくなつたこと。
△北朗の朝寝坊と寒がりとには、放哉あきれながら成る程/\と思へり、それは、女房を持つてる奴は贅沢だなあ……と云ふこと。
△北朗一日寒霞渓に至りおみやげに紅葉の枝をもつて帰る、それが甚だ汚ない紅葉、放哉未だ寒霞渓を知らず、其の紅葉を活けてながめて居ること。
△北朗、放哉の手の黒いのを見て(垢で)如何に女に近づかぬからとてアンマリひどいと云ふ、処が放哉茲三ヶ月間一度も風呂にはいつた事がないので当り前也、洗へば白くなるのは茲だよとて大笑せしこと。
△北朗来の翌日より井上家から毎日、御馳走をもつて来て下さる、(一二君のオツ母さんと云ふ人が実に料理の妙手で専門家正にはだし也)北朗は勿論、放哉大に悦に入りて毎日いただいたこと。
以上位なものであらうか、北朗全く和寇の如く、風の如く来り而して又風の如く去る、北朗、あの芸術家の北朗よ健在なれ、放哉いつ又君に逢へることやらな。
底本:「尾崎放哉全集 増補改訂版」彌生書房
1972(昭和47)年6月10日初版発行
1980(昭和55)年6月10日増補改訂版発行
1988(昭和63)年10月20日増補改訂二版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2006年1月2日作成
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