ラテン語で書かれたすべての哲学書がいつでもイヴの犯した罪なしには書きはじめられなかったように、ドイツ語のあらゆる哲学書も歴史の末にあるという最後の審判なしにはその本を書き終ることができない。哲学の本はいつでもこの古い林檎の臭いがしている。
 歴史は、いわば、罪より裁判へ、一つの犯罪的興味の上にある。パスカルの賭けはその裁判に賭けられた滲み透る賭けともいえよう。人の償いがたき罪、その罰を寂しくも待つこころもち、その嘆きと願い、祈りに満ちた問い、この問いこそ、ハイデッガーの指摘する時のすがたであり、原罪の意味なのである。それは存在の深い暴露である。
 罪と罰、それ自身、償いがたき過去と現在の情趣である。過去と現在が撓わにまで未来に押し迫る深い情趣である。ドストエフスキーの『罪と罰』の背後には人類全体の上に覆いかぶさる罪の情趣がひろがっている。一篇全体が罪の悔いの中に切り緊められている。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の一篇も最も深い一把みの哀感は許さるべきしかも許されなかった罪の裁きである。文学が社会構成を基礎にしているかぎり、罪なしには悲劇は成立しない。ひろい意味でいえばあらゆる悲劇が犯罪性をもっている。
 ただ、今、一般に一片の冷笑をもってよばるる探偵ものは、いかなる構造のもとに嘲罵されながらしかもひそかに愛読されつつあるかをここに顧みる必要がある。
 人はコナン・ドイル、ルブラン等々の前身をアラン・ポーという。それはアメリカニズムの系統に見いだす文学として首肯さるるであろう。ジャズが一般の怖れをもってせられる罵倒の中に、すでに全欧を風靡し、フランス楽壇の楽譜の中に姿をかえつつ浸潤しつつあることにもそれは似るであろう。それは、あたかもフォルマリンのように古きものの中に陶酔か、あるいは防腐をほどこしつつある。
 しかし、われわれはかのジャズの中に切れ切れにされたチャイコフスキーがあるように、探偵物の中に寸断されながらしかもその中に成長力をもっている『罪と罰』を見いだすべきであると思う。すなわちアメリカよりも、いつももっとはやかった、そしてもっと深かったロシアをこそ注意すべきであると思う。ドストエフスキーにおいて、否定の精神はゲーテにおけるメフィストのように火炎と煙の中より黒衣をはおって出てこない。イヴァンの幻のように縞のズボンをはいている。そしてそれはメレジコフスキーが指摘するようにもっと凄く、もっと陰惨なものをもっている。零下百二十度の宇宙的冷たさの空間の中で斧がどうなっているかを考える精神である。理解さるる無意味、胸に滲む問い、ドストエフスキーの否定はそこにある。否定の精神のおもむろな成長が、世紀の中に、地殻をゆるがせ暴露するとせば、われわれはゲートのメフィスト、ニイチェの侏儒よりもドストエフスキーの幻はもっと痛く、もっとなまなましいのを知る。現代はすでに否定の多くの窮極を連れたる血汐をもって味わいつくしてきている。ドストエフスキーで否定は息をひそむるまでにつきつめられている。
 現代人の晴朗と強靱性はこの深い憂欝の白冥を通っていると思われる。彼らの截断性は、かの思索の凝滞と晦渋を貫いてであると思われる。自分が醜いということすらが悪寒のごとき修飾であることを見透したるものの明かるき自嘲、そこには無限の反省の苦汁を裏にたたえるナンセンスを生む苗地が用意されている。一歩をやまれば涙であるきわまれる明朗、直截は現代人の同感されたる微笑である。巧みな欺瞞と、へつらいの底を見透して、しかもそれをとがむるよりも晴やかにその上に喜々として腹ばう強い切断性である。最も激しい労役の裏にあるものほど諧謔をほしいままにするものはない。なぜならすべて、すべての涙を知りつくしているからである。かかる者の中に涙を表現するものあらば、すべての軽蔑であり裏切りですらあろう。かくて現代のほほえみはその陰に強靱なるものをはらんでいる。そして、前世紀のあらゆるほほえみよりも美わしく、味わっても味わいつくせぬ愛憐を運んでいる。かかる意味の直截と明朗が、音楽のみならず、彫型に、建築に、カンヴァスに滲みいずる。文学も今やその群の一隅にみずからを見いだす。そして、それをしも、人は新しき芸術と呼ぶ。――もしそれが芸術なる言葉を許さるるならば――。
 文学のメカニズムを主張する人たちが、よく文学の中に取り扱われる機械性を説く。そして機械文学と名づくる。しかしこれは題材のメカニズムである。文学のメカニズムではない。
 むしろ、メカニズムの文学の一つとして、私達は探偵ものを注意すべきであろう。それは構成形式としてのメカニズムである。
 私はここにみずから作家であるS・ヴァン・ダインの探偵作家への多くの注意のうち、二、三を顧みて論を進めよう。
 彼はいう。探偵小説は一種の理知的ゲイムである。むしろスポーツである。犯人をきめるのは、論理的帰納法にあらねばならない。偶然とか、単純な一致とか何の動機もない自白などで決めてはならない。そして、犯罪は必ず自然主義的な方法で解かれねばならない。読心術、交霊術的直観で解いてはいけない。そこには、ただ一人の探偵――すなわち帰納法の唯一の立役者――「機械から生まれた神」がなければならない。そしてむしろ、長い説明、余計なことについての感傷描写、巧みにつくりあげられたる性格解剖などには犯罪と帰納との記録に何の生命もあたえない。アクションを止めるばかりでなく、結論の邪魔にさえなる。
 かかるヴァン・ダインの考えかたによるとするならば、探偵小説は全篇機械より生まれたる神の主宰する一つの帰納論理の集合である。
 論理の構成がなぜ小説となりうるか。ここに探偵ものの構造の興味が集まる。
 科学的報告のもつ興味も一つの結論を見いださんとする文章の過程である。巧みなる文章をもってせられたる論文は一つの散文詩であることがある、――ヘーゲルの現象学が一つの概念詩であるといわるるそれのごとき――。しかし、探偵小説のもつ構造はそれとも異なるところのものをもっている。それは常に犯人が誰であるか? すなわち犯罪の主体の探求である。そこに第一にはそれが償いがたき罪であり、罪の構成の取り扱いであることが特殊の情趣をもつ。すなわち、罪の情趣は取りかえしがたき過去、その過去のゆえに、今在りながら現在に安らうことのできぬ寂しき魂の放浪、しかも、その過去は鋭い射手によって狙われたる釘づけにされたる烙印である。その全体がもっている時のリアリズムの構造が全人類の底の共犯者の意識原罪の追放の悩みにまでその軌路の一端を涵している。傷つける野獣がその傷口を舌をもってなめるように、人類はそのシュルドをなめたい。罪をなむる意識、それは存在の嘆きであり、形而上的共犯者の僅かな慰めである。罪の情趣の中には常に存在的なものがともなっている。
 まず第一に探偵ものの構造にはこの罪の情趣の構造がまつわっている。ヴァン・ダインが指摘するごとく、死体の出現は、この罪の情趣に加えるにふさわしい背景である。シュルドトート。それはハイデッガーによれば存在の原型を構成するとしもいわれる。
 第二にはその罪の解剖にあたって、用いらるるメスがあくまで鋭く直截的であることである。すなわちそれは帰納的論理をもってせらるることである。そこではうすら寒い鋼鉄の青い光を思わしめる一つの情趣がある。截断的なるきわだてる明瞭、精緻、冷厳、透徹、あたかも機械に見いだす情趣がすなわちそれである。機能的快感である。そしてしかも、この論理は特殊の構成をもっている。すなわち犯人がAである。Bである。Cあるいはそのほかである、のすべての判断が同等の力をもって一つの意識内――読者――に共存することである。すなわち機能論理はそこで力学的構成をもつ。あたかも賭け、あるいはスポーツでAが勝つ、Bが勝つの二つの判断の共存が意識のひずみ、一つの緊張となって、いわば戦慄的情趣 thrill を構成するように、冷厳なる判断は鋭い力学的構成のもとに摩擦によって白熱する鋼鉄のように、深い情熱、焔焦せる論理を構成する。そこに特殊の情感がある。非常に冷たきものにふれた時熱き感触を味わうように、探偵小説の運ぶものは冷たい熱情、ゆる冷厳であるであろう。ウィンデルバンドの判断論の肯定と否定の無関心点としての零的中間が、ここでは交流的√−1となって生き生きと働く。それは神の創造をのがれたる真空である。そこに動ける判断、一つの魂の戦慄が生まれる。それは一つのおののきである。生ける問いの構造は、むしろかかる決定せられたる不決定、この放たれんとする弓絃のおののきのごとき、その一念の極致にあるともいえよう。
 第一の罪の情趣はドストエフスキーの『罪と罰』、『カラマゾフの兄弟』の遺すもの、すなわちロシアの遺産であり、第二の判断構成の情趣はポー以外のアメリカの遺産である。二つとも異なれる姿の存在の内面である。
 探偵小説は背後に常にかくのごとき存在的情趣を盛っている。そして、それがリアリズムの夢であり、夢のリアリズムである意味で親しく現代にふれているとも考えられる。そこには罪の意識の数学化がある。あらゆる探偵物がようやくゲー・ペー・ウー的の集団的、組織的、興味に推移しつつあることは、すなわち「金」より「組織」に移れる推移は、この情趣をしてますます先鋭化しつつあることを示すかのようである。逃げたるインテリゲンツが、探偵小説にその憂欝を散ずるも、またまさしく意味づけられたる時代 Besinnende Zeit のシニイクな意味ですらあるであろう。

底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年6月16日第1刷発行
初出:「美・批評」
   1930(昭和5)年5月号
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2010年10月5日作成
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