一

 トゥロットのおうちは貴族で、お父さまは海軍の士官ですが、今は遠方へ航海中で、トゥロットはお母ちやまや女中のジャンヌたちと一しよに、海岸の別荘でくらしてゐます。トゥロットにはイギリス人のあるミスが、まいにち家庭教師にかよつて来て、町中や浜べへつれて出たりして、いろ/\のことををしへてゐます。
「おぼつちやま、ミスがいらしつて、おまちになつていらつしやいますよ。」と、けさもジャンヌがよびに来ました。トゥロットは、つんぼのやうなふりをして、ぽかんと窓の外を見てゐました。
「これ、坊や。ジャンヌがよんでるのが聞えないの。」とお母ちやまがおつしやいました。
「聞えたの。」と、トゥロットは、むじやきな目を上げてこたへました。
「だつてお母ちやま、わかつてるでせう? ほら。ぼく、ミスと一しよに出かけるとあき/\してしまふの。」
 すると、お母ちやまは、すこしけはしくまみげをしかめて、
「さあ、早くいつてらつしやい。おとなですね。ミスのお話をよくおぼえて来て、おひるのときにお母ちやまに話してちようだいね。」
 トゥロットは、いや/\こつちへ来て、なさけなささうにジャンヌにもたれかゝりながら、小さな青服をきせてもらひました。それから頭をつき出して、リボンのついた帽子をかぶらせてもらひました。
「あゝあ、またミスのお話を聞かなけやならないのか。」とトゥロットはおもひました。お母ちやまはお話をすつかりおぼえて来るのだなんておおどかしになりました。でも、それは、けつきよく、たゞおつしやるばかりだからだいじようぶです。これまでだつて、おひるのお食事のときには、お母ちやまは、いろんなほかのことを考へていらしつて、朝おつしやつたことはわすれていらつしやるのがおきまりです。
 ミスは、すつかり身がためをしてゐます。がんこな顔色を、みどりいろの顔かけで、やはらげ、とてもおほきな両うでのとつさきに、スコットランド出来できの日がさと、だい/\いろの、かりとぢのご本をつかんでゐます。ふしくれだつたそのからだは、ちようど、うすつぺらな石炭袋へ石炭をぎゆう/\つめこんだやうなかつこうです。茶のサージ服の下には、ごつ/\した骨ぐみが見えてゐます。たゞ服のまへの方だけが、くびのところから足のあたりまで、すべつこく、まつすぐに見え、まつたひらになつてゐます。
 ミスは、やせた手をつき出しました。トゥロットは、うでをのばしてその手につかまりました。ミスはトゥロットの手の平をぎゆうとにぎつて、づしん/\と足をふみながら、さきに立つて歩き出しました。トゥロットは、せい一ぱいに大またをひらいてついていきます。それは、まるで足長蜘蛛あしながぐもが小さなワラヂ虫をおともにつれて出かけるやうなかたちでした。
 ミスは、れいのやうに、せんさくをはじめました。
「トゥロットさん。きのふはどんなわるいことをしました? 一とうわるかつたとおもふことを言つてごらんなさい。」
 トゥロットにはお話がこんなふうにはじまるのは、かなひませんでした。かういはれると、うるさい、いやァなことをすつかりおもひ出さなければなりません。しかし、いやでもおもひ出さなくてはすまされません。トゥロットはきのふは、いろ/\わるいことをしました。
 さあ、一とうわるかつたのは何でしたらう。おひるごはんのときにおさらをひつくりかへしました。それから野菜をこぼしました。クリームを三どもおかはりをしました。それから、ばあやが、どんな顔をして飲むかとおもつて、コーヒーの中へインキをちよつぴりおとしておきました。それからうつかり、小猫こねこのプスをお客間へしめこんでしまひました。
 ばあやがどんなお顔をし、プスがどんなにこまつたかは、トゥロットはお母ちやまには話しませんでした。しかしお母ちやまは、みんな、ちやんとかんづいていらつしやいました。プスをしめこんだのは、むろんプスのしくじりからも来てゐますが、トゥロットにも多少罪がないとは言へません。
 これなぞは、みんな、しかられてもいゝことです。だけど、トゥロットはまだもつとわるいことをしてゐます。さう/\、あれが一とういけないことでした。きのふ、お母ちやまは、トゥロットの虫歯をうめに、歯のお医者のところへおつれになりました。
 ところが、トゥロットはごうもん部屋のやうな、こはい手術室から、いやなにほひがぷんと鼻に来ると、そして、お医者さんや、おほきなひぢかけいすや、はがねの道具や、車、ピンセット、やすりなぞ、さういふいろんなものを見ると、死にものぐるひで、こゞまりちゞみ、小さなロバのやうに、メー/\なきはじめました。
 お母ちやまは、ひどくこまつておしまひになり、ハンケチを出して、いすによりかゝつてお泣き出しになりました。それを見るとトゥロットは、すなほに手術いすに上りました。でも、けつきよくはおなじことで、とてもこはくて、いやでたまらなくて、また泣き出しました。お母ちやまはとう/\しかたなしに、お菓子屋へつれていつて、あまい、のみものを二はいと、お菓子を三つ、飲ませたり、食べさせたりして、やつとまたつれていらつしやいました。
 トゥロットは、それだけをのこらずミスにお話しして、ぼくがわるかつたと言ひました。
「あなたのきのふの罪は、すべてあなたの勇気がたりないからです。けふは、古代や近代の民族、とくにイギリス国民の歴史から例を引いて、勇気のお話をしませう。イギリス人はこの徳性をりつぱにそなへてゐます。その点では、いかなる国民も、イギリス人の足もとにもよりつけません。」


    二

 さあ、そろ/\むつかしくなりました。トゥロットは、きつと、こんなことになるだらうとはおもつてゐましたが、いよ/\となると、うんざりしてためいきをつきました。まいあさ、ミスに、前の日にしたわるいことを話すと、ミスはきつとすぐに、あなたにはこれ/\の徳性がたりないと言つてくど/\話し出すのがおきまりです。中でもイギリスの歴史から一とう多く例をひいて来ます。イギリスには、いろんな徳性が、どつさり、あふれてゐるものと見えます。ですから、トゥロットの頭の中にある英雄は、みんな、イギリスの兵たいのなりをしてゐます。
 このまへトゥロットが、人の髪の毛を引つぱつたことをうちあけますと、ミスは友人といふもののうつくしさををしへると言つて、アシールとパトロークルのお話をしました。
 トゥロットには、どういふわけか、そのアシールとパトロークルのことをおもふと、いつでもイギリス人の曲馬団で、うたつたりをどつたりしてゐた黒ん坊の顔が目にうかびました。ソクラテスだつて、トゥロットには、金ぶちの目がねをかけた、バラ色の顔をしたイギリスふうの老紳士のやうにしかおもはれず、聖ルイさへも、牧師のウエブスターさんのすがたをしてあらはれて来るのです。
 しかし、一とう多くいろ/\な役になつて出て来るのは、いつもある小さなお嬢ちやんと老夫人の乗つてゐる、二頭だての馬車の御者台の上にゐる、あのイギリス人です。ふとつた、あぶらぎつた赤ら顔の男ですが、これはミスのお話できいた、フランソワ一世になつたり、アジャクスにもなりジユリアス・シーザーにもクロムウエルにもなるのですからきたいです。
「トゥロットさん、聞いてゐますか?」
 今、ミスはかう言ひながら、目を光らせてレオニダスが祖国をまもるために、三百人のスパルタ人と一しよに戦死したお話をつゞけます。と、おもふと、こんどはホラチュース・コクレスのお話です。これは、目つかちの勇士で、たつた一人で敵の全軍をひきうけて、一つの橋を防ぎまもつたのですから、レオニダスよりもすばらしいわけです。ミスはその話でもつてすつかりのぼせ上つて、トゥロットの手をぐん/\ひつぱつて歩きます。
 と、そのうちにミスはふと立ちどまりました。ムシュウス・スケボラは、ぼうぎやくな王を殺さなかつたのを悔いて、じぶんに刑罰を加へるために、手を火の中につッこんで焼きました。ミスはその話をしながら、片手をにゆッとまへにつき出しました。トゥロットはそのいきほひのすごいのを見て、これは、ミスもスケボラのやうに、じぶんで手をやいたことがあるのぢやないかとおもひました。しかし、ざんねんなことには、ミスの手には手袋がはまつてゐるので、手の先がやけおちてゐるかどうか、それが見えません。
 あゝァ、やつとイギリスの歴史になつて来ました。
 聖地パレスティーヌで、サラセン人をほろぼしつくしたのはリシャールです。ミスの日がさはサラセン人をきりたふし、よろひへうちこみ、または、そのときのリシャールの王家の旗じるしのやうに空中にゆらめきました。
 トゥロットはミスがよろひを着て、騎士のやうに馬にまたがつて、やばん人にせめかゝる、いさましいすがたをかんがへました。ミスには、たぶん、よろひなぞはいらないでせう。あんなに、からだがかたいのですもの。この人にあたれば、どんな矢だつてみんなをれてしまふでせう。これではサラセン人も気のどくです。
 ミスは一しようけんめいに話しつゞけます。
「近代では、かういふ崇高な功績といふものはきはめて少くなりました。つまり、イギリス人の英雄的な行為を必要とする出来ごとが、永年来、なくてすんで来たからです。近いれいとしてはネルソンを上げませう。ネルソンはトラファルガーの海戦には、片手をもぎとられても、なほ艦隊運動の命令を下しつゞけ、命をなげ出して指揮をしました。それから、つぎにお話ししなければならないのは……」
 ちようどそのとき、小間物屋のまへに来ました。ミスは買ひものがありました。トゥロットは、ぢきそばの散歩道のとこまで歩いていきました。そこのとこでまつてゐようと思つたからです。ミスは店の中へはいりました。トゥロットは、こちらへはなれてしまひました。
 トゥロットは、けふはいろんな英雄のお話を聞きすぎました。レオニダス、ネルソン、スケボラ、コクレス、リシャール、これだけの人が頭の中でをどりまはります。トゥロットは、両うでをふり歯をむき出して、散歩道をいつたり来たりしてゐました。しかしトゥロットのうでは、ミスのうでのやうに大きくもなく、黄色くもないのでいせいがありません。
 ミスといふ人は、あんなにありつたけの徳性の話をしつてるのですから、じぶんでも、よほど徳性をどつさりもつてゐるにそうゐありません。トゥロットはミスがあまりすきではありませんが、でも、えらい人だとは十分おもつてゐます。
 トゥロットは、とても三百人の人を……三百人を殺すのだつたかしら……三百人はとても一人では殺せさうもありません。じぶんでじぶんの手をランプで焼くつてことも出来ません。一ど、ろうそくでやけどをして泣いたくらゐですもの。ミスは、さつき、スケボラのやうに……何とかスケボラだつたつけ……あゝ、ムシュウス・スケボラだ。そのスケボラのやうにうでをつき出しました。でも、あひにくそばにランプがありません。もしランプがあつたら、ミスは手をやいたにちがひありません。あんなかさ/\の手だから、をしげもなく焼いたにきまつてゐます。
 ミスがネルソンになつたら、どんなにすばらしい、はたらきをしたでせう。トゥロットはミスがえりのたかい海軍服を着て、ばかに長い片うでをぶら下げて、キイ/\声で号令をかけるすがたをおもひうかべて見ました。
 ミスは、そのつぎには、レオニダス、コクレス、スケボラ、それからもう一ぺんネルソンのすがたになつてあらはれました。そのほかの人たちは、みんなで一つのすがたになつて浮びました。そのすがたといふのは……
 おや、どうしたんでせう。ミスは? あら、何をふざけるのでせう。ほう、とんだり、はねたり狂人娘きちがひむすめのやうに、くる/\まはりをしたりしてゐます。ミスがあんなことをするのは、はじめてです。
 おゝ、ちらりとうしろへ目を向けました。おや、くるりと向きかはつて日がさをふりまはし、をかしな声でさけびながら、あとしざりをしはじめました。
 どうしたんでせう。トゥロットは、しんぱいでたまらなくなりました。


    三

 あゝ、やつとわかつた。パン屋のちんはいやな犬です。あいつは、だれにでも、ウヽ/\うなつてとびかゝります。どうしたわけか、イギリス人の女をひどくきらふやうです。
 そのちんが、今、うなりたけつて、ミスにとびかゝつてゐるのでした。うしろへひきさがつたかとおもふと、なほひどくうなつてとびつき、あと足で立ち上り、つぎには地びたへうづくまつて、きみわるく歯をむき出しました。はゝあ、あの犬をぢやらしたのは、きつと、ミスのふくらはぎです。ミスの靴下です。をかしな犬もゐたものだ。あの犬が、骨をしやぶつてゐるのを、よく見かけました。
 ほう、だん/\にはげしくつッかゝつて来ます。イギリスの女を食べてしまはうと、腹をきめたのでせう。ミスのほほはまつさをになりました。たゞ鼻だけが、危険におちいつた船の信号燈のやうに赤くもえたつてゐます。ちんはぐん/\そばへ来て、狂つたやうに、ミスのぐるりをかけまはります。それこそ、日がさでおどかしても、やさしい言葉をかけても、きゝはしません。だいたんにも鼻先で、ミスのスカートをひつかきます。
 がつしりしたちんの歯は、ミスのすねの骨ぐみへ、くひつきかけました。ミスはふだんから、わけもなく犬がこはくてたまらない人です。ミスは、今はもう、こめかみをがく/\させ、全身につめたいふるへを走らせました。冷汗ひやあせがかさ/\の背中へじつとりとたまりました。もう、泣かんばかりの顔をして、たすけをさけばうとしてゐます。でもたつた一つ、ミスがイギリス人であるといふ誇りから、なきごゑを出すわけにもいきません。
 戸口に立つて、うす笑ひをかくしてゐたパン屋の店のものは、どつとふき出しました。
 攻撃は、いよ/\もうれつになりました。ちんのいときり歯は、ミスのふくらはぎとおもふあたりへ、がくりとかみつきました。ミスは自尊心を失つて、ひどくあわてさわぎました。スカートをまくし上げて、ラクダのかけ足のやうに、くびのところまですねをはね上げました。でもちんは、もつとすばしつこくミスのイギリス製の、じようぶなスカートをくはへました。ですからミスはとび上ることが出来ません。おやといふやうにふりむいたなり、ちようど、かつゑた野獣のきばの下でふう/\息をしてゐる羊のやうに、にらまれながら立ちすくみました。パン屋の人たちは店の入口で腹をかゝへて笑ひました。
 と、犬は、きふに足の間にしつぽをはさみ、耳をたれて、一本の足を空へはね上げてキヤン/\なきながらにげ出しました。トゥロットが、ふざけがあんまり永すぎるとおもつて、もつてゐたおもちやのシャベルで、犬の背中を力一ぱい、ごつんとくらはせたからでした。
 敵のかげは見えなくなりました。ミスはイギリス人らしい威厳と冷やかさとをとりもどして、トゥロットの手をとりました。ミスの血が静脈の中でめぐりはじめました。トゥロットは言ひました。
「ミスはずゐぶん勇敢ね。ねえ、ミス。」
 ミスは、さう言はれて、トゥロットの顔を、けはしい目をしてねめつけました。わたしのことをばかにしていふのだらうか。いや、さうではないらしい。トゥロットの、きよらかに、すんだ、二つの目には、皮肉なぞはちつともうかんではゐません。ミスは、おもはずからだをこゞめて、トゥロットに頬ずりをしました。
 トゥロットは、ほかのことをかんがへてゐたので、ミスが、なぜだしぬけに、頬ずりなんかしたのかといふことを、あまり気にもとめませんでした。
 食事のときにお母ちやまがおきゝになりました。
「けさはおもしろかつたの? トゥロット。」
 トゥロットはいさみ立つてこたへました。
「ね、お母ちやま、ミスはとても勇敢よ。お母ちやまに見せたかつたよ。そしてね、それからね、あのセル……セルブラスのお話をしてくれたの。ね、あの剛……剛勇? 剛勇なサラセン人はスパルタ人なの。そしてじぶんはランプで片手をやかれたの。でも、片手でもつて橋の上に立つて、艦隊の命令をしたの。そしてね……それからね、あのね……。」
 お母ちやまは、そんなお話はおすきでないらしく、
「へえ、えらいのね。さあ、トゥロット、スープをおあがり。」とおつしやいました。
 ですからトゥロットはスープを食べました。トゥロットの目のまへには、みどり色の顔かけをかけ、茶のサージ服を着た、ミスの勇敢な立像がうかんでゐます。トゥロットは、その像をまじ/\と見すゑながら、スープをすゝりました。

底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第五巻」文泉堂書店
   1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
   1929(昭和4)年1月
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2007年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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