今からちようど六十年前に、フランスはドイツとの戦争にまけて、二十億円のばい償金を負はされ、アルザス・ローレイヌ州を奪はれました。その土地はこの前の世界戦争で、やつと又とりかへしました。このお話は、アルザス・ローレイヌがドイツ領になつて、村々の小学校も先生がみんなドイツ人にかはつてしまつたときのお話です。


    一

 私たちの小さな学校は、ハメル先生がどかれてから、がらりとかはつてしまひました。ハメル先生のときには、朝学校へつくと、授業までには、かならず五六分間ゆとりをおいてもらつたものです。みんなはその間、ストーヴのまはりに輪になつて、指をあたゝめたり、着物についてゐる雪やみぞれをおとしたり、お弁当の中身を見せ合つたりしながら、しづかに雑談をしました。ですから、村のとほくのはてから来る子たちも、始業まへのお祈りと点呼とにも、らくに間に合ひました。
 しかし、今ではさうはいきません。どんな遠くのものでも時間には、きつちり着かなければなりません。今度のドイツ人のクロック先生は、じようだん口一つきゝません。八時十五分前から、もう教壇につッ立つてゐます。ぢきわきにはふとい杖がそなへてあります。おくれて来たものはそれでもつてなぐりつけられるのです。だから小さな中庭には、急いでかけつける木靴の音がつゞき、教場の戸口のところで「はい。」と、いきをきらして、あえぎ叫ぶ声を聞かなければなりません。
 このおそろしいドイツ人にたいしては、何一つ、にげ言葉がきゝません。「母さんが洗濯場に下着をはこぶのを手つだつてゐましたから」とも「父さんについて市場へいつたので」とも言はれません。クロック先生は何にも耳に入れてはくれません。この情のない先生の目からは、私たちは、家も家の人もなく、たゞドイツ語ををそはるために、そしてふとい杖でぶたれるために、わきの下に本をかゝへて、小学校の生徒としてこの世に生れて来ただけのものでした。
 ほんとに私も、はじめの間は、ずゐぶんぶたれました。木びき工場をしてゐる私の家からは学校はかなり遠いのでした。それに私のところは、冬は日の出るのがおそいので、よく、遅刻しました。後には毎晩のやうに手の指や背中や、そこらじゆうに、ぶたれたあとの赤いあざをつけてかへるので、父は、私を寄宿舎へ入れました。
 しかし、寄宿舎はとても、つらくて、なれるまでが中々でした。それは寄宿生にとつてはクロック先生のほかに、クロック夫人がゐるからです。夫人は先生よりも、もつと意地のわるい女です。その上に小さなクロックの一群までがゐるのです。その子たちは、寄宿生をはしご段で追つかけまはします。フランス人はみんななまけものだとどなります。たゞ幸なことに、日曜に母さんが私に会ひに来てくれるときには、いつも食べものをどつさりもつて来ました。
 クロックの家中のものは、だれもかれも大もの食ひなので、母さんのもつて来たものをぱく/\食べました。それで、私だけはこの家の人たちが、かなりよく世話をしてくれるやうになりました。


    二

 私たちの仲間だつた子で、私がいつも、をしい子だとおもふのはガスパール・ヘナンです。ガスパールも、やはり一しよに屋根うらの小さな部屋に寝かされました。二年まへに両親になくなられた子で、粉ひき業をしてゐる叔父が、厄介ばらひに、ハメル先生にたのんで、すつかり学校へまかしたのです。
 ガスパールは来たときには年は十だつたのですが、大がらなので十五ぐらゐに見えました。ガスパールは、その年まで、学校で本ををそはるなぞといふことは夢にも考へず、一日中家の中を走りまはり、外であそびくらして来たのでした。それですから、学校へ入れられると、つながれた犬がくんくんなくのと同じやうに、たゞ泣いてばかりゐました。
 とても人のよい子で、少女のやうな、やさしい目もとをしてゐました。前のハメル先生は、苦心に苦心をかさねて、やつとのことでガスパールを手ならしました。先生は近所に用事が出来ると、ガスパールをお使ひに出してやりました。ガスパールは、そのたびに、自由になつたのをよろこんで、小川にはいつて水をはねとばしたり、日にやけた顔に日射病までうけて来ました。しかしクロック先生になつてからは、まるで、わけがちがつて来ました。
 かはいさうにガスパールは、ないしようでフランス語を読み習ふのに、苦労をしてゐるので、ドイツ語は一つもおぼえるひまがありませんでした。ガスパールはドイツ語の一つの動詞の変化を口に言はされるのに、数時間もつッ立ちつくしてゐました。ガスパールの、しわめた眉の中には、習はうとする注意よりも、剛情と怒りとがひそんでゐるのが、だれにも感づけました。授業時間ごとに、同じ場面がくりかへされました。
「ガスパール・ヘナン、立て。」と先生が言ひます。
 ガスパールは、ふくれッつらをして立ち上ると、つくゑによりかゝり、からだを左右にふるだけで、何にも答へずにすわるのでした。クロック先生はいきなりなぐりつけたり、あとで、食べものをやらなかつたりしました。しかし、そんなにされてもガスパールはちつとも、ものをおぼえませんでした。
 晩になつて、尾根うらの小さな部屋へのぼつていくときに、私はよく、ガスパールに言ひました。
「泣くの、およしよ。ぼく見たいにやるんだよ。ドイツ語をよむのをおぼえなくちやだめだよ。だつてあいつらは、とてもつよいんだもの。」
 でもガスパールは、いつもかういひました。
「ぼくはいやだ。いきたいんだ。うちへかへりたいんだ。」
 ガスパールのこの考へは、しよせん、動かしやうがありませんでした。
 最初のころの、ものうさが、ガスパールの上に一そう、つよくもどつて来ました。夜あけがたに、ガスパールが寝床の上にすわつて、目を見すゑてゐるのを見ますと、私には、ガスパールが、今じぶん、もう目をさましてゐる水車場や、小さいときに、はいつてかきまはした、きれいな小川のことを考へてゐるのが感じられました。さういふものが、遠くからガスパールを引つぱるのです。その上に、先生がひどいことをするので、それがます/\ガスパールを家の方へおしやるのでした。ガスパールは、すつかり、荒くれて来ました。
 とき/″\、ガスパールが杖でたゝかれたあと、その二つの目が、怒りで一ぱいになるのを見ますと、私は、じぶんがクロック先生だつたら、その目つきがおそろしいだらうと思ひました。でも先生はちつともおそれませんでした。杖でなぐりつけたつぎには断食をさせました。しまひには牢屋を発明しました。ガスパールはその中におしこめられたきり、ほとんど外へは出されませんでした。


    三

 或日曜のことでした。ガスパールはすでに二月以上も外の空気をすはなかつたので、先生は、ガスパールを私たちと一しよに、村のはづれの牧場まきばへつれていきました。
 その日は、すばらしい、いゝお天気でした。私たちは人取りあそびをして、せい一ぱい走りまはりました。雪や氷すべりを思ひ出させる、つめたい北風を頬にうけて、はしやぎ喜びました。
 ガスパールは、いつものやうに、みんなからはなれて森のへりに立ち、木の葉をうごかしたり、枝を切つたりして、一人であそんでゐました。しかし、かへるとき、整列すると、ガスパールが一人だけゐません。みんなでさがしまはり、よび立てました。ガスパールは、にげ出したのです。クロック先生はいきり立ちました。先生の太い顔がまつ赤な色になり、舌のさきはドイツの、のろひの言葉でこはゞりもつれました。
 先生は、みんなをつれてかへつた上、私と、もう一人、大きな生徒をつれてガスパールの叔父のヘナンの水車場へ向つていきました。
 夜になりました。どの家でもみんな窓をとぢてよくもえた火と、日曜日のおいしいごちそうとであたゝまつてゐました。一すじの火影が道の上に流れてゐます。人々は、もう部屋の中で食事についてゐるのだとおもはれました。
 ヘナンのうちへつきますと、水車もとまつてをり、柵もとざされ、粉をはこぶ獣も人も、みんなかへり去つてゐました。下ばたらきのものが私たちのために戸をあけてくれたとき、馬や羊が、わらの中にうごきました。鳥小屋のとまり木の上では、はげしい羽ばたきの音と、おそれのさけび声がしました。それらの生ものが、みんな、こはいクロック先生を知つてゐでもしたやうに。
 水車場の人たちは、あたゝかな、あかるくあかりのついた大きな台所で食事をしてゐました。時計の振子から、釜にいたるまで、みがかれ、光つてゐました。
 ガスパールはヘナンと、おかみさんとの間にはさまつてテイブルのはしにすわり、だいじにされ、愛しなでられてゐる、幸福な子のうれしさを顔中にあふれさせてゐました。
 ガスパールは、にげかへつて、けふはオーストリアの大公の、だれ/\のお祝ひで、ドイツ人にも祭日なので、かへつて来たのだと、こしらへごとを言つたのです。それでヘナンやおかみさんたちは、ガスパールのかへつたのを祝つてゐるところだつたのです。
 ガスパールは、クロック先生が来たと知ると、かはいさうに、どこかににげ口はないものかと、ぐるりを見まはしました。しかし先生の太い手は、すぐに、ガスパールの肩の上におかれました。先生は手みじかにガスパールがにげ出したことをヘナンに話しました。
 ガスパールは頭を上げました。もう、しくじりをしてつかまつた生徒のやうな、はにかんだ容子はしてゐません。いつも、めつたに口をきいたことのないガスパールは、そのとき、ふいにじぷんの舌を見つけ出しでもしたやうにどなり立てました。
「あゝ、さうだよ。ぼくはにげて来たんだよ。二度と学校にいきたくないんだよ。ぼくはドイツ語なんか――どろぼうの、人殺しの言葉なんか、話さないよ。父さんや母さんのやうに、フランス語を話したいんだよ。」
 ガスパールは、怒りでぶる/\ふるへながら、すさまじい、けんまくで、かう、どなりました。
「おだまり、ガスパール。」と叔父はおさへようとしました。でも何ものもガスパールをとめることは出来ませんでした。クロック先生は、
「かまひません。かまひません。ほつときなさい。私がいまに憲兵と一しよにつれに来ます。」と、あざわらひました。大きなほう丁がテイブルの上にのつかつてゐました。ガスパールは、それを、むづりとつかんだので、先生はあとすざりをしました。ガスパールは、
「いゝとも、憲兵をつれて来いよ。」と、どなりました。叔父はこはくなり出したと見え、とびかゝつてそのほう丁をもぎとりました。ガスパールが、
「ぼくはいかないよ。いかないんだい。」と、さけびつゞけるのを、人々はよつてたかつて、そこいらへしばりつけました。ガスパールは歯をくひしばり、あわをふいて、
「をばさァん。」とよびました。叔母さんは、泣きふるへながら二階へ上つてしまつてゐました。
 馬車のしたくをする間に、ヘナンは、私たちに食事をさせようとしました。私は、ひもじいどころではありませんでした。クロック先生だけは、むさぼるやうに食べました。ヘナンは、ガスパールが先生とドイツ皇帝をのゝしつたことを、くりかへし/\先生にわびました。憲兵がおそろしかつたのです。


    四

 何といふ、かなしい、もどり道だつたでせう。ガスパールは、馬車のおくのわらの上に、病気の羊のやうによこたはつたきり、もう一とことも言ひませんでした。私はガスパールが怒りと涙とにつかれつくして、寝入りこんだのだと思ひました。帽子もかぶらず、マントも着ないまゝなので、ひどく寒いだらうと気づかひました。しかし先生がこはいので何も言へません。
 つめたい雨がふり出しました。クロック先生は、毛皮うらのついた帽子を耳まですつぽりかぶつて、鼻うたをうたひながら、馬を平手でたゝきました。
 星の光りが風でをどりました。私たちは白い氷つた道をすゝみました。もう水車から遠くはなれて、せきのひゞきもきこえません。そのときよわ/\しい、訴へるやうな泣き声がふいに車のおくから聞え出しました。その泣き声は、私たちの、アルザスの方言で言ひました。
「放しておくれよ、クロック先生。」
 それはいかにも悲しい声だつたので、私は目に涙がにじみました。クロック先生は意地わるさうに笑つて、馬にむちをあてながら、うたをうたひました。
 しばらくすると、また泣き声がおこりました。
「はなしておくれよ、クロック先生。」
 やはり、ひくい、かなしい、機かい的な調子でした。かはいさうに、ちようどお祈りをでも暗誦してゐるやうに、つゞけました。
 とう/\車はとまりました。私たちは学校へもどつたのです。クロック夫人は、校舎のまへに、がんどうぢようちんをもつて待つてゐました。
 夫人はひどくおこつてゐて、いきなりガスパールをぶちのめさうとしました。クロック先生は、それをおさへとめ、意地わるさうに笑つて言ひました。
「あす計算をつけよう。今晩はもうたくさんだ。」
 全くです。ガスパールは、あれだけいぢめられれば十分です。ガスパールは熱でからだがふるへ、歯がかち/\になつてゐます。私たちは、ガスパールを寝床につれていきました。
 私もその晩は、熱が出ました。私は夜どうし、あの車の牢屋を感じ「はなしておくれ、クロック先生」といふあはれなガスパールの声が、いつまでも耳をはなれませんでした。

底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第八巻」文泉堂書店
   1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
   1931(昭和6)年2月
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2007年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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