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 父が若い時にあつめた“Cook book”の文庫のうちに“American's popular Cook book”といふ、表紙にブルクリン橋の写真のついた、大きい本で重くて気の毒だが、画布のやうな布で作られてゐる本があるから、此処に寄る時にそれを持つて来て呉れないかといふことを私は、弟に言伝てた。
「いくら探しても無かつた。第一そんな文庫もありはしない。これと、あと二三冊、表紙の文字も読めない程よごれてゐるのがあつたゞけだつた。止さうと思つたが、一冊だけ持つて来た。」
 友達と一処にアルプス登山に行くついでに立ち寄つた私の弟は、何となく赤い顔をして伴れの自分の友達を顧慮しながら、登山袋の中から表紙などはすつかりボロになつてゐる部厚な本を取り出した。
「これぢやいけないだらう?」と私は、私の友達であるHに訊ねた。“American's popular Cook book”を、昔、その文庫を見たことのあるHが欲しいと云つたのであつた。
「……“Presidential Cook book”と? …… the Old festival Volume, ナンバー・ワンだつて! これは困つた、古式の何かだよ。真似どころの騒ぎぢやない。」とHは、自身と吾々に対してその本の表題から皮肉を感じたらしく苦笑した。私は、Hの手でめくられてゐる絵の頁をのぞき込みながら、子供の頃この彩色版を絵本のやうにして眺めたことのある記憶を呼び返された。
「おや、何か入つてゐたよ。」と云つてHは、それが字の書いてあるエハガキであることに気附いたので、見ずに私の膝に投げた。
「今月ノ君ノ写真ハコノ前ノ君ニクラベルト見チガエルホド大キクナツタ、余モコノトホリ元気ダ、余ハ今年ノ夏ヲミシガントイフ湖ノソバデオクル。次ノ手紙ヲ待テヨ。母上ノ命ヲ守リテ、シンイチヨ健在ナレ。常ニ君ニ親愛ヲモツ君ノ父ヨリ。」
「何日に帰つて来るのか、はつきり云つて寄越してお呉れツて阿母さんが云つてゐたが――」
「毎日/\帰らうと思つてゐるので、返つて帰り損つてゐるのだ。」と私は、変にギクギクとした甘ツたるい口調で答へながら、すツと立ちあがつて、慌てゝ机の下の鍵のかゝる手箱の中に古いエハガキをしまつた。

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「一番俺が腕をふるつて、貴家の、原始的な食卓に清新な皿を提供してやらうと思つたのであるが、これでは――」
 さう云つてHは、さも/\落胆したやうに膝の上の古本を投げ出した。そして、ブツブツとこぼしながら、生のキウリを噛つて、酒を飲んでゐた。
「稀には何かうまいものを喰ひたいなあ。」と私も、沁々と嘆息を洩した。
「稀には――」と私の妻も同意した。「稀には何処かへ伴れてつて貰ひたいなあ?」
「その袋の中には、どんな食料品が入つてゐるの?」私は、弟の登山袋に横目をつかつて「山ではなく吾家うちの食卓で、山の弁当を開くのは、ちよつと趣きがあるぜ――電灯を消さうか、そして、蝋燭をともさうか、そして、行きたくても何処へも行かれない俺達にキヤンプの気分を味はせないか。アルコール・ランプで酒の燗をして見ようか。――H、ハモニカを吹かないか。」などゝ云つた。「俺は、手風琴を弾奏しても好い。」
「厭だ/\、そんな Old festival Volume なんぞ。」とHも、弟も、弟の友達もそして私の妻も、一様に否定の口吻をつらねて首を振つた。
「キヤンプならキヤンプで好いが――」と不平を滾した者があつた。
「うつかり同意すると、ほんとうにあのボロ手風琴を持ち出されるよ。ラツパとオルガンと手風琴だけは、あの人は自慢なのよ――我流だから暗闇でも弾けるのよ。」と、心細気にセセラ笑つた者もあつた。
「ハコネのアシノ湖あたりへ行きませう、Hさん、姉さん――信州から帰つてから。僕達は、もう六辺もあそこでキヤンプの練習をしてゐます。」と、励ますやうに云つた者もあつた。
「これは、たしかに不用意なキヤンプ的生活見たいなものだ。」
「呑ン兵衛!」と、舌を打つた者があつた。
 私は、眼をつむつて、別のことを考へながら酒を飲んでゐた。で、なかつたら手風琴の技倆に自信を持つてゐる私が黙つてゐた筈はないのだ。

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 一体俺は、あの頃何んな手紙を遠方の国にゐた父に書き送つてゐたことであらう? 一つも覚えてゐない。
「今日は手紙を書く日ですよ。」
 母に斯う云はれて、無理矢理に机の前に坐らせられた記憶はある。一度も、自発的に筆を執つたことはない、厭々だつた記憶はある。
「これでは、あまり短かすぎる。加けに字がひどい! 書き直し!」
「…………」
「どうしても書けなければ、今日一日の日記でも好い。書かないうちは寝かしませんよ。――慌てなくても好い。」
「…………」
「見てゐて悪るければ、書きあがるまで私はあつちへ行つてゐる。私の手紙は、もう出来あがつてゐる――封をしないで待つてゐるのだよ。」
 ――「未だ? 未だなの?」
「あつちでオルガンなんて弾いてゐるんだもの、あればつかり聞いてゐて……」
「それだ!」と母は、顔をしかめた。「まはりのことに心を奪はれるようでは、とても駄目だ。訓練がいる! ――私は、もつと弾いて来る。耳をふさげとは云はない、それ位ひのものが聞えても平気になれなければいけない!」
 母は、オルガンの調節鍵ストツプを、いく通りにも変へて、牧師の「先生」から習つてゐる数少い異国風の民謡を弾奏してゐた。

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 私は、今日の日まで、以下の話を知らなかつた。Hが何か吾家の経済上のことに就いて私の妻に訊ねたのである。
「えゝ、その時分は吾家うちにはお金があつたのですつて。それが、とても可笑しいのよ。この人の阿父さんの祖母が死ぬ時に、大変妙な眼つきをして天井を睨めたんですつて。その眼に孫である阿父さんが不思議を感じて、ある時、天井裏にあがつて見たんだつて――そしたら小判が一杯詰つたザルが一つあつたんだつて。――それで吾家うちでは、土地を買つたり、十五年近くも長く阿父さんがアメリカで遊べたりしたんですつて! だけど、さういふ話は決して子孫には伝へまいといふ掟をこしらへたのだつて、子孫に怠け者の出ることを怖れて。あたしだけが、どうして、それを知つてゐるツて? この人に云はない約束で、阿母さんから訊いたの。女である私は、それを知つてゐて好いんだつて! 阿母さんも先代の姑から伝へられたんだつて! だけど私達だけは、もう、小判の恩恵には浴せないのよ、それを見つけた阿父さんが、丁度一代で費ひ切れたんですつてさ。当然よ。……だから、そんなお伽噺みたいなことを、一層のこと、この人に聞かせないやうにツて、約束だつたのだけれど……お伽噺なら好いと思つて! 返つて、この人の悪い依頼心をなくすことに役に立つだらうと思ふのよ。この人は、依頼心さへなくなれば自分の仕事が出来る人なのよ、割合に元気好く!」
 私は、初めて聞いた話だつたが、まさか驚きもしなかつた。ごろりと、あをむけに寝ころんで、いつか、現在のこの境遇にある自分を主人公にしてそんなお伽噺を書いて見ようかしら、などゝ思つてゐた。――でも、その場合私は、妻やHに一寸の間、顔を見られるのは欲しなかつた。

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 斯んな気分で、斯んなに慌てゝ何か書かうとする今朝は、全く無理だつた。読み返す暇もない!
 これだけ書けば、私としては、もう少し続けたくもあるが時間もない。――だが、
 母上よ、ありがたう。
 あなたの幼時の訓育が、少しづゝ報はれてゐる気がします。あなたのオルガンの音の代りに、近頃流行のヂヤツズの如く騒々しい隣室があります。私は、それを、嘗てあなたの得意であつた、そして私のわずかな記憶に残つてゐる“Southern Melodies”のうちの“Ring, Ring, De Banjo”“Old folks at Home”“Carry de News”――そして、また、ホーム・スヰート・ホームにも「蛍の光り」にも「青葉しげれる」にも、代へます。
「日記? 手紙に日記なんて厭だな!」
「その日/\に思つたこと位ひはあるだらう。」
「阿父さんに、手紙なんて書きたくない――知らないやうな阿父さんに……」
「親不孝!」
 幼年である私と、母とは毎月一度づゝ同じやうな争ひをくりかえした。

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「不同調 第三巻第三号」不同調社
   1926(大正15)年9月1日発行
初出:「不同調 第三巻第三号」不同調社
   1926(大正15)年9月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
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