一

 R村のピエル・フオンの城主を夏の間に訪問する約束だつたが、貧しい生活にのみ囚はれてゐる私は、決してそれだけの余暇を見出す事が出来ずにゐる間に、世は晩秋の薄ら寂しいころであつた。私の尊敬する先輩の藤屋八郎氏は、欧洲中世紀文学の最も隠れたる研究家で、その住居を自らピエル・フオンと称んでゐた。が、藤屋氏は近々永年の「城住ゐ」を打切つて新生活(何んなかたちのものかをおそらく私には想像も及ばない)に入るといふことを聞いたので、是非とも私は今のうちに訪れて、あの素晴らしい家に名残を留めて置きたかつたのである。
 或日私は、思ひ立つて藤屋氏を訪問するために新宿を起点とする小田原行の急行電車に軽装の身を投じた。終点の三つ四つ手前のKといふ小駅で電車を降りてから、藤屋氏の村までは二里の田圃道を過ぎ、河沿ひの、野花のさかんな堤を一直線に凡そ一里近く溯り、更に、昼なほ薄暗い森があるかと思ふと、急に明るい広々とした芝の野原に出て、この芝生を歌をうたひながら駆け抜けると、此度は物凄いすゝきの蓬々と生ひ繁つた、全く芝居めいた古寺のある荒野に入る――この辺りでは屡々婦女の遭難が伝へられる――そして滑り易い赤土の憂鬱な坂を注意深く昇つて、小山の頂きに出て、漸くR村が指呼の彼方に現はれるのだ。
 私は、K駅の近くの塚田村に住んだことがあるので、此あたり一帯の地理には詳しかつたが、単独でこの道をR村へ向ふのは今日がおそらくはじめてゞあつた。私は、塚田村に立寄つて、知合ひの水車小屋から一頭の馬を借り出した。
 斯う日脚の短くなつた今日此頃のことでは、相当脚を速めて進まぬと、鬼塚の峠あたりで日暮に出遇ふかも知れない――と私は、水車小屋の主に注意されたので、私は駒の手綱を引き締て、脇眼も触れずに路を急いだ。
 遥行手の丘々の彼方に大山脈の連峰が紺碧の秋空にくつきりときり立つてゐるR村は、その連峰の一つであるヤグラ岳の麓に蹲まつてゐるのだ。――私は、予て訪問の時には通知を出しておく約束を無視して出発して来たことに軽い後悔を覚へながら、長い田圃道を行過ぎた。出ぶれをして置けば、迎への馬車がK駅迄は仕立てられてゐたのに――と思ひながら、秋草の咲き競ふてゐる河原堤を溯つた。単独でR村を訪問するのはこれが始めてぢやなかつたか知ら? などと考へながら、小暗い森を駆け抜けた。芝の野原にさしかかつた時には、何といふこともなしに過ぎ去つた恋の思ひ出などに脳裏をかすめられたが、駒の鬣に顔を埋めて全速力で疾走した。鞍から飛び降りて、赤土の径を手綱を引いて先に立ちながら、曾て藤屋氏が町の歌妓に想ひを寄せて夜に日を継いで、この径を通ひ詰めた頃の事などを回想した。辻堂のあるすゝきの原に差しかゝつた時には、ヒユウ/\と空に鞭を鳴らして、一刻も速くR村に到達しようと念じた他に想ひは無であつた。
 幾曲り幾折にして、漸く私は第二の丘の頂きの鬼塚と称ぶ空怖ろしい名称の峠に行き着いた時は、案外の速力であつたゝめに、日は未だヤグラ岳の真上に高く傾いただけの明るい眺めであつた。

     二

 谿流の横たはる谷間を越へた森の背後がR村である。私は掌を額に翳して遥の彼方を見降したが未だ村は見へなかつた。猟銃の音が稀に響いてゐた。私は手綱を曳いたまゝ、もう落つき払つて坂道を降り、街を過ぎ野を往き丘を越へ、我等は行くよ、青き火の炎ゆる祭りの山へ――など、馬子唄調に似た悠長な胴間声で歌ひながら丸木橋を渡つて針葉樹の木立の中に入ると、更に声を洞ろに高くして、人の世の潮の流れ、嵐の雨、波に漂ひ、吹雪に目眩み、あゝ、されど吾等は飛び交ふ、自由自在に、生と死と限り知られぬ海原に、天と地の定めも忘れ野の果に、翻つては飛び行く……などゝ歌ひながら意気揚々と進んで行つた。
「コムピーエの森だな、藤屋氏にとつての――」崖から崖へ差し渡した橋を渡るとピエル・フオンの館の厳めしい門である門の傍に丸型の実物大のブロンズの楯が掛つてゐる。楯の表面に刻まれてある文字はラテン文字であるが翻訳すると「木造りの円卓酒を出し得べし、炯眼を放ちて自然を見よ、ここに奇蹟あり疑ふ勿れ」といふ意味ださうだが、訳されて見ても意味はあまり明瞭ではない。解らなくても怖るゝには当らない。この楯は訪問を知らすべき銅鑼なのである。
 私は、剣型の撥を執つて力一杯青銅の楯を叩いた。不気味な音が陰々と木立の間を縫つて行くと、音響は山彦の作用で二倍に拡大されて番兵の居眠りを呼び醒すのである。閂の音がして門の扉が左右に開くと番兵は、藤屋氏の末の娘さんであつた。
「まあ、マキノさん! お父さんはあなたからの手紙を毎日待つてゐましたわ。」
「済みません、突然今朝思ひ立つたので大急ぎで出かけて来ました。これは、あなたへの土産です。」
 私は、鉄砲を担ふやうに背に斜にくゝりつけて来た細長い花束の箱を取り降して、恭しく捧げた。私の馬の轡をとらうとするお嬢さんと、それを辞退する私とがボライトフルな争ひを交してゐると、私が今通つて来た林の中から、
「マキノ君、おゝ、たしかに吾々のマキノ君であつた。」
 と藤屋氏であつた。氏の言葉は際立つて直訳体めいてゐるのが特徴であつた。
「私は、君が山径を昇り降りして来る様子を、あの山の頂きから。」
 と氏は私が越へて来た小山の真向ひにあるところの雉子や山鳥の猟に適した禿山を振り仰いで、
「ずつと眺めてゐたんだよ。時々声をかけたが届かなかつた。そして林の中に君の姿が消えると同時に、君よりも先に此処に来着いてゐる心意つもりで駆け降りて来たのだが、君の脚並みは余程速かつた。君が歌ふ声高らかな唱歌が、止んだと思つたら、もう君は此処に来着いてしまつた。」
「聞えました? 私は、あの歌をうたふと何時何処でゝも心が躍つて、無闇と脚が速くなるのが習慣なのですが――」

     三

 先刻私が途中で聞いた鉄砲の音は藤屋氏が雉を打つた音だつたのだ。食卓には獲物のローストが配せられた。
 私はこのピエル・フオンの館の書斎や食堂の有様に就いて詳さに記述したいのであるが、それは別の機会に譲らなければならない。が、読者は私の此処までの筆致や形容詞に依つて、実在のピエル・フオンの堂々たる古城の有様を連想されぬことを祈る。山合ひの木立にかこまれた最も簡素な――その幾つかの棟は槌と鋸を渡されたならば私にでも建てることが出来さうなその程度の、だが飽くまでもだゝツ広い庵を想像されるだけで充分だ。そして、名称だけが物々しい幾棟かのアパートが、その昔偉い代官が住んだまゝと伝へられる薄暗い母屋をとりまいて点々と散在してゐるのだ。
 藤屋氏と私の文学談は、交々に卓上の台ランプのネジをまはしながら、何時まで経つても尽きさうもなかつた。私達は、藤屋氏の九十歳に垂んとする母堂が官許を得て、手づから醸造された世にも豊醇な酒をふくみながら、一わたりの古典文学談に区切がつくと、
「君に依つて実際上の手ほどきをされたフエンシングが、私は近頃大分自信がついたから、明日は一つ峠の野山に赴いて、馬上のままで渡り合ふて見ようではないか――」
「承知しました。――さつき先生が剣を抱へてお帰りになつた様子を見た時、私は、遂々ラ・マンチアの紳士を連想してしまひました。」
「では余ツ程私の容色は憂鬱気だつたのだな。さうだらう、もう一週間以来も鬚をあたる間もない程の忙しさだつたから……」
「どうぞ、そのまゝで――では一層、明日は――」私は書斎の隅に安置されてゐる氏が数年前に漸くの思ひで手に入れた西洋中世の銀色の鎧を指差して、
「之をお着になつたら如何です。私は最も花やかな空想と一処に、明日の手合せをお願ひいたし度うございますから。」
「それは私こそ望むところだが――」
 氏は不図悲しさうに眼蓋を伏せた。「幾度私も着て見たか知れぬのだが、とても大き過ぎて、例へば冑を被つて見ると、庇が額までも来てしまふのだよ。決して敵はぬ。」と呟いて一層熱い憧れの眼を視張つて、凝と人型のナイトを眺めた。
 ――中断のかたちだが、この一文の筆は此処で急に擱く。私は此間或る雑誌で友達に宛てた手紙の一節に、「田舎から携へて来た一枚の画、ピエル・フオンの古城の画を額ぶちに入れて、壁に掛け病の床から眼を挙げて城内の円卓の騎士達やシヤル・マーニユの兵士等のアパートや食堂を忍び――」と書いたが、その画といふのは、翌朝二人が馬に乗つて散歩に出かける時の姿を、門の前で藤屋氏の「ピエル・フオン」を背景にして氏のお嬢さんが撮つたエハガキ型の写真である。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「時事新報」時事新報社
   1930(昭和5)年12月18、19、21日
初出:「時事新報」時事新報社
   1930(昭和5)年12月18、19、21日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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