一

 その村は、東京から三時間もかゝらぬ遠さであり、私が長い間住なれたところであつたが私は最早まる一年も帰らなかつた。恰度、一年前の今ごろ私はカバンを一つぶらさげて芝居見物に上京したまゝ――。
 それ故、またカバンを一つぶらさげて戻つて来た私達の姿を見出したロータスといふ村の酒場の娘は、
「まあ、随分永い芝居見物でしたわね。」
 とうらみと苦笑をふくんだ鼻声で、私の妻の胸に両腕をかけてつぶやいた。
「ね、奥さん、何んな芝居を御覧になつたの、話して下さいな。」
「……芝居なんか見たかしら?」
 妻は私を振り返つてたづねた。
「…………」
「ぢや奥さん達が演つた芝居の話――」
 娘は、私達の東京での生活を、そんな言葉でたづねたりした。
「御紹介するわ、キヨちやん――この方ね……」
 妻は私達の間に立つてゐる緑色の瞳を持つたチル子を指して、
「是非あなた達に会ひたいと云つて、遊びに来たチル子さん――うちとは、とても昔から、それはもうチル子さんが生れぬ時分からの家同志のお友達で、チル子さんの姉さんのフロラさんと、この――」
 と私を指して、
「この人とは婚約の話まで起つたことがある程の……」
 などゝ云ひかけたので私は慌てゝ、
「おい/\、過去の話はやめておくれよ。」
 と軽く妻の言葉をさへぎつた。
 妻は、キヨに、チル子はこのごろ、私が書いたこの村での私達の原始生活に就ての幾つかの小説を読んだら、是非自ら村を訪れて見たいといふことになつたので、わざ/\さそつて来たのである。そして先づ、あれらの原始生活でのかゞやかしいヒロインであるロータスの姫君に紹介する所以である――などゝいふ意味のことを伝へた。
 そしてチル子が好奇にみちた腕を差伸ばして、熱意のこもつた握手を求めると、キヨは真ツ赤になつて、
「まあ、あたしうれしいわ。」
 といつた。窓下の野菜畑のふちに立ちならんでゐる梅が満開であつた。

     二

 鮒釣りに行かう――と私の妻が曇り空を眺めていひ出した。チル子も即坐に賛成した。
 私は釣りは不得意であつたが、森を越えた丘の向ひ側の沼地へ婦人同志を向はせるわけにも行かなかつたので、弁当包の袋を背中につけて、口笛を吹きながら先へ立つた。
 猫柳の枝がスイ/\と伸びてゐる池の汀に坐をこしらへて彼女等はならんで釣糸を垂れた。――私は、その傍らに焚き火をしながら二三日で東京に帰らなければなるまい――などゝ思つてゐた。
 丘の向ひ側を走る汽車の汽笛の音が時折かすかにひゞいた。――午までにチル子が五尾、妻が七尾の小鮒を釣りあげた。私達は、これらを生したまゝ持ち帰つて泉水に放すつもりだつた。
「おーい、おーい。」
 池の向ひ側の堤で、三輪馬車をとめて手をあげてゐる人があるので、注意して見ると、馬蹄鍛冶屋の若者のRであつた。私は、少々退屈をしてゐたところだつたので向ふ側に駈けて行き、
「何うしたの――おれ達を迎へに来て呉たのなら何故こんな処に車を止めてゐるのさ?」と訊ねた。
「それは……その……」
 Rは、吃音でつぶやいた。そして、シートの中から赤いリボンで結んだ白ハチスの花束をとり出して、
「チルさんにこれを上げてくれませんか……万一日本語でない言葉で話しかけられたら堪まらない――と懸念して、こんな所に車を止めたんだが……あゝ、それよりも私は勝つた。未だ花束をとゞけた者は一人もないだらう。」
 村の若者の間では昨日からチルさんの評判で持ち切りである――と彼はいつた。
「帰りがけに、ロータスに寄るでせう?」
 更に彼は、いやに丁寧な言葉使ひで問ひかけた。
「あゝ、おれだけは無論寄るね。」
「それをきいたんぢやありませんよ。」
「あゝ、さうか――」
 私は点頭き、
「おーい。」
 と向ひ側の婦人に言葉を送つた――「みんなが今日は仕事を早く切りあげてロータスに集まるさうだが、君達はそのまゝ帰りがけに寄つてくれるかね?」
 婦人達は顔を見合せてゐたが、やがて、はつきりとうなづいたので私はRに、
「O・Kだつてさ」と通じた。
「では、この馬車をこのまゝ此所に残して置くからと……」
 Rは、私だつて日本語だけで話してゐるにも関はらず、いちいち言葉の伝達を私に乞ふのであつた。余程深刻なガール・シヤイにかゝつてゐるらしい。
 河原を出はづれると眼近かの鎮守の森の傍らにあるロータスで私は二人をまつことにして、Rと伴れ立つた。
 ところが河原から社の森ちかくまで歩くおよそ一哩ばかりの道程の間で私は次々に花束を手にした幾人もの若者に取り巻かれて、まるで私自身が歓迎攻めに遭つてゐるかのやうな不思議な光景に出遭つた。
「私は今朝未明に起きて、わざわざS町まで馬を飛ばせて漸くの思ひで、この花束を買つて来たのでした。その由を伝へて、是非とも遠来のタルニシア姫へ……」
「僕はあの業慾な地主の温室に忍び込んで、この花束をつくつて来たのだ。地主の倅は村一番の見事な花輪を造つてチルさんの御気嫌をとる目ろみだつたところが、花泥棒に出し抜かれたのを今朝気がついて卒倒したさうだ。僕は今夜にでもあの倅と森の奥へ行く(決闘の意)だらう。――命のこもつたこの花束を、今のうちに、どうぞ……」
「……私は昨夜、一睡も眠れず……」
「……今はもう何うすることも出来ない恋の矢に射抜かれて……」
「あの娘が息ついた空気をおれは追かけて、昨夜は娘の部屋の窓下で……」
 私は、叫喚にとりまかれて身動きもならなかつた。私は恰で蛍のやうに眼となく鼻となく花束で叩かれて息苦しく咽びながら、
「まあ、まつてくれ、諸君、それでは到底諸君の意志を悉く彼女に伝へるほどの予猶が見出せないではないか。――それよりも何故諸君は勇敢に、直接彼女にそれらのものを手渡さうとはしないのだ?」
 と威厳のこもつた音声で唸つた。
「うるさ過ぎるぞ――勝手に彼女の意志による接吻を享けるが好いや。」
 すると一同の者は、さつと私の周囲から手を引いて、羊のやうに首垂れ、口々に、
「それは無理だ。」
「おれ達はこんな震へを持つてゐることも知らないで……」
「お前が何時も傍にゐるんで機会がないよ。」
「同じ日本語でもおれ達のそれは通訳がなければ役に立たぬのを知つてゐるくせに……」
「……おゝ、接吻! 考へたゞけでもおれは昏倒しさうだ。」
「…………」
 などゝ不平さうに呟いだ。
 私は、わけのわからぬ権力者であるかのやうに、尊敬されたり、呪はれたり、得意にされたりしながら花束のグルウプにおされて、ロータスの店に着いた。
 私は中央の樽に腰をかけ、水のコツプを手にしてゐたが、私の腕にとりすがつて、メソ/\と泣いてゐる憐れな画家や、手紙をつきつける者や、医者に診察を乞ふ患者のやうに露はな胸を突きつけて、この気たゝましい心臓の音を聞いて同情せよ――などゝ攻められて、一杯の水を飲む猶予さへも見あたらなかつた。

     三

「おゝ、車の音が聞こえるぞ!」
 やがて一人の男が斯ういつて耳をそばだてると酒場は忽ち水を打つたやうに寂として、ある者は壁に、ある者は卓子に、また或者は床に、耳をおしつけて息を殺した不思議なガール・シヤイ達である彼等は、内でばかりこのやうに悶々とするばかりで、見定めに出かける勇気のある者さへなかつた。――娘と出遇ふと誰も慌てゝ横を向いたまゝ物をも言はずに行き過ぎてしまふので私は、はじめ彼等は何か原始的の掟に従順で、異人族と言葉をかはすのを潔しとしないのだらう――と思つた程であつたのだ。私はそれとはおよそ反対の情火がそれ程まではげしく彼等の胸のうちに炎えてゐたかといふことは、さつき池のほとりで白ハチスの花束を持つて来た若者に会ふまで気づきもしなかつたのである。
 馬が店先にとまつたらしい。口笛の合図はこの馬車の手綱になれてゐる妻である――切りに口笛が鳴るのに一同の者は、身うごきもせずに突ツ伏してゐるばかりなので私が、扉をあけて見ると、馭者台にならんでゐるチル子と妻であつた。
「案外早かつたぢやないか――」
「だつておなかゞ空いてしまつたんですもの――うつかりしてゐたらあなたはお弁当の袋を背中につけたまゝ、来てしまふんですもの……」
「やあ……それは失敗つた。」
 なる程私は、未だにリユツク・サツクを背中につけてゐる。
「降して――」
「手をとつて――フラフラだわ。」
 憐れな二人の婦人は、わざと仰山にそんなことをいふので私は慌てゝ馭者台の傍らにすゝみ寄り、先づチル子を抱き降さうとすると、彼女は軽く首を振つて、途中で靴を落してしまつた――。
「あまりの空腹で馬車をとめて拾ふのも苦しかつたから、そのまゝ来てしまつたのよ。橋の一二町先の大きなキヤベツ畑の近くの辺だから……」
 直ぐ拾つて来てくれ――といふ意味らしかつた。で、私はともかく背中の袋を妻に渡し、何だか厭に蒸し暑くなつたので上着を脱いで、一走りで靴を拾つて来ようと思ひ、そのわけを、ちよつと扉のうちに向つていひ残さうとした刹那であつた! 薄暗い酒場の彼方此方に凝つと蹲つてゐた連中が突然バネにはぢかれたやうに飛びあがつたかと見ると、凄じい物音をたてゝ一勢に、或者は窓から、或者は扉を蹴つて、猛烈な勢ひで街道を駆け出して行つた。
 私は、思はず呆然として彼等の後姿を眺めたゞけであつた。――靴を落して来た云々のいきさつを彼等は聞き込んで、得たりとこの挙に出でたのである。
 一団の競争者は見る間に橋を渡り、野菜畑の辺に到着すると、戦線の散兵のやうに見事に左右に飛び散つた。そして、地に身を伏せるかのやうにこゞんで徐々と這ひまはつてゐた。
「この先着者には、何んな感謝を示すべきが当然だらう?」
 私は、何時の間にか云ひやうのない憂鬱――見たいな思ひに襲はれながら、そんなことを云つたが、チル子も妻も、返事をするのも忘れて、ぼんやりと不思議な光景に見惚れてゐた。二人とも袋からとり出したサンドヰツチを指先につまんだまゝ空腹も忘れたかのやうであつた。
 不図私が眼を伏せてチル子の脚もとを見ると、生かしたまゝ持ち帰る筈の小鮒が何尾ともなく元気好く小さなバケツの中に泳いでゐた。
 これは私達が村に帰つてから未だ二日日の出来事であるが、この分では、明日から何んな凄じい芝居がはじまるか? と思ふと私は一日も早く帰京すべきか、或ひは寧ろ滞在すべきか? などゝ思ひながら、この中途半端な文章を、ロータスの囲炉裡の傍で、擱くのである。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「河北新報」河北新報社
   1931(昭和6)年6月24日、26日
初出:「河北新報」河北新報社
   1931(昭和6)年6月24日、26日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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