僕はね、親父たちが何といつたつて、キエ、お前と、結婚するよ……。
 三千雄は、はつきりと、いく度もキエの手をとつて、さうはいつてゐたものゝ、キエは、里にかへつて日が経つにつれて、哀しさといふほどのこともなく、むしろ苦笑に似たものを感じた。何か、もう、断ち難い関係でもがあるかのやうに、三千雄の親たちが騒ぎ出したので、キエは自分から先に暇をとつて里に戻つた。自分は女中なのだから――とおもへば、親達の騒ぐのが、至極当然であり、三千雄の考へなんか、まるでまだほんの子供なんだから――とキエは、自分が男よりもたつた一つだけ齢上であるといふことから、三千雄の駄々を慰めるやうな立場になつてゐたせゐか、いつの間にか何かにつけても自分が一つ端のおとなしい考へを持つやうになつてゐるのが、吾ながら尤もらしく、ふと、可笑しくなることさへあつた。これがもし、三千雄があべこべに齢上で、あつたら? とおもふと、自分だつて男に甘える心持だつて起つたらうに――キエは、そんな途方もないことを考えると、急に胸が息苦しくなつた。慕ふとはいひきれないまでも、やはり自分は余程、三千雄を好いてゐるには違ひない……キエは、夜になると、やはり、そんなことを考へ、いつそ滅茶苦茶に引ずり回してやらうか――などといふ悩ましい妄想に駆り立てられもした。
 ハネ釣籠の井戸端で、キエは麗らかな朝陽を浴びながら洗濯の音を立てゝゐた。両親も兄達も野良へ出かけて、キエは毎日別段、特に留守番の必要もない家だが、手伝ひに出ると、近所の若者どものからかひが煩さかつた。それも、調子を合せてゐれば何でもないわけなんだが、淫らなことを口にしてはゲラ/\と嗤つたり、ふざけたりするのが、前にはそれほどでもなかつたのに、ちかごろは何うも堪まらなく退屈だつた。
「キエのアマは、町から帰つたら、おつに器量でも鼻にかけてゐる見たいに、済ましこんでゐるぢやないか。大方、町に、生白い男でも出来たづら!」
 そんなことを聞くと、キエは、三千雄に余裕あり気な態度ばかり示して来た自分が、つまらぬ慎しみであつたやうに思はれ、さうよ、可愛い男があるんだよ――とでも突き返してやりたくさへなつた。
「……つまらぬことを――何て、まあ、自分は馬鹿な女だらう……」
 キエは、飛んでもない/\! と呟きながら、つまらぬ夢はいつしよに洗ひ落して了はうといふやうな力んだおもひで、せつせつと洗濯物をもんでゐた。ハチスの生垣から、まだらな陽りが射して、盥の水には仄かな温みがあふれてゐた。

「キエ……キエ……僕だよ……」
 キエは、ふと、自分の耳を疑つたが、驚いて水端から駆け出して行くと、生垣の蔭に三千雄が兎のやうに息を殺して彳んでゐた。
「まあ……」
 キエは、しかし、飛びあがりたいほど嬉しかつた。
「うちの人、居るの?」
「――若し、居たつて関やしませんけど?」
 キエは、新しい春の脊広を着てスーツ・ケースなどを携へてゐる三千雄に、何う訊いたら? と迷はずには居られなかつた。
「僕、うちを黙つて飛び出して来てしまつたんだけど……」
「でも、わたしは……?」
「阿父さんに会つても好いよ、僕は――」
 三千雄は、うつむいて垣根の白い花を握つてゐるキエの肩に腕をのせた。その腕の先が微かに震へてゐるのを、キエは感じた。
「誰もゐませんよ。お這入りになる?」
 花に舞つてゐる蜂の翅の音が聞えるほど、静かな、明るい真昼時だつた。
「僕と約束したことを、思ひ返したといふわけぢやないだらうね?」
「…………」
 キエは、唇を噛んでだまつてしまつた。運命といふやうなものが、いひやうもなく悲しかつたまでゝある。――「何う、御返事して好いか解りませんの?」
「だから、僕、阿父さんに会はう……」
「…………」
 おそらく父親の意見だつて、自分と同様だと思ふと、三千雄が真面目くさつて、父親の前に坐り、また、当り前の口といつたら何一つ利く術も知らず、わけもなく恐縮ばかりしてゐるやうな父親と――そんな対面はおそらく無駄だと、キエは思ふばかりであつた。他人の前では口を利くことも出来ないのに、腹の中はなか/\の慾深である父親のことを、三千雄に図星でも差されさうな不安を覚えたりするのであつた。
「……後始末になつてから、はなしたつて。」
 キエは、思はずそんなことを呟いた。
「ぢや、お前も、だまつて家出をしても差支へないの?」
 と三千雄は息をはずませた。
「関ひませんわ……」
 キエは、応へると同時に、後悔を覚えたが、いつそ、あそびとおもつてしまへば大したことはない――とあきらめた。キエは、何にも惜いとおもふものを感じなかつた。
「わたしの方は、何も黙つて家を出るといふやうなことをしないでも、何とでも、おだやかにはなすことが出来ますわ、自分で、はなしますわ――こゝで、好かつたら、今夜うちに泊りません?」
「家に泊るのは、気が引けるな……何処か、温泉のあるところにでも行かうよ。僕、金は相当持つてゐるんだ……」
「追手の来るやうな気遣ひはありませんの?」
「大丈夫だよ。盗んで来たわけぢやなし、黙つては出て来たけど、何うせ、学校へ戻ることにはなつてゐるんだから、別段、家ぢや心配してゐるはずもないんだ。」
 このまゝ東京へ二人で行き、当分、家に知らせなくとも、今までのひとり分の費用で、二人が暮すことはそんなに六つかしいことではあるまい――などと三千雄は仕送りの金の嵩を告げたりした。

 東京の、三千雄が新しく移る親戚の方に手伝ひに来て貰ひたいから――と、はなすとキエの家の者は別段に有無もなかつた。
「貧乏しても好いか?」
「だつて、それだけ貰へれば、貧乏することもないぢやありませんか――」
「でも、学校を出たら屹度、貧乏するだらうと思ふんだよ。」
「――そんな心配ございませんわ。」
 とキエは、明るくわらつた。キエはバスケツトをさげて、麦畑の畦道を、男に遅ればせに歩いてゐた。齢が違ふといふやうなことが、何よりも不安であつたが、こんな気の弱さうな人には案外その方が幸福なのかも知れない――キエは、だん/\と真面目なことも考へられた。――ともかく、どつちにころんでも、はじめから或る一つのあきらめを持つてゐるので、キエは屈託もなかつた。男の心に、念をおさうなんていふ取り越し苦労は露ほども覚えなかつた。
「――あそこの、滝を御存じ?」
 田圃道を出はづれた時、キエは川上の森を指差した。
「知らない。でも、見物したいとも思はないな、それより……」
 と三千雄はわらつて、両頬を赤らめた。
「……滝、観て行きたいわ。」
 キエは、それぐらゐでも我儘をいつて見たのが面白かつた。
 滝へ昇り口の、知合ひの家に持物を預けて、森に差しかゝると、人通りもなく、昼間でも深い繁みで薄暗かつた。――崖径を脇へ外れて、二人は熊笹や万年草の生えた勾配を昇ると、滝の音が脚下に聞える岩の蔭に達した。
「どうして、此方に誘つたか、解ります?」
 灰色に乾いた屏風のやうな岩の蔭に、憩みながら、キエは、はじめて炎えるやうな眼差で男の顔を視詰めた。――「だつて……だつて……これから、汽車に乗つて、宿屋に着くまでが、何だか待ち遠しくて、こんなところで、少しでも二人だけで、おはなししたかつたのよ。」
 滝の音が、地から湧くやうに響いてゐた。細い小さな滝で、有名ではなかつたが、水勢が急で、滝は煙のやうに下から噴きあげてゐる奇観を呈し、「吹きあげの滝」といふ妙な名称を持つてゐた。卯花や連翹の花が真盛りで、水ばかりでなしに、上から見降すと、水煙りにぼかされた花の姿までが、煙りの渦巻のやうに見えた。――三千雄と、キエは、この時まで、接吻さへも交したことはなかつた。

 三千雄は学校を出ると、間もなく中学の英語の教師の職を得て、故郷と反対の方角の田舎へ移つた。もう、そのころは誰の眼にもキエの姿は女中とはうつらなかつた。やがては、屹度、破局といふやうなものに出会ふであらうと、キエは、いつもあきらめて、妙に、そんなことを期待するやうな心持を忘れなかつたが、あんなに我儘に育つた息子でありながら、一向に三千雄にはそんな気振りもなく、平凡で遅くなるといふほどの夜さへも見出されなかつた。そして、彼も、折々、あの滝の景色を思ひ出して口にすると、わけもなく顔を赤らめて、キエを引き寄せるだけだつた。
 キエが二人の女の子の母になつた時、三千雄の父親が歿くなつて一家は国元に引きあげることになつた。母親も歿くなつて、キエの母親を三千雄から先にいひ出して引きとり、二人の女中が「御隠居様」と称ぶやうになつてゐた。そんなに称ばれても、不調和な観もないほど、キエの母親は小さく年寄つてゐた。
 キエは、いつも現在の自分の境涯を思ふと、別段に陶然とするほどの幸福感もなかつたけれど、これは自分が、男に、何の期待も持たず、何うならうと、それはそれ――と、はじめからあきらめてゐたので、案外、平凡に、幸福な結果がひらけたのであらう――と思ひ、その度毎に、苦笑に似たものを感じた。物語にでもあるやうな悲劇めいたことを、何のおそるる心もなく、何となしに待つてゐるやうな思ひを抱いてゐると、案外、事件といふやうなものは起つて来ないものだ――と、キエはおもふのであつた。
 そして、キエの胸には、いつでも、何時、里に帰つて、水端で、洗濯をしてゐる自分の姿を想ひ出しても、ハチスの花の蔭から三千雄の顔が浮び――滝の崖径が思ひ出されて、二度とそんなことが繰返さるべくもないと思へば思ふほど、そんな水々しい夢でも描かなければこれといふほどの夢もない――たゞ、のどかな日ばかりであつた。
 このごろ、折々は三千雄の夜泊りするやうなこともあつたが、夫婦の間にはいさゝかな風波も立つためしもなかつた。

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「週刊朝日 第二十七巻第十四号」朝日新聞社
   1935(昭和10)年3月24日発行
初出:「週刊朝日 第二十七巻第十四号」朝日新聞社
   1935(昭和10)年3月24日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月26日作成
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