一

 海辺の連中は雨が降ると皆な池部の家に集まるのが慣ひだつた。暑中休暇の学生達が主だつた。麻雀に熱中してゐる一組があつた。窓枠に腰を掛けてマンドリンを弄んでゐるのは一番年長としかさの池部だつた。池部は学校を出てもう三年も経つたが、この旧家の長男で別段働く必要もなかつたので、天文学に関する書籍などを漁りながら静かな、だが殊の他憂鬱の日を送つてゐる境涯だつた。
「斯んなに雨が続くんなら俺はもう東京へ帰つてしまはうかな?」
 部屋の隅の方に寝転んでゐた若者が、突然大きな声で欠伸と一処に唸つた。その男は、斯うして家に転がつてゐるのにも水着を着たまゝで、今迄、物凄い鼾声を挙げてぐつすりと寝てゐたのだつたが――。
「帰るんなら、たつた今帰ると好いわ、隆ちやん見たいな野蛮人がゐなくなると清々と好ゝわよ。」
 雪江は椽端えんがわ茶卓子テイー、テーブルで切りにトランプの独り占ひを試みてゐたが、札を並べながら済したまゝ、そんな独り言を云つた若者に一矢を浴せた。
「ちえツ、酷えことを云つてら――俺が野蛮人だつたら……さうだな、幾分まあ紳士らしいのはこのうちで池部さん一人位のものぢやないかしら?」
「違ふわよ――彰さん見たいなんだつてゐるんだから……」
「さう/\!」
 と若者は、さも/\自分が迂闊であつたといふことを大業にして、笑ひながら、
「滝尾さんといふ聖人が居たな。あんまりおとなしいんで、つい存在の程を忘れてしまつたわい。」
「雪江……」
 と、不図池部が妹の名を呼んだ。「滝尾は、雨の日だけ海岸散歩へ行くつて云つてゐたけれど、ほんとうか?」
「嘘よ――。相変らず離室はなれで寝てゐるわよ。皆なが来てゐるから一処に遊びませんかツて、わたしが先刻お迎へに行つたらばね――」
 と云ひかけて雪江は、
「ちえツ、これあ、また駄目だ!」
 さう云つて持札を棄てると兄の方へ向きを変へた。
「いくら起しても、ちつとも目を醒さないのよ――でもね、隆ちやん見たいに寝像の悪い人とは違つて……」
「何だい、また俺か――面白くもない。」
「……ちやんと行儀好く、上向あおむけになつて、すや/\と眠つてゐるんだけれど、妾、その顔を暫く見てゐたら何となく気の毒になつてしまつて、そうツと出て来ちやつたけれど、――皆なの余り真ツ黒な顔ばかり見つけてゐるせいかしら、酷く、滝尾さんの顔色が蒼く見へたわ、それに、とても頬なんてこけたぢやないの!」
「徹夜の祟りなんだらう――勉強も好い加減にすると好いんだがな!」
 池部は不安さうに呟いた。滝尾は池部と同じ年に文科を出た池部の一番親しい友達だつた。神経衰弱の療養のために春頃から池部の家に滞在してゐたが、池部の土蔵に封建時代の様々な記録が残つてゐるといふことを聞くと彼は雀踊こをどりして、以来それらの書類の渉漁に寧日ない有様だつた。
「一体、ものに熱中しはじめるとあいつと来たら途方もない耽溺家になつてしまつて自分ながら自分を何う制御して好いか解らなくなつてしまふといふモノマニアなんで……」
「その熱情の百分ノ一でもが俺なんてに恵まれてゐたらかつたらうがな。池部さん、僕は、これは秘密なんだけれど、今年もまた落第しちやつたんですよ。」
「馬鹿ね。」
 と雪江が笑つた。「秘密を、そんな大きな声で喋舌つても好いの?」
「あツハツハ……えゝ、もう破れかぶれだ――天気になれ、天気になれ、雪江さんの脚は綺麗だな! あの曲線が、ずうツと、斯う、胴仲に続いてゐて――あゝなつて、斯うなつてゐると……」
「三谷の馬鹿!」
 雪江は、靴下も穿いてゐなかつた脚をスカートの中にかくさうとしたりしながら、
「あんたそんなことばつかし考へてゐるから落第なんてしてしまふのよ。海へ行つてゐても、あんたの眼つきと来たら、とても浅間しいわよ、百合さんや、照ちやん達も――三谷が一番嫌ひだつて云つてゐたわよ。」
 などゝ毛嫌ひらしい言葉を浴せながらも別段不快といふわけでもなく、椅子の上に膝を立て、両腕で抱いてゐた。
「何うせさうでせうよ――だ。」
 三谷はわざとふざけるやうに太々しく唸つたりしてゐた。「僕なんざ、たゞ正直なだけなのさ。誰だつて、女の姿を眺めて、さう云ふ空想に走らない人間なんて、無いだらう――滝尾さんだつて、おそらくは――だ。」
「まあ、失礼な人だこと――だから、あんたは野蛮人だと云ふのよ、婦人の前で、好くもそんな馬鹿/\しいことが平気で云へたものだわね。」
「いや、それが僕の讚嘆の言葉なんだよ、雪江さんの美しさを讚へる!」
 二人が、馬鹿気た争ひをとり交してゐるうちに麻雀の連中が勝負を終ると、また、その中の一人が、
「僕は三谷に賛成だ。こつちの話に気をとられて滅茶/\に負けてしまつたぜ――。それあさうと此間誰かゞ提言した仮装舞踏会を今夜あたり開かうぢやないか――」
「皆なが、水着ひとつ――で、といふやつわ、あれあ実に花やかな思ひつきだ、近代的のバアバリズムも此処に至つて、その極致に達したと云ふべきだ。大賛成だ、ね、雪江さん、メンバーをかり集めようぜ。」
 水着の舞踏会なんて、まさか実現もしなかつたが彼等は雨が降ると退屈に身を持てあまして何時も何か奇抜な遊びはないものかと逞ましい戯談じようだんを語り合ふのだつた。
「仮装舞踏会と云へば――」
 とまた誰やらが、真面目さうに云ひ出した。「蔵に行くと、いろんな衣裳が沢山あるぢやないか。あいつを一番持出して、裃を着たい奴は裃、鎧武者にりたい力持は甲を被り、やつこになりたい者は――」
「そいつは。お前がうつてつけだぞ。」
「……まあ、さう云ふ風に、扮装いでたちをそろへて――酒飲みの会でも催ほしたら何うだい。」
 そんな衣裳が、鬘などもそろつて此処の蔵の中には幾通りともなく保存されてある。海棠の古樹が屋敷うちに林になつてゐて、花の季節になると樹の間/\に無数の雪洞を燭し、花見の客が想ひ/\の扮装を凝して一夜の宴をほしいまゝにするといふ行事が、五六年前に亡くなつた池部の父親の代まで、昔ながらに続いてゐたのである。婦人連は一勢に元禄模様の振袖を着て手踊りを催したり、酒のお酌を仕廻つたりして賑やかな花見の宴を催す有様は、人々に現世の憂さを忘れしめ、さながら遠く物語の時代に遊ぶ思ひを抱かしめるといふ専らの評判で、海棠屋敷の花見の宴といへば村々の人々から指折り数へて待ち焦れられたお祭りであつた。
「然し随分暑苦しいことだらうな、この真夏の晩と来たら――」
「婦人連が汗を流して、お行儀好く、あの姿で――俺達武士つわものにお酌をする光景を想ふと、これ御同役、一興ぢやなからうかね。」
 そんな話になると、また誰やらが咳払ひをしながら、当今自分達が見慣れた婦人達の流行といふものは、専らアメリカ流のスポーツの影響ばかりで、恰で近頃ぢや男女の区別も無きかの如き有様だ、古風な振袖に包まれ、しやなり/\と恥らひを含んだ婦人達の最も慎しやかな姿のうちに夢を抱いてこそ真に得難い甘美な悩ましさを得られるのではなからうか――などゝ至極怪し気な衣裳論を持ち出したりした。
「さう云へば蔵の二階に、とても立派な生人形があるのを誰か知つてゐるか?」
 俺は遇然に見たのであるが、その瞬間しゆんかん、思はず幽霊ぢやないか! と思つて、仰天の叫び声を挙げた程だつたが、あれは実際生きた人間そのまゝの風情だ――婦人連の面あてに、あの人形を持出して夜会の席に据えようぢやないか――などゝ云ひ出した者があつた。
 雪江は、不図視線を避けて庭の方を眺めてゐた。亡くなつた姉を思ひ出した。母が悲嘆のあまり、京から人形師を招いて造らせた姉の面影である。母は、姉の着物を一切人形のために整へて、春には春の衣裳をといふ風に季節/\に従つてねんごろに取り換へたり、髪のかたちを結ひ直したり、音楽を聞かせたりして恰も生ける娘にとりなしたと同じやうに慈しみながら余生を送つた。――それつきり誰も手も附けずに箱の中にたゝずむでゐる筈だが、一体今頃は何んな着物を着てゐるだらうか――不図そんなことが気にかゝつた。
 皆なは、そんな途方もない思ひ付きに烏頂天になつて――俺は、やつぱり裃の殿様に扮りたいね――とか、そんなら俺は鎧甲の軍人いくさにんが好い――ぢや俺は前髪姿の愛々うひ/\しいお小姓になるぞ、お白粉を真ツ白に塗つたら見直せるだらう――とか、さう大名ばつかりが多くては芝居にはならないから、誰か、せめて敵役を買つて出ろよ、蛇の目の傘を構へた定九郎がダンスを演るなんて仲々持つて粋だらうぜ――などゝ、とりとめもなくざわめいてゐた。

     二

 雪江は、ひとりそつと抜け出して蔵の二階に来て見た。窓側に在る人形の箱の前に来て丁度唐紙程の大きさのけんどんになつてゐる蓋をとつて見ると、人形は三枚重ねの冬の衣裳だつたが、金泥に唐獅子が舞つてゐる丸帯が解けて脚元にからまつてゐた。そして、お納戸地に緋の源氏車をあしらつた裾模様の振袖を、着換への途中でゝもあるかのやうにふわりと肩に羽織りかけて、艶やかな夜桜ときらびやかな般若の舞姿を背から胸へ、それから裾一杯に染め出した緋縮緬の長襦袢が覗かれた。
「誰が、斯んなことをしたんだらう。」
 さう思つて傍らの衣桁に気づくと、其処には二通りばかりの夏物の衣裳が、長襦袢やら肌着などもそろつて今にも用に立てるばかりの格構で掛け並べてあつた。人形の両脇には一対の行灯が備へられてゐるので、試みに中を覗いて見ると、たしかに灯を灯した模様である。床几も出てゐる。煙草盆には巻煙草の喫殻が幾本ともなく突きさゝつてゐる。人形の脚の床には羽根蒲団やらクシヨンやらが散乱してゐて、誰かゞ寝転んでゐた形成だつた。
 雪江が、何とも可怪おかしな心地でその辺の様子を眺めてゐると、階下に人の足音が聞えた。――あんな相談が一決して、凄ぢい役者連が衣裳験べにやつて来たのかな! よし、口でばかり強さうなことを云つてゐながら凡そ臆病な三谷を悸かしてやらう――左う考へて雪江は、反対側に在る長持を飛び越へると隅に立て掛けてある屏風の箱の蔭に身を隠して息を殺してゐた。
 足音は、静かに梯子段を昇つて来るのだが余程注意深く忍んでゐるらしく――猫のやうで窺ひ憎い程だつた。途中まで来て、慌てゝ引返すと入口の扉を閉め直して来たらしく、今度は手燭に火を容れて、梯子段を昇り切ると、ふつと吹き消してゐた。そして、吻つとしたらしい太い吐息を衝いてゐるのを、雪江が物蔭から秘かに窺ふと、それは、さつき迄死んだやうに眠つてゐた筈の滝尾であつた。
「琴路殿!」
 滝尾は、そんな風に人形の名前を呼んだ。何を独りでふざけてゐるのかしら? と思つて雪江は眼を視張つて注意しつゞけると、ふざけてゐるどころか滝尾の様子は息苦しさうにさへ見へる程亢奮の眼を輝やかせて、微かに五体を震はせながら人形の傍らへ近寄つて行くのであつた。いつも、寝呆け眼で薄ぼんやりとしてゐる、成程あれは神経衰弱症に違ひない――と雪江は気の毒に思つてゐた滝尾、今眺めると恰で別人のやうに生々として、奇妙な、おそらく芝居じみた陶酔の風情にひよろ/\として、さうかと思と急に悩まし気に顔を歪めて、
「おゝ会ひたかつた――夜になるのが待ち切れずに、そつと忍んで来てしまつた。やがて誰かゞやつて来ぬうちに、暫しの逢瀬を貪りたい。」
 芝居の科白の通りな音声で、そんなことを唸つたかと思ふと、身を翻して人形に飛びかゝつた。
 人形と一処に羽根蒲団の上に滝尾は倒れると、何とも名状し難い不気味な唸りを発してゐるだけだつた。
 雪江は、いきなり、
「ワー!」
 と叫んで、悸かしてやつたら何んなに面白いだらうと思つて、思はず身構えたが、三谷達と違つて常日頃あんなに生真面目な人なんだから――と気づいて、やつと我慢した。そして、それ以上の奇怪な行動を見るに忍びなかつたので、眼を伏せて息を殺し通した。
 毎晩斯んな処に来て、明方までも人形に戯れてゐるのか! と雪江は思つた。それにしても奇怪な人だ。神話時代にはピグマリオンといふ人物がある、またホフマン物語の中にも人形に恋する博士の話がある、乃至は左甚五郎の「京人形」の噺などが伝はつてゐるが、そんな、無生物に切実な肉感を覚ゆるピグマリオニストなんて称ふ変質者はおそらく伝説か、荒唐無稽の芝居の中の人物のみと限られてゐるのかとばかり思つてゐたのに、斯んな眼の先にも、ちやんと、あの通り存在するなんて、何とまあ見るも気の毒な光景だらうか! ――左う思ふと雪江は、気の毒さなんて通り越して、その不気味と云ふより寧ろ途方もない滑稽感に駆られて居たゝまれないやうな気がした。
 雨は急に勢ひを増して、窓の外は水煙りで濛々としてゐた。その間に――と思つて、雪江は物蔭を伝つて息を殺したまゝ逃げ出して来た。

     三

 三谷は壁に両脚を突つ立つて、恰で逆立ちをしてゐる見たいな格構で、脚の先を眺めながら――いよ/\気分がくさつて来たぞ! とか、蔵の地下室の穴蔵から誰か「葡萄酒」を盗み出して来ないか、
「酒でも飲まなくてはやりきれねえ!」
 などゝ喚いたり、突拍子もなく大きな声ではやり歌を唸つたりしてゐた。
「三谷になんてにも、気分が何うなんて云ふ現象が起るとは、世にも不思議なことだな――三谷、行つて来いよ、穴倉へ!」
 双肌を抜いで大の字なりに転がつてゐる加茂が煽動した。
「普段でも俺は彼処には到底独りぢや薄気味悪くつて入れないんだ、だつて昼間だつて真つ暗闇で、大層な龕灯を点けて行くなんて、俺は思つたゞけでもゾーツとする、彼処の風と来たら何とも云ひやうもなく冷々としてゐるからな。」
 葡萄酒といふほどのわけでもなかつたのであるが、田舎出来の酒やら果物が貯蔵してある穴蔵があつて――屡々彼等は其処へ忍び込んで、此処の馬飼ひの年寄が造つた青葡萄の搾り液を持ち出して来て、これは何世紀の葡萄酒だとか、飲める酒だとか――口先ばかりで酒飲み見たいなことを喋舌つて、酒に酔ふといふよりは自分達の駄弁に泥酔して、乱痴気騒ぎをすることがあつた。
 雪江が戻つて来た時一同は車座になつて、割れるやうな声を張り挙げて、じやんけんに熱中してゐるところだつた。
「滝尾、滝尾!」
 池部が椽側に出て、滝尾を呼んでゐた。すると、丁度泉水を仲にして此処と斜めに向き合つてゐる滝尾の部屋の丸窓が開いて、滝尾がぼんやりと顔を出した。
「おい、もう日が暮れるぞ――皆なが酒盛りをはぢめるといふところだから、出て来ないか?」
 何時の間に戻つてゐたのだらう! と雪江は怪しんだが、何うもバツの悪さを覚へたので簾の蔭にたゝずむでゐた。
「折角帰つてゐるのに碌に顔を合せることもなし、何が忙しいんだか知れないが、昼間の寝坊があれぢや猛烈過ぎる――と云つて、さつきも雪江だつて、ぷん/\おこつてゐたところだよ。」
 間もなく滝尾は、
「やあ諸君、集つてゐるね――仮装舞踏会の相談は一決したのかね、僕だつて、起きてさへゐれば仲間になるとも――」
 と、普段とは大分趣きの違つてゐる妙に好気嫌見たいな笑ひを浮べながら入つて来ると、雪江に気づいて――どうも毎晩/\、徹夜の騒ぎで昔の本ばかり験べてゐるので、つい寝呆けてゐたり、一処に食卓に並ぶ間もなくなつたりしてゐるのだが――など、赤くなつて弁解した。
「まあ、随分熱心な方ね、皆なが遊んでゐる夏だといふのに――一体、何を、そんなに験べてゐらつしやるの?」
 皮肉になつていけないと雪江は気にしてゐたが、あんな馬鹿気た滝尾の秘事を公言しない限り、何か言ふと何うも空々しくなつてまともに相手の顔を眺めるのが苦しかつた。
「何を――ツて!」
 滝尾が明らかに内心狼狽したらしいのを感ずると雪江は、何うしても皮肉にならずには居られなかつた。滝尾は明らかに眼を白黒させた。
「そんなことを一概に云へるもんですか!」
「あの中にある北条記の稗史めいたものゝうちに何某といふ領主が天主閣の楼上で烏天狗と問答をする――領主自身の不思議な手記がある筈だが、君にはあゝ云ふローマンスは面白いだらう。」
 何も知らない池部がそんな話を持ちかけると滝尾は、雪江の眼に映る有様では、益々狼狽して、(あんなことを口実にして蔵の中に出入してゐるものゝ、あんなに人形ばかりに現を抜かしてゐる滝尾に、そんな古典を渉漁する余猶などが有る筈はないのだ。)
「うむ――面白い挿話エピソードがあるらしいが、未だそこまでも手がとゞいてゐないが……」
 と何やら口のうちでぶつ/\云つてゐたかと思ふと、その時じやんけんの連中がどつと笑ひ崩れて、三谷が皆なに圧し出されてゐるのを見ると、
「僕が、ぢや代つてやらう、三谷君――あの葡萄酒ぢや僕はつまらんから、僕はほんとうの酒持つて来たいから……」
 滝尾は、得たりと云はんばかりの気勢で穴蔵行の役目を買つて出た。
「それぢや、僕が恐縮ですから、ぢや僕が提灯持ちになりませう、滝尾さん。」
「なあに――」
 と滝尾は偉さうに胸を張り出して、大股で出て行つた。「平気だとも――その間に此方の用意をして置き給へよ。」
 滝尾の足音が渡り廊下に消えて行くのに雪江は耳を傾けてゐた。――そして、人形と滝尾の姿を想像してゐると、雪江は急にむせつぽいやうな目眩めまぐるしさを覚へた。
 何時も話だけで、思ひ/\の着想に酔つて、それつきりになつてしまふが今夜こそは、あの仮装舞踏会を是非とも実現させようではないか――。
「ねえ、雪江さん――あなたが先づ振袖姿の舞姫に扮つて……」
「さうだ。斯んなじめ/\と雨ばかり降り続いてゐる晩だし――これぢや世間に聞える憂ひもなし――ひとつ、海棠屋敷の花見の宴の真似事を仕様ぢやないか――」
 池部も一処になつて、
「そいつは案外面白いかも知れない。そして、皆なそろつて写真を撮らうぢやないか。」などゝ浮れ出した。
「ぢや、妾も賛成するわ。」
 と雪江も同意した。「ついでに妾の踊りを、おのおの方に見せてあげるわね。お囃子は蓄音機で間に合ふでせう。」
 皆な、鬨の声を挙げて仕度にとりかゝつた処へ滝尾が酒樽を担いで戻つて来た。
「大変なことになつてしまつたよ、滝尾――ほんとうに仮装舞踏会を始めるんだつてさ。」
 皆ながバラ/\と蔵の中へ駆け込んで行くと池部が、面白さうに滝尾に呼びかけた。
「君は何に扮る?」
「二人は、まあ、たゞの見物人にして貰はうぢやないか。」
 と池部がテレた笑ひを浮べると、滝尾は反対して、ともかく裃は着て、長袴を、そろつと穿いて見ようぢやないか! と主張した。
 池部は、苦笑しながら酒樽を勝手もとの方へ運び走つた。

     四

 泉水に面した広間に二列に膳を並べて、芝居の様な夜会をはじめた。いつの間にか人数が増へておよそ十四五人もの大名が、ずらりと両側に陣取つて、皆々真面目くさつてかしこまつてゐた。はぢめの話だと鎧武者が現れたり、仁木弾正や、斧定九郎が踊り出る筈だつたのに、一勢に裃姿りゝしいお大名ばかりなので――何うしたのか? と滝尾が池部に訊ねると、
「あの話は出鱈目で――花見の時には、客は一勢にこの風俗なのさ、ハツハツハ……」
 と可笑しさうに笑つた。
「駄目だよ、池部さん、そんな言葉つきぢや――何と今宵の月は、ものゝ見事に澄み渡つてゐることではござらぬか――といふ風に、科白を気をつけて貰ひたいね。」
 傍らから三谷が、もう大分酩酊して池部と滝尾の膝をポンポンと扇子で叩いたりした。
「おゝ、さう云へば三谷殿――夜来の雨は見事に晴れて、庭辺に月の光りが隈なく冴えた趣きはまことに画に見る風情――早う舞姫達の舞が始まれば好いが……」
 三谷の隣りにゐる大名の顔を見ると、馬飼ひの親爺であつた。一様に同形の鬘を戴いて、そろひの着附けをつけてゐるので、容易に見定めがつかなかつたが滝尾が順々に注意して見ると、いつの間にか村長や校長や消防隊員の面々などが次々に控へてゐるのであつた。久しい間絶へてゐた花見の宴の真似事を今宵催すのであるといふことを、使ひに出た下男から伝へ聞いて、村人はいち早く駆けつけたといふことであつた。
 村の娘達が、元禄袖の花衣裳をつけて、客の間をあつせんしてゐる様は、誰の心にも長閑な夢を誘ひ、真実、今の世にある想ひを忘れしむるに充分な光景であつた。
「これは何うも、何時の間にか大変な催し事になつてしまつたわけだつたな。」
 加茂が、きよろ/\しながら呟くと池部が、いや、どうせ一度は斯うして村の人達を招待しなければならない事情があつて、実は前々から仕度もとゝのへてゐたのだが、すつかり季節外れになつてしまつて困つてゐたところだつたので寧ろ好いきつかけだつたのさ。――「僕は、ほんとうを云ふと、年々これを行はなければならないといふしきたりが、酷くてれ臭くつて、君達でも居なかつたら到底機会を得ることは出来なかつたに違ひないのさ。変な習慣があつたものだな――」
 と池部は、ちよんまげの頭をがつくりと首垂れた。
 間もなく嵐のやうな拍手が巻き起つて、賑やかな音楽の音が物蔭から響いて来たかと思ふと、下手の簾がするすると巻きあがつて、一列の踊り子が、足拍子ゆるやかに、花模様の振袖を翻しながら、そろり/\と宴席の中央に繰り込んで来るのであつた。――お納戸色に緋の源氏車をあしらつたあれらのそろひの衣裳は――。
「おゝ、あれは、あの人形の衣裳とそろひぢやないか!」
 左う気づくと滝尾は、わけもなく愕然として思はず手にしてゐる盃を取り落しさうになつた。
「雪江さんだ――あれが!」
 三谷が、思はず頓興な声で叫んだ。「あれが、さつきまでのあのモダン・ガールとは俺には何うしても思へない!」
「叱ツ!」
 と誰やらが、非難の合図をしたが、陶然としてしまつた加茂が関はず声を挙げて、
「何うしても俺には物語の中から抜け出て来た人物とより他には思へない――人形と云はうか、夢と云はうか――踊り子達のうしろからは甘美の後光が……」
「おい、加茂、そんな戯談を云ふのは止せよ――俺は、斯んな踊りなんてさつぱり面白くもないんだ。」
 池部は切りと、てれ臭い困惑の苦笑を浮べて――早く皆なが酔つてしまへば好いが……と呟いでゐた。葡萄酒でも酔ふ三谷や加茂は、もう泥酔に近づいてゐたが、異様な雰囲気のために酔が胸のうちだけで渦巻いてゐるのであつた。
 そして、滝尾も同じ状態であつた。
 舞踊隊は客の中央に一列に並ぶと、今度は音楽が稍急調子に変つて、合図が入ると、腰から金色の扇を抜き出し、一勢に開くと、はらはらと天を煽ぎ、翻つて地に風を巻き起し、ちらちらちら――次第に急調子となる音楽に伴れて、虹が嵐に狂ふ有様で、客達は息も衝かずに眺めるだけであつた。稍暫くいろ/\な踊りが続いてゐるうちに、にわかに廊下のあたりから鬼やひよつとこや天狗の面の男が現れて、わあア! と叫んで踊り子を追ひ回す場面となる。鬼共はそれぞれ呪文めいた科白をうなりながら踊子に飛びかゝつて、その裾をまくらうとしたり、腕を引つ張つたりして、まことに落花狼藉の有様が展開されるのであるが、客達はこれを凝つと堪へて見物してゐるのが礼儀なのであるとの事だつた。つまりこれも踊りの一節なのであるさうだつたが、実に乱暴極まるしぐさで、鬼の手にかゝつてみやびやかな舞姫の白い股が現れたりするに至つては、しきたりのことも何も知らない海辺の連中にとつては、たゞもうハラハラとして片唾かたづを呑むばかりであつた。鬼共に追はれて、やがて娘達の帯は解かれ、着物も剥がれて長襦袢一つになる騒ぎになると、ワツと感極つた声を挙げて悶絶した大名があつた。三谷であつた。縁端によろめき出て昏倒した若侍は加茂であつた。
「さあ、これで一段落でござります故、今度は一つ皆さんの西洋流のダンスなり何なりと御自由なところを――」
 鬼達に抱へられた舞姫が楽屋に去ると村長が、いんぎんな態度で池部にお辞儀をした後に、此方の学生達に、無礼講をすゝめてゐた。
 その頃ほひに滝尾は、そつと座を立つて、ふらふらと怪しげな脚どりで蔵の階段を昇つてゐた。雪洞を翳して、しどけない格構で段々を昇つて行く迂参な若侍であつた。彼は、人形の箱の前に来ると二つの行灯に火を点じた。
 もう殆んど生体しやうたいもなく酔つてゐると見へて一挙動/\が、夥しくテンポの鈍い注意深さに囚はれてゐる見たいであつたが、箱の蓋は先程さつきから開け放しになつてゐるのも承知であつたらしく、手にしてゐる雪洞を人形の顔に面明りにして覗き込むと重々しい声で唸り出した。「お前の今宵の艶やかさは――その眉は、星月夜の空に飛んだ流れ星のやうな風韻を含んでゐる。その眉の下にうつとりと見開いてゐる瞳は神潭しんたんつゆを宿して、虹の影が瞬いてゐる。」
 彼は、顔と顔とをすれすれにして、また一歩を退いて、
「神代の彫刻家が山霊の加護に従つて鑿を揮つたその鼻筋の端麗さは、芙蓉の峰の崇高けだかさを思はせる。」
 と続けて、今度は矢庭にその唇に接吻を求めた。「おゝ、この唇の艶やかさは、翼ある馬に跨がつて万里の海底を経回へめぐらうとも得難き一片の貝殻である。」
 人形は、般若の舞姿と夜桜の長襦袢に、衣裳を羽織つたまゝの姿で、立ち尽してゐるまゝだつたが滝尾は鬼のやうに酔つたまゝさつきの踊りの中で述べられた鬼の呪文を真似て、
「おゝ、そして私には、お前の肌が何んな貴い光りを含んでゐるか? 禅堂に百日の断食を行ひ、滝に打たれ、火に焙られて千日の苦行を続けようとも、想ひの裡に許されぬ怖ろしい魅惑の夢だ。」
 と続けながら、胸を撫で、脇腹を伝つて次第に脚のかたちを模索するかのやうに撫で回してゐた。
 そして彼は人形を抱きかゝえると、静かに床に腰を降した――人形のたいが、すると、なよ/\として彼の腕の中に魚のやうに物やはらかく凭れかゝつてゐた。胸が震へてゐる、そして、眼は、気うとげなまたゝきを浮べ、
「命があるのよ――踊りに誘はれて、つい仲間入りをして、今戻つて来たばかりの時だつたの。」
 と、はつきりと呟いた。
「それを追ひかけて、私も鬼になつて追ひかけて来たら――ちやんと、お前は、この箱に戻つて――私の来るのを待つてゐたぢやないか!」
 滝尾は、絶え間なく脳裏にゆらいでゐる人形の幻を追つて来たのであるから、人形が生きて現にものを呼びかけても、さつぱり驚きもしなかつた。
「踊りの姿が、未だありありと私の眼の先へのこつてゐるよ――琴路さん。」
「妾――よ、雪江よ――もつと、はつきりと眼を開いて、妾の顔を見直して頂戴な――」
 滝尾の腕の中で、雪江が眼ばたきを浮べてゐた。
「見直して――そして、もう一辺、あの鬼の科白で妾を讚めて御覧よ――」
「これより熱心に――視詰めることは出来ないのだが……」
「ぢや、もつと力一杯抱いて――たゞ、いたづらのつもりで人形に化けて、ピグマリオニストを悸してやらうと思つてゐたら、とうとう妾が手もなく負けてしまつたのかしら――斯んなに云つても未だお前の眼つきは、妾が生きた人形と思つてゐるらしい!」
 笑ひながら雪江は呟いてゐたかと思ふと、急に男の胸に顔をおしつけて、しく/\と泣き出した。――母家の方からは賑やかな囃子の音や人々の打ち騒ぐ声が微かに響いてゐた。
 雪江が切りに指さすので滝尾が、傍らの長持の蓋をあけて見ると、実に惨々なかたちになつた裸人形の、腕や胴や脚が、バラ/\に分解されたまゝ投げ込んであつた。衣裳に覆はれる部分の、腕は、胴は、そして脚は、砥の粉も塗つてないたゞの棒切れであつた。

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 オール讀物号 第一巻第八号(十一月号)」文藝春秋社
   1931(昭和6)年11月1日発行
初出:「文藝春秋 オール讀物号 第一巻第八号(十一月号)」文藝春秋社
   1931(昭和6)年11月1日発行
入力:宮元淳一
校正:砂場清隆
2008年3月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。