目次
 その頃ナンシーは、土曜から日曜にかけて毎週きまつて私を横浜から訪れて、私に従つて日本語を習ふのだと称してゐた。彼女と私の父親同志がボストンの大学でクラス・メートであつた。ナンシーの父親は山下町にオフイスをもつて、小規模の貿易商を経営してゐた。彼女は其処で、タイピストとして働き、ブリウ・リボンという綽名を持つてゐた。彼女はいつも空色系統のドレスを好み、スレンダーな容姿が何といふこともなく瀟洒で、微風の翻へる一片のリボンのやうな感じを与へるといふ評判から、そんな羨むべき綽名を近隣の男友達から与へられたらしかつた。自分でもそれを悦んでゐるらしく、やがて私によこす手紙にもB・Rと署名したりした。手紙といふのは、若しも土曜日に他の約束が出来て熱海にゐる私を訪れ難い折に、簡単な断り状に過ぎなかつた。――いつの間にか私は、土曜日の午頃までに、彼女の手紙が来ない――と決るまでは何か苛々として落着きを逸した憂鬱な青年と化してゐる自分に、気がつきはじめてゐた。そして私は、ひとりであかくなつた。郵便! といふ声を、それまでは何んなに慕はしく待ち焦れ、どんな類ひの手紙でも四五回は繰り返して読むのをわずかな楽しみにしてゐた、そのくせ孤独好きな私が、ちかごろは郵便夫が自分のうちの門を素通りするのを見とゞけた時に、吻つと胸を撫でおろすといふほどの変り方であつた。
 私は、彼女が私に寄せてゐる凡ての好意をひそかに最も微細に分析しても、決して、たゞ彼女としては呑気なお友達として私を遇してゐる以外の何ものをも見出すことの出来ないのが、可成りの痛手であり、途方もない自分の感情に赤面するばかりであつた。
 汽車が未だ止まるか止まらないうちに、いつも彼女は一番先きに改札口を飛び出し、薄ぼんやりと出迎へに現れてゐる私を見出すやいなや、いきなり私の腕の中にころげ込んで、熱い頬を寄せた。
「どのくらゐ待つたの?」
 と彼女は先づ訊ねるのが習慣だつた。そして私が、たつた今来たばかりだ――と答へると、彼女は、
「ありがたう……」
 とうなづき、直ぐに腕を組んで颯々と歩き出したが――三十分も待つたよ、などゝ云ふと、如何にも気の毒さうに眉を顰めて、
「あたしをゆるしておくれ、あたしを……」
 と繰り返して、私の頬つぺたや額にいくつもの接吻をおくつた。――私は、それが息苦しく悲しく、自分の悒鬱な魂がこの上もなく惨めになつた。だが、それにしても、その場合の惨めな自分の恍惚状態を、私は貴重と選ばうとするのを吾ながら寧ろわらはずには居られなかつた。――相手は、たゞ習慣と礼儀を守つてゐるだけなのに、自分ばかりが腹の底から震へあがつたり、とてつもない空想に思はずよろめいたりするのを、私は吾ながら軽蔑せずには居られなかつた。さういふ私に反比例して、彼女は次第に私との友情に隔てを忘れ、恰も私を、何も知らない少年ニツカアと遇するかのやうであつた。――私は当時二十四歳の大学卒業生であつた。
 加ふるに婦人の英語といふものは、特に社交性に欠けてゐた私にとつては余程聴き憎いもので、私は稍ともすると彼女の言葉の意味をとり違へさうであり、日本語と云へば未だ彼女は小学読本三の巻を辛うじて朗読する程度であつたから、どちらの言葉を話すにしても私は余程ぎごちなく、臆病気であつた。
「わたしは、もともとから君を愛してゐるんだ。わたしは、君との結婚を想像する時だけ生甲斐を覚えるんだ。」
 いつか彼女と共に東京へ赴いて、新しい芝居を見物した時、そんな科白を聴き、説明などを求められると、私はわけもなくあがつてしまひ、もう胸のうちでは、それに類する切ない言葉を空想して、それにしても自分達の言葉の不自由さを沁々と私はかこつばかりであつた。
(Girl-Shy つていふ、ありふれた青年病なのさ。)
 と私はそつと呟き、感情を鎮めようとすればするほどどうかすると彼女の指先が何気なく私の腕に触れた瞬間でも、激しい電気を感じたやうに私は戦く始末であつた。――私はおそらくその刹那に、彼女の全身の、空想する限りの魅力に富んだ裸体像を神業の敏速さで彫刻し――おゝ恋といふよりもたゞそれだけのことかと唸つた。
「あゝ、非常に熱い。二三日前ヨコハマでは雪が降つたといふくらゐの寒さだつたので、うつかりこんな外套を着て来て、大変な失敗だつた。こつちは、もうサクラの花が咲きさうな陽気ぢやないか。いつも見慣れた景色とは思はれない程に、どちらの山々も緑色を示してゐる……」
 停車場から、山寄りの梅林ちかくの私の家まで可成りの道程みちのりであつた。縁家先の別荘で、梅の盛りのころは家族達が滞在してゐて賑やかであつたが、この頃では皆な東京へ引きあげて留守番の夫婦だけだつた。――ずつと遥かな雲のむかふに霞んでゐる山脈の肌には、雪の痕か、それとも小さな雲の塊りなのか近視眼の私には見境へも付かず白帆のやうなかたちが望まれたが、まはりの山々は――なるほど、と私は今更のやうに気が付いた。B・Rの手紙のことばかり気にしてゐて碌々空も仰がなかつたのか――と私は苦笑した。遅咲きの紅梅の花さへもが、いつの間にかすつかり散りせて、あちこちの街角から涌きあがる温泉の煙りが駘蕩として薄紫色の山々を撫でゝゐた。
「この前の日曜だつたかね――散歩の途中で君が梅の花を折つて、僕の胸のボタンにさしたりしたのは……?」
「あれは、もう三週間も前のことよ。」
 彼女は、指を折つて、「もう、二度も続けて休んだのね。」
 と肩をすぼめた。わざと私は忘れた風を装ふより他は、会話の平調が保ち難かつたのである。もう二度もの土曜をつゞけて、怕るべき手紙を受けとつた上句で、私の彼女に寄する空想は人形を抱いて息を吹き込んだピグメリアンのそれのやうに凝り固つて、肉体の何処を突いても涙に似たかのやうな血煙りが噴き出さうだつたのだ。――さつき停車場へ出迎へてゐた時でも、私は瞑目をしたまゝ彼女の靴音を聴きわけた。――「どれくらゐ待つたの?」と聴かれた時、私は思はず、
「三時間も……」
 と答へた。おそらく同情の叫びをあげて彼女は私の首つたまに噛りつくであらうと、予期したところ、思ひきや、憤然と靴を鳴して、
「おゝ、フーリツシユ――お前は忘れたのか、タイム・イズ・マネー……」
 と叫んで、鉤型に曲げた人差指を私の鼻の先へ突きつけたゞけだつた。私はいんぎんな態度で、己れの野暮を謝罪しなければならなかつた。私はすつかり度胆を抜かれて、
「僕は単に君の下僕として甘んずるだけのことだよ。」
 などゝ気を利かせて
「ほんとうに暑いほどの陽気だ――さあ、遠慮なく外套を脱ぎ給へ、僕に、うやうやしく持参することの光栄を命じ給へ。」
 と云ひながら彼女の肩に腕をかけた。英語の言葉は、こんな場合ほんとうに都合が好いと私は感心した。訳して見ると途方もない大袈裟で、むしろ滑稽気であるが、しやべつてゐる分には至極自然で「下僕」といふ言葉にしろ「光栄」にしろ、ほんとうに今では此方も、それ以上の心持なんだから、世話はない。――私は、常々芝居や小説で恋愛の場面に触れる度に、自分をその立場に置いて、想ふ癖があつたが、実際に自分を主人公とする恋愛を考へ、例へば恋人を擬して何事かを掻きくどくとか、結婚を誓ふといふやうな言葉を考へると。――考へると同時に、顔負けに縮みあがらずには居られないのにそれを英語で空想すると、わけもなく平気なのが不思議であつた。何も、恋人ともきまらぬ相手とさへも、一旦和訳して見ると、恰で熱烈な恋愛者の言葉である通りの仰山な文字面が如何にも愉快であつた。
「君の来訪を僕は、最高の熱情を持つて待ち焦れてゐたよ。」
「アリガタウ。」
「君が現れると、むかふの山に棚引いてゐる温泉の煙りまでが恰も歓喜の夢に恍惚としたやうに――そして君の美しい姿ばかりを凝つと視守つてゐるやうではないか。」
「非常にアリガタウ。」
 私は斯んな他愛もないことを、急に浮々うき/\と喋舌りながら、山荘を目ざして、辛うじて二人ならべるほどの近径から急坂を登つた。彼女は、深々とした銀灰色のフアコートが益々重苦し気に見えたので、私がもう一度同じやうなことを云つて左右の肩に両腕を掛けると、
「アハ……」
 と、恰度外套の下の肉体を今更陽にさらすのを、光りに擽られるかのやうに敏感さうに胸をおさへて身体を縮ませた。外套の両肩を握つた私は、思はず自分の眼の上まで吊りあげたが、何時、その主が殻の裡から滑り出たのか、何の手応へも感じなかつた。――彼女は、しきりとわらひ声をあげながら、見ると、もう私よりも二三間上の坂へ達して、猪のやうなかたちの岩石の影から、
「カム・オン/\――速かに、そして緩漫に……」
 などゝ浮き立つてゐた。皮を剥いたラツキヨウのやうに白い腕や胸が、はじめて光りを浴びた膚のやうに艶々と光り、私が追ひつかうとすると一層彼女は、はしやぎ出してひらひらと逃げ出した。木蔭に這入ると、姿を見失ふほど淡い水色の羅衣うすぎぬの一枚まとつてゐるだけの体は、さすがに飛び跳ねでもしない限りは薄ら寒かつたのでもあらうか、岩の上に駆けあがつたかとおもふと、宙を飛んで草むらへかくれたり――振り返つては手まねぎをおくりながら跳び交ふのを眺めると、薄いスカートは風に翻つて煙りのやうに消え、肢体のさまざまな輪廓だけが、にもあざやかに私の眼に映つた。
「つかまへるよ……」
 私が大声を挙げて腕をひろげると、彼女はほんとうに怯えたかのやうな悲鳴をあげて、夢中で逃げ出したりした。
「つかまへたら、 スを[#「 スを」はママ]与へるか。」
 私は如何にも戯談さうに、そんなことを叫んだが、その瞬間、山彦より他に人の気合ひもない森蔭のためか、私は思はず、両脚が氷柱に化したかの胴震ひに襲はれた。
「あの曲り角で、つかまつてあげても好いよ――」
 ナンシーは向日葵の花のやうな微笑を一杯にして、木蔭が一層深々とした行手の蔭を指さしたりした。そして、
「お前はわたしを愛してゐるか――」
 といふ唄をうたひながら、カドリールの調子でもとつてゐるかの脚どりで脇道へそれたりした。
 朗らかな冗談を、そのまゝ和訳した態の真にうけて、倍増の悒鬱に覆はれては大変だ――と私は要心したが、生真面目になるばかりで、あはや昏倒でもしさうであつた。――おそらく彼女の突然の浮調子は、未だ冬か/\とおもつて着通してゐた重い外套を、思ひがけなく脱ぎ棄てゝ予期もしなかつた春めきの陽にうつとりとした上句の気紛れな亢奮に違ひなかつた。――それにしても相手が碧い眼の金髪の見あげれば見あげるほど愧麗きれいな人形と化して止め度もなく、私は正しくピグメリアンの痴想に惑乱されて、息も絶え絶えであつた。
「ナンシー、ナンシー……」
 私は、たゞもう胸のうちで、今はもう何のわるびれもなく恋しい名前を繰り返しながら、接吻の夢に酔ひ痴れた。
「あゝツ!」
 と私は、その時異様な鳥のやうな叫び声をきいて、思はず眼を視張ると、彼女はもうとつくに山荘の裏側にあたる石垣の上に腰を降すと、両脚を長く垂して、花のついたガーターを片方紛失したと、自分で驚いてゐたところであつた。
「外套をそんなに、地にひきづつてはならないよ。ボクの、それは一等の財産ぢやないか。十ヶ月も働いたお金に、パヽをたのんで――はぢめて買つた、はぢめてのレデイの貴重品ぢやないか、もつと大切さうに携へて来てお呉れよ。」
 彼女は、おそらく敗戦者とも見さかへもつかぬ不思議な態たらくで、よた/\と登つて来る私を見降して、そんな注意を投げ落したりした。
「それは何といふ非常な罪悪であつたらう。心底からあやまらずには居られない。」
 私は、慌てゝしつかりとその外套を抱へ直しながら仰山に頭をさげた。両腕にあふれるやうな外套であつた。私は、そんな上等品を、そんなにしつかりと携へて見たためしもなかつたせゐか、その表も裏も見境へもない若草のやうな総毛皮の陶然たる手ざわりと、それに今までくるまつてゐた恋人の肉体を想像すると、マゾー伯爵ではなかつたが、思はず胸の上に抱へあげて顔を埋め、もう少しで嗚咽の声でもあがりさうだつた。私は、その外套から、真の人間を抱いたよりも沁々とした人間味見たいなものを嗅ぎとつた。

 彼女は何故か昼間の入浴をことわつて、夕食後に一二時間、私の小学読本の講義を聴いた後、十一時過ぎまで雑談に耽り、いよいよベツドに這入らうとする間ぎわと、そしてまた意外の早起きで、夜があけて間もない朝の鳥の声をきゝながら、都合、二回の入浴をするのが厭に規頂面だつた。
「二階に西洋風のベツド・ルームがあるのは、お前の小田原の家に比べて非常に結構であるが、浴室のドアに錠が無いのは至つて不要心だ。」
 彼女は、入浴の度に、そのことを私に滾し、私はおそらく彼女がアメリカ人には稀なカトリツク信者であるためかと思つて、気の毒がるのであつたが、今では私にだけは大変大胆になつてゐて、自分が一切の入浴を終へて寝室へ赴くまでの間、ドアの外で張番をしてゐて貰はなければならないといふのであつた。そこの風呂番が客の為に、折に触れては湯加減を見に現れ、背中を流さうとしたりするのを彼女は此上もなく恐怖した。風呂番の方は、規定の仕事を怠つてはならないと信じて、脱衣場の整理をしたり、背中流しに這入らうとしたりするのであつたが、私にしても、まさか婦人の入浴中を外の廊下で張番してゐるのだとも云へぬので、籐椅子や仰け反つたまゝ黙つて庭を眺めてゐると、彼女は次第に怯え出して、廊下に脚音がしたといふぐらゐのことで、悲鳴と共に私の名前を叫んで救けを呼んだりするのであつた。
「あの風呂番は、ノートルダムのカシモードに似てゐて、ボクが這入つてゐる間ぢうは絶えず裏側の壁ぎわで注意してゐる。だから、あんな時間を選んでゐるといふのに。どんなに朝早くても、彼はもう起きてゐる。」
 と彼女は、さういふ場合の断り方の言葉を私が教へても、たゞ激しくかぶりを振るばかりであつた。
「それは、彼が単に自分の仕事に忠実であるばかりなんだがね。」
 私は、左う云つて、私から思ふとおそらく途方もなく仰山な女学生の入浴振りを嗤つてゐたが、或る日彼女が横浜へ戻つた後に、もう六十歳にもなるといふ風呂番の亀さんが、私の窓の下で焚火にあたりながら庭師を相手に、おしやべりをしてゐるのを洩れ聞いて以来は、矢張り彼女の申出に忠実に従はずには居られなかつた。
「俺あ、この間、毛唐人の 姿[#「毛唐人の 姿」はママ]つてものをチラリと見たんだが、あれあ、それとも体ぢうに化粧でもしてゐるんだか知んねえが、素晴しいもんだな――」
 ナンシーがカシモードと仇名した亀さんは、なるほど腰が曲り気味で背中が山のやうにふくらみ、体に似合はず容貌が赤黒く魁偉と云ふべき風彩だつた。そして、笑つた場合でも声だけであつて、表情は笑つて居らず眼光に、見るも深刻気グルウミイな翳が宿つてゐるところはカシモードと称んでも不適当ではなかつた。
「ふうむ、そいつはもうけたね。異人て奴は腕や胸は平気でさらしてゐやがる癖に、寝部屋とか風呂場なんてことに厭に勿体をつけるつて××屋なんかでも厄介がつてゐたが、大事を取りやがると尚ほ見度いつて云ふもんでな――」
 庭師の質問の幾個所と風呂番の返答と自慢言葉の大部分は、こゝに記述するのを控へねばならぬ類ひのものだつた。
「どうだい、亀さん、お前えなんぞは好い年をして――。俺に、あしたの朝一度で好いから、お前えの代役をさせねえか……」
「女が気がつきでもしたらしいんだ、この頃はあの青びようたんの野郎が、恰で憲兵見たいな顔つきをして控へてやがんのさ。あの小僧だつて、今ぢや油断がならねえからな。」
「出来てやがんのか?」
「さうも思へるところもあるし……?」
 とカシモードは神妙に首をひねつたりした。
「ちくしよう、うまくやつてやがんな。俺ちも一辺で好いから商売女でない、あんな素晴しい別嬪見てえな娘の風呂番にでもなつて見度いや。」
 庭師が溜息をくと、カシモードは何やら彼の耳に殊更に低声こごゑで囁き、互ひの背中を叩き合つてゐた。私はその囁きに、余程深刻な好奇心をもやしたに相違なかつた。手もなく私にしろ、亀さんや庭師の魂胆と大差もない徒輩であつた。それにしても彼等が、私と彼女の上に回らす想像の、何と私にとつて空しい思ひか――と私は唇を噛まずには居られなかつた。

 まつたく私は亀さんや庭師と同様な、否、それよりのうわ手なカシモードであるとも知らず、ナンシーは私が張番をしてゐると此上もなく安心して、慣れるに従つては浴室のうちから不遠慮な命令を発した。
「ボクの枕元から爪とりを持つて来てお呉れ、忘れて来たから――」
「マニキユアなら手伝つてあげても好いよ。はやく、あがつて呉れ、もう、もう一時間にもなりさうだぜ、タイム・イズ・マネーだ。」
「バカ――女王様は御入浴中の空想を殊の他お悦びなのぢやないか。さつきから、仰向けに温泉につかつて、まどろみさうだつた。今、不図足の爪を眺めたら、剪らなければならないのに気付いたのよ。――あゝ、そしてね、ついでに、最も冷いオレンヂ・ジユースを一杯持つて来てお呉れ……」
 などゝ酔つ払ひのやうに甘えた声でわがまゝを云つてゐたかとおもふと、口笛を吹きながら悠々と体操などをはじめるのであつた。――私は硝子戸を丁度腕の太さだけあけて、命じられた品物を差し出すと、礼の代りに、
「若しも、お前が、ほんとうのボクの恋人であつたならばね……」
 などゝ私の腕にたわむれて、大きな口の  など[#「大きな口の  など」はママ]を私の手の甲へおしつけた。そして急にヒステリツクな声をあげて、無茶苦茶に私の腕を叩いたりした。
「幸福な夢を御覧よ。」
「おやすみ――!」
 と私達は衝立の左右でベツドに這入るのであつた。私の夢は徹頭徹尾、浴室のまぼろしの連続であるのみだつた。
「あたしは何故かゆうべは好く眠れなかつた――お前は何う?」
 彼女は明方を知ると、そんな風な声を送り、早速と浴室への準備にとりかゝつた。
 日曜日の午後を彼女は思はず昼寝して、帰り損ふことが珍らしくなかつたが、彼女の在、不在を問はず、ベツドの位置もそのまゝになつたまゝ、春が忍び寄るに従つて、私の青春憂鬱症ピグマリオニズムはタンポヽの穂のやうに単なる悩みに富んだ夢の中をさ迷ふだけであつた。
 ナンシーは、大事なフアコートを、私の箪笥に預け忘れたまゝ、「ブリウ・リボン」の爽やかさで、弥々熱心な日本語研究生であつた。
     ――――――――――
〈タンタレス〉
 諸君は斯んな言葉は御存じでありませうが、以上のやうなとりとめもないことを私に語つた私の若い友人のA君は、斯んな話は如何にも退屈さうな馬鹿坊ちやんの痴夢と嘲られるでせうが、吾々の周囲にはタンタレスの刑具は数限りもなく充満して居ると云ひ度いだけのことで、当の話は、たゞその言葉の説明として、甘さうなものを選んだに過ぎません、それにしても筋合が甘さうであればあるほど、処刑人にとつての責苦は返つて苛酷なるタンタレスの目的に適ふものだと申添へて置かずには居られない――と首垂れてゐました。
「結婚すれば好かつたのに――」
 と私が白々しく訊き返すと、彼は自分のプラクテイカル・イングリツシユが漸く練達の域に達しかゝらうとした翌年の春のはぢめには、ナンシーはもう同国人の恋人を探した後であつたと苦笑しました。――彼は未だに恋人もなく、田舎で星の研究に耽つてゐるとのことでした。
 私は〈タンタレス〉などゝいふ言葉を知らなかつたので、ブリタニカを繰つて見ると斯んな意味が誌してありました。
 ――中世紀に使用されたる刑罰法の一種なり。例へば空腹を強ひたる後の罪人の目の前に、いとも華麗なる料理の数々を数多あまた並べて、あはや罪人が腕を伸さうとする途端に素早く拉し去つて、夢のみを馳走するといふ方法なり、業欲者には金貨の音を、悪酒癖者には酒盛りの光景を、婦女に関する悪徳者には何々を等と、その応用の範囲は自在にして、多くの拷問中の苛酷なる刑罰法として適用されたるものなり。引いて、後世紀に至りては、金の儲け損ひ、或ひは失恋、または期待するものゝ待ち呆け、落第、失職等々と、凡てアテの外れたる場合の形容辞として日常に使用されたり。云々と。
 何と吾等の周囲にも、夫々、事毎に、多くのタンタレスが充満してゐることよ。

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「モダン日本 第七巻第六号」文藝春秋社
   1936(昭和11)年6月1日号
初出:「モダン日本 第七巻第六号」文藝春秋社
   1936(昭和11)年6月1日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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