「あたしは酔ツぱらひには慣れてゐるから夜がどんなに遅くならうと、どんなにあなたが騒がうと今更何とも思はないが――」
 周子は、そんな前置きをした後に夫の滝野に詰つた。
 田舎で暮してゐた時とは、境遇も違ふし場所柄も違ふ、今ではこのセヽこましい東京の街中で、然も間借りをしてゐる境涯である、壁一重先きには他人が住んでゐるのだ、毎晩/\夜中も関はず大声を発して、加けにどたばたとあばれられたりしては、朝になつて隣りの人に挨拶をすることも出来やしない、まるで狂ひの沙汰だ……。
「それが、たゞの喧ましさとは違ふぢやありませんか、歌をうたふならせめて他人に聞かれても恥しくないやうな歌をうたひなさい。あなたゞつてもう学生ではないぢやありませんか、隣りのマンドリンが煩いなんてよくも図々しく云へたものだ、何処にお酒を飲みに行つたつて屹度鼻つまみに違ひない、几帳面の唄となつたら春雨ひとつ知らないでせう。」
 周子は、あゝと深い溜息をついた。
 滝野は、身動きもせず凝つと煙草を喫してゐるばかしだつた。そして小声で、
「ゆうべも酷かつたかね。」と訊ねた。
「ほんとうにあなた、何かお習ひなさいよ、ちやんと纏つた芸を――」
「何が好いだらう、長唄でも……」
「声が悪いから、それもね……」さう云つて周子は、苦笑を浮べた。
「ゆうべはどんなに騒いだ。」
 独りだつたから大して酔つたわけでもなく大体覚えてゐたが、馬鹿/\しくて知つてる振りも出来なかつたので滝野は、狡くそんな退儀な質問を発した。――そして若し周子が、実際以上に少しでも誇張したら、軽蔑してやらうなどと思つたりした。
「いつもの通りよ。」周子は煩さゝうに云つたばかりだつた。
「いつもの通りとは、何ういふことだ、はつきり云つたら好いだらう。」
都の西北――を何辺やつたことでせう。」
 都の西北、といふのは滝野が四五年前、それも落第を重ねた後に漸く末席をもつて卒業した或る私立大学の校歌のことだつた。
「それから、野球の応援歌!」
「それをやつては恥かね。」
「恥ですよ。」周子は疳癪を起して、金切り声で叫んだ。――滝野は、隣りに聞えるから止めろといふ意味を眼つきに表して、女のヒステリツクの発作を制御した。
「チエツ! 昼間になつていくら遠慮深くしたつて何になるものですか。」
「そんならもう止さうよ。」と滝野もムツとして、横を向いてうなつた。
「救かるわ!」
「誰がやるものか。」
「断言しましたね。」
「無論だア。」滝野は、ちよつと亢奮すると田舎なまりの語尾になるのが常だつた。
「ぢや今度から、酔つた時は何をやるの? いくら口惜しくつたつて、あれより他のことは出来ないでせう!」
「余計なお世話だい。」
 滝野は、唇を噛んでゐた。何か他に出来ることがあるかしら? とちよつとムキになつて考へて見たが、何の思ひあたるところのある筈はなかつた。
「それから、ついでだからもうひとつ頼んでおきますわ。」と周子は更に云つた。――この部屋は露路を通る人からは、すつかり見透しなのだ、暑いから閉めておくわけには行かない、お午過ぎまで寝てゐることも止めて貰ひたい、寝像もあまり好い方ぢやない、口をあいて寝てゐる時もある。肌脱ぎになる習慣も止めて貰ひたい、運動だと称して(昼間)逆立ちをやつたり、でんぐり返しをしたり、出たら目の体操をやつたりするのも止めて貰ひたい、運動をしたければ、これも法にかなつたこと、例へば鉄亜鈴、棍棒、まだその他室内で出来るいろいろの道具がある。
「あれは焼けてしまつたかしら? 小田原の家に鉄亜鈴や、拳闘の手袋がありましたね、今度帰つた時探してきてあげませう。」
「そんなものいらないよ。」
「あなたが拳闘を習つたの!」
「僕は、知らん。」と滝野は空とぼけた。六七年も前拳闘の手袋を買つた記憶は、はつきり残つてゐた。彼は、父から拳闘の話を聞いて内心軽い好奇心を持つた。だがそんなことを見る者のある前でやつて見る程の勇気はなく、父にはセヽラ笑つて置いたが、何となくその構えをやつて見たく思ひ、わざ/\東京へ出掛けてフツトボール見たいな練習用の球とそれとを買つて帰り、他の眼をぬすんで、書斎の天井から球を吊して秘かに闘つて見たり、或は夜、裏庭に忍び出て、松の木にそれを吊して晴々と闘ひを演じたこともあつた。円盤や投槍や剣術の道具を買つたのもその頃だつた。だがそのうちのどれも、一週間とは続かなかつた。彼は、相手を求める熱心さに欠けてゐたし、独りぽつちの馬鹿/\しい運動には直ぐにテレ臭さを覚えて了つたから。
「東京住ひは苦しいことだな、それぢや始終袴をはいた気でゐなければならないんだね。」
「田舎だつてほんとうは、あなたのやうな不行儀な人は……」
「よしツ、もう決心した。これから俺は東京市民にならなければならないんだからね、か/\してもゐられまい。」彼は、生真面目な心でさう云つた。周子に非難されてゐる事実ばかりでなく、広く自分の生活にそんな風な楔を打たなければならない気がした。
 その晩も滝野は、遅くまで帰らなかつた。
 周子は、子供を寝かしつけてから、灯火を低く降して習字をしてゐた。あたりは森閑として、時たまけたゝましい響きをたてゝ走る自働車の音が消ゆると、何処からともなくもう秋の虫の声がした。
「斯う遅いんぢや、さぞかしまた酔つて帰つて来ることだらう。」
 周子は、そんな心配をしながら、健腕直筆の心をこめて習字してゐた。酒を飲む他に何の能もなく、余技に親しまうとする澄んだ精進の心のない野卑な夫に、一層習字をすることをすゝめようかしら、などゝ思つた。
「ぢや、さよならとしようかア、まア好いだらう、僕の処でもう少し飲まう/\。」
 突然往来から、怒鳴るやうに大きく濁つた滝野の声が響いた。周子は、思はずハツと胸を衝かれて筆を置いた。(体の小さい奴に限つて、酔ひでもすると、とてつもなく大きな声を出したがるものだ、豪勢振つて――)周子はそんなに思ふと気持の悪い可笑しさと、唾でも吐き度い程の憎くさを感じた。
「もう君、遅いよ/\。」
 その声は、遠慮深く、迷惑さうに低いのである。
「僕の家なら好いだらう、借りてる以上は俺の自由だ。」
 何処かで追ひ立てられて来たんだな――と周子は思つた。時計を見ると、もう二時に間もない。(借りてる以上――とは何たる馬鹿だらう、卑しい法律書生でも云ひさうなことだ、法律書生なら安眠妨害といふ罪を知つてゐる、小田原の漁師のやうだ。)周子は、カツとして机を叩いた。
「止さうよ/\。」
「もう少し芸術の話を続けよう。」
(チヨツ/\!)周子は強く舌を鳴した。
「芸術の話ならしようか。」
「そして、歌でもうたはうか。」
「歌は御免だ。」
(あたしばかりぢやない、誰だつて参つてゐるんだ。)周子はさう思ふと、ちよつとその人も入つて来れば好いがなと、思つた。
「さア行かう/\、担いでツてやらうか。」
「担げるものか。」
「担げるとも。」
「ぢや担いで見ろ。」
「よし来た。――何でエこんなもの、……よウいこら! よんやこら。」
 ガタ/\と具合の悪い戸を開けたり、桓根に突き当ツたりしながら、滝野は周子の見知らない客を伴れて入つて来た。滝野の胸は、裸体に近い程はだけてゐた。
 周子は、丁寧に客に挨拶して、迷惑を詫びた。いつも行き来してゐる酒飲みの友達ならさうもしなかつたが、その日の客は余り酒にも酔つてゐないらしく、身だしなみの好い洋服を着て、胸にはボヘミアンネクタイを房々と結んでゐた。話の様子で察すると、滝野の学生時分の知人らしく、そして有名な詩人であるらしかつた。
「あゝ、夜は更けた、もう間もなく秋だ。」
 食卓の前に坐ると詩人は、溜息のやうな嘆息を洩して、長い髪の毛を掻きあげた。周子は沁々と詩人の様子を打ち眺めて、いゝな! と思つた。
「久し振りに会つた滝野に、今日は酷い目にあはされました。」
「あなたは、そんなにお酒なんてめしあがれないんでせう。」
「えゝ、甘い西洋酒位いのものです、夜仕事をする時には、上等のウヰスキイを少量、二三滴紅茶に滴します、さうすると繊細な神経が青白く輝きます。」
「まア、好いですわね。」
「僕は、夜といふものに対して不思議な感覚をもつてゐます。」
「――」周子は、解るといふ風に点頭いた。解らないのだが、さうしないと軽蔑されるやうな惧れを感じたから。
「滝野、君も古くから昼と夜とを転換してゐる生活を持つてゐるらしいが、君はどうだ、君は、昼と夜と、どつちの世界にほんとうの自分自身の姿を発見する?」
「僕は――」滝野は突拍子もない声を挙げたが、そのまゝグッグッと喉を鳴して口ごもつた。
(態ア見やがれ)周子はそんな気がした。そして滝野は、ごまかしでもするやうに盃の手を早めながら、周子を顧みて、
「おい、酒を早く、酒を早く――。何だ斯んな処へ出しやばつて――」と叱つた。
「芸術の話をしようといふから、寄つたんだよ。」
「僕に出来ることは何だらう。」滝野はまたもごまかすやうに話を避けて「斯う生活も気分も行き詰つてゐては何うすることも出来ない、何かを沁々と習ひたいものだ。」などゝ上ツ調子に喋舌つた。「君は、さつき何とか君の愛誦する詩を朗吟したな、何だつたかね、もう一辺やつて見て呉れ。」
「ヴヱルレーヌの秋の唄だよ。」
「あゝ、さうさう、すゝりなくヴァイオリンの音とか云つたね。」
「ヴ※[#小書き片仮名ヰ、132-11]オロンだよ。――君、西洋音楽でも習つたらどうだ。」
「好ささうだな。」
「それが好い/\、あたしも一緒に習つてもいゝ。」と周子が云つた。
 詩人が帰つてしまふと、滝野は何となく不機嫌だつた。そして、更に独りで酒を飲み続けた。
「ほんとうにあなた、西洋音楽でもお習ひなさいよ、此処を引ツ越したら。」
「まア考えて置かうよ。――さて、ひとつ歌でもうたはうかな。」
「遅いんですよ/\、それに昼間の約束を忘れやしないでせうね。」
「あの歌でさへなければ、好いだらう。」
 夫がさう、きつぱりと云ふと周子は一寸好奇心を動かせた。(あの他にどんなことを知つてゐるだらうかな?)
「家の中でゞも自由が許されないといふのか。昼間もうちのう/\とするわけには行かないのか、運動の為に逆立ちをするのが何が悪い。」
「みつともないですよ、運動なら運動らしいこと、歌なら歌らしいこと……」
「くどいぞ! ……あゝ、酔つた/\。」
 わけもなく滝野は、そんなことを云つた。「馬鹿にするない。」
「あゝいふ風に心が曲つてゐる!」
「何だつて出来るぞ。」
「ぢややつて御覧なさい、勝手におやりなさい――だ。」
 滝野は、ふら/\と立ちあがつた。「よしツやつて見よう。踊りでも踊つて見ようか。」
「トンボ踊りは御免ですよ。」
 二人とも喧嘩口調で、そんな馬鹿/\しい会話を取り交した。トンボ踊りといふのは、滝野が酔つた時自分で出たらめに名付けた出たら目の踊りで、口笛を吹いて、両腕を延して、爪先で立ちあがり、漫然と部屋のなかを彼方此方に浮遊する割合に静かな遊戯だつた。遊戯中に、首全体を蜻蛉の眼玉になぞらへてクリクリと回転させたり、軽く尻もちをついて、蜻蛉が水の上に産卵する光景を髣髴させたり、高く舞ひ、翻つて低く飛び、鳶の如く悠々と翼を延し、黙々として青空の下を遊泳する趣きを、見る者に感ぜしめるのだつた。
 立ちあがつた彼は、その得意の舞を演ずるつもりだつたが、拒絶されたので、はたと行き詰つた。
「それぢや俺は、一体何をやつたらいゝんだ。」
 彼は、口を突らせて不平さうに呟いた。
「知りませんよツ! あゝ、眠い/\。」
「歌はあれより他に知らないんだ。踊りもそれより他に知らないんだ。それがみつともないとされては、一体俺は如何すればいゝんだ。」
「煩い/\、酔つぱらひ。だから立派なことをお習ひなさい。」
「折角この俺が、面白い歌をうたひ、愉快な踊りに耽らうとするのを、碌でもない批評をして、恍惚の夢を醒さうとするのか?」
「止して下さいよ――声が高い!」
「喋舌ることにまで干渉するのか! 牢獄に投ぜられたよりも酷い束縛だツ。叱ツ!(ふざけちやアゐねエんだぞ。)野生の小鳥を生捕りにして籠に飼ふ人々が、何時鳥の嘴を針で縫つたか? 貴様は、蜜に酔ふて花に戯れてゐる蝶々を、毒壺の中へ投げ込む昆虫採集者の助手に相違ないぞ!」
「いゝ加減におふざけなさいツ。」周子は拳を震はせて叫んだ。「文句があるんなら昼間にして下さい、夜中に芝居の真似なんてされて堪るものですか、夜中なんですよ、お隣りに聞えると云つたら! お隣りに――。あゝツあツ!」(チエツ、小鳥が聞いてあきれる! 蝶々もないもんだ。椋鳥か蟷螂カマキリだらう。)
「聞えれば結構だ、どつちが悪魔であるか傍聴者諸君に訊いて貰はう。」
 周子は堪え兼ねて、矢庭に夫に飛び付くと、そのしまりのない口のはたを、思ひきり強く抓りあげた。すると滝野は、芝居がゝつた音声を一段と高く仰山に絞りあげて、
「キヤツ! あゝ痛い/\、救けて呉れ。」などゝ近隣に聞えよがしに叫んだ。
「あゝ、焦れツたい/\/\。」
 周子は、われとわが髪の毛を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)ツて、畳の上に打ち伏した。
 滝野は、周子の姿を白々しく見降して、意地の悪い微笑を浮べた。そして彼は、食卓の上の徳利を取りあげて、勢ひよくいきなりラツパ飲みにした。
「げツぷ……うむ、斯う馬鹿にされて黙つて引つ込むわけには行かない、歌も許されず、踊りもいけないとなれば、吾輩だつて生きてゐる以上は、生きてゐるといふ何らかの証拠を見せなければ、承知が出来ない、……何を演らうか、何を喋舌らうか、どうすればいゝんだらう。」
 彼はそんなことを云ひながら暫らく凝ツと考へた後に、仰山に膝を叩いて、
「よしツ!」と叫んだ。――「と云つても、どうも弱つたなア……斯う行き詰つては仕方がないなア……よしツ、兵式体操でもやつて見よう。」
 さう云つて彼は、直立不動の姿勢を執つた――この上、そんな馬鹿なことを演られては堪らないと気づいた周子は、勇気をふるつて再び夫に飛びついた。そして、五体に満身の力を込めて、やつとのことで彼を寝床の上にねぢ倒し、頭の上から被着かひまきをかぶせて、しつかりと圧へつけて離さなかつた。そして口のあたりを、拳固をかためて塞いだ。その下で滝野は、あらん限りのしやがれ声を振りしぼつて、
「前へ――進めツ!」とか
「回れ右、前へ、おいツ。」とかなどと、勇敢な号令をかけてゐた。だが、好いあんばいに――と周子が思つたことには、それらの懸声は、ハンケチをつめ込んで吹き鳴してゐるラツパの音のやうに、重苦しく微かにかすれて、四隣に響きわたることはなかつた。

 翌朝早く、西隣りの洋館に住んでゐる温厚な文学士が、滝野の朝寝坊の戸を叩いた。文学士は、近隣の迷惑を代表して、抗議と親切な注意とをもたらせたのである。
 滝野は、何の返す言葉もあらう筈はなく、たゞぺこぺこと安ツぽく頭をさげてゐたばかりだつた。
 その日から彼は、苦い顔をして机の前に坐り始めた。
 周子は、その夫の姿を眺めると、わけもなく可笑しさが込みあげた。
(黙つて飯を食ふと、直ぐに彼の人は机の前に坐つて、物々しい顔つきをして煙草ばかり喫してゐる、此方だつて口なんて利き度くもない、清々と好い、だが一体あゝして何を考へてゐるんだらう、――若しかするともう月末も近いことだし、多分、今度は何と嘘をついて国許から金を取り寄せようか? そんなことをでも思つてゐるんだらう、だけど母親などにあんな大きな法螺を吹いて、東京へ出て来たのも好いが、一体どんな了見を持つてゐるんだらう、そんなことでも一寸でも聞かうものなら、自分が馬鹿で寂しいもので、大変口惜しがつて、物を壊したりするんだから、聞いて見るわけにもいかない……あゝ、飛んでもない奴と結婚したことだ。)
 田舎にゐるうちは、部屋が別々だつたので夫が稀に書斎に引き籠ることが続いても、何をしてゐるか周子には解らなかつたが、此処に借りた部屋は六畳二間が続いて二つあるだけで、書斎と居間の区別もあつたものではなく、夫のそんな発作に出会ふと、凡ての動作が彼女に観察出来るのだつた。気の毒な程だつた。
 滝野は、窓の下に小さな机を向けて、室内の凡てを背にして、端座し続けてゐた。次の間で周子は、子供を相手に編物をしながら、時々夫の後ろ姿を眺めた。
「この唐紙を閉めるんだ。」
 滝野はさう云つて閉めにかゝつたが、具合が悪くてうまくしまらなかつた。彼は、性急に舌を鳴して、断念してまた元の座に返つて煙草を喫してゐた。――そして、彼は時々口のうちで極く低く何やらぶつ/\と呟いだり、大業に胸を引いて、稍暫く首を傾けてゐたり、チヨツと舌を打つたり、さうかと思ふと、薄気味悪いことには、にや/\と声のない笑ひを浮べたり、ウンといふやうに拳を固めたり、悲し気な溜息を吐いたり、ポンポンと頭を叩いたり、唇を卑し気に歪めたり……そして、ふつと周子の存在に気付くと、忽ち気を取り直して、鹿爪らしく坐り直したりしてゐた。――その晩は、徹夜をしたらしかつた。朝になつて、周子が見ると、彼は、胡坐の儘後ろに反つて、死んだやうに眠つてゐた。
 机の上に原稿用紙が拡げられて、その何枚かが滝野のイヂケた文字で埋つてゐた。
 周子は、悪い気がしたが、好い加減なところをそつと覗いて見た。――こんなことが書いてあつた。
「……さうは思つても、たゞさう思つたゞけのことで、純吉の胸はマツチをすつた程にも動かなかつた。彼は、鈍い夢を振り棄てるやうに首を振つて、相手の顔などは見ずに、漫然たる笑ひを浮べながら、
「これが羞かみでゞもあるんなら、君の悪戯も効を奏したわけになるんだが、(どつこい、さうはいかないよ。)――非常に図々しいんだよ、この俺は、この俺は。」と云つた。つまらないことばかりに興味を持ちたがる川瀬へ、これで純吉は一矢報いたつもりだつた。
「そりやア文学青年なんていふ代物は、十中の八九までそんなものさ、フツフツフ……あゝカビ臭い、カビ臭い。」
 川瀬は、さう云ひながら仰山に顔を顰めて鼻をつまむ真似をした。
「小説が書けないで閉口することを小説にした小説が往々あるが、その種の小説程馬鹿/\しい物が、またとあるだらうか!」
 純吉は、さつき云はうとしたところに漸く話を戻して、いかにも立派な意見でも吐いたかのやうに重々しく呟いた。
「俺はそんな小説は、てんで読んだこともないから知らないがね。」と川瀬は、空々しく煙草を喫しながら、
「つまらなければ読みさへしなければ好いぢやないか、つまらないとか何とか云つては、異様な憤慨を洩らすのが、これまた文学青年の……」
「君は一口毎に文学青年、文学青年と云つては、その言葉の中に怪し気な軽蔑の意を含ませるのが好きだが、さういふ都会人はたしかに今でもゐるんだね。その上僕は、君のその笑ひが気に喰はない、何がそんなに可笑しいんだ、可笑しいことなんてそんなにある筈はない、失敬な!」と純吉は答へた。
「アツハツハ……そいつア参つたね。」
 川瀬はさう云つて笑つたが、別段参つた様子もなく、アツハツハと笑つて、後ろにそつて、折目の正しい白いズボンの片方の脚でポンと空を蹴つた。
「馬鹿だな、参るも何もありアしないぢやないか、さう浮々と参つたり参らせられたりして堪るものか。」と純吉は云つて、自分に自分が擽られた気がして思はず退儀な苦笑を洩した。」
 それだけ周子は読んで、退屈になつて止めようかと思つたが、傍で何も知らずに口を空けて眠つてゐる滝野の姿を見ると、いわれのない反感を覚えて、二三枚飛ばして読む気になつた。
「――「ところがね、川瀬!」と純吉は一つ大袈裟な息をいれて「僕の云ふことを一寸真面目になつて聞いて呉れ。」と云つた。
「相変らず拙い芝居をやりたがりやアがる。」
「僕がね、僕がね……」純吉は、上ツ調子ではあるが、重苦しく妙に吃つて「その僕がね、実は、もう一ト月も前から書きかけて、そして行き悩んでゐる小説といふのが――だ。つまり、その、例の、小説に書くことがなくて閉口してゐることを取材にした小説なんだ。……斯んなことは毛頭云ひたくない、君がさつきからあまり親切ごかしに責めたてるので、恥を忘れて口外するんだ。」
 純吉の様子は案外芝居でもないらしく、そつと面を反らせてゐた。さうなると相手の心を静かに汲み取り、そして自分も薄ら甘い何かに咽び入る性質の川瀬は、横を向いて困つた笑ひを浮べた。
「親父のことで、感傷的になることは仕方がないが、その感傷に浸つて、強く回想して、更に書くことも薬だと思ふ。」父を喪つて以来稍ともすれば子供ツぽい感情の脆さを現したがる純吉に、川瀬はさうとでも云ふより他はなかつた。
「いつか僕は、君に、もうあれはお終ひだ、とはつきり云つた。(不孝の子)を書いた時には、全くさういふつもりだつた。既に世になき者の幻を追ふたりすることは、此頃の僕の評価にてらすと避けなければならないのだ。」
「さういふ評価でもつくらずには居られないだらう。」
「そんな同情をされても困るが――」
「好い加減にしろ、愚痴は止して貰はう。」
「親父のことはもうお終ひだと云ひ、そしてそんな評価とかなどを拵へたりしながら――彼奴は何といふ虫の好い小僧だらう。」純吉はそんなに呟いで、変に無気になつて苦い唾を吐いた。「彼奴といふのはこの俺のことだ。それにも関はらず、いけ図々しい甘ツたるさを振りまいて、彼奴はまた親父のことを書きやアがつた、つい此間! 然も長たらしく! 恥知らず奴! 文学とは何だ、小説もないもんだ。自分で自分のことを(不孝な子)が聞いてあきれる――三千尺の地下に静かに眠つてゐる父へ、またしても呪はれたる愚かな双手を差し延べるとは何事だ。」さう思つて胸を掻き※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)る思ひにされた時、ふつと彼は、
(それにしても、あの騒々しい親父が、斯うも急にぴつたりと鳴りを静めたかと思ふと、何といふアツケないことだらう、恰で花火のやうぢやないか。)そんなキヨトンとした心が白く浮んで、危ふく失笑するところだつた。
「おい/\。」と川瀬が彼の肩を叩いた。「小説が書けないで困ることを取材にして書きかけた小説ツて、どんなことなんだ、悄気たりしないで書き続けたらいゝぢやないか?」
 おや/\、俺は今川瀬と、何の話をしてゐたのだつたかな――純吉は、夢から醒めた気がした。(あゝ、さうだつた、俺はさつき好い加減な出たら目を川瀬に話してゐたんだ。)
「うむ、書き続ける気だ。」純吉は、意味あり気にうなつた。
 実際彼が、さつき川瀬に、小説が書けないで困つたことを材料にした小説を、もう一ト月も前から書きかけてゐるなどゝ云つたのは、嘘だつた。それは悉く彼の、虚飾なのだつた。そんなことでも云へば、自分が以何にも思慮深く、そして執筆に相当の苦心をする如く思はれるだらう、そしたらいくらか重々しく見られるだらう――それ程低い程度の純吉だつた。だから彼は、友達から、
「君は、書くことが速いか? 遅いか?」などゝ訊ねられると、
「斯う遅筆ぢや困つたものだ。」と答へるのが常だつた。彼は、四五日前父に関する思ひ出を脱稿してゐた。想像力の鈍い彼には、それを書いたら、すつかり頭がからで、更に小説などゝは思ひも及ばなかつた。
「これから僕は如何どうしたらいゝだらう、この小さな体を持てあました。君は多芸だから羨ましい。」純吉は、沁々と云つた。
「テニスでもやれよ。」
「嫌ひなんだ。」
「そのうちまた何か始まるだらう。」
「始まるかしら? 然し何か生活に色彩か変化を欲しいことだ、どんな些細なことでもいゝから――」
「君は小説の方程式を知らないから――」
「小説も何もないんだ。」
「それが好くないんだよ、その癖が。――だから斯んな場合に沁々と勉強し給へよ、方程式を呑み込んでしまへば、二つや三つ小説を書いたからツて、ビクともしなくなれるよ……解る?」
「解るやうにも思へるし……」純吉は、滅入りさうな声で「本を読むことすら斯う嫌ひでは救はれぬことだ。」などゝ云つた。「斯んなことばかり云ふのは笑はるべきで、寧ろ重々卑しいが、俺の心には大きな風穴があいてしまつた。トンネルのやうにガラン洞で、落寞としてゐる、いやこれは生れつきだ、此奴親父をきつかけにして、いろんな風に媚びたり甘えたりしてゐるに違ひない。」……」
 斯んなに読んでも、未だ滝野は身動ぎもせずに眠つてゐるが、周子は酷い退屈を覚え、この先読み続けるのは、頼まれても厭な気がした。――あんなに業々しい態度で、夜となく昼となく机の前を離れずに考へ、そして書いたことが、斯んな馬鹿/\しい愚痴だつたか、と思ふと軽蔑の念はおろか、彼女は肚もたゝなかつた。
 その晩も、また滝野は机の前で徹夜した。何とか遠廻しにからかつてやりたい気もしたが、酒を飲んで騒がれるよりは増しだつたから、周子はそつと何も知らぬ振りをしてゐた。
 翌朝彼女が起きて見ると、滝野は机に突ツ伏して鼾をかいて眠つてゐた。――その周囲には、滅茶苦茶に引き裂かれた原稿紙の破片が無数に散乱してゐた。
 滝野は、三時頃まで眠つて、起ると、酒を出せと命じた――。辛うじて一本の酒を飲み終る頃には、彼はもう真ツ赤になつて、大して饒舌にもならず、その儘寝床にもぐつて翌朝までこんこんと眠つた。

 滅多に手紙などの来ることのない滝野のところへ、或る朝一通の往復はがきが配達された。――××中学卒業生のうち、東京在住の者だけの同級会の案内状だつた。滝野は、返信の「出席」「欠席」といふところを、「出席」に八重丸を付け「欠席」に棒を引いて、折返し差出した。滝野は来年三十歳だが、つい此間まで両親の許に碌々として生きて来た為か、そんな用もなくて夏羽織とか夏袴とかを着用した経験がなかつた。前の年の夏などは郷里が海辺だつたので、堅い麦藁帽子を一度も冠らずに済んだ位ゐだつた、経木の帽子より他に用がなかつた。
 この夏から彼は、東京に住むことになつた、母には新聞社へ務め、傍ら文学の研究に没頭してゐると称してあつた。
 二ヶ月程前、或る文学雑誌のゴシツプ欄に「文壇内閣見立」といふ戯文が出たことがあつた。現代文壇の著名な文学者を夫々の大臣に見立てたものであつた。そして各々の大臣の秘書役として、大臣文学者の門を叩いてゐる文学青年のうちで最も意久地のなさゝうな一人を夫々一名宛挙げて、秘書役になぞらへて痛棒を喰はせた皮肉な見立なのであつた。滝野清一は、逓信大臣北上川栄二の秘書役に抜擢されてゐた。
 その雑誌が出てから間もなく、滝野は母親から貰つた長い手紙の文中に次のやうな一節を発見した。
「……昨日偶々石川老が持参いたせし××雑誌を閲読いたしたる処、文壇内閣欄に於て計らずも御身の名前を発見し、母なるものは弱き哉思はず嬉し涙に咽び入り候 去月御身出京の節御身が私に云ひ残せし言葉は此の度こそは初めて詐りでなかりしこと相解り候 その節私が与へたる男子一と度郷関を出づ云々の古語を此上にも体得せられ度候。一朝秘書官に擬せられたとは云へ驕る者久しからず矣の喩えを忘るゝこと勿れ持して放つべからず 今や父上の亡きと云へども帰らざることなれば此のときこそ御身も剣を与へられたる心となりて立ちて行かれたし
 さて秘書官とも相成れば交際場裡に立つ日も多からむと存ぜられ候故伝来の紋服袴一着夏期用取りそろへこの便と共に御送り申し候 罹災の折頭初に持ち出せしものなれば破損も致し居り候ものゝ公席に出づる場合は必ず着用せられ度候、流行云々などゝいふ従来の御身の悪癖は此の際一掃せられたく、伝来の紋服を用ひて心のいましめとなし、万々酒席等に於て失策のなき様祈り居り候 尚夏期用の外出者のなきことを思ひ出し候故公式以外の訪問用としての衣服羽織袴等一組新調の物同封いたし置き候……」
 夕方六時から日本橋の何とかと称ふ、滝野などの未だ行つたことのない大きな料理屋で同級会が開かれる筈だつた。その日は珍らしく彼は朝から起き出でゝ、そわ/\と落ちつかなかつた。
 初めて、新調の羽織、袴を着て出かけることが滝野を可成り嬉しがらせた。さすがに紋服を着用して出掛ける気にはなれなかつた。
 滝野は、定刻六時を五分も違へず、軽く反り身の心地で日本橋の会場に現れた。そこで彼は、ぽつねんと三十分の上も待たされた。
「やア暫く、遅くなつて失敬した。葭町の××で寄ん所ない会に丁度今日出遇つて、やつとのことで中坐して来た。」
「いや僕はこゝを済して××会の方へ回らなくてはならないんだ。」
「お互ひに中学時代は呑気で好かつたね、だがまア好いさ、忙しいのは結構だよ、寸暇を盗んで斯ういふ書生式の会合をするのも、これがまた一寸オツぢやないか。」
 そんなことを云ひながら参々伍々滝野の旧友は、溌溂たる勢ひで集つて来た。
 滝野は、度胆を抜かれたかたちで隅の方に堅くなつてかしこまつてゐた。

(今晩は、さぞ/\酔つて帰つて来るだらうな、一日も早く郊外にでも家を借りなければならない、あの人に任せて置いたのぢや何時のことか解りはしないから思ひ切つてあしたから新聞をたよりに家探しに出掛けようかしら……それにしても、もう十二時も回つたと云ふのに未だ帰る気配がない、この分ぢや定めし酷いことに違ひない、それともあんなに浮々して出掛けて行つた処を見るとアソビにでも回つたのかな、東京の遊里はさぞ好いだらうなどゝいふことを好く洩らしてゐたから。)
 周子は、習字の筆を置いてそんな思ひに耽つてゐた。これから帰られて、一騒ぎやられることを想像すると、たまらなかつた。アソビにでも何にでも行つて、帰つて来なければ好いが――思はず彼女はそんなことを念じた。(東京の美しい、義理堅い花柳界を知つたならば、幾分かオダワラ育ちの野卑の教養にもなるだらう。)
 田舎に居る時分彼女は、時々夫の書架から翻訳小説や日本現代の新しい小説集を借り出して読んだこともある。その中には遊蕩の世界を巧みに描いた小説があつた。遊里に沈湎し酒に浸つて、そゞろ人生の果敢なさを思ひ、自らの芸術の糧とした傑れた小説があつた。悪友に誘はれて酒に親んで行く細いいきさつを描いて真珠のやうな光りを放つた短篇があつた。違い海辺の国の美しい歌妓に恋して遥々と汽車に運ばれて行く主人公の為に、人ごとながら思はず涙を誘はれたこともあつた。――それらの小説を読んでゐながらどうしてあの人は、あんなにも心が鈍いのだらう、彼の人の生活のうちには、酒は飲むばかりで、あれでは何と生かしようもないだらう、心が発展しないのは明らかなことで、小説など書ける筈がない、それが証拠には彼の生活のの一端を捕へても、それには五分の光りも見出せない、叙情味もない、思索もないと云ふて深刻な憂鬱もなければ、倦怠アンニユイの人生も覗かれない……意久地なさ、悪るふざけ、他人の悪口、おべつかつかひ、さう思つて彼女の知るだけの夫の経験を回想して見たが、そこにも何の「小説」はなかつた――。彼女は、今宵夫が、旧友に誘はれて遊里へ赴くことを心から祈つた。
 頼りない無能の夫の為に健気な祈念を凝らす――彼女はそんな想ひを拵へて、思はず自分自身に恍惚とした。
 その時、言葉の内容は解らないが、厭に騒々しく大きな音声をのせた自動車が、往来でピタリと止つた。
 来たな! と彼女は気づいて、サツと心の構えをして立ちあがつた。
「失敬な奴等だ、やれ/\と云ふから仕方がなくやつたんだ、それを笑ふとは何事だア、第一流の料理屋とは何だ、だからと思つて初めは俺だつて遠慮をしてゐたんだ、へツぽこ会社員奴! あんな芸者が何でエ!」
「もうお宅に参りました、さアしつかり、つかまつて下さい。」
 運転手に支へられて、滝野はよた/\と入つて来た。帽子や羽織を、駒下駄の片方なども運転助手が持つて来た。
「蝉の真似をして何が悪いんだ、他に出来ないから思案の上句、一生懸命になつてやつたんだ、面白ければ笑つても好い、だけど、田舎ツぺえだと云つて嘲笑するとは何事だア、さんぴん野郎奴、同級も糞もあるものかア。」
「何といふ格構でせう!」
 周子は、夫のしどけない身なりを、頭から爪先まで悲し気に見極めた。
「芸者遊びをするには、客の方が芸者を遊ばせてやる心意気でなければ話せねえ――とは何だ、出て来い、さア出て来い。」
「家ですよ/\。家で意張つたつて何にもなりませんよツ。」
 滝野は、余程飲み過してゐるらしく座敷へ上ると間もなく、その儘石地蔵のやうにごろりと倒れた。そしてセイセイと息を切らしながら「蝉だ、蝉だ。」などゝ周子には訳もわからぬことを叫んでゐた。
 その夜の同級会は、二十人近くの旧知が相会して盛会を極めた。酒が回り宴酣になつて、数名の芸者が来た。滝野は、初めから堅くなつて酒の回りも悪かつたが、芸者などが現れると一層堅くなつて、たゞピカピカと横目をつかつてゐた。芸者の歌が済むと、順番に客が歌ひ始めた。三下りを歌ひどゞいつを歌つた。滝野も一つ位ゐやりたかつたが、何も知らなかつた。それから彼等は夫々得意の隠し芸を公開した。ある男は清元の喉を聞かせ、次の男は朗々たる長唄を吟じた。大物が済むと、小唄をやる者もあり端唄をやる者もあり、また六ツヶ敷い唄を一つやり次にはワザと粗野を衒つて、終りのところでストヽンといふ結びのあるハヤリ唄を、反つて好い声で高唱したり、一寸立上つて雛妓と一処にアヤメ踊りを一節踊つたり、男二人立ち上つて、何か支那のことらしい滑稽な身振りで手真似の供ふ対話風の唄をやつたりした。
「滝野君はさつきから見物してゐるばかりで何もやらんな。」一寸芸事が止絶れた時向ふ側に坐つて、景気好気に赤くなつてゐる男が彼を指摘した。
「ウツ。」滝野の動悸は、異様に高まつた。
「斯うざつくばらんになつてから何もやらんといふのは厭味だぜ。」
 滝野の傍に坐つてゐる大変に美しい芸妓が、
「こちら、どうなすつたの!」と云つてポンと彼の肩を叩くと、その次に居並んでゐる稍年取つたおんなが、
「能ある鷹は爪をかくすつてね。」と軽く笑ひ、するとまた、向ひ側の赤ツ面が、その言葉の追句らしいキタナイ洒落を続けて、
「さては滝野君、誰かに思し召しがあるらしいぞ。」などゝ大きな口を開いて笑つた。一同はやんやと叫んで手を打つた。
「濡れ衣を着せられては、出さないわけにはいくまいぜ。」
「あちら、如何、糸の調子はこれでよござんすか。」
「待つてましたア。」
「ぢや、磯ぶしでもおやりなさいよ。」
「ノー、ノー。」
 そんな声が彼の周囲を矢のやうに取り囲いてゐた。発散しない酔が、彼の体中を重苦しく馳け回つた。彼の、頭は突然カツと逆上したかと思ふと、籠つてゐた酔がパツと飛び散る如くに眼が眩んだ。
「よしツ、ぢや、やるぞ。」彼は、さう云つて棒のやうに突ツたつた。
「いよう、奥の手/\。」「師匠は何処だ。」
「ジヤツパンダンス、待つてました。」「お囃しを頼みまアす。」そんな声が絶れ/\に彼の耳を打つた。それと共に芸妓達は一勢に撥を取りあげて、寄席などで彼の聞き覚えのある手品師や丸一の場合に用はれるらしい、賑やかではあるが間のびのした調子の囃子が、節面白く合奏された。彼は、思はずふら/\と座敷の真ン中へ進み出た。
 彼は、暫く其処に立ち止つた後に――つかつかと床柱の前へ進み出ると、
「やツ!」と叫んで、いきなり柱のてつぺんへ飛びついた。……しつかりと、出来るだけ体を小さくして、しがみついた。そして眼を瞑つて、左手で軽く鼻をつまんで、
「ミーン、ミーン、ミーン。」と高らかに鳴いた。「ミーン、ミンミン、ミーン。」
 一寸静まつた大広間中に、ミンミン蝉の鳴き音が、夏の真昼の静けさを思はせて、麗朗とこだました。
 だが次の瞬間、大広間は嘲笑と罵りに満ち溢れた。「馬鹿にしてゐやアがらア。」「彼奴は始めツから浮かぬ顔をしてゐた、折角の会にケチを附けようと思つてゐるんだ。」「彼奴はさつきから吾々の座興を眺めてにや/\してゐたが、さては馬鹿にしてゐたに違ひない。」「失敬な奴だ、ワセダの芋書生ツ。」「何てイケ好かない真似をする人でせう。」「引ずり降して畳んぢめ!」
 木枝の影に蝉が一匹止つてゐる。夏を惜んで切りに鳴き続けた――悪気なんて毛頭あつた筈はない、滝野はたゞさういふ閑寂な風景を描出したつもりなのだ。懸命になつて一幅の水彩画を描き、点景として蝉を添へたのだ。
 だが彼は、もう少しの間見物人が静かだつたら――そこに悪童が現れて、袋竿で憐れな蝉を捕獲しようと忍び寄る風情を、鳴き続けてゐる蝉の細い思ひ入れで現し、悪童の接近を意識した蝉は、未だ/\大丈夫だといふ風に歌ひながら静かに梢を回り、いよ/\袋が近付いた瞬間に、(どつこい、さうはゆかない、あばよ。)とばかりに、尿を放つて空中に舞ひ上る――ところでこの演技を終らす考へだつたが、――そんなことをしないで好かつたと思つて秘かに胸を撫で降した。

 周子は、一日も早く郊外に家を探さなければならないと思つた。郊外に家を定めたら、夫は夫、自分は自分で、常々憧れてゐる文化的生活を営まうなどゝ思つた。
「二階があなたの部屋で、階下したが完全に私の部屋ですよ。私が何んな風に飾らうと口を出さないで下さい、あなたの迷惑にさへならなければいゝでせう。」
「それも好いだらう。」
 滝野は、二日酔の重い頭で物憂気に答へた。夕陽が部屋の真中まで射し込んでゐた。滝野は上向けに寝転んで天井を眺め、細君は伏向いて編物をしてゐた。
「郊外の家でなら少しは、遅くまでお酒を飲んでも関ひませんわ。」
「お酒はもう止さうかと思つてゐるんだ。」
 細君は嬉し気に、だが眼を丸くして、
「そして、どうするの?」と訊ねた。
「ラツパを始めようかと思つてゐる。」
「あなたは中学の時分ラツパ卒だつたのね、ラツパを持つて写した写真がありましたね。だけどまさかあのラツパぢやないんでせうね。ホツホツホ……」
「うむ。――コルネツトとかホーンとか云ふ楽隊用の奴さ。あれだつて唱歌ならすぐにでも出来るんだ。」
「そんなら好いでせうが、私はまた兵隊のラツパかと思つて驚いたわ、いくら郊外だつてあれを吹かれちやア!」
「僕は寧ろあれを吹いて見たいんだ、あれならほんとに得意なんだ。」さう云つて滝野は一寸無気になつて思はず胸を拡げた。「お前にも一辺俺の得意の業を見せてやり度い。」
「お止めなさいよ、馬鹿/\しい。」
「皇族のお出でになる時、君が代を吹奏するのは俺一人だつた。校長が俺に雑記帳の褒美を呉れた。他人ひとから賞められた上賞品を貰つたといふ事は、あれ以外には無いことだ。――俺は体操の教師とは最も仲が悪かつた、普段体操の場合セイの順は一番のビリだつた、処が晴れの日には俺は先頭に立つて威風堂々とラツパを吹いた、ラツパ卒は皆な大きな奴ばかしで俺が入ると具合が悪かつたが、ラツパの音は俺のが一番素晴しかつた、何とかして俺を除外したがつてゐた体操教師も、あれには敵はなかつた、運動会の分列式の時には校旗と並んで俺一人がラツパを吹いた、見物の女学生などは感嘆の声を挙げた。」滝野は変に調子づいてペラペラと喋舌つた。(発火演習の帰り路などには、軍隊はへと/\に疲れて軍歌を歌ふ気力もなかつた。村の家々の窓からは灯火が洩れてゐた。「滝野ひとつ頼むよ」と誰かが云ふと「よしツ。」と自分は先頭に進み出た。そして小脇のラツパを取り上げるや余韻条々たる進軍曲を吹奏した。全軍の歩調は忽ち愉快に整つて、勇しい靴の音が夕暮の森に響き渡つた。駈歩になつても、俺は調子違へずに吹けたものだ。)
 十二三年も前のことだ。(五年生の時そんなものを軽蔑して、棄てゝ以来随分永い月日が経つが、今でも出来るかしら?)彼は、そんな思ひに耽つてゐた。
「たしか田舎の家に、つい此間まであつた筈だが……焼けてしまつたかしら?」
「ホーンといふのは何んな形なの?」
「煩いよ――。俺は今そんなものゝことを考へてゐるんぢやない。」
「兵隊のラツパなんてどうでも好いわよ。――しつかりしなさいよツ――」
 滝野は、周子の声など聞えぬ風でそつと口のうちで呟いた。「だが困つたことには、あのラツパでは音の調程が出来ないことだ、思ひツきり強く吹かなければ鳴らないんだからなア、練習であらうと正式であらうと、ソツと吹くといふ芸当が出来ないんでね。」
「何云つてんのよ、馬鹿ね。それより早く郊外に越しませうよ。花なんて作るのも好いぢやないの。」
「郊外もへつたくれもあるものか、ラツパを吹いて悪ければ田舎へ帰らう。」
「チエツ! 田舎だつて……」
「小田原以上の田舎へ引ツ込まう、何をしたつて文句の出ない処へ行きたい、そして……」
「また始まつた、ふざけるのも好い加減にして下さいよ、ホツホツホ。」
 周子は、笑ひ棄てゝ夕食の支度の為に立ち上つた。滝野は、晴れた静かな田舎の風景を想ひ、沁々と力を込めて、専念にあのラツパを吹くことを夢見て、近頃いつにも覚えのない爽々しい恍惚に浸つた。
「お酒はどうするの?」
「勿論だよ。煩いなツ。」彼は迷惑さうに顔を顰めて呟くと、再び凝つと六ヶ敷気に天井を視詰めて動かなかつた。
 翌朝から、周子は毎朝三歳の子供の手を引いて、郊外へ家探しに出かけることを日課とし始めた。
(十三年九月)

底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第四十一巻第五号」新潮社
   1924(大正13)年11月1日発行
初出:「新潮 第四十一巻第五号」新潮社
   1924(大正13)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
2011年5月3日修正
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