縁側の敷居には硝子戸がはまつてゐる。
 あたり前の家と同じく勿論これは昼間だけの要で、夜になれば外側に雨戸が引かれるのだと私は、はじめ思つてゐたのだつたが、それが、これ一枚で雨戸兼帯だつた。――夜になると、この内側には幕を降ろさなければならなかつた。
 八畳、四畳半、玄関三畳――間数はこの三間で、家の形ちは正長方形である。私は、この家の主人となつていつも八畳の何一つ装飾のない床の間の脇に坐つてゐた。この北側にも一間幅の窓があつて、此処も昼夜兼帯の硝子戸一枚だつた。だがこれは擦硝子なので、未だ幕を取りつけてはなかつたが、今では夜になると氷を背負つてゐるやうな感があつた。それに、どうも見た処が雨戸代りにはなりさうもない体裁だつた。
「こんなにまでしても体裁の方が大切なのかな。浅猿しい気がする。ボロでも安普請でも関はないが、斯んな見せかけは閉口だ。」と、私は、時々顔を蹙めて呟いだ。秋が冬に変るに従つて私は、それを頻々と繰り返すやうになつた。――冬になると私は、大概の日は歯が陶器のやうに浮いて、中でも擦硝子を見ると膚に粟が生ずるのであつた。歯質が幼時から悪く今では三分の二は義歯を入れてゐたし、いつも喫煙過度で舌がザラザラとしてゐた。冬の乾いた日が来ると私は、いつも口中に砂を含んでゐるやうな気持で、冷たく乾いたものを見ると直ぐに苛々させられた。普段それだけは手まめである髯剃りさへ、余程温かな湿り気のある日でもないと手が出なかつた。――これまでもの冬私は、そんな日には部屋を閉めきつて膚に汗を覚ゆる程盛んに湯気をたてゝ、そして吸入器の前で口をあけ通しにしてゐるやうなことが多かつた。
 春の初めに、話だけを聞いて見もせずにいきなり其処に移つて来てから、私達は今この儘此処で初めての冬を越さうとしてゐるのであつた。
「この辺のこれ位ひの貸家は、大概斯んな風ですよ。」と、妻は何の不服もないらしく云つてゐた。
「――誰が始めは考へたんだらう! つまり、便利なこんな昼夜兼帯の雨戸なんて!」
 私は、背に擦硝子を思つたゞけでゾクゾクとしながら、凝つと怺えて前の方の葉の落ちきつた痩せた木々が冬らしい白い空にくつきりと伸びてゐる姿を静かに見あげてゐた。――幸ひに毎日、風のない麗かな日が好く続いてゐたが、私の砂を口に含んでゐるやうな苛々病はもうそろ/\起りかけてゐた。これが最少し嵩じると私は、稀に散歩に出かけても瀬戸物屋の前が通り憎くなるのであつた。
 何処の家でも、もうとうに冬のカーテンを懸けてゐる。斯んなに鼠色に汚れた白い布などを引いてゐる家は一軒だつて見あたらない、これからは昼間でも寒い曇り日などには幕を掛けなければならないのだ、厚味のある重さうな何々色のカーテンをあたりに引き廻らせれば温かく落つく、硝子戸一枚だつて決して心配はいらない――と、いふやうなことを彼女は幾度も説明したが、私は自分から先きに云ひ出したのにも係はらず、と聞くと、私はあまりに乗り気にもならなかつた。そして、反つて私は彼女の提言を嘲笑ふやうな顔をしたりした。
「堪らないのは、このうしろの窓だ。」と、私は唇をもぐもぐさせながら云ふだけのことだつた。「幕の下にでも俺は、あの擦硝子を感ずると凝つとしてはゐられなくなりさうだ――何か他に好い工夫はないかな。」
 別段、反対する程の積極性もなかつたが私は、彼女がそんな重さうな何々色の布などを遥々と買ひに出かける姿を想像したゞけでも何だか憶劫だつた。
 日増しに陽が深く部屋の中まで射し込むやうになり、この頃では朝私が眼を醒す頃にはすつかり雨戸が明け拡げられて陽は、奥行の二間あまりしかない部屋を隈なく突き透してゐた。――私は、陽を逃げて、屹度、寝た時とは飛んでもない方向に頭を置いて、それでもまぶしく陽が射して、亀のやうに夜着の中にもぐり込んでゐた。これに辟易して私は、何年振りかで朝起きをするやうになつた。……いつも、春先きの砂浜で昼寝をした時のやうにフラフラと懶い空ツぽの頭で起きあがるべく余儀なくされてゐた。
「これで生活に多少の変化でも出来れば幸福だが――」
 私は、そんなことを思ふこともあつた。
 あたりには丈の高い落葉樹が多く、日毎にその葉が薄れて行くので縁側には殆ど終日陽があたつてゐた。――そこの隅に、以前食膳の代りに用ひた安物の丸テーブルが邪魔になつておし寄せてあつた。
 或る朝私は、そこに絨氈をいくつかに折つて敷き詰めた。そして硝子戸を閉め、その中程に半紙を貼つてテーブルの上だけの陽をさへぎつた。また、畳との境えの障子を閉め、背後には揚幕のやうに布を垂して、そこを恰度一畳敷位ひな広さに区切ると、そこは終日明るい、屋根裏のアトリエのやうな一隅になつた。上部の硝子の隙間から白い空が見あげられるだけだつた。
 私は、隣家から菊の花を貰つて来て塵の溜つてゐる一輪差を洗ひ、簪のやうに差し込んで心細く眺めた。――脚のあたりには深々と陽が射して温室に居るやうな温かさを沁々と感じた。
「八畳よりも此処の方が好さゝうだ。」など、私は思つた。――「近所に借りてある、あの部屋も止めてしまつても好さゝうだ。」
 私は、当分此処で昼間の独りの営みを続けることなどを思つた。友達に会ふことは好きなのであるが、此処には訪れる者もないし、知り合ひの者もないし、散歩はあまり好まないし、いつも私は短い昼間を永く感じながら独りでてれ臭さうな顔をしてごろ/\してゐるのであるが――この一隅を得た時には、玩具を買つた時の子供のやうな心の忙しさと矜りを感じた。
 この中で私は、十五六歳の頃、植物栽培に熱中して、裏の藪隅の日溜りに稍々大きな温室サンルームを拵えたことなどを思ひ出した。私は、温室の隅に小さなテーブルと椅子を置いて、栽培に倦きた体を休めるのが常だつた。
 その中で学期試験の勉強をしたこともあつた。寒い日には、小さなストーブを焚いて、其処に入る時だけ着てゐた作業服を温めたりした。夜も、ランプを点して、遅くまで夜業に耽つたことがあつた。――飼つてゐた犬を毎晩そこに泊らせた。ベン船長から貰つた星の歌をうたふ眼醒時計を歌はせて夜業の区ぎりにした。
 ベンさんとは、その頃写真や手紙を屡々往復したが、一度作業服を着た私が温室の扉の前で犬と一処に写した写真を送つたら、
「私のデイツク・ホイツテイングトンよ。やがて君が乗るべき馬車を送らう。」といふ返事と一処にロード・メーヤーの馬車の写真を送つて呉れたことだけは、今でも私は覚えてゐて苦笑を感ずる。おそろしく汚れてだらしのない作業服の私の姿を、からかつたのには違ひない。――このデイツクは、ロード・メーヤーにはならず、この昼夜兼帯の硝子戸一枚の家の主人にはなつたが、妻子同人の支配さへ出来兼ねてゐるではないか。
 その温室は、漸く一冬は保つたが春になる頃には私は、すつかり倦きてしまひ、母がブツ/\云ひながら植物の始末をした。母家に泥棒が入つた翌朝、一同が家の周囲を検査すると、温室には莚の寝床や酒樽や食物などが散乱してゐるのを発見した。夜々、泥棒が此処を住家にして母家の様子を窺つてゐたといふことが判明して、被害を私のせいのやうにされてしまつたことがあつた。――ベン船長は私の父よりも十歳も年上だが、今では船長をやめて米国費府の田舎に多くの家族を従へて幸福な日を送つてゐる。今では、年に一回、彼からはクリスマスの賀状を貰ひ、私は、年頭に“I wish you a happy new year”と書き送るより他に往復はなくなつた。尤も、いつか私の父が死んだ時の通知は、六つかしく私が書かされた。
「こゝではストーブを焚く余地もないな。――陽のあたらない寒い日はどうしようかしら……」
 そんなことも思ひながら私は、その中で椅子の上に丸くなつて胡坐をかき、居眠りをしたり、絵本を眺めたりした。
「……曇りの日のことなんてどうでも好いさ。それまでには倦きてしまふかも知れないし、その時になつたらまた何か考へが浮ぶだらう、困れば――。……だが、この好い天気は当分保つらしい様子だ。」
 私は、雑誌を読んだり、眼かくしがしてあるので外は見えなかつたから天井を仰いで、戯曲的な空想に走つたり、また不図、ふところに顔を埋めて、故郷に居る母や弟のことを空に思つたりした。――誰の眼にも触れないところだと私は、思ひ切つて芝居染みた思ひや挙動をするのが癖だつた。
 陽の射し具合が強すぎるので私は、いつも其処では帽子をかむつてゐた。
 陽脚に従つて、光りがテーブルの上に落ちたり、顔にあたつたりして煩さかつた。そんなに長い時間を私は、此処に坐つてゐる気もなかつたのであるが、斯うなると私は日向葵とうらはらな心の用意も必要になつた。午後に入ると一層短く陽脚の傾くのが見えたが、その度毎に目かくしの紙をあちこちと貼り換へるわけにも行かなかつた。
 ――「屋外写生の時に用ひる、あのパラソルを買つて来て軒先きに差しかけようかしら、あれなら柄が伸縮自在、折曲も自由になるから具合好く陽を避けることが出来るだらう、こんなに陽脚の慌しい日にも? ――だが、少し小さ過ぎるかも知れないな? 夏、海辺で使ふやつなら大きさは恰度好いかも知れないが、あれは柄が曲らないから駄目か!」
 秋の半ば頃から取りかゝつてゐた或る私の連作的小説を私は、十二月に入つて間もなく書きあげた。
 そして何時も私小説を書いた後に感ずる、誰とも顔を合せたくないやうな心で、私は、この怪し気な日光室の椅子に凭つてゐた。――時には、犯罪でも行つたやうな胸の動悸を覚ゆることもあつたが、今度はそれは稍々軽い気がした。――「毒舌」といふ題をつけたのであつた。はかなく後悔の念にも唆られてゐた。
 自分の息の臭いことを怖れるといふことなどもその小説の中に一寸と書いたのであるが、ふしだらな飲酒と不健康な執筆の揚句で、一層胃が悪くなつたらしく、折角の日光室が刻々に自分の息で濁つて行くやうな気がして、私は時々硝子戸に隙間をあけて外に向つて太い吐息を吐いた。
 この前の小説も今度のも、近所に借りてある部屋で書いたのであるが、斯んな風にこの明るい一隅で沁々と日光に浴してゐると、この次には此処で、何か小品見たいなものを書いて見ようかしら? などゝ私は思つて、も少し此処を完全に区ぎることを画策したりした。
「うしろの幕を扉にして――そして、硝子戸の上あたりに息抜きのやうなものを作らうかな?」
 ――「当分、こゝを俺の部屋にしようと思ふからね……」
 私は、顔の見えない幕の中で、浴室の中から外の者に声をかけるやうに呼ばゝつた。
「部屋?」
「こゝで好いんだよ。」
「ぢや、八畳の方は子供の遊び所にしてしまつても好いの?」
「いゝよ……」――「だけど、寒い日には困るだらうな。」
「寒い時には今迄の方へ行つたら好いぢやないの、――それだつて、今までだつて毎日出かけてゐたわけでもないし……」
「もう好いよ。」と、私は、繊細い声で呟いだ。
 私は、椅子に坐り、テーブルの上に脚をのせてゐた。風がないので、細く吐き出した煙草の煙りは天井まで伸びて行つた。――私は、棚の上からいつか描いた自画像を取りおろして、そこに立てかけて眺めたりした。スケツチ板の小さな油絵である。
 これを見て、これが私の自画像であると思つた者はあまりなかつた。いかにも技が拙くて、似てゐないのである。それでも自分では何となく自分の片影が出てゐるやうに自惚れてもゐたが、今見直して見ると余計な力ばかりを入れすぎて、筆致が奇形にとげとげしくなり、色彩なども極めてあくどくなつてゐるのが好く解つた。或る友達が、何時かこれを見た時に、
「何処かの国の仮面めんを書いたのか? だが、さういふ静物としても……」と、笑ひ、私は一寸と不興を覚えたことがあるのだが、今ではその批評もあたつてゐるといふ気がした。
仮面めんぢやないよ。」と、私は、その時抗議を申したてようとしたが後が続かなかつた。
「山あらしの肖像画か?」と、彼は、更に皮肉を云つた。
「…………」
「そんなにまで云はれたら君もおこりたくはならないかね。」
「え?」
「山あらしの肖像画といふのはね……」
 さう云つて彼は、その言葉の出所を説明したことがあつた。
 西暦千八百十何年かの話である。ノア・ウエブスターがその郷里のハートフオードでその“Speller”を出版した時のことである。この時に著者の肖像画を口絵にして掲載したのであるが、あまり印刷に凝り過ぎたゝめに反つてその肖像画は本人とは似もつかぬ異様なものになつてしまつた。頭髪は針のやうに一本一本逆立つてゐた。そして眼は、ぎよろりとして頭髪と同様な太い線で露はにむき出してゐた。で、この口絵は恰も山あらしの肖像画を掲げたかのやうな怪貌になつた。だが著者は、この印刷を認め、自信を持つて堂々とその下に“Noah Webster”と署して発行した。――ところが常々著者の行動に反感を抱いてゐた村の連中は、この一個所を楯にとつてあらゆる方法で彼を攻撃し嘲笑した。或る者は著者に手紙を送り、宛名をわざと“Mr. Grammatical Institute”と誌した。また“Mr. Squire, Jun.”と呼びかけるやうに書き送つた者もあつた。そして念入りにも遺言状のかたちをとつて――私は、“Speller”の著者某に西班牙貸若干枚を与へる、これはその著書に掲載の肖像画を改版すべき費用のためである、既著の如く著者の醜怪なる肖像を巻頭に掲げるは、その読本に依つて勉学する児童の心を威嚇するものである、終ひには多くの児童の純心を傷け荒ましめ、やがては共和国の前途に憂ひを抱かしむるに至るであらう、速かに著者“Squire”を読本の巻頭より追放すべし……等。初めは笑つて済ましてゐたが彼等の執拗さがあまり凄まじいので終ひに著者は慨然として決闘を申し込んだ。
「そんな話を俺は、いつか何かで読んだことがあるんだよ。」
「君のそんな例の引き方こそ執拗だ、面白くない。俺は、何もこの絵を、展覧会に出さうと思つてかいたんぢやあるまいし……」
「さよなら。――今度かいたらまた俺が見てやるよ。かくんなら、矢張りこれに懲りずに自画像をかけよ……」
「うむ、そのうちにまたかいて見る。」と、私は、玄関を出て行つた親しい友達の後ろ姿に呼びかけた。
「あれ以来絵筆を忘れてゐたが、久し振りでまた自画像をかいて見ようかな。」
 その友達から激励の手紙を貰つたので私は、そんなことを思ひ出して呟いだ。――「こゝで、この中にかくれて秘かにかいて見ようかしら、また山あらしになつてしまつたら誰にも見つからぬうちに破いてしまはう。それにしても今度は、も少し具合の好い鏡を買つて来なければならない、恰度顔だけが写る大きさの鏡を……その鏡を選定するのに一寸と骨が折れさうだ。」
 おや――と、私は思つた。「斯んなに晴れ渡つた好い天気だといふのに可笑しいな? 雨なのかしら?」
 屋根に、ぱらぱらと小粒の霰が鳴るやうな音を聞いて私は、首をかしげた。
 脊伸びをして外を見ると、それは落葉が屋根に散る音だつた。そんな音に気づいたのは初めてだつた。――屋根は、見るからに軽々しい亜鉛板で葺いてあつた。生々しく白い薄つぺらなトタン葺だつた。だから落葉のあたる音までが、その下に住んでゐる人の耳に雨のやうに鮮やかに聞ゆるのであつた。あたりには落葉樹が多かつた。朝夕、狭い庭は狐色の木の葉で深々と埋まつた。

 歯が素焼の陶器になるやうなザラザラを口中に覚ゆる日が次第に多くなつた。トタン葺の屋根に時たま落葉の音を聞いても(今では大概葉は散り尽して、稀にカラカラと鳴るだけだつたが、私の神経はその度に屋根に飛んだ。)そんな日の私に最も毒なあの生々しい亜鉛板がザラザラと眼の先きにちらついて私は、思はず唇を閉ぢて頤を襟に埋めた。
 私は、自画像執筆はとうにあきらめてゐた。
 テーブルの上には、玩具のやうに小さい処々に錆の出てゐる点字機が載つてゐた。これを打つのかと思ふと私は、その旧式で工合の悪い金属性の音を想像して、ひとりでに指先きで歯を撫で廻はさずには居られなかつた。――学生の頃私は東京から父やFに手紙を出さなければならない時には必ずこれを用ひてゐたのである。私は、友達に見つからぬやうに夜中になつて下宿の押入れの奥から秘かにこれを取り出してポツポツと打つのが常だつた。私信の場合に斯んなものを用ひることが許されないのは知つてゐたが、当時一行の文字を書いても直ぐに感傷的になり勝ちな癖から脱れるには怪し気な英文に依るこの事務的な動作を用ひるより他に術がなかつた。でなかつたら私が、あの頃Fに出す手紙はおそらく不気味なラブ・レターになつたに違ひない。
“My Dear Flora, H――”
 私は、胸のうちでこれを修飾的に和訳して胸を顫はせた。和文では恋人に送る手紙でも私にはそんな文字は使へない。極めて非事務的な思ひを込めて、事務的な習慣らしく何気なさゝうに“From, your's, your's”と打ち、心細く S.M. などゝ署名した。父の場合でも私は、父上様などゝ書くのはどうも厭でならなかつた。だから矢張りこれ使つて破れた文字を連ねた。
「どんなに字や文句が拙くつたつて好いからあたり前の手紙を書いたらよからうに。ビジネスぢやあるまいし。」と、父に厭味を云はれたこともあつた。
「悪い癖だ。――私に寄越したこの間の手紙などは二三行でローマ字で印刷してあつた。近頃の書生の間ではそんな真似が流行はやるのかしら……無礼な。」と、母は嘆いた。私は、心持を説明することが出来なかつた。
 その頃Fの小さな従妹であつた混血児のNが、今では大きな娘になつてゐた。Nはこの頃神戸に住んでゐる。その父から、私の父が何か仕残した用件で二三度手紙を貰つてゐるが、私には意味が解らないので返事は出せなかつた。一ト月程前に、そんな用もあり、私が英語は一つも喋舌れないことを知つてゐるので父の代りに、私とは幼時のなじみがある日本語の巧みなNが上京して私と会つたのである。
 彼女が、礼で、私に握手をした時に、何年にもそんなことに慣れない私は、非礼にも顔を赧らめたりしてしまつたのであつた。子供に出す気持で稀に暢気な手紙のやうにとりはしてゐたのだが、いつの間にか私は無邪気な筆は執れなくなり、この間も昔通りに稚拙な和文で暢気な手紙を寄来したNへの返事で、――私は、妻にかくれる程な気持さへ抱き、到頭このボロ点字機を取り出したのである。去年の冬頃私は、これで読み易い古典英詩の抜萃をつくりかけたのであるが、十枚も溜らないうちに厭になつて投げ出して以来、眼も触れずに置いたものだつた。
「雨! 雨!」
 隣室で妻が呟いだ。
「雨!」と、私は、吃驚りしたやうに椅子を蹴つて立ちあがつた。パラパラと屋根に鳴る音には私は気づいてゐたのである。落葉の音とばかりに思つて、歯を浮かせてゐたのであつた。
 みんな葉を落しきつてゐる樹々が、曇つた空に枝を伸べてゐた。見事に、隈なく樹々の枯葉は落ちきつてゐた。

 Nからは、その後何の音信にも接しなかつた。――此方の手紙があまりに乾燥無味なのに興を失ふたのかも知れない――などゝ私は、成るべく自分に都合の好いやうな、それにしても一寸寂し気な苦笑を浮べた。
 また、冬らしい麗らかな日が続き始めたので私は、相変らず昼間のうちは日光室の幕の中で、この頃では主に居眠りばかりを事にしてゐた。うつかりして、陽が落ちる頃までそこにうづくまつて、急に硝子戸の寒さを覚えて飛び出すことがあつた。――「カーテン位ひではとてもこの先きこの硝子戸の冷たさを防ぐことは出来まい。あの昔の温室にだつて夜になれば莚を掛けて寒さを防いだのだ。」
「近いうちにお前の云ふ通りなカーテンを買つて来て貰はうかな。」
「風がある日には、それだけでも堪らないでせうね。」
「この辺は屹度、埃りも酷さうだ。」
「家が狭ますぎるわ。」
「鉄の大きなストーブを焚くことに仕ようかな。ヲダハラの家に、火事で一遍火は浴びたと思ふが、ずつと前に山の工場で作つた大型のストーブが、たしか今でも物置きの隅にあつたやうな気がするんだが、多少修繕をしたら使へやしないかしら……」
「だつてそんな置き所もありはしない。」
 私は、既に考へてゐたやうにすらすらと説明した。「玄関に置かうと思ふんだよ、煙突をつけて。田舎らしい感じが出てゝ好くはないかな。――さうすれば、たつたこれだけの家だもの、忽ち家中が……」
「馬鹿/\しい。石油ストーブ位ひで丁度好いんぢやないの。」
「御免だ。――薪か石炭を焚くんだ。さうすれば玄関だつて一種の居間にならないこともない、二畳敷の広さはあるし――。利用するんだ。バルコンもあるし、炉辺も出来るわけだ。」
 彼女は、問題にしなかつた。それよりも私がまたどんな突拍子もないことを云ひ出すかを不安に感じたらしかつた。
「玄関などの必要はない。」などゝ私は稍々無気になつて呟いでゐた。この小さな家全体が、常習を破つて山の番小屋のやうになるのも好い、あたりには出たらめに椅子を散らかしたり、寝転びたければ畳に寝転ぶし、襖や障子は一切取り脱してしまつて、カーテンだけに囲まれてゐるガラン洞にするのも反つて便利かも知れない……そんな風にでもしなければ子供までもせゝこましくなつてしまふかも知れない、俺は、あの頃山の番小屋にやられたのであるが、その時はもつと/\活気に充ちてゐた筈だ、この生活が悪いのだ。
「それ位ひなら、ほんとの田舎に越しませうよ。」
「直ぐといふわけには行かないもの。」と、私は、稍々醒めて不平さうに答へた。
 翌日、陽はあたつてゐたが、風のある乾いた午後だつた。前の晩に私は、そんな馬鹿気た想ひを助長させて終ひに彼女を多少脅やかしたらしかつた。――私は、こんな日には此処の日光室に入るのは厭だつたのだが、白けた気分でその中にかくれてゐた。自画像も点字機も上の見えない棚に載つてゐた。私の心は、完全な無精に陥ちてゐた。
 もう落ちる葉はないので屋根には音はしなかつたが、埃を含んだ風が其処を吹いてゐるのかと思ふと私は、また悪く歯が浮いてしまつた。そんな屋敷を戴き、薄つぺらな硝子戸に隔てられて――直ぐに取り消さずには居られないやうな痴想にのみ走つてゐる自分が、首を縮めて、たゞ徒らに歯を浮かせてカチカチと鳴してゐる姿を、私は、瞑目して想像するより他はなかつた。硝子戸は少しばかりの風にも音をたてゝ鳴り、テーブルの上には字がかける程に埃が積つてゐた。私はぼつとして、そこに、指先きで、塀の落書のやうな人の顔を、かいたりした。――ザラ、ザラ、ザラ……浮くだけ浮いたらこんな歯の病ひなんて収まるだらう――私は、指先きに力をこめて縦横にテーブルの上をこすつた。
 ――「また、当分夜昼を取り換へてしまはう。」
 夕暮に眼醒めて、鼠色に汚れたカーテンの中で、無意に、酒に酔つてゐる方が好さゝうだ――何にもいらない、誰かに笑はれないうちに斯んなところも取り片づけてしまはう、借りてある部屋をあの儘にして置けば、あそこで昼寝も出来る。
「もう、例年の如くベン船長に賀状を出す日も近づいたが、今度は一寸とデイツクの近況も書き添えてやらなければなるまい、父に丁寧な弔状を貰ひ、その後別にデイツク(彼は、いつの頃からか私をさう称んでゐた。)の近況を知りたいといふ手紙も貰ひ放しになつてゐる。さうだFからも――(ベンさんにはいつも勿論私は当り前にペンで書いてゐる。そしてFにも、この四五年以来は――。)……斯うなると面倒だな。今年あたりを区ぎりにして彼等の記憶から自分を消してしまふのも、もう好い頃ではなからうか。」
 そんなことを私は退儀に思つてゐたが、テーブルの上に据えてある吸入器が噴きはじめたので、その楚々たる湯気で静かに口腔を湿ほし続けた。――久しく使はないうちに子供に蒸汽機関の代りに玩具にされてすつかり役に立たなくなつてゐるのを知つて私が、二三日前に買つて来た新しい吸入器である。
(十四・十二)

底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第二十三巻第一号」新潮社
   1926(大正15)年1月1日発行
初出:「新潮 第二十三巻第一号」新潮社
   1926(大正15)年1月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2010年5月23日修正
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