小田原から静岡へ去つて、そこで雛妓のお光とたつた二人だけで小さな芸妓屋を始めたといふ話のお蝶を訪ねよう――さう思ふことゝ、米国ボストンのFに、最近の自分の消息を知らせなければならないこと――。
 この二つのことだけは、近頃彼が、自ら例へて冬籠りの地虫の心になつてゐる因循な頭に、いくらかの積極性を与へた。母や清親などゝ野蛮な争ひをした揚句、その儘周子と三歳の英一を伴れて東京へ来てしまつた彼だつた。
 だが彼は、父が生きてゐた頃も母とは幾度も争ひはしたことがあるので、今度だつてそんなことでは憂鬱を感ずるどころではなかつた。母などとは、あんな騒ぎは忘れた顔をして、顔もあからめずに会へる気がした。苦い発作的の感情に、一時はカツとして向ツ肚をたてるが、根が安価な心の持主である彼だつたから、一瞬時後には呆然たる魚のやうにピツカリと洞ろな眼を挙げてゐるばかりだつた。恬淡ではない、狡くて、光りを知らない痴呆性に富んだ男に違ひないのだ。
 いつもの通り彼は、午過ぎまで寝床の中に縮んで、痴想に耽つてゐた。
「もう、そろそろほとぼりも冷めた時分だらうから、小田原へも行つて見ようかな? 阿母がいくら頑張つたつて、親父の生きてゐる時分とはわけが違ふんだからなア!」
 彼は、上向けに寝て図太く冷い微笑を浮べてゐた。
「ひとつ、威厳を取り戻して来てやらうか……」
 悠々と彼は、煙草を喫した。襖が立て切つてあつたから、煙りは静かに天井まで延びて行つた。――(平気なものだ、何と落ちつき払つてゐることだらう。)
 彼は、一杯含んだ煙りを、大きく口をあけてハア、ハア、と吐き出しながら漠然と胸の拡がる思ひに打たれたが、ふつと醒めて煙りの中に清親や母の姿をはつきり感ずると、忽ち胸は冷汗に充たされてしまつた。
 口先きだけは花々しかつたが、一たまりもなく腕力家の清親にねぢ伏せられてしまつたぢやアないか――彼は、思はず自分の額をピシヤリと平手で叩いた。そして、痩ツぽちの癖に、袴を腹の下に絞め、襟をはだけて、奇妙に太い作り声を挙げて豪放を構えてゐた自分が、清親の腕につかまれると、藁人形のやうに軽々と撮み出されてしまつた光景を回想して、彼は、陰鬱に顔を歪めて、深く蒲団の中へもぐつてしまつた。――彼は、堪らない溜息を吐いた。
 そんな幻は払ひ落さうとして、彼は、首を振つたり、肚に力を込めたりして躍気になつたが、相手の横意地の方が強かつた。……彼は、映画に写つた己れの姿を、否応なく見せられなければならなかつた。
「礼儀を弁へぬにも程がある。」と、母の乾いた唇が細かく震へながら呟いだ。
「青二才の酔ツ払ひなんぞは……」と、それでもいくらか息を切らせた清親が、静かに盃を取りあげて、笑つた。「チヨツ! それにしても意久地のない男だな。」
「もつと酷い目に合せてやれば、よかつたんです、小面の憎い。」と母も苦笑した。
 ――彼も、今、もぐつた寝床の中で苦笑を洩した。と、彼の冷汗は、暗闇の中で奇妙に溶けて行つた。
「まつたく好い気味だつた。誰だつて、あの光景を眺めてゐた者は思はず溜飲をさげたに違ひない。」
 彼は、自分の惨めな姿を、セヽラ笑つてまつたく溜飲のさがる気がした。張り切つたゴム風船を、一気に踏み潰して、ポンとあつけない音を耳にした時のやうな、洞ろな晴々しさを感じた。反つて、冷汗に閉され、筒抜けた因循に沈んで行く身心に、不意と溌剌たる光りを感じた。
「……ところで、まア当分小田原行きは控へて置いた方がよさゝうだ。」
 蒲団から首を出して彼は、力なく煙草を喫した。――あの時、周子も傍観者の一人だつた。いくら味方だつたにしろ、水中に投げ込まれた蝉のやうに次第に鳴りを秘めてしまつた俺の姿を眺めたら、一瞬間は道徳的理性を離れて、わけもない小気味好さを感じたに相違あるまい、当人の自分でさへ斯んな気がするんだから……いや、一瞬間どころではあるまい、口にこそ出さないが、彼女の東京に来て以来の図々しい態度から察しても、彼奴は無反省な馬鹿な女だから、あんなところから知らず識らずこの俺を軽蔑する程度が強まつたのかも知れない――。
 彼は、そんなことを思つて苦い顔をした。母達に対しての自分の惨めな姿は、こんなにも脆く凋んで、反つて光りを放つたが、相手が周子となると、彼の頑なゝ心は石のやうに武張つた。母の頑迷を醜くゝ思つた彼だつたが、母にも増した小賢しい、小人の心の動きを圧えることが出来なかつた。――彼の前で彼の母は、よく周子を批難したことがあつたが、今では時々彼は、その母を親しく思ふことがあつた。
「だけど考へても御覧な! 一体周子の何処に取り得があるの?」と、母は云つた。
「まつたくね。」
 私だつて承知してゐますよ、といふ風に彼は、にやにや笑ひながら盃を傾けてゐた。斯んな場合が、夫々この賤しく独り好がりな母と悴が、陰険な親し味に溶け合ふ場合だつた。だが肚の底では、互ひに愚かな優越を感じ合つてゐるのだ。――私達の云ふことも聞かないで、勝手に結婚なんてした罰さ、何と云はれたつて文句は云へまい、どうならうとお前のことなんて知らないよ、だ、態ア見ろ! ――母の心は、さう呟いでゐるし、また彼の心は、(低級な、悪い文学々生の臭気が抜け切れない彼である。)――俺は、利口ぶりの人間の顔を見てゐるのが好きなんだ、何とも云ひやうのない愉快を感ずるよ、さういふ相手に接すると俺は、巧みに其奴を煽てゝやるんだ、決して喧嘩なぞはしないね、互ひの愚を観察することは面白い仕事だ、ねえ阿母さん、――そんな他愛もない遊戯に耽つてゐた。
「琴なんぞは今時出来なくつても好いんだらうが、お茶のいれかたも知らないし、生花はおろか……」
「料理の法も一つも知らないし……」と、彼は伴奏でもするやうに附け加へた。
「春夏秋冬、懸物の懸換へ……」
「ハツハツハ。」と、彼は仰山に笑つた。「懸物なんぞ……床の間なぞの存在を知るものですか、――。暑い日には、暑いと感じ、寒い日には寒いと、おぼろげに意識するだけですよ。」と、彼は自分のことを云つてゐるやうな気がした。
 意識とか、感じとか、存在とか、何々的だとか、そんな言葉を臆面もなく彼は、母親などの前で使つた。
「学校などの成績は、どうだつたんだらう。」
「たしか中途で止めてしまひましたぜ。」
「親は親で、あの通りだし……」
 母は、さう云つたが、彼が余り易々と妥協するので、いくらか退屈を感じたらしい苦笑を浮べた。「手紙ひとつ書けないぢやないか、あの厭らしい文句はどういふわけだらう。」
「手紙?」と、彼はハツと思つた。が、まさかと高を括つて「手紙は私だつて書けやしないぢやありませんか。」と、ごまかすやうな笑ひを浮べた。東京へ行つてゐた間、母に手紙の返事を彼は、時々書いたが、よく母は彼の手紙の文章中の嘘字や仮名使ひの誤りの傍に線を引いて、返送して寄したものだつた。
「男とはわけが違ふもの。」と、母は云つた。母から、そんなに云はれたことは始めてだつたので、彼は軽い優越を感じた。だが彼は、母が何時何処で周子の手紙を見たのだらうか、と考へて見たが思ひ当らなかつた。未だ周子と結婚しない前、たしか四五度手紙の往復をした以外に手紙のある筈はなかつた。その手紙だつて、彼のにしろ周子のにしろ、出たら目ばかりに違ひなかつたから、一つだつて彼の記憶に残つてゐなかつた。
「周子の手紙なんぞ、どうして見たの? 阿母さんに寄したことがあるの?」
「お前に私が此間借りた本の間にはさんであつた、手紙ぢやないと思つてうつかり読んでしまつたのは悪かつたが――」
 母は、さう云ひながら茶箪笥の上に手を延して、部厚な本を彼に渡した。彼は、稍慌てゝ箱の中から、書物を抜き出した。無造作に畳んだ紙片れが、こぼれ出た。それでも彼は、思ひ当らなかつたので、拡げて読んだ。
(おなつかしきお兄様、御帰省なされていかにお暮しですか、周はいつぞやお兄様と日比谷を散歩したときのことを嬉しく思ひ出してゐますのヨ、あの時のお兄様のおやさしきお言葉……おゝ周の小さな胸は高鳴ります……詩をつくりましてよ、ホヽヽ、お見せしようか、よさうか、でもお笑ひになりはしないこと、それは/\拙いのよ、ホヽヽ。)
 読みかけて彼は、凝つとしてゐられなかつたが、辛うじて酒で紛らせて、
「手紙ぢやないんですよ、誰かのいたづら書きでせう。」と云ひながら、母に気づかれないように、ふところの中でそつと苦茶苦茶にまるめた。
「せめて体の丈夫なところが取得かね。」と、母は蔑んで笑つた。
「体だつて、此頃はさつぱり丈夫ぢやありませんよ。」
「だけど、それはお前が悪いんだもの。」
 遠くの、斯んな種類の家庭に伴れて来られて、常にそんな風に扱はれる周子の身を慮つて、彼は憐れを覚えた。彼女は奥の部屋で、意地悪な夫と姑の微かなセヽラ笑ひを耳にしながら、兄弟や両親のことを考へて、鬼の住家にでも囚はれの身になつた想ひに走つてゐることだらう――彼は、そんな風に察したりした。
 それにしても、東京に来てからの彼奴の我儘はどうだ! と、彼は、ひとりで力んだ。無能、無智、不器用、そのやうな周子に、嘗て彼は、安易な組みし安さを持つてゐたのだが、それに無神経な露骨な自我を加へたこの頃の彼女には、辟易せずには居られなくなつた。はじめて主人といふものになつた彼の、小賢しい焦慮もその不用意な胸や頭を醜く、歪めてゐたには違ひなかつたが。

 今日こそは、Fに手紙の返事を書かなければなるまい、彼女も結婚して三年目ださうだ、そして一人の子の母になつたといふ話だ、……そしてこの俺も、周子と結婚して既に五年か!
 彼は、今更のやうにそんなことをぼんやり考へたりした。だが彼のやうな消極的な青年に、青春を謳歌したり、結婚を悔ひたり、新しい恋を求めたりする程の溌剌さはなかつたが、妄想の遊戯で、稍ともすると底の見へ透いた怪し気な想ひに走つた。今になつてFの姿を、こんな形ちで思ひ出すなどは、大変徒らなことに違ひなかつた。
「あゝ、厭だ/\、周子、周子。」
 彼は、力もなくそんなことを呟いだ。
 彼が三歳の時、妻を嫌つて(多分さうに違ひない、と彼は久しい前から断定してゐた。)外国へ行つた父である。少しく無法過ぎるところが不快だが、もう死んでしまつた父の話である、そして昔のことである、お伽噺のやうなものだ――彼は、お伽噺の主人公である父の衣服を借着して、遥々と海を越えて行く薄ら甘い情けなさに酔つた。
「ヘンリーは死んでしまつたが、彼の忠実な悴は、丁度彼が、昔々、彼の妻子を棄てゝこの国を訪れて来た時の心に比べて、何の新しさも持たない僕が、斯うしてたつた今お前の国に着いたところだよ。」
 彼は、先づFにさう云はなければならなかつた。ヘンリーといふのは、異国の友達の間で称ばれてゐる父の字名である。和名の、頭文字のHをとつたのださうだ。
「お前のやうな臆病者が、好く独りで海を渡つて来られたね。」
 Fは、青い眼を輝かせて、おどおどしながらあたりの見慣れない風景に見惚れてゐる彼の肩を軽く叩いた。
「この頃は、臆病ではないんだ。臆病でなさすぎる為に、母や妻や子と別れて斯うして遥々と出かけて来たんぢやないか。」
「お前の笑ひ方は、ヘンリーに似てゐるよ。」
「F! 結婚してお目出たう、大変云ひおくれてしまつた。」
「お前にも同じ言葉を返さなければならない、ワタシは。」
「それを快く享け容れられる位ひなら、僕はお前の国へは来なかつた筈だ。」
「バカ!」
「お前に、いつか貰つたオペラ・グラスを僕は今でも持つてゐるよ。此方へ来てお前と一処に芝居へ行かうと思つて、あれはちやんとトランクの中へ入れて来た。」
「お前は、あの時分、ワタシに微かな恋を感じてゐたのぢやなかつたかしら?」
「――僕は、NとNの母に会ひに来たんだ。」
 Nは、彼の見たことのない混血児の妹なのだ。Nの幼い写真は知つてゐる。Nの母も写真では知つてゐる。口で云ふ程彼は、NやNの母などに会ひたくはなかつた。漠然と彼女等の存在を思ふと、たゞ薄気味悪い気がするばかりで、会はずに済んで来たものならその方が楽だつた。Nのことを、まざまざと考へると父に対する好意が消えさうにもなる。得体の知れない嫉妬さへ覚ゆるのだ。
「勿論そのつもりだらう、そしてその案内役は勿論ワタシでなければならないね。」
「いや、今云つたことは嘘なんだよ、NやNの母などには会ひたくはないんだ。」
 ――僕もこゝに永く滞在して、父がN達を得たやうな真似がしたいんだよ――彼は、斯う云ひたかつたのである。

「着物を畳まうとしたら、袂の中からこんなものが出て来た、今朝!」
 周子は、用箪笥から、手の平に握りかくせる程小さな、古いオペラ・グラスを取り出して彼に示した。「どうしたの? こんなものを小田原から持つて来たの?」
 彼は、大きな秘密でも発かれたやうに、喉の詰る思ひがした。
「いや、此間友達に貰つたんだ。」
「嘘々、あたしこれ確かに小田原で見たことがあつた。」と、周子は無造作に笑つた。「あたしに呉れない。」
「そりやアやつても好いがね、そんなもの誰にだつて必要ないぢやないか!」と、彼は、口を突らせてうなつた。ぢや、どうしてあなたは斯んなものを袂になぞ入れて出掛けたの? と、云ひ返せば彼がどんな返事をするか、彼自身にとつても解らなかつたが、
「でもよ、たゞ玩具によ。」と、周子は軽く笑つたゞけで、別段興味もないらしく火鉢の傍に投げ出した。彼も、知らん振りをして、ついこの頃になつて初めた晩酌の盃を傾けてゐた。
「ひとりで一升のお酒が、二晩目には足りないのよ。随分あなたは此頃お酒が強くなつたわね。」
 周子は、そんなことを云ひながら酒の代りを取りに立つて行つた。強くはない、大概彼は、寝る時は夢中だつた。何を喋舌つたか? どんなことをしたか? それが後になつて解らないのは随分薄気味悪るかつたが、それも毎日のことゝなると慣れてしまつた。動き、喋舌り、笑つたり、憤つたりしながら、顧ると、凡てが茫漠として、死のやうな平静――生きて、眼醒めてゐる時に左様な時間を与へられ得る――そんな風に意味あり気に考へて、わざとらしく不思議がつたり、愉快がつたり、そして酔を心易く思つたりした。
「そりやア、強いさ!」
 オペラ・グラスに就いて、周子が淡白だつたので彼は、ホツとして、気嫌の好い声を挙げたのである。そして無理に酩酊した調子で、
「われは眼に太山を見るなり……荘周夢に胡蝶となり、栩々然として胡蝶となり、か。自ら愉して心に適するや、周なるを知らず、俄然覚むれば即ち邁々然として周なり、周の夢に胡蝶となると、胡蝶の夢に周となるとを知らず……どうだア。」などと、鼻にかゝつた声で吟誦した。
「葉山さんの真似なんぞはお止めなさいよ、柄でもないわ。」
 葉山といふのは、酒飲みの老医師だつた。彼が、父に死なれて悄気てゐた頃、酒の相手になつて葉山氏が、好く彼を慰めて呉れた。葉山氏は、漢詩を作つたり南画を描くことに堪能だつた。
「鞭長しと雖も馬腹に到らず、だよ、事を成すは天に在り、さ。」
 少し酔つて来ると葉山氏の調子は、悉くそんな風だつた。彼には、はつきり解らなかつたが、葉山氏の詩吟で練へたといふ壮朗な音声には打たれた。
「抑々、支那の昔から、生物界は之を別ちて五虫となした、鱗虫即ち竜を長とし、羽虫即ち鳳を長とし、毛虫即ち麟を長とし、介虫即ち亀を長とし、そこで君、人間は何となるかな?」
「知らないですな。」
「万物の霊長だなんて自惚れちやいかんぞ。」
「さうですか。」
「当り前さ、人間は即ち裸虫と称するんだ。」
「ふむ!」
「厭に感心したね、――汝、裸虫よ、嘆くなかれ、眼に太山を見よ、ハツハツハ。」
 一寸感動すると、自信のない彼は、直ぐにその真似をするのが癖だつた。
「真似とは何だ! 失敬な。」
「阿父さんと一処に飲んでゐた頃は、阿父さんの口真似ばかりしてゐたぢやないの。この頃は、またあの藪医者の真似か――もう少し経つたら今度は誰の真似になるでせうね。」
 周子は、そんなことを云つた。葉山氏ともだんだん遠くなつて来た、まつたくこの次はどんな種類の酔漢になるだらうか――彼も、ふとそんな馬鹿な気がすると、軽い好奇心を感じたりした。
「藪医者とは何だ、失敬な。」と、彼は一刻前と同じやうに威張つた。「俺だつてそれ位ひの文句は知つてゐるんだ、即ち同じ裸虫と雖も……」
「もう止して下さいな、折角子供が寝たところなんだから……」と、周子はなだめるやうに云つた。――彼は、無気になつて威張つたわけではなかつた。周子を、ごまかしたのだ。彼は、食膳の下のオペラ・グラスを、そんなことを喋舌つてゐる間に、そつと取つて懐中に忍ばせた。よかつた、と思つた。――十年も前にFに貰つた遠眼鏡である。大火の時に運び出された荷物の間に、彼は中学の時に使つた手文庫を見つけ出したので、何気なく開けて見たら隅の方に、昔彼の父が幼少の彼に送つた手紙の束と一処に、入つてゐたのだ。原稿などを入れるに、鍵がついてゐるから都合が好いと思つて彼は、出京する時の荷物の中に箱を収めて来た。
 芝居気のある彼は、そんな眼鏡を、この頃漫然と外出する時は、そつと内ふところに隠して出かける習慣をつくつた。そんな微かな秘密が、稚戯を喜ぶ彼の心に、仄かな明るさを宿した。
 ――前の晩彼は、泥酔して帰つて来た。友達が載せて呉れたタクシーの中で、彼の軽い体は、毯のやうにはづんで、座席から床に何度も振り落された。どうして、そんな処で降されたのか、おそらく彼が間違へて止めさせたのだらう、青白い瓦斯灯がぼツと煙つてゐる寂とした公園に彼は、立つてゐた。彼は、わけのわからぬ歌を、ブツブツと口のうちで呟きながら歩いてゐた。酔つてゐる頭が、軽くフワフワして、彼の胸には、変に暖く、賑やかな渦が、瓦斯灯の光りのやうに淡く点つてゐた。――また、家同志の話で、周子と醜い口論をした上句、カツとして飛び出したことなどは、すつかり忘れてゐた。
 暗い、夜更けの公園だつた。
「何も彼も懐しい、懐しくつて堪らない、照子、F……いや、周子だつて相当懐しいぢやないか!」
 彼は、そんなことを呟いだ。「親父だつて懐しいが、死んでしまつたんぢやお話にならないね。親父の印象も一日一日と遠ざかつてゆく、面白いぢやないか、お伽噺になつてくるんだもの。この冬が過ぎると、一年の喪といふものが明けるわけかな、一年、三年、七年……そんなことは、どうだつて関はないんだが、こんなにも脆く親父の印象が遠ざかつて行くかと思ふと、一寸彼に気の毒な気がするな、この分で行くと、春にでもなつたら、さぞかし俺の心は伸々として、朗らかに晴れ渡ることだらう……それにしても、今晩は、ばかに寒いな!」
 彼は、襟の中に頤を埋めた。ふところにこもつた酒臭く熱い息が、あかくなつた鼻を衝いた。――彼は、歩きながら、ふところの眼鏡に、そつと手を触れた。
「F……暫く、とても手紙は書けさうもないよ、お前の要求どほりな! つまり、ヘンリーが死んだとなると、NとNの母のことが、どんなに俺の心を不安にするか、お前には好く解るだらう、さうなるとお蝶といふ女の話もお前にしなければならないんだが、そんな話をするとヘンリーに対するお前の好意が薄らぎはしなからうか? NとNの母が、どんなにヘンリーを憾むだらうか? なんて、ヘンリーの、実は忠実な悴は心配するのさ、あの頃のヘンリーの家庭、つまり俺たちの家庭が、どんな風で、何故彼が放蕩者になつたか? そのことも話さなければならないんだ、だから、どうかヘンリーを放蕩者だと思つてくれるな、お前のダツデイは、ヘンリーの親友ぢやないか、そしてお前は、俺の親友だつた、かな? NとNの母の消息を出来るだけ多く知らせてくれ。――いつそ俺は、思ひ切つて、この冬が去つたらお前の国を訪ることにしようかな……」
 彼は、暗く重く心細いものに胸を塞さがれる思ひがした。
「これは、みんな嘘! Nも、Nの母も、ヘンリーも、俺は何とも思はないんだ、F! 俺は、お前だけに会ひたいんだよ、手紙の書けない理由も解るだらう。――馬鹿奴。」
 それも嘘のやうな気がした。彼の、酔つた感情は、単純で常に支離滅裂だつた。泣き上戸、と云はれたことがある、威張り上戸だ、とからかはれたこともある、母からは、気狂ひだ、と云はれたことがある。
「うーむ、苦しい、あゝ酔つた/\。」
 ――暗闇だ、人通りはない、多少の奇行を演じたつて差し支へはあるまいな――。
 彼は、熱くなつた眼に、手巾の代りにふところから出した遠眼鏡を、ぴつたりと圧しつけた。(涙なんて、滾れるのが不思議ぢやないか、拭いてしまへ/\。)――彼は、立ち止つた。そしてオペラ・グラスを当てた眼を空へ向けた。青く澄んだ空だつた。ところどころに星が光かつてゐたが、硝子が曇つて直ぐに見へなくなつた。彼は、眼鏡の視度を調節する輪を、無暗にクリクリと動かした。青黒い空が、近づいたり遠退いたりした。今度は、公園の夜の景色を眺めて見よう――そんなことを思つた時、彼は、酷い眩暈を感じて、危ふく倒れるところだつた。と同時に、突然魔物に襲はれる怖ろしさに怯えて、夢中で、動物園裏の家まで駈け込んだ、袂に投げ込んだ眼鏡が、石のやうに痛く手首に打つかるのも関はなかつた。
「芝居を見に行つたの、あんなものを持つて! 昨夜は?」と、周子は笑つて訊ねた。いくら酔つてゐたとはいへ、あんな馬鹿/\しい動作をしたり、感傷に走つたり、他合もない恐怖に襲はれたり、加けに駆け出したりしたことを思ふと、誰にも見られなかつたから好さゝうなものなのに、彼は、恥しさのあまり身の縮む思ひがした。
「行かうかと思つて、出掛けたんだが途中で厭になつて友達のところへ行つたんだ。」
「何処?」
「何処だつて好いぢやないか。」
「あなたは、何でも遠回しに思はせ振りな云ひ方をするのが好きね、遊びにでも何でも行つたら好いでせう、一端怒つて出掛けた位ひなら――」
「今日は、俺を怒らせないでくれ、頼むから。怒ることを考へると、面倒臭くつて仕様がないから。」などと彼は、有耶無耶なことを呟いで、優し気な声で哀願した。
「怒つて出かけたつて、ちつとも怖くはないわよ、直ぐに帰つてくるから。」
 彼は、ムツとしたが、まつたく今云つた通り、何の変化もない怒りの道程を方程式に依つて繰り反すことの煩しさを思ふと、堪へることの方が遥に楽な気がした。こんなことは珍らしかつた。
「俺が、阿母や清親の奴と、あんな風になつて此方へ来たものゝ、俺は決してお前を甘えさせはしないよ。第一、お前なんぞを味方だとも何とも思つてゐやアしない。」
「あの位ひ苦しい思ひをすれば、沢山だ。」
 周子は、もう聞き飽きたといふ風に白々しく呟いだ。
「第一俺は、貴様の家へなどは決して行かないよ、交際しないんだ。」
 危いな! と、彼は気附いたので、続かうとする言葉を呑み込んだ。
「えゝ、いゝわ、あたしだつてその方が反つて気が楽ですわ。」
 珍らしく逆はないで周子は、物解りの好さを見せつけるやうに点頭いた。一寸、取り済して眼を伏せた鼻の低い女の横顔を眺めると彼は、軽い反感が起つて、何かもう少し憎態な言葉でも吐きたかつたが、何よりもこの晩は、波瀾なく酔ふことを欲してゐたのだ。――殊に目立つて、彼のこの頃の癖で、如何にも潔癖らしく口先きだけは云ふが、心はいつも極めて弱々しかつた。胸の底は、酒にでも酔はない限り、いつまでも微かに震えてゐた。彼の頭には、何の光りもなく、鈍い神経が日増しに卑屈に凋んで行く、可笑しい程惨めな影が自分ながら朧気に感ぜられた。――口を利けば利く程憂鬱になる、独りで凝つとしてゐると消えかゝる蝋燭のやうに心細くなる――そんなことを思つて彼は、独りで薄ら笑ひを洩した。低い心のレベルで、二つのうらはらな心の動きを眺めてゐるうちに、動けば動く程消極的に縮んで行く玩具のコマになるより他に術がない気がした。どうかね、東京の「新生活」は? などと友達に訊ねられると、彼は、にやにや笑ひながら「こうなつてから僕は、気分がすつかり明るくなつた。」などと答へた。そして――(だが、気分なんぞは明るくつたつて、暗くつたつて、言葉次第のことだからな。)明るいと云つたつて嘘とも思はないんだが、一寸彼は、胸のうちでそんなことを呟かずには居られなかつた。
「楽は好いが、図々しいのは困るぜ。」
「そんなことばかり云ふ、あなたが我儘なのよ。」
「逆はないやうにして貰ひたいんだ。」
「自分こそ図々しいのに気がつかないの?」
「さういふ風に、一つ一つ反対しないで、少しは素直に点頭くものだよ。」
「そんなことを云つてゐた日には、どんな酷い目に遇ふか解つたものぢやない、自分の心のまがつてゐるのも気附かないで――」
「まがつてゐたつて、まがつたなりに素直なら好いだらう、例へば大工の物差しは、あのやうにまがつてゐたつて、それでちやんと役に立つんだからね。」
 波瀾をおそれてゐた彼は、笑つて、そんな出たら目を喋舌つた。周子は、つまらなさうに顔をそむけた。
「春になつたら、俺はアメリカへ行つて来たいと思つてゐるんだ。」
 さう云つて彼は、アツ、こんなことは口へ出すんぢやなかつた、と思つたが、徒らに口に出す位ひでは、これは芝居気に違ひない、決心なんてついてはゐないんだ――そんな気がして、彼は、安ツぽい夢を払つたやうな安堵を感じた。
「ハツハツハ、嘘だよ。」
「何云つてんのさ、もうお酒はお止めになつたらどうなの? 十一時過ぎよ。」
「まア好いさ、いろいろ俺は考へごとがあるんだから……」
「ぢや、あたし寝るわよ。」
「どうも貴様の病気は怪しい、誇張してゐるに違ひない。」
「勝手に思つたら好いぢやないの――自分の悪いことは棚にあげて……」
「春になつたら、また当分田舎へ……」
「春になつたら、とは何さ、同じことばかり云つてるのね。田舎と云つたつて、あたしはもう小田原は御免よ。」
「俺も小田原は御免だ。だがいつかの熱海の家は、借金の形に取られてしまつたといふ話ぢやないか。」
「と云ふ話も何もあるもんですか、あなたがバカだからよ。」
 そんな話で、バカだからなどと云はれると彼は、俺はお人好しだから俗事には疎いのさ、といふ風な途方もない虚栄心を誇つた。実際には何の口も利けないが、自分の物が失れた話を聞いたりすると、夥しく小さな吝嗇の心が動いて、極めて恬淡でない通俗的な疳癪が起るにも関はらず――。
「取られるのは当り前ぢやないの。」と、周子は他人の不幸を冷笑するやうな態度で続けた。「あなたの家なんて、皆な借金ばかりで固まつてゐたやうなものさ、小田原の地所だつてもう間もなく取られてしまふだらうツて、うちのお父さんも云つてゐたわよ。」
 彼は、グツと苦い塊りに喉を突かれたが「仕方がないさ、ぢや田舎行きもお止めか、どうならうと、僕なぞは始めからそのつもりだから、平気なものだ。」と、云ひながらも周子の父親の顔を想ひ描かずには居られなかつた。――彼が、周子と結婚した当時、彼女の家は翌日の食に不安を覚える程の貧窮だつた。その頃、彼の家は形だけは幸福だつた。彼の父は、蜜柑の山を見廻つたり、鶏を飼つたりして、老境に入る支度をしてゐた。遠い国に混血児の妹がある――その事すら彼は知らなかつた頃である。彼は、叙情的な詩をつくつてゐた頃だつた。
「タキノや、家が斯んなに貧乏だつていふことが知れると、お前ら家へ行つて周子が辛い思ひをするだんべエから、黙つてゐて呉れろうよ、おらがお父ちやんだつて、そのうちには盛り返す、おらがついてゐるんだから……」
 房州辺の、あくどいなまりで周子の母は彼にそんなことを頼んだ。間もなく周子の父は、様々な事業を携へて、彼の父を訪れた。彼の父は、今迄多くの事業で失敗し、未だ余憤が消えてゐなかつた為か、忽ち形もなひ製薬株式会社の社長になつたり、東北銀行創立、専務取締役になつたりした。周子のところでは、大崎の裏長屋から、目黒に家を買つて移転した。――東京から様々な人々が出入して、彼の父は滅多に家に帰らなくなつた。彼の父は、お蝶と親しくなつた。自動車などが、定期で借り切つてあつた。お蝶の家の門口には朝鮮信托会社小田原出張所などといふ札が掛つてゐた。
「さういふ話は、沁々と俺は、もう飽きてゐる。」と、彼は眼を瞑つて云つた。
「でもね、あたし達は好いけれど英一が可愛想だから、残るものなら何とかしてやらうツて、うちのお父さんが云つてゐますよ。あなたから、好く頼んだらどう? お坊ちやんがつてゐられる事でもないし、場合だつて……」
「そのうち頼まうよ。」
 彼は、横を向いて力なく呟いだ。
「東京へ来てツから、すつかり意久地がなくなつたのね。」
 周子は、さう云つてこころよげに笑つた。

「父の百ヶ日前後」の頃には、愚かなりにも彼の心に病的な緊張があつた。父の幻を生々と、心に蘇らすことが出来た。今では、その幻も「お伽噺」となつて哀れな余影を、彼の眠がりな頭の隅に残してゐるばかりだつた。
 たゞ愚図/\と、いぢけた日ばかり送つてゐても滅入るばかりだ、と思つて、彼は四五日前から、何か架空的な小説でも書かうと思ひ立つたのだが、終日机の前に坐つてゐても、たゞ物憂く情けなくなるばかりで、結局寝床にもぐつて暮してしまつた。
「神経衰弱といふ病気なのかな!」
 そんな風にも思つて見たが、酒を飲むと相当元気になるところを思ふと、これも空々しく、彼は苦笑を洩すより他はなかつた。何の飾りもない二階の八畳の書斎には、隅の方に小机が一脚無造作に置いてあるばかりだつた。――彼は、寝転んで恨めしさうに、その机を眺めたりした。隙間だらけの唐紙や破れ放題になつてゐる障子の穴などからは、寒い風が遠慮なく吹き込んだ。
「どうも、困つたな!」
 彼は、起き上つて机の置場所を様々に迷つたのであるが、どうしても落つけず、思はず焦れツたく舌を鳴した。――彼は、小机を抱えた儘、座敷の真ン中に突ツ立つてしまひ、腕を延し、胸を拡げて、苦々し気に天井を窺めたのだ。
 此処で、と決めて坐つて見ると、一方の机の脚と畳との間には微かな隙が生じて、肘を突くとガクリとするのであつた。
「これ位ひのことで病はされるなんて、情けないことだ。」
 彼は、そんなに思つて、悲しみさへ覚えた。他人の前では、何事につけても、平気を装ふたり、快活を衒つたり、酔つて葉山氏の口調を真似て、衣服や居住を意としないといふやうなことを壮語したこともあつたが、ふつと醒めて明るい日常に出遇ふと、己れの放つた矢で己れの胸を刺す思ひがするばかりだつた。破れ放題になつてゐる障子を見ても鬱陶しかつた。彼の家を訪れる者は、思はず踵を立てずには居られない程の汚れた畳を発見した。
「机の置場所が何だ、机の脚が動く位ひが何の心の妨げになるものか!」
 傍から、そんな風にわざとらしく鞭打つて見たのだが、いざ畳と机の脚に間隙のある机の前に坐つて、凝ツと瞑目して、想ひを空に馳せて見るのだが、如何しても五分とは保たなかつた。――家が、まがつてゐるのだ。柱と唐紙との間には、細長い三角の棒が打ちつけてあつた。
 小窓の下にも置いて見た。椽側に平行して、障子を眼の前にして坐つても見た。床の間と三尺の隔てをとつて、壁に向つて煙草を喫しても見た。悉くの窓を明け放して、頬杖を突いて、爽々しく晴れ渡つた冬の空を見上げても見た。隣りの三畳に移して、汚れた壁を背にして、大業に腕組みもして見た。――皆な失敗だつた。何処を選んでも、脚と畳に間隙が生じて、机の面が水平にならないことに、彼は気を腐らせた。
「あゝ、もう面倒臭い――」
 彼は、間の抜けた溜息を洩して、机の上にどツかりと腰を降してしまつた。
「お父さんは、御勉強なんだからお二階へ行くんぢやありませんよ。」
 階段の下から、周子が英一をたしなめた真実味のない乾いた声が聞えた。
「イヤア!」と、英一は叫んだ。おや、もうあんな生意気を喋舌るやうになつたのかな! などと彼は、思つた。
 未だ外が明るいうちから彼は、晩酌をはじめてゐた。英一は、玩具の自動車に乗つて彼の周囲をグルグルと駆け廻つてゐた。
「毎日何をしてゐるの?」
「勿論勉強だよ。」と、彼は云つた。
「英一が動物園へ行きたいんですツて!」
「お前伴れてツてやれな。」
「だつて、あなたお留守居を厭がるぢやないの?」
 そんな話をしてゐるところに、周子に使ひにやらせられた賢太郎が、大きな包みをさげて帰つて来た。賢太郎は、丁年の周子の弟である。大崎に居た頃程でもないが、この頃はまた周子の里は貧乏になつて、加けに行衛不明だつた姉が父親の解らない赤児を伴れて戻つて来てゐるのださうだつた。賢太郎は、その時分は学資に事を欠く程でもなかつたのださうだが、極端に内気で、殺されても厭だと云つて如何しても中学の試験をうけなかつた。尋常科を卒業したゞけで、漫然と成長してしまつた女のやうに優しい青年だつた。言葉使ひだとか物事の興味とかゞ、全く女だつた。尋常一年生の妹の学校通ひの服装は、凡て賢太郎が意匠を施した。編物とか子供服などの裁縫が巧みで、わざわざ銀座通りなどへ出かけて、服屋の飾窓を熱心に研究して、周子の古袴などで流行型の子供服を仕立てゝ妹に着せてゐた。そして賢太郎は、極端な貧乏嫌ひだつた。時には、彼は女学生の描くやうな美しい絵を描いて独りで楽しんでゐた。――この頃自家が面白くないもので、往々泊りがけで周子のところを訪れてゐた。
「この柄はどう? これスカートよ。」
 賢太郎は、包みの中から布れ地を取り出して周子に示してゐた。
「これ、帽子の材料? 少し派手ぢやないかしら?」
「まア、あきれた。」と、賢太郎は眼を視張つた。「姉さんなんて何も知らないのね、銀座や丸ビルへ行つて御覧なさい、……赤いからと云つたつて何も派手と定つたものぢやないわよ。僕ちやんと洋服との配合を考へて、買つて来たんだから安心しなさいよ。」
「さうオ。」と、周子は手もなく黙らせられてゐた。
「何だい、それは? 何を拵へるんだい。」
 チビチビ酒を飲みながら、黙つて奇妙な光景に見惚れてゐた彼は、突然訊ねた。
「何だつて好いぢやないの。」
「姉さんの洋服よ。」と、忙しさうに毛糸などを選り分けてゐた賢太郎が無造作に云つた。
「チエツ!」と、彼は思はず舌を鳴した。わけもなく顔の赤くなる気がした、「ハツハツ、冗談ぢやない。」
 尤も彼には、さういふ趣味を嫌ふ一種の見得もないではなかつた。
「だつて、まさか自分で出来やしないだらう。」
「女の洋服なんて簡単よ、帽子だつて僕が拵へるのよ。」
「厭だ/\。」
「だつて、あたしの着物は皆な焼けてしまつたぢやないの、あなたは阿父さんのお古があるから好いだらうけれど――」
「だけど洋服は……」
「昨ふ小田原から北原さんがお金を持つて来ましたよ、あなたは寝てゐたから、あたしが受け取つたんだけれど、――今日半分費つちやつたわよ。あなたの云ふ通りになんてなつてゐたひには、半襟一つだつて買ふことは出来やしない。」
 彼は、我慢して笑つてゐた。そんな話になると賢太郎は、悲しさうに眼を伏せてゐた。つい此頃になつて、彼の「仕事」も稀に金になることもあつたが、そんなことは少しも周子には知らさず、浮々と出歩いて有耶無耶に費消してしまつた。自分が得た金だつて、国から来る金だつて、彼には区別はなかつた。多少でも余裕のある間は、ひようひようと出歩いて家庭に落つかなかつた。そして直ぐに不景気になつて、家庭に居る間はケチケチと煩い小言を、女に浴せた。仕事、と云ふのも彼は、可笑しかつた。学問はなく、思想はなく、作文の術もなかつた。中学時代、作文は丁ばかりだつた。あの頃彼が、秘かに想ひを寄せてゐた照子が、文学好きで、様々な文学者の名を恰も恋人のやうに憧れて、無慈悲にも彼に文科をすゝめた。文科でも始めのうちは作文の時間があつた。それは照子が、代作して呉れた。彼は、照子の作文は相当巧いと思つたが、四十五点以上を取つたことはなかつた。照子と喧嘩してしまつた後は、隣席の髪の毛の長い男が、彼を憐んで時々代作してくれた。……彼のこの頃の仕事は、小説だつた。彼の小説、といふのが、また彼には可笑しかつた。ノート・ブツクに叙情詩を書き綴つてゐた頃には、独りで多少の得意を感じたこともあつた。だが最近に彼の書く小説は、死んだ父を取り周つた自家の家庭の不和が主だつた。然も自家の不快に向つて、吐きかけた野卑な雑言に過ぎなかつた。それが仕事と思ふと、彼は、救はれぬ感じに打たれた。「君の小説の主人公を、君はいかに見てゐるのか!」そんなことを云はれると彼は、直ぐに胸がつまつた。本当なら主人公は、私としなければならないのだが彼は、いつでも自分であるべき主人公を「彼は――」「彼は――」と、書くのであつた。小説的と思つて「彼は――」とするのではなくて、自分があまり親不孝で、そして愚昧過ぎるのがわれながら醜く思はれて、せめて主人公だけは「彼は――」として、セヽラ笑つて見逃すより他はなかつた。何と悪評されても答へる術はなかつた。五枚書いては破り十枚、二十枚書いては破りするが、それは決して出来不出来の推敲ではなかつた。「この作者、果して父親小説以外のものが書き得るや否や?」こんなことを云はれると、彼は他人の前では「何だ失敬な、三つや四ツ父親の小説を書いたからと云つて、それで俺の創作範囲を限定するなどとは無礼にも程がある。俺はこれでも想当空想の自由が利く男なんだ。」などと、まことしやかな憤慨を洩すが、云ふまでもなく大学文科の頃と何の差もない彼である。あの騒々しい親父が死んでしまつたら、もう何も書くこともなく、せめて追憶に光りでもあれば、何と批難されたつて同じやうなものを執筆するであらうが、それも今では「お伽噺」に変つてゐる。彼は、お伽噺は書く気になれなかつた。
「此頃、何か書いてゐるか?」と、或る友達が彼に訊ねた。
「書いてゐるか? ツて小説のことか。」
「当り前ぢやないか、厭な奴だね。文学青年がるまいと思つてゐやがる、三十にもなりやがつて!」
「だつて僕は、絵もかくんだからな!」と、彼は心から訴へた。以前油絵をやつたことがあるが、この頃になつて彼はいくらか絵の方に心を惹かれてゐた。
「僕は、昨夜例の小説を到々書きあげてしまつた、無慮百七十枚だ。今日は実に晴々しいんだ。」
「羨しいなア!」と、彼は思はず叫んだ。この頃彼は、小説を書き終へて晴れ晴れしい気持を味つたことがなかつたから――。「僕だつて、それやア書きかけてはゐるんだがね……」と、彼は続けて思はず冷汗を感じた。まつたく彼は一ト月も前から或る小説を書きかけてゐることは確かだつた。
「君は、此頃非常に遅筆ださうだね。」と友達は意味あり気に笑つた。
「うむ!」
「みつともねえぞ、――遅筆がりなんて! がりとより他思へないよ。煽てるわけぢやないが、親父以来君の心境は、フツキレてゐるよ……」
「フツキレるツて、如何いふわけだ。」
「田舎者は話せねえな、フツキレるといふのは冷笑の言葉ぢやないよ、ふくれツ面をするねえ――推賞の言葉だよ。」
「……親父のことは云はないでくれ。」
「また泣くのかえ、止せやい、酒飲みらしくもない!」
「親父のことは、大抵忘れた……それ処ぢやないんだ、もつと/\……」
 酔つて脆くなつた彼の頭は、理性を失してもう少しで、書き悩んでゐるといふ材料(?)の話に移らうとしたが、この友達に話せる位ひなら書き悩む方も楽になるわけだつた。
「その後の母と彼」彼は、題名を想像したゞけで、胸が痛み、眼が呟む思ひに打たれた。
「本格的心境小説か!」
「……」彼はうつ向ひてゐた。
「俺の今度の小説は、それ式なんだ。」
「うむ、そりやア好いな。――俺は、毎年冬は駄目なんだ、それに俺の頭は、この頃変に通俗的になつたやうな気がする。」
「いや、それは心配するには及ばないよ。大人になることを、君は怖れ過ぎるんだよ。」
「だつて、怖れたつて仕様がないや。」
 母、母、母、母、母――彼の頭の中では、薄気味悪い文字が踊り回つてゐた。友達の言葉など頭へ入らなかつた。それを書くより他に、何の仕事も見出し得ない愚劣な大人! 愚劣な新進作家! 彼は、文明の世界に生きる価値のない気がした。父から彼は、嘗て西部アメリカの話を聞いて胸を踊らせた思ひ出がある。空想でなく、比喩でなく、彼は、明日にでも素ツ裸になつて、インデヤンの国へ走しつてしまひたかつた。
「これが出来上るまで英坊は、僕の家へ伴れてつて置きませうか、え? 姉さん。」
 編物を初めてゐた賢太郎が、周子に話しかけてゐた。
「さうね、だけど?」
 周子は、彼に気兼ねした。英一だけは、貴様の家の腐つた空気は吸せない、などゝ彼は云つたことがあるのだ。
「関やしないよ、うちの者は皆な子供好きだから、英坊だつて反つて賑やかで好いよ。」
「どうしよう!」と、周子は彼に、賛意を求めた。――彼は、返事をしなかつた。
「だつて姉さん、活動写真にだつて行きたいでせう。」
「えゝ、行きたいわ。」
「僕がお留守居するから、兄さんと一処に行つておいでよ。」
「兄さんは嫌ひよ。」
「さう! まア話せないわね。」
 賢太郎と周子は、仲好くそんなことを話し合ひながら、眼を凝して編物の針を動かせてゐた。

 彼は、小説「父の百ヶ日前後」で、一つの嘘を書かずには居られなかつた。小説に事寄せて、一つ嘘の説明に逃れた。あのまゝで葬りたかつた。――清親は、母の二つ年上の兄である。と書いた。その小説の清親のやうな母の兄があつたので、彼は、涙をふるつて清親を叔父と書いたのだ。――清親は、彼の叔父ではなかつた。彼は、小説の蔭にかくれた己れを、殺して好いか、慰めて好いか、解らなかつた。嫌ひだ、と書いても母は懐しかつた。
 彼のペンの先きは、怪しく震へ、胸は不気味に掻き乱された。――他に、何の仕事も出来ないこと、そして、生れながらに行き詰つた己れの頭を、憎み、呪た。
 或る晩、わずかなことから彼は、周子と激しい争ひをした。徹夜を続けて、何十枚か書き溜めた原稿「その後の母と彼」を、破いて、蒼い顔をして階下に降りて来たのだ。
「何処まで貴様の家は、この俺に祟ることなんだらう。」
 陰鬱に酔つた彼は、首を振つて斯んなことを云つた。「俺が、お前のやうな奴と知り合ひにさへならなければ、俺の家は、明るく幸福だつたんだ――また、英一を伴れて行きやアがつたな! 畜生奴!」
「親切にしてくれたものを、そんなことを云ふものぢやありませんよ。」
 賢太郎に悪る気のないことは、彼も知つてゐた。たゞ周子の家庭を考へると、無性に肚がたつてならなかつた。彼は、周子と知り合ひになつた、厭な言葉だが「運命」が憎くて堪らなかつた。
「何とか製薬会社、何とか建築会社――あの方はどうなつたのかね。」
「わたしにそんなことを云つたつて、知つてるものですか。」
「ぢや何故余計なお世話で、この間株券や書類を親父のところへなんか持つてつたんだ。」
「あなたが、余りクヨクヨ云ふからあたしがお父さんに頼んでやつたんぢやありませんか、取れるか取れないか、そんなことは解るものですか!」
「図々しいことを云ふな、元はと云へば皆な手前えんとこの爺が、あんなボロツ株を持ち込んだのぢやないか、親父が死んで後の仕末が俺には出来ないといふことが解つてゐれば、せめて彼奴が、彼奴といふのは手前ンとこの爺のことだよ――彼奴が、口を利いた事件だけは何とかはつきり解決をつけるのが当然ぢやないか、泥棒野郎――」
 彼は、事柄の内容に就いては何の智識もなかつたから、代名詞や感投詞だけを出来るだけ毒々しく放つて鬱憤を洩した。「そりやア親父のことで俺が斯んなことを云ふのは、しみつたれてゐるけれど、何とかモーロー会社の重役などといふ名前は……」と、そこで彼は、一寸傲然と開き直つて「俺の名前になつてゐるぢやないか!」と、怒鳴つた。
「さうさ、自分が重役になつてゐて、出したお金を取り戻さうなんていふことが出来るものですか。」
「何だと、俺が何時そんなものになることを承知した。」
「あたしに云つたつて知つてるものですか! 自分の阿父さんのことだつて考へて見れば、好いぢやないか、うちのお父さんのせいにばかりしないで。自分だつてもう一人前の年ぢやないか、男らしくもない、いつまでも親父のことになんか引ツかゝつてゐて……」
「悪党の娘!」
 二人だけだと、どんなに彼が殺気だつても、慣れ切つたやうな顔で周子は、洒々としてゐた。もとはと云へば彼の罪だらう、こんな風に取り返しのつかない教育を彼女に施してしまつたといふことも――。
「英一をたつた今、伴れて来て貰はう。」
「随分あなたも邪推深いのね。」
 彼は、最も憎々しい言葉を探して、この蛙のやうな女の顔に叩きつけてやらう――などと思つた。周子は、賢太郎が編みかけて行つた自分の上着を編み続けてゐた。――悪い両親を持ち、そして小人の夫を持つたこの女も、若しかすると俺以上に不幸な奴かも知れない――彼は、そんなことも思つたが、今宵英一が行つてゐる周子の実家のことを考へると醜い焦慮を圧へることが出来なかつた。
「俺がこんなに不愉快になつてゐるといふのに、何処まで図々しい奴だらう。普通の神経を持つた女なら、ヒステリー位ひ起すのが当り前だ。野蛮人! ……洋服とは何だ、洋服とは……」
 彼は、さう云ひかけると、にわかにカツとして周子の手から編物を奪ひ取つた。そして編針を四ツに折つた。なほも力を込めて編物を引き裂かうとしたが、毛糸が伸びたゞけで彼の力では破れなかつた。一寸彼は、テレたが「何だこんなもの、何だこんなもの、好い気になつてゐやアがる――」などと叫びながら、チンとそれで鼻をかんだり、ペツと唾を吐きかけたりして、唐紙に叩きつけた。フワフワとしてゐて何の手応へもないのが、一層肚がたつた。
「勝手にしろ!」と、周子は叫んだ。「煩いから黙つてゐれば、何処までつけあがるんだらう。」
「生意気なことを云ふな。口惜しかつたら何でも其処ら辺のものを叩きこわして見ろ!」
 彼が、さう云ふと周子は、
「自惚れ!」と、叫んだ。「自分ばつかり好い気になつてゐて、何といふ態だ!」そしてわけの解らないことを続けて、食卓の徳利を取つて、箪笥に叩きつけた。彼は、反つて心持の落着く思ひを味つた。
「女郎の母親のやうだ、手前ンとこの婆アは! 娘を売つた気でゐやアがる。」
 周子は、もう一本の徳利を取つて、また同じやうに箪笥に打ちつけた。
「これだけ損をする位ひなら、芸者でも細君にした方が余ツ程増しだ。」
 彼は、不図まつたくそんな気がしたのだ。それにしても芸者を細君にするには、何れ位ひの金が必要だらうか――などと思つた。熱心に、そんなことを思つた。だが自分には何の働きもないし、今では周子の親父のおかげで此方も貧乏になつてしまひ、辛うじてその日暮しが出来る位ひのもので、とてもあんな余裕はなさゝうだ――などと、ぼつとして考へると、更に新しく馬鹿々々しい後悔を感じた。だが彼は、そんな思ひは努めて気色に現さうとはせずに、この上乱暴をされては面倒だなどと思ひながら、急に猫撫声を出して「お止め、お止め!」と、云つた。それだけでは物足りないので「この上乱暴なんてすれば、一層価打ちが下るばかりだぜ。」などと云つた。
「自分の親父は、……」
「何しろお前は、大した親孝行者だよ。」
「何云つてゐるんだい、しみつたれ! あたしの家なんぞは、今こそ落ぶれてゐるが、そんな小田原あたりの貧乏士族とはわけが違ふんだ!」
「手前エの阿母は、千葉県あたりの酌婦でゝもあつたんだらう。手前エも酌婦面をしてゐるぢやないか、ハツハツハ、俺も素晴しい道楽をしたものだ。」
「うちのお母さんなんぞは……」
 周子は、それを二三辺繰り反すうちに、歪んだ眼からポロポロと涙を滾した。そして音をたてゝ歯を食ひしばつた。極度の亢奮が一寸行き詰つた時、彼女は、亢奮の先端で突然風車のやうに激しく息も切らさず喋舌り初めた。
「うちのお母さんなどは、あれでも立派なものなんだ。自分の阿母は何だ!」と、云ひかけた時周子の音声は、異様に白けて、滑らかだつた。「間男! 間男! 間男! 偉さうなことを云ふない。芝居だつて、お前ンとこの家のやうな古臭いことは、此頃ぢや流行るものか! 馬鹿ア! 皆んな死んでしまへ! あたしは何だつて皆な知ツてゐるんだ、阿父さんが皆な、あたしに話したことがあるんだ、お前がそんなに好い気になつてゐるんなら何んでも皆な喋舌つてやらう、友達などにまであたしの家の悪口を云つたらう! 自分好がりの、おべつかつかひ奴! ――自分の阿母は間男を……」

 彼は、話声が外に洩れない電話室のありさうなカフエーを二三軒探し回つたが、普段あまりさういふ処へ出入しないので、容易に適当な店が見当らなかつた。――雨の降り出しさうな寒い日の午後だつた。ウヰスキーを四五杯飲んでゐるのだが、心に変な屈托がある為か、それとも陽気が寒すぎる為か、顔も体も少しもほてツて来なかつた。
 周子からあんな暴言を聞かされたが、その場の濁つた雰囲気さへ通り過ぎてしまへば、事柄は古くから彼の頭を重くしてゐることなので、今更別に驚きもしなかつた。周子には、此方から云はせるやうに煽動したやうなものである。お喋舌りの女を、ポカポカと殴つて、彼は反つて清々とした程だつた。
 彼は、母に電話を掛けなければならなかつたのだ。二三日うちに小田原へ行くつもりなのだが、――突然行くのが厭だつた。
 彼は、いつの間にか自家の近くの公園の中を歩いてゐた。そこで彼は、自動電話を探さうと思つたのだ。二度ばかり温和な手紙を、彼は母から貰つた儘になつてゐた。温和! それも彼は、好もしく思はなかつた。以前の母なら決して云ひさうもない言葉が、いくつも彼の眼に触れたのである。
 自働電話では待つてる間が大変だ、ひとりでカフエーなどで凝と待つてゐるのも一層堪らなかつた――「大原の店へ行かう。」と、彼は気づいた。彼は急に脚を速めて引き返して、乗合自動車に乗つて日本橋まで行つた。
 大原の店へ行つた時は、もう夜だつた。大原は、仕事を終へたところでテーブルに凭つてぼんやり煙草を喫してゐた。
 電話は、そんなに待たされもしないで通じた。
「病気でゝもあるんぢやないかと思つた、あまり便りがないので――」
「皆な丈夫……」と、彼は云つた。
「今年は寒さが強いさうだね、そつちは。」
「えゝ。」
「此方も、何しろ家がこの通りだからね、私は此間風邪を引いて一週間も寝てしまつた。」
「もう、すつかり治つたの?」
「えゝ、そしてお前は何時帰るの。」
「二三日うちと思つてゐるんですが、どうも社の方の仕事が近頃忙しいもので……いや、帰る前の日には……」
「そして今日は何か用なの?」
 彼は、黙つてゐた。傍に誰か居る気配がありはしまいか? 彼は、凝と疑り深くそんな聞き耳をたてたりした。――電話なんぞ掛けるんぢやなかつた、などと思つた。
「お蝶さんから何か便りがないですか。」
「ない。」と、母は明らかに不気嫌な気色を示した。――これからワザと母の前で、お蝶を案じるようなことばかり云つてやらう、そんなことを彼は思ひながら、
「いづれ帰つてから、いろいろ話しますが、あまり便りがないとすると、僕は今度そつちへ行つたついでに、静岡まで行つて見て来ようかと思つてるんですよ。」
「何を云つてゐるのさ、お前は! すつかりきまりがついて、あゝなつたんだからもう余外なことはしない方が好いんだよ。」
「さうですかなア!」と彼は、大袈裟に点頭く風を示して、そつと快い苦笑を感じた。暫く、この種の母の嫉妬を見なかつたので、何となく彼は懐しい思ひさへした。自分が悪徳を行つてゐるにも係はらず、未だに一寸でもお蝶の話に触れると露骨な自尊心を現はさずには居られない母を、こんな所で離れて感ずると彼は、皮肉にならずには居られなかつた。周子などを相手にして、切つ端詰つた思ひで苛々するのに比べると、母を相手にする方が心に奇妙におどけた余裕が出来て晴々しかつた。久し振に小田原へ行くことが、暖かい国へでも行かれるやうに楽しみだつた。
「だつてお蝶さんだツて、心細いでせうからね、見ず知らずの処へお光とたつた二人で行つてゐるんぢやア! せめて稀には僕でも行ツてやらなければ……」
 彼は、さう云つて、舌でも出したかつた。お蝶の処へ行つて見たいのも確かには違ひなかつたが、勿論母になど云ふ必要はないのだ。寧ろ彼は、東京に来て以来、虫のやうに寒さに縮んだ生活をしてゐるので、稀にはお蝶でも訪ねて、朗らかに威張りたいのである。彼が喋舌ることを徹頭徹尾感心して諾く人間は、お蝶とお光より他になかつたから――。
「そんな馬鹿なことがあるものかね、あゝいふ商売の女なぞは呑気なものだよ、昨ふのことなぞ覚えてゐるものぢやない、お前のやうな人の好いことを、何時までも云つて居られるものぢやないよ。」
 幸ひあなたは私といふ悴があるから、そんな好い気な熱も吹けるだらうが、どつこい! 親父にとつてはあなたよりもお蝶の方が好きな人間だつたんだからなア、フツフツフ、お蝶どころぢやないんだ。あなたは知らないだらうが、Nといふ混血児の娘だつてあるんぢやないか――彼は、そんな途方もない思ひに走つた。今迄彼は、親に対して所謂不孝な観察を起す場合には、いくらか自責の念にも駆られたが、今では伸々と手足を延して、般若の心で笑つてゐられる気がされた。なまじ母親を、慰めたり、同情したりする立場に置かれるよりは、こんな状態の方が自分の心に適つてゐるやうにさへ思はれた。親父の場合よりも不気味な不味まづさはあつたが、それだけに心は反つて微妙な悪辣の光りを放つやうな気がした。――これ位ひの刺激がないと、自分のやうな鈍い神経の男は、忽ち生気を失つてしまふに相違ない、何と云つても俺は親を相手にして徒らな観察を回らす時が、一番生甲斐を感ずるんだ、それより他には能はないんだ、親父が死んだからと云つて、髪を切つて、墓参を業とされるよりも、見るのは嫌だが、若返つた母親を感ずる方が面白い、俺は薬液の切れかゝつたモヒ中毒患者だつた、阿母の注射で漸く心臓が躍動して来た――彼は、そんな馬鹿な想ひに走りながら、電話をかけたことに満足した。
「いや、あしたの晩帰ります、いろいろ。書類の方だつて私が験べなければならないでせう、晩迄に整理して置いて下さい、それで今一寸電話を掛けたのです。」
 彼は、徐ろに斯んなことを云つて、母の返事も聞かずに、悠然と受話機を掛けたのである。
「阿母の御気嫌伺ひさ。今になつても僕は阿母の気嫌を取らないと、生活することが出来ないんだから心細いよ。」
 彼は、晴々しく笑ひながら大原に向つて、そんなことを云つた。
「随分暫らく会はなかつたね。君が此処へ来てゐるとマザーは寂しいだらう。」
「さうらしいよ。」
「あゝいふ堅い阿母さんだから、そしてしつかりしてゐるから、未だ君だつてそんな呑気なことを云つてゐられるんだよ。少しは有り難味も解つたかね。」
 古くから彼の母を知つてゐる大原は、そんなことを云つた。
「解つたね。」と、彼は戯れ気に笑つた。母を嘲笑ふ心か? それとも己れを嘲笑ふ心か? そんな区別は解らなかつたが、彼の胸は、常人の口にしない食物を悦んで味ふ食道楽者を真似て、口に入れた食物を見得で鵜呑みにした時と同じ擽つたい克己心に満ちてゐた。

「清友亭のお園さんは、この頃来ませんかね。」と、彼は母に訊ねた。
「この間一辺、阿父さんのお墓参りに行つた帰りだと云つて寄つて呉れた。」
「さう、そりア感心だね、久し振りで今晩あたり行つて見ようかな。」
 こんな言葉は、半年前なら決して母の前で許されなかつたものである。
「あすこも仮普請などで、また商売を初めたんだがさつぱりはやらないさうだ。」
 そんな事は彼は、知つてゐるのだ。清親との騒ぎの時の彼の本陣である。あんな騒ぎはすつかり忘れた顔をして、二人とも済してゐるが、彼以上にその時の話に触れられることの厭らしい母を思ふと、彼は、遠回しにでも母の虚飾を突ツついてやりたかつた。母は、彼の云ふことを大方おとなしく受けいれた。そんな母ではなかつた。――これは自分以上に母の心の方が荒んでゐるのかも知れない、野となれ山となれ(母は以前、往々その言葉を用ひて彼の放埒を責めたことがある。)――母こそ今は、そんな心になつてゐるんぢやないかしら? などと思つて彼は、巧利的な心を動かしたりした。――弟の次郎が、隣りの部屋で低く電灯を降した机に凭つて筆記のペンを動かしてゐるのを眺めても、彼の胸は詰つた。彼の居ないことを好き幸ひにして、家中の者を呼び寄せて買ひ喰ひでもしてゐるだらう周子達に比べて、父を失ひ、不気味な母に見守られ、そしてたつた一人の放埒な兄より他にない次郎が可憐に思はれたりした、いつも兄の轍を踏んで、図太い不良青年にでもなつてくれたら、どんなに自分は救かるだらう――彼は、酷く詠嘆的にそんなことを思つたりした。
「次郎は今度も四番だかの成績ださうだ。この分で行つたら来年、四年で一高の試験が受かるかも知れないね。」
「うむ!」と、彼は、よく父が次郎の話になる時に示した通りな得意さを示した。次郎が隣りで聞いてゐるので、母を相手にする彼の気持は遠慮深かつた。地震で潰れた家の古木で建てた家の中は、この前にはそんな余裕がなかつたので気にもならなかつたが、今沁々と眺めると酷く殺風景だつた。
「葉山さんは?」
「風邪を引いて寝てゐるさうだ。」
 こんな話をしてゐると彼の心は、忽ち滅入りさうだつた。酒を飲む彼を見て、遠慮深く不安な眼を挙げる母の様子も重苦しく感ぜられた。
 直ぐ帰つて来る、と云つて彼は、外に出かけた。未だ宵だといふのに、街は森閑としてゐて、空地ばかりが多く、稍ともすると方角を誤りさうだつた。お蝶が秋まで住んでゐた掘立小屋は、労働者相手の居酒屋に変つてゐた。焼けだされた父が、お蝶達の仕末に困つて、大方自分の手で拵へた粗末な家だつた。おでん、かん酒と書いた赤い提灯が、軒先きに懸つてゐた。彼は、入つて見ようかと思つたが、こんな処で愚にもつかない思ひ出に耽るのは馬鹿々々しいと思つて止めた。――地震の後、十四五日経つて双方の安否が知れてから、彼は周子と英一と三人で小蒸汽船に乗つて、熱海から帰つた。一年目だつた。
「阿父さんは?」
 彼は、母に訊ねた。
「浜の家の方へ行つてゐる。」と、母は云つた。
 父の事業熱、放蕩、母の嫉妬、そんなものゝ間にはさまれて、倒々彼は逃げ出すより外はなくなつたのである。母に味方して父と野蛮な争ひをしたのも、その頃の事だ。彼奴とは一生口を利かない――父からそんな憤慨されたのである。一年の間に一度彼は、小田原へ出て来たが、その時父は折好く留守だつた。――私が居なければ、矢ツ張り困ることが多いだらう、さぞさぞ親父は呑気にお蝶の方へばかし行つてゐることだらう――そんな心で彼は、母から父の蔭口を聞いて、余裕あり気な微笑などを浮べてゐたところに、門の格子が開いて父が帰つて来た。
「あれは誰だ!」
 唐紙を隔てゝ父の声がした。――彼は、ゾツとして、だが母には、顔つきだけで父を馬鹿にするといふ意味の渋面を示しながら、慌てゝ裏門から逃げ出した。一年の間に父の声は、それだけしか聞かなかつた。母の前で、父を罵ることが母に対する一種の諛ひとなり、かゝる醜き行為にパラドキシカルの優越を感じようとする自らを省みて彼は、暗然とせずには居られなかつた。
「斯うなつてからは、まさか憤つても居られないでせう、ハツハツハツ。」
 念の為に彼は、母にそんなことを訊ねたりした。
「まるで意久地がありはしない、私は可笑しくつて仕様がない。」と、母は云つたが、その声は如何にも陰険だつた。
「どうしてなの?」
 彼は、母の調子に合せて、母と同じく陰険な苦笑を浮べた。
「どうして? と云つたつてお話にも何にもなりはしない。」
 震災以来阿父さんは、気が少々変になつたんぢやないかしら――母は、冷い調子でそんなことを云つた。
「まさか!」と、彼は厭な気がして横を向かずには居られなかつた。が、あくどい説明をする母の話で大体、父がそれ以来どんなに意久地なしになつてゐるか! といふことが察せられた彼は、寂しさなどは感じなかつた。放縦で焦点はなかつたが、今度の母の場合とは違つて、軽く健全な自分の存在を感じたのだ。(勿論母のことは何も知らなかつた頃である。)
「僕、ちよつと浜の家へ行つて見て来る。」
「朝鮮人騒動の噂の時などは、皆な刀を持つて見附を固めたぢやないか、灯りを点けてもいけないといふので、家の中は真ツ暗!」
「随分怖かつたでせう。」
「昔に返つたやうな気がして、――私だつてちやんと短刀を帯にはさんでゐた。」
「ほう! 随分強いんだね。」
 彼は、もう少しで随分臆病な阿母さんですね、と云ふところだつた。
「噂だけで、返つて気抜けがした。――そんな騒ぎだといふのに阿父さんの姿が見へないのさ、志村(清親のこと)なんて、後ろ鉢巻で門のところに蓆を引いて頑張つてゐるといふ騒ぎなんぢやないか! 阿父さん、阿父さん! といくら呼んでも返事もしない、どうしたんだらうと思つて、探して見ると、驚くぢやないか! 裏の空地で、長持の陰に蒲団が積んであるなかにもぐつて、狸寝入をしてゐるのさ! 大胆ぢやない、臆病なのさ、可笑しくつて仕様がなかつた。意久地なしの腰抜けさ!」
 母は、そんな例を二つばかり彼に話した。彼は、苦笑しながら窓辺を離れた。そして広い焼野原を見渡しながら浜の家の見当を眼指して、ぶらぶらと歩いて行つた。
「もぐつて入るんだよ、ハツハツハ、ちよつと器用に出来たらう。」
 拵へかけの小屋を指差して父は、さう云つた。それが最初の言葉だつた。
「こんな処に、窓もあるね。」
 彼は子供のやうな細い声でわけなくもそんなことを云つた。
「もう灯りを点けなければなるまい――まア入つて一杯やらうぢやないか。」
 斯う云ひながら父は、背中をかゞめて小屋の中へ入つて行つた。――長い間互ひに口も利かずに不和で過して来たことは、何といふつまらない話だつたらう――彼は、そんな心持で父のうしろから続いて行つた。お蝶とその老母が、水汲みから帰つて来て彼の姿を認めると、二人とも同じやうに涙を滾した。
 土間に石ころで囲ひをした団炉があつて、その周囲には手製の椅子が三つばかり置いてあつた。椅子は如何にも粗野だが、異人の子供のやうな面白味を彼は、感じた。半分が土間で、半分が板の間になつてゐた。父は、散り散りに虫の食つた黄色い毛糸の、胸にCの字のマークをはぎ取つた痕のある昔のスポーツ・ユニフオームを着てゐた。頭には同じ色の頭巾をかむつてゐた。彼は、笑つてその格構を指差した。
「阿母の意地悪るには驚いた、此方には毛布一枚寄さないんだ。俺は寝るのもこの儘だよ、この間トランクの底から探し出したシヤツさ。」
「二十年も前に、そのシヤツを着て学校の運動場で撮つた写真を送つて寄したことがあるように思ふ……」
「ロビンソン物語りかね。」
 天井や窓を見渡しながら、笑つて父はそんな戯談を云つた。
「ロビンソンは独りだぜ。」
 茶飲み茶碗などで酒を傾けてゐるので、忽ちポツとして来た彼は、卑し気な笑ひを浮べてお蝶を振り返つた。
「ワツハツハ……止せ/\。」
「おい、お光ツちやん――お酌だア、お酌をするだアよ、何処かその辺へ出かけて姐さんとか友達とかを四五人呼んで来ウよう。」
 彼は、景気の好い声で、茶碗の盃を振り動かせながら叫んだ。
「呼びになんて行かなくつたつて、若少したつとやつて来るよ。」
「呑気で面白いなア!」
「馬鹿ア! 俺アもう無一物になつてしまつたんだぜえ!」
「アツハツハ、仕方がないですなア!」
 なア! とか、だア! ぜえ! とかと語尾にばかり筒抜けた濁音を響かせながら、別に可笑しいこともないのに厭にゲラゲラと笑つてばかりゐる不思議な父と悴を、お蝶達はきよとんとして眺めてゐた。
「阿母さんが、阿父さんの意久地なしには驚いたなんて云つてゐましたぜえ、さつき!」
「勝手なことを云はせておけ!」
 彼は、さつきの母の物語りを伝へて父と一処に笑ひ、お蝶達の苦笑も眺めてやらう、と謀つたのだが、前にはさういふ話になると面白がつた父にも係はらず、ふつと暗く厭な顔をして横を向いてしまつたので、悪戯の心を突然白けさせられた。――母の云つた通り少々頭が怪しくなつてゐるのかな! 彼は一寸さう疑つても見たい位ひな淋しさを味つた。
「俺が死んでゝもしまへば好い位ひに思つてゐるかも知れないよ、彼奴等は……」
 父は、そつと口のうちでそんなことを呟いだりした。
「何をつまらないことを云つてゐるんですよ。彼奴等とは何ですかね、さつぱりわけが解りやアしない。」と、彼は不平を洩しながら、病人を眺めるやうな眼つきで、そつと父を窺つたりした。タキノ家には、代々精神病の血統があるのだ。よく彼の母は、タキノ家を軽蔑する為に「気狂ひなんていふものは、肚の据らない臆病な人間の罹る病気なんだよ。お前もお酒を飲むと少々怪しいよ。」などと云つたこともある。一代に一人宛出るといふ話だつた、父の叔父がその病気を病ひ、父の弟も亦それに罷つたので、そんなことを云ひ伝へたのかも知れなかつたが――。
「俺を気狂ひ扱ひになんかするんだから、失敬極まるぢやないか。」と、父は云つた。彼は、ゾツとした。叔父の場合で彼は、幾度も経験したが、病ひの初めは「俺を気狂ひ扱ひにした。」と、称して怒鳴り出すのが常だつた。
「嘘だらう、――僕は、気狂ひぢや閉口したからね、言葉だけでも御免だ!」
「気狂ひどころの騒ぎぢやないや、芝居ぢやあるまいし………ねえ、おい!」と、父はお蝶に呼びかけた。お蝶は、落着いた笑顔を示した。――「お蝶とお光は、この先きは法界節にでもなるかな、ハツハツハ、法界節だつて屹度面白いぞウ!」
「厭だ/\。」と、彼は云つた。「僕ア、ひとつ……」
 彼は、半分戯談に云ひ続けたが
「僕ア、ひとつ……」とまた口ごもつた。
「若旦那がしつかりしてゐらつしやるから……」
 お蝶は、如何にも彼の虚勢を信じ切つてゐるといふ風に、細い眼を慎ましやかに伏せた。父と彼は、思はず酔漢らしい眼を見合せてにやりとした。
 ――言ふまでもなくその頃の父の気持は今になつて思へば、凡そ数学の才に鈍い彼にとつても、暗算で出来る算術なのである。

 彼が、そつとのれんの蔭から覗いて見ると、あの異人の子供の手工を想はせる椅子が二つあまつて並んでゐた。重苦しく酔つて、他合もない感傷に走つてゐる彼は、奥の方に何んな人がゐるのかはつきり解らないと思つた時に、若少しでふところからオペラ・グラスを取り出して眼に当てゝ見るところだつた。ふところがふくらんでゐる格構を好む彼は、何時でも不用な物を持ち歩くのが癖だつたが、この頃ではその眼鏡を離さなかつた。
 彼が、この前清友亭を伴れ出されてから、周子と英一はお蝶達と一処に、東京へ出かける日まで此処に起き臥ししてゐた。「阿母が謝まらないうちは、俺はこゝに坐つてゐて、金でも何でも悉く横取りにしてしまふんだ。」
 昼間から酒を呑みながら、お蝶を相手に彼は、強さうなことばかり云つてゐたのだ。
「東京へなんていらしつては駄目ですとも。若旦那が居なくなれば、それこそどんなになつてしまふか解りませんわ。」
 彼が居なくなればお蝶はひとりにならなければならなかつた。自分が居なくなつて、既に荒れ放題になつてゐる小さな財産などはどうなるわけのものでもなかつたが、自分達が居なくなると多少でも母が清々するかと思ふと、動きたくなかつた。そして彼は、それ程でもない癖に、如何にも自分は死んだ父親の忠実な悴だといふ風なことを夢のやうに誇張して喋舌つたのである。
 そんなことを回想すると彼は、今では母から返つて擽られるやうな間の悪さを覚へた。あれまで彼は、母の前で父を罵倒ばかりしてゐたのである。
 彼は、白い息を吐きながら氷つた道をコツコツ歩いてゐた。暫らく歩いて、一寸振り返つて見ると、おでん、かん酒の提灯が、煙草の火程に小さく闇の中にぽつりと止まつてゐた。――望遠鏡を、あべこべにして見ると風景は、実際の距離の二倍に遠くなつて、さながら箱庭のやうに小さく映る――独りになつた時のこの頃の彼の心境は、そのやうに熱がなく、まつたく箱庭の泥で拵へた豆人形になつてゐた。ゆるやかな波の音を耳にしながら独りで斯んな暗い路を歩いてゐると、今にも暗の中へ吸ひ込まれて煙になつてしまひさうに心細かつた。――清友亭より他に、行く処はなかつた。
「東京へいらしつたと思つたら、忽ち通人におなりになりましたわね。」
 彼は、坐敷に入つて少しばかり酒を飲むと、急にぺらぺらと愚にもつかないことを喋舌り出したのである。で、お園は、さう云つて笑つたのである。
「この間、お墓参りをして呉れたのだつてね、有り難う。」などと、彼は、わざとらしいお世辞を云つた。
「まア! お蝶さんから便りがありまして?」
「彼は手紙は書けないんだよ、一辺行つて来ようかと思つてゐるんだが、どうだらう。」
「それに越したことはありませんが――」
「いや、さういふやうなことを云ふとね、阿母が嫌がるんで俺、可笑しくつて仕様がないんだよ――尤も嫌がらないやうになられても困るが……」
 母や清親を相手に気嫌よく飲んで見たい、さういふ我慢が出来るだらうか――彼は、そんなことを考へながら、
「僕は、この二三ヶ月で急に爺臭くなつた気がしてゐるんだ。一体その長男といふ奴は、殊に両親が若い時に出来た長男といふ奴は……」そんな話があるかどうか? まるで彼は、出たらめだつたが上の空で喋舌つてゐた。「大体馬鹿者が多いといふ話だが、そして女にばかり甘いといふ話だが……」
「ずつと前に、お父さんにそんなことを云はれて、からかはれたことがあるぢやありませんか。」
「いや、ところで僕はそんな男ぢやないだらう? と、君に訊いて見やうかと思つてゐるんだよ……僕ア……僕ア……」
「そんなところに、横になんておなりになつては駄目ですよウ! さアさア、稀にいらつしやつて何だねえ! ほんとに爺臭くなつたわ……おゝ、お酒臭い!」
 お園に引き起されて彼は、がつくりと食卓に首を垂れた。彼は、酔つた時の癖で、トリ止めもなく胸のうちで怪し気なことを呟いてゐたのである。――もう俺は、これから誰とも争ひはしないんだ、中でも阿母とは仲好くしたいものだね、喧嘩をするよりは仲好くしてゐる方が親不孝なんだぜ、何故ツて? だつて俺は面白さを感ずるんだもの、……阿母さん、どうですか、そんなに勿体振つた顔つきばかりしてゐないで、酒でも飲みながら芸者の踊りでも見物しやうぢやありませんか……と、斯う云つて阿母の鼻の先へ、飲み友達でも突きつけるやうに、盃を差し出すんだ……。
「そこでだ。ウワ……面白いだんべえなア!」
「若旦那! どうなすつたのようウ、今ツからそんなにお酔ひになつてしまつては、面白くないぢやありませんかね。」
「ところが吾輩は、面白くつて仕様がねえだアよ。……うむ、飲むとも/\。」
 ……さア、お飲みなさい/\、阿母さん、ね阿母さん私は、それは/\親孝行なんですよ、安心しなさいよ……と、斯う云ふと阿母の奴、忽ち芝居掛つた鼻声で、わたしはお前を育てるのには随分苦労したのだよ、何しろ阿父さんが長い間留守で、その間のわたしの苦しみと来たら――なんて得々として吹聴するだらう――解つてゐますよ、賢夫人、まア好いからお酒をお飲みなさいようだア! 婆アの癖に羞かむねえ、チエツ、薄気味の悪い! いや、これは失礼、婆アだなんてもつての外だつた……なにしろ阿母さんは、そんなにお若くていらつしやるんですからねえ――と、一本深刻気な皮肉を云ふのも愉快だらうぜ――一体私は、阿母さんがおいくつの時に生れたんですかな、僕アどうも算術が不得意で、半端な数の引算は直ぐには出来ないんだが、……僕アまつたく斯んな家に生れたくなかつたんだがね、おツと、何をつまらない愚痴を云つてゐやアがるんだい――。
「まア、そんなことは如何でも好いんだ、フツフツフ……馬鹿にしてゐやアがらア!」
「さア、お酌ですよ。通人におなりになつた若旦那! 何か歌でも聞かせて下さいませんか。」
「何だつて! ふざけるねえ、田舎ツペ!」
 ――……ねえ、阿母さん、あなたに歌でも聞かせてあげませうかね。それはさうと私も、春にでもなつたら思ひ切つてひとつ外国へ行つて来やうかと思つてゐるんですよ、周子の奴も沁々厭になつたし……と、云つたら、さぞさぞ阿母の奴は悦ぶだらうね、わが意を得たるが如くに、か……だが、あんな者と結婚してうちもそれからそれへ、飛んだ破目になつたものですなア! そこで、倒々阿母さんまでが――と、云ひかけてさ……。
「ハツハツハ……」
「トン子さんに嫌はれますよ、そんなにお酔ひになつて……」
「ハツハツハ……」
 ――ハツハツハ、と、鷹揚に、肩をゆすつて笑つたら、阿母の君! どんな顔をするかな、何とか家の、何とか武士の娘! うむ、僕ア如何してもFの処へ行つて来るんだ、何も周子との結婚がうちに祟つたからと云つて、何も彼女を憎む程吾輩だつてケチ臭いわけぢやないんだ、たゞ虫が好かなくなつたまでのことだよ、恰もヘンリー・タキノのそれの如くにさ。あんな者のセイにするのは卑怯至極だ、キレイなことばかり聞されてゐたので、俺もそのつもりで生きて来たんだが、昔からうちなんてそんなものだつたに違ひない、阿母の若い時分なんて、何が何だか解つたものぢやない、ぢや、どうして子供まであつたのに親父はアメリカなどへ出かけて行つたんだア! 俺アもう日本になんか帰つて来まいと思つてゐたんだが親父が死んだので無理に呼び帰らされてしまつたわけなんだ、などゝいふことをヘンリーが俺に話して、俺の気持を暗くさせたこともあつた位ひだ……余ツ程、嫌はれたらしいな、して見ると……。
「阿母を呼べ、阿母を呼べ!」
 食卓に突ツ伏して、泥酔してゐる彼は、ブツブツとわけの解らないことを呟いでゐたかと思ふと、突然そんなことを叫んだ。
「阿母を呼んで貰はう、何でえ、婆アの癖に白粉なんかつけやアがつて……カツ!」
「稀に帰つてらしつて、またお母さんと何かやつたんですね、いけませんね!」
「やるもやらないも、あるもんけえ!」
「悴が我儘で困るツて、此間もお母さんが滾してゐらつしやいましたぜ、旦那のある時分とは違ふんですから、若旦那が……」
「俺ア若旦那ぢやねえ、天下のヴアカボンドだア。」
「今になつてお母さんと仲が悪いなんていふことが知れると、それこそ皆なに馬鹿にされるぢやありませんか。」
「何となく、俺は、阿母の顔つきが気に喰はんのだ。」
「戯談ぢやありませんよ、何をつまらないことを云つてゐらつしやるの?」
「あの声を聞いたゞけでも、虫唾が走りさうだ、あの色艶を想像すると、鳥肌になる……」
「…………」
「驚かなくつても好いよ。これはね、西洋の芝居の声色なんだよ。」
「そんな西洋の声色なんかでなく、あたし達にも解る日本のを聞せて下さいよ。」
「オークシヨン・マーケツトの悪商人が、烏の嘴を絵具で染めて、九官鳥に見せかけたが声を出されると大変だつたからギユツと喉笛を握つてゐると、苦悶の烏がしやがれた叫びを挙げた――そのやうな声だ。」
「ほんとに、日本の声色をやつて頂戴よ。」
「阿母の顔を見るのも厭だア!」
「また始まつた、あたし悲しくなるから止めて下さいよ、そんなことを聞くと……」
 ――うむ、さうだ、こんな筈じやなかつたんだ、阿母を相手に気嫌よく飲まう、飲めるかな? と思つてゐたところなんじやないか、いや、もう大丈夫だ………。
「なアに久し振りで一寸親父の声色をやつて見たんだよ、好くそんなことを云つて俺たちを困らせたつけなア! それも間もなく、一週忌かね、三月になると。――思ふ間もなくトンネルの、闇を通つて広野原、とかツて小学唱歌があつたね、――今ハ山中、今ハ浜、今ハ鉄橋渡ルゾト、かね。」
「三日には屹度来るツて、お蝶さんも云つて行きましたよ。」
「あんな悪口家の親父にかゝつちやア、阿母もさんざんだつたね、俺、今でも思ひ出すと気の毒になるよ。で、無理もない、といふことになるのかな……」
「ぢや皆なで唱歌を歌ひませうよ。汽車の歌ならあたし知つてるわ。」と、隅の方にゐた小さな雛妓が云つた。
「うむ、やつて見ろ。」
「合唱よ。」
「皆なでやつて見ろ。」
「――遠クニ見ユル村の屋根、近クニ見ユル町の軒、森ヤ林ヤ田ヤ畑、後ヘ/\ト飛ンデユク――廻リ灯籠ノ絵ノヤウニ、変ル景色ノ面白サ、見トレテソレト知ラヌ間ニ、早クモスギル幾十里――」
「何だか面白くねえな。何かもつと景気の好い歌をやつて貰はうか。お園さん、喧嘩ぢやないんだから阿母に電話をかけて呉れよ、さういふわけでね、阿母を気の毒に思ふのさ、だから一つ大いに仲善く……まつたく親父は酷いよ、自分が勝手なことばかりして罪もない阿母の悪口を云ふなんて……」
「そのおつもりで、これからは沢山親孝行をしなければなりませんね。」
「うむ、解つてゐるとも。屹度来るから呼んで呉れ、俺が酔つ払つてしまつて、如何しても阿母が来なければ帰らない、と云つてゐると――さう云つて呉れ。」

「君は甘やかされて育つて来たんだよ。そして、兎も角我儘者なのだ。この先多くの苦しい人生の経験に出遇つて、いろいろ眼醒めることが多いだらう。」
 友達の一人が、彼に親切にさう云つて呉れたことがあつた。そして彼を本位にして、いろいろな忠告を与へて呉れた。彼は、自分を本位にされて快い忠告など与へられた験しがなかつたので、内心では可成り嬉しかつた。だが彼は、我儘者とか、甘やかされて育つたとか云ふ言葉を、好き意味に解釈して、嘗てそんな甘さに酔つたこともない癖に、わざとらしくそれらの言葉を、羞むやうに点頭いて受け容れた。さういふ態度をすれば、自分に対する相手の好意が更に増すであらう、などゝいふ風な狭い考へがあつた。相当の年齢に達してゐるにも関はらず彼は、幼稚を衒ふ婦のやうに姑息な心をもつてゐた。一体彼は、他人と相対してゐる時は、たゞでさへ朧気な己れの個性は悉く消滅してしまつて、鸚鵡の如くひたすら相手の気嫌を伺ふやうな心にのみなつてゐるのが常だつた。或る時は強がり、或る時は弱がり、或る時は神経質がりするが、それは悉くピエロの仮面を覆つた功利的の伴奏に他ならなかつた。自信がなくて、さういふ結果になる彼だつたから、独りの時は何の思想もない、たゞ人形の姿を持つた一個の物体に過ぎなかつた。だから多少でも他人の心の解る程な神経の鋭敏な潔癖家は、一時間以上彼と対話する辛棒は出来なかつた。
「苦しいことに出遇つて眼醒めるとか、成長するなどといふ繊細な感受性を、僕は、生れながら忘れて来たやうな気がしてならない。」
「さう云ふ、云ひ回しをするものぢやないよ、取りやうに依つては随分厭味にもなるぜ。」
 寧ろ媚の気持で彼は、云つたのであるが、忽ち相手に見破られて、彼は唖然とするより他はなかつた。
「一体君は、さういふ悪い癖があるよ。誇張して云へば、自分を軽蔑するといふ風に見せかけて、反つて相手を軽蔑するといふ……」
「戯談ぢやない。」と、彼は、思はず慌てゝ叫んだ。だが直ぐに彼は、それをも受け入れるやうにニタニタと苦笑を洩してゐた。そんな業のある筈はなかつたのだが、そんな風に云はれると彼は、如何にも自分は辛辣な心を持つてゐるんだ、などと途方もない誤解をして、尤もらしく顔を歪めた。
「それは、たしかに悪い癖だ。さういふ独り好がりは、……」
「独り好がり?」
「勿論だよ、身を滅す種だぜ。」
 相手は、稍々疳癪を起して、だが彼に解るやうに平易な言葉で、二三の例など挙げて諄々と批難を浴せた。その男は彼よりも二つばかり年少の文学研究家だつた。
 批難されると、彼は、忽ち滅入つてしまつた。滅入つたりすることすら擽つたさを覚えたが、余計な圧迫を強ひられて漠とした恐怖に襲はれずには居られなかつた。そして彼は、取り縋るやうに可細い声を挙げて、倒々斯んなにわざとらしいことを云つた。「勘弁して呉れ、まつたく君の云ふ通りだ。僕は、実際自分の言葉を持ち合せないんだ。厭々ながら強ひて持たうとすれば、己れの愚に疳癪を起す言葉だけなのだ。」さう云つた時彼は、思はず歯の浮くやうな可笑しさを覚えたが、努めて神妙に続けた。「如何思はれても、それはまつたく悲しいことだが、他に術がないんだから仕方がないんだ。僕は、せめて、自分の執つた弓で自分の胸に矢を放つて、その痛さを感ずる刹那に、多少の生甲斐を感ずるより他にないんだ。これは決して遊戯ではない。痛い/\と叫ぶ悲鳴なんだ。それも中毒が日増に強くなつて、近頃では普通の矢では悲鳴も挙げられなくなつてしまつた。土人の使用する毒のついた矢でなければ痛痒を感じなくなつてしまつた。それも何時まで続くことやら? 例へば自分の胸に打ちつける矢の種類だつて、せいぜい二三種しか持ち合せないからね、加けに一度使用した矢は、二度目には役にたゝないぢやないか、最後の毒矢を放つて打ち倒れてしまへば寧ろ幸福かね。」
「打ち倒れてしまふことを怖れるんだよ。」
「この分で行つたら、間もなく僕の心は、君の云ふ通り、風の如くに干からびてしまふに違ひない。」
「風の如く、だなんて僕は、云はないよ。」
「一辺使つた矢を削り直すかね。いろいろ工夫をして、矢尻りを様々な形に拵へ直すかね、……ところが、その工夫の頭が無い、削り直す小刀はすつかり錆びてしまつた。」
「君は、楽天家だよ、そんなことを云つてゐられるんだから……」
 相手は、ムツとして横を向ひてしまつた。
 また彼は、別の友達に斯んなことを云つた。「僕は、此頃発明家といふ者に同感してゐるよ。スリ鉢がグラグラしない道具を発明した苦学生の新聞記事を見た時も、可成りな尊敬を払つた。これも新聞の記事だが、英国の或る男で、水の上を自由に歩くことが出来る靴を発明した奴があるぜ。」
 削り直す小刀だとか、発明だとかと、そんな無稽なことを喋舌つたことを思ひ出して彼は、馬鹿/\しい苦笑を洩した。
 母と襖を隔てゝ彼は、日本画家の田村と退屈な話を取り交してゐた。田村は彼れよりも十歳ばかり年長の、彼の父の酒飲友達だつたのだ。――前の晩の宿酔で頭が重く、これから汽車に来ることを思ふと、吐気を感ずる、あしたに延ばさうかな――彼が縁側に丸くなつて、陽を浴びて寝転びながら、そんな退儀さを想つたり、無稽な空想に走つたりしてゐたところに、田村が来たのである。
「今日は、ひとつ私とゆつくり飲まうぢやありませんか。」
「動くと吐きさうで仕様がないんです。」
 ゲツゲツと喉を鳴しながら彼は、顔を顰めた。それだけのことを喋舌ツても、胸に溜つてゐる苦い酒が揺れて、今にも込みあげて来さうだつた。「ウツ! あゝ気持が悪い。」
 実際そんなに苦しかつたのだが、そんな状態を隣室の母が耳にして、何か意味あり気に感じはしなからうか――彼はふと「これも遠慮した方が好いだらう。」と、気附いた。
「昨夜は、大分愉快だつたさうですなア!」
「なアに……」
「お母さんと一処の遊興ぢや、無事で好いですね。」
「まつたくね。――ウツ、ウツ、ウツ、どうも宿酔は苦しいですね、どうも、いかん! 気持が悪るくて……阿母がそんなことを云ひましたか?」
 田村は、不決断な笑ひを洩した。彼は、うつかり余計な質問を附け加へたことを後悔しながら、今にも嘔吐が堪へ切れなくなりさうに激しい咳を続けた。
 清友亭に来た母は、気嫌が好かつた。あんな母を彼は、嘗て見たことがなかつた。
「稀に此方へ帰つて来た時は、お酒を飲むのも好いだらうが、東京へ行つたら気をおつけよ、お前はあまり癖の好くない質だから……」
 この母の言葉の前半は、今迄の彼女なら決して云はない言葉である、そして後半は他人には母らしい心遣ひのやうに響くが、彼には穏かに聞き逃せなかつた。――癖が悪いと云つたつて僕は、たつた一辺あんな騒ぎを演じたゞけで、それ以外に別段阿母さんの前で乱暴な酔態を示したことはないぢやありませんか――彼は、斯う訊き返してやりたかつた。尤もらしく、母親らしい様子を取り繕つて恥も無さ気に済してゐる母の、黄色味の勝つた容色を眺めると彼は、常套的な疳癪を通り越して、油汗の滲む滑稽を感じた。
「普段は、優しいんですが、どうもお酒が過ぎると……親譲りの血統で――」などと母は、巧みに笑つてお園を観た。
「でも、さつぱりしてゐらつしやるから好うござんすわ。」
「どうだかね……」と、彼は、でれでれした濁声を挙げてセヽら笑つた。せめて、これ位ひに母親を無視した遊蕩的態度を取つて、胸に凝り固まつた滑稽感を散らしたかつた。
「病気が起るといけないから……」
「えゝ、えゝ。」と、彼は、空々しく点頭いた。
「お酒では随分厭な思ひをしましたから。」
「御心配が多うございましたからね。」などゝお園は、変に大業に点頭いてゐた。彼は、一層空々しい気がしてならなかつたが、確りと堪へなければならないものを感じてゐたので――酒でも飲まなければ、反つて病気になつてしまふ――と憎態な調子で口に浮びかゝつた言葉を慌てゝ飲み下した。何としても父親との場合のやうに、陽気になれなかつた。
「――父を売る子! 今度は何を売るんだ。」
 酔つた友達に、斯んなことを彼は問はれたこともあつた。「父を売る子」といふ題の短篇を彼は、書いたことがあつた。
「もう何にもない、すつかり売り尽してしまつた。困つたよ。」
 彼は、明るい心でそんな戯語が云へるやうになつた。妙な、厭な言葉だが、父を売る心には、今にして思へば、幼稚な罪を感じたゞけで、甘く明るい影もあつた。同じく親であるにも関はらず母に想ひを運ぶと、どうして斯んなにも陰惨な影に苛れ、黒血を浴びる程のグロテスクな罪にばかり閉されなければならないのだらう! 彼は、飽くまでも虫の好い考へから、思はず独りで不合理を叫んだりした。また彼は、他に一つでも出来る仕事さへあれば、道徳の壁に囲まれて、石のやうな生活をする方が安易に思はれた。無能地獄――そんな言葉を拵へて彼は、痴呆性に富んだ苦笑を浮べてゐるより他はなかつた。
「お酒の話なんて、面白くないなア!」
 どうかして心を浮きたさせたいと彼は、切りに努めたのであるが、無暗に注ぎ込む酒は鉛になつて胸に載積するばかりだつた。
「お母さんが来たら、唄を歌ふツて云つたぢやありませんか。」
 そんなことを聞く、と彼は、顔が赤くなるばかりだつた。
「唄なんて、ひとつも知らないよ。」
「もう帰らうか?」と、母が云つた。
「え、……だけど折角だからもう少し……」
 彼の声は、絶へ入りさうに低かつた。
「酔はれては、迷惑だよ。」
 心から迷惑さうに母は、呟いだ。
「迷惑なら先へお帰りなさいよ。」と、彼は、思ひ切つて云つたのである。
「あれだ!」と、母は、苦笑した。ほんとの母なら、苦笑は余計な筈だつた。カツとして滔々と彼の否を鳴らさなければ居られない母の筈である。「お出でと云ふから、仕方がなしに来てやつたんぢやないか、馬鹿/\しい、こんなつき合ひは私には出来やしないよ。阿父さんとは違ふんだから……」
 調子づいて、阿母などに来て貰つたが、何としても面白くない、面白くないに決つてるさ! あゝいふ自分の妄想は、やつぱり実現させないに限るんだ――などゝ彼は、思ひながらも、お園たちの前には、厳格な母親の言葉に悸々してゐる風を装つたり、或ひは、厳格ではあるが心の温い母親に、いくつになつても甘へてゐる好人物の悴である、といふ風な思ひ入れを示すやうな薄ら笑ひを浮べてゐた。――彼などが、如何程くどく招待しやうとも、今迄通りの頑なを保持して動かない母親を彼は、想像して、その母と戦ふことに依つて、彼女に対する悪感を少くする――そんな想ひに走つたのでもあつた。だが、母の不気味な弱さは彼の心に醜くゝ投影して、彼のそんなパラドキシカルな活気を縮めたのである。
「まつたく、呼んだりして済みませんでしたな! たゞ一寸独りぢや面白くなかつたもので……」
 云ひかけて彼は、その面白くなかつたといふのが不道徳な妄想の戯れに過ぎなかつたのを後悔した。母親の眼の前で、言葉と心とうらはらになつて、面白い自分の存在を感ずるなどといふ馬鹿気た真似が出来る筈はなかつたのである。――斯う気がつくと石のやうな酔ひに沈んでゐる自分を彼は、持て余さずには居られなかつた。眼の前に感ずる母が、怖ろしく空々しかつた。――折角酔も回り、好きな芸者達も来たところに飛んだ邪魔物が現れた――と、迷惑がるより他になかつた。
「随分外は寒かつたでせう、もう直ぐ帰りますからまア少しお飲みなさい、風邪でも引くといけませんからね。気の毒でした、気の毒でした。ハツハツハ。」
 彼は、突然滑らかに気嫌好くそんなお世辞を云ひながら、母の盃に酌をした。
 その先のことを彼は、大方忘れてしまつた。午近くに眼を醒した時には、ちやんと自分の家に寝てゐた。気嫌の悪い真似は何もしなかつたことだけは朧ろ気に覚へてゐるし、前の晩にも増して母が彼に、親切であることから推察しても、それは大丈夫だつたらしい、と彼は、思つた。
「まア今晩は私と、つき合ひなさいよ。」
 田村は、彼の問ひには答へずにまた同じことを云つた。何か母から頼まれたことでもあるのぢやないかな? 彼は、そんな気もした。
「僕は、今日は如何しても東京へ帰らなければならないんです。だけどこの分では、汽車に乗れるか如何かゞ怪しまれて……」
 さう云つて彼は、苦しく喉を鳴した。あんな野蛮な口論をした周子ではあるが、今思ふと、あの公園裏の佗しい家が寂しく彼の心を惹くばかりであつた。周子の醜い影は消えて、哀れツぽいところだけが懐しく残つてゐた。女のやうな弟の賢太郎と二人で、洋服の裁縫に没頭してゐる姿を思つても、苦笑も浮ばなかつた。五六人の子供を持ちながら周子より他に頼るところのない彼女の母親も、気の毒だつた。英一を伴れて行つたのも仕方がない。――彼は、彼女達に対して斯んなにもパツシイヴな心になつて、何の抵抗も起らないのが可笑しかつた。十景のうち一つしかないやうな静かな光景だけが絶れ/\に佗しく浮ぶばかりだつた。
 周子は、喧ましい酔ひ振りの夫の声が止絶れた時、
「あれは何の声だらう。」と、眼を視張つた。雨の降つてゐる秋の夜更けだつた。動物園で叫ぶ獣の声が聞えるのであつた。「獅子かしら? 虎かしら?」
「一寸、好いぢやないか。」
 彼は、首を傾けて気障な声を挙げた。
「山の中にでもゐるやうだわね。」
「そんなこともないさ……」
「あなたの帰りが遅い晩は、あれが怖くて仕様がないわ。」
「俺が居れば怖くはないのか?」
「…………」
 そんな無意味な光景ばかりが浮んだ。――だが彼は、また東京へ戻つて彼女等に取り囲れて、打算的な愛嬌を示されて苛々することを思ふと、退儀だつた。
 彼が、相手にならないので田村は、手持ぶさたになつて隣室へ行つて母と話を初めてゐた。震災の前から飼つてゐた※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の残りが二三羽、潰れた儘になつてゐる庭を静かに歩いてゐた。
 お蝶のことを考へても彼の心は動かなくなつた。いつの間にか彼女も微々たる「お伽噺」の端役に変つてゐた。――Fの遠い幻だけが、まだお伽噺にもならずに、夢のやうな明るさを、細く彼の胸に残してゐた。「その後の母と彼」の仕事は打ち切つて、NやNの母の空想を混ぜないFの追想をそれに換へよう――斯う思ふと、わずかな光りが味へる気がした。
 椽側の隅に古く土に汚れた書籍が一塊りになつてゐた。彼は、そこから二三冊の本を選び出して、日向で繰り拡げた。読書嫌ひの彼は、退屈な時には徒らに辞書を眺める癖があつた。“Synonyms and Antonyms”そんな名前の字引を彼は、偶然見出した。あのオペラ・グラスを貰つた頃、これも矢張りFの贈り物だつた。例へば、“Peril”といふ文字を引くと、それの同意語として“Danger”とか“Risk”とか、“Venture”“Uncertainty”“Jeopardy”等々々などといふ同意語が挙げてあり、同時に反意語として“Security”とか、“Safety”とか“Certainty”等々々といふ風な文字が列挙されてゐるのだ。解らない文字の意味も、二十も三十も同意語、反意語で例証されゝば自づと通ずるのである。彼の英語が余り不たしかなのと、不得手で不便なことをFは迷惑がつて、多少皮肉な意味を含めてFが彼に贈つたのである。皮肉には違ひなかつたのである。Fは、扉に斯んな悪戯書きを残した。
 “My father was a Farmer
  Upon the Carrick border, O,
  And carefully he bred me
  In decency and order, O;
  He bade me act a manly part,
  Though I had ne'er a farthing, O;
  For without an honest manly heart,
  No man was worth regarding, O.”
 
 彼には、わけが解らなかつたがFが、これはロバート・バーンスの詩の一節だと云つたのである。彼は、「同意語と反意語」を何遍も何遍もひつくり返して判読したのだが、事更にそんな言葉を与へられたかと思ふと、皮肉にとらずには居られなかつたのだ。
 彼は、此の頃の自分の鈍い心は常に低い程度でうらはらに動くばかりの気がしてゐた。鈍くても好いから「一つ」に止まりたかつたのである――そんな空想に時々走つた。
「一晩泊りで帰るなんて、珍らしいことぢやありませんか。」
「何だか、務めの方が忙しいさうなんです。」
「へえ! 務めてゐるんですか。」
 絶れぎれに田村と母の話が洩れてゐた。
 彼は、寝転んだ儘徒らに字引を繰つてゐた。自分がどんな幼稚な芝居気に囚はれてゐるかも気づかずに、微かな声などをたてゝ、数でも算へるやうにブツブツと呟いでゐた。
「悪といふ文字を探して見ようかな。……なる程あつた/\キタナラしい程列んでゐやアがる。……“Evil”だな!
 Syn = Ill, noxious, deleterious, wrong, bad, mischievous, hurtful, sinful, unhappy, adverse, unpropitious, wicked, corrupt, harmful, unfair, notorious, miserable, sorrowful.
Ant = wholesome, beneficial, right, virtuous, holy, pure, happy, fortunate, felicitous joyous, welcome, grateful, good.」
 斯う読んで見ると“Evil.”の同意語は、悉く彼の心のシノニムに思はれ、“Ant”十三語には、一つも恵まれてゐない気がして、夫々の文字が彼の眼の前で、壁を隔て/\哄笑してゐた。だが、さう思ふと彼は「その後の母と彼」の仕事に多少の力を得た。母に対しても、周子に対しても、その彼の弱さは決して“Evil”の反意語ではなかつた。二つのうらはらの心と思つたのは、皆な彼の自惚れだつた。
「Ill, noxious, deleterious, wrong, bad」
 彼は、気障な文学青年らしくそんなことを呟きながら、澄んだ空を見あげてゐたが、また激しい咳に襲はれた。
「薬を飲んだら如何かね。」
 唐紙を隔てた儘母が、声をかけた。
 たゞ、いりません! と、返事をすれば足りたのに彼は、
「薬なんぞ飲めば、反つて気持が悪くなるばかりだ。」と、叫びながら一層激しく、今にも嘔吐が堪へ切れなくなりさうに咳き込んだ。
 翌日、彼が出ける時母は、彼の外套姿を眺めて、
「何だかお前の外套は、薄ツぺらで寒さうぢやないか、阿父さんのを出してやらう。」
 さう云つて、襟に毛皮のついた父の外套を取り出して来た。毛皮のついた外套などは、自分に不相応でもあるし、若者の着るべき物ではない――彼は、さう云はなければならなかつたが、云ひ損つた。そして自分の外套を脱ぎ棄てゝ、母が掛けて呉れるが儘に、後ろ向きに立つた。自分の働きが出来るまでは、絹物は一切身につけてはならない――常々さう云つてゐた母である。彼が学生時分派手なネクタイを用ひたと云つて、鋏で切つてしまつた母である。
 襟をたてると、耳の上まで埋つた。彼は、母が呼んで呉れた俥の上で、鳥打帽子のひさしを眉の下まで降し、毛皮に埋つた頬ツぺたの生温い感触に擽つたさを覚えながら、停車場へ走つた。東京へ帰つたら直ぐに「その後の母と彼」を書き続けよう、さう思ひながら彼は、狡い笑ひを浮べた。外套の襟にさへぎられた白い呼吸が、鼻や眼に触れた。
(十四、二)

底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「中央公論 第四十巻第四号(春季大附録号)」中央公論社
   1925(大正14)年4月1日発行
初出:「中央公論 第四十巻第四号(春季大附録号)」中央公論社
   1925(大正14)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の表題には「「悪(イーヴル)」の同意語(シノニムス)」とルビがついています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2010年5月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。