だが、まだ私は、桜花に就いての憂鬱感や強迫観念を語りやめようとするのではありません。
十年前、私は或る出来事のために私の神経の一部分の破綻を招いたことがありました。私の神経がそのために随分傷んでしまいました。その春、私が連れて行かれたその狂院に咲き満ちて居た桜の花のおびただしさ、海か密雲に対するように始め私は茫漠として美感にうたれて居るだけでした。が、やがて可憐な精神病患者が遊歩するのを認めて一種奇嬌な美の反映をその満庭の桜から受け始めました。無意味ににやにや笑うもの、天を仰いで合掌するもの、襦袢一つとなって、脱いだ着物を、うちかえしうちかえしては眺むるもの、髪をといたり束ねたりして小さな手鏡にうつし見るもの、附き添いに、おとなしく手をとられて常人のごとく安らかに芝生等の上を歩むもの、すべて老若の男女を合せて十人近い患者の群が、今しも、病房から昼餉ののちの暫時を茲へ遊歩に解放されて居るのだと分りました。桜花が、しっきりなしにそれらの上へ散りかかります。患者のうちのあるものは、うるさそうにそれを髪から払いのけ、あるものは手を振ってよけました。が多くは、細かい花びらが頬を掠めて胸に入っても、一向無関心でありました。無関心が一層あわれを誘いました。私は、診察の順番を待つ間――一時間近く――うかうかとその場景に見入って居りました。先刻から、殊に私の眼をひいた一人の四十前後の男の患者がありました。日露戦争の出征軍歌を、くりかえしくりかえし歌っては、庭を巡回して居ました、その一回の起点が丁度私達の立って見て居る廊下の堅牢な硝子扉の前なのです。男は其処へ来る毎に直立して、硝子扉越の私達を見上げ莞爾としては挙手の礼をしました。私達もだまって素直に礼を返してやりました。男はそれに満足しまた身を返して広い桜庭を円形に歩み出すのでありました。軍歌は、幅の広いバスで、しかもところどころひどくかすれるのです、それは気のふれたひとの声の特長だとあとで聞きましたが、まことに悲痛に聞えました。男は日露戦争中負傷の際に気が狂って以来ずっと茲の病房の患者であるそうですが、病状は慢性な代りに挙措は極めて温和で安全であると聞きました。その可憐な男が、私達の前の一回の起点へ来る度に、一度は一度より増して桜の花片を多く身に着けて来るのでした。とりわけ男の頭へ沢山に散りかかって居る花片の間からところどころ延びた散髪に交って立つ太い銀色の白髪が午後の春陽に光って見えるのでありました。私はそれを見つけて見る見る憂鬱になってしまいました。私に附き添って居た者が気がついて私を診察室の方へ連れて這入ろうとした時に、廊下の突き当りの中庭を隔てた一棟の病房から、けたたましい狂女のあばれ狂う物音が聞え始めました。茲にもたわわに咲きたわんだ桜の枝の重なる下――その病房の一つの窓が真黒く口を開けて居りました。そこからかすかに覗われる井の中の様な病房の奥に二人三人の人間の着物の袖か裾かが白くちらちらと動いて見えました……私はあわてて目を逸らしました。あわてた視線が途惑って、窓辺の桜に逸れました。私はぞっとしました。その桜の色の悽愴なのに。
ずっと前の或夜、私は友の家の離れの茶室に泊りました。私は夜中にふと目をさましました。戸の外を、桜樹立がぐるりと囲む……桜が……しんしんと咲き静まった桜樹立が真夜中に……棟を圧して桜樹立が……桜樹立がしんしんと……私は、ぞっとして夜具をかぶった。
私はあくる日の朝日がたけて、その部屋のまわりの桜樹立が明るくあたりにかがやくころ目をさました。私の体は夜具の底にかたく丸まり、じっくりと汗になって居ました。
底本:「愛よ、愛」メタローグ
1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1976(昭和51)年発行
※「奇嬌(ききょう)」「しっきりなし」「じっくりと汗に」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
※底本の「聞(きこ)こえ始めました」を「聞(きこ)え始めました」に改めました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年3月30日作成
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