E君は語る。

 本所相生町あいおいちょう裏店うらだなに住む平吉は、物に追われるように息を切って駈けて来た。かれは両国の橋番の小屋へ駈け込んで、かねて見識りしの橋番のおやじを呼んで、水を一杯くれと言った。
「どうしなすった。喧嘩でもしなすったかね。」と、橋番の老爺おやじはそこにある水桶の水を汲んでやりながら、少しく眉をひそめて訊いた。
 平吉はそれにも答えないで、おやじの手から竹柄杓たけびしゃくを引ったくるようにして、ひと息にぐっと飲んだ。そうして、自分の駈けて来た方角を狐のように幾たびか見まわしているのを、橋番のおやじは呆気あっけに取られたようにながめていた。文政末年の秋の日ももうひるに近づいて、広小路の青物市の呼び声がやがて見世物やおででこ芝居の鳴物なりものに変ろうとする頃で、昼ながらどことなく冷たいような秋風が番小屋の軒の柳を軽くなびかせていた。
「どうかしなすったかえ。」と、おやじは相手の顔をのぞきながら訊いた。
 平吉は何か言おうとしてまた躊躇した。かれは無言でそこらにある小桶を指さした。番小屋の店のまえに置いてある盤台風の浅い小桶には、泥鰌どじょうかと間違えられそうなめそっこ鰻が二、三十匹かさなり合ってのたくっていた。これは橋番が内職にしている放しうなぎで、後生ごしょうをねがう人たちは幾らかの銭を払ってその幾匹かを買取って、眼のまえを流れる大川へ放してやるのであった。
「ああ、そうかえ。」と、おやじは急に笑い出した。「じゃあ、お前、当ったね。」
 その声があまり大きかったので、平吉はぎょっとしたらしく、あわててまた左右を見廻したかと思うと、その内ぶところをしっかりと抱えるようにして、なんにも言わずに一目散に駈け出した。駈け出したというよりも逃げ出したのである。彼はころげるように両国の長い橋を渡って、半分は夢中で相生町の自分のうちへ行き着いた。
 ひとり者の彼はふるえる手で入口の錠をあけて、あわてて内へ駈け上がって、奥の三畳のふすまをぴったりと立て切って、やぶれ畳の上にどっかりと坐り込んで、ここに初めてほっと息をついた。かれは橋番のおやじに星をさされた通り、湯島の富で百両にあたったのである。かれは三十になるまで独身で、きざみ煙草の荷をかついで江戸市中の寺々や勤番きんばん長屋を売り歩いているのであるから、その収入は知れたもので、このままではびんの白くなるまで稼ぎ通したところで、しょせん一軒の表店おもてだなを張るなどは思いもよらないことであった。
 ある時、かれは両国の橋番の小屋に休んで、番人のおやじにその述懐じゅっかいをすると、おやじも一緒に溜息をついた。
「御同様に運のない者は仕方がない。だが、おまえの方がわたしらより小銭こぜにが廻る。その小遣いを何とかやりくって富でも買ってみるんだね。」
「あたるかなあ。」と、平吉は気のないように考えていた。
「そこは天にある。」と、おやじは悟ったように言った。「無理にすすめて、損をしたと怨まれちゃあ困る。」
「いや、やってみよう。当ったらお礼をするぜ。」
「お礼というほどにも及ばないが、この放しうなぎの惣仕舞そうじまいでもして貰うんだね。」
 ふたりは笑って別れた。その以来、平吉は無理なやりくりをして、方々の富礼を買ってみた。
「どうだね。まだ放しうなぎは……。」と、橋番のおやじは時どき冗談半分に訊いた。
 平吉はいつもにがい顔をして首をふっていた。それがいよいよきのうの湯島の富にあたって、けさその天神の富会所とみがいしょへ行って、とどこおりなく金百両を受取って来たのであるから、彼は夢のような喜びと共に一種の大きな不安をも感じた。自分が大金を所持しているのを知って、誰かうしろから追ってくるようにも思われて、かれは眼にみえない敵を恐れながら湯島から本所までひと息に駈けつづけた。その途中、橋番の小屋に寄って、おやじにもその喜びを報告しようと思ったのであるが、かれは不思議に舌がこわばって、なんにも言うことができなかった。
 橋番の方はまずあしたでもいいとして、彼は差しあたりその金の始末に困った。勿論、あたり札、百両といっても、そのうち二割の二十両は冥加金みょうがきんとして奉納して来たので、実際自分のふところにはいっているのは金八十両であるが、その時代の八十両――もとより大金であるから、彼は差しあたりの処分にひどく悩んだ。
 正直なかれは、この機会に方々の小さい借金を返してしまおうと思った。それでも五両ほどあれば十分であるから、残りの七十五両をどうかしなければならない。床下にうずめて置こうかとも考えたが、ひとり者の出商売であきないの彼としては留守のあいだが不安であった。
 金を取ったらどう使おうかということは、ふだんから能く考えて置いたのであるが、さてその金を使うまでの処分かたについては、かれもまだ考えていなかったので、今この場にのぞんで俄かに途方にくれた。かれは重いふところを抱えて癪に悩んだ人のようにうめいていたが、やがてあることを思い付いた。彼はすぐにまた飛び出して、町内の左官屋の親方の家へ駈け込んだ。
 左官屋の親方はたくさんの出入り場を持っていて工面くめんもいい、人間も正直である。同町内であるから、平吉とはふだんから懇意にしている。平吉はそこへ駈け込んで、親方にそのわけを話して、しばらくその金をあずかって貰うことにしたのである。親方は仕事場へ出て留守であったが、女房がこころよく承知して預かってくれた。
「だが、わたしは満足に字が書けないから、いずれ親方が帰って来てから預り証を書いてあげる。それでいいだろうね。」
「へえ、よろしゅうございます。」
 重荷をおろしたような、憑物つきものに離れたような心持で、平吉は自分の家へ帰った。しかもかれはまだ落ちついてはいられなかった。かれはすぐにまた飛び出して、近所の時借りなどを返してあるいた。それから下谷まで行って、一番大口の一両一分を払って来た。それでもまだ三両ほどの金をふところにして、かれは帰り路に再び両国の橋番をたずねた。
「平さん。また来たね。」と、おやじは行燈あんどうに蝋燭を入れながら声をかけた。
 秋の日はもう暮れかかっていた。この時の平吉はもうだんだんに気が落ちついて来たので、あとさきを見廻しながら小声で言った。
「放しうなぎをするよ。」
「いよいよ当ったのかえ。」と、おやじは小声で訊きかえした。
 平吉は無言で指一本出してみせると、おやじは眼を丸くして笑った。
「そりゃ結構だ。おめでたい、おめでたい。だが、日が暮れかかったので鰻はもう奥へ片付けてしまった。いっそあしたにしてくれないか。」
「ああ、いいとも……。だいだけ渡しておいて、あしたまた来る。」
 言いながら彼は一分金三つをつかんで渡すと、おやじはびっくりしたように透かしてみた。
「こんなに貰っちゃ済まないな。だが、まあ、折角のお福けだ。ありがたく頂戴しておこう。どうぞあした来てください。放しうなぎの惣仕舞は近頃お前ばかりだ。」
 礼やらお世辞やらをうしろに聞きながら、平吉はまた急ぎ足で自分の家へ帰った。彼は今になってまだ午飯ひるめしを食わないことを初めて思い出したが、これから支度をするのも面倒なのと、ふところには今までに持ったことのない二両あまりの金がまだ残っているのとで、かれはまたあたふたと駈け出して町内のうなぎ屋へ行った。一方に放しうなぎをしていながら、一方には久し振りに蒲焼を食おうと思い立ったのである。近所で顔を見識っていながらも、ついぞ二階へ上がったこともない平吉を不思議そうに案内して来た女中にむかって、彼はあらいところを二皿ばかり焼いてくれと注文した。無論に酒も持って来いと言った。
 座蒲団のうえに坐って、平吉はがっかりした。彼はけさからちっとも落ちついた心持になれないで、唯せかせかと駈けずり廻っていたのである。からだも心も一度に疲れ果てたようで、彼はもう口をくのも大儀になった。それでも、酒や鰻が運び出されると、彼はまた元気がついて、女中を相手に笑ったりしゃべったりした。女中に一しゅの祝儀をやった。かれは空腹のところへ無暗に飲んで食って、女中にたすけられてようように二階を降りたが、もう正体もなく酔いくずれて、足も地につかないほどになっていた。
「平さんはあぶない。すぐ近所だから送っておあげよ。」と、帳場にいる女房が見かねて注意した。
 祝儀を貰った義理もあるので、女中はかれの手をひいて表へ出ると、月のひかりは地に落ちて霜のように白かった。路地のなかまで送り込むと、その門口かどぐちには一人の女が人待ち顔にたたずんでいた。

 あくる朝になって、この長屋じゅうは勿論、町内をもおどろかすような大事件が発覚した。平吉は奥の三畳で何者にか刺し殺されていた。入口の四畳半の長火鉢のまえには、二人の大の男が血を吐いて死んでいた。
 平吉はうなぎ屋から酔って帰って、そのまま奥へはいって寝込んでしまったところへ、他のふたりが忍び寄って刺し殺したのである。かれらはそれから家内を探しまわった末に、入口の長火鉢のまえで酒を飲んだ。それが毒酒どくしゅであったので、ふたりともに命をうしなったのである。それだけのことは検視の上で判明した。しかも、かのふたりは同町内に住んでいる無頼者ならずものであることも判った。唯わからないのは、ふたりを殺した毒酒の出所で、平吉が毒酒をたくわえておく筈もない。ふたりが毒酒を持って来て飲む筈もない。酒は一升樽を半分以上も飲み尽くしてあった。
 それからまた二日ほど過ぎた。
 両国の橋番のおやじは今朝けさも幾匹かのうなぎを大川へ放していると、かねて顔を識っている本所の左官屋の女房が通りかかった。女房は立ちどまって挨拶して、誰にたのまれてその鰻を放すのだと訊いたので、おやじは煙草屋の平吉の供養くようのためであると正直に話した。平吉は殺される日の夕方ここに寄って百両の富にあたった礼だといって三分の金をくれて、放しうなぎの惣仕舞をして行った。そのうなぎは翌朝みんな放してしまったが、考えると平吉が気の毒でならない。富に当ったのが彼の禍いで、それを教えたのは自分であるから、いよいよ彼に対して済まないような気がしてならない。せめてその供養のために、こうして毎朝幾匹ずつかの放し鰻をしているのであると、彼ははなをすすりながら話しつづけると、女房は黙って聴いていた。
「平さんもほんとうにお気の毒ね。あたしも御供養ごくように放し鰻をしましょうよ。」
 女房から一分の金を渡されて、おやじは又おどろいた。せいぜい五十文か百文が関の山であるのに、平吉は格別、この女房までが一分の金をくれるのはどうしたのであろうと、少しく不審そうにその顔をながめていると、女房は自分の手で小桶から一匹の小さい鰻をつかみ出して川へ投げ込んだ。つづいて自分も身を投げた。橋番のおやじは呆気あっけに取られて、しばらくは人を呼ぶ声も出なかった。
 死人に口無しで、もとより詳しい事情はわからないが、平吉に毒酒を贈ったのはこの女房であったらしい。女房は亭主の留守に平吉から七十五両の金をあずけられて、俄かに悪心を起してその金をわが物にしようとたくんだ。かれは日の暮れるのを待って平吉の家をたずねて行って、富にあたった祝いとでも名をつけて一升樽を贈ったのであろう。
 しかしその時は平吉ももう酔っているので、その上に飲む元気もなく、そこらへ酒樽を投げ出したままで正体もなく寝入ってしまったところへ、町内のならず者ふたりが忍び込んで来た。かれらは平吉が富に当ったことを知っていて、まず彼を刺し殺してその金を奪い取るつもりであったらしいが、金のありかは判らなかった。かれらは死人のふところから使い残りの一両あまりを探し出して、わずかに満足するほかはなかった。かれらは行きがけの駄賃に、そこにある酒樽に眼をつけて飲みはじめた。酒には毒が入れてあったので、かれらはその場で倒れてしまった。
 以上の想像が事実とすれば、平吉を殺そうとした酒が却って平吉の味方になって、その場を去らずにかたき二人をほろぼしたのである。左官屋の女房が酒を贈らずとも、平吉はしょせん逃がれない命で、もしその酒がなかったらば賊は易々やすやすと逃げ去ったであろう。平吉に取って、かの女房は敵か味方か判らない。思えば不思議なめぐりあわせであった。
 しかし、それで女房の罪が帳消しにならないのは判りきっていた。たといその結果がどうであろうとも、かれは預りの金を奪わんがために毒酒を平吉に贈ったのであるから、容易ならざる重罪人である。女房も詮議がだんだんきびしくなって来たのを恐れて、罪の重荷を放しうなぎと共に大川へ沈めたのであろう。
 秋が深くなって、岸の柳のかげが日ごとに痩せて行った。橋番のおやじは二人の供養のために、毎あさの放し鰻を怠らなかった。

底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「民衆講談」
   1923(大正12)年11月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。