旧幕のころであった。江戸の山の手に住んでいるさむらいの一人が、某日の黄昏ゆうぐれ便所へ往って手を洗っていると手洗鉢ちょうずばちの下の葉蘭はらんの間から鬼魅きみの悪い紫色をした小さな顔がにゅっと出た。
 その侍は胆力がすわっていたので、別に驚きもせずに、おかしなものが出たな、と、平気な顔をしていると、その顔はぐ消えて無くなった。
 で、侍はしずかへやに入っていると、間もなく右隣のやしきが騒がしくなった。何ごとだろうと思って耳を傾けていると、玄関口へ走り込んで来て大声に怒鳴どなるように云うものがある。侍が出て往ってみるとそれは隣家の仲間ちゅうげんであった。
我家うちの旦那が急に気がちがって、化物ばけものだ化物だと云って、奥様も、坊様ぼっちゃまも斬りました、どうか早く来てください」と周章あわてて云った。
 隣家の主人は通魔とおりまを見て発狂したのであった。

底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
   2003(平成15)年10月22日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」改造社
   1934(昭和9)年
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2010年10月20日作成
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