私が伯父をたよつて、能登のとの片田舎から独り瓢然と京都へ行つたのは、今から二十年前、私の十三の時であつた。
 私の父は京都生れの者で、京都には二人の兄と一人の姉とが居た。長兄は本家の後をいで万年寺通に仏壇屋をやつて居たし、次兄は四条橋畔に宿屋と薬屋とをやつて居り、姉は六条の本願寺前に宿屋を営んで居た。そして私の姉は、その三年前、十三の年に京都へ行つて、六条の伯母の家におちよぼとなつて居た。私は四条の伯父の許へ行つたのであつた。
 四条の伯父は其の年の初夏の頃初めて能登へ来て寄つた。病後の保養かた/″\加賀の山中温泉へ、妾と二人連れでやつて来たついでに、自分だけその弟なる私の父の許へ立ち寄つたのであつた。
 贅沢で我儘で気むづかしい都育ちの伯父の気質としては、とても堪へられさうに思はれない汚ない、不自由な、侘びしい漁村ではあつたが、空気がよいのと、新鮮な魚が多いのとの為であつたか、伯父は彼是一月ばかりも滞在して行つた。我が儘の言ひ放題を言ひ、田舎で許す限りの贅沢の仕放題をして――。
 その時私は病気で寝て居た。左の膝の関節が痛み、筋が突張つて足が伸びず、歩行も出来ないほどだつた。私は五日か七日き位に父に背負はれて二里余り離れた或る村の医者へ通つて居たが、医者は関節炎だとか云つて、ヨヂュムチンキか何かを塗つて呉れたりして居た。
「こんな田舎の医者なんかあかへん。少しうなつたら京へおなはい。伯父おつさん病院入れて癒したるよつて。」
 或時斯う言つた伯父の言葉が、不思議に私の頭にこびりついた。伯父が帰つて行つた後にも、私はこの事ばかり思つて楽しんで居た。それは病気をなほして貰ひたい為ばかりではなく、他にも理由があつたのである。
 私は、伯父は余程の金持だと思つた。それらしい噂は前から父などからも聞いて居たし、伯父自身が、得意らしく誇らしげに話す京都に於ける豪奢な生活振りからも想像された。家は京都では第一の眼抜の場所にあつて、三階建の大きな建物で、奉公人の十人近くも使つて盛大に商売をして居ること、店の方は番頭に任せて、自分は妻君や妾やを連れて毎日の様に物見遊山に出て歩いてるといふこと、一寸外出するにも、千円近くの金目のものを身につけて出ること、浪華亭なにはていの旦那といへば京都で誰知らぬものもない位だといふこと、其他之に類する種々のことを話して居た。殊に山中の温泉に居て、西瓜すゐくわが食べたくなつて態々わざ/\京都から大きな新田しんでん西瓜の初物を取り寄せたといふ話や、村へ来た時百人余りの小学校の生徒全部へ土産として饅頭を贈つたことや、馬に乗りたくなつたとて、金はいくらでも出すから馬を買つて来いと云つて、私の父をてこずらせたことや、(私の村は漁村なので、馬は一頭も飼はれて居なかつた)さういふ馬鹿気た贅沢振りは、幼い私をして只わけもなく「豪いもんやな!」と驚嘆せしめた。そして、この伯父を頼つて行つたならば、私が家が貧しい為に到底不可能の欲求として、断念あきらめながら憧れて居た中学校へ出して貰へるだらうと思はしめた。
 その上、私は生れた年に母を失ひ、間もなく継母の手に育つたのだが、継母には其時すでに三人の子供が出来て居て、私との仲が兎角面白くなかつた。私が居る為に、家の中がいつも陰気で湿つぽく、父までがどんなに人の知らない心の苦労をして居たか知れなかつた。私は子供心にもそれを感じながら、味気なく淋しい日を送つて居た。殊に私の為に唯一の味方であり、不幸な境遇を共に相憐み合つて居た姉が、京都へ行つてからは尚更だつた。私は父の側を離れるのが此上もなく悲しかつたけれど、「自分さへ居なければ」といふ気が始終して居た。自分も京都へ行かう、その方が父の為にも私自身の為にもよいと思つた。その矢先へ伯父が来て、私の心に火をつけて行つた。そして或る意味に於て私に将来の保証を与へて呉れたやうなものであつた。私は病気がなほつたらすぐ逃げ出して行かうとひそかに決心してゐた。
 それは旧暦の盆の十五日のひる近い頃であつた。父も継母はゝも寺へお詣りに行つて居た留守の間に、私は小さな風呂敷包を一つ抱へて、干魚ひうをを積んで加賀の金石かないはまで行く小さな漁舟れふぶねの一隅に身を寄せて、また再び相見あひまみえようとの予想もなく、故郷の山河に別れを告げた。
 この事は父だけが知つて居た。私は伯父が帰つた後に、間もなく病気も快くなつたので、そつと父に私の希望を述べたのであつた。
「さうか、そんなら行つて見るかいの?」
 父は大きな溜息を吐いた後に、一寸思案にくれた様な面持で、わざと私から眼を避け、四辺をはゞかるやうに見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しながら言つた。
 私は首肯うなづいた。
「行つて見ようともたら行つて見さつしやい、姉も居るさかい、淋しいこたないやらう。」
 父は最後の許しを与へるやうに言つたが、その声はうるみ、其の眼には涙が浮かんで居た。私と別れることよりも、私が京都へ行くことに決心したその心根を察して、いぢらしくなつたのであらう、父はその大きな筋張つた、節くれ立つた手で顔をおほうた。
 いろ/\の事情があつたので、前以て父としめし合せて置いて、継母はゝの手前はその頃村の青年達の間によく流行はやつた様に、私が全く誰にも秘密に逃げて行つたもののやうにつくろつたのであつた。
「さあ、もうこれで会はんぞ!」その日の午前の中、継母がお寺詣りの着物を、平生預けてある本家の土蔵へ取りに行つてゐる留守の間に、父は薄暗い仏間へ私を呼び、ふところから旅金の入つた紙包を出しながら言つた。そして仏壇の方を目で指した。私は父の意味することをそれと察して、仏壇の前にきちんと坐り、うや/\しく亡き母の位牌に別れの礼拝をした。
「そんなら息災そくさいね御座いの、気イ悪せんとな。(病気になるなといふ意)」
 父はまるで隣室に人でも居るかの様に、かすれた声で私語さゝやいた。
「あい――」
 私は口の中でさう言つて打伏うつむいた。悲しいとも淋しいとも、何とも例へやうのない心持であつた。
「舟の衆には工合よう言うて頼んどいたさかいの。……」
 まだ何か言はうとした時、継母が帰つて来るらしい気配がしたので、「さあ早う、それを片附けて了へ。」と眼で金包を指して、「もう、これで会はんぞ!」と今一度繰返し私語さゝやきつゝ、てれ隠しに其処にあつた手箒か何かを持つて、用ありげに入口の方へ出て行つた。私は態とそこの経机の前に坐つて本を開いた。
 父と母とが出て行つた後に、私はもう一度仏壇に拝をして、それから家を出た。そして浜の方へ行つた。昼と晩との弁当は、舟の船頭が私の分をも特にこしらへて呉れることになつて居た。

 舟は岸を離れ、入江を出て、だん/\村から遠ざかつた。海は穏かで、正午頃の残暑の陽光がじり/\と背に熱かつた。顧みると、海岸からすぐ高い崖の様になつた急な傾斜面の凹みに、周囲を木立に包まれた百戸足らずの家が、まるで小石を掴んで置いた様にかたまつて居た。其の上へ日光が直射して、所々の白壁などがきらきら光つて居た。小じんまりとした美しい昼の様だつた。
 私の眼には先づ自分の家が指点された。私は誰も居ない空つぽの家の中を思つた。どの部屋もの光景ありさまが隅々まであり/\と見えた。広間の、夏はふさいである炉の蓋の上に小猫が眠つて居るのまで見えた。此のしづかな空つぽの家を、奥の間の仏壇が留守して居る様に思はれた。私の眼には仏壇の扉の開かれて居る様も見えた。中扉の青いしやを透して一番奥の掛軸の阿弥陀如来の像や、その前に供へた御飯や、花瓶や、亀の上に鶴の乗つて居る蝋燭立てや、輪燈りんとうやが眼に入つた。それらの真鍮製の仏具は、つい二三日前お盆だといふので私が磨いたので、ぴか/\光つて居る――。
 私は此の仏壇の中に、幾つも生きた霊が住つて居る様に思つた。そして、今誰も居ないのを幸にお伽噺とぎばなしの中などに出て来る小鬼の様な恰好をして、広間や納戸や勝手などへ出て来て、ぴよんぴよんと飛び跳ねながら進んで居る様に思はれた。そして其の様子があり/\と眼に映つた。
 私はまた、小さな家々の間に特に際立つた高い大きな寺の本堂の屋根を見た。そこには今説教が始まつて居る筈だ。老若の男女なんによが御堂一ぱいに詰つて、熱心に説教を聴いて居る。その中に、鉄色の肩衣かたぎぬをかけた私の父もあつた。父は恐らく説教も耳に入らないだらう。父は折々後を向いて沖の方を眺めるに違ひない、そして穏かな、日光に光つた海を沖へ/\とせて行く此の小舟の中の私を思ひやつて居るであらう。……私は父が御堂から抜け出て、縁側に立ちながら此の舟の帆影を眺めて居はしないかと思つた。
「お、今出て行くわい。それでもぎで好かつた。」
 かう呟きながら空模様を見上げて居る。瞳をこらすとその姿が見える様な気がした。
 金石まで海上二十里余あつた。私は翌る日の未明に其処の砂地を踏んだ。故郷の村は遠く雲烟の間に、かすかに一抹の墨絵のみさきになつて見えた。岬の端に半分海の中へ入つてそびえて居る富士形の山は村から三里程奥の××山だ。
 私は船頭さんに伴はれて鉄道馬車で金沢まで行つた。船頭さんは私を停車場まで送つて来て呉れた。そして切符を買つて汽車に来せて呉れた。その頃北陸線の汽車は金沢迄しか通じて居なかつた。
 愈※(二の字点、1-2-22)一人になつた。もう父のことも村のことも胸に浮ばなかつた。只現在と行末の不安のみが心を去来した。汽車はその日の夜半京都へ着く筈だつた。
 私は車台の隅つこに小さく縮こまつて居た。汽車はあまり混んで居なかつたが、車中の人は、皆な怪訝けげんさうに私をじろ/\と眺めた。私は何となく心がふるへた。皆掏摸すりではないかと思つた。
掏摸ちぼに金を取られまいぞ。」斯う言つた父の言葉が思ひだされた。父は一年おきか二年おきには京都へ行つた。そして帰つて私達に京都の話をする時にはいつも掏摸すりの話をして聞かせた。私達も好んで其話を頼んでして貰つた。父は私達を喜ばせる為に人の話などをその儘したのであらうが、私はそれを信じて居た。私は汽車の中でも京都の町でも掏摸で一ぱいになつて居る様に思つて居た。汽車に乗る時、舟頭さんが、私の隣の座席に腰かけた四十余の男の人に、私のことを頼んで呉れたので、其人は時々私にいろ/\のことを尋ねたり、親切に世話して呉れたりしたが、私は却つて彼を恐れた。私は七つの時田舎の叔父と京都へ行つて迷児まよひごになつた時、親切さうに宿へ送り届けてやると言つて、私を町中引つ張りまはしながら、終ひに私の羽織を脱ぎ取つて行つた人のことを思ひ出して、この人もそんな種類の人ではないかと疑つて碌に口もきかなかつた。私は時々内懐へ手を入れて、金包に手を触れて見た。

 京都の停車場へ着いたのは、夜の十二時近くであつた。しかし姉の行つて居る伯母の家は宿屋なので遅くまで起きてゐることを知つて居たので、私は割合に平気であつた。此の前、七つの年に来た時のことをうろ覚えに覚えて居て、その家が停車場から近いことや、どの辺にあるかといふことも大体見当がついて居たが、私は父に注意された通り人力車に乗つた。人力車を雇ふことも知つて居た。
 さすがに夜更のこととて、停車場前の宿屋が二三軒起きて居たばかりで、街は暗く淋しかつた。今、汽車を下りた人達の乗つた人力車が、後先にがら/\(その時分にはゴム輪の車はなかつた)と走つて居るほか人通りとてはなかつた。
 伯母の家は、本願寺前でもかなり格の高い宿屋なので、鍵屋といふ屋号を言ふと、車夫にすぐ分つた。車はほんの一寸の間電車の線路に沿うて走つてから、右の方に曲つて居る線路に分れて真直に走つた。といふよりは、のろ/\と並足で歩いて居た。私は子供で而も田舎者であるので、車夫が馬鹿にして居るのだと心の中では少しむつとして居た。
 本願寺前に近づいた時、車夫は一層足を緩めた。そして何処の者だと車上の私に訊いた。私は正直に言へばよかつたのだが、能登の者だといへば、車夫が田舎者だといふので尚馬鹿にするだらうと考へたので、
「金沢市のもんや。」と、小賢こざかしくも都会人であるぞと深く印象させる為に特に「市」といふ所に力を入れて言つた。
「鍵屋さんへ行つたかて、もう起きてはらしまへんよつて、何処か外のいゝ宿屋へ案内しまほか? そして明日の朝早く行きなはつた方がえいやおへんか?」
 少し行つてから車夫は立止つて車上を顧みて言つた。私は車夫がこんなことを言つて、私をだますのだと疑つた。停車場の車夫と、附近の宿屋との間に結ばれて居る宿引的の関係を、私は父などの話で聞いて居たが、その時ふと其のことが頭をかすめたのであつた。私は心に警戒した。
「えんや、家の者なんか、いつも行くのやさかい、よう知つとるのや。」と私は大人らしい口をきいた。
「さうやかてな、今時分行つたかて起きて呉れはらへんにきまつたるぜ。」と車夫は言つた。
 私は益※(二の字点、1-2-22)車夫の心を疑つた。そして飽くまで主張したが、実際その辺は宿屋町だけれど起きて居る家は一軒もないので、少からず心細かつた。
「そんなら、行つて起こいて見て起きて呉れはらなんだら、よそへ連れてつて上げまほ。」
 車夫は一人心できめて居るかの様に言つた。私は全く不安に慄へさへした。
 鍵屋へ行くと、案の定、表戸が堅く閉されて居た。車夫は、私を車から降しもせず、駄目なことは初めから分つてると言はんばかりに、片手で梶棒を支へ、片手で、どん/\と戸を叩いた。が、返事は容易になかつた。
「ほんまやらう。どない叩いたかてあかへん。」
 車夫はそれ見たことかと言はんばかりに私を顧みながら言つた。私は気が気でなく、もつと叩いて呉れと頼んだ。車夫は更に強く叩いた。
「どなた?」と中からしはがれた女の声がした。私は一瞬間ほつとした。
「金沢のお客さんどす、開けてお呉れやす。」と車夫は叫んだ。
 私ははつと思つたが、もう取り返しがつかなかつた。すると暫く経つてから「お断りどす。」と、前よりも大きな声がはつきり聞えた。
 之を聞くと、車夫はもう私を引き戻さうとする素振りを見せた。私は慌てて車を止めて飛び下りた。そして、
「能登のものです。浅次郎です。」と大きな声で父の名を呼ばはつた。
「何や? 能登の浅はん※(疑問符感嘆符、1-8-77)」と、驚き怪しむ様な調子で家の中の声が言つた。私はそれを伯母だと思つた。それでやつと胸を撫で下ろした。
「えい、浅次郎の子です。」と、私は一生懸命に、併しおど/\しながら言ひ直した。
 車夫は呆気あつけに取られて、何かぶつ/\呟いて居た。私が金沢のものだなどと嘘を言つたのを変に思つたのであらう。
 やがて重々しい音を立てて表戸が開かれ、中の方からさつと明りがさした。私は一二歩思はず身をけた。そしてそこに寝衣姿ねまきすがたの伯母を見た。私は首を垂れて立ちすくんだ。
 私が先刻さつき言ひ直したのが聞えなかつたのか、てつきり私の父だと思ひ込んで居たらしい伯母は、彼女の弟の代りに、そこに小さな子供の私が、物貰ひか何かの様に立つて居るのを見て、「あれ、まン、おまはんかいな!」と怪訝けげんさうに言つた。
「えい。」と私は口の中で答へながら側へ近寄らうとすると、伯母は再び家の中へ入つて行つて、
「これ、これ、お君、お君。」と、私の姉を呼び起して居た。そしてまたこちらへ出て来て、私を招き入れた。
 私はおづ/\と後について中へ入つた。
「あれ、恭やんかい!」
 姉のお君は、しどけない寝衣姿のまゝに飛び出して来て、眠さも忘れたやうに眼を丸くしながら、頓狂な声で叫んだ。
「どうしておなはつたんえ? 逃げて来なはつたんか?」
 私は只恥しさうににや/\笑つて居た。
「それでも、まあ、よう一人でれたえな、豪いな。」
 姉は続けざまにさう言つた。そして懐しさうに、にこ/\笑ひながら私の顔をしげ/\眺め入つた。彼女はもうすつかり垢抜けのした娘になつて居た。
「よう、お来なはつたえ、なあ、」と伯母も口を添へて、「車夫くるまやが金沢のお客さんや言ふよつてな、あてお断りどす言ふとな、此の子が能登の浅次郎や言ははるんやらう、変どしたけどな。」と姉に説明した。
「へえゝ、そんなこと言うたんどすか?」
 そこで私は簡単に事情を打ち明けた。
「それでも、ようまあ、気がかはつたえな、小さいのに。」と伯母は感心したやうに言つた。
「矢つ張り男の子えな。」と姉も喜ばしさうに言つた。「この子は小さい時から賢こい子どしたよつてな。」
 丁度そこへ夜啼饂飩屋よなきうどんやが通り合はせたので、伯母はそれを呼び入れて、私と姉とに饂飩を取つて呉れた。
 それを食べながら、私は聞かれるまゝに故郷の話や、上京した理由や、途中のことなどを簡単に話した。そして其夜は、外の下女などの寝て居る蚊帳の中へ入つて姉に抱かれて寝た。

 翌る日は、姉に連れられて、朝から東山の方へ見物に出掛けた。近くの大仏、三十三間堂あたりから順々に、清水きよみづ、高台寺、祇園、円山、知恩院、太極殿だいごくでん、それからずつと疏水の方まで歩いて行つた。
 姉のお君は、私の来たことを心から喜んだ。そして如何にも姉らしい情愛を示しつゝ、私をいたはつたり慰めたりかばつたりしながら、物馴れた老成ませた態度で案内して歩いた。併し私達は、名所旧蹟を見物するよりも、かうして二人連れで互に身の上話をしながら歩いてゐるのが楽しかつた。孤児みなしごの子供の姉弟きやうだいが知らぬ他郷に漂浪さすらふやうに――。
 話は尽きなかつた。父のこと継母のこと、二人とも、もつと子供で一緒に田舎に居た頃のこと――村の知人のこと、昨夜殆ど眠らずに物語つたそれらの話を、その時もまた繰り返し/\語り合ふのであつた。それらの話は、幾度繰り返しても、いつも新しい興味をそゝり、懐しさを増すのであつた。
「お父つあんな淋しかろえな。」
 こんなことを姉は幾度言つたか知れなかつた。
私が父と別れる時のことを話した折には、彼女は、父の淋しさうな姿が見えると言つて泣いた。そして路傍に立ち止つて私を抱き締めなどした。
「能登へ行つたかて、お母さん居らへんし、妾等わてらは京のもんになろえな。」
 こんなことも姉は言つた。
 帰りには京極へまはつて、見世物を見たり、善哉ぜんざいを食べたりして、日暮に六条の家へ帰つた。そして、晩飯がすんで、姉の手が空いてから、私は四条の伯父の家へ連れられて行つた。
 初めて電車といふものに乗つた。四辻へ来る毎に、赤い信号旗と火事提灯とを持つた小僧が、通行人を警戒する為に、運転台から飛び下りて、馬車の馬丁の様に先走りするのが、その時の私には物珍しく映つた。
 四条小橋際の停留場で下りた。伯父の家はすぐ近くにあつた。四条大僑の西詰の角の三階建の大きな家がそれだつた。四条通りの方に面した例の薬屋の店の前をわざと通り越して、橋の上まで行つて、遠くから姉はそれを指して眺めさせた。私は胸をとゞろかせながらその建物を見上げた。四辺あたりに一際高く、二階にも三階にも明るく点された大きな四角な建物は、まるで城の様に私の眼に映つた。橋を中心にしたその辺の街は京都で最も美しい賑かな街の一つであつたが、その灯の街とも人の街ともいつた様な四辺の美しさも賑はしさも、私の眼にも耳にも入らなかつたほど私の心は乱れて居た。
「賑やかどすやらう、どうえ?」
 私が黙つて居るので姉はさう促すやうに言つた。姉は、都の夏の夜景の美しさや繁華さが、田舎者の私を驚嘆させたに違ひないと思つたのであらう。態々橋の上まで連れて行つたのも、私にそれを見せる為だつたに違ひない。そして私の驚異と讃嘆とを買つて得意を感じたかつたに違ひないのだつた。
「つい此間まで、この河原に納涼すゞみがおして、ほんまに綺麗どしたがな、こなひだ大水が出てな、皆流されて、まだ夜があんじようならへんので、淋しんどつせ。」
 しかし、私は顧みもしなかつた。私の心は、今夜からこの眼の前に聳えて居る大きな家の人となり、多くの見知らぬ人々の間に起臥おきふしするのだといふ漠然とした不安や恐怖やで一杯になつて居た。
「これから世の中へ出るのだ。どんな運命が自分を待つて居るだらう?」
 子供の私には勿論そんなはつきりした意識はなかつたが、詮じつめればそんな風な気持で一ぱいになつて居たのであつた。

 数分の後、私は姉の背後うしろに身を隠すやうに寄り添ひながら伯父の家へ入つた。先斗町ぽんとちやう並びの広い玄関口の一方の柱には、斜に描いた瓢箪の下に旅館浪華亭と書いた瀟洒せうしや掛行燈かけあんどんが懸けてあつた。足の裏のむず痒くなるほどつる/\した広い式台に立つて玄関正面の大きな姿見の中に萎種しいなのやうな小さな自分の姿を映し出された時には、ぞつと身の冷たくなるのを感じた。
 伯父の居間は宿屋の方の帳場と薬種やくしゆを売つて居る店との間にあつた。唐筵たうむしろを敷きつめた八畳の室の真中に寝床を敷いて、その上に伯父は平袖の寝衣を着、骨だらけの痩せた胸をはだけ、大きな胡座あぐらをかいて、三十位に見える色の白い美しい丸髷の女に肩を揉ませて居た。そして其側に四十近くのこれも丸髷に結つた、円顔の、色の稍※(二の字点、1-2-22)黒い、朴訥ぼくとつさうな女が、長煙管で煙草をつて居た。
 私が今夜来ることは、昼間私達が見物に行つて居た間に、鍵屋の伯母が来て知らせてあつたので、私達が入つて行くとすぐ、
「この子さんどすか、ようお来なはつたえな。お君さんの弟さんどすか。」と年増の方の女が丁寧な口調で言つた。
「えゝ、こんな坊ンが出て来よつたよつてな。どうぞ世話してやつてお呉れやす。」と、姉は大人びた口調で言つた。
「ふん。」と其女は独りうなづいて、「まだ小さうおすえな、幾つどす?」
「十三どす。十三どすけれどな、この子は小さい時から病気ばかりしてはつて、よう太れへんのどつせ。わてが田舎に居た時分から、こんな顔色の悪い小さい子どしたんえ。」
 かう姉はべら/\と説明して、ふと気がついた風に、
「これ、伯父さんにも伯母さんにも挨拶おしんか。」と私を顧みて叱るやうに言つた。そして、「まだ何にも知らへん田舎者どすよつてな、叱つて使うてやつてお呉れやす。」と皆に向つて言ひ足した。
 私は黙つたまゝ頭を下げた。
「すぐ馴れはりますえな、善い丁稚でつちはんどすがな。」
 此時肩を揉んで居た女が口を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んだ。
 伯父は気分でも悪かつたのか、始めから気むづかしい苦りきつた顔をして、太い銀の煙管で力強く吐月峰はひふきを叩きながら、時々私の顔をめつける様に見て居た。まだ四十を越して間もないのに、歯が上下ともすつかり抜けて両頬が深い穴の様に落ちけ、皮膚のたるんだ脂肪気あぶらけの抜けた黒味がかつた顔に、二つの大きな眼をぎろ/\させて居る形相ぎやうさうは恐しかつた。彼は私に、「病気は快うなつたんか?」と一言訊いたばかりで、「よく来たな」とも言つて呉れなかつた。それは如何にも冷やかな、まるで道楽息子でもいましめて居る時の様な厳めしい態度であつた。私は伯父が田舎に来て居た時分のことから推して、もつと温かな優しい伯父を予想し、その庇護を求めて来たのであつたが、今この冷厳な彼の態度に、少からず失望し且つ心細く感じた。
「能登の伯父おつさん、お達者どすか? 此の前はな、家の旦那はんが行かはつて、えらい厄介おかけやしたえな。」と肩を揉んでゐた女が続けてお愛想を言つた。
 私は此女が伯父の妾だなと思つた。妻君でないといふことは、何の理由もなしに只さう思はれた。彼女は今一人の女よりはずつと若く且つ美人で、態度ものごし容姿ようすいきであつた。面長で、鼻がつんと高く、頬がつや/\して居た。けれども年増の女に比べると優し味が少い様にその時私に思はれた。
 
 こんなお目見えの様なことが済んでから、私は再び姉に連れられて程遠からぬ京極の方へ夜の賑ひを見物に行つた。
 旅の疲れと睡眠不足と、それに今日は朝から歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つたので、私は非常に疲労を覚えて居た。二三日来の異常な精神の昂奮と、神経の緊張との為に漸く身体を保つて居たが、ともすれば雑沓の中にでもふら/\と倒れかゝるやうなことがあつた。私は休息と安眠とにかつゑて居たが、それは許されなかつた。伯父を始め、側に居た女達も、私の姉も、私に見物に行くことを勧めた。之は彼等の善意から出た親切であつた。疲れて居るだらうから、早く寝ろといふ代りに、彼等は、田舎から来て見物したからう、今晩だけ暇をやるから遊んで来いといふ風に言つて呉れた。私はそれをしりぞけて、自分の欲する儘に振舞ふこと、例へば何処かの部屋の隅にでも一人寝るといふ様な我儘を言ふだけの親しみをそれらの人達に対して持つて居なかつた。私は厭な仕事を命ぜられて厭々ながらそれをしなければならないといふ様な気持で姉と一緒に出掛けた。
「睡たいし、疲れたさかい寝る。」
 例へばかう私が言ふと、
「おう、寝よ、寝よ。」
 かう甘えさせて呉れる人が欲しくてならなかつた。
 姉は一向そんなことに気が附かぬものの如くであつた。彼女は私に賑やかな美しい京の街を見せたい腹もあり、また自分自身も放たれた一夜を享楽したいのであつたらしい。で、彼女は、私が大儀さうに、また厭々らしく彼女の後について行くのを不満に思つたらしく、時々「早くおなはんか!」と叱る様に言つた。
 宵の京極は人の波でこね返されて居た。そしてその明るいまばゆい灯の光は、私をしてその疲れた眼を開くに堪へざらしむるほど刺戟が強かつた。眼瞼まぶたがちく/\と刺される様に痛く、身体がふら/\して、人にぶつかつてばかり居た。私は姉が両側の飾窓シヨウウインドの前に立つたり、見世物の看板を眺めながら立つて居たりするのが、憎らしく自烈じれつたくてならなかつた。併し姉をうながして帰らうとするにも行く所がなかつた。到頭堪へられなくなつて、帰らうと言ふと、姉は眉をひそめながら、
「帰つたかて、おまはん、寝られへんやおへんか。浪華亭はんはな、おそまで起きてはるよつてな。十二時迄、店しまははらへんえ。」と怒つた様な調子で言つた。
 私は当惑した。これから帰つて伯父やその他の人々の前で、あの痛い唐筵の上に窮屈にきちんと坐つて、無為と戦つて居ねばならぬことが、恐しい刑罰を課せられる様に堪へられぬものに思はれた。
「あゝ、弱つたな!」
 私は泣き出しさうに嘆息した。
「そんなら、斯うしまほ。寄席へ入つてな、わて落語はなし聞いてるよつて、其の間おまはん、そこで寝なはい。はねたら起したるよつて。」と姉はいゝ事を思ひついたといふ風に言つた。
 私はそれに従つた。
 再び姉に送られて伯父の家へ帰つたのは十一時少し過ぎた頃だつた。
「今晩だけはお客さんにしてやるが明日から丁稚でつちやぜ。」
 かう伯父に言はれて、私は間もなく二階の客間へ導かれた。姉は其家の女中かなんぞの様に、私の為に床をのべて呉れて、暫く病人の看護人のやうに枕元に坐つて居たが、やがて帰つて行つた。朝早く起きることや、よく家の人達の言ふことをきいて働けといふことなどをいろ/\教訓して。それからあの年増の女がお文さんといつて伯父の本妻だが、訳があつて別居して居ることや、肩を揉んで居た女が、私の推察通り、伯父の妾でお雪さんといふのだが、今では此家こゝの主婦となつて切りまはして居るといふことなどをも話した。
 私は伯父とそれらの二人の女との関係について不審を抱かないではなかつたが、それよりも伯父を始め姉のお君までが、私の上京の目的や将来の望みなどについて一言も尋ねて呉れないので、最初からもう、私が丁稚奉公をする為に出て来たものの様に勝手に決めて了つて居るらしいのが気になつた。そして今となつてはもう自分の本心を伝へるすべも機会もないのを非常にもどかしく思つた。
 間もなく一人の女中が来て私の側にまた一つ寝床をのべて行つた。私は誰が来るのだらうと窮屈に思つて居ると、やがて入つて来たのはお文伯母さんであつた。私は伯父の本妻だといふこの女が、自分の亭主の側に寝ないで此処へ来たのを変だと思つた。そして伯父の側にはあのお雪さんといふ妾が寝て居るのかしらと疑つた。
「寝られるかえ――おまはん、恭やん言ふのどしたえな?」
 お文伯母さんは寝衣に着更へながらさう言つた。
 私は「えい。」と口の中で言つた。
「ゆつくりおやすみやすや。お疲れやしたやらう? お君さんに方々見物に連れて行てお貰ひやしたか。よかつたえな。賑やかどしたやらう? お寝みやす。」
 彼女は早口にそんな事を言つて寝床に入つた。そして二言三言お念仏を唱へたかと思ふと、もういびきをかき始めた。
 戸外にはまだ/\盛んに人通りがあつた。橋の上を渡る車のわだちの響が、或は近く或は遠く、ごろ/\がう/\と、絶えず枕を震ひ動かすやうな気がした。橋詰のアーク燈の光が、縁側の硝子戸を透して、電燈を消して暗くしてある部屋の中を、まるで月光のやうに青く明るく照して、二つの寝床がその中に小舟の浮んで居る様に見えた。
 私は急に眼が冴えて来て、中々寝つかれなかつた。父のことも思ひ出された。寺から帰つてから、私の居ないのに気がついて、父と継母とがどんな風に話して居るだらうかとも思つた。私が郷里を逃げ出したといつて、村中の評判になつて居ることも思はれた。それによつて、継母が何かと引合に出されるので、彼女が親類や近所の人達に、自分から何かと弁解して歩いてゐるらしいことも想像された。
 併しそんなことよりも、明日からの生活が余計に気になつた。「明日から丁稚でつちやぜ。」と言つた伯父の言葉が、其時の私の心の殆ど全部を占領して居た。何だか恐しい様であつたがまた一面には楽しいやうな気がせぬでもなかつた。胸が烈しく波打つて居た。

 一晩中、橋を渡る車の音が耳を離れなかつた。まるで汽車に揺られつゝ其重い響を何処かに聞きながら半ば睡つて居る時の様な気持で、夢現ゆめうつゝの間に不安な一夜を明かした。
 その翌る日から、私はもう浪華堂(薬店の方はさういふ名であつた)薬店の丁稚であつた。
 何もかも私には初めての経験であつた。私はまづ妾のお雪伯母に指図されながら、店の戸をあけ、いろ/\の売薬の看板を店頭に吊し掛けた。中には私が全身の力を出してやつと持ち上げることの出来たやうな大きな重いものもあつた。それから店先の往来を手前の方半分ばかり掃いてから、店の掃除を始めた。はたきを持つことは、その時始めて教へられた。それは中々容易な仕事ではなかつた。薬品の陳列棚や戸棚の硝子戸などをはたくのだが、うまい工合に先の襤褸片ぼろきれさばけずに、どうかするとそれを止めてある釘の尖などで、硝子戸をがち/\と叩いたりした。
「下手えな、はたき使うたことおへんのかえな? 硝子が割れまつせ。」
 お雪伯母は叱るともなく言つた。私の不器用さが、癇癪持らしい彼女を焦燥いら/\させたに違ひないが、田舎から来たばかりの、それも伯父の身内の者だといふので、彼女は、正面から叱り散らすことを遠慮したのであらう、と私は思つた。
「どれ、お貸し。」
 お雪伯母は私からはたきを取つて、如何にも巧に、敏活にはたいて見せた。併し、其の要領を教へることなしに、「さあ、はたいてお見。」と私にまた渡すのであつた。私はまごつかざるを得なかつた。
 長い竹の柄のついた椶櫚箒しゆろばうきを使ふことも、私には初めての経験であつた。箒の先に力を入れないで柄の方に力を入れて、軽く掃き出せと言ふのだが、田舎で使ひ馴れた身藁みごや、黍殻きびがらの手箒などとは勝手が違つて、先の方が妙に手応てごたへがなかつたりして、どうもうまく使へなかつた。そして、それでは塵が出ないとか、箒の先が曲るとかと小言を言はれた。その箒は、椶櫚の穂先を一寸ばかりだけ出して他の部分は更紗さらさの袋を被せてあつた。それは何となしに猿に着物を着せたやうで、私には奇異ふしぎに感ぜられた。
 無数の薬の名前と、その置き場所とをすつかり覚え込むまでには、かなりの日数をつひやした。が、併しそれは左程困らなかつた。困つたのは客との応対であつた。言葉がはつきり聞き取れないのも勿論であつたが、「お出でやあす。」「お帰りやあす。」といふ、この単純な言葉が何うしても言へなかつた。最初二三日、まだ店のことに馴れぬ間は、お雪伯母が客の来る毎に店に出て来て呉れたので、その後について、我と我身にも恥しく応じながら、口の中で呟いて居たが、愈※(二の字点、1-2-22)一人となつた時には恥しく、気まり悪くて、どうしても口から出なかつた。

 四五日の後には、私はすつかり――服装も頭髪も――商家の丁稚姿になつて居た。双子縞ふたこじま単衣ひとへに黒い小倉の角帯をしめ、或は赤ン坊の様に周囲を剃り落し、真中を固く饅頭形に残してあつた。丁度お椀の蓋でも被つて居るやうなものであつた。けれども今まで円坊主頭であつたから、剃り残された部分の毛が如何にも短かく、他の丁稚等の様に、歩く毎にふは/\とする様な、いゝ格好ではなく、自分ながら恥しいほど見つともなかつた。如何にも新米のほや/\の丁稚だといふことを証明して居た。これは伯父白身が私を床屋へ連れて行つてさせたのであつた。
「いゝ丁稚はんになつたえな。」
 その時お雪伯母が言つた。伯父は黙つて笑つて居た。私はかうして永久に私の希望を述べる機会を失つて了つた。
 私はそんな姿で、朝早くから夜遅くまで店に出て居た。店は間口が広く、正面の一部と両横とには上半分が硝子戸棚で、下半分が沢山の小抽出のついた薬品棚がずつと壁に沿つて立て※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)され、中程の適当な位置に、だゝつ広い店頭を引き緊める為の様に、左石に一脚宛、黒塗の轆轤細工ろくろざいくの陳列棚が飾りつけられてあつた。私は其左寄りの棚の背後の帳場机の前に、棚の蔭に半身をかくすやうにしてぽつねんと坐つて居るのであつた。そして売り上げた品名と代価とを一々横綴の帳面に記入する外には、これといふ仕事はなかつた。
 身体は実に楽であつた。田舎で達者で居た時分に、学校から帰るとすぐ浜へ出て、漁仕事の手伝をしたり、畑仕事に出たり、遠い谷間へ水を汲みに行つたりして居た身に比べては、まるで比較にならなかつた。けれどもこの身体の安楽は私にとつて決して嬉しいものではなかつた。私は間もなく退屈と窮屈とに悩まされ出した。店は大きく、それに場所は此上なく良かつたけれど、元来売薬に化粧品位を売つて居るのだから、さう客はありやうはなかつた。寧ろ暇な方だつた。けれども私は一歩も店を離れることは出来なかつた。硬い唐筵の上に、しびれをきらして端然ぢつと坐つて居なければならなかつた。最初机の前に座蒲団が置いてあつたので、私は何心なく、何等の顧慮もなく、当然の様にその上へ坐つて居た。するとお雪伯母がそれを見て、「らさうにお蒲団なんか敷いてるえな。」と叱るともなく笑ひ/\独り言の様に言つたが、何時ともなく私の知らぬ間にそれが取り去られてあつた。それは丁稚風情が座蒲団など敷くものではないといふことを暗示したのであつたのだ。私は子供心にもその意味を猜察さいさつした。そして大変悪いことをしたものの様に暫くの間はおど/\と、お雪伯母の顔色を窺つてゐた。
 或る時、あまり足が痛かつたので、そつと机の下に足を投げ出して脛をさすつてゐると、折悪しくそこへ伯父が出て来て、
「何や、そのざまは! そんな行儀がおすかいな!」と厳しく叱られた。
 また或る時店先の上りがまちに腰かけて、足をぶら/\させて居るのをお雪伯母に見附けられて、小言を言はれた。お雪伯母は伯父の様に頭から叱りつけることをしなかつたが、その代り遠※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しに諷示あてこすりを言つた。その時でもそんな風なことをして居れば、如何にも暇さうで、店が不景気に見えるからいけないのだと言つた。私は伯父の一喝よりも、お雪伯母の諷示あてこすりを恐れた。

 私はそんな風にして、伴侶つれもなく話相手もなく、全く独りぽつちで終日店番をして居なければならなかつた。身体を崩すことが出来ないばかりでなく、同じ様に一刻も心をゆるめることが出来なかつた。何時客が来るかも知れないからといふよりも、何時品物を掻つさらはれるかも知れないといふ警戒の為であつた。その頃よく乞食が、竹の先に鳥もちをつけたのを持つて歩いて、店頭に積んである軽い品物、例へば歯磨粉の袋だとか、落し紙の束だとかを掻つ浚つて行くといふことであつた。しかし私はまだ一度もそんな目に出会はなかつた。私は只いたづらに空虚な心を強ひて緊張させて往来を眺めて居た。多勢の通行人の中から※(二の字点、1-2-22)たま/\一人店頭へれて来る者はないかと、それのみに眼を配つて――。
 それは如何にも単調で退屈であつた。往来の繁華さは、最早殆ど私の感興を牽かなかつた。只同じ様な人と車との、目まぐるしい雑沓だけだつた。いつも同じことだつた。何事も起らなかつた。たゞ幾らか私の注意を牽いたものは、其の多勢の人々の中で、私と同じ様な丁稚姿の少年を見出すことだつた。彼等は皆同じ様に椀被わんかむり頭をして居た。そして、同じ様なこまかい双子縞の衣服に黒い小倉帯をしめ、黒い皮鼻緒の雪駄せつたを穿いてちやら/\と前かゞみに忙しさうに歩いて居た。大きな風呂敷包をになつて居る者もあつた。手ぶらの者もあつた。もう頭を五分刈りにした手代風の男の後から屋号を書いた箱車を引いて行く者もあつた。彼等は皆その頭髪の格好なり身体の様子なりが、もうすつかり丁稚になりきつて居た。私の様なほや/\のものは見当らなかつた。私は彼等の姿を見る毎に、思はず自分の身が顧みられた。そして我知らず頭へ手をやつて見るのであつた。彼等もまた私の方を見返つて行く様であつた。私は彼等を羨んだ。自分にもあゝして、使ひ歩きする用事があつて呉れればいゝと思つた。こんなにして殆ど無為に而も自由なしに終日黙然もくねんと坐つて居るよりは、残酷に追ひ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)され、こき使はれる方がましだとさへ思つた。
 或る時私はこつそりと、つい二三軒離れた近所の本屋へ走つて行つて、田舎に居た頃から愛読して、時々投書などをしたことのある少年雑誌を買つてきた。そして机につて熱心に読んで居た。
「これ、何しとるんや!」
 突然伯父の大きな恕声が後で叫んだ。私は悸然ぎよつとして、慌てて雑誌を机の下へ投げ込んで弾機ばねの様に立ち上つた。
「阿呆かいな!」
 伯父の眼が鋭く私の眼を射た。私は釘附にされた様にそこに立ちすくんだ。
「それ、何や?」
「…………」
「誰がそんなもん読め言うた! お客さん来やはつたら、どうするんや。」
「…………」
「何時そんなもん買うて来よつたんや?」
先刻さつき……」
 私はやつとそれだけ言つた。すると伯父は、其間私が店を空つぽにしたと言つてなほ厳しく叱つた。そして叱り序に、店の売り上げ銭で買つたのではないか、とさへ言つた。私は父から貰つて来た小遣銭で買つたのだと弁解した。
「おあしなんか持つて居よつては、買ひ食ひしたりしてあかへん。伯父さんに寄越よこし。」
 伯父は幾らか言葉やさしくさう言つた。そして私は雑誌ばかりでなく、父から貰つて来た僅かな小遣銭まで取りあげられて了つた。後でお雪伯母が出て来て、いろ/\なだめて呉れたが、私は故もなくお雪伯母が伯父に告げ口をしたのではないかと疑つた。
 初めの中はさうでもなかつたが、だん/\居慣れて来るに従つて、心にいくらかゆるみが出来たものか、私は時々居眠りをする様になつた。夜が更けて、店をしまふ頃になると、意地悪く眼が冴えて来たが、宵の口の一二時間は我慢が出来ないほど眠かつた。店頭のにぎはしさなども一向心を引くことがなく、その騒々しい往来の物音も、どこか遠いはるかな夢の世界のものの様に聞え、いくら眼を見開いても、何も見えず、心がとろ/\とろけて、深い底の方へしん/\と沈んで行く様だつた。私はどんなに警戒して居ても、いつの間にか飾り棚の陰に隠れて机の上に打伏して居たり、机の前に横になつて居たりするのであつた。そしてよく叱られた。伯父に頭を平手でびしつと叩かれたり、足で蹴り起されたりする事が幾度あつたか知れなかつた。よく顔に墨を塗られたり、帯に紐をつけて机に縛りつけられて居たり、算盤を結びつけられて居たりした。そして突然呼び起され、驚かされ、狼狽うろたへさせられて、皆の哄笑の種となつた。
 或る時お雪伯母が私をそつと揺り起して、
「伯父さんがお呼びやしてやよつて、早う行ておいなはい。」と低声こごゑに優しく言つた。
 私は慌てて瞼をこすり、身仕舞をなほして、取り澄した顔をしながら伯父の部屋へ行つた。伯父はふかり/\と煙草をふかして居たが、私の顔を見ると、いきなり、
「何や、そのつらは!」と怒鳴りつけたと思ふと、如何にも腹が立つて堪らぬといつた風にわな/\しながら、持つて居た太い銀煙管で私の頭をごつんと叩きつけた。
「あいた、た、た!」と私は口の中で叫び立つて頭を抱へた。頭はぐわんと鳴り響いて、眼がくらんだ。
「阿呆奴!」と伯父は大喝した。
 私は声も挙げ得ず、歯を喰ひしばつて、息を呑んだ。私は誰か来てかばつて呉れるか、伯父がもつと優しい顔して居たかすると、どんなに大声に泣き叫んだかも知れなかつた。けれども、泣けば尚酷く打擲ちやうちやくされるだらうことを知つて居たので、堪へ忍んだ。ぽろッ/\と玉の様な涙が唐筵たうむしろの上に音をたてて落ちた。私は何の為に叩かれたのか理由が分らなかつた。只おど/\しながらしかし逃ることもせず、更に第二の打擲の来るのを警戒して居た。此時若し私が大声に泣き叫んで逃出して行きでもしたなら、それが子供らしく可愛気があつて、伯父の怒を和げたであらうが、しかし私には逃出すだけの勇気がなかつた。無邪気さがなかつた。此の場合逃るのは悪いといふ小賢こざかしい智慧が働いて居た。私は尚頭を抱へたまゝ其処に立ちすくんで居た。
「何してけつかる、まだ分らへんのか。阿呆奴!」
 伯父は尚激怒した調子で怒鳴つた。
「もうよろしおすがな、堪忍しておやりえな。」と此時お雪伯母が入つて来て伯父に言つた。そして私に「早うて顔洗うておなはい。」と言つた。
 私は始めてそれと気がついた。私の顔には真黒に墨が塗られてあつたのだ。
「おまはん、あんまり居眠りするよつてや、これから気を張つてお居や。」
 お雪伯母が後で店へ出てから言つた。そして、「伯父さんはな、病気おしはつてから気が短くならはつてな、誰でもあんなにきつく叱らはるんや。けれども善い人やよつてな、悪く思はんと辛抱おしや。おまはんの為やよつてな、伯母さんあんじよう言ふといてあげまつさ。」と、優しく庇ふ様に言つた。
 が、私はその時お雪伯母を信じなかつた。私は彼女を怖れた。お雪伯母は私の顔に墨を塗つて置いて、わざと伯父の所へ私をやつたのだ。ところが、伯父の叱り様が、お雪伯母の予期以上に酷かつたので、彼女は私に対して少し不安を感じたのだ。自ら気が咎めたので、こんなことを言つて弁解するのだ。と、こんな風に私は疑つた。
 伯父の笑顔は滅多に見られなかつた。何処が悪いのか知らなかつたが、いつも疲れきつた、ものううささうな様子をして、寝床の上で脇息けふそくもたれ、苦りきつた恐しい顔をして、ぢつと一方を凝視みつめて居た。三方壁で囲まれた薄暗い部屋の真中に、私はいつも彼のぎろ/\した恐しい眼を見出して縮みあがつた。店に坐つて居ても、私はその鋭い眼光が、隣の部屋から壁を射透して来るかと思はれた。私はそれを私の背に感じた。時々太い溜息が壁を透して洩れて来た。私はその度毎にはつとした。
 伯父の不機嫌は、主にその身体の工合から来て居るらしかつた。で、偶に気分のいゝ時もあつて、そんな時には、
「恭公、祇園さんへ連れてつてやろ。」などと言つて、散歩のお伴に私を連れて行つた。大抵は朝早くで、伯父は軽い麻裏あさうらを穿き、ステッキを携へて悠々と歩いた。祇園から清水あたりまで行くこともあつたし、電車で北野の天神さんへお詣りに行つたり、時には東寺の朝市などへも連れて行つた。そして縁日の賑ひを私に見せながら、
「どうや、恭公、(富来とぎの市)とどつちが賑やかや?」などと調戯からかひなどした。「富来の市」といふのは、私の郷里の村から一里ほど離れた富来といふ町に秋祭の時一週間ばかり行はれる祭市のことで、その夏、伯父が来た時、私がその賑ふ有様を自慢したのであつた。
 伯父は四十四か五位で、普通ならばまだ男盛り働き盛りの年頃であつたが、若い頃からの異常な精力の浪費を思はせる様に、この年齢に於て既に一寸見には六十近い老人の様にやつれて居た。丈の高い兄弟仲間中でも一番丈の高い伯父は、痩せられるだけ痩せたといふ風にひよろつとして居た。頭髪も薄く、最早胡麻塩になり、殊に歯が上下とも一本も残らず抜けて居たのが、一層彼を年老としよりに思はせた。両頬は深く落ちけて、眼は窪み、頬骨ほゝぼねばかりがいやが上に高く、常には外して居る総入歯を、御飯の時などにめて、入歯をして居る者がよくする様に、両唇をきゆつと引き縮めて歯をき出す時には、そのいやに白く若々しく揃つた入歯が、彼の顔全体の相との調和を破つて、まるで骸骨の様に凄くした。

 後になつて、だん/\に分つて来たことであるが、伯父は子供の時分から、ふた親の手におへないほどのあばれ者であつた。剛情で、我儘で、一徹で、見栄坊で、喧嘩好きで、気の弱い彼の母親などは、彼が将来、強盗を働くとか、人殺しをするとかいふやうな恐しい悪党になりはしないかと、その将来性を非常に気遣ひ且つ怖れて居たさうである。
 彼は十六の時に大阪の方へ出奔しゆつぽんして行つた。その後どんな生活をして居たか、それきり便りがなかつたので殆ど分らなかつた。うどん屋の出前持になつて居るとも言はれたし、新町の或る芸妓屋の箱屋になつて居るとも言はれたし、また無頼漢の仲間に入つて居るとも噂された。
 七八年の後、彼はひよつくり京都へ戻つて来た。そして彼が出発前に嫁に行つて居た姉の家――六条の鍵屋――に暫く身を寄せて居た。親の方では表向き彼を勘当して居たので寄せつけなかつたのである。
 京都へ戻つた時には、彼はいくらかの纏つた金を懐にして居た。どうして獲たものであるか誰にも話さなかつたが、彼は間もなくそれを資本に停車場前にうどん屋を始めた。
 それが不思議に当つた。数年ならずして彼は別に、五条の方に牛屋を始めた。それからはとんとん拍子であつた。七条新地はししたに女郎屋を、三条の方に鳥屋を、西石垣さいせきに会席料理屋を、先斗町ぽんとちやうに芸者屋をといふ風に、次から次へと新しい妾を蓄へては、その度毎に新しい店を一つづつもたせた。そして最後にこの四条の橋詰に最も新しく最も気に入りのお雪伯母に宿屋を始めさせたのであつた。
 併し私が京都へ来た時には、この四条の家だけしか残つて居なかつた。それほど手広くやつて居たのに、どうしてめたのか知らなかつた。多くの女達も離れて行つて居るらしかつた。西石垣の料理屋をやつて居たといふ本妻のお文伯母の外には、みなで七八人もあつたとかいふ妾の中には、今のお雪伯母しか残つて居なかつた。
 お文伯母は、本妻として、戸籍には載つて居たが、宮川町の方にお福といふ養女と別居して居た。彼女は時々四条の店の方へやつて来たが、泊つて行くことは稀であつた。
 お福といふ其の養女も時々やつて来た。二十二三の面長のすらりとした綺麗な女だつた。眼のきれの長い、鼻のつんと高い、どこかに剣のある顔の女だつた。お文伯母の円顔の穏かな人の好ささうな顔附とは反対に、きりゝと締つた、しつかり者といふ様子があつた。その点では彼女はお雪伯母に似て居た。彼女は祇園でかなり知られた芸妓だつたさうだが、今は廃めて、ある旦那にかこはれて居るのであつた。彼女は伯父をば「お父つあん。」と呼んで居たが、お雪伯母をば「姉はん。」と言つて居た。
 伯父は自分の子供はもたなかつたが、養子を幾人もして居た。お福さんの外に、お高さんといふ娘を養女にして先斗町の芸妓屋の方に置いてあつた。私が行つた時分には、お高さんは丹波の福知山に芸妓をして居て京都には居なかつた。これも後になつて聞いたことであるが、伯父はこのお高さんを大変可愛がつて、行く/\は、四条の家の方の養子にしてある幸三郎といふ男とめあはせる考へだつたのであるが、お高さんが自身から芸妓になりたいと言ひ出してきかなかつたので、流石さすがに土地から出すわけにも行かず、福知山の知合の芸妓屋へ預けたのださうだ。
 幸三郎さんといふのは、四条のお雪伯母の養子にしてあつた、大阪の新町の芸妓屋の息子で、その頃兵隊にられて伏見の聯隊に行つて居た。幸三郎さんは、日曜になると休みに帰つて来たが、いつもにこ/\とした、愛嬌のある、立派な好い男だつた。私が行く前には、薬店の方へ出て居たさうだが、帰つて来ると和服に着更へて、番頭風に前垂掛で、店の机に坐つた。優しい親切な人で、「恭やん、淋しいことおへんか、田舎へ帰りとうおすやろ、お父つあんから便たよりおすか? ろても辛抱おし。」などと、優しい女の様な調子で、よく私を慰めいたはつて呉れた。私が彼の養父の弟の子で、彼とは義従弟同士で、普通の丁稚でつちとは違つて居た為も幾らかあつたであらう――。時にはまた、「兄さん、店に居てやるよつて、おまはん、暫く遊んでお出で。京極へでも行てお来なはい。かまへん。お父つあんには、兄さんがあんじよう言うてあげるよつて。」などと言つて、私を遊びにやつて呉れることもあつた。私に菓子を買はせて来て、自分はその中一つ二つつまむきりで、後を私に残して呉れる事なども度々であつた。
 私は幸三郎さんを本当の兄の様な気持で懐しんだ。日曜日の来るのを待ち兼ねた。
 今一人、やはりこの四条のお雪伯母の子として、お信さんといふ女が養女になつて居た。お信さんは、私が来る一寸前まで、宿屋の方の下女の取締りのやうなことをやつて居たさうだ。が、私が行つた時分には、彼女は家に居なかつた。
 私が来て間もない頃であつた。或る日私は使にやられた。真中に四つ目の紋を、一端に浪華亭と白く染め抜いた一反風呂敷に、夜具か何かを嵩高かさだかに包んだ私の身体よりも大きな包みを背負つて、私は教へられた通り、辻々の電信柱に貼つてある町名札を見ながら、西へ西へとよち/\と歩いて行つた。それが私が使に出された始めての経験であつた。そして、もう四条通りも端に近い或る町の、狭い露地奥の小さなしもた家で、私はその大きな包みを下した。私は家の中へは上らなかつたが、入口の土間に立つて居ながら、奥の方に子供でも生んで寝て居るらしい若い女の姿を見た。それがお信さんであつた事が後になつて解つた。
 お信さんは乞食の子であつた。このことも私は後になつて聞いたのだ。家のすぐ前の河原に、橋の下に両親と共に寝起して、朝夕二度宛、客の食べ残りなどを貰ひに裏口へやつて来て居たのを、伯父が憐んで貰うつてやつたのださうだ。それは彼女の十二三の時であつた。冬の寒い夜、近所などに内密にそつと家へ入れてやつて風呂へ入れてやり、お福さんの着古しの綿入に着更へさせてやつたが、虱にさゝれて、全身がふくれあがつて居たさうだ。
 彼女の両親は、その日から河原から姿を隠して了つた。そしてそれぎり一度も顔を見せなかつた。
 三年五年と経つうちに、お信さんは見違へるほどのいゝ娘になつた。色も白くなり、髪も黒く長くなつた。鼻が少し上向だつたが、円顔の黒瞳くろめ勝の顔には愛嬌があつた。十六七の頃から、彼女は下女達と交つて、客の前へ出るやうになつたが、家の養女むすめだといふのと、小作りの可愛気のある姿態ようすとで、大変客に可愛がられた。
 さうかうして居る中に、電信の技手で、東京から出張して来て半年余りも滞在して居た森本といふ男と関係して、其の男の子をはらんだのであつた。そしておなかが人目にたつ様になつた頃から、お雪伯母の姉の家へ預けられたのであつた。私が使に行つたのは、丁度子供が生れたばかりの時で、嬰児の産衣や蒲団などを持つて行つたのであつた。
 お信さんが森本といふ男と関係したのは、お雪伯母が自分の不始末を塗り隠す為に、巧くくつゝけたのだといふ事も、私は後になつて、人々がお雪伯母の不義に関するいろ/\の噂をするのを聞いて知つた。それは最初お雪伯母が森本と関係して居たのであつたが、その噂が伯父の耳に入りさうたなつたので、彼女は巧にお信さんを森本と関係させたのであつた。さうして、森本が関係したのは、彼女ではなくて、お信さんだつたと家中の者のそれまでの誤信を証拠立てようとしたのであつた。このお雪伯母の策略は見事に成功した。お信さんは不幸にも、お雪伯母にとつては幸福にも妊娠した。そして誰も彼も、森本とお雪伯母とが関係があると思つたのは彼等の誤信だつたと思ふ様になつた。併し知る者は知つて居た。
 お雪伯母の不倫に関するこの種の風説を、後になつて、彼女が或る事情から親類の人達の非難の的となつた時に私はよく耳にした。彼女が伯父の許に来る前に出来て居た男と、其後も関係を続けて居たといふこと、宿屋を始めた頃によく盗賊が入つたやうな事情から刑事巡査が始終出入して居たが、その中の一人とも関係したこと、また伯父の友人で、保険会社へ勤めて居る池田といふ男とも出来合つたこと、それから更に、養子の幸三郎の父親とも――。
 幾人もの妾達が、伯父から離れて行つたのも、またお雪伯母が出来てからであつた。それまでは、彼等は互に友達交際づきあひ親類交際をして、仲よく往来して居た。が、お雪伯母が家に入つてからは、彼等は言合せたやうに次第に伯父から離れて行つた。それはお雪伯母が伯父の特別の寵愛を笠に着て、新参者にも拘はらず、彼等に対して兎角驕慢に振舞ふので、それに対する反感から同盟したのだとも言はれた。伯父が、何故に、彼等妾達が彼にそむいて行くのを黙つてなす儘にさせたのか、それはお雪伯母にすつかり籠絡されて了つて、彼女の思ひ通りに占有されたのだとも言はれたし、また伯父自身が身体の衰へもあつたりして、最早彼から離れ去らうとする彼等を、再び引き止めようとするほどの強い執着も熱も精力もなくなつたが為だとも言はれた。
 しかし私はその頃そんなことは少しも知らなかつた。お雪伯母の身特のことも、伯父と彼の周囲の人々とのこみ入つた関係や事情などについては、もとより知るところがなかつた。只私は本妻だといふお文伯母が、何故伯父と、一緒に居ないで、別居して居るのだらうかとその事ばかり不審に思つてゐた。

 三月ばかり経つた。私の髪の毛は大分長くなつた。もう外を歩いても振り返られる様なみつともなさはなくなつた。私の頭の上でふは/\とふさがさばけるのを感じようとして、わざと頭を振つて歩いて見たりした。京言葉を使ふのにも、さして気まり悪くなくなつた。塩風に吹かれて黒かつた顔色も幾らか白くなつた。
「矢つ張り鴨川の水やな、来なはつた時は、廊下の板の間の様どしたが、えらう白ならはつた。」
 真面目とも、ひやかしともつかず、或る時お雪伯母がそんなことを言つた。
 かうして私はもうすつかり丁稚になつて了つた。
「いゝ丁稚はんにならはつたえな。」
 或る日私が六条の鍵屋へ使に行くと、伯母がそんなことを言つた。と、姉のお君も飛び出して来て、
「ほんまにえい丁稚はんや。まだそんなに経たへんのに、お父つあんが見たら吃驚びつくりしやはるやろ。」
 と我が事の様に嬉しさうに、莞爾につこりしながら言つた。
「こんな時分は、すぐ変るもんや。言葉でも何でもな。」と伯母が言つた。
「さうどすえな。」と姉は感心した様に言つて「わて来た時もさうどしたかしら?」
「おまはんかいな? おまはんは、三年も経つて、まだ田舎つぺやがな。」と伯母は笑つた。
「えへゝ。」と姉も笑つた。
 しかし、私は少しも嬉しくなかつた。自分がいゝ丁稚となつたと褒められれば褒められるほど淋しかつた。それは自分の望みに反することだといふ気がして居た。あゝして薬屋の丁稚をして居て、行末はどうなるのだらうといふやうな考へが漠然ながら私の胸にあつた。誰も、私の望みを訊いて呉れるものがなく、最初から丁稚になるつもりで出て来たものの様に勝手に定めて了はれて居るのがもどかしかつた。そしてそれに対して一言も言ひ得ないで、他のするままに黙従して居なければならぬのが、つらかつた。
 しかし私の丁稚生活もさう長くは続かなかつた。その年の秋の中頃から、伯父は清水きよみづの方に新しい家を建て始めて居た。伯父はそこで静かに病後の、半生の生活に疲れた身体を養ふつもりであつた。
 俗に三年坂と呼ばれ、そこに転ぶと三年後には死ぬといふ伝説のある産寧坂の片側に、それまで竹藪のあつたところを切り開いて、そこに別荘風の瀟洒せうしやな家が間もなく建ちあがつた。私達が――伯父とお雪伯母と私との三人が、そこへ引越して行つたのは、十二月の始め頃であつた。四条の家は、いゝ借手が出来て、居抜ゐぬきのままに店を譲つたのであつた。
 坂の中途に、お城風に築かれた高い石垣の上に、少し奥に引込んで家が建てられてあつた。松だの梅だの、楓だの、彼岸桜だのの植つた小ぢんまりとした庭を前に控へ、後にはこんもりと茂つた孟宗藪を負うて居た。そして石垣の中程から、Z字形に曲つた石の段々が、庭の間を縫うて入口へと導いて居た。鼠色の壁の塀の中央をり抜いた様な感じのするその入口の前の生垣には、山茶花さざんくわが白く咲いて居た。入口の左右の壁には、煤竹を二本に渡した楕円形の小窓が開けられて居たが、その窓はあたかも此家のふたつの眼の様に見えた。瀬戸物屋と瓢箪屋としかないその辺で、この別荘風な建物はたしかに異彩を放つて居た。道行く人々は皆坂の上に足を止めて見上げて行つた。
 もう東山遊覧客も少くなつた季節ではあつたが、それでも清水から高台寺円山の方へ通ずる往還にあたつて居る其の坂を上り下りする人の足音が昼の間は絶えなかつた。つる/\に滑りさうな固い石の上を一歩々々踏みしめる様にして歩く、一種異様な下駄の音が終日耳についた。時々人力車ががたん/\と一段毎に強い響を立てて上つたり下つたりした。中にはその車を背負つて上下する車夫もあつた。
 坂を挟んで、向ひ側に名産の瓢箪屋があつた。転んでも死なない禁厭まじなひになるといふところからださうだが、坂の多い其の附近には、瓢箪屋が多かつたが、この三年坂のが中にも大きかつた。いろ/\の形の、いろ/\の大きさの瓢箪が店一ぱいにぶらさげてあつた。
「お買ひやす、瓢箪どうどす、お買ひやしてお行きやあす。」
 でぶ/\に肥つた四十あまりの主婦かみさんと、その妹だといふふくろふの様な眼をした中年の女とが、代る/″\店に出て始終客を呼んで居た。
 伯父達の居室は、高い崖の上にある様になつて居て、見晴しがよかつた。すぐ眼の下は深い谷になつて、東山の一部がその向うに高く見上げられた。高田派の本山なる興正寺別院のいらかがそこの中腹の深い樹立の中に光つて居た。手前の谷底の様なところには、××といふ名高い陶器窯たうきがまがあつて、そこから立ち昇る煙が、夕暮の山の裾にたなびいて居たりした。眼を転ずると、八坂やさかの塔が眼の前に高く晴れた冬空にそびえて居て、その辺からずつと向うに、四条あたりの街の一部が遠く望まれた。夜など灯がちら/\と藪の間などから星の様に閃いて居るのが見られた。

 私達はすぐに新しい住居に居附いた。そして近所の人達にも知合になつた。向ひの瓢箪屋の人達や坂の上の七味唐辛子屋の人達や、坂の下の瀬戸物屋の人達や、それから少し行つた所の塩煎餅屋の老夫婦などがその主なるものであつた。これらの家々は、伯父が普請ふしん中に始終やつて来て居て心安くなつたのであつた。わけても瓢箪屋とは一層親しく、引越し早々からお互にもう旧くからの馴染なじみかの様な間柄になつて居た。
 瓢箪屋には女の姉妹の外に、年老の母親が居るばかりで、男気がなかつたといふこと、それに二人とも旦那持の身であつたといふことが、伯父をして殊更馴れ親しみ易からしめたやうであつた。
「姐はん、姐はん、瓢箪屋の姐はん、今晩旦那はんがお来なはらへんなら、私泊りに行かうと思ひますが、どうどすやらう。」
「へい、おほきに。どうぞお出やしてお呉れやす。此頃旦那がちつとも来て呉れはらしまへんので、淋してかなやしまへんのどつせ。」
 夕方、人通りがなくなつて、瓢箪屋の方で店を閉めるやうな頃に此方の窓からと向うの店頭からとで、こんな風な戯談を平気で大きな声で言ひ合ふのであつた。
 それは平穏な、無事な、しかし単調な、退屈なまた寂しい生活であつた。日が暮れると、人通はばたつと止つて、あたりはしんと静まり返つた。時々瓢箪屋で、かた/\/\と瓢箪の種子を抜く冴えた音が聞えるばかりであつた。それが一層冬の寂しさを増した。
「恭やんもそこしまうたら此所へお出で。」
 伯父は愛撫するやうな調子で言つて、私を自分達の側へ呼んだ。私は流し元の片附を終ると、伯父達の部屋へ行つて、まるで彼等の子供ででもあるやうに、二人の間にはさまつて長火鉢に手をかざすのであつた。清水の方へ引越して来てからは、私は最早丁稚扱ひはされなかつた。叱られる代りに愛撫されることが多かつた。今まで繁華な都会の中心に、多勢の男女を使ひ、緊張した多忙な生活をして来、且つ若い頃から異常な活動を為し続けて、華やかな色めいた空気の中に生活して来た伯父に取つては、此の一種の転地療養的な生活の寂寥は一層甚しかつたのだ。そして私の如きものでも、伯父の無聊を慰め、寂寥をまぎらすにどんなにか役立つたのであらう。
 伯父は毎晩早くから寝床へ入つた。そして、「さあ、おン、ぽん/\揉んでや。」と、まるで幼児が母親に甘えるやうな口調で、お雪伯母にねだるのであつた。
「いゝ子えな、もう寝んねおしか? 待つといや、今、揉んで上げるえ。」
 お雪伯母もまたそんな風に子供をあやす様に言ふのであつた。そして私はその側で、新聞の続き物を読んで聞かせなどするのを常とした。
 そんな時よく壮年の血気盛んな頃の思ひ出話が、伯父とお雪伯母との間に取り交された。多くは女に関する話であつた。
「よう一晩に三軒も四軒もまはつて歩きよつたもんやが、それで平気やつたもんやが、もう此頃はさつぱりあかへんな、お母ン――お母ンは心気臭しんきくさいやろな?」
 伯父は心持よささうにふう/\と大きな呼吸をしながら言ふのであつた。お雪伯母は微笑みながらうなづいて、
「さうえな、大変弱つたえな。」
「あんまり道楽しよつた罰えな。今時分からもうこんなに弱つて了ひよるなんて。」
「そんな訳でもおへんえな。」とお雪伯母は笑つて、「直き身体がようなるえな。そしたら又、元の様に元気が出て来やはるやらう。こんな閑静な所に一年も養生してなはつたら。」と慰めるのであつた。
「閑静は閑静やけれど、寂しいえな。よう辛抱出来でけるかしらん。」
「辛抱出来へんことおますかいな。わてがついてますがな。」
「お母ンは、私が元気があらへんよつて、心気臭いやらう思うてな。」
「戯談お言ひやす? そんなこと気にかけはるもんやおまへん。」
 二人はこんな風な語を、私が側に居るのにも拘はらずするのであつた。
 私は下女とも下男ともつかぬ生活をして居た。これといふまとまつた仕事とてはなかつたが、その代り、ゆつくり落ち着いて居る暇もなかつた。家の内外の掃除をしたり、飯を焚いたり、三度三度椀皿を洗つたり、坂の下の井戸から水を汲んで来たり、お惣菜物の買ひ出しに行つたりして立ち働いて居る間に、短かい冬の日は訳もなく経つて行つた。
 飯を焚くことは、田舎に居た頃から経験があつたので、焚き様が上手だといつて褒められた。一寸したお惣菜をこしらへることもすぐ覚えた。
 井戸はかなり遠い所にあつた。三年坂を下りて右の方へ小さな流れに沿うて半町ばかり行つた所にあつた。はまぐり井戸といつて、水が蛤の水の様に紫がかつた色をして居り、量も多く質もよく、その辺の家々の共同井戸になつて居た。井戸端には、大きな椿の樹があつて、赤い花弁がほた/\とそこらに落ち散つて居た。私は身不相応な大きな桶をになつて、一日に何囘となくそこから水を汲みあげた。風呂をたてる時などは、一度に五六荷も担ひあげねばならなかつた。東山遊覧人などが、ぞろ/\と坂を上下する其の間を、水桶を担つてよち/\と坂を上つて居る私自身の姿を、私は子供心にもわびしく眺めた。殊に夕方其の井戸端へお米をぎに行く時は、我ながら我身が顧みられた。片手にお米の入つたばけつを持ち、片手にはこまかな網目の亜鉛とたん底の米あげ桶を抱へて行くのであつた。
 其時刻になると、近所の主婦達も米かしぎに来て居た。時には二三人も一緒に落ち合つた。そんな時には私はそれらの人達が帰つて行くまで待つやうにした。さすがにきまりが悪かつたのである。
「恭やんは、小さいに感心えな。よう上手にお米ししやはるえな。」
 坂の下の瀬戸物屋の主婦や、塩煎餅屋のお婆さんなどは本当に感心したやうに、私がじよき/\と臆病さうに米を炊して居る手つきを眺めながら、よくそんなことを言つた。さう言はれると、私は尚更きまりが悪かつた。
 急に水仕事が多くなつたので、私の手は胼皸あかぎれで埋つた。埋つたといつても決して誇張ではなかつた。元来私は荒れ性で、田舎に居た頃から、冬になると手足にあかぎれがきれて仕方がなかつた。いろ/\の薬を用ひても一向利き目がなかつた。人間の脂肪がいゝとか言つて、或る時など親類の者が死んだ時、父は私をも火葬場へ骨拾ひに連れて行つて、骨のあがるのを待つて居る間に、じり/\と燃えこぼれる油を竹の先につけて、それを私の足の皸に着けて呉れた。そんなことまでしても矢張り効能がなかつたものだ。
 足の方は足袋を穿いて居るし、田舎に居た頃とは違つて、濡らすこともないので左程でもなかつたが、手の方はこれまでになく酷かつた。
「おう、痛やの! まるで軽石にこすられるやうや。」
 何かの拍子にお雪伯母の手に私の手が触ることがあると、彼女は大袈裟にさう叫ぶ様に言つた。
「おまはんの手に触られると、妾の手の皮がけさうえ。」
 お雪伯母は人一倍肌理きめがこまかく、彼女はそれを誇として、いつも大切に磨きたてて居たので、指頭など白魚の様に細く綺麗で天鵞絨びろうどの様に柔かかつたが、私の手は、彼女にさう言はれても仕方のないほど酷く荒れて居た。指頭はまるでさゝらの様にさゝくれ立ち、甲はふくれあがつて、上皮だけが薄黒くかち/\に堅くなつて、本当に軽石か蟹の背かの様だつた。そして指の節々には、殆ど一本も残らず、大きなあかぎれが深い口をあけて居た。時々赤い血が小指の節などからしたゝつた。昼の間、水仕事や何かして立ち働いて居る間は何ともなかつたが、夜になつて、台所から上つて火鉢の側へ寄りなどして暫くすると、手が次第に乾いて来るに従つて、手全体がびり/\と火のつく様に痛み出した。私は伯父達の前に出る時には前垂の下に両手を隠して居るのを常としたが、くわつと熱くほてつて来て、ばち/\と音を立てて干割れるのが聞えるかとさへ思はれた。指を伸して居れば伸したなりに、くゞめて居れば屈めたなりにして居なければ、一寸でも動かす為には、私は泣き顔でその痛さを堪忍ばねばならなかつた。伏見の聯隊へ行つて居た幸三郎さんが非常に同情して、隊では看護手を勤めて居たので、度々薬をもつて来て呉れたが、朝から晩まで水使ひをしたり、冷たい風にあたつたりして居たので、一向利目がなかつた。
「そんなに荒れる手見たことあらへん。どうしたわけやらう。困つたえな。」
 私が御飯のお給仕などして居る時、お雪伯母は見るに堪へない様な表情をして言つた。それは私に同情してではなくて、清潔きれい好きな彼女にとつて、私のきたない手が見苦しいからだ、と私はそんな風に邪推した。
「こいつの母親が、こいつを生むと間もなく死によつて、乳があたらへなんださうやよつて、脂肪気がないんやらう。」と伯父は言つた。
「さうどすかな。可哀相どすが仕様がおへんな。そんなにえらい仕事させへんのどすけれど。」
「こんな性やよつて、遊ばして置いたかて治らへん。」
 そんなことがあるもんか、と私は心の中で伯父の言葉を否定して居たが、口に出して言ふことはもとより出来なかつた。
 雑巾を刺したり、古着の解きものをしたりするのも私の夜の仕事の一つであつた。
「恭やん、おまはん退屈やつたら雑巾でも刺してお見んか。」
 清水へ引越して来て四五日経つた或る晩のこと、私は所在なさに欠伸あくびを噛み殺しながら伯父達の側にぼんやりして居ると、お雪伯母がさう言つたのが始まりだつた。
「なんぼ男でも、お針もつこと覚えてて悪いことあらへん。」
 伯父もさう言つて賛成した。かうして私は始めて縫針をもつことを教へられた。長い太い、雪駄せつたを刺す時に使ふやうな雑巾針に麻苧あさをを通して、お雪伯母が縁を縫つて呉れた雑巾に、かすりのやうに十字形に縫ひ置くのであつたが、初の中は針がうまく使へなかつたり、縫目が曲つたりしたがだん/\上手になつた。そして十字形のよりももつと複雑な形のもの、例へば石垣を積んだやうな形のや、亀甲形のなどの縫ひ方を教へられた。更に解いた着物のきれしんし張にする為に、端縫はぬひすることや、簡単な紐のくけ方などをも教はつた。そして私もこんな仕事にかなりの興味をもつ様になつた。
「中々えらいえな、女の子よりも上手や、この調子では、今に自分の着物位縫へるやうになるえ。」
 或る時お雪伯母は私の端縫をして居る手附を見ながら、おだてる様に言つた。私はもう其時には右手の中指に厚紙の指輪をはめて、本針を使ふ様になつて居た。
「そりや裁縫かて矢張り男の方がいゝ言ふよつてな。」と伯父も私の手附を見ながら言つた。「どうや恭公、裁縫屋おはりやさんへ丁稚に行つたら。」
 私は伯父の言葉を真面目には受け取らなかつたが、此処にかうして下女同様に水仕事をして暮して居るよりも、そんなことでもやつて、何か身についた職を覚えた方が行末の為によいと、その時独り心の中に思つた。
 私は学校へ出たいといふやうな最初の希望はもうとつくに、捨てて了つて居たが、清水へ引越して来てからは、一層自分の将来を気にする様になつた。
「こんなおちよぼの様なことして居て、何になる? いつそのこと郷里くにへ帰つて、漁師を習うた方が好い。」
 かういふ考へが今迄よりも一層屡※(二の字点、1-2-22)私の胸を往来した。私は曾て(まだ四条に居た頃だつた)郷里の父に手紙を送つて、自分の希望や、現在の事情などを訴へ、せめて夜学へでも出して貰ふやうに父から伯父に頼んで呉れと言つてやつたが、父からはお前の将来のことは万事伯父に一任すると言つてあるのだから、暫く黙つて辛抱しろ、伯父も決して悪い様には取計らはないだらうからと、言つて来たのであつた。私はそれを或る程度まで信じて居た。けれども伯父はまだ私の将来に関して一言も言はなかつた。それが私には物足らなかつた。甥の奴が田舎から出て来よつたよつて、飯焚きでもさして食はして置いてやれ、そんな風に思つて居るのではないかと、私は時に疑懼ぎくの念に襲はれることがあつた。
 或る時私は思ひきつて、本当に思ひきつて、伯父に夜学へ出して呉れと頼んで見た。私はもとより許されないことを予期して居たが、それによつて伯父が私の将来に関して如何なる考へを抱いて居るかを探らんが為であつた。それは私が考へ抜いて、その時の私にあるだけの智慧を絞つてやつたことであつた。
「阿呆かいな!」
 伯父は一喝の下にしりぞけた。彼は歯のない口を異様に尖らし、額に青筋を立てて恐ろしい眼で私をじろりと睨んだ。私は予期して居たことであつたけれど、意外にすさまじい伯父の権幕に悸然ぎよつとした。
「何かしやがる、らさうに。打擲どやしつけるぞ!」
 伯父は続けて叱つた。それは私の要求そのものに対してよりも、私がそんな要求をしたことそれ自身が伯父の癪に触つたらしかつた。貴様がそんな生意気を言はなくても、俺にはちやんと考へがあるのだ! といふやうな様子が其の面にあり/\と見えた。
 私はおど/\しながら黙つて居た。
「おまはん、そんなこと言ふもんやあらへん。そんな出しや張り言はへんかて、伯父おつさんあんじようして呉れはるよつて、黙つてお居。」
 お雪伯母は私をたしなめるやうに、また伯父の怒をやはらげるやうに、側から口を添へた。
「堪忍してお呉れやす。」
 私は口の中で言つて頭を下げた。
 伯父は何とも言はず、如何にも不機嫌さうに、吐息を洩らしながら煙草をふかしてゐた。
「俺は学問なんかしよう言ふ者大嫌ひや。」稍あつて伯父はいくらか調子を和げて言つた。
「学問せんでも出世しよう思うたら、なんぼでも出来るんや。」
「…………」
「俺なんか、手紙一本よう書かへんけど……」
 流石さすがに後を言ひはゞかつた。そして、
「おまはん、学問しよういふ積で京へ来たんか。」と話題を転じた。
「そんなことおまへんけれど……」
 私は今となつてさすがにさうだとも言へなかつた。
 暫く沈黙が続いた。
「家で斯うしてゐるのが厭なんなら、何処なと好きな所へお行き。」
 伯父は最後に斯う突き放す様に、併し優しく言つた。冷やかであつたけれど、底には温かい情がひそんで居るのを私は感じた。自分の心をも知らずに、浅墓な奴だと、伯父は心の中で叱り且つ憐んで居るやうであつた。小さな私にもそれが解つた。私は急に胸が塞がつた。何となく悲しく、情けなくなつて来て、涙がひとりでに流れ落ちた。いくら努力しても歔欷すゝりなきを制しきれなかつた。

 私の病気が再発したのはそれから間もなくであつた。それは全く急に起つて来たのであつた。そしてすべての症状が、その夏田舎に居た時と同じであつた。左の脚の筋が痙攣ひきつつて、股と膝との関節に烈しい疼痛を覚えた。併しもう五六日で正月だといふ忙しい時分であつたので、私は黙つて、我慢しきれるだけ我慢しながら立ち働いた。びつこを引きながら水汲みにも行つた。買物に行きもした。私は家の外へ出ると、ひい/\と顔をしかめながら口の中で泣き声を立てた。が遂にとても堪へられなくなつてお雪伯母に訴へた。
「冷えたんやらう、今晩から炬燵こたつ入れさしてあげるよつて、暖かにして寝なはい。そしたら治るえ。」
 お雪伯母は無造作に言つた。
 私はその儘脚が立たなかつた。あくる日一日寝て居たが痛みは益※(二の字点、1-2-22)烈しくなるばかりであつた。
 その晩、唐紙一重隔てた奥の間で伯父とお雪伯母とが次の様な話をして居た。
「私が能登へ行つた折も、矢張りあゝやつて寝て居よつたが、同じ病気に違ひあらへん。急に治らへんやらう。」
「さうどすかな、困つたえな。ぢき正月やのに、病人が居ては縁喜げんが悪るいえな。」
「仕様があらへん。病院へでも入れてやろか?」
「能登へ言うてやつたらどうどす? そして浅はんに来てお貰ひやすな。さうしたら浅はんが連れて帰らはるか、病院へ入れはるか、どつちなとやはりますやらうえな。」
「ふうん。」と伯父は深い吐息を洩らした。「そんな薄情なことも出来へん。知らしてやるだけはやらねばならんが、そりや病院へでも入れてからのことや。為るだけのことは為といてやらんとな。」
 かうして私はその翌日伯父に連れられて上京かみぎやうの方にある府立病院へ行つた。医者はすぐ入院して手術を施さねばならぬと言つた。私はその儘病室へ運ばれた。
 そこは外科の三等室で、白いベッドが五台二列にむかひ合つて並んでゐた。私はその一方の端の方のベッドの上にそれから七十日以上も横たはつて居た。
 入院した翌る日の午前中に、私は手術室へ運ばれて行つた。手術はがた/\身震ひしながら恐れて居たほどのこともなく、割合に簡単に軽く済んだ。左の股の関節に、丁度淋巴腺のある辺に、食指の入るほどの孔を開けて、そこから膿を出すやうにしただけであつた。併し膿は余程奥深い所にあるらしく、四五寸位のゴム管を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し入れて、それで導き出すやうにされた。病名は私には打ち明けられなかつたが、腰の骨か、脊髄かに病源があるらしかつた。で、この膿さへ止るやうになればよいのだが、それまでには少くとも二ヶ月はかゝるだらうといふことであつた。
 その日の午後、姉のお君が見舞ひに来て言つた。
「どうする、おまはん? お父つあんな、どんなに心配しやはるか知れへん!」
 姉は来るとすぐ、まるで私に罪でもあつて、それを責めでもする様な口調でいきなりそんなことを言つた。
「お金がどつさりるえ、おまへ。お父つあんそんなお金持つてはらへんが。まだ来てさう間もあらへんよつて、伯父さん出して呉れはるかどうか分らへんし。四条の伯父さん賢いよつて、今、立て替へて呉れはつても、後でみなお父つあんの借金にして了はるにきまつたる。」
 姉には何より入院費用のことが心配になるらしかつた。併し私にはどう仕様もなかつた。そんなことを心配するにはあまりに私は小さかつた。それよりも、他に多勢患者や附添人などのゐる中で、姉があたり関はずそんなことを言ふのが、私には何より厭であつた。

 三ヶ月の病院生活は、私には却つて懐しいものであつた。たまに、姉のお君が見舞に来て呉れるほか誰一人見舞人を持たなかつたが、私は少しも淋しいとも心細いとも思はなかつた。それは今迄の私の生活が、誰一人知るものもないこの病院に於けるそれよりも、一層寂しく冷かなものであつたからである。私は病院に来て、今迄知らなかつた温かい人の情を味はふことが出来た。私は寧ろ病院に居ることを好んだ位であつた。
 どの寝台にもどの寝台にも自由に歩行の出来ない様な傷ついた患者ばかりが寝て居た。併し重症患者らしいものは少なかつた。病室の一方の隅に私と前後して同じ日に入院した全身火傷の患者と、それと対ひ合つて、頭から顔にかけて眼ばかりを残してすつかり繃帯に包まれ、咽喉笛の所に孔をあけて、そこからつと呼吸をして居る見るもいたましげな患者とが、時々苦しさうな呻き声を立てて居るばかりで、他の多くは足を一本切られたとか、背中の大きな腫物を切開したとか、身体こそ自由に利かないがもう患部の痛みなどの去つた、恢復期に向つた人達ばかりであつた。彼等はお互にすつかり親しい友達であつた。彼等は寝台の上に起き上つて、隣同士や、向ひ同士などで、快活に病気とは全く関係のない世間話や経験談などをして笑ひ興じてゐた。彼等の話振りを聞いて居ると、少しも病人らしい様子などはなかつた。退屈やものうさはあつても生活の苦しみや悲しみなどはありさうにも見えなかつた。そこには陽気な暢気のんきな話だけしか取り交されなかつた。最も陰惨で苦痛や悲哀の多かりさうなその病室は、明るい温かい空気に充ちた最も楽しい世界の様に見えた。
彼等は一日中の或る時間、例へば晩飯の後といふやうな時に、五人も六人も一緒になつて話し合ふのを常とした。通路の真中程に大きな火鉢が置いてあつて、そこに大きな銅の薬鑵から、盛んに湯気が立ち昇つて居たが、比較的身体の自由のきく二三人が、態々わざ/\そこまで出て来て、その火鉢を中心にして陽気な談話に花を咲かせた。夜など看護婦達を呼び集めて、彼等の或者も交つてかるたを取つて興ずることもあつた。右足を膝から切り取られた若い患者がいつも読み役をつとめた。
 少年患者の私が、彼等の間に混つたことは、単調な退屈な日々にんで居た彼等にとつて、新しい興味を与へたらしかつた。私が入院した当時四五日の間は、主に私を中心として話がはずんだ。彼等は私の病気のことを尋ねた。故郷のことを聞いた。両親のこと、兄弟のこと、それから現在の境遇のことを尋ねた。私は問はれるまゝに私の身の上話をした。皆私に同情を寄せた。そしていろ/\と慰めて呉れた。菓子や果物などを呉れたりした。私はすぐ彼等に親しんだ。
 看護婦達の同情に富んだ優しい言葉や取扱ひも私をひどく喜ばせた。四五人宛の看護婦達が、一日交代でその病室を受持つて居たが、彼等は皆親切で優しかつた。私だけに特にさうして呉れるのかとも思はれる位だつた。彼等の優しい親切は、母の愛といふか、また広く女の愛といふか、さういふ風な温い情愛に餓ゑ渇いて居た私、否それをかつて味ひ知らなかつた私をして、まるで幼児の母親に対する様に甘えさせた。ひがんだ、いぢけた、かたくなな私も、真裸になつて彼等の胸に飛び込んで行くことが出来た。そして、彼等の温いなさけに浸つた。
 中にも藤本といふ看護婦が最もよく親切にして呉れた。彼女はまだ年は若く、十八か十九位であつた。色の黒い小作りの女であつた。ニキビなどが出来て居て、綺麗な顔ではなかつたが、朴訥ぼくとつな素直な、人懐つこい女だつた。私は他の誰よりも彼女に脈を取つて貰つたり、体温を計つて貰つたりすることを好んだ。大小便の世話やその他のどんな厭なことでも彼女だけには遠慮なしに頼むことが出来た。彼女が笑顔を見せながら病室へ入つて来ると、私の心はときめいた。そして彼女が居ない時には、私は何となく物足らなく感じた。一日々々とそんな感情が強くなつて行つた。
 私は朝早く、大抵三時か四時位に眼が覚めて、それから眠れなくて困つた。冬の夜は明けるに遅かつた。私は早く夜が明けて、看護婦が入つて来るのをどんなに待ち焦れたらう。そんな時彼女が、藤本さんが、当直か何かで、夜が白々する頃病室へ見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りか何かに来ると、私は飛び立つ様に嬉しかつた。彼女は眠つてゐる患者を眼覚すまいとそつと忍び足に入つて来た。
「もうお起きやしたの?」と彼女は私の顔をのぞき込んで小声で囁いた。
「えい、うから――」私は懐しげな眼で彼女を見ながらうなづいた。
「あんたのお出やすのを待ち焦れて居たんどす。」
 彼女は私の眼の中にそんな言葉を読んだに違ひなかつた。
「もう、お顔お洗ひやすか? お湯持つて来て上げまほ。」
 やがて彼女は白い湯気のぽうと立ちのぼつて居る洗面器を小卓こづくゑに乗せて入つて来た。そして温かいタオルを絞つて呉れた。そんな時私は他の患者達が眼を覚さないことを望んだ。誰も知らない間に、彼女が私だけの世話をして呉れて居るといふことが特別に私を喜ばせたのである。彼女の心が私だけに注がれて居るといふ自覚を、強ひても持ちたかつたのである。彼女もまた私に対してさういふ秘密な感情を抱いて居て呉れんことを密かに望んだ。かういふ恋に似た感情が私の胸に芽生えて居た。もし私が初恋の経験を問はれたなら、私は彼女に対する其の時の邪気あどけない心持を語るであらう。

 二週間ばかり経つた頃であつた。或る日突然、全く意外に、父が姉のお君に連れられてやつて来た。
「おう、恭三! 可哀や!――」
 父は私の顔を見ると、殆ど泣き声でさう言つた。そして涙をぽろ/\流した。私も涙を誘はれた。そして何にも言へなかつた。
「心配しとつたぞ。病院入つたちふもんで、どんなね悪いのかと思うてのう。」
 父は私の顔を撫でながら言つた。そして尚続けた。
「何処やら股とかを切つたさうやの? 痛いか、もう大分快うなつたか? 大分痩せたのう、可愛や。あ! それでも顔見て安心した。俺やもう息災な顔見られんかと思うて、心配で、心配で――」
 父は私の容体を見てすつかり安心して了つた。晩には姉も一緒に、親子三人で、病院の御飯を食べた。父は姉のお君にそつと正宗の二合瓶を買はせて来て、私の寝台の下で壁の方を向いて、冷のまゝで、お茶でも飲む様な振をしながら、こつそり飯茶碗で飲んだ。
「あゝ、嬉しやな、これで安心した。」
 父は如何にも心が休まつたといふ風に、大きな安心の吐息を洩らし乍ら、何度も繰り返したことを更に繰り返して言つた。日陰に育つた二人の子供、それ故に一層深い愛情を彼の胸に湧かせて居る二人の子供と、かうした所に落ち合つたことが、父をして限りない喜びを感ぜしめた。病院の中であることが、伯父の家や伯母の家や、または他の如何なる場所に於けるよりも一層しつくりした、心ゆくばかりの思ひをさせた。父は何者にもわづらはされることなく、全く自由に私達二人の子供を其の温かい愛の翅で包むことが出来た。たとひ私が病気で寝て居たにしても、その場合の父は幸福そのもののやうであつた。彼は陶然と微酔ほろよひ機嫌になつて、いろ/\と故郷の話をした。たつた十三ばかりの私が出奔したといふことが、かなり村の人々を驚かしたこと、母は義理ある中であるが為に、私の出奔の責が彼女にある如く人々に思はれないかを非常に恐れたこと、この事は必然きつと父が彼女に秘密に私としめし合せてやつたことに違ひないと怨言うらみを言つたこと、且つ会ふ人毎に弁解して歩いたこと、そして、それが為に父と母との間に暫くの間不和が生じたこと、私を乗せて行つて呉れた船頭までが恨まれたことなどを話した。それを聞いて姉のお君は頻りに母を罵つたが、私は何だか済まない様な気がしてならなかつた。
 その晩から一週間ばかり、父は附添といふ名義で病院に寝泊りした。私の寝台の下に薄縁うすべりを敷いて、その上の薄い蒲団の上に縮まつて寝て居たが、私は夜更などに眼を覚して、明るい電燈の光に照らされた父のあから顔を寝台の上から眺めやつて、懐しさと感謝の念とに、思はず枕をうるほしたこともあつた。
 経過が医者にも意外なほどに良くて、父の来た時には、私はもう間もなく退院出来さうになつて居た。膿が殆ど出なくなつて、傷口も大方塞がりかけて居た。傷に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し込んであつたゴム管も一日々々細く短くなつて、父が来た翌日には、もうゴムを入れる必要もなくなつた。
 父はすつかり安心して、春の漁業の準備に忙しいからと言つて、もう二三日の後に迫つて居た私の退院をも待たずに急に帰国することになつた。
 私は別れを惜しんだ。父も流石さすがに心残りしたと見えて容易に立ち上らなかつた。
「退院するまで待つとらうかな。」
 愈※(二の字点、1-2-22)帰ることに決めて、もう間もなく別れる時になつてからも、父は尚さう言つて思案した。
「帰つてお呉れやす。だいぜおへん。心配せんとお呉れやす。」と私は大人らしい口調で言つた。
「そんなら帰るわいの。気にならんでもないけれど、おれも忙しいさかいの。退院しても大事にさつしやいの。伯父をつさんにもよう頼んどいたさかい、気兼せんと養生さつしやい。金のことなど一寸も心配することがないぞ。俺が伯父さんに話してちやんといゝのにしてあるさかい。――淋しても辛抱して働かつしやい。故郷へ帰つたところで、仕様が無いさかいの。小さな漁位しとつても何にもならん。俺はお前を漁夫れふしにはしたうないのや。お前が京へ行きたいと言うた時には、こりやいゝことを言うて呉れたと思うた位やつたさかいの。京に居りや、伯母さんも伯父さんも居るさかい、末には悪いこともあるまいぞいの。」
 もう立つ間際になつてからも、父はそれまでにも言つたことをまた諄々じゆん/\と繰り返すのであつた。
「さあ、そんなら、行くぞ。」と漸く立ち上つて、父は看護婦達を始め、同室の患者達にも、一人々々丁寧に別れの挨拶をし、私のことをも頼んだ。そしてまた私の側へ来て、
「さあ、そんなら、これで会はんぞ、息災に居れや。」と言つて部屋を出掛けたが、再び戻つて来て、「退院したらすぐ手紙寄越よこさうぞ、待つとるぞ、阿母おふくろにも上手に言うてな。忘れるな。」と注意を与へてから、残り惜しさうに、涙を浮かべた眼で幾度も見返りながらやうやく扉のそとへ出て行つた。

 父が帰つて行つた翌々日のことであつた。傷口も塞がつて、私はもう一二日の中に退院することになつて居たが、その日の朝便所に立たうとすると、不思議にも左足の膝と股との関節に異様な疼痛を覚え、歩くのに非常な苦痛を感じた。私は早速藤本看護婦にそのことを告げた。
 看護婦は、「変どすな、」と小首を傾け、自分で私の太股を揉んで見てから、「退院ささない様に誰か引止めてはる人がおすんやらう。」と冗談を言ひながら「兎に角先生にさう申しまほ。」と出て行つた。
 午後の囘診の時に外科の副部長が来て、念入に診察した。そして藤本看護婦が揉んで居た所と同じ所を考へ/\揉んで居たが、やがて注射針のやうなものをぶつりとそこへ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し込んだ。私があつと小さな叫び声を立てて顔をしかめた時には、副部長は既に針を抜き取つて、細い硝子管に吸ひ上げた血液を眼の上へ高く捧げて透して居たが、「ふうん。」と只事ならぬ面持で呟いて、「こりや早速手術せんならん。どうも治り方が早いと思うた。」と言つて出て行つた。
 私はその瞬間、全身に冷水を浴びせられたやうに悸然ぎよつとした。暫くたつてから内科の医者が診察に来た。そして胸部を特に念入にた後で何にも言はずに出て行つた。やがて藤本さんが戻つて来て、
「矢つ張り明日手術がおすさうどす。でも一寸でせう。」と言つて私にいろ/\のことを聞かれでもするのをいとふかのやうにすぐ出て行つて了つた。
 その晩私は食事を与へられなかつた。のみならず下剤までかけられた。
 すべての様子が異様に感ぜられた。私は何となしに、大変な大手術でもされるのではないかと恐れをのゝいた。父が帰らずに居て呉れればよかつたと頻りに心細いことが思はれた。
 不安な眠られぬ一夜を送つた。
「さ、お出やす。」
 午過ぎに井上といふ年老としよりの看護婦が来てさう言つた。私は運搬寝台に乗せられた。そして長い廊下をごろ/\と引かれて行つた。私は始終眼をつぶつて居た。
 或る部屋へ入つたので眼を見開くと、そこは手術場ではなく湯殿であつた。舟形の湯槽ゆぶねに綺麗な透きとほつた湯が満々として居た。私は先づ湯に入れられた。それからその隣の、廊下を仕切つた様な小さな部屋へ導かれた。其処で私は二人の看護婦によつて、腰から下腹部、更に局部から左足にかけて剃り下ろされ、消毒され、次いで其の部分をすつかり繃帯に包まれた。やがて一方の扉が開いたと思ふと、一人の看護婦が半身を現はして或る身振りをした。そして私は其の方へ導き入れられた。
 そこは手術室であつた。けれども此の前の手術室とは構造や設備の全く異つたものであつた。三方薄鼠色の壁に仕切られて、高い磨硝子張りの天井から射し入る鈍い光線にほの暗くされた大きな箱の様な、また深い穴の底の様な室の中央に、細い俎板まないたの様な簡単な手術台に黒い桐油紙を布いたのが二脚、捨て床几しやうぎの様に置かれてあるきりで、広い其の室はがらんとして居た。私は先づ其の室のおごそかな空気に圧せられた。私の心は石の様になつて了つて、固い冷たい手術台に載せられても、殆ど何等の感動を覚えなかつた。
 私の頭の後の壁際には、器械の消毒でもするのか、しゆう/\と湯のたぎる様な音が絶えず聞えて居た。その側に三人の医者がぼそ/\と囁きながら手を消毒して居た。時々看護婦などが洗ひ流した漆喰場しつくひばを歩く下駄の音が高く私の耳に響いた。私は固い木枕の上に仰向になつて、硝子天井を見つめたり、また眼を瞑つたりして居た。
 やがて医者が私の側へ近寄つた。三四人の看護婦が私の周囲を取巻いた。間もなく私は白い敷布で額から頭をすつかり包まれた。次いで左足の膝から股にかけての繃帯が切られ始めた。剪刀の背が冷たく太股の皮膚に触つた。と、其の瞬間、私は両肩から腕にかけて、また両足ともに、身動きもならぬ程に強くおさへつけられてゐた。

 手術は局部魔酔で、膝と股との中間の肉の厚い所を三寸ばかり切開せられたのであつた。それはどんなにひどいものであつたか、私は其の光景を語ることは出来ない。只その時の私には、時間が恐しく長く感ぜられた。一時間以上もかかつた様に思はれた。そして其間泣き叫び続けたのであつた。
「手術場に大きな狼が居た。」
 病室に帰つてから、手術室の外で待つて居た病室附の年老としよりの看護婦に冷かされた。それほど烈しく私は泣き叫んだのであつた。併しそれにも拘らず、手術の最中に、どういふ心の作用であつたか、その光景を見ようといふ強烈な欲望が起つた。私は必死になつてたとへやうもない激烈な痛さと闘ひながら、「見せて、見せて!」と叫んだ。そして包まれた敷布の中に頭を左右に振つて、上から圧へて居る看護婦の手を払ひ退けようともがいた。
「いけまへん、いけまへん!」と看護婦は一層強く圧へつけた。
呼吸いきが出来ん――熱い――死ぬ――死ぬ!」
 私は狂気のやうになつて続けざまに叫んだ。全く何等の企図たくらみもなく、ひとりでにさういふ言葉が出たのであつた。すると看護婦は医者の許可を得たものか私の顔から敷布を取つて呉れた。私は恐怖と好奇心とに戦きながら頭をもたげるやうにして足の方を下眼で見つめた。
 血! 一面の血だ! そこら中一面に赤い血で埋まつて居る。とその時私は思つた。三人の医者達は皆な手頸まで真赤にして、何かぼそ/\囁きながら、私の絶叫にも拘らず殆ど無関心の様に彼等の仕事を続けて居た。主任役の副部長は何かを掴み出さうとでもするやうに、傷の中へ深く手頸までも突込んで見たり、熊手のやうなもので掻き出したりして居た。時々筋を掴んでぐいと引抜かれるのではないかと思はれる様な、異様な、何とも名状しがたい激烈の痛みを、総身に感じた。私は其の度に「きやつ!」と悲鳴をあげた。
 併しさういふ間にも、私の心には不思議な落着が生じた。手術の実際を見ない前よりは、恐怖も苦痛も遥かに少くなつた。
「もうぢきや、ぢきや。もう半分や。」
 かう医者はあやし/\仕事を続けた。
 二日の間私は苦しみ続けた。仰向になつて、足の先に分銅の様なおもりをつけて引き伸ばされたなりに身動きも出来ず、次第に間遠にはなつて行つたが、時々きりで揉み通される様に襲うて来る傷口の痛みには堪へられなかつた。
「痛い、痛い、おう痛い!」と私は思はず叫んだ。
「痛うおすか? もうぢきやよつてな、辛抱おしやす。これですつかりお治りやすんどすえ。」
 時々看護婦が来てさう慰めて呉れた。が私は心細くてならなかつた。父が僅か一日か二日違ひで帰つたことが、何か不吉の前兆ででもあるかのやうにさへ思はれた。且つ其頃、私の好きな藤本看護婦の姿が見えないので、変に思ひながら様子を聞くと、丁度私の手術のあつたその日から、交代で一週間の正月休みを取つて自宅へ帰つて居るとのことであつた。この事は一層私を寂しく心細く且つ不幸に思はせた。同室の患者達も、私に物を言ふのを怖れて居るかの様だつた。生中なまなか私を慰めたりするのが悪いとでも思つてゐる様に、皆言ひ合した様に私に対して沈黙を守つて居た。彼等同士で話す時でも、私を怖れ憚るやうに、ひそ/\と囁き交すのであつた。臨終の人の枕辺の様な、一種厳粛な、緊張した冷かな空気が病室にみなぎつて居た。
 私は、誰でもいゝ、其の人の胸に縋りついて、思ふさま苦痛を訴へさせて呉れるやうな人を欲してやまなかつた。

 併し経過が一日々々に良く、一週間も経つと患部の痛みも殆ど去り、寝返りも出来るやうになつた。それに藤本さんが戻つて来たことが何より嬉しく心丈夫に思つた。
「えらい目にお会ひやしたえな。どうどす、もう痛うおまへんか?」
 或る朝彼女は久し振りにそのにこやかな笑顔を現はして、腋の下に検温器をはさみ乍ら言つた。そして私の手首を取つて脈を数へ始めた。
私は恋人にでも手を取られて居る様な甘い気持に浸りながら、小さな時計の面に視線を集めて居る彼女のすこやかさうな顔を見つめて居た。彼女の指先の温味が私の手から心臓に伝つて来るのを感じた。
「熱も脈も普通どす。もうぢき快うおなりやすえ。大事におしやす。」
 彼女は私の胸をかき合せ、軽く蒲団をかけながら言つた。
「お父さまお帰りやして寂しおすやらう?」
「なんにも、寂しいことおへん――」
ろおすえな。」
「…………」流石に藤本さんが居るからだとは言へなかつた。
 重湯おもゆから粥鶏卵かゆたま、それから普通食にと食事もだん/\進んで、二週間もたつと元気もすつかり恢復した。
 藤本さんがよく病室の火鉢にもたれて書物を読んで居るのを見かけたので或る日私は彼女に、
「何か本がおしたら貸しておくれやす。」と頼んだ。
 彼女はやがて一冊の書物を持つて来た。
「今、これしかおへんのどつせ。よかつたらお読みやす。私のどすよつて、ゆつくりお読みやす。」
 それは紅葉山人の「金色夜叉」の上巻であつた。私は意味の分らない所が沢山あつたに拘はらず、文章の美しさと、筋の面白さにせられて、振仮名をたどりながらも一気に読み終つた。
「早や、お読みやしたの? おうらやの! あんまりせつせお読みやすと熱が出まつせ――どうどす? 面白おしたか、可哀相どすえな貫一さんは。わて何度読んでも泣かされるのどつせ。」
 藤本さんは私から書物を受取りながら言つた。
不如帰ほとゝぎすも可哀相どつせ。妾大好き。今度家から持つて来て貸してあげまつさ。」
 二三日して彼女はまた蘆花の「不如帰」を持つて来て貸して呉れた。私はそれも読んだ。長い間渇して居た読書慾を、私は始めて充たすことが出来た。そしてその後貸本屋が来る度毎に、馬琴の「八犬伝」や、その他の江戸時代の小説や講談本や、または新しい小説などを選択もなく手当り次第に次から次へと読んで行つた。
 間もなくどうか斯うか足が立つやうになつた。最初は寝台につかまりながら、その周囲を試みに歩いて見たが、二三日すると腰もしつかりして、もう廊下の壁などに手を支へながら、一人で便所へも行けるやうになつた。一たび恢復期に向ひかけると、まだ少年の、これから発育しようといふ矢先なので、人一倍恢復が早かつた。手術後一ヶ月の後には、私は既に院内の散歩を許された。私はよく藤本さんにせがんで、廊下などをあちこちと散歩に連れて歩いて貰つた。彼女の腕に私の腕を絡ませ、ひたと身を寄り添はしながら、徐々そろ/\と歩いて居るのが、何よりの幸福であつた。
 三月の初旬、入院してから約七十日、二度目の大手術を受けてから四十幾日か目に、私は愈※(二の字点、1-2-22)退院することになつた。その日は朝から晴れ渡つて、春の来たことを知らせる様なうらゝかな日であつた。午頃に伯父が来て、会計その他の退院手続きを済し、午後の二時頃になつて、私達は車を連ねて病院の門を出た。
「お目出度う。お名残惜しおすえな、外来ぐわいらいしなはつた時には、お寄りやすや。」
 その朝藤本さんを始め、外の看護婦達も、さう言つて代る/″\挨拶に来た。
「また寄せてお呉れやす、一日置きに通ひますよつて。」
 私はさう言つて別れを告げた。嬉しいやうな名残が惜しまれるやうな妙な気持であつた。
「左様なら、大事におしやす。」
 病院の玄関で、病室附の看護婦が四五人立ちならんで一斉に送りかけた声が、長く私の耳に残つた。
 三ヶ月あまりの病院生活は、私に不思議に濃い印象を残した。私は其の後尚一ヶ月ばかり繃帯の巻換への為に隔日に病院へ通つた。私はそれを楽しみとした。私は三度に一度位、思出の多い例の病室を訪れて、見知り合ひの患者達を見舞つたり、看護婦室へ顔を出したりした。実をいふと、私は藤本さんに会ふのを楽しみにして居たのだ。彼女の姿の見えない時には、さすがに他の人に様子を聞くことも出来ず、物足りない思ひを抱きながら、そこ/\に暇を告げるのを常とした。
 或る日繃帯の巻換へが済んでから、私は例の看護婦室へ顔を出した。丁度その時藤本さんが居た。しかし彼女は平常とは違つて、看護服を着ず、他所行よそゆき姿で、他の看護婦達と恰も別れでも惜しむやうに、何だか頻りに感傷的な調子で話して居た。私は暫く間の悪い思ひで立つて居たが、やがて帰らうとすると、「お帰りやすの? 一寸お待ちやす。妾も一緒に行きまつさ。」と藤本さんが言つた。
 私は変に思ひながら暫く待つてゐると、彼女はやがて他の朋輩に永い別れを告げる様な、丁寧な、情のこもつた挨拶をして、「お待ち遠さま、さあ、行きまほ。」と私に言つてそこを出た。
わて、病院よしたんどつせ。」
 病院の門を出ると藤本さんは突然言つた。
「えい、さうどすか?」
 私は意外に驚いた。そして咄嗟に、今後病院へ行く楽しみがなくなることを思つた。急にうらさびしい感に打たれた。
「そして、どうおしやんす? 何処へお行きやすの?」と私は尋ねた。
「何処へも行かしまへん。家に居ます。」
「お嫁にお行きやすのやおへんか?」
「嘘お言ひやす! けつたいなことは言ははるえな。」
 彼女は私を睨んだ。が、すぐ調子をかへて言つた。
「病院へお来なはつたら、妾とこへもお寄りやしてお呉れやす。すぐ其処どすよつて。」
 それから五六歩行つて、
「どうどす、今からお寄りやすな。」
「へい、おほきに。」
 私は何の思慮もなく、引き込まれるやうな気持で、彼女にいて行つた。四五町も行つたかと思ふ所に彼女の家があつた。母親らしい人と十四五の妹とが家に居た。私は雑誌や小説本などを見せて貰つたが、只いたづらに頁をはぐりながら、全く落ち着かぬ心持で、三十分余りも居て暇を告げた。帰りぎはに彼女はレース糸で紅白の花模様に編んだしをりを記念だといつて私に呉れた。
「またお寄りやす。妾いつも家に居るよつて。」
 彼女はさう言つて門口まで送つて出た。私は道すがらかの栞を幾度も懐から見ながら帰つた。併しその後一度も彼女を訪れなかつた。また何処でも会ひもしなかつた。

 伯父の家に戻つてからの生活は、以前と少しもかはらないものであつた。退院した翌日から、掃除、飯焚などの水仕事を私はやつた。さすがに、最初の中は水汲みにはやらされなかつたが、お雪伯母がたすきがけで、その繊弱な両手に、水の一ぱい入つたばけつを重さうにたづさへて、遊覧人などのぞろ/\通る坂を上つて来るのを見ると、私はぢつとして居れなかつた。で、四五日してから、私は自分から進んで水汲みに行くやうにした。
「だいぜおへんかしらん?」とお雪伯母は気の毒さうに、併し、出来るならさうして欲しいといふ様な調子で、さう言つた。
なほつてからも一年位は、重いものを持つたり力仕事したりしてはようないと、お医者さんは言ははつたけれど、だいぜおまへんでせう。」
「さうかえ、そんなら悪いけどな……」お雪伯母は強ひて止めもしなかつた。
 膿はまだ少しづつ出て居たが痛みはもうすつかり無くなつて了つて、歩くのに少しも困難を感じなかつたが、病後の衰弱の身体とて、重い水桶をにたつて坂を上るには最初の中かなり苦痛であつた。甚しい息切れなどもした。けれども五日と経ち、七日と過ぎる中に次第に力も出て来た。その為に別段病気に触るやうなこともなかつた。少くとも直接現前には。
 伯父の健康は、清水きよみづの方へ来てから、益※(二の字点、1-2-22)良くなつて行つた。さうすると、事業好きな彼はぢつとして居なかつた。彼は私が退院した時に、家の隣の空地(矢張り前に藪のまゝ買つて置いて、住宅を建てる時に一緒に切り開いて置いたのである)に、大きな建物を建て始めて居た。伯父はそれを陶器の勧工場くわんこうばにする積で、既に清水焼の四五の主なる陶器店との間に約束が成り立つて居た。その頃清水には陶器の勧工場は一つもなかつたので、伯父は勿論成功を信じて居たのだが、しかし損益よりも、彼が率先してさういふものを作つたといふことにより多くの満足を感じて居たらしかつた。彼はその為に、四条の家や清水の家を抵当に入れて金を作つたのであつた。
 秋の初め、地方から遊覧客が次第に多くなつて来る頃に、二階建の大きな建築が愈※(二の字点、1-2-22)竣成した。伯父は清水寺の境内の或る料理屋で土地の陶器店の人々を招待して、盛大な開業の披露の宴を張つた。
 開業当時は非常に景気がよかつた。坂の上から来る者も、下から登つて来るものも、皆其の両方の出入口から、ぞろ/\流れ込み、且つ溢れ出た。
「うまく行きよつたな。」
 伯父は悦に入つてさう呟き/\した。彼は玄関の窓から、例のZ字形の段々をぞろ/\と蟻の行列の様に上り下りする人々をのぞき見ながら昼の多くの時間を費した。
 併し一ヶ月余りもすると全く予想外の事柄が起つた。それはその勧工場の開業が、それに関係してない多数の陶器店に大きな打撃を加へた。そこで彼等は協議を始めた。そして客を連れ込んで来る車夫や案内人に、今迄よりも遥かに多くの割前を与へて、客を引かうと企てた。
 多くは地方の遊覧人からなり、車夫や専門の案内人に導かれて来る客は、その為に次第に其方へ吸収されて行つた。例へば客が勧工場へ入つて見ようと言ひ出すと、
「こゝはたこてあきまへん。あちらにどつさりいい所がおますよつて、そこでお買ひやす。」
 と言つて車夫や案内人などが引張つて行つた。よし中へ入つて来てもなるべく他店で買はすやうに、勧めもせずに、ずん/\通り抜けて行つた。
 そんな風で、一時は急に客が減つたが、その中にこちらにも相当の対応策を講じたので、二三ヶ月の中には、もとより最初ほどの景気はなかつたが、相当の繁昌を見るやうになつた。
 勧工場といつても、普通の勧工場とは違つて、単に店の形がそれらしく出来て居るといふだけで、出品人達が館内に別々に自分等の店を持つのではなく、各自其の製品を持ち寄つて、それを都合よく陳列してあるので、謂はば合資組織の一大陶器店といつた風なものであつた。だから、出品人同士の間に競営するやうな弊害も起らずうまく経営されて行つた。伯父はもとより資本家の主なる一人として、建物に対する一定の賃貸料の代りに、売上の幾分かの分前を受けるやうな仕組になつて居た。
 三人の事務員と、四人の丁稚でつちとが、この勧工場に働いてゐた。私もその四人の丁稚の一人であつた。最初開業当時に、場内の見張人として手伝に行つて居たのがもとで、それから本物の丁稚にされたのであつた。毎朝八時に店を開けるのであつたが、私はそれまでに家の掃除や台所の用事などを大急ぎに済して、勧工場の方へ行つた。そして昼飯に一寸帰るだけで、夕方店の締まるまで、其の方へ行つて居た。
 それはかなり忙しい労働の生活であつた。終日勧工場の方で働いて、夕方家の方へ帰つてからも、矢張り今迄のやうに水を汲んだり米をかしいだりせねばならなかつた。併し私は此の生活を喜んだ。勧工場へ行つて居る間は、呑気で自由であつた。客に応対したり、藁包を拵へたり、絶えず何か仕事があつたが、心には沢山の余裕があつた。伯父やお雪伯母の前に気づまりな思ひをして居る代りに、私は朋輩の丁稚等と巫山戯ふざけたり、年長の事務員達の間に交つて、みだらな話を聞いたり、暇な時には、自由に雑誌や小説などを読んで楽しむことが出来た。これは家に居ては決して許されないことであつた。伯父は無学で無筆であつたに拘らず、否或はその為には、私が読書したり手習したりするのを非常に嫌つた。彼はそれに殆ど病的に、強い反感を持つて居た。勧工場が出来るまでは、私は一厘の小遣銭をも与へられなかつたから、雑誌などを買ふことが出来なかつたが、勧工場は、丁稚に至るまで皆通ひで、給金制度になつて居たので、私も幾らかその方から貰ふことになつて居た。私はそれを皆伯父に渡したが、伯父はその中からほんの僅かではあつたが、朋輩もあることだからといつて、特に私の小遣として呉れた。つまり給金の中から私の食料を引いた残額に相当するものを呉れたやうなものであつた。
「これからおまはんに小遣をやるよつて、買ひ食ひなんかしよつてはあかへんぜ。」
 初めての時、伯父はさう言つて私の前へ二三枚の銀貨をはふり投げた。
 それが私が自分で働いて得た最初の金であつた。私は嬉しかつた。併しそれを受取るのが気まり悪かつた。たとひ正当なものでも人から金品を与へられるといふことは何となく気のさすものだ。私は受取つていゝものか悪いものかと暫くは手を出しも得ずに、もぢ/\して居た。
「早う、お貰ひ。」
 かうお雪伯母に言はれて、私は顔をあからめながら、鼠が物を引くやうに、おづ/\と膝の前に散つて居る銀貨を拾つた。そして台所の方へ行つて、暗の中で微笑みながら、幾度も手の中で握つて見たり開いて見たりした。
 そんな風に、私は月々僅の銭を貰つたので、その中から毎月一二冊の少年雑誌を買つたが、家へは持つて帰らずに、勧工場に隠して置いては、暇な時に読んだ。

 今まで肉体に痼疾を持ち、精神的にも一種の重い圧迫を受けて、伸びようにも伸び得ず、太らうにも、太り得ず、日陰の草のやうに、小さくいぢけしなびて居た私の身体は、病気がすつかり治つて了ひ、また勧工場へ出るやうになつて、身も心も今迄よりも自由に解放された為か、急にめき/\と眼に見えるやうに成長して行つた。相変らず痩せて細かつたが、身長せいだけは伸び/\と、筍のやうに伸びて行つた。
「十四位に思はれんえな。さう伸びられては着物おべべがたまらへん。」
 病院から帰つて四五ヶ月も経つと、お雪伯母は驚いたやうにそんなことを言つた。それまで筒袖のつんつるてんの着物を着て居た私は、その年の秋袷から、袖のついた一人前の着物を着せられた。病院に行つてから、頭も坊主頭にして居たので、もう丁稚とは思はれぬ位大人らしくなつた。
「矢つ張り病気があつて、太れえなんだんやな。」と伯父は言つた。
 身体ばかりではなく、それにつれて心も成長して行つた。今から考へると、病院に於ける七十日余の生活は、早熟な私にとつて、肉体的にも精神的にも、丁度少年期から青年期に移りかけようとする過渡期であつたかも知れない。或は病院の生活が、それを普通よりは幾らか早めたのかも知れない。病院から帰つてから、私は、私の心の眼に、今までとは異つた窓が開けられたのを知つた。異性に対する、あどけない憧憬といつたやうな、甘い情緒の芽が、いつとなしに萌え初めて居た。
 私は勧工場に居て、若い事務員達が、好んでする女の話などに、特別の興味をもつて、陰の方から密かに耳を傾けた。美しい婦人の客などが入つて来た時には、私は誰よりも先んじてその後について行つた。女の側に立つて、相手に気づかれない程度に寄り添うて、得ならぬ香気を嗅ぐのを楽しみとした。時々藤本看護婦のおもかげが空に浮んだ。私はうつとりと彼女の優しみに充ちた笑顔を眺めた。彼女の俤を夢に見ることも一度や二度ではなかつた。
 夜になると、時として私はお雪伯母の肩を揉むことがあつた。私は着物の上からでも、彼女のしなやかな、ふつくりした身体に触れ、その温味を感ずるのを喜んだ。私は熱心に彼女の肩から背、それから腰の方へと揉み下げて行つた。
「おう、いゝ気持やの!」
 お雪伯母は眼をつぶつて(それは背後からでもよく分つた)、如何にも気持よささうに、ぐい/\と胸をすかした。
「恭やん上手えな。按摩さんより上手や。」
 おだてられるのだとは知りながら、私は勝手に甘い空想を描いて、それを楽しみながら尚一層熱心に手を動かすのであつた。

 京都へ来て以来、長い間圧へつけられて居た喫煙慾が、再び非常な勢ひをもつて蘇つて来たのもその頃であつた。
 私は幼い頃から煙草に対して、殆ど病的な嗜慾を持つて居た。私が始めて煙草の味を覚えたのは十歳とを位の時であつた。父は煙草を喫はないので、家には煙管きせるも煙草もなかつたが、或る時弥市といふ老水夫が煙草入を忘れて行つたので、私は悪戯いたづら半分に二三服喫つて見たのがもとであつた。
 一度その何とも言はれない甘美な(その時私にさう思はれた)陶酔的な味を覚えてから、私は煙草に対して避け難い強い誘惑を感じた。当時私は学校から帰ると、父と一緒に磯漁に出掛けるのを常としたが、弥市老人は私の家の舟の水夫かこで、毎日私の家へ仕事にやつて来てゐた。で、私は時々浜納屋はまなやや舟の中などで、弥市老人に頼んで喫はせて貰つた。最初は父に内密ないしよにして居が、或る日浜で仕事をして居た時、私は弥市老人の腰から煙草入を抜き取り、浜納屋へ持つて行つて、こつそり喫つて居ると、(こんなことを屡※(二の字点、1-2-22)やつた)思ひがけなく父がやつて来た。私は慌てて煙管をかくし、眼の前の煙を吹き払ふやうにしたが、父は咎めもせず、却つてにつこり微笑みながら、
「だんない、喫へや。」と言つた。
 それから私は父の前でも公然と喫ふやうになつた。父はもとより勧めはしなかつたが、強ひて止めようともしなかつた。煙管や煙草を買つて与へはしなかつたが、弥市老人やその他の人のを貰つて喫つてゐるのを、それが家の中であつても黙つて許してゐた。時として、誰かが遊びになどやつて来て、父と話しながら煙草を喫つてゐるのを、私が欲しさうに眺めて居ると、
「家の恭にも一服喫はしてやつてくんされ、煙草が好きで弱つたわいの。誰に似たやら。」と其人に言つて呉れた。
「そんな子があるもんや。病やのう。」と其人は表面うはべでは心よく喫はして呉れた。
 後には私は真鍮の鉈豆煙管なたまめぎせるを買つて来て、古新聞や厚紙で入物を作り、それを懐に入れて歩くやうになつた。
「今から煙草ましてどうするかいね。生意気な! 顔が蒼くなつて了ふかいね。あんたも余りや、いくら何やつて、黙つて放つとくちふことがあるかいね!」
 或時継母は父に向つて小言を言つた。すると父は却つて、
「だんないわい、虫が好くのや、あれが喫むのでなうて、腹の虫が喫むのや。線香を食うたり、壁土や泥土ごろたかぢる子があるもんやが、それと同じこつちや。病や。」と私の為に弁護して呉れた。
 京都へ来てから、私は暫くの間その欲望を制するのに苦しんだ。殊に清水の方へ来て、始終煙草好きの伯父やお琴伯母の前に出て、絶えずその香を嗅いで居ると、時には堪へられぬほどの強い誘惑を感じた。けれども私はそれを抑へ/\して来た。
 ところが勧工場へ出て、いくらか自由を得るやうになると、私は遂にその欲望に打ち敗けた。或る時一人の事務員が、巻煙草の喫ひさしを火鉢の中へ※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し込んだのを見て居た私は、彼がそこを離れたのを見るや否や、そつとそこへ行つて、盗みでもするやうにひどく慌てながらその喫ひさしに火をつけて、貪るやうに強く烈しく喫ひ込んだ。と、急にふら/\と眼のくらむのを覚えたが、私はその芳烈な香味を忘れることが出来なかつた。それから私は自分で巻煙草を買つて来て勧工場の中で、併しさすがに他を恐れ憚つて、隅の方に隠れながら喫つた。
「生意気な!」かう事務員の一人が或る時叱つた。「貴様なんぞ煙草喫ふよつて、煙草が高うなるんや。」
 私は伯父やお雪伯母には秘密にして居た。家では出来るだけ我慢して居たが台所の隅や母家おもやと勧工場との間の細い露地などに隠れて喫つた。水汲みに井戸へ行つた時には、必ず井戸端で一本喫ふのを常とした。
 朝起きると、必ず先づ一服喫はねば気持が落ちつかなかつた。私は表戸をあけると其儘外へ出て庭先に立ちながら、爽かな冷たい朝の空気と共に、香の高い巻煙草を、強く深く吸ひ込むのを非常な柴しみとした。私は一本を喫ひ終るまで戸外に立つて居た。
「恭公! 何してるんや。早う雨戸おあけんか。」私が表戸をあけてから長いこと内へ入つて来ないので、時として伯父は寝床の中から大声で呼ばはつた。「いつも表あけてから、何してるんや。」
 或時には、私は伯父やお雪伯母の眼を盗んで長火鉢の側へ行つて、お雪伯母の長煙管で、そつと刻煙草を盗み喫みをした。伯父達には絶対に秘密にして居たので、夜、彼等の前に仕事して居る間は、一番苦しかつた。私は毎晩、きまつた様に便所へ行つて、そこで堪へがたき欲求を充たして来るのを常としたが、それは一囘だけしか行はれなかつた。で、甚しい時には、伯父が寝て了つた後で、都合よくお雪伯母が便所へなど立つた時には、私は盗賊のやうに伯父の寝顔を窺ひながら、お雪伯母の煙管で手早く一二服喫ふこともあつた。そんな時私は吸殻から煙の立ない様に深く灰の中へ埋め、煙管を元のやうに置いて素知らぬ顔をして居た。そして伯母が帰つて来て、煙管を取りあげた時、雁首の所が熱くなつて居るのに気がつきはしないか、またはよく掻きならした火鉢の灰が少しでも崩れて居るのに気がついて怪しみはしないかと、びく/\怖れながら、彼女の眼附などに注意を払つた。
 私は、私の息が脂臭やにくさくなつて居はしないかと怖れ出した。私はそれが伯父達にかゝらないやうにと常にこまかい注意を払つて居た。何か物を言ふ場合には、なるべく遠く離れ、且つ横向になつてする様に心掛けた。止むを得ず正面に向き合はねばならぬ時には、努めて息を吐かないやうにして居た。そしてまた一方には、かういふ私の素振りを彼等に気取けどられないやうに、わざとらしく思はれないやうにと、それにも心を配らねばならなかつた。
 或る冬の朝であつた。私は毎朝まだ薄暗いうちに起きるのを常として居たが、その時、寝床の中で煙草を一服喫ひたいといふ強い欲望に捉へられた。私はその慾を制御しようとすればする程益※(二の字点、1-2-22)強くなつて、どうしても抑へられなかつた。伯父達は既に眼を覚まして、枕元の煙管をぽん/\と叩いて居た。マッチを擦る音や、吐月峰を叩く音が異様に私の神経を刺戟し、一層私の欲望をそゝつた。私は寝床の下に隠して居た巻煙草を出して、如何にしてそれに火をつけるべきかを考へた。私は炬燵こたつを入れて居たので、それに火の気の残つて居るのに気がついた。私は起きた。そして蒲団をめくつて、火入を見た。赤みがかつた炭団たどんの残灰が、円く崩れずに盛り上つて居た。私は、巻煙草の先でそれを突いた。次は手応てごたへもなく柔く崩れて、その底の方に微な火の光が見えた。私ははつと飛び立つやうな思ひで、尚灰を掻き分けて、煙草に火をつけた。そして、頭を炬燵のやぐらの中へ突つ込み、蒲団をすつぽり被つて、息つまるやうな炭酸瓦斯の香にむせかへりながら、すぱ/\とむさぼり喫つた。煙が蒲団の中に漲り充ちて、私は眼や鼻に烈しい痛みを感じ、且つ息苦しくなり、あまつさへ烈しい咳の発作に襲はれた。私は堪へ忍びながら喫ひ続けた。
「恭公、早く起きんか。何してるんや。」と伯父の声が襖越しにした。
 私は驚き慌て、喫ひさしを火壺の中へ突き込んで起き出た。蒲団の隙から這ひ出した煙が部屋の中に濛々もう/\と立ちのぼつた。

 春が再びめぐつて来た。清水へ来てから二度目の春である。裏の竹藪からは終日朗かな小鳥の啼く音が聞えた。それにつれて家に飼つてある目白も高音を張つた。裏の竹藪から、谷を隔てて続いて居る梅林(興正寺別院下から清水寺へ行く近道に当つて居る)の梅も見頃に近く、奥の間の縁側に出ると、赤い毛布を掛けた掛床几や、ビール、サイダーなどと染め抜いた赤や青の小旗が樹間に隠見ちら/\して居る中を、瓢箪を携へた梅見客が三々五々と逍遥して居るのが手に取るやうに見られた。東山遊覧客も日一日と殖えて来て、前の坂を上下する人の下駄の音や車の響も、終日長閑のどかうらゝかに聞えた。向ひの瓢箪屋で絶間なく客を呼ぶ声も、恰も鳥の高音を張るやうに景気づいて居た。もとより勧工場の客も日増しに多くなつて行つた。
 私は十五になつて居た。京都へ来てからもう足掛三年目であつた。その頃から半年余りの間に、伯父の家にも私自身の身辺にもいろ/\の事件が次から次へと続いて起つた。
 お雪伯母の姉の家に預けてあつたお信さんが、これまで殆ど一度も顔を見せたことがなかつたが、その頃からちよい/\清水へやつて来た、子供はどうしたのか彼女はいつでも一人で来た。そして幾日も泊つて行くこともあつた。彼女の来て居る晩には、私はいつも台所の方へ引き下つて居た。伯父達は奥の間でいつも何事かひそ/\と話して居た。私は壁にもたれて聞耳を立てて居たが、「子供」とか「森本」とかいふ声が聞えるばかりで、よくは聞き取れなかつた。時としてお信さんの歔欷すゝりなく声が洩れ聞えることもあつた。彼女の身の振り方でも相談して居るのか、「心配おな」とか、「あんじようしてやる」とかいふお雪伯母の声がそれに交つて聞えた。
 そんなことがあつてからさう長い後ではなかつた。偶然か、それとも前から打合せでもしてあつたか、お信さんの情夫の森本が東京から出て来た。上海の海底電信局とかへ転任になつて、赴任の途中だといつて居た。私は始めて見たのであるが、森本は二十七八の色の白いい男であつた。金縁の眼鏡をかけ、髪を綺麗に分けて居た。
 彼は一晩泊つて翌る朝すぐ出立して行つた。
 その時お信さんは、伯父が許さなかつたにも拘らず、ぷん/\怒り泣きながら、それにあらがつて停車場まで見送りにと言つて、平常着ふだんぎのまゝ逃げるやうに出て行つた。そして、それきり帰つて来なかつた。お雪伯母の姉の家へも戻つて居なかつた。
 伯父は非常に不機嫌になつた。彼は終日殆ど口をきかず、恐しい眼で四辺あたりをぎよろ/\睨みつけながら、深い溜息を洩すばかりであつた。それが大声で罵り立てるよりも一層家の中を暗く沈鬱にした。時々独り言のやうに「畜生!」とか「極道!」とかいふ呪詛の言葉を洩らした。
 お雪伯母もまた毎晩沈黙を守つて居た。もし伯父に向つて何か言へば、忽ち煙管の雨でも浴せられさうなので、絶えず恟々びく/\しながら伯父の機嫌を窺つて居た。恋しい、険悪な、いつ爆発するかも知れない様な沈黙が幾日も家の中を領した。

 伯父の本妻のお文伯母が死んだのは、お信さんが家出してから一ヶ月も経たない頃であつた。私達が清水の方へ引越して来てから、彼女は以前四条に居た頃ほどに、繁々顔を見せなかつたが、勧工場が出来た頃から四五日おき位にやつて来た。その頃から彼女の様子は少し変であつた。彼女は毎日お寺詣り許りして歩くといふことだつたが、のべつに南無阿弥陀仏を称へて居た。殆ど癖の様に何か一言言ふと其後では必ず手を合せて念仏を称へた。仏の功徳くどくや、坊さんの説教の有難さを伯父やお雪伯母に向つて頻りに説いた。そして彼等にも寺詣りを勧めた。伯父はいつも顔をそむけては苦笑して居た。
 或る時彼女は縁側の柱にもたれて立つたまゝ、軒先に吊してある籠の中の目白に向つて、何かぶつ/\独語のやうに呟いて居たが、やがて、手を合せて目白を拝みながら南無阿弥陀仏を繰返した。
「何して居やはるえな、姉はん。」とお雪伯母は笑ひながら言つた。「目白を拝まはつたりしてさ。」
「な、雪やん、これ見とお見。」とお文伯母は一寸此方を振り返りすぐまた目白の方を向いて言つた。
「一羽の目白はんがな、一生懸命り餌を食べてはるしな、もう一羽のが盃の水の中へ頭入れて、行水つこてはるえ。」
 お文伯母が目白に対しても、まるで人間のことを言ふやうに丁寧な言葉を使ふのが、それが真面目であるだけに、聞いて居るものには可笑をかしかつた。
「それがどうしやはつたんえな。何でもあらしまへんがな。奇体けつたいなこと言ははること。」とお雪伯母は言つた。
「な、有難いえな。南無阿弥陀仏。」
「何がどすえな!」
「そやおまへんか。こんな小さい鳥でも、ちやんと、食べることやお湯つここと知つてはるやおへんか。」
 お雪伯母は思はず失笑した。が、お文伯母は極めて真面目に言ひ続けた。
「な、誰も教へへんのに、よく知つてはるえな。不思議なもんや、これみな阿弥陀さまが教へはつたに違ひあらへんえな。」
 かう言つて彼女はまた手を合せ頭を垂れて南無阿弥陀仏を称へ続けた。
けつたいな人!」とお雪伯母は相手にもならず、さげすむ様に小声で独語を言つた。
「阿弥陀様の御威徳はど偉いもんや。な、雪やん、わて等が生きてるのも、みな阿弥陀様のお蔭や、目白はんでも金糸雀カナリヤはんでも、みな同じこつどつせ、有難いことどす、そやおまへんか。」
「さうどすえな。」とお雪伯母は仕方なしに相槌を打つた。伯父は何とも言はず、苦い顔して、時々溜息を洩らして居た。
 お文伯母は念仏狂になつたのであつた。何が原因であるか、また念仏狂といふものが真にあるものかどうか知らないが、人々は皆さう言つて居た。彼女は人の顔さへ見れば手を合せて念仏を称へた。
ふうやん、今阿弥陀様お通りや。わてに来い言うて招いてお居やすよつて、妾一寸行つて来まつさ。」
 かう彼女の枕元に来た養女のお福さんに平常の様な調子に言つて、彼女は安らかな息を引き取つたさうであつた。
 それは円山の夜桜や都踊やらで、都の人々の心を鴨東あふとうの一角にそゝり集めて居た或る暖かい宵であつた。伯父もお雪伯母もその日の朝から宮川町のお文伯母の住居へ行つて居た。私は昼は勧工場を休み、夜も一人留守居をして居たが、夜更になつて、お文伯母の死の報知と共に伯父達が帰らないといふことを聞いて、其夜は寂しさと気味悪さとでまんじりとも出来なかつた。お文伯母が目白を拝んで居た時のおもかげなどが眼について恐しくてならなかつた。私はふるをのゝきながら夜の明けるのを待つた。

 お文伯母の死は、かなり深い感動を伯父に与へたらしかつた。晩年互ひに分れ/\になつて居て夫婦としての生活をして居なかつただけに一層感慨の切なるものがあつたらしかつた。
「お文は可哀相やつた。」とか「気の毒やつた。」とかいふ悔恨の言葉を時々漏して居た。
「あんな狂気みたいになつても、矢つ張り生きとつて呉れた方がよかつた。何やらさびしてならん。お文は俺を恨んで居やへんやろか?」
 或る夜伯父はお雪伯母に向つて言つた。
「阿呆らしい、そんなことおすもんかいな!」とお雪伯母は取り合はなかつたが、彼女もまた幾らか咎めるものがあつて、強ひてさういふ考へを払ひのけようとする様な調子がないでもなかつた。
「お文は気の弱い女やつたよつてにあゝ念仏に凝り固まりよつたんやろが。」
「そんなこと思ふもんやおへん!」
 お雪伯母は叱りつけるやうに、伯父の言葉半ばにさう言つた。
「…………」
 伯父は黙つて、深い溜息を洩した。
 伯父は今迄よりも一層沈黙になつた。そして始終曇つた顔をして何か考へに耽つて居た。併し心が何となく穏かに弱々しくなつて、私などに対しても、これまでにない優しさを示した。
「もう誰も居なくなつたえな。お母ン一人になつたえな。」
 或る夜伯父は感慨深さうたお雪伯母に言つた。
「また、そんなことお考へやしてやすの。」と、お雪伯母は眉をひそめた。「いゝがな、死ぬものは死ぬし、逃げるものは逃げるえな、仕方おへんがな。」
 伯父はまた黙つて了つた。何かもつと言ひたいことがある様で、それが言ひ出せないといつた風であつた。そして癖のやうになつた深い、腹の底からの溜息に終つた。
 丁度その頃、四条の家が、まだ賃貸の契約期限の来ない中に、借主の方で明け渡しを申し込んで来た。借主は売薬店になつて居た方を果物店に改めて、矢張り一方に宿屋をやつて居たのだが、うまく行かなかつたのであつた。
「丁度いいしあはせや。また四条へ行つて何か商売を始めてやろか。」と伯父が深い考へもなしに、只思附だけの様に言つた。
「さうえな、其の方が気が紛れてえいかも知れんえな。」とお雪伯母も賛成した。
「矢張り俺にはその方がえいのや、こんな所に遊んでる柄やおへんで。」
 こんな風な茶飲話がきつかけになつて、急に話が進んで行つた。何業がよからうかと四五日相談しつゞけたが、矢張り飲食店の方が経験もあり、景気もよし、場所も場所だといふので、洋食屋と牛屋とを兼ねてやらうといふことに決した。二階を年内のすき焼に、三階を洋食の食堂にてようといふことまで※(二の字点、1-2-22)ほゞきまつた。
 間もなくその準備に着手した。私はもとの如く勧工場へ出て居たが、伯父は毎日の様に家の造作の監督の為に四条の方へ出掛けて行つた。器物なども、他の同業者間に使はれて居ない様な、新工夫を凝らしたものを、特別に作らせようといふので、その方面の商人が始終出入りして、家の中は何となく活気づいた。
 夏の納涼季節までに開店の運びとなるやうにと、すべての準備を急がせた。伯父は新しい期待の為に若々しく元気づいたやうに見えた。
 四条の家の改造工事も予定通りに進捗しんちよくした。階下だけ全部建て直し、二階と三階とは天井や柱やひさしや欄干などを洗つただけであつたが、牡蠣かき貝の附着した、黒味がかつた厚い船坂で、二階の庇までにも届く様な高い塀を引き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)した大きな構へは、全くこれまでとは面目を一新し、堂々として四辺を圧して居た。只その高塀の板の色やでこぼこした面や、橋から正面につけられた丁度その塀の真中頃を刳り抜いた様な瀟洒せうしやな入口の工合などが、あまりに渋い好みに凝り過ぎた為に、見様によつては、何となく陰気で、繁華な明るい其の辺の空気とは一寸不調和に感ぜられる位であつた。
 内部の設備も殆ど出来上り諸道具の仕入も都合よく運んで、予定通り納涼季節までに開店の見込が立つて居た。そしてもうコックや女中などの雇入に、それ/″\の方面に手をまはして居たのであつた。
 ところが丁度その矢先に意外な不幸が起つて、この新しい事業に一頓挫を来した。それは肝心のお雪伯母が、腸窒扶斯チフスかゝつて避病院に入院させられたからであつた。お雪伯母は言ふまでもなくこの新しい商売の女主人公なので、彼女なしにはどうしても店を開けるわけには行かないのであつた。
 伯父は気抜けがした様にがつかりした。伯父にとつては恐らく最後の新しい首途かどでの前に、斯うした不幸が突然起つて、その幸先さいさきくじかれたので、何か不吉な前兆ででもあるかの如く、彼をしてこの新事業の前途を危ぶみ怖れしめた。
不吉けちやな!」
 伯父は口癖のやうに呟いた。
 併しどうにもならなかつた。兎に角お雪伯母が退院して、健康の恢復するまで待たねばならなかつた。
 伯父は毎日悩ましげな顔をして私一人を相手に寂しい留守を守つて居た。時とすると、終日一言も口をきかないことがあつた。日が暮れると、すぐ私に寝床を敷かせた。
「おまはんも、早うお寝。」
 さう言つて伯父は寂しさうに一人で蚊帳の中へ入つた。が、しかし容易に眠られないと見えて、私が夜中に眼を覚まして、何気なく伯父の方を見ると、闇の中にぽかり/\と煙草の火を光らせて居るのが蚊帳越しに見られた。
 私は子供心にも、伯父の心持を思ひやつて、忠実に世話をした。伯父もまた如何にも私をたよりにするかのやうであつた。一寸した用事をさせるにも、命令するよりもいたはりながら遠慮勝に頼むといふ風であつた。
「伯母さん留守やよつて、おまはん御苦労やな。」
 伯父はこんなことを私に言ひ/\した。
 私はもう勧工場の方へは出て居なかつた。四条の家の改築も出来て、もう間もなく開店の運びになつてから、私も何かと其方の仕事を手伝つて居たのであつた。
 或る時伯父は私を前に坐らせて、しみ/″\とした調子で言つた。
「今からおまはんに頼んで置くが、四条の店が出来たら、奉公人やと思はんで、家の者やと思うて働いてお呉れや。内らのものはおまはん一人しか居やへんのやよつてな。幸三郎のやつは再役さいえきしたいいうて居よるので、店の方の当にはならんよつて、少し慣れたら、おまはんを帳場にしようと思うとるんや。其の積りで奉公人根性出さんで、一生懸命働いてお呉れ。その代り何や、おまはんが二十五になるまで辛抱して働いて呉れさへすりや、伯父さんはおまはんにも暖簾のれんを分けて、洋食屋でも牛屋でも好きな店出さしてやるよつて。」
 私は頭を垂れて黙つて聞いて居た。私をいたはるやうな、また頼りにするやうな伯父の優しい言葉が、しみ/″\と身に沁みるのを覚えた。私は本当に親身になつて働かうと思つた。二十五まで忠実に働いたら、洋食屋か牛屋をもたしてやるといふ約束めいた言葉を、私はそのまゝ言葉通りに聞きはしなかつたけれど、そんな十年も末のことはどうなるか分らないと思つたけれど、その後いつまでも私の心から消えなかつた。私はそれを喜ぶでもなく、また悲しむでもなく、一種訳のわからぬ心持で、時々その言葉を思ひ出した。そして度々繰り返して思つて居ると、私はいつかさういふ身になつて了ふやうな気がした。私の将来の運命が、それによつてもう決せられて居るものの如く思はれた。私は襟と背中に屋号を白く染抜いた浅黄色の法被はつぴの上に、白い胸当をかけて、店頭に牛肉を切つて居る若衆姿の自分や、また既に大きな料理屋の主人になりすまして、ぞろりとした立派な絹物ぐるみで、若い美しい女房と二人連で、祇園の夜桜だの、鴨川の納涼だの、といつて暢気のんきに遊び歩いて居る自分の姿を空想に描いて独り微笑ほゝゑんだ。学問をしたいといふ最初の希望とは、まるで似ても似つかぬ変つた自分を想像しながら、私は少しも悔いる心持にならなかつた。
「もう十年……」
 私は時々そんなことを思つた。すると、私の父も、矢張り二十五の年に始めて自分の家を待つたといふことが思ひ出されて、不思議な感に打たれた。父は京都に生れて能登の片田舎へやられた。私は能登の片田舎に生れて父の故郷の京都へ飛び出して来た。そして二人とも二十五の年に家を持つ――そんなことが、恰も何かの因縁であるかの如く感ぜられた。
 お雪伯母は、三ヶ月ばかりの後漸く退院して来た。それは九月の始めであつた。予後の経過もよかつたので、十月には店出ししようと再び準備に取りかゝりかけた時、悪いことに彼女は引き続いて眼をわづらつた。あまり性質たちの良くないので、うつかりすれば両眼とも駄目になる恐れがあるといふことだつた。それが為に、又々開店を中止しなければならなかつた。お雪伯母は自分にはかゝはらずに始めようと伯父に勧めたが、伯父は縁喜えんぎをかついでかなかつた。どうせ時期を失したのだから、いつそのこと、年末の景気立つた頃の方がよからうと言つて居た。最初からけちがついたことが、縁喜商売だけに一層伯父の心を腐らし、今では最う余り気乗りがしてない様だつた。都合によれば、してもいゝといふやうな口吻を洩らすことさへあつた。

 六条の鍵屋の伯母が亡くなつたのは丁度その頃であつた。彼女はまだ五十を幾つも越しては居なかつたが、数年前に夫を失つてからは、熱心な真宗の信者となり、商売の方は長女のお民さんに任して了つて、自分はお寺詣りをしたり、本願寺の或る二三の講中の世話を焼いたりなどして穏かな余生を楽しんで居たのであつた。それがふとした風邪がもとで、肺炎を起して急に亡くなつたのであつた。
 鍵屋の伯母の死も、時が時だけに伯父にとつてかなり大きな打撃であつた。伯父は兄弟(といつても、外に、本家をいで居る万年寺の伯父と、弟なる私の父とだけであるが)の中で最も鍵屋の伯母を敬愛し信頼して居た。万年寺の伯父は有福であるに拘はらず、吝嗇けちで薄情だといふので兄弟中で最も評判が悪く、伯父などは殆ど往来しなかつた位だつた。が、勝気で男優りで、侠気をとこぎがあつて弟思ひの親切な鍵屋の伯母とは、互に意気の相投ずるものがあつた。そして伯父は何事によらず彼女に一目を置いて居た。始終「姉貴あねき姉貴」といつて、何事でも彼女の賛同なしにはらないといつた風だつた。今度洋食屋を新しく始めるについても、伯父は先づ彼の「姉貴」に相談し、その賛同を得、且つその資金の幾分かをも、彼女の斡旋あつせんによつて得たのであつた。実際彼女は伯父にとつて唯一の助言者であり相談相手であつた。のみならず心から彼の喜びを喜び、彼の悲しみを悲しんで呉れる者は、この肉親の姉より外になかつたのである。だから彼女の突然の死は、伯父をして非常に嘆き悲しませた。彼はもはや何をする張合もなくなつたと言つた。せめて四条の店を出して、彼女の喜ぶ顔を見てから死なせたかつたとも言つて嘆いた。
「不吉な年や。今年は店出やめや。来年の春、景気よくやろ。」
 伯父は或日思ひ決したやうに言つた。
「済まんえな。折角出来あがつたのに妾が病気したばつかりに。」
 お雪伯母は自分の罪であるかの様に詫びた。
 お雪伯母の眼は捗々はか/″\しくなかつた。彼女は黒い眼鏡をかけて毎日病院へ通つた。別段悪くもならなかつたが良くもならなかつた。
 陰気な、重い沈黙がまた家の中を領した。三人とも互に相手の心を探り合ひながら、互にそれに触れることを怖れ/\して居る様な日が幾日も続いた。
 奥の室から見渡される梅林の中に一人の仙人めいた老人がそこの番人ともつかず住んで居た。彼は其の辺に有名な行者で、梅林の奥に小さなほこらを守つて居た。彼自らの言ふ所によると、よはひは既に九十を過ぎて居た。腰は海老えびの様に二重に曲つて、地にも届きさうな長い白髯をしごきながら、よぼ/\と梅の樹間を彷徨さまようて居るのが、時々私達の眼に入つた。毎朝未明に、附近の寺々の鐘に先立つて、彼は「わう、わう」と物々しく法螺貝ほらがひを吹き鳴らした。その怪しげな気味の悪い響が、谷間に反響して、人々の暁の夢を破つた。そして夕方にも同じことをやつた。
 お雪伯母が伯父に秘密にこの怪行者の許へ行き出したのはそれから間もなくであつた。或る日の夕方伯父の留守の時に、彼の梅林の怪行者がやつて来た。彼は中風患者の様に頭を左右に振りながら、黙々として家の中を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して歩いた。巫女みこの持つてゐる様な小さな鈴玉がちりん/\と彼の手に鳴つて居た。やがて彼は床の間に、小さな幣帛へいはくを飾り、白米と塩とを其の前に供へて、※(二の字点、1-2-22)やゝ久しく黙祷した。お雪伯母も其の間老人の後に坐つて畳の上に顔を伏せて居た。
「伯父さんに黙つてお居や。」
 かう私に口止めしてからお雪伯母は老人の伴をして梅林の方へ行つた。
 暫くすると、「わう、わう。」と例の法螺貝がうら枯れた秋の夕暮の空気を震はしながら四辺に響き渡つた。
 後になつてお雪伯母はそのことを伯父に打ち明けた。梅林の老人の言ふところによると、いろ/\の不幸や障碍が起るのは、第一家相が悪い、家の入口が正北に向いて居て、便所が鬼門に当つて居るからけないのだ。それから此処の家を建てる時に、藪を切り開いて地ならしをした時に、地鎮祭を行はなかつたことも崇つて居るといふことであつた。苦し此儘に射ち棄てて置くならば、まだ/\大きな不幸が、直接伯父自身の身の上に及ぶやうな不幸が起るであらうといふことだつた。
「阿呆お言ひ! そんなことがおすかいな!」伯父は馬鹿にしたやうな口調で言つた。「あんな乞食の言ひよることを信用する阿呆がおすかいな。」
 が、お雪伯母は更に言つた。彼女の眼の悪いのは、普通の眼病ではなく、過去のいろ/\の罪業の報いからで、どんな名医も之を治し難い、只かの梅林の行者の祈祷と彼の教ふる霊薬とによつて治し得るのみだ、と。
「そんな阿呆なことが、……」と伯父は打ち消したが、其時の態度や言葉の調子では、彼が或る疑懼ぎくを心に感じて居ることが明らかであつた。彼はそれを明らかに心に感じながら、強ひて押しけようとして居ることがないでもなかつた。
「おまはんが御祈祷して貰ふ気なら、勝手にしてお貰ひ、俺はそんなこと信用しやへんけど。」と伯父は意地突いぢづくの様に言つた。
 で、其後お雪伯母は、かの行者をんで来て、悪魔払ひの御祈祷のやうなことをさせたり、自分で梅林へ出掛けて行つたりした。伯父は併し黙つて、見て見ない振りをして居た。
 お雪伯母はすつかりかの行者を信用した。彼女はもはや病院へは通はずに、行者の教へた薬(?)をんだり、眼に注したりして居た。其の薬といふのは、髪の毛の黒焼を煎じて服むことと、御飯の水を眼に注すこととであつた。御飯の水とは、御飯をお釜から移す時におひつの裏底に茶碗を受けて置いて、後でお櫃を取つて見ると、綺麗な透明な水滴が茶碗の中に四五滴たまつて居るそれである。お櫃の裏底が少しも湿しめりもせず、また湯気も立ちもしないのに、茶碗に水滴がたまるのが不思議だといつて、お雪伯母は恰もそれを神の行ふ奇蹟であるかの如く思ひ、それ故に其の水滴が稀代の霊薬であるかの如く信じて、それを有難さうに押し頂きながら小指の先につけては眼に注した。
 一ヶ月もそんな事を続けて居るとお雪伯母の眼は不思議にも段々快くなつて来た(と彼女自身言つた)。彼女は益※(二の字点、1-2-22)梅林の行者を信じた。そして今迄よりも一層繁く梅林へ通つて御祈祷して貰つた。
 伯父は少しも干渉せずに、お雪伯母の行動を黙認して居た。併し彼はお雪伯母が頻りに勧めるにも拘らず、家の入口や便所の位置を換へることをがへんじなかつた。多少の負け惜しみもあつたが、尚行者の言ふことには半信半疑であつたのである。
 その年も最早春近くなつた。お雪伯母の眼は次第に快くなつて、もう眼鏡なしでも歩けるやうになつた。この分なら大丈夫だから、年の内に開店しようとお雪伯母から言出したが、今年は年が悪いから、寧ろ延ばしついでに来春まで延ばさうと伯父は悠然と構へて居た。

 或日、伯父が六条の鍵屋へ行つて、夕方帰つて来ると私に言つた。
「恭公、六条の家で、おまはんに一度来い言うてやよつて、今晩行つといで、お君も会ひたがつとるやうやで、ゆつくりしとお出で、今晩泊つて来てもかまへん。」
 そして伯父はお雪伯母と何かぼそ/\囁いて居た。私は何か意味ありげな伯父の勧めを変に思ひながら、姉のお君とは此前伯母の葬式の時に会つたきり会はないことを思ひながら、台所を早仕舞ひして、六条の方へ出掛けて行つた。
「恭やんはまだお知りんのえな。」
 挨拶が済んで、あがはなの帳場机の前に坐ると鍵屋のお民さんがにこ/\と私の顔を見ながら言つた。
「何どす?」と私は怪しんで尋ねた。
「お君は、もう家に居やへんえ。」
「えッ! どうしやはつたんどす?」
 お民さんは言ひにくさうに暫く微笑んで居たが、
「少し失敗しやはつてな。今な、教へさしてあげるよつて、おまはんお君ンとこへておいなはい、行て会うておいなはい。」
 お民さんはさう言つて一人の下女を呼んだ。私は何が何やらサッパリ分らなかつた。何か大変な悪いことが起つたのではないかと、胸をどき/\さして居た。
 私は不安な心を抱きながら女中に案内せられて、それから程遠くない或る小さな宿屋の前に来た。矢張り本願寺参詣人の定宿であるが、鍵屋などとは比較にならないほど汚ない安つぽい家であつた。表の古びた紅殻塗べんがらぬりの千本格子には「本願寺参詣人定宿××詰所」と書いた煤けた掛行燈あんどんが薄暗い光を放つて掛つて居た。
 姉のお君の居たのはその格子の内の部屋であつた。私は薄暗い通り庭から部屋へ上つて、次の部屋との仕切を開けると、そこに古びた二枚折の屏風が、煤けた、折々剥げ破れた裏を見せて立つて居た。物のえたやうな一種の悪臭が私の鼻をいた。
「こつちお入りやす。」と中から力のなささうな姉の声がした。
 私はおづ/\と、悪い所をでも覗くやうな気持で、屏風の陰から、顔を入れた。と私は、あまりに意外な其の場の光景にはつと胸を衝かれ、思はず顔をそむけた。
 私は薄暗い、ぼんやりした洋燈ランプの光の中に、幽霊のやうにやつれた彼女の姿を見出した。髪を麻の如く乱し、浅黄の手拭で鉢巻をして、前に積まれた蒲団に凭れて坐つて居た。体を心持右に傾けて、何か、円い包みのやうなものを膝の上に載せて居た。彼女は私を見ると、ニタリと薄気味の悪い微笑を口元に浮べながら、
「恭やんかい! ようおなはつたな。」と言つた。
 私は一眼見て事情がすぐ分つた。お君は子を産んだのであつた。私は言葉もなくそこにうづくまつた。
「失敗してな。」とお君は顔を一寸あからめ、羞恥を押し隠すやうにまたニタリと笑つた。そして照れ隠しに胸から大きな乳を出して膝の上の嬰児に含ませた。
 私は顔をあげ得なかつた。罪人の様に、羞恥と悔恨とにぶる/\身を震はしながらぢつと畳の目を見つめて居た。思はず涙がさしぐんで来た。黒い汚ない泥を無理に咽喉に押し込められて居るやうに、只窒息するばかりの不快な苦渋を感するばかりで、何を思ひ考ふる余裕もなかつた。
「これお食べ。」とお君は稍※(二の字点、1-2-22)あつてぼうろの入つた缶を私の前へ出した。
 私は殆ど一言も口もきかずに、匆々さう/\に鍵屋に帰つた。
「どうも仕様おへん。誰でも過失がおすよつてな。」とお民さんは私に弁解するやうに、また慰める様に言つた。
 私は私自身のことの様に、否それ以上に深い羞恥を感じた。
「お前の姉が私生児てゝなしごを産んだ。」
 かう誰からもさげすまれ隣れまれて居るやうな気がした。私はお民さん始め鍵屋の人達に顔を見られるのも厭でならなかつた。
 私は姉の情夫は誰だらうと思つた。併しそれをお民さんに尋ねることは出来なかつた。恥しくてとても口に出せなかつた。
 その年の夏、私がこの家へ使に来た時に、お君が通り庭の突当りの、離座敷の玄関に、浴衣ゆかたの裾を膝までまくりあげて、だらしなく腰掛けながら、その前にかんないで居る、若い大工と笑ひながら話して居たのを見たが、もしかしたらその大工ではないかと思ひもした。その大工は鍵屋の出入の者で、私はそれまでにも二三度顔を見たことがあつた。米吉とか云つて、二十五六の身長せいの低い少しどもる男だつた。
「恭やんのぎはえい生え際やえな。富士額えな。妾のと変つて居たらよかつた。」
 最近私を見ると、お君はよくそんなことを言つて、自分の少しお凸額でこなのを気にしたり、子供の時に腫物を切つた頬の創痕を悲しんだりして居たが、考へれば、その時すでに姉は情夫をとこを拵へて居たのだ……。
 私は当時の姉のみだらな行為を聯想して、堪らなく憎悪を感じた。私自身の純な生活をも汚され、蹂躙じうりんされたやうな、強い屈辱を感ぜざるを得なかつた。
「えいがな、泊つてお行きな、伯父さんにあんぢよう言うて暇貰ふといたんやよつて、ゆつくり藪入してお行きな。」
 かうお民さんは勧めたけれど、私は辞して帰つた。
 世の中が急に狭く暗くなつて来た。私は罪人のやうに深く頭を垂れながら悄々しを/\と暗い夜路を清水の方へと歩いて行つた。

 お雪伯母の眼も殆ど全快して、愈四条の店が開かれたのは、翌る年の三月末都の春も漸くたけなはになり、花の便りもぽつ/\聞かれる頃であつた。名前はお雪伯母の「雪」をもじつて、勇喜亭とつけられた。
 其の日は朝からぽか/\と暖かく、晴れやかな日であつた。入口の南側には、菰樽こもだるを高く積上げ二階三階のひさしには赤い飾提灯を吊り※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)して朝から賑々しく景気をつけた。積樽を飾つた赤や青の小さい彩旗も美しく朝風に靡いた。陶器瓦ばんがらを敷きつめた広い玄関を綺麗に洗ひ流して盛り塩をした様も、見た眼にもすが/\しかつた。
 九時頃になつて、東西屋の一団が、賑々にぎ/\しく出て行つてからは、家の中が一段と昂奮と活気とを呈した。コックから皿洗まで五人の男と、六人の女中等とが、皆お祝の冷酒に元気づいて、互に呼び合ひ笑ひ合ふ景気よい声が、料理場を中心に湧きあがつた。
 伯父とお雪伯母とは帳場に並んで居た。私は下足番として、浅黄の染抜の法被はつぴの上に白い前垂をかけて、入口の隅に小さな脚立きやたつに腰掛けて客を待つて居た。
 昼頃から客がぽつ/\やつて来た。そして夕方には、広い玄関も殆ど充満いつぱいになつて、私は往来にまで履物を並べた。
「お出や――す。おあがりや――す。」
「お帰りや――す。」
 私は声を振りあげて間断なく呼ばはつて居た。
(大正七年十、十一月)

底本:「現代日本文學全集 34」筑摩書房
   1955(昭和30)年9月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字にあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「燈」と「灯」は、「輪燈」、「行燈」、「アーク燈」、「電燈」、「洋燈」、「提灯」、「灯の光」と使い分けているので底本通りとしました。
※旧仮名遣いでは「あんぢよう」ですが、底本中「あんじよう」が5回、「あんぢよう」が1回使用されているので、底本通りとしました。
入力:kompass
校正:大沢たかお
2012年9月24日作成
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