同時代に生れ出た詩集の、一は盛へ他は忘れ去られた。「若菜集」と「抒情詩」。「若菜集」は忽ちにして版を重ねたが、「抒情詩」は花の如く開いて音もなく落ちて了つた。
島崎氏の「若菜集」がいかに若々しい姿のうちに烈しい情※[#「執/れんが」、399-上-7]をこめてゐたかは、今更ここに言ふを須ゐないことではあるが、その撓み易き句法、素直に自由な格調、從つてこれは今迄に類のなかつた新聲である。予がはじめて「若菜集」を手にしたをりの感情は言ふに言はれぬ歡喜であつた。予が胸は胡蝶の翅の如く顫へた。島崎氏の用ゐられた言葉は决して撰り好みをした珍奇の言葉ではなかつたので、一々に拾ひ上げて見れば寧ろその尋常なるに驚かるゝばかりであるが、それが却て未だ曾て耳にした例のない美しい樂音を響かせて、その音調の文は春の野に立つ遊絲の微かな影を心の空に搖がすのである。眞の歌である。島崎氏の歌は森の中にこもる鳥の歌、その玲瓏の囀は瑞樹の木末まで流れわたつて、若葉の一つ一つを緑の聲に活かさずば止まなかつた。かくして「若菜集」の世にもてはやされたのは當然の理である。
人々はこのめづらしき新聲に魅せらるゝ如くであつた。予も亦魅せられて遂に悔ゆるの期なきをよろこぶのである。新しきは古びるといふ。ない世の言い慣はしだ。ない世の信念だ。古びるが故に新しきは未だ眞正に新しきものではない。世に珍奇なるものは歳月の經過と共にその刺撃性を失ふこともあらうが、眞正に新しきものはとこしへに新しきもののいつも變らぬ象徴であらねばならぬ。島崎氏の出したる新聲は時代の酸化作用に變質を來さぬものであることは疑ひを容れないのである。
然るに今日島崎氏の詩を斥けて既に業に陳腐の域に墜ちたものだといふ説がある、果してその言の如くであらうか。「若菜集」を讀む前にませて歪んだ或種の思想を擁いて居ればこそ他に無垢なる光明世界のあるのを見ないのであらう。輝ける稚き世――それが「若菜集」の世界である、歌の塲である。こゝには神も人に交つて人間の姿人間の情を裝つた。されば流れ出づる感情は往く處に往き、止る處に止りて毫も狐疑踟の態を學ばなかつた。自から恣にする歡樂悲愁のおもひは一字に溢れ一句に漲る、かくて單純な言葉の秘密、簡淨な格調の生命は殘る隈なくこゝに發現したのである。島崎氏はこの外に何者をも要めなかつた。宇宙人生のかくれたる意義を掻き起すと稱へながら、油乾ける火盞に暗黒の燈火を點ずるが如き痴態を執るものではなかつた。
まだ彈きも見ぬ少女子の
胸にひそめる琴のねを、
知るや君。
「若菜集」に於ける島崎氏の態度は正にこれである。まだ彈きも見ぬ緒琴は深淵の底に沈んでゐる。折々は波の手にうごかされて幽かな響の傳り來ることがある。詩人の耳は敏くもその響を聽きとめて新たなる歌に新たなる聲を添へる――それのみである。「若菜集」にはまた眞白く柔らかなる手に黄んだ柑子の皮を半割かせて、それを銀の盞に盛つてすゝめらるやうな思ひのする匂はしく清しい歌もある。……胸にひそめる琴のねを、
知るや君。
「若菜集」一度出でて島崎氏の歌を模倣するもの幾多相踵いであらはれたが、徒らに島崎氏の後塵を拜するに過ぎなかつたことは、「若菜集」の價値を事實に高めたものとも言へやう。到り易げに見えて達するに難きは「若菜集」の境地である。「若菜集」はいつまでも古びぬ姿、新しき聲そのまゝである。島崎氏自身すら再びこの境地に達することが出來なかつたのである。更に深く幽かに濃やかなる感情と、更に鮮やかなる印象と、痛切なる苦悶と悦樂とを、簡淨なる詩句に調攝する大才(是れ一個のルレエヌ)のあらはるゝ日あらば、その先蹤をなした「若菜集」はまた一層の價値を高めることであらう。「若菜集」を善く讀むものはかゝる豫定と想望とを禁じ得ないのである。
同情ある評家は當時「若菜集」の中なるある歌にPRBの風趣ありと讚嘆した。PRBはさることながら予はこゝに佛蘭西新派の面影をほのかに偲ぶものである。
島崎氏はその後淺間山の麓なる佗しき町に居を移された。性情と境遇の變化は「寂寥」の一篇によく現はれてはゐるが、この篇を賦するに當て島崎氏は「若菜集」の諸篇と全然趣を異にする詩の三眛境を認められたやうである。知的の絃が主なる樂旨を奏するやうになつたのである。こゝに胸中無限の寂寞を藏して、識ますます明らかなる時、信の高原をわたる風の音は梵音聲の響をたてる、詩人は青蓮の如き眼をあげて、跡もなき風の行方を見送つたのであらう。これを彼の「若菜集」の『眼にながむれば彩雲のまきてはひらく繪卷物』に比べ來れば、その著るしき趣の相違に驚かれる。彼にあつて自由に華やかに澄徹した調を送つた歌の鳥もすでに聲を收めて、いつしかその姿をかくした。此には孤獨の思ひを擁く島崎氏あるのみである。詩人は努力精進して別に深邃なる詩の法門をくゞり、三眛の境地に脚を停めむとして遽かに踵をかへされた。吾人は「寂寥」篇一曲を擁いて詩人の遺教に泣くものである。南木曾の山の猿の聲が詩人の魂を動かしそめたとすれば、淺間大麓の灰砂の谿は詩人の聲を埋めたとも言へやう。――島崎氏はこれより散文(小説)に向はれたのである。
(二)
島崎氏を言へば、島崎氏の前に北村透谷のあつたことを忘れてはならぬ。
透谷は不覊の生をもとめて却て拘束を免るるに由なかつた悲運の詩人である。その魂はすべての新しきものを喘ぎ慕ひて、獨創の天地を見出さむとしたが力足らずして敗れた。劇詩評論小説詩歌――一つとして彼の試みざるものはなかつたのであるが、短日月に精力を費した結果、求めて遂に得られざる一つのものがあつた。それは新樣式である。透谷の文章詩歌に接して最も遺憾に思ふのはこの新樣式の缺如である。すべての舊き型を破り棄てむとして、この一重の膜にささへられた彼の苦悶は如何ばかりであつたらう。彼は胸中に蓄へた最も善きものを歌はずして世を去つた。透谷は遂に不如意なる自個の肉體を破つたのであるが、詩人の玲瓏たる魂にとつては、因襲の肉塊を放却すること即ちすべての舊きものを破ることであつたのであらう。彼は眞面目なる努力の跡を世に殘して、新思潮の趨くべき道に悲しむべき先驅者となつたのである。彼は天成の詩人であつた。彼は一日として歌はずには居られぬ詩人である。瞑想と神秘の色を染めた調子の深さは彼の性質の特異の點である。透谷はまた信念の人であつた。從つて迷うては魔を呼び、鬼氣人を襲ふ文を草し、神氣のしづまれる折々には閑窓に至理を談じた。彼はこれ等の多くを散文にものしたが、天成の詩人たる彼が詩歌に第一の新聲を出すに難んじたとは運命の戯謔か、――悲痛の感に堪へないのである。
透谷は要するにその素質に於て明治過去文壇最大の詩人である。透谷逝いて彼の詩魂のにほふところ、島崎氏の若々しい胸の血潮は湧き立つたことであらう。「若菜集」の新聲はかくして生れ出たのである。若き世の歌はここに始めて蘭湯の浴より出でゝ舊き垢膩の汚を洗ひ棄てたのである。
(明治四十年十月「文章世界」〈文話詩話〉號)